立教2
内則曰、凡生子、擇於諸母與可者、必求其寛裕・慈惠・温良・恭敬、愼而寡言者、使爲子師。諸母、衆妾也。可者、傳御之屬也。子師、敎示以善道者。○司馬温公曰、子始生、求乳母必擇良家婦人稍温謹者。乳母不良非惟敗亂家法、兼令所飼之子性行亦類之。子能食食、敎以右手。能言男唯女兪。兪、然也。○温公曰、子能言、敎之自名及唱喏萬福安置。稍有知則敎之以恭敬尊長。有不識尊卑長幼者、則嚴訶禁之註曰、古有胎敎。况於已生、子始生未有知。固舉以禮。况於已有知。孔子曰、幼成若天性、習慣如自然。顔氏家訓曰、敎婦初來、敎兒嬰孩。故在謹其始、此其理也。若夫子之初生也、使之不知尊卑長幼之禮、遂至侮詈父母、敺擊兄姊。父母不知訶禁、反笑而奬之彼既未辨、好惡謂禮當然、及其既長、習已成、性乃怒、而禁之不可復制。於是父嫉其子、子怨其父、殘忍悖逆無所不至。此蓋父母無深識遠慮、不能防微杜漸、溺於小滋、養成其惡故也。男鞶革、女鞶絲。鞶、小嚢、盛帨巾者。男用韋、女用繒帛。六年敎之數與方名。數謂一十百千萬。方名謂東西南北。○温公曰、始習書字。七年男女不同席、不共食。蚤其別也。○温公曰、始誦孝經・論語、次及諸經。八年出入門戸、及即席飮食、必後長者。始敎之讓。示以廉恥。九年敎之數日。朔望與六甲也。○温公曰、始爲之講解使曉義理。十年出就外傳、居宿於外、外傳敎學之師也。十年以後有學無敎。學書計。書謂六書。計謂九數。衣不帛襦袴。不用帛爲襦袴。太温傷陰氣也。禮帥初。帥、循也。行禮動作皆遵習先日所爲。朝夕學幼儀、言從朝至夕、學幼少奉事長者之儀。請肄簡諒。肄、習也。簡、書篇數也。諒、言語信實也。請肄、請於長者習學之也。温公曰、自是以往、可以博觀群書。然必擇其精要者而誦之。如禮記則學記・大學・中庸・樂記之類。其異端非聖賢之書、傅宜禁之。勿使妄觀、以惑亂其志。觀書皆通、始可學文辭。十有三年學樂誦詩舞勺。樂謂六樂之器。勺、籥也。舞籥文舞也。成童舞象學射御。成童、十五以上。舞象、武舞也。謂用干戈之小舞也。射謂五射。御謂五御。二十而冠、始學禮。可以衣裘帛。舞大夏、冠、加冠也。禮謂五禮。二十、成人血氣强盛、可衣衣裘。大夏、禹樂。樂之文武備者也。惇行孝弟、博學不敎、内而不出。廣博學問不可爲師敎人。蘊蓄其德、在内而不可出言爲人謀慮。三十而有室、始理男事。博學無方、孫友視志。室、猶妻也。男事受田給政役也。方、猶常也。至此學、無常。在志所好也。四十始仕、方物出謀發慮。道合則服從、不可則去。物、猶事也。方物出謀、則謀不過物。方物發慮、則慮不過物。五十命爲大夫、服官政。統一官之政也。七十致事。致其事於君而告老。女子、○温公曰、女子六歳始習女工之小者。七歳誦孝經・論語、九歳講解孝經・論語及列女傳・女誡之類、略曉大意。註曰、古之賢女無不觀圖史以自鑑。如曹大家之徒、皆精通經術論議明正。今人或敎女子以作歌詩執俗樂。殊非所宜也。○伊川程先生曰、先夫人侯氏七八歳時誦古詩。曰、女子不夜出。夜出秉明燭。自是日暮則不復出房閤。既長好文而不爲詞章。見世之婦女以文章筆札傅於人者、則深以爲非。○安定胡先生曰、鄭衛之音導淫。以敎女子。非所宜也。十年不出。恒居内也。姆敎婉娩聽從。姆、女師也。婉謂言語。娩謂容貌。温公曰、柔順貌。執麻枲、治絲繭、織紝・組・紃、學女事以共衣服。紝謂繒帛。組・紃倶絛也。薄闊爲組、似繩爲紃。○温公曰、蚕桑・織績・裁縫及爲飮膳、不惟正是婦人之職、兼欲使之知衣食所來之艱難、不敢恣爲奢麗。至於纂組華巧之物、亦不必習也。觀於祭祀、納酒漿・籩豆・葅醢、禮相助奠。當及女時而知也。納謂置酒漿・籩豆・葅醢之等於神座。禮相助奠謂以禮相長者之事、而助其饋奠。十有五年而筓。筓、今簪也。此謂應年許嫁者。女子許嫁而筓、字之。未許嫁、則二十而筓。二十而嫁。有故、二十三年而嫁。故謂父母之喪。聘則爲妻、奔則爲妾。聘、問也。妻之言、齊也。以禮見問、則得與夫敵體。妾之言、接也。言得接見於君子、不得與之敵體也。
【読み】
○内則に曰く、凡そ子を生まば、諸母と可者とに擇び、必ず其の寛裕・慈惠・温良・恭敬、愼みて言寡なき者を求めて、子の師爲らしむ。諸母は衆妾なり。可者は傳御の屬なり。子師は敎示を以て善道する者。○司馬温公曰く、子始めて生まるれば、乳母は必ず良家婦人の稍温謹なる者を擇び求む。乳母良からざれば惟家法を敗亂するのみに非ず、兼て飼う所の子の性行も亦之の類にせしむ。子能く食を食えば、右手を以[もち]うることを敎う。能く言えば、男は唯し、女は兪せしむ。兪は然りなり。○温公曰く、子能く言わば、之に自名及び萬福安置を唱喏するを敎ゆ。稍知有れば則ち之に敎うるに恭敬尊長を以てす。尊卑長幼を識らざる者有れば、則ち嚴に之を訶禁し註して曰く、古は胎敎有り。况や已に生じ、子始めて生まれ未だ知ること有らざれば、固より舉ぐるに禮を以てす。况や已に知有れば、と。孔子曰く、幼成は天性の若く、習慣は自然の如し、と。顔氏家訓に曰く、婦を敎うるに初來、兒を敎うるに嬰孩、と。故に其の始めを謹むに在るは、此れ其の理なり。夫れ子の初生の若き、之に尊卑長幼の禮を知らざれば、遂に父母を侮詈し、兄姊を敺擊するに至らしむ。父母訶禁するを知らず、反って笑いて之を奬て彼既に未だ辨せずとし、好惡を禮の當然と謂う。其の既に長ずるに及び、習已に成り、性は乃ち怒にして、之を禁ずるも復た制する可からず。是に於て父は其の子を嫉み、子は其の父を怨み、殘忍悖逆至らざる所無し。此れ蓋し父母の深く遠慮を識ること無く、微を防ぎ漸を杜ぐこと能わず、小滋に溺し、其の惡を養成する故なり。男は革を鞶[はん]にし、女は絲を鞶にせしむ。鞶は小嚢、盛帨巾なる者。男は韋を用い、女は繒帛を用う。六年にして之に數と方との名を敎う。數は一十百千萬を謂う。方名は東西南北を謂う。○温公曰く、始めに字を書くを習う、と。七年にして男女席を同じくせず、食を共にせず。其の別を蚤[はや]くするなり。○温公曰く、始めて孝經・論語を誦み、次に諸經に及ぶ、と。八年にして門戸を出入し、及び席に即きて飮食するに、必ず長者に後れしむ。始めて之に讓を敎ゆ。示すに廉恥を以てす。九年にして之に日を數うることを敎う。朔望と六甲なり。○温公曰く、始めて之の爲に講解して義理を曉らしむ、と。十年にして出でて外傳に就き、外に居宿し、外傳は敎學の師なり。十年以後は學ぶこと有りて敎うること無し。書計を學ぶ。書は六書を謂う。計は九數を謂う。衣は襦袴を帛にせず。帛を用いて襦袴を爲らず。太だ温にて陰氣を傷ればなり。禮は初めに帥[したが]い、帥は循なり。禮を行う動作は皆先日爲す所に遵い習う。朝夕幼儀を學び、朝より夕に至るまで、幼少の長者を奉事するの儀を學ぶを言う。簡諒を請い肄[なら]う。肄は習なり。簡は書の篇數なり。諒は言語信實なり。請い肄うは長者に請いて之を習い學うなり。温公曰く、是より以往、以て博く群書を觀る可し。然るに必ず其の精要なる者を擇びて之を誦む。禮記の如きは則ち學記・大學・中庸・樂記の類なり。其の異端の聖賢の書に非ざるは、傅は宜しく之を禁ずべし。妄りに觀て、以て其の志を惑亂せしむること勿かれ。書を觀て皆通じ、始めて文辭を學ぶ可し、と。十有三年にして樂を學び詩を誦し勺を舞う。樂は六樂の器を謂う。勺は籥なり。籥を舞うは文の舞なり。成童にして象を舞い射御を學ぶ。成童は十五以上。象を舞うは武の舞なり。干戈を用うるの小舞を謂うなり。射は五射を謂う。御は五御を謂う。二十にして冠し、始めて禮を學ぶ。以て裘帛を衣る可し。大夏を舞い、冠は冠を加うるなり。禮は五禮を謂う。二十は成人血氣强盛、衣裘を衣る可し。大夏は禹の樂。樂の文武備わる者なり。惇く孝弟を行い、博く學びて敎えず、内にして出さず。廣博に學問して師と爲りて人に敎う可からず。其の德を蘊蓄して内に在りて、言を出して人の爲に謀慮す可からず。三十にして室有り、始めて男の事を理[おさ]む。博く學びて方無く、友に孫[したが]い志を視る。室は妻に猶[おな]じ。男の事は田を受けて政役に給すなり。方は常に猶じ。此に至りて學ぶに、常無し。志の好む所に在り。四十にして始めて仕え、物を方[くら]べて謀を出し慮を發す。道合えば則ち服從し、不可なれば則ち去る。物は事に猶じ。物を方べて謀を出せば、則ち謀は物に過ぎず。物を方べて慮を發すれば、則ち慮は物に過ぎず。五十にして命ぜられて大夫と爲り、官政を服す。一官の政を統るなり。七十にして事を致す。其の事を君に致して老を告ぐ。女子は、○温公曰く、女子六歳にして始めて女工の小なる者を習う。七歳にして孝經・論語を誦し、九歳にして孝經・論語及び列女傳・女誡の類を講解して、略々大意を曉る、と。註に曰く、古の賢女、圖史を觀て以て自ら鑑みざること無し、と。曹大家の徒の如き、皆精しく經術に通じ論議明正なり。今人或は女子を敎うるに歌詩を作り俗樂を執るを以てす。殊に宜しき所に非ざるなり。○伊川程先生曰く、先夫人侯氏、七八歳の時古詩を誦す。曰く、女子は夜出でず。夜出れば明燭を秉る、と。是より日暮れれば則ち復た房閤を出でず。既に長なりて文を好みて詞章を爲らず。世の婦女の文章筆札を以て人に傅うる者を見れば、則ち深く以て非と爲す。○安定胡先生曰く、鄭衛の音は淫を導く。以て女子に敎う。宜しき所に非ざるなり、と。十年にして出でず。恒に内に居るなり。姆、婉娩聽從を敎う。姆は女師なり。婉は言語を謂う。娩は容貌を謂う。温公曰く、柔順の貌、と。麻枲[まし]を執り、絲繭を治め、紝・組・紃を織り、女の事を學びて以て衣服に共す。紝は繒帛を謂う。組・紃は倶に絛なり。薄く闊きを組と爲し、繩に似るを紃と爲す。○温公曰く、蚕桑・織績・裁縫及び飮膳を爲る、惟正に是れ婦人の職のみにあらず、兼て之をして衣食來る所の艱難を知り、敢て恣に奢麗を爲さざらしめんことを欲す。纂組華巧の物に至ては、亦必ずしも習わざるなり、と。祭祀に觀、酒漿・籩豆・葅醢[そかい]を納むるを、禮相[たす]けて奠[てん]を助く。當に女の時に及びて知るべし。納は酒漿・籩豆・葅醢の等を神座に置くを謂う。禮相けて奠を助くは、禮を以て長者の事を相けて、其の饋奠を助けるを謂う。十有五年にして筓す。筓は今の簪なり。此は年に應じて嫁を許す者を謂う。女子嫁を許して筓し、之に字す。未だ嫁を許さざれば、則ち二十にして筓す。二十にして嫁す。故有れば、二十三年にして嫁す。故は父母の喪を謂う。聘すれば則ち妻と爲し、奔れば則ち妾と爲す。聘は問うなり。妻の言は齊なり。禮を以て問わるれば、則ち夫と敵體するを得。妾の言は接なり。君子に接見するを得て、之と敵體するを得ざるを言うなり。

内則曰。子ともまた小学校へ出ぬ前は親の仕付なり。内則と云は奥向の則を書たこと。すへて小学に引く礼記は篇名も文面の足りになることと心得るがよい。篇名の入用になき寸は、礼記に曰と出す例なり。擇於諸母與可者。可者とは、丁どそれによかるへきもののこと。阿の字でありそな処てあれとも可の字であるからは、まづこのままに可なる者とよむへし。さてもう一つぎんみが入る。内則は大方大名のこと。今度若殿様出生について、大勢の御部屋の中から守りによかるへきものをえる。まづ一番に寛裕。女はやはらかなもので、皆寛裕にあるへきものなれとも、さてこの寛裕が女に一ばん拂底なもの。寛裕はゆったりとしてよくものを入るる。ぎくしゃくとさしつかへぬこと。女がとかくせばいもので、む子にをさめをくことならぬもの。そこでこせ々々こぢりとかめをするから、あたりとなりの中も、娵と姑の中もはるくなるもの。いこうこの寛裕がすくないもの。それを先つ眞先に寛裕をえる。
【解説】
「内則曰、凡生子、擇於諸母與可者、必求其寛裕」の説明。小学校に入る前は親が躾をする。内則は大名のことなので、小学校に入る前の子供には守を付ける。その守には先ず寛裕な者を択ぶ。
【通釈】
「内則曰」。子供がまだ小学校へ出る前は親が躾をする。内則は奥向きの則を書いたもの。小学に引く全ての礼記は、篇名も文面の足りになるものだと心得なさい。篇名が不要な時は、礼記に曰くと出すのが例である。「択於諸母与可者」。「可者」とは、丁度それによいと思われる人のこと。阿の字を使いそうな処だが、可の字を使っているからは、先ずはこのまま可なる者と読みなさい。さてもう一つ吟味が要る。内則は大方大名のこと。今度若殿様の出生に当たって、大勢の御部屋の中から守としてよいと思われる者を択ぶ。先ず一番に寛裕。女は柔らかなもので、皆寛裕であるべきものだが、さて、この寛裕が女に一番払底なもの。寛裕はゆったりとしてよくものを入れ、ぎくしゃくと差し支えないこと。女はとかく狭いもので、胸に納め置くことができないもの。そこでこせこせと鐺咎めをするから、辺り隣の仲も、娵と姑の仲も悪くなる。大層この寛裕が少ないもの。そこで、先ずは真っ先に寛裕を択ぶ。

慈惠。めぐみふかいこと。ほと々々とかあいがる。温良。温はむっくりとしたこと。をむくなこと。良は易良、又良直とつついて、やすらかなこと。眞直ぐなこと。これでわだかまり、かくすことのないことになる。女の質は大方物をおおいかくすもの。其やうなことのない、すらりとしたを撰る。恭敬の上に愼の字あるは、何やかやにつけしっほりと愼むことじゃと淺見先生の弟子の味地儀平か云た。名は直好。三宅先生甥なり。寡言者。これが内則にありても、もと垩人でなくては云はれぬほどのこと。なんのことないことなれとも、これが大事のこと。女は他言と云の疵から乱をもをこす。それで言寡きをえると云が至て肝要なこと。婦に長き舌あるはと詩にもあり。
【解説】
「慈惠・温良・恭敬、愼而寡言者、使爲子師」の説明。女は物を覆い隠すものだが、守にはその様なことのない、慈恵・温良・恭敬な者を択ぶ。また、長舌は乱の元にもなるから、寡言の者を択ぶ。
【通釈】
「慈恵」。恵み深いこと。ほとほとと可愛がる。「温良」。「温」はむっくりとしたことで、御無垢なこと。「良」は易良、また、良直と続き、安らかなこと。真っ直ぐなこと。これでわだかまったり、隠すことがなくなる。大方、女の質は物を覆い隠すもの。その様なことのない、すらりとした者を選る。「恭敬」の上に「慎」の字があるのは、何やかやにつけ、しっぽりと慎むことだと浅見先生の弟子の味池儀平が言った。名は直好。三宅先生の甥である。「寡言者」。これが内則にあっても、本来は聖人でなくては言えないほどのこと。何でもない様なことだが、これが大事なこと。女は他言という疵から乱をも起こす。それで言寡なきを択ぶというのが至って肝要なことで、「婦有長舌、維厲之階」と詩にもある。
【語釈】
・味地儀平…味池修居。名は直好。儀平、丹治と称す。号は守齋。播磨美嚢郡竹原の人。三宅尚齋姉の孫。延享2年(1745)8月19日没。年57。初め佐藤直方及び淺見絅齋に学ぶ。
・婦に長き舌あるは…詩経大雅蕩瞻卬。「婦有長舌、維厲之階」。

可者は、傅御の中てよいものを撰ぶこと。ちとむりな注なれとも、書直さぬが法なり。傅の字のつくは、若殿附御に男付のと云のつきの字なり。子の師は教示以善道。未た宮参りもせすに何やかやと云ことなく、よいことでむし立る。今のうばわよいことはいはぬ。兒守をするにあまり害にもならぬことじゃが、月をののさまの、鴈か三つ口じゃの、山から小僧がないてきたなど云はとんと末々やくに立ぬこと。圣人の手あては末々まで用に立つことを敎る。医者なとには却てこの手あてがある。香川が藥撰に、餘のものを喰はふより、これをくへは此病にはよいと云たこともある。これは療治の外にもうけるぞ。手あての届いたのぞ。小学に入らぬまへにこれほともうけるぞ。今の親には兒共をそだてるに理のちさうの手あてはない。そこで、くらい処へ行くとはや化物が出ると云てたぶらかす。又これをこうしたらあれをやろうなぞと云てすかす。そこて兒共がはやく人をだますことを覚へる。こまったことぞ。子をよくしやうと云を、はや不断に心掛が違ふ筈なり。た子くして仕込で理のちさうをする。これでなければ慈止でない。後世は気のちさうがすぎるから、若殿かころぶか何ぞすると大さわぎ。乳母や御守が不首尾になる。だたい歴々の子は砂の上などへちところぶもよい。足をすりむいて血の出るくらいなことはけっくよいものぞ。其手間にちと理のちさうをするがよい。
【解説】
諸母、衆妾也。可者、傳御之屬也。子師、敎示以善道者」の説明。子供には、末々にも役に立つ本当に善いことを言う。理を馳走するのである。
【通釈】
「可者」は、傅御の中でよいものを択ぶこと。これは少し無理な注だが、書き直さないのが法である。傅の字が付くのは、若殿附御に男付と言う時の付の字である。「子師、教示以善道」。まだ宮参りもしない内に何やかやと言うことなく、よいことでむし立る。今の様な上辺のよいことは言わない。子守をするにはあまり害にもならないことだが、月をのの様だとか、鴈が三つ口だの、山から小僧が泣いて来たなどと言うのは末々全く役に立たないこと。聖人の手当は末々まで用に立つことを教えるもの。医者などには却ってこの手当がある。香川の薬撰に、他のものを喰うより、これを食えばこの病にはよいと言ったこともある。これは療治の外に設けたことで、手当の届いたこと。小学に入る前にこれほど設ける。今の親には子供を育てるのに際して理の馳走の手当がない。そこで、暗い処へ行くと、早くも化物が出ると言って誑かす。また、これをこうしたらあれを遣ろうなどと言って賺す。そこで子供が早く人を騙すことを覚える。それは困ったことである。子をよくしようとしても、既に普段の心掛けが違っている。幼い頃から仕込んで理の馳走をする。これでなければ慈に止まるではない。後世は気の馳走が過ぎるから、若殿が転んだり何かすると大騒ぎ。それで乳母や御守が不首尾になる。そもそも歴々の子は砂の上などで少々転ぶのもよい。足を擦り剥いて血が出るくらいのことは結局はよいもの。その間に少し理の馳走をするのがよい。
【語釈】
・香川…香川修徳。医者。後藤艮山の弟子。著書に『一本堂薬選』がある。1683~1755

温公曰、子始生、求乳母必擇良家婦人稍温謹者。小学に温公を引くは注ではない。本文補ふたことなり。大名高家の歴々は、奥方の乳はありても乳母はかかへる。これがいかにしても心得違なことなり。乳の養と云は其母のが一ちよいことなり。ここの乳母でも求ると云は乳のないもののこと。さてかかへると云には乳計りでない。ちと吟味のあることぞ。良家と云家を仰山に見ることではない。士農工啇の内なればよいぞ。山伏やかはらものの娘はいやなもの。茄子賣芋賣も良家ぞ。山伏などのむすめははや神いぢり。又羽二重を着て目見へにきても、三味線ひきの娘はいやなものぞ。非惟敗乱家法。乳母のわるいはこまったもの。兒を後立にいろ々々わがままをする。子を寢せつけるについていろ々々きかれぬ童謡をうたふ。主人も傍軰も大切の子と云から、乳母のすることはのけて通す。そこで一ばいをする。これではやいやなことが十分ある。其上に又子がわるくなる。後文の羪ても、乳は自然なものゆへあやかる。昼夜寢席を久しく馴るるゆへ、よく似るものじゃ。本文は内則て諸母などとあり、大名以上のこと。乳母はたれもをくものゆへ廣く受用になる。
【解説】
司馬温公曰、子始生、求乳母必擇良家婦人稍温謹者。乳母不良非惟敗亂家法、兼令所飼之子性行亦類之」の説明。温公の注は本文を補うもの。乳母を求めるのは乳の出ない者がすること。良家とは、士農工商の内のこと。悪い乳母は好き勝手をして子を悪くする。子は乳母に似る。
【通釈】
「温公曰、子始生、求乳母必択良家婦人稍温謹者」。小学に温公を引くのは注としてではない。本文を補ったのである。大名高家の歴々は、奥方の乳はあっても乳母を抱える。それはどの様に見ても心得違いである。乳の養はその母のものが一番よい。ここの乳母を求めると言うのは乳の出ない者のこと。さて、抱えるのは乳のことばかりではない。それには一寸吟味のあること。良家とあるが、この家は仰山に見るものではない。士農工商の内であればよい。山伏や河原者の娘は嫌なもの。茄子売りや芋売りも良家である。山伏などの娘は早くも神弄りをする。また、羽二重を着て見えに来ても、三味線弾きの娘は嫌なもの。「非惟敗乱家法」。乳母が悪いのは困ったもの。児を後ろ楯として色々と我侭をする。子を寝かせ付けるにも色々と聞いたことのない童謡を歌う。主人も傍輩も、大切な子なので乳母のすることは別格にして通す。そこで好き勝手をする。これをもってしても、既に嫌なことが十分にある。その上にまた子が悪くなる。後の文の養があったとしても、乳は自然なものなので、これに肖る。昼夜寝席を久しくして馴れるのでよく似る。本文は内則に諸母などとあり、大名以上のこと。乳母は誰もが置くものなので広く受用になる。
【語釈】
・かはらもの…河原者。①中世、河原に住み、卑賤視された雑役や下級遊芸などに従った者。②江戸時代、歌舞伎役者の賤称。

子能食々教云々。右の手に箸を持ことを敎る。あの方では箸でものはくわ子とも、何事をいろうにも右の手としむける。男唯。いさぎよくすみやか。女兪。ゆっくりとすること。女の返事の、江戸の茶屋女などのするやうに、男に似たも望ましくないものぞ。この唯兪は皆応のことなり。對のことではない。注。兪、然なり。字注ではない。字心を云たもの。然はさやふとうけることゆへに、上へはずまず下たでうけること。自名及唱云々。皆親の教ること。客の前でわか名を云たり辞義すること。辞義をするには気をこめてすることなれとも、吾れを忘れて気を吹くことがある。某子ともの寸から迂斎の毎朝両親と直方先生を拜をするに、時々ぎっぎっと云音がした。子ともの寸にあじなことと思ふた。敬みのあまり気を吹くこへなり。あれが唱喏でありた。そこで唱喏は男の麻上下でよく似合ふことで、女のかいどり姿では唱云々はにあはぬ。萬福は女のこと。御きげんよくと云こと。御目出度ことと云ことなり。
【解説】
「子能食食、敎以右手。能言男唯女兪。兪、然也。温公曰、子能言、敎之自名及唱喏萬福」の説明。食事をすることができる様になれば、右手を使うことを教え、また、返事の仕方を教える。
【通釈】
「子能食々教云々」。右手で箸を持つことを教える。中国では箸を使って物を食わないが、何事を弄うにも右の手ですると仕向ける。「男唯」。潔く速やか。「女兪」。ゆっくりとすること。女の返事は、江戸の茶屋女などのする様に、男に似ているのも望ましくないもの。この唯と兪は皆応のことで、対のことではない。注。「兪、然也」。これは字注ではなく、字心を言ったもの。然は左様と受けることなので、上に弾まず下で受けること。「自名及唱云々」。皆親の教えること。客の前で自分の名を言ったり辞儀をすること。辞儀をするには気を込めてするが、我を忘れて気を吹くことがある。私が子供の時、迂斎が毎朝両親と直方先生を拝するに、時々ぎっぎっという音がした。子供の時はそれが変なことだと思った。それは、敬みのあまりに気を吹く声だった。あれが「唱喏」である。そこで唱喏は男の麻裃によく似合うが、女の掻取姿では似合わない。「万福」は女のこと。御機嫌よくと言うこと。御目出度いことと言うこと。
【語釈】
・かいどり姿…掻取姿。①着物の褄をとって裾をからげた姿。②婦人の礼服で、帯をしめた上から掛けて着る長小袖。

安置は尊長をゆっくとさせること。わざても口上でも云こと。一寸椽ばなへ出たときも、又寢るやうな寸も安置すると云たもの。とっくりとをくこと。をちつつけること。菅公を大宰の權の卒にした類をも、唐の文には安置などと書たことあり。あそこへをちつけておくこと。以恭敬尊云々。長と尊とは似た字なり。祖父や親は尊、兄や年ましは長なれとも、くるめて云かよい。兒共は何心もないから親の肩へも上る。わる心でもないが、それをもはや色をかへてしかる。
【解説】
安置。稍有知則敎之以恭敬尊長。有不識尊卑長幼者、則嚴訶禁之」の説明。知ができて来ると、尊長をゆっくりとさせることと尊卑長幼の別を教える。それに違うことをすれば訶る。
【通釈】
「安置」は尊長をゆっくとさせること。それは、業でも口上でもすること。一寸縁端へ出た時も、また、寝る様な時も安置すると言った。とっくりと置くこと。落ち着けること。菅公を大宰の権の卒にした類など、唐の文には安置などと書いたものもある。あそこへ落ち着けて置くということ。「以恭敬尊云々」。長と尊とは似た字である。祖父や親は尊、兄や年増しは長だが、包めて言うのがよい。子供は何心もないから親の肩へも上る。それは悪心でもないが、それをも直ぐに色を変えて訶るのである。

註曰、古者有胎教云々。本の注でもないが、只そこへ細字に書たものゆへ注と云。これが称有知を大事の塲じゃと云の注なりとはどうなれは、腹の中から敎がある。生れた当坐も只うごめくのみじゃ。どうしてもよささふなもの。それさへに固挙以礼。このときからはや礼がある。男は内にくづ々々してはをらぬ。天地四方に志あるものと云て、桑弧蓬矢の礼をそなへることさへあるに、物心しるにすてて置ふ筈はない。幼成如天性。教と云ものはうまいものじゃとかたる。教えがはやくて直らぬことはない。武士の兒の腰の物を忘れぬやうになる。早いは重宝なもの。幼成云々。兒共の寸の仕付がはえぬきのやうじゃと云こと。下の習慣云々も同じ。敎は手ぬけがあり、をそくては役に立ぬ。医が見て此傷寒は十日をそい、療治が立たぬと云。
【解説】
註曰、古有胎敎。况於已生、子始生未有知。固舉以禮。况於已有知。孔子曰、幼成若天性、習慣如自然」の説明。古は胎教があった。教えは早くして、まるで天性の様にする。遅いと役に立たない。
【通釈】
「註曰、古者有胎教云々」。本来の注でもないが、ただそこに細字で書いたものなので注と言う。これが「稍有知」を大事な場だと言った注だとはどういうことかと言うと、腹の内から教えがあるからである。生まれた当座はただうごめくだけで、どうしてもよさそうなものだが、それにさえ「固挙以礼」。この時から早くも礼がある。男は内でぐずぐずしてはいない。天地四方に志ある者と言い、桑弧蓬矢の礼を具えることさえあるのに、物心を知っているのに棄てて置く筈はない。「幼成若天性」。教えというものはうまいものだと語る。教えが早ければ直らないことはない。武士の児が腰の物を忘れない様になる。早いのは重宝なもの。「幼成云々」。子供の時の躾が生来の様だということ。下の「習慣云々」もこれと同じ。教えは手抜けがあったり、遅かったりしては役に立たない。医が見て、この傷寒は十日遅い、療治が立たないと言う。
【語釈】
・桑弧蓬矢…礼記内則。「國君世子生、告于君、接以大牢、宰掌具。三日、卜士負之、吉者宿齊、朝服寢門外。詩負之、射人以桑弧蓬矢六、射天地四方。保受乃負之、宰醴負子、賜之束帛。卜士之妻、大夫之妾、使食子」。
・幼成云々…顔氏家訓教子第2。「孔子云、少成若天性、習慣如自然、是也」。

顔氏家訓曰云々。娵は来た当座から仕込がよい。兒共はほふをなでれはえこ々々笑ふ寸からしこみが大事ぞ。飼鳥をする者が、指篭[さしご]の子が一本ぬけると飛出るに、子飼の鳥はとんとにげぬ。雀も茶箋の穂で飯を喰て篭の内に居る筈のものと覚へて、口をあけてもにげぬ。とばしてやっても又日ぐれにはかへる。鳥のかごにすむは自然ではないが、鳥でさえ子養[こがい]からと云ことは別なもの。これ、其理なり。理は前の天命の性から合点すへし。人作ではいかぬ。だたいさうした理ぞ。
【解説】
顔氏家訓曰、敎婦初來、敎兒嬰孩。故在謹其始、此其理也」の説明。子供は小さい時の仕込みが大事である。子飼の鳥は逃げない。それも理からのこと。
【通釈】
「顔氏家訓曰云々」。娵は来た当座から仕込むのがよい。子供は頬を撫でるとにこにこと笑う時からの仕込みが大事である。飼鳥をする者が、指篭の子が一本抜けると飛び出るのに、子飼の鳥は全く逃げない。雀も茶筅の穂で飯を喰て篭の内にいる筈のものと覚えて、口を開けても逃げない。飛ばしてやっても、また日暮れには帰って来る。鳥が籠に住むのは自然ではないが、鳥でさえ子飼からというのは別格なもの。「此其理也」。理は前の「天命之性」から合点しなさい。人作ではない。そもそもそうした理なのである。
【語釈】
・顔氏家訓曰…顔氏家訓教子第2。「俗諺曰、教婦初來、教兒嬰孩。誠哉斯語」。

若夫子之初生也云々。是から天下の人情をかたりたこと。顔の推の人情で云たで面白い。兒の可愛と云で埒もないことができる。奬之。狗なぞをそやすこと。親のばかが、弟は元気ものじゃと云てそやす。姉をたたいて、却て首尾がよくなる。そこで幼な心に気ずいがうれしくなりておる。処をたまさかにもわるいことはせぬものと云と、ひぞってなき出す。そこで又兄をとってなげたり、相模にまけたなど云へはきげんも直り、とかく親の寵愛から。小兒はぐはんぜないものゆへ仕向けしだいなれとも、親がかあいいで訳をわすれてとほうもないものになる。外に兒共の遊ばせやうもありそなものぞ。とかく此のやうなが唐も日本も多いぞ。
【解説】
若夫子之初生也、使之不知尊卑長幼之禮、遂至侮詈父母、敺擊兄姊。父母不知訶禁、反笑而奬之彼既未辨、好惡謂禮當然」の説明。子供は仕向け次第である。親が可愛がるので途方もない者となる。
【通釈】
「若夫子之初生也云々」。これから天下の人情を語る。顔之推が人情で言ったのが面白い。児が可愛いというので埒もないことになる。「奬之」。犬などを甘やかすこと。親馬鹿が、弟は元気者だと言って甘やかす。姉を叩いても、却ってそれで首尾がよくなる。そこで幼な心に気随なのが嬉しくなっている。そこを滅多に悪いことはしないものだと言うと、拗ねて泣き出す。そこでまた兄を取って投げたり、相撲をして負けたなどと言われると機嫌も直る。とかく親の寵愛からこうなる。小児は頑是無いものなので仕向け次第であって、親が可愛く思ってわけを忘れるので、途方もない者になる。他に子供の遊ばせ様もありそうなもの。とかくこの様なことが唐にも日本にも多い。

習已爲性及云々。ここでははや年をとりて、父母を侮詈、兄姉を敺擊が顔をかへて衣裳をきて、十四五の寸からまかり出る。そこで親を親、兄を兄ともせぬになる。これが幼年の寸の彼のが魂にのって、わるいことの根に成てをる。爰ては傷寒壊証仕方はない。於是父嫉其子、子怨其父云々。七つ八つて親子中のわるいものはない。幼年の寸のわる仕付が、形とともにそだって皃をかへて出たもの。防微。わづかの蟹の穴からもる水をゆだんしてをると堤がくづるる。杜漸。はきためのあたりでたばこの吹からがふす々々もへてをる。すててをくと火事になる。
【解説】
及其既長、習已成、性乃怒、而禁之不可復制。於是父嫉其子、子怨其父、殘忍悖逆無所不至。此蓋父母無深識遠慮、不能防微杜漸」の説明。幼年の時の教えが悪いと、十四五になって親を親、兄を兄とも思わなくなる。そこで、親子仲も悪くなる。
【通釈】
「習已為性乃云々」。ここでは既に年を取って、父母を侮詈し、兄姉を敺擊していたのが顔を変え衣裳を着て、十四五の時から罷り出る。そこで親を親、兄を兄ともしなくなる。これが幼年の時のあの魂に乗ったもので、これが悪いことの根になっている。ここで傷寒壊症になるのは仕方がない。「於是父嫉其子、子怨其父云々」。七つ八つで親子仲の悪い者はいない。幼年の時の悪い躾が、形と共に育って顔を変えて出たもの。「防微」。僅かな蟹の穴から漏れる水を油断していると堤が崩れる。「杜漸」。掃き溜めの辺りで煙草の吸殻がぶすぶすと燃えている。放って置くと火事になる。

溺於小滋。吾身をすてても子はよくしたいと云が親心なり。それはかあいいからのことなり。こうあるへき筈なり。すれとも其かあいいがほどを外るると、又子をわるくするなり。糺利帳は大方親から半分手傳ふたと心得るがよい。そこでこの立教は子共よりは親たるもののきくことぞ。子のわるいは親の咎なり。孟子に賢不肖之相去、其間不能以寸と云てあり。名教では子の方をわるいにつめ子はならぬ。なれとも立教には俾爲師者知云々とあるから、親の仕付がわるいと、とがめるよみやうかある。明倫では、とこまでもわるいと云は子の無調法なり。先日も云通り、気がそろは子ばならぬこと。今ここらの田舎ても、小学の敎は親と名主てすることじゃ。浪人儒者で小学校の敎のならぬと云もこのあやなり。生れをちからとほうもない仕付をして、小学の講釈に出したとて、とうしてゆくものぞ。たま々々よくなるのは凡民の俊秀と云ものぞ。
【解説】
溺於小滋、養成其惡故也」の説明。子が悪いのは親の躾が悪いからで、それは親の咎だとするのが立教で、明倫は子を責めるもの。
【通釈】
「溺於小滋」。我が身を棄てても子はよくしたいと思うのが親心である。それは可愛いからで、こうあるべき筈のこと。しかし、その可愛いということがほどを越すと、また、子を悪くする。糺利帳は大方親が半分手伝ったものだと心得なさい。そこでこの立教は子供よりは親たる者が聞くもの。子の悪いのは親の咎である。孟子に「賢不肖之相去、其間不能以寸」とある。名教では子の方を悪いと詰めなければならないが、立教には「俾為師者知云々」とあるから、親の躾が悪いからと咎める読み様がある。明倫では、何処までも悪いのは子の無調法からとする。先日も言った通り、気が揃わなければならない。今ここらの田舎でも、小学の教えは親と名主ですること。浪人儒者では小学校の教えができないと言うのもこの綾である。生まれ落ちた時から途方もない躾をしていながら、それを小学の講釈に出したとしても、どうしてうまく行くものか。偶々よくなるとしても、それは凡民の俊秀というもの。
【語釈】
糺利帳
・賢不肖之相去、其間不能以寸…孟子離婁章句下7。「孟子曰、中也養不中。才也養不才。故人樂有賢父兄也。如中也棄不中、才也棄不才、則賢不肖之相去、其閒不能以寸」。
・俾爲師者知…立教題下。「俾爲師者知所以敎」。
・凡民の俊秀…大学章句序。「及其十有五年、則自天子之元子・衆子、以至公・卿・大夫・元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學。而教之以窮理・正心・修己・治人之道」。

男鞶革、女云々。男のもつはつよく、女のはやはらか。みなあやからせるためなり。盛帨巾。鼻紙袋のるい。世にめくと云ことあり。男めかぬ、女めかぬと云はよふないことぞ。どこぞにめかぬ処あるゆへ。めくと云はよきことなり。これがこふしたからで、きっとをちつかれはせぬことなれとも、垩人の敎のた子いと云もここらなり。鼻紙袋を男に革、女に絹をあづけたから小学に叶ふ。これでよいとをちつかれることではないぞ。手道具から立ちふるまい、皆へかるることなり。万物の男は革の心得、女はやは々々と絲なり。
【解説】
「男鞶革、女鞶絲。鞶、小嚢、盛帨巾者。男用韋、女用繒帛」の説明。男は革で女は絲と言うのがそれぞれに合ったこと。めかないのは高じるから。
【通釈】
「男鞶革、女云々」。男の持つものは強く、女のは柔らか。それは皆肖らせるためのもの。「盛帨巾」。鼻紙袋の類。世にめくということがある。男めかない、女めかないというのはよくないこと。それはどこかにめかない処があるからである。めくというのはよいこと。めかないのは高じたからで、それではしっかりと落ち着くことはできない。聖人の教えが細かいと言うのもここらのこと。鼻紙袋で男に革、女に絹を与けたから小学に叶う。しかし、これでよいと落ち着くことではない。手道具から立ち振舞いなど、皆に掛かること。万物は男が革の心得、女は早々と糸である。

六年教之數與方名。この年位では、はやものも覚ゆるころなり。七つ八つでもゆかぬもあるが、それは親のた子くないゆへのこと。こうこまかにしこむが小学なり。小兒のときから弁慶と云ことをは知てをる。字をばしらぬぞ。弁慶と云とすぐにそれを書て習はせる。はや弁慶と云字を知る。すててをくをやとた子く仕込む親とはいかう違ふものぞ。七年男女不同席、不共食。日本にはない。あの方では飲臺のやうなものへならべて、この方のしっほこ料理と云やうなものを食ふことあり。これが夫婦ばかりすることゆへに、そこではやさけたもの。
【解説】
「六年敎之數與方名。數謂一十百千萬。方名謂東西南北。温公曰、始習書字。七年男女不同席、不共食」の説明。六歳で数と方名を教える。七歳では同席をしない。「不共食」は日本にはない、中国の食事の仕方から来たもの。
【通釈】
「六年教之数与方名」。この年くらいになると、早くもものを覚える頃となる。七つ八つになってもできない者もいるが、それは親が細かに仕込まないからである。この様に細かに仕込むのが小学である。小児の時から弁慶ということは知っている。しかし、その字は知らない。弁慶と言うと直ぐにそれを書いて習わせる。早くも弁慶という字を知る。放って置く親と細かに仕込む親とは大層違うもの。「七年男女不同席、不共食」。これは日本にはないこと。中国では飲台の様なものへ食物を並べる。日本で言う卓袱料理の様なものを食うことがある。これは夫婦がすることなので、そこで早くも避けたもの。

蚤其別也。後になりて、きぶい皃でしからずともすむやふにすること。此方で忰共が男女打交りになりて遊でをると、かたい伯父などがきて、見て大きにしかる。呵るがよいことになってをる。あの方では一つ所にはをらぬ筈のものと思ふておる。聽訟吾猶人なり、必也使無訟乎では、公事を出かさぬやふにすること。籜兮籜兮風其れ汝を吹かせぬこと。さそふ水あらせぬことぞ。後世の利口ものはあとからまはってなをしをかける。そんなをそまきなことではない。
【解説】
蚤其別也。温公曰、始誦孝經・論語、次及諸經」の説明。早くすることで後をよくする。それで、後にし直さなくても済む。
【通釈】
「蚤其別也」。後になって、厳しい顔で呵らなくても済む様にする。日本では忰共が男女打ち交わって遊んでいると、頑固な伯父などが来て、見て大いに呵る。呵るのがよいことになっている。中国では一つ所にはいない筈のものと思っている。「聴訟吾猶人、必也使無訟乎」は、公事を起こさない様にすること。「蘀兮蘀兮、風其吹女」としないこと。誘う水をなくすること。後世の利口者は後に回って直しを掛ける。そんな遅蒔きなことではない。
【語釈】
・聽訟吾猶人なり、必也使無訟乎…論語顔淵13。「子曰、聽訟、吾猶人也。必也使無訟乎」。
・籜兮籜兮風其れ汝を吹かせ…詩経国風鄭蘀兮。「蘀兮蘀兮、風其吹女。叔兮伯兮、倡予和女。蘀兮蘀兮、風其漂女。叔兮伯兮、倡予要女」。

八年出入門戸。この年には讓ると云ことを敎る。その讓と云てむつかしく云ことにない。すぐに門戸を出入、物食ふことや坐にすはる寸にをとなよりあとへせよと云こと。始教之讓。ことはりたやうでも、分んに云ことでない。やはり上のヶ条の後るると云ことをさす。なれともそれが讓を教ることじゃと万端へかけること。この八つでは、きっと讓るの、門戸を長者と共に出入するなぞと云こともあいよみのあることで、小兒も五つ六つては昧爽にして朝しもならぬ時もある。用捨せ子ばならぬ。あまりちいさい茄子苗をうへるとけくでそたたぬ。一疋にならぬものは用捨せ子はならぬ。七歳未満は喪服もとらぬ。八つは定式の忌服を受る。尤なことて、八つからは人もかはるもの。血気か一ときまりきまる。そこでそろ々々をとな並を習はせ、讓ることを教ゆ。こふ云仕法でをしゆくことゆへに、三十四十になりたときがよいはつぞ。
【解説】
「八年出入門戸、及即席飮食、必後長者。始敎之讓」の説明。八歳になると人も変わって来る。定式の忌服も受ける様になる。そこで、譲ることを教える。
【通釈】
「八年出入門戸」。この年には譲るということを教える。譲ると言っても難しいことではない。ただ、門戸を出入し、物を食うことや座に座る時に大人より後にしなさいということ。「始教之譲」。断じた様だが、特別に言ったことではない。やはり上の箇条の長者に後れるということを指したものだが、それが譲を教えることだと万端へ掛けるのである。この八歳では、しっかりと譲るのだが、門戸を長者と共に出入するなどということも相読みとしてあることで、小児も五つ六つでは昧爽に朝すこともできない時もある。それは容赦しなければならない。あまりに小さい茄子苗を植えると育たない。一人前になっていない者は容赦しなければならない。七歳未満は喪服も着ない。八つは定式の忌服を受ける。それは尤もなことで、八つからは人も変わるもの。血気が一決まり決まる。そこでそろそろ大人並のことを習わせ、譲ることを教える。この様な仕法で押して行くので、三十四十になった時がよい筈。

示以廉恥。これもしめし年なり。廉恥と云は人の魂なり。廉はかど、恥ははぢで、やはり義のこと。侍が小兒へも武士の子なぞがと云は廉恥をしめすなり。人はかどが大事。かどがなくなるとわるじゃれになる。鳩巣先生が、をいらか若いとき皃を赤くしたことが、今のものはさふないと云た。是がれんちを示がよくない故なり。今が此頃はすきと銭にならぬなぞと云。中々医なぞと云は重い業で、御典藥にもなるぞ。錢なぞのことは云ものではない。それがぜににならぬなぞとれき々々天医の口からもわるじゃれを云。これが御座へ出されぬことじゃ。なれとも当世は大事ないことに覚へてをるは皆廉恥の心のぬけたなり。丸くとも一とかどあれや人心。かどがなけれはころぶ。行欲方。かどがあれはころげぬもの。碁局は四角なゆへころげぬ。この廉恥を示すが人間一つ生の魂になること。
【解説】
示以廉恥」の説明。ここで廉恥を示す。廉恥は義である。廉がなければ悪戯れになる。
【通釈】
「示以廉恥」。これも示し年である。廉恥は人の魂である。廉はかど、恥ははじで、やはり義のこと。侍が小児へも武士の子なのにと言うのは廉恥を示すもの。人は廉が大事。廉がなくなると悪戯れになる。鳩巣先生が、俺が若い時に顔を赤くしたことが、今の者にとってはそうではないと言った。これは廉恥を示すのがよくないためである。今、この頃は全く銭にならないなどと言う。医などというのは中々重い業であって、御典薬にもなる。銭などのことを言うものではない。それが銭にならないなどと言う。天医という歴々でありながら悪戯れを言う。これは御座へ出されないことだが、それを当世は大事なことではないと思っている。皆廉恥の心が抜けたのである。丸くとも一かどあれや人心。廉がなければ転ぶ。「行欲方」。廉があれば転げない。碁盤は四角なので転げない。この廉恥を示すのが人間一生の魂になる。
【語釈】
・行欲方…小学外篇嘉言57。「孫思邈曰、膽欲大而心欲小。智欲圓而行欲方」。

數日。前の方の名と似たことなれとも、あれより手のこしだこと。始為之講解。九つくらいでは、はや耳へ道理の入るほどにはひらける。凧を上げたいが、はやすこしこふしゃくもきこへる。この講釈をきくを行義のためと云はよふない。行義のためと云はよふない。行義のことはとふにできてある。ここでは道理の筋の耳に入るでむ子へひびく。種にすることなり。
【解説】
「九年敎之數日。朔望與六甲也。温公曰、始爲之講解使曉義理」の説明。九歳になると道理が耳に入る様になる。そこで講釈を聴かせる。
【通釈】
「数日」。前の方の「名」と似たことだが、あれより手の込んだこと。「始為之講解」。九つくらいでは、早くも耳へ道理が入るほどに開ける。凧を上げたいが、早くも少し講釈もわかる。この講釈を聴くのを行儀のためと思うのはよくない。行儀のためと言うのはよくない。行儀のことはとっくにできている。ここは道理の筋が耳に入るので胸に響くのである。種にすること。

居宿外。十才位からは奥向に寢ずにそとへ出ること。有学無教。敎ると云は師の方から。学ぶと云はこちがら々々々々と習ふこと。十年已後有学無教と云について、某が寸志を云ことぞ。ここの有学無教と云は内則本文を説たものなり。さて々々昔は手がまはりたことで、十歳位で一ときりやふになりて、師の方から敎ずとも弟子の方から学ぶ々々とある。今などはいづれの御方てもこふは出きぬから、ぬけめなく師の方から敎へよふことぞ。こふ読ば、文義をとくではなく、人をとり立る主意でといたのなり。文面できめてはやくに立ぬ。
【解説】
「十年出就外傳、居宿於外、外傳敎學之師也。十年以後有學無敎」の説明。十歳になると外傅に就く。教は師の方で言い、学は自分の方で言う。十歳になれば自分で学ぶことができる。しかし、今は自分で学ぶことができないから、師が教えなければならない。
【通釈】
「居宿外」。十歳くらいからは奥向きに寝ず、外に出る。「有学無教」。教えるというのは師の方から。学ぶとは、こちらから習うこと。「十年以後有学無教」について、私の寸志を言う。ここの有学無教は内則の本文を説いたもの。実に昔は手が回っていて、十歳くらいで一器量になり、師の方から教えなくても弟子の方から学ぶとある。今などはどの様な御方でもこの様にはできないから、抜け目なく師の方から教えなければならない。この様に読んだのは文義を説いたのではなく、人を取り立てる主意で説いたもの。文面で決めては役に立たない。

学書計。前にある学書字はいろはのこと。ここは字を書くことではない。書について学ぶことのあること。ここははやよほどぶしたことと合点するがよい。六書九数のことはさきの六藝の注にあり。衣不帛襦袴。十一二では、そろ々々をとなめいたものをきる勢になった処をさふさせぬなり。傷陰気なり。この注は、養生のすじから云たことを朱子の古注のままをかれたなり。兒共寒むがらぬもの。着るものをぬげと云とよろこぶもの。ぞふしたものじゃから、このあたたかすきで陰気をを傷ると云がここで許り云ことではないはづなれとも、ここでは自分からもはやきるでいな勢ある時ゆへ、わけていましめたことなり。今まではなをきせぬこと。
【解説】
「學書計。書謂六書。計謂九數。衣不帛襦袴。不用帛爲襦袴。太温傷陰氣也」の説明。六書九数を学ぶ。帛襦袴は着ない。子供は本来寒がらないものだが、この時分には大人染みたものを着ようとするものなので、それを戒めたのである。
【通釈】
「学書計」。前にある「学書字」はいろはのこと。ここは字を書くことではなく、書について学ぶこと。ここは既に余程上達したものと合点しなさい。「六書九数」のことは先の六芸の注にある。「衣不帛襦袴」。十一二では、そろそろ大人めいた物を着る勢いになるが、そうはしない。「傷陰気也」。この注は、養生の筋から言ったことを朱子が古注のままで置かれたもの。子供は寒がらないもので、着物を脱げと言うと喜ぶもの。そうしたものだから、暖か過ぎて陰気を傷るというのはここばかりで言うことではない筈だが、ここでは自分から最早着る体な勢いがある時なので、別して戒めたのである。今までは尚更着せてはならない。

礼師初。敎と云がととくと、届くひゃうしについてのぼるはづのことなれとも、のぼるに戒をかけ子ばならぬ。ここに戒がないとわるい。闕黨童子將命や芄蘭の譏を得る。兒共相応でないこと、をとなめいたことはよくない。これが不能の本とになる。遵習先日云々。役がへをせぬこと。書物や筭盤をたてにとりて、たばこぼんのさふじや茶の給仕は外の弟ともにさせたがる。これてはたかぶりの根になる。手習師匠が伴頭を重くするは藝のよくなるを第一にすることで、たかぶらするも、それが外の手習子の示しにもなるでもあらふが、小学は理を主にするから少もたかぶらせぬ。たかぶると云は一生ぬけかぬるぞ。さよふの種をは根をからすことなり。
【解説】
「禮帥初。帥、循也。行禮動作皆遵習先日所爲」の説明。子供相応でないことや、大人めいたことはよくない。高ぶらせてはならない。
【通釈】
「礼帥初」。教えが届けば、届く拍子に上る筈だが、上ることには戒めを掛けなければならない。ここに戒めがないと悪い。そうでないと、「闕党童子将命」や芄蘭の譏りを得る。子供相応でないことや、大人めいたことはよくない。これが不能の本になる。「遵習先日云々」。役替えをしないこと。書物や算盤を楯に取って、煙草盆の掃除や茶の給仕は他の弟共にさせたがる。これでは高ぶりの根になる。手習師匠が伴頭を重くするのは芸のよくなることを第一にするからで、これを高ぶらせるのも、他の手習子の示しにもなるからでもあろうが、小学は理を主にするから少しも高ぶらせない。高ぶるというのは一生抜け難いもの。その様な種は根を枯らす本になる。
【語釈】
・闕黨童子將命…論語憲問47。「闕黨童子將命。或問之曰、益者與。子曰、吾見其居於位也。見其與先生並行也。非求益者也。欲速成者也」。
・芄蘭…詩経国風衛芄蘭。「芄蘭之支、童子佩觿。雖則佩觿、能不我知。容兮遂兮、垂帶悸兮。芄蘭之葉、童子佩韘。雖則佩韘、能不我甲。容兮遂兮、垂帶悸兮」。題下に、「芄蘭、刺惠公也。驕而無禮。大夫刺之」とある。

朝夕学幼儀。これまての学ひがみな幼儀なり。すれとも年挌好でちとちがいあり。茶をやう々々持て出るもあり、ここは十才になりた。取まはしがちごう。そろ々々小笠原になる。請肆簡諒。簡は書物のこと。諒。ものを云に定かにすること。云そこないのないやふにすること。論語は昨日しまい、これからは何をよみませふと云か簡をこいならうなり。諒はこう申してもよいか々々々とぎんみすること。簡諒をわけれは二つなれとも、よく考てみれは、簡の上にも諒がある。行藏が弟子の幼学楷や大宰が和讀要領などは諒をこい習ふなり。簡は書の篇数なり。篇数と云は尭典かすんだから舜典へかからふと云なり。其上簡を手紙と見ぬための註なり。諒、言語眞実。文字にあたらぬことを云は諒でない。今人が猪[ぶた]さへみれはいのこ々々々と云がちがいなり。豚計りがいのこなり。俗師誤読と云こと。藝文志にあり。読みやふわるいと末々まで間違ふなり。傳来でない言や片言は吟味すへきことなり。中にも江戸ものか片言の多い。上總へきてみれは、反て文字にあたることがあるぞ。そふかと思ば又とほふもない片言を云。世の中にみな片言だらけなり。
【解説】
「朝夕學幼儀、言從朝至夕、學幼少奉事長者之儀。請肄簡諒。肄、習也。簡、書篇數也。諒、言語信實也。請肄、請於長者習學之也」の説明。「簡」は書物のことで、「諒」は、言い損ないがない様にすること。ここで簡諒を請い肄う。世の中は皆片言だらけである。
【通釈】
「朝夕学幼儀」。これまでの学びが皆「幼儀」である。しかし、年格好で一寸違いがある。茶をやっと持って出る者もいるが、ここは十歳になったので、取り回しが違う。そろそろ小笠原になる。「請肄簡諒」。「簡」は書物のこと。「諒」は、ものを言うのに定かにすることで、言い損ないのない様にすること。論語は昨日終わり、これからは何を読もうかと言うのが簡を請い肄うということ。諒はこの様に申してもよいかと吟味すること。簡諒を分ければ二つとなるが、よく考えてみれば、簡の上にも諒がある。行蔵の弟子の幼学楷や太宰の和読要領などは諒を請い肄うもの。「簡、書篇数也」。篇数とは、堯典が済んだから舜典へ掛かろうということ。その上、簡を手紙と見ないための註である。「諒、言語真実」。文字に当たらないことを言うのは諒でない。今人が猪さえ見れば豕々と言うのは違う。豚だけが豕である。これが俗師誤読ということ。芸文志にある。読み方が悪いと末々まで間違う。伝来でない言や片言は吟味すべきである。中にも江戸の者に片言が多い。上総に来てみると、却って文字に当たることがある。そうかと思えばまた途方もない片言を言う。世の中は皆片言だらけである。
【語釈】
・行藏…村士玉水。名は宗章。別号は一齋、素山。行蔵、幸蔵と称す。江戸の人。信古堂を営む。村士淡齋の子。初め山宮雪樓に学ぶ。安永5年(1776)1月4日没。年48。稲葉迂斎門下。

博觀群書。十歳位てかふ云ことは日本なぞではないこと。若あらは竒童とも云ふほどのことなり。非垩賢之書云々。日本ては經書とつ子の書は字も違ふてあるからよめぬか、唐ではよめるとも、小学校の師がよませぬ。十行倶に下る云英才もあるが、むせふに書をよむが手抦とは云はれぬ。見処の立ぬ内、色々な書を読て見て、これも尤、あれも尤と云と志が惑乱する。白人の医書を読むやふなもの。病気の寸、却て迷になる。ぞこで朱子の大学或問に知ること愈多而意愈否と云てあり。あまりよむものぞましくない。始可学文辞。文章の書きやふを習ふこと。今の文章と云は、あれ文人よと云はるるためなり。古のは辞達而やむ。達意の文と云て、今願書をかくていなこと。詞のととくやふに習ふこと。さてこれもにかは付けには云れぬ。題下の知所教の知の字は師匠のことなれは、小学の知ではないから、師のかけひきあることなり。誰にもかれにも急度此年文辞を学べではないはづ。皆外傅のかけひきにあるべきことぞ。其人々にもよろふこと。
【解説】
温公曰、自是以往、可以博觀群書。然必擇其精要者而誦之。如禮記則學記・大學・中庸・樂記之類。其異端非聖賢之書、傅宜禁之。勿使妄觀、以惑亂其志。觀書皆通、始可學文辭」の説明。「博観群書」と言ってもそれは経書を読むということ。見処の立たない内に色々な書を読むと、それが迷いになる。また、文辞を学び始めるが、それは意を達するための文辞のことである。ここは、皆がそれをするということではなく、師の駆け引きとその人に拠ってするのである。
【通釈】
「博観群書」。十歳くらいでこの様に言うことは日本などにはない。もしもいれば奇童とも言うほどのこと。「非聖賢之書云々」。日本では、経書と普通の書とは字も違っているから読めないが、唐ではそれを読めても、小学校の師が読ませない。十行倶に下るという英才もいるが、無性に書を読むのが手柄だとは言えない。見処の立たない内に色々な書を読んで見て、これも尤も、あれも尤もと言うと志が惑乱する。それは素人が医書を読む様なもの。病気の時、却って迷いになる。そこで朱子の大学或問には、知ること愈々多くして意愈々否とある。あまりに読むのも望ましくない。「始可学文辞」。文章の書き方を習うこと。今の文章は、あれは文人だと言われるためにするもの。古は「辞達而止」で、達意の文と言い、今の願書を書く様な体なこと。詞が届く様に習うこと。さてこれも膠付けには言えない。題下の「知所教」の知の字は師匠のことで小学の知ではないから、師の駆け引きがある。誰にも彼にもきっとこの歳に文辞を学べと言う筈のことではない。皆外傅の駆け引きにあるべきこと。また、その人々にも拠ること。
【語釈】
知ること愈多而意愈否…大学或問
・辞達而やむ…論語衛霊公40。「子曰、辭、達而已矣」。

さて小学の教は小兒ても、かけひきは大学の知とみることぞ。ここを外傅にも近付にもなることぞ。小学校の師は大学はならぬからと云ことではない。皆御役人あがりや老中までつとめて、七十致仕の人じゃ。三老五更を国学に養ふと云は固よりのこと。郷村の小学も、有能者や政をとりた人の隱居したものなどがなることなり。古は其外討死したものの親などと云も学校て養ふ。みな悉く大学のことなり。大宰が、小学と云ながら、小学めかぬと云てそしりたは、内わたをみぬの論なり。されともそれをしらぬでもあるまいが、初心なものにあたまから小学をうつためなり。
【解説】
師の駆け引きは大学の知のこと。小学校の師は有能者や政を執って隠居した人などがなる。
【通釈】
さて小学の教えは小児のことでも、駆け引きは大学の知と見ること。ここは外傅にも近付にもなること。小学校の師は大学の師にはなれないからということではない。皆御役人上がりや老中まで勤め、七十致仕の人である。三老五更を国学に養うというのは固よりのことだが、郷村の小学も、有能者や政を執った人で隠居をした者などがなる。その外に、古は討死した者の親なども学校で養った。これらは皆悉く大学のこと。太宰が、小学と言いながら小学めかないと言って譏ったのは、中腸を見ない論である。それを知らないのわけでもないだろうが、初心な者に対して頭から小学を叩いたのである。
【語釈】
・三老五更を国学に養ふ…礼記下に「食三老五更於大學」とある。また通典に、「北齊制、仲春令辰、陳養老禮。先一日、三老五更齋於國學」とある。

十有三年学樂云云。唯今こいしいは音樂なり。なんの苦もなく自然と感ずる。そこで、いつとなく心がよくなる。惣たいものを学ぶことは皆せつないことぞ。そこで兒共がいやがる。たとへは音樂は甘い藥を呑やふなもの。それゆへ口をまげる苦みもなく、呑んで病がなをるぞ。とんと藥がそれじゃ。永井先生の、古人の舞はものま子ではないと思へと云た。面白いことぞ。今俗樂はものま子じゃ。それみよ、猩々の舞、やれ野々宮高砂熊坂と云て直に猩々熊坂のま子をする。其ついへがかぶき狂言になりて、いやはやかかったていたらくでない。古人の舞はものま子でないと云たは、舞を云ぬいたことぞ。正い舞はもののすがたから正しきに至ることぞ。
【解説】
「十有三年學樂誦詩舞勺。樂謂六樂之器。勺、籥也。舞籥文舞也」の説明。ものを学ぶのは切ないので子供が嫌がる。それが楽によって自然と感じてよくなる。ここの楽は今の俗楽とは違う。俗楽は物真似である。
【通釈】
「十有三年学楽云云」。只今恋しいのは音楽である。何の苦もなく自然と感じる。そこで、いつとなく心がよくなる。総体ものを学ぶのは皆切ないこと。そこで子供が嫌がる。たとえば音楽は甘い薬を飲む様なもの。それで口を曲げる苦みもなく、飲んで病が治る。実に楽がそれ。永井先生が、古人の舞は物真似ではないと思えと言った。面白いこと。今の俗楽は物真似である。それ見なさい。猩猩の舞、やれ野々宮高砂熊坂と言って直に猩猩や熊坂の真似をする。その費えが歌舞伎狂言になって、いやはや大抵の体たらくではない。古人の舞は物真似ではないと言ったのは、舞を言い抜いたこと。正しい舞はものの姿からして正しきに至る。
【語釈】
・猩々の舞…能の一。唐土の潯陽江にすむ霊獣の猩猩が酒に浮かれて舞を舞い、孝子高風を祝福する。

とかく内外ともゆだんはならぬ。それゆへ、只ぶらりとしてをくと能なしの食工みより外はないぞ。そこで礼楽を教へ、舞をまはす。とかく内外とも、ものにうつることぞ。去るによって、自分で心みよ。しかられると、其姿が直になる。譽られると、もういそ々々とした形になる。とんと大切なことぞ。ものま子でない。舞もそれが自然の姿のまいと云ことぞ。誦詩。今の詩経よむこと。誦。そらによむこと。舞勺。笛を持て舞。楽謂六楽云々。六つの楽あれとも、それは六つ揃へて皆は十三んでは学ばれぬ。唯六つの内一つを学ぶ。文の舞はこちらのかつらむきと云やふな舞ぞ。
【解説】
内外共に油断はできない。そこで外からは礼楽を教え、舞を舞わす。六楽とは言っても、この歳ではその内の一つを学ぶのである。
【通釈】
とかく内外共に油断はならない。そこで、ただぶらりとさせて置くと能なしの食巧みになるより外はない。そこで礼楽を教え、舞を舞わす。とかく内外共にものに移る。自分の心を見なさい。叱られると、その姿に直になる。誉められると、もういそいそとした形になる。これが実に大切なことで、物真似ではない。舞もそれが自然の姿の舞である。「誦詩」。今で言えば、詩経を読むということ。「誦」は空で読むこと。「舞勺」。笛を持って舞う。「楽謂六楽云々」。六つの楽があるが、六つを皆揃えては、十三歳では学び切れない。ただ六つの内の一つを学ぶ。文の舞はこちらの桂剥きという様な舞である。

成童舞象云々。成童は十五からぞ。射。今の弓のけいこ。御。馬のけいこのこと。これらも十五が学ひ時分ぞ。どふも十五に満子ば、弓馬はとんとつり合ぬ。成童十五云々舞象云云。武の舞は、此の方にしゅら向きの小舞。此にも大小ありて六ヶ鋪きことなれとも、丁度謡のくせやさしなどをそれ々々に謡はせるやふなことぞ。干戈云々。勺より六ヶしきまいぞ。二十而冠。二十の年に元服のこと。二十而冠するが古代の元服じゃ。人の生付さま々々あれとも、はたちは成人、をとなになったぞ。時に始て礼を学ぶとあれは、八歳から洒掃応對、これからしては礼ははなれぬなれとも、成人になれば、それからは礼の吟味をすることぞ。可衣以裘帛云々。二十までは遠慮して木綿ものをきるぞ。さてこの可の字はきらるると云弁。たとへは諸大夫になれば白無垢きらるる。着てもくるしくないと云ことに見べし。さて二十前で裘帛をきると師が呵る。着た処がをとなめいてわるい。とんとつり合ぬことぞ。舞大夏。揃うたまいのことぞ。
【解説】
「成童舞象學射御。成童、十五以上。舞象、武舞也。謂用干戈之小舞也。射謂五射。御謂五御。二十而冠、始學禮。可以衣裘帛。舞大夏」の説明。十五歳になると象を舞い、射御をする。二十歳で元服をして、礼の吟味を始める。舞も大夏を舞う。
【通釈】
「成童舞象云々」。成童は十五歳から。「射」。今の弓の稽古。「御」。馬の稽古。これらも十五歳が学び時分である。どうも十五に満たなければ、弓馬は全く釣り合わない。「成童十五云々舞象云云」。武の舞は、日本では修羅向きの小舞。ここにも大小があって難しいことだが、丁度謡の曲や差しなどを謡わせる様なこと。「干戈云々」。勺より難しい舞である。「二十而冠」。二十の歳に元服をする。二十而冠が古代の元服である。人の生まれ付きは様々だが、二十歳は成人、大人になったのである。時に「始学礼」とあるが、八歳から洒掃応対、これからして礼は離れないのだが、成人になれば、それからは礼の吟味をするのである。「可衣以裘帛云々」。二十までは遠慮して木綿物を着る。さてこの可の字は着ることができるという弁。たとえば諸大夫になれば白無垢を着ることができる。着ても苦しくないということだと見なさい。さて二十歳前で裘帛を着ると師が呵る。着た処が大人めいて悪い。全く釣り合わないこと。「舞大夏」。揃った舞のこと。

冠、加冠也。只冠と計りゆへは道具になる。そこでわかるぞ。人の身へ着ることゆへ加ふとある。此方では菅笠をかむると云へは註はいらぬ。唐では菅笠と書てかぶることになる。そこで加ると註を出す。禮謂五礼。吉・凶・賔・軍・喜。二十からは此吟味をする。是も注文通りのことぞ。二十で能学ばれると云でなくてはならぬ。今小笠原は目出度こと計りがをも。喪祭などはきかぬぞ。那の方は天下を治るの具。これをも読みやふがわるけれは、礼をよむと云やふに思ふ。そふでない。五礼はををごとぞ。四書の講釈がすめぬ位ではならぬことぞ。朱子も経傳通解を半分拵へて、黃勉斉にわたしたほどのこと。甚た六ヶ鋪こととしるへし。
【解説】
冠、加冠也。禮謂五禮」の説明。二十歳になると五礼を吟味する。中国では五礼が天下を治める具である。
【通釈】
「冠、加冠也」。ただ冠とばかり言えば道具になる。そこで分かる。人の身へ着ることなので加うとある。日本では菅笠を被ると言えば註は要らない。唐では菅笠と書いて被ることになる。そこで加うと註を出す。「礼謂五礼」。吉・凶・賓・軍・嘉。二十歳からはこの吟味をする。これも注文通りのこと。二十でよく学べるというのでなくてはならない。今小笠原は目出度いことばかりが主で、喪祭などのことは聞いたことがない。中国では五礼が天下を治める具。これも読み方が悪ければ、礼を読むという様に思う。そうではない。五礼は大事である。四書の講釈が済めないくらいではそれはできない。朱子も経伝通解を半分拵えて、黄勉斎に渡したほどである。甚た難しいことだと知りなさい。

二十成人血気強盛。ひよめきがたまるぞ。是は前の太温傷陰気と云に對して云こと。爰は、二十にならぬまへはをとなめかぬやふにするのぞ。外篇に学問のあがらぬ中ち肉を食ふことを不許とあり、とんとかるいこともゆるさぬ。さて形が大きいと云てをとなめくと、一生ばかをする。石原先生の、冠の礼は大工にありとなり。大工童の仕打は三十に成ても大工。一人前にゆか子、前髪はをとさぬ。それに今は敎には一向かまわぬ。町人などは、困窮なものは三十に成ても火事羽織もたぬもあり、又、富豪なものは、七つ八つになる兒共にも火事羽織をきせる。まちがひなことぞ。火事塲ではたらきをするための革羽織なり。子ともに着せるは何の為ぞ。具足もそれぞ。軍に出らるるでなければ、とんとつまらぬこと。大工童の定法、面白いこと。裘帛を着るは、全体の仕訳はこうとみせるのぞ。大夏。禹王の楽、道成寺ぞ。何もかもそろふぞ。
【解説】
二十、成人血氣强盛、可衣衣裘。大夏、禹樂。樂之文武備者也」の説明。二十歳前は大人めかない様にする。二十歳になって裘帛を着るのは、全体の仕訳を見せたもの。
【通釈】
「二十成人血気強盛」。ひよめきが固まる。ここは前の「太温傷陰気」に対して言ったこと。二十歳になる前は大人めかない様にするのである。外篇に学問の上がらない内に肉を食うことを許さずとあり、軽いことも全く許さない。さて形が大きいからといって大人めくと一生馬鹿をする。石原先生が、冠の礼は大工にあると言った。大工童の仕打ちは三十になっても大工。一人前にできなければ前髪は落とさない。それなのに、今は教えに一向構わない。町人などは、困窮な者には三十になっても火事羽織を持たない者もあり、また、富豪な者は、七つ八つになる子供にも火事羽織を着せる。それは間違えである。火事場で働きをするための革羽織である。子供に着せるのは何のためか。具足もそれ。軍に出るのでなければ、全く詰まらないこと。大工童の定法が面白い。裘帛を着るのは、全体の仕訳はこうと見せるため。大夏は禹王の楽で、日本で言えば道成寺である。何もかも揃う。
【語釈】
・学問のあがらぬ中ち肉を食ふことを不許…小学外篇善行51。「昔吾兄弟侍先君爲丹州剌吏。以學業未成、不聽食肉」。

惇行孝弟。さて々々面白いことぞ。孝行と云は、六七つから老莱子までずっと通るなり。ちいさい時からやすみはない。なれとも爰で惇と云字がをもい。二十になれば、子ともの水ともの水ばなれせ子はならぬ。茶の給仕、腰をさすりもんでと云其上へをのりこし、親に意簡こともするぞ。とんと孝々の仕やふの伊達が違ふぞ。そこで惇とある。さてつまる処、大学と思ふべし。惇の字は致知をかけたぞ。舜はやはり洒掃応對云々をする。子ともの時の通りなれとも、孝行のをもぶりか替はる。そふして見れは、親のかけひきをする心ゆきがぶんになるぞ。子ともの時の通りではたはけなり。
【解説】
「惇行孝弟」の説明。孝行は休みなく続くものだが、二十歳になれば、子供の時とは孝行の面振りが変わる。子供の時の通りでは戯けである。ここの「惇」の字は致知のことで、二十歳からは大学のこと。
【通釈】
「惇行孝弟」。実に面白いことで、孝行は六つ七つから老莱子までずっと通る。小さい時から休みはない。しかしながら、ここでは「惇」という字が重い。二十歳になれば、子供の水とも水離れをしなければならない。茶の給仕、腰を摩り揉んでというその上を乗り越えて、親に意見事もする。全く孝行の仕方の伊達が違う。そこで惇とある。さて詰まる処、大学のことだと思いなさい。惇の字は致知を掛けたもの。舜はやはり洒掃応対云々をする。それは子供の時の通りだが、孝行の面振りが変わる。そうして見れば、親へ駆け引きをする心行きが格別となる。子供の時の通りでは戯けである。

博学。中庸の博学と同し。大学の致知格物しゃ。御法差合を云へは、八歳は小学、十五歳は大学の條目なれとも、小学でも大学の本水[みき]ぞ。中庸の博学、論語の博文も皆大学の部があるぞ。二十なれば手前に敎ゆるものを持ている。曽子は二十七八歳で一貫傳を得られた。そふしてみれは、曽子の若い時思ひやらるる。それじゃに、とんと何もかも内へ々々ときめこんで置て出さぬことぞ。迂斉先生の、博学不敎は知のこと、内而不出は行と云た。其内而不出がづんとよくなるの根ぞ。吾身持を内へたたきこむと、内而不出の心ばへが至極よくなるぞ。唯の人はちと金をもつとふくはんをや。ちとものを知ると、兎角出したがる。枝痒々しくてこたへられぬ。笑止なことぞ。俳諧をすると、人の何んとも云ぬ内に、当処に俳諧はやるかとうりたがる。吾が知惠をわが方へしまふてをくことはきつふ不調法。ちっと何ぞしると、もう推賣にしたがるぞ。だたい能有る鷹は爪を隠す。そこはずんど不能手。丁度子どもが隣で何ぞ貰ふと直に出してみせる。学者もそれ。人に教へたがる。其よふなことゆへ一つ生よくはならぬ。
【解説】
「博學不敎、内而不出」の説明。二十歳になれば自分に教えるものを持っているものだが、それを内に込めて出さない。普通の人は一寸知るとそれを出したがる。学者も直ぐに人に教えたがる。それでは一生よくならない。
【通釈】
「博学」。中庸の博学と同し。大学の致知格物のこと。御法差し合いを言えば、八歳は小学、十五歳は大学の條目だが、小学は大学の幹である。中庸の博学、論語の博文も皆大学の部がある。二十歳になれば自分に教えるものを持っている。曾子は二十七八歳で一貫の伝を得られた。そうして見れば、曾子の若い時が思い遣られる。そうだとしても、全く何もかも内へと決め込んで置いて出さないこと。迂斎先生が、「博学不教」は知のこと、「内而不出」は行のことだと言った。その内而不出が極めてよくなる根である。自分の身持を内へ叩き込むと、内而不出の心延えが至極よくなる。普通の人は一寸金を持つとふくはんをや。一寸ものを知ると、とかく出したがる。それは仰々しくて堪えられない。笑止なこと。俳諧をすると、人が何とも言わない内に、当処で俳諧はやるかと売りたがる。自分の知恵を自分の方へ仕舞って置くことは大層不調法で、一寸何かを知ると、もう押し売りをしたがる。そもそも能ある鷹は爪を隠すものだが、それには全く不得手。丁度、子供が隣で何かを貰うと直に出して見せる。学者もそれ。人に教えたがる。その様なことなので、一生よくはならない。
【語釈】
・中庸の博学…中庸章句20。「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也。博學之、審問之、愼思之、明辨之、篤行之」。
・論語の博文…論語雍也25。「子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫」。
・一貫傳…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。
ふくはん

廣博学問不可為師敎人。こちから師匠皃をして敎へたがることを押へたことぞ。唯其を蘊蓄せ子ばならぬ。ならぬと云こと、たとへは濁酒を作るによく出来ても、ずんどかれぬ内は外からもふよからふと云てもまだ々々と蘊蓄してをる。早く酒へ手をつけると酢くなるぞ。蘊蓄と云は吾方へつつむ。丁度平生持藥の地黃を呑で、又今日も地黃を呑たと隣へ云てはやらぬ。金持た町人りっぱはせぬ。又例の花色かと人が見覚える。いつも一つものを着て居る。其花色が金を蘊蓄するぞ。そこで大金持にもなる。今の者はちっと金をもつと大和巡りと出かける。色々につかいたがる。そこて仕出すことはない。在内而云々。となりの亭主へかふさっしゃれと気を附けたがる。そこでをんちくするゆへ、吾へをさめて云はずに、をれが役でないと云て謹む。古人爲己の学もそれなり。明德を明らかに手前をふきしまふて、それから人を新にする。今の学は耳を片々洗ふてもふ人の耳を洗ふ。手前の耳は半分垢がある。どふもそふすることではない。そこで、謀慮せずといましめたぞ。
【解説】
廣博學問不可爲師敎人。蘊蓄其德、在内而不可出言爲人謀慮」の説明。人に教えることをせず、蘊蓄しなければならない。蘊蓄し、明徳を明かにして後に人を新たにするのである。
【通釈】
「広博学問不可為師敎人」。こちらから師匠顔をして教えたがるのを抑えたこと。ただこれを蘊蓄しなければならない。ならないというのは、たとえば濁酒を作るのに、よくできていても、すっかりと熟さない内は外からもうよいだろうと言われてもまだまだと蘊蓄するということ。早く酒に手を付けると酢くなる。蘊蓄とは自分の方へ包むこと。丁度平生持薬の地黄を飲んでいる者が、また今日も地黄を飲んだと隣へ言い遣ることはない。金持ちの町人は立派をしない。また例の花色がと人が見覚える。いつも同じ物を着ている。その花色が金を蘊蓄する。そこで大金持にもなる。今の者は一寸金を持つと大和巡りへと出掛ける。色々なことに使いたがる。そこで金持にはなれない。「在内而云々」。隣の亭主にこの様にしたらよいと気を付けたがる。そこを蘊蓄し、自分に納めて言わずに、俺の役ではないと言って謹む。古人為己の学もそれ。明徳を明かにして自分を拭き仕舞って、それから人を新たにする。今の学は自分の耳の一方を洗うと、もう人の耳を洗う。自分の耳には半分垢がある。どうもそれは悪い。そこで、謀慮せずと言って戒めた。
【語釈】
・古人爲己の学…論語憲問25。「子曰、古之學者爲己。今之學者爲人」。

三十而有室。婚礼のつほそ。注文通りのことぞ。始理男事。自分一疋のこと。公役をすることを男事を理と云。博学云々。大学の格致そ。初心か小学と大学と違ふてをると思ふぞ。いつも々々々小学の業なれとも、博学て無方は大学をする。又、大学を、人が丁ど印籠の上の二重は小学、下の三四の重子は大学と思ふが、そふしたことでない。いんろうふは皆小学。其いんろうに蒔繪をするが大学じゃ。何のことはない。小学にみがきをかけるが大学じゃ。博学無方。前の博学から十年精出したゆへ無方と云て、すき次第の書をみる。臨濟録も碧嵓も法蕐経をみてもよい。そこて無方と云。
【解説】
「三十而有室、始理男事。博學無方」の説明。三十歳で結婚し、公役をする。小学に磨きをかけるのが大学であり、「博学無方」は大学のこと。二十歳からの博学によって、どの様な書を読んでも大丈夫となる。
【通釈】
「三十而有室」。婚礼の壷で、注文通りのこと。「始理男事」。自分一疋のこと。公役をすることを男事を理むと言う。「博学云々」。大学の格致である。初心な者は小学と大学とは違ったものだと思う。いつもは小学の業のことだが、「博学無方」は大学をすること。また、人は丁度印籠の上の二重は小学で、下の三四の重ねは大学だと思うが、そうしたことではない。印籠は皆小学。その印籠に蒔絵をするのが大学である。何のことはない。小学に磨きをかけるのが大学である。「博学無方」。前の博学から十年精を出したので、無方と言って好き次第の書を見る。臨済録も碧巌録も法華経を見てもよい。そこで無方と言う。

孫友云々。朋友も向をかろしめて此方を高ぶると面白からぬ。今の学者少しよけれは手前に高ぶる故、ほふ御出かと云。何にあいらがと云底意ぞ。そこで朋友の信實がない。それならば何の益なし。とかく友には孫順てなけれは益にならぬことぞ。とんと朋友には、此方の下手な講釈を直されるで此方の徳になるのぞ。人の云違ひを聞て、ばかなことと云て手前を穢されるやふに思ふがそふでない。向の云違がこちの心得になることぞ。善悪ともにこちをみがきになることぞ。されとも朋友に孫順なものはわるくするとまっくらにかたよりたがる。そふなると御くら門徒と云ふに、むせふにありがたいになる。そこて視志とあるぞ。視志。あの男はと、向の心ろいき、惣たいのふり合を見付るぞ。これではっきりと氷際がたつ。たとへは孫友は私には何んでもきらいはないと云やふなもの。なれとも鰒汁を出すと、私はふぐ汁はくはぬとえんりょえしゃくはなく云。そこで、視志ぞ。何程あの男が云てもふぐ汁は喰ぬ。
【解説】
「孫友視志。室、猶妻也」の説明。友には孫順でなければならない。朋友の諌めが自分の徳になり、朋友の間違いが自分の心得になる。しかし、無闇に孫順なのは悪い。そこで「視志」である。
【通釈】
「孫友云々」。朋友も相手を軽んじめて自分が高ぶるのは面白いことではない。今の学者は少しよければ自分のことを高ぶるので、ほう御出かと言う。それは、何、あいつらがという底意である。そこで朋友の信に実がない。それなら何の益もない。とかく友には孫順でなければ益にはならない。朋友に自分の下手な講釈を直されるので、それが自分の徳になる。人の言違いを聞いて、馬鹿なことと言って自分を穢される様に思うがそうではない。向こうの言違いがこちらの心得になる。善悪共に自分を磨くことになる。しかしながら、朋友に孫順な者は悪くすると真っ暗になって偏りたがる。そうなると御くら門徒の様に、無性に有難いと言う様になる。そこで視志とある。「視志」。あの男はと、相手の心意気、総体の振り合いを見付るのである。これではっきりと水際立つ。たとえば孫友は、私には何も嫌いなことはないと言う様なもの。しかし河豚汁を出すと、私は河豚汁は食わないと遠慮会釈なく言う。そこで、視志である。何ほどあの男が言っても、河豚汁は食わない。
【語釈】
御くら門徒

男事受田云々。古は生れながらにして貴はなし。初は皆百姓ぞ。そこで士農のわかちなく、三十の年までは皆受田、吾持まへを作りて政役をつとむる。今人心得ちがいをして、田などと云と下々のことと笑ふ。それは文盲なこと。世禄と云は先祖の大切業で、ばかでも大禄ぞ。だたい垩代には下から取り上るから、始は百姓なり。そこで政役は上への人夫を出し、年貢のこと、それが男一人の仕事なり。その人か後に上へ召出されて御役に付ぞ。伊川も政役にきうしたぞ。其政役に給した人が上へ召出される故、そこで思ひやりもあるぞ。つき山や泉水などの無益なことに民力は用ひぬ。春秋のいましめで、民力を用るの大切をしるまでもない。歴々の御役人と云が本は下にありた人なり。
【解説】
男事受田給政役也。方、猶常也」の説明。古は皆百姓から始まった。年貢は一人前の男の仕事なのである。その様な人が上に召し出されて政治をするので思い遣りもあった。そこで、築山や泉水などの無益なことには民力を用いなかった。
【通釈】
「男事受田云々」。古は生まれながらにしての貴はない。始めは皆百姓である。そこで士農の分かちはなく、三十歳で皆田を受け、自分の持前を作って政役を勤めた。今人は心得違いをして、田などと言うと下々のことだと笑うが、それは文盲なこと。世禄とは先祖の大切な業からで、馬鹿でも大禄を継ぐ。そもそも聖代は下から取り上げるのだから、始めは百姓である。そこで、政役では上に人夫を出し、年貢を納める。これが一人前の男の仕事である。その人が後に上に召し出されて御役に就く。伊川も政役に給した。その政役に給した人が上に召し出されるので、そこで思い遣りもある。築山や泉水などの無益なことに民力は用いない。春秋の戒めがあるので、民力を用いることの大切さを知るまでもない。歴々の御役人は、本は下にいた人なのである。

至此云々。あたまから無常ななとほふもないになる。そこて至此とあるぞ。一つ見処の定た上のことじゃぞ。今日の学者の体ではをざにたまられぬことそ。無常とは能くなくてはならぬことぞ。此年ではよいはづのこと。そこて仏書をよもふが軍書を讀ふが、道理の方へなでこむ。今日は学問と云ても、習のない故よめるばかり。其読めるがよめるだけわるい。丁度きれる刀をぬきみでさしているやふなもの。あぶないことぞ。朋友の志はさま々々あるぞ。とかく上への方へ目のついたがあり、学問云々と云なから、とかく金をためやふ々々々々とするがあり、敬齊箴を読てもどらものがある。そこて、視其志意所尚と云ことて向へ引込れぬ。朋友の交も、ここらが大事のあることであるぞ。
【解説】
至此學、無常。在志所好也」の説明。習いがあるから見処が定まる。そこで「無常」でもよい。また、朋友の志も色々だが、「視其志意所尚」で向こうに引き込まれることはない。
【通釈】
「至此云々」。最初から「無常」だと途方もない様になる。そこで至此とある。一つ見処の定まった上でのこと。今日の学者の体では御座に堪らないこと。無常はよくなくてはならないこと。この歳ならよい筈。そこで仏書を読もうが軍書を読もうが、道理の方へ撫で込む。今日は学問と言っても習いがないので読めるだけ。その読めるが読めるだけ悪い。丁度切れる刀を抜き身で差している様なもの。それでは危ない。朋友の志は様々にある。とかく上の方へ目の付く者があり、学問云々と言いながら、とかく金を貯めようとする者があり、敬斎箴を読んでも道楽者がある。そこで、「視其志意所尚」で向こうに引き込まれない。朋友の交わりも、ここらが大事なこと。
【語釈】
・視其志意所尚…其の志意の尚ぶ所を視る。

四十始仕。さて四十と云は大学の明徳みかきあげてをく。近思で言へは、道体為学段々家道とすんで出處と出る。四十始仕。爰を始の字で文字の強い意があるぞ。唯四十は仕ると計りなれは、丁度元日は雑煮を喰ふと云やふな文意で何のことはない。四十始てと、四十より前はつかへられぬ。四十始仕と云ことは、すわ仕るとあれば何もならるる。私は不得手で云ことはない。表は勤るが、御勝手向地方は出来ぬと云ことはない。何でもござれ々々々で、其塲々々でつとむるぞ。医者も医学が大事。それがすみきって、そこて始て療治と出るはづ。仲景や丹溪も始てと云塲がありたであらふぞ。始の字で前方の仕入がみゆるぞ。そこであぶなげがない。
【解説】
「四十始仕」の説明。四十歳で初めて仕え、それ以前は仕えない。四十歳になれば、仕えることに関しては何でもできる様になる。
【通釈】
「四十始仕」。さて四十と言えば大学の明徳を磨き上げて置いたところ。近思で言えば、道体為学から段々に家道と済んで出処と出たところ。四十始仕。ここは「始」の字に強い意がある。ただ四十は仕えるとだけであれば、丁度元日は雑煮を喰うと言う様な文意になって何のこともない。四十始めてと言うので、四十歳より前は仕えられない。四十始仕は、いざ仕えることになれば何でもできるということ。私は不得手でと言うことはない。表は勤まるが、御勝手向きや地方はできないと言うことはない。何でも来いで、その場その場で勤めることができる。医者も医学が大事。それが済み切って、そこで始めて療治と出る筈。仲景や丹溪も始めてという場があったことだろう。始の字で前々の仕入れが見える。そこで危な気ない。
【語釈】
・仲景…張仲景。河南省南陽県の人。長沙の太守を勤める。「傷寒雑病論」を著した。
・丹溪…朱丹溪。朱震亨。字は彦修、号は丹渓。義烏の人。「格致余論」を著す。1281~1358

さて、伊川の古之仕る者為人、今之仕る者為己とわる口仰せられたやふじゃが、心得へきことぞ。今の仕為己は身に着、口に喰ふ。皆己か肉身の建立。それなれば、仲間奉公も同様なこと。古へ仕へる者は人の爲とは、まづ孔明でもみよ。劉備のあつく用らるる故、御意も重もい。いざ参らふと云て孔明がずっと出た処で天下をどふがへしにする大業もなった。孔明などは手前がってなことはない。人の為ぞ。孔明の庫になんにもない。只天下を治る計りのこと。昔の奉公はこんなことじゃ。爲人と云は、向の方をうけとるが奉公する本意。手前の身を歴々にせふと云の奉公ならよすがよい。あぶなげなく鍬鎌とるがよい筈。とんと始て仕ふと云ことがのこう仕込のあることぞ。
【解説】
今の者は自分のために仕えると伊川は言った。それは自分の肉身の建立のこと。古は人のために仕えた。それは孔明を見ればわかる。歴々になろうとして仕えるのは悪い。

【通釈】
さて、伊川が「古之仕者為人、今之仕者為己」と言った。悪口を仰せられた様だが、心得るべきこと。今の仕為己は身に着け、口で喰うことで、皆己の肉身の建立である。それでは中間奉公も同じこと。古に仕える者は人の為とは、先ず孔明を見なさい。劉備が厚く用いられたので、御意も重い。いざ参ろうと言って孔明がずっと出た処で天下を胴返しにする大業も成った。孔明などに自分勝手なことはない。人の為だからである。孔明の庫には何もない。ただ天下を治めるだけのこと。昔の奉公はこんなこと。為人とは、向こうの方を受け取るのが奉公する本意だからである。自分の身を歴々にしようと思っての奉公であれば止しなさい。危な気なく鍬鎌を取るのがよい筈。始めて仕えるということには大層仕込みのあること。
【語釈】
古之仕る者為人、今之仕る者為己…論政。「子曰、古之仕者爲人,今之仕者爲己」。

方物云々。此前の二十の処と三十の処、博く学ぶと云ことを業へ出すぞ。これが小学を読のみどりぞ。さて奉公してからは、はっきりとわけること。ぐにゃ々々々にして、同役の方へ向て左様々々と云てはやくたいないぞ。づんと向の物次第に了簡を切り出すぞ。道合則云々。醫も的中すれは藥をもる。そふないと、ことはりを云。奉公人、それなり。上の思召に叶は子ば、路銀ももたずともずっと去る。垩人も冠をぬかずして去る。あとさきは見ぬ。陳に在してかてをたつ。大きにひだるいめをする。出処進退の大事がこれらでまづきめることなり。今のは去ると云ても計較安排して荷ごしらへ、南京の皿は勿論、せき臺のそてつまで持てゆく。出処と云は不可則去ると云ことぞ。こふしたことを知らぬから、奉公も面白いもののやふに思ふぞ。中々そんなことではない。おちつくことはとんとない。又、去ふと云てもさらせぬになれば、そこで又首が落ることもあり、それまでが出処のもちまへぞ。仕君委其身と云から今日萬鐘明日飢餓。あぶないことなれとも、仕へざれば義なしで仕をするが、仕るからは毎日死ぬ覚悟でつとむるぞ。淳于髠や東方朔はあたまからをどけ交りで勤るのぞ。親の敵を打にをどけ交りであるまい。君は一入のこと。出処の道しらず奉公するは、ひっきょう君をもてあそぶになる。皆出処の道を知らぬのなり。
【解説】
「方物出謀發慮。道合則服從、不可則去」の説明。博学を業に出す。相手次第で自分の了簡を出すのである。そこで言が入れられなければ直ぐに去る。仕えるということには、落ち着くことなど全くない。首を落とされることまでが出処である。出処の道を知らずに奉公をするのは、君を弄ぶのと同じ。
【通釈】
「方物云々」。この前の二十歳の処と三十歳の処にあった博く学ぶということを業へ出す。これが小学を読む見取りである。さて奉公してからは、はっきりと分ける。ぐにゃぐにゃになって、同役の方へ向かって左様左様と言うのでは益体無い。しっかりと向こうの物次第に了簡を切り出す。「道合則云々」。医も的中すれば薬を盛る。そうでなければ断る。奉公人がそれ。上の思し召しに叶わなければ、路銀も持たずにずっと去る。聖人も冠を脱がずに去る。後先は見ない。陣にあって糧を断つ。大層空腹な目に合う。出処進退の大事はこれらで先ず決めること。今の者は去ると言っても計較安排して荷拵え、南京の皿は勿論、石台の蘇鉄まで持って行く。出処とは「不可則去」ということ。こうしたことを知らないから、奉公も面白いものの様に思う。中々そんなことではない。落ち着くことは全くない。また、去ろうと言っても去ることを許されなければ、そこでまた首が落ちることもあり、それまでが出処の持前である。「仕君委其身」から「今日万鐘明日飢餓」まで、危ないことだが、仕えなければ義なしなので仕える。仕えるからは毎日死ぬ覚悟で勤めるのである。淳于髠や東方朔は最初から戯け交わりで勤めた。親の敵を討つのに戯け交わりはないだろう。君では一入のこと。出処の道を知らずに奉公をするのは、畢竟君を弄ぶことになる。皆出処の道を知らないのである。
【語釈】
・仕君委其身…論語学而7。「子夏曰、賢賢易色、事父母、能竭其力、事君、能致其身。與朋友交、言而有信。雖曰未學、吾必謂之學矣」。
・今日萬鐘明日飢餓…近思録出処39。「天下事、大患只是畏人非笑。不養車馬、食麄衣惡、居貧賤、皆恐人非笑。不知當生則生、當死則死、今日萬鐘、明日棄之、今日富貴、明日飢餓、亦不卹、惟義所在」。
・仕へざれば義なし…論語微子7。「子路曰、不仕無義。長幼之節、不可廢也。君臣之義、如之何其廢之。欲潔其身、而亂大倫。君子之仕也、行其義也。道之不行、已知之矣」。
・淳于髠…斉国の弁士。孟子の門人。
・東方朔…前漢の学者。字は曼倩。山東平原の人。武帝に仕え、金馬門侍中となる。ひろく諸子百家の語に通じ、奇行が多かった。伝説では方士として知られ、西王母の桃を盗食して死ぬことを得ず、長寿をほしいままにしたと伝える。前154頃~前93頃

物猶事也。物と云ては道具のやふじゃから、事々の上につけて見る注なり。方物云々。やはり大学の格物。垩賢の敎はものをはなれぬ。物の理は心と一つぞ。なれとも心計りで物からきめぬと向へ行てどふもならぬ。藥も本草にあるものは皆藥なり。なれとも藥と云てもめったにのまれぬ。是にはこれと云。能と云ことでなくては毒になる。とかく格物の字がはなれぬが圣学ぞ。謀と慮とつつく。一つことになる。訳け云ときは、かやふ々々々こふするがよいとは謀なり。なれとも、かふしたときさしつかへがあると、あとまてへかけるがこの慮の字なり。医がこの病人は此方でと云は謀なり。されとも、これでは食がすすみか子やふとかんを付るが慮なり。先年の録に、方物とは格物と同。向のものをならべてする。手前のことをするは空。上總の了簡では、江戸ではすまぬ。下戸に酒をしいるになる。政ことをするには人情をしら子ばならぬ。子ぶとの膏藥、先きしだいに切る。小学は小ともの敎なれとも、ここがすぐに大学じゃ。
【解説】
物、猶事也。方物出謀、則謀不過物。方物發慮、則慮不過物」の説明。聖賢の教えは物を離れない。物の理は心と一つだが、心だけでは捌けないから格物をする。ここは大学である。
【通釈】
「物猶事也」。物と言うと道具の様だから、事々の上に付けて見るという注である。「方物云々」。やはり大学の格物のことで、聖賢の教えは物を離れない。物の理は心と一つである。しかし、心ばかりで物から決めないと、向こうへ行ってどうにもならない。本草にあるものは皆薬だが、薬と言っても滅多矢鱈に飲むことはできない。これにはこれと言う。効能を知らなければ毒になる。とかく格物の字が離れないのが聖学である。「謀」と「慮」と続き、一つになる。わけを言う時は、この様にするのがよいというのは謀である。しかし、こうした時に差支えがあると、後にまで掛けるのがこの慮の字である。医者がこの病人はこの方法でと言うのは謀である。しかし、これでは食が進みかねるだろうと勘を付けるのが慮である。先年の録に、方物は格物と同じで、向もうのものを並べてすること。自分のことをするのは空だとある。上総の了簡では、江戸では済まない。下戸に酒を強いることになる。政をするには人情を知らなければならない。根太の膏薬は先方次第に切る。小学は子供の教えだが、ここが直に大学である。
【語釈】
・子ぶと…根太。癰の一種。

五十命云々。四十から五十までのさかいはない。それゆへ四十始仕を右の通りにぎゃうさんに云たもの。伊尹・太公望のやふにならずとも、奉公するからは馬まはり心得た、用心心得た、何であらふと奉公向は四十始仕るとき、ござれ々々々と呑込ぞ。其四十から上達して学問があがったではないが、四十から十年つとめたゆへ大夫になることぞ。大夫は重いこと。なぜなれば、事をとるぞ。大きく云へは、天下なれは御老中、大名なれば家老なり。それは一國一天下の政を執るなり。そふなくとも重い役人と云は一官の政をとるぞ。そこで今日も御役人附けに、役人は軽い役までのってある。身分重くても御番衆はのらぬことぞ。御番と云へは其詰め処につめて居るぎり。大夫は自分かるくても政事をとってするぞ。そこで大夫には段々挌あることなり。服官政。奉行で、皆手前のかかりになって人の上のこともさばくことぞ。奉公と云名目がきこへたことぞ。上の思召をうけほふずると云こと。大夫は君のことを受取てするぞ。役人の言付はやっぱり君の仰付るのじゃ。そこで重いぞ。
【解説】
「五十命爲大夫、服官政」の説明。仕え始めて十年を過ぎると大夫にもなる。大夫は身分は低くても、君に従って政事を執る。
【通釈】
「五十命云々」。四十歳から五十歳までに境はない。それで「四十始仕」を右の通りに仰山に言ったのである。伊尹・太公望の様にはならなくても、奉公するからは、馬回りは心得た、用心は心得た、何であろうと奉公向きは四十始仕の時に来い来いと飲み込む。その四十から上達して学問が上がったからではないが、四十から十年勤めたので大夫になる。大夫は重いこと。それは何故かと言うと、事を執るからである。大きく言えば、天下であれは御老中、大名であれば家老である。それは一国一天下の政を執る者。そうでなくても重い役人は一官の政を執る。そこで今日も御役人付けには軽い役まで載っている。しかし、身分が重くても御番衆は載らない。御番と言えばその詰所に詰めているだけ。大夫は身分は軽くても政事を執ってする。そこで大夫には段々の格がある。「服官政」。奉行で、皆自分の受け持ちになり、人の上のことも裁く。奉公という名目がよくわかる。それは、上の思し召しを受け奉ずるということ。大夫は君のことを受け取ってする。役人の言付けはやはり君が仰付るのである。そこで重い。

統一官之政也。統。頭になってすること。統と云は重いこと。田舎などてもしらふことぞ。されば名主は一村を統るぞ。それに何にとも思はぬ。これらは心付くべきこと。名主は身分は下い。なれとも人へ及ぶ処は重い。一村のことを統るぞ。名主の役がうはのそらでつとまらふ筈はない。医者などが病人をうけとりて苦にする。大病人をうけとりてかへりて居る。そこへ夜中門をたたかれると胸へひいやりとひびく。名主も人をあづかりてをれは、人の家て高声しても何んじゃとあんずる筈なり。只をれは知惠があるからと思て鼻さき思案でやってのける。さて々々笑止千万のこと。気をつけべきの第一なり。
【解説】
統一官之政也」の説明。「統」は田舎で言えば名主である。名主は身分は低いが村を統る。その任は重い。
【通釈】
「統一官之政也」。「統」。頭になってすること。統は重いこと。田舎などても知ることができる。名主は一村を統ぶる。それを何とも思わない。これらは心付けるべきこと。名主は身分が低い。しかし、人へ及ぶ処は重く、一村のことを統ぶる。名主の役が上の空で勤まる筈はない。医者などは病人を受け取って苦にする。大病人を受け取って帰っている。そこへ夜中門を叩かれると胸にひゃっと響く。名主も人を預かっているのだから、人家で高声がしても何だと案ずる筈。ただ俺は知恵があるからと思って鼻先思案でやってのけるのは、実に笑止千万である。気を付けるべきことの第一である。

七十致事。ここで引込まず勤むるは天地の化を知らぬと云もの。丈夫なものは七十でもつとめられるが、七十で引込が定木。そこでひきこまぬは天地の化をしらぬぞ。七十は人の冬なり。冬はひきこむが天の時に順ふのじゃ。七十でも勢力たしかなものは勤まる。なれとも爰は天地の形りなり。天命より至敎、我得て加損することなしと明道の言はれた。七十て引込か自然ぞ。自然なことは十月になれは爐をあける。障子をはり、北まどをふさぐ。そふかと思へは、はや春になる、鴬かなくやら櫻か咲やらする。はや火燵を出る。紙子羽織をぬく。其時々それなり々々々々に皆作意はないぞ。其自然を押して七十でも勤ると亢龍有悔になるぞ。七十致事は注文通りにひきこむことぞ。
【解説】
「七十致事」の説明。七十歳は人の冬であり、冬は引き込むのが天の時に合ったこと。ここで引き込まないのは天地の化を知らない者である。それでは後悔することになる。
【通釈】
「七十致事」。ここで引き込まずに勤めるのは天地の化を知らないというもの。丈夫な者は七十でも勤められるが、七十で引き込むのが定めである。そこで引き込まないのは天地の化を知らないのである。七十は人の冬。冬は引き込むのが天の時に順うこと。七十でも勢力の確かな者は勤まるが、ここは天地の通りにする。「自天命至教、我無加損焉」と明道が言われた。七十で引き込むのが自然である。自然なことは十月になれは爐を開け、障子を張り、北窓を塞ぐ。そうかと思えば、はや春になると鴬が鳴くやら桜が咲くやらする。はや炬燵を出る。紙子羽織を脱ぐ。その時々それなりで皆作意はない。その自然を押して七十でも勤めると「亢龍有悔」になる。七十致事は注文通りに引き込むこと。
【語釈】
・天命より至敎、我得て加損することなし…近思録道体21。「自天命以至於敎、我無加損焉」。
・亢龍有悔…易経の語。勢位を極めて驕り亢[たか]ぶれば、却って悔を残すの意。

致其事於君。御役を上へかえすこと。其老人が国へ引込で其村の若いものを敎ることゆへ、そこで人々がよくなるぞ。それゆへ此屋可封で、其師はと云へは、どこにもかしこにも御老中家老にもなる老人ありて、其老人が村々を敎ゆるから、詩にも起々武夫、公矦の干城などとある。兔をう男にも大名の家老にしてもよいと云たぞ。垩人の世はさても々々々なり。
【解説】
致其事於君而告老」の説明。致事した人が国に帰って若い人を教えるので人々がよくなる。
【通釈】
「致其事於君」。御役を上に返すこと。その老人が国に引き込んでその村の若い者を教えるので人々がよくなる。そこで「比屋而封」である。その師はと言えば、どこにもかしこにも御老中や家老にもなる老人がいて、その老人が村々を教える。詩にも「赳赳武夫、公侯干城」などとある。兔を追う男にも大名の家老にしてもよい人がいた。聖人の世は素晴らしかった。
【語釈】
・此屋可封…文選。「尚書大傳曰、周民可比屋而封」。
・起々武夫、公矦の干城…詩経国風周南兔罝。「肅肅兔罝、椓之丁丁。赳赳武夫、公侯干城」。

さて、十年外傅につくから七十致事と書た。人間一生のこることはない。小学は垩人かたぢのぬりが出来ること。この上の蒔繪は大学じゃ。大宰が斥非に、小学と云に七十致事とある。七十になる小僧があるものかと云意にそしりたぞ。今徂莱学何にもしらずに程朱をめぐ口ちばかり知てそしりたがる。をかしいことぞ。大宰もこれほどのことを知るまいやふはないなれとも、小学をたたきたをしたがるために云ぞ。それも幼学のものをばかすのじゃ。とんと若い学者が朱子学がよかろふか、古文字の学がよからふかと迷ふてをるを、あの小学をみよ、小子の学と云ながら、七十までのことを云て訳は立ぬ。これでも朱子学のたわいないを知れと云へは、初心なものはいかさまと思ふぞ。異学の徒は門戸を立てるからわる心あるぞ。斥非なども一々本心からは云ぬ。某などは大宰よりまだいちわるゆへ、そこで先輩よりは彼の学の心根をさくるぞ。七十致叓までのなりをみせて、大学では上はみがきぞ。朱子の深い思召のあることぞ。
【解説】
小学は七十致事までの姿を見せ、大学はその上磨きをするもの。
【通釈】
さて、十年外傅に就くことから七十致事までを書いた。人間の一生に余すことはない。小学は聖人の形の塗りができること。この上の蒔絵は大学である。太宰が斥非に、小学なのに七十致事とある。七十になる小僧があるものかという意で誹った。今、徂徠学は何も知らずに程朱を倒すための言葉ばかりを知って誹りたがる。それは可笑しいこと。太宰もこれほどのことを知らない筈はないが、小学を叩き潰したくて言う。それは幼学の者を化かすもの。若い学者が朱子学がよいだろうか、古文辞の学がよいだろうかと迷っているところを、あの小学を見なさい、小子の学と言いながら、七十までのことを言うのではわけが立たない。これでも朱子学の他愛ないことが知れると言えば、初心な者はいかにもその通りだと思う。異学の徒は門戸を立てるから悪心がある。斥非なども一々本心からは言わない。私などは太宰よりも意地悪なので、そこで先輩よりは彼の学の心根を探る。小学では七十致事までの姿を見せ、大学ではその上磨きをする。これが朱子の深い思し召しである。

女子。古代は男女ともに敎がありたぞ。男女とかはりても同じ子ぞ。ぶんに男計り大事にして、女子はどふならともよいと云親心はない。女の敎かなくてならぬもの。敎のないので女の国天下を乱したことが多いぞ。先つ妲喜妹妃を始として漢の呂后でみよ。こなみぢんにした。唐の即天どふもならぬことになりた。女の敎と云ことが大切にあづかることぞ。男の敎が立ても、女からみなになる。そこを温公で女の敎のことを補ふた。
【解説】
「女子」の説明。女にも教えがなければならない。女が天下を乱したことが多いが、それは教えがなかったためである。男の教えが立っても、女から台無しになる。
【通釈】
「女子」。古代は男女共に教えがあった。男女と違っていても同じ子である。特に男ばかりを大事にして、女子はどうなってもよいという親心はない。女の教えがなくてならない。教えがないので女がの国天下を乱したことが多い。先ず妲己や妹妃を始めとして漢の呂后で見なさい。粉微塵にした。唐の則天武后はどうにもならないことになった。女の教えが大切に与ること。男の教えが立っても、女から台無しになる。そこを温公で女の教えのことを補った。
【語釈】
・妲喜…妲己。殷の紂王が有蘇氏を討って得た寵妃。
・妹妃…妹喜。夏の桀王が有施氏を討って得た寵妃。
・呂后…漢の高祖劉邦の皇后。

温公曰、女子六歳云々。女工之小者とは、小なるものからぬい習ふ。小袋やふくさの類をぬいやふを敎ゆる。七歳から孝經論語をよませる。九歳云々。講釈してきかせるぞ。女の子と云ものは母親のそばでしとやかに聞て覚ゆるものぞ。女誡。班固か妹のこしらえたもの。圖史。温公の本書には国史と書てある。爰の圖史がよいであらふぞ。圖史であれは繪入の本。圖があると、子とものには格別うつりてよい。列女傳も繪がある。繪があると圖史と云。如曹大家之徒。すぐに班固か妹。前漢書の手傳をさへした。先年の録に、圖史は繪本ん。直方先生、彦八どのに繪本故事談を見せられた。繪と云がしゅこふあることじゃぞ。先年の録に、論義明正なり。よい女もあれとも、明正がない。
【解説】
温公曰、女子六歳始習女工之小者。七歳誦孝經・論語、九歳講解孝經・論語及列女傳・女誡之類、略曉大意。註曰、古之賢女無不觀圖史以自鑑。如曹大家之徒、皆精通經術論議明正」の説明。六歳から縫物を習い、七歳で孝経や論語を読ませ、九歳で講釈を聴かせる。書は図史が子供にはわかり易くてよい。
【通釈】
「温公曰、女子六歳云々」。「女工之小者」は、小さなものから縫い習うこと。小袋や袱紗の類の縫い方を教える。七歳から孝経や論語を読ませる。「九歳云々」。講釈をして聴かせる。女の子というものは母親の側で淑やかに聞いて覚えるもの。「女誡」。これは班固の妹の拵えたもの。「図史」。温公の本書には国史と書いてある。しかし、ここの図史というのがよいこと。図史であれは絵入りの本。図があると子供には格別に移りがよい。列女伝にも絵がある。絵があるのを図史と言う。「如曹大家之徒」。直に班固の妹のことで、前漢書の手伝いまでをした。先年の録に、図史は絵本で、直方先生が彦八殿に絵本故事談を見せられたとある。絵というのが趣向のあること。「論義明正」。よい女もいるが、明正がない。
【語釈】
・彦八…佐藤就正。号は謙齋。佐藤直方の子。延享4年(1747)2月22日没。年39。迂齋にも学ぶ。

今人或云々。あの時分に哥や詩を作らせたがよくない。詩哥は情に流るるものぞ。大和小学に、世の人のたわむれゆいてかへることを知らざるは、源氏伊勢物語あればにやとあるは、業平などぞんとふとく思ふが、哥のついえからぞ。或公家衆の、土岐丹後殿の諸司代のとき、今業平があらばにやとの玉へは、丹後殿の答へゆ。今業平があると関東へ申越て其分にしてはをかれぬと云れた。さて歴々の御姫さまと云れても、女誡などはみせぬぞ。只唄や淨瑠離なぞてなさけなくもわるくする。えて側の女中などが御氣がつまりてと一寸一味の甘味。そこで得手に帆でわきひら見ずにわるくなる。奥家老に四角ながありても、あれをやめると煩ふと奥方が笠をきせる。いや、わずらふてもよいと云ことは奥家老も云れぬ筈ぞ。そこで益々募るぞ。温公は死生有命を知ったゆへ、三味線をいっかなひかせぬ。偖てその気さんじなと云を引と、かへっていやな病いのもの思ひ、労症が出るぞ。其筈ぞ。いろ々々の好色をたきつけて、さてそれが思ふままになら子は病になるぞ。あの木曽の山奥で三味線はないなれとも、労証労咳はとんとないことぞ。
【解説】
今人或敎女子以作歌詩執俗樂。殊非所宜也」の説明。温公の時分には女子に歌や詩を作らせていたが、それはよくないことだと温公が言った。詩歌は情に流れるものなので、子供を悪くする。これを奥方や側女中などが勧めるので、奥家老でもそれを抑えることは難しい。
【通釈】
「今人或云々」。あの時分に歌や詩を作らせたのがよくない。詩歌は情に流れるもの。大和小学に、世の人の戯れ言いて帰ることを知らざるは、源氏伊勢物語あればにやとあるのは、業平などを大層よく思うからで、それは歌の費えからのこと。或る公家衆が、土岐丹後殿が諸司代の時、今業平があればにやとのたまうと、丹後殿が、今業平がいれば関東へ申し越してそのままにしては置けないと答えた。さて歴々の御姫様と言われる人にも、女誡などは見せない。ただ唄や浄瑠璃などで、情けないことに悪くする。よく側の女中などが御気が詰まってと言って一寸一味の甘味を出す。そこで得手に帆を揚げて脇目も振らず悪くなる。奥家老にしっかりとした人がいても、あれを止めると煩うと奥方が笠を着せる。いや、煩ってもよいとは奥家老も言えない筈。そこで益々募る。温公は「死生有命」を知った人なので、三味線などは絶対に弾かせない。さてその気散じなものを弾くと、却って嫌な病の物思い、労症が出る。その筈で、色々な好色を焚き付けて、さてそれが思うままにならなければ病になるもの。あの木曾の山奥には三味線はないから、労症労咳も全くない。
【語釈】
・土岐丹後殿…土岐頼稔。上野沼田城主。丹後守と称す。延享1年(1744)9月12日没。年50。
・死生有命…論語顔淵5。「死生有命。富貴在天」。

先夫人。二程の御袋さまのじゃ。此女中、圣賢と云てもよい人ぞ。誦古詩。古詩をよまれてじきにのみこんで、夜は出ぬこととあるとあると、その通りに固くつつしむ。房閣。奥方のこさる処の門ぞ。文章筆札。文章は日本の源氏・伊勢・枕草子の類なり。筆札。今のふみのちらしがきのやふ。唯はなやかと云計りじゃ。全体がこれみよかしの自慢がをもて書ぞ。其やふなことをきらふことぞ。鄭・衛は、高山もなく平らかな国。川など計りで平地ゆへ、人がやはらかで心もだじゃく。そこで切たりはったりより好色のことが多い。其国の詩が鄭衛の音なり。淫乱の哥の株なり。導淫。人に色情あるは天然自然。淫は寸法はづれのこと。たとへは好色と云は蠟燭のやふなもの。淫はらふそくの流れのやふなもの。導。なりかかってをる処へ誘ひにくるやふなもの。
【解説】
伊川程先生曰、先夫人侯氏七八歳時誦古詩。曰、女子不夜出。夜出秉明燭。自是日暮則不復出房閤。既長好文而不爲詞章。見世之婦女以文章筆札傅於人者、則深以爲非。安定胡先生曰、鄭衛之音導淫。以敎女子。非所宜也」の説明。程子の母は七八歳にして古詩を誦み、その通りにした。長じては文を好んだが文章筆札はしなかった。胡安定は、鄭衛の音は淫乱なので女子に悪いと言った。
【通釈】
「先夫人」。二程の御袋様のことで、この女中は聖賢と言ってもよい人である。「誦古詩」。古詩を誦まれて直ぐにそれを飲み込んで、夜は出ないこととあるから、その通りに固く慎む。「房閤」。奥方のおられる処の門のこと。「文章筆札」。「文章」は、日本の源氏・伊勢・枕草子の類である。「筆札」は、今の文の散らし書きの様なもので、ただ華やかなだけ。全体がこれ見よがしの自慢顔で書く。その様なことを嫌うのである。鄭・衛は、高山もなく平らかな国。川などばかりで平地なので、人が柔らかで心も惰弱。そこで切った張ったするより好色のことが多い。その国の詩が鄭衛の音であり、淫乱の歌の株である。「導淫」。人に色情のあるのは天然自然。「淫」は寸法外れなこと。たとえば好色というのは蝋燭の様なもので、淫は蝋燭の流れの様なもの。「導」。なりかけている処へ誘いに来る様なもの。

鄭衛の音は後世の淫乱の哥の惣名になる。今云ぶんごぶしなとと云がます々々淫乱の導なり。導とは、そちへつれてゆけと云はずについて行く。大名の家中多くは三味線は法度なり。但し、軽いものともが三味線を習はせて奉公させると云立にして、三味線をひくもあるぞ。此云立が合点ゆかぬ。奉公をして喰ふためなら是非もないが、其れを抱へる主が言ひ訳立ぬ筈ぞ。女の子には三味線をきくことさへいましむるのに、それに三味線ひかせるはとふしたことぞ。淫を導くと云にかまはぬなれは、小兒を泥のやふに醉た人にたのみ、手を引かせるやふなもの。天地の内もかよふに吟味すると、皆御座にたされぬこと多いぞ。
【解説】
大名の家中の多くは三味線は法度だが、軽い者では三味線を習わせて奉公させるということがある。それでは抱える主人に言い訳が立たない。
【通釈】
鄭衛の音は後世の淫乱の歌の総名になった。今言う豊後節などが益々淫乱の導である。「導」とは、そちらへ連れて行けと言わずに付いて行くこと。大名の家中の多くは三味線は法度である。但し、軽い者共が三味線を習わせて奉公させると言い立て、三味線を弾くこともある。この言い立てには合点が行かない。奉公をして食うためなら是非もないが、それを抱える主に言い訳が立たない筈。女の子には三味線を聞くことさえ戒めるのに、それに三味線を弾かせるのはどうしたことか。淫を導くということに構わないのであれば、小児を泥の様に酔った人に頼み、手を引かせる様なもの。天地の内もこの様に吟味すると、御座に出せないことが多い。

直方先生をありどふしの明神と云た。ひどく咎むるから云たなり。女の子と云ものは内にいるものゆへ、どふやら風切り羽を切たやふに娘の子をば親があんどする。その娘がもへ出すと彼の即天后皇。三味線のしこみではえんせふをつつむやふに、いつもへ出さふやら知れぬ。とかく今はわるいことをば見ぬふりにする。それがとんとわるい。子とものときからちっとも氣つかいないやふに仕こむはつ。衣装大事なことも、そこで土藏に鼠が一つ疋はいっても、とふがらしでゆぶす。微をふさぎ、漸をふたぐはそこ。小学の講釈もこのやふに吟味せ子ば唯の礼文で、死だ蛇をつこふじゃ。今日にしっかと役にたつやふに講釈すればいきてくる。
【解説】
直方先生は酷く咎めるので蟻通の明神と言われた。とかく悪いことを見ないふりをするのが悪い。
【通釈】
直方先生を蟻通の明神と言った。酷く咎めるから言ったのである。女の子は内にいるものなので、娘子が風切り羽を切った様にしていれば親は安堵する。しかし、その娘が燃え出すと彼の則天武后である。三味線の仕込みをするのは炎上するのを包む様なことで、いつ燃え出すやら知れない。とかく今は悪いことを見ないふりをする。それが実に悪い。子供の時から少しも気遣いのない様に仕込む筈。衣装という大事なことも、土蔵に鼠が一匹入っただけで、唐辛子で燻る。「防微杜漸」とはそのこと。小学の講釈もこの様に吟味しなければただの礼文であって、死んだ蛇を使うのと同じ。今日にしっかりと役に立つ様に講釈すれば生きて来る。
【語釈】
・死だ蛇をつこふ…朱子語類89。礼六。「伯量問、殯禮可行否。曰、此不用問人、當自觀其宜。今以不漆不灰之棺、而欲以磚土圍之、此可不可耶。必不可矣。數日見公説喪禮太繁絮、禮不如此看、説得人都心悶。須討箇活物事弄、如弄活蛇相似、方好。公今只是弄得一條死蛇、不濟事」。

十年不出。さて々々こなたの娘子を私も十年つとむるが、ついに皃を見たことがないと飯たきのをやぢの云た。それはよい家風なり。そふした畠から賢女か出来るぞ。それが本の恒に内ちにいるのなり。姆、子の師たらしむもやはり女中なり。これは女中の師匠そ。婉娩。これは形しなやかなこと。聽従。心のすなをなこと。聽従は心のこと。えんばんは外向き。婉娩聽、つめて云へは女らしいことを云ぞ。女は糸を鞶にするか婉娩聽従になるのしごとぞ。柔か女らしくするの敎ぞ。
【解説】
「十年不出。恒居内也。姆敎婉娩聽從」の説明。十年顔を出さないのがよい家風である。「婉娩」は外向きのことで、「聴従」は心のこと。詰めて言うと女らしいということ。「女鞶絲」がそのための仕事である。
【通釈】
「十年不出」。私も十年勤めているが、貴方の娘子の顔をついに見たことがないと、飯炊き親父が言った。それはよい家風である。そうした畠から賢女ができる。それが本当の「恒居内」ということ。「姆」。子の師となるのもやはり女中である。これは女中の師匠である。「婉娩」。これは形のしなやかなこと。「聴従」。心の素直なこと。聴従は心のことで、婉娩は外向きのこと。婉娩聴従は、詰めて言えば女らしいこと。女は糸を鞶にするのが婉娩聴従になるための仕事である。柔らかで女らしくする教えである。

姆、女の師也。徳のある女五十でやもめになったを奥方の師にする。言語容貌どちらもしなやか、むすめらしい娘姿のこと。柔順貌。我方に物ない。和らかで向ふなりにはい々々と云を云。女は婉娩聽従、この四字で一生すむ。某か先年も趣向ありて云たが、婉娩聽従が烈女と云つよいになる。婉娩聽従柔順の徳の外に烈女はない。烈と云は、彼の令女鼻をそいだ、その強い烈女は分んのものでは出来ぬ。親に順い夫に隨ふの柔順の徳が金鉄になった。そこで再嫁すまいかとせめても、いっかなことひっくりかへしても動かぬ。此貞烈と云門は、公平も朝比奈もえやぶることはならぬ。今日わるい女はこのうらなり。常は男まさりにつよく、亭主の云こともきかず男立をする。いこふつよいていなり。さて夫死だ後はいこふ柔順になりて、人がなんと再嫁すまいかと相談をかけるとぐにゃ々々々になって、女のことでござれはとかく親類衆の御詞ばにはもれられますまいと、いこう柔順に出る。はや紅買にやる。あじな柔順じゃ。彼の本のは、始ははい々々と云て聽従なれとも、さあ変なとき、柔順が強く成って人の云ことをきかぬ。今のはさかさま。だたい易の坤の卦に牝馬とかけた。女馬はやはらかで、さあと云へばつよい。その柔順和らかなが強いになりては奪ふことはならぬ。王蠋が、忠臣二君につかへず、貞女は不更二夫と云たも、此二夫にふれずの強みは婉娩聽従から出て強くなる。ぶんにつよいことはない。婉娩聽従の妙処じゃ。小学もよく合点して云と、天地の理がをどりを踊るやふに生きて見へる。
【解説】
姆、女師也。婉謂言語。娩謂容貌。温公曰、柔順貌」の説明。徳のある五十歳で寡になった人を奥方の師とする。「言語容貌」はしなやかで娘らしい姿。「柔順」は自分に一物なく、相手に順うこと。婉娩聴従によって烈女という強い人になる。今はその逆で、いつもは男勝りだが、夫が死ぬと柔順になる。
【通釈】
「姆、女師也」。徳のある女や五十で寡になった者を奥方の師にする。言語容貌共にしなやかとは、娘らしい姿のこと。「柔順貌」。自分に一物もない。和らかで相手の通りにはいはいと言うこと。女は婉娩聴従、この四字で一生済む。私が先年も趣向あって言ったことだが、婉娩聴従が烈女という強い人になる。婉娩聴従柔順の徳の外に烈女はない。烈とは、彼の令女が鼻を削いだ様なことで、その様な強い烈女には普通の者ではなることはできない。親に順い夫に随うという柔順の徳が金鉄になる。そこで再嫁しないかと責めても、いかに引っくり返しても動かない。この貞烈という門は、公平も朝比奈も破ることはできない。今日の悪い女はこの逆である。いつもは男勝りに強く、亭主の言うことも聞かずに男立をする。大層強い体である。さて夫の死んだ後は大層柔順になって、人が再嫁しないかと相談を掛けるとぐにゃぐにゃになり、女のことですのでとかく親類衆の御詞に外れることはできませんと、実に柔順に出る。早くも紅を買に遣る。それは悪い柔順である。本当の柔順は、始めははいはいと言って聴従だが、さあ変事となれば、柔順が強くなって人の言うことを聞かない。今のは逆様。そもそも易の坤の卦に牝馬と繋けてある。女馬は柔らかで、さあという時は強い。その柔順和らかなものが強くなっては奪うことはできない。王蠋が、「忠臣不事二君、列女不更二夫」と言ったのも、この「不更二夫」の強みは婉娩聴従から出て強くなったのである。別に強いということではない。それは婉娩聴従の妙処である。小学もよく合点して言えば、天地の理が踊りを踊る様に生きて見える。
【語釈】
・令女鼻をそいだ…小学外篇善行29。「令女於是竊入寢室、以刀斷鼻、蒙被而臥」。
・公平…金平浄瑠璃の主人公の名。坂田金時の子。剛勇無双。
・朝比奈…朝比奈義秀。和田義盛の子。母は巴御前。三郎と称。大力無双。
・易の坤の卦に牝馬とかけた…易経坤卦。「坤、元亨。利牝馬之貞」。
・忠臣二君につかへず、貞女は不更二夫…明倫59。「王蠋曰、忠臣不事二君、列女不更二夫」。

執麻枲。姿言語は婉娩聽従。それにすることはと云へは、あさからむしをうんだりつむいだり。似合ふた女仕業ぞ。執り治りの二字も気をつくれば、執は手間ひまいらずじきにとるの、手綱をとるの執なり。麻枲はじきに執ってしごとになる。手間ひまいらぬことぞ。さて治絲繭と書たは蚕から。きつう女の手がいる。繭になっても、煮たりくったり手間をとりてやふ々々糸になる。そこで治ると云字。治国の治なり。国を治るはほ子をれて治るぞ。又、病を療治と云も医がいろ々々手間をとるのぞ。學女事。縫物や食物こしらへることを習てすること。
【解説】
「執麻枲、治絲繭、織紝・組・紃、學女事以共衣服」の説明。「執」は手間隙の掛からないことで、「治」は手間隙の掛かること。
【通釈】
「執麻枲」。姿言語は婉娩聴従。それで何をするかと言えば、麻枲を編んだり紡いだり。それが似合った女の仕業である。執治の二字も気を付ければ、執は手間隙要らず直に執ることで、手綱を執るの執である。麻枲は直に執って仕事になる。手間隙の要らないこと。さて「治絲繭」と書いたのは蚕からのもの。大層女の手が要る。繭になっても、煮たり繰ったり手間が掛かって漸く糸になる。そこで治という字を使う。治国の治である。国を治めるのは骨を折って治めるもの。また、病を療治と言うのも医が色々と手間を取るもの。「学女事」。縫物や食物を拵えることを習ってする。

○繒、黒きぬ。帛、白きぬと云こと。組紃。うすもの、さなだ。紃はひぼのたぐひ。蚕桑云々。織たりさいたり、たちものぬいもの。飲膳。たべもの呑ものをこしらへる。皆女の役。爰が温公の発明ぞ。か子て女の定りの職じゃと云こと。そればかりでないよいことが添てあるぞ。衣食所来之云々。衣食に艱難をしらせること。食物は毎日のことじゃ。四十何んだびとやらたた子は朝飯も出来ぬと下々か云ぞ。このかんなんは歴々はしらぬ。そこでこのかんなんを知らせて、思いやりをしらせるのぞ。衣も殊の外の手間で出来あがることは歴々はしらぬ。只紙へ大の字や八の字を書くやふに、何のこともなく思いたがるぞ。
【解説】
紝謂繒帛。組・紃倶絛也。薄闊爲組、似繩爲紃。温公曰、蚕桑・織績・裁縫及爲飮膳、不惟正是婦人之職、兼欲使之知衣食所來之艱難、不敢恣爲奢麗。至於纂組華巧之物、亦不必習也」の説明。衣食は女の役である。歴々は衣食に艱難のあることを知らないから、それを教える。
【通釈】
「繒」は黒絹。「帛」は白絹。「組紃」は薄物で、真田の類。「紃」は紐の類。「蚕桑云々」。織ったり裁いたりで、裁物、縫物の類。「飲膳」。食物や飲物を拵えること。これらは皆女の役。ここが温公の発明である。昔からの女の定まりの職だということ。そればかりでなく、よいことが添えてある。「衣食所来之云々」。衣食に艱難のあることを知らせること。食物は毎日のこと。四十歳になっても、誰かが立たなければ朝飯もできないと下々が言う。この艱難を歴々は知らない。そこでこの艱難を知らせて、思い遣りを知らせるのである。衣も殊の外手間を掛けてできることを歴々は知らない。ただ紙へ大の字や八の字を書く様に、何事もないものだと思う。

石原先生の御はなしに、先年呉服屋ての咄に、このかの子が二つぼ違ふたとて或奥からかへされたとのはなし。紫の染貫は別してむつかしいこと。この染をは其奥方に手づからせてみよとの温公の思召ぞ。少しのことを、これはきられぬ抔と云。さて々々らちもないことぞ。あの文王の御后が御里へござるに洗濯なされた。今は百姓でも大身の女はせぬ。とんと敎のない故のことぞ。温公家範にかく云れたがよい戒そ。簒組ぬいのこと、蕐巧をしへのるいまて必しも習はせぬときんぜられた。それを今はをもにこしらへる。奥さまの細工の押し繪じゃの、御姫さまの御細工と云ふの細工の押し繪は、業平の吾妻下りの、やれ行平のそなれ松じゃのとこしらへて人にみせびらかす。何の役に立たぬ種をまくのじゃ。さて今では明らかになり、このよふなこともよみよいぞ。
【解説】
服が少し違っているから着られないと言うのは埒もないこと。また、今は細工の凝ったものを拵えるが、それは何の役にも立たないことで、それまでを習わせる必要はない。
【通釈】
石原先生の御話に、先年呉服屋での話に、鹿の子が二粒違っていると言って或る奥様から返されたとのこと。紫の染抜きは特に難しい。この染をその奥方に手づからさせてみなさいとの温公の思し召しである。小さなことを、これでは着られないなどと言う。実に埒もないこと。あの文王の御后が御里におられて洗濯をなされた。今は百姓でも大身の女はしない。それは全く教えがないからのこと。温公家範にこの様に言われたのがよい戒めである。簒組縫いのことや、華巧を教える類までは必ずしも習わせないと禁じられた。それを今は主に拵える。奥様の細工の押絵だの、御姫様の御細工という様な細工の押絵は、やれ業平の吾妻下り、やれ行平の磯馴松だのと拵えて人に見せびらかすもの。それは何の役にも立たない種を蒔くのである。さて今では明かになり、この様なことも読みよい。
【語釈】
・文王の御后が御里へござるに洗濯なされた…詩経国風周南葛覃題下。「葛覃、后妃之本也。后妃在父母家、則志在於女功之事。躬儉節用、服澣濯之衣、尊敬師傅、則可以歸安父母、化天下以婦道也」。

觀於祭祀。觀。心をとめて心てみるのぞ。先祖の祭をするのを娘に見せるのぞ。娘か婚礼すると夫とともに先祖を祭ることなれは、觀ならは子ばならぬ。觀の字、心をよせてみるは、孟子に轉附朝儛を觀るとある。字注に觀は游也とある。これは用向。そこを通るでなくみるゆへに觀とつかふた。祭の日にはそこに皆居れとも、この觀は茶坊主のみるではない。觀の字、だだてなし。程なく娵になると入用じゃによって、其心でみることぞ。納酒漿云々。酒をすすめるやふに思ふが、酒もりするさけのことではない。酒漿。唐の料理には肉食するゆへ、酒で口ちをすすぐことあるぞ。漿は、にはい酢を猪口に入れてたべる。葅。せふじんのひたしもの。醢。ししびしほ。日本なれは鯛のたたきのるい。これはをし通ったこと。奠。備へもの。○當及女時而知也。女はさまで氣をつけてみている。饋ば食物の惣名ぞ。奠はもりものぞ。
【解説】
「觀於祭祀、納酒漿・籩豆・葅醢、禮相助奠。當及女時而知也。納謂置酒漿・籩豆・葅醢之等於神座。禮相助奠謂以禮相長者之事、而助其饋奠」の説明。娘は後に夫と共に先祖を祭ることになる。そこで「観」を習わなければならない。
【通釈】
「観於祭祀」。「観」は心を止めて心で見ること。先祖の祭をするのを娘に見せるのである。娘が婚礼をすると夫と共に先祖を祭ることになるから、観を習わなければならない。観の字を心を寄せて見るとするのは、孟子に「観於轉附・朝儛」とあり、字注に「観、游也」とある。これは用向のことで、そこを通るのではなく、見るので観と言ったもの。祭の日にはそこに皆がいるが、この観は茶坊主の観ではない。観の字は軽いことではない。ほどなく娵になると入用なので、その心で見ること。「納酒漿云々」。酒を勧める様に思うが、酒盛りをする酒のことではない。「酒漿」。唐の料理は肉食をするので、酒で口を漱ぐことがある。「漿」は、二杯酢を猪口に入れて食べること。「葅」。精進の浸し物。「醢」。ししびしお。日本であれば鯛のたたきの類。これは押し通ったこと。「奠」。供え物。「当及女時而知也」。女はこれほどに気を付けて見る。「饋」は食物の総名。「奠」は盛り物。
【語釈】
・轉附朝儛を觀る…孟子梁恵王章句下4。「昔者齊景公問於晏子曰、吾欲觀於轉附・朝儛、遵海而南、放于琅邪。吾何脩而可以比於先王觀也」。

十有五年而笄。十五になって婚礼の相談がなる。女子許嫁。はやくゆるすことあり。笄する。これは親の元で笄して二十而嫁す。男三十と女二十とはよいつり合の夫婦ぞ。此等のことは小学に並ぶ家礼があるぞ。家礼には細かなことまであるぞ。小学は古の本ぎゃうの処を云ことぞ。さて女は十四才から二十まで婚礼することぞ。男は十六からは婚礼をしてもよい。人の家は帳面をくるやふなことではいかぬ。今日は杓子定矩で小学はほんのこと。大工童の元服が面白ひ。はたちでなくてはならぬと云ことでない。大工ひとりなれは十五六でも元服させる。さて女一疋、それなれば十四でも笄する。年の数はない。喪服は年の数できるでない。それじゃによって、婚礼をすれは十四でも十六でもをとなになる。先祖の祭をせ子はならぬ。そこで女房をもつ。それからしては、男一疋なり。女房をもっては子とものやふにはさせぬ。
【解説】
「十有五年而筓。筓、今簪也。此謂應年許嫁者。女子許嫁而筓、字之。未許嫁、則二十而筓」の説明。十五歳で笄し、二十歳までに嫁す。男三十と女二十はよい釣り合いである。しかし、男も女もその年齢で夫婦にならなければならないという様な杓子定規なことではない。女房を持てば大人である。
【通釈】
「十有五年而笄」。十五歳になれば婚礼の相談ができる。「女子許嫁」。早く許すこともある。「笄」。これは親の元で笄して二十歳で嫁すこと。男三十と女二十はよい釣り合いの夫婦である。これらのことは小学と並んで家礼がある。家礼には細かなことまでがある。小学は古の本業の処を言ったもの。さて女は十四歳から二十歳までに婚礼をする。男は十六歳からは婚礼をしてもよい。人の家は帳面を繰る様なことではうまく行かない。今日は杓子定規なことばかりだが、小学は本当のこと。大工童の元服が面白い。二十歳でなくてはならないということではない。一人前の大工であれば十五六でも元服させる。さて、女一疋であれば十四でも笄する。年の数ではない。喪服は年の数で着るものではない。そこで、婚礼をすれば十四でも十六でも大人になる。先祖の祭をしなければならない。そこで女房を持つ。それからは男一疋である。女房を持てば子供の様にはさせない。

さて又今日身分によりて早く女房をもったとて、小学へ気の毒はない。小学の年にはづれたら一入たしなみ、三十と二十の夫婦のやふに心掛る筈のこと。ここらを知らぬと敎の行義つまらぬことになる。小学も帳面ですますと死た蛇をつかふになるのぞ。をれは二十て女房を持った。三十のはたらきするといかすこと、と。又娵は十三でも二十の氣で云分んないやふになるがよい。めったに里がへりはせぬことなり。古へ里がへり六ヶしい吟味あることぞ。父母死ては里へもゆかぬことじゃ。先年の録に、これはわけのあることぞ。昔魯の桓公の敢なき死をしたことがあるぞ。
【解説】
早く女房を持っても、三十と二十の夫婦の様に心掛ければよい。帳面で済ます様なことではない。
【通釈】
さてまた今日、身分によって早く女房を持ったとしても、小学に気の毒なことはない。小学の年に外れたら一入嗜み、三十と二十の夫婦の様に心掛ける筈のこと。ここらを知らないと、教えの行儀が詰まらないことになる。小学も帳面で済ますと死んだ蛇を使うのと同じになる。俺は二十歳で女房を持ったが、三十の働きをすると生かすこと。また娵は、十三でも二十の気で言い分のない様になるのがよい。滅多に里帰りはしないこと。古、里帰りには難しい吟味がある。父母が死んでは里へも行かないこと。先年の録に、これはわけのあることで、昔魯の桓公が敢え無い死を遂げたとある。
【語釈】
・昔魯の桓公の敢なき死…魯の桓公の妻は文姜で斉の釐公の娘。桓公は文姜と共に斉に行き、文姜は兄の襄公と密通する。これが元になり、襄公は桓公を宴に誘って彭生に殺させた。

二十而嫁。婚礼は一生の大事。重いことなれとも、又父母の喪は重いことぞ。父母の死去なれは婚礼をやめることぞ。小学はあたまは父母ぞ。天地の頭は元じゃから、人の頭は仁。孝は仁の第一。そこで舜は圣人孝などと云ばかりで云ぬ筈なれとも、舜為法於天下とある。かふしたことゆへ、小学は五倫の教。其あたまは父母なり。そこで婦人の一大事は嫁することなれとも、父母の喪なれは一大事の昏礼さへひかへる。五倫のあたまをきめることなり。
【解説】
「二十而嫁。有故、二十三年而嫁。故謂父母之喪」の説明。嫁すのは婦人の一大事だが、父母の喪であれば、それをも控える。それは五倫の最初の仁を決めること。
【通釈】
「二十而嫁」。婚礼は一生の大事で重いことだが、また、父母の喪も重いこと。父母の死去があれば婚礼は止める。小学は最初が父母である。天地の頭は元だから、人の頭は仁。孝は仁の第一。そこで舜は聖人なので孝などと言うだけで他のことは言わない筈だが、「舜為法於天下」とある。こうしたことなので、小学は五倫の教えで、その頭は父母である。そこで婦人の一大事は嫁することだが、父母の喪であれば一大事の昏礼でさえ控える。それは、五倫の頭を決めること。
【語釈】
・舜為法於天下…孟子離婁章句下28。「舜人也。我亦人也。舜爲法於天下、可傳於後世。我由未免爲郷人也」。

聘則為妻。妻と云には云分んはない奥さまぞ。さて妾になりてはてる。くやしいと云心はわるいぞ。そふ思ふことになし。妻妾と云の道の立たことなり。古代大名のた子でも、妾にもなることぞ。妻妾の道があれとも、妻と妾とは格式が違ふ。人身も同し身なれとも、首と足とは同格でない。丁とこのよふなものぞ。聘礼のあるが奥方の本体。奔とは、聘礼なしに奥方についておる。聘と奔と云ことで妻妾がわかる。本妻に子がなければ妾腹の子が家督をつぐことなれとも、どこまでも妾は御部屋じゃ。聘、問也。問立に使者音物のやりとりの礼式あることぞ。婚礼は世間廣くにぎやかなことぞ。今は軽いものがこそ々々と、隣しらずと云ぞ。昏礼はそしたものではない。今日はどこへと云と、ちと内用と云。媒は内用ではない筈のこと。碁や無尽に行くには反て推し出して行。とんとひっくり反したことぞ。昏礼はのしめ麻上下で使者音物でづんとにぎやかなことぞ。そこで婚礼のけだしかちごう。齋。ひとしいと云ことで、夫と同格。敵體。天があれは地がありて、天の相手は地が敵体。夫の相手は妻ぞ。自然の道理あることぞ。接見と君子と交ることぞ。妾、もと大名でつけた字ぞ。接。まじはるとよむ。君子寢席を同く体を交る。そこで唯の女中とは格が違ふ。なれとも家来、それゆへ親類書にのせぬぞ。妻は敵体、妾は接見と云ぞ。
【解説】
「聘則爲妻、奔則爲妾。聘、問也。妻之言、齊也。以禮見問、則得與夫敵體。妾之言、接也。言得接見於君子、不得與之敵體也」の説明。聘礼のあるのが妻で、ないのが妾。「聘」には使者音物の遣り取りの礼式があり、婚礼は賑やかなもの。妻は夫と敵体するが、妾は夫に接見すると言う。
【通釈】
「聘則為妻」。妻と言えば言い分のない奥様のこと。さて妾になり果てる。それを悔しいと思う心は悪い。その様に思うことではない。妻妾という道が立っている。古代は大名の胤でも、妾にもなることがある。しかし、妻妾の道はあるが、妻と妾とは格式が違う。人身も同じ身ではあるが、首と足とは同格ではない。丁度この様なもの。聘礼のあるのが奥方の本体。「奔」は聘礼なしに奥方に付くこと。聘と奔ということで妻妾が分かれる。本妻に子がなければ妾腹の子が家督を継ぐことになるが、どこまでも妾は御部屋である。「聘、問也」。問い立てには使者音物の遣り取りの礼式がある。婚礼は世間広く賑やかなこと。今は軽い者がこそこそと、隣知らずにする。婚礼はそうしたものではない。今日はどこへと尋ねると、一寸内用と言う。媒は内用ではない筈。碁や無尽に行くには却って推し出して行く。全く引っ繰り返ったことである。婚礼は熨斗目麻裃、使者音物で大層賑やかなこと。そこで、婚礼の始めが違う。「斉」。斉しいということで、夫と同格。「敵礼」。天があれば地があって、天の相手は地が敵体。夫の相手は妻である。自然の道理がある。「接見」は君子と交わること。妾は元々大名で付けた字。「接」。交わると読む。君子と寝席を同くして体を交える。そこでただの女中とは格が違う。しかし、家来なので親類書には載せない。妻は敵体、妾は接見と言う。