小学外篇 善行第六

二月十一日
【語釈】
・二月十一日…寛政2年(1790)2月11日。

善行1
呂滎公、名希哲、字原明、申國正獻公之長子。正獻公居家簡重寡默、不以事物經心、而申國夫人性嚴有法度。雖甚愛公、然敎公事事循蹈規矩。甫十歳祁寒暑雨侍立、終日不命之坐不敢坐也。日必冠帶以見長者。平居雖甚熱、在父母長者之側、不得去巾襪・縛袴・衣服。唯謹。行歩出入無得入茶肆酒肆。市井里巷之語、鄭・衛之音、未嘗一經於耳。不正之書、非禮之色、未嘗一接於目。正獻公通判頴州。歐陽公適知州事。焦先生千之伯强、客文忠公所。嚴毅方正。正獻公招延之使敎諸子。諸生少有過差、先生端坐召與相對、終日竟夕不與之語。諸生恐懼畏伏。先生方略降詞色。時公方十餘歳、内則正獻公與申國夫人敎訓如此之嚴、外則焦先生化導如此之篤。故公德器成就、大異衆人。公嘗言、人生内無賢父兄、外無嚴師友、而能有成者少矣。
【読み】
呂滎公、名は希哲、字は原明、申國正獻公の長子なり。正獻公は家に居りて簡重寡默、事物を以て心を經せずして、申國夫人は性嚴にして法度有り。甚だ公を愛すと雖も、然れども公を敎えて事事規矩を循い蹈む。甫めて十歳、祁寒暑雨にも侍立して、終日之に坐を命ぜざれば敢て坐せざるなり。日に必ず冠帶して以て長者を見る。平居甚だ熱しと雖も、父母長者の側に在りて、巾襪[きんべつ]・縛袴[てんこ]・衣服を去るを得ず。唯謹む。行歩出入するに茶肆酒肆に入るを得ること無し。市井里巷の語、鄭・衛の音、未だ嘗て一たびも耳に經せず。不正の書、非禮の色、未だ嘗て一たびも目に接えず。正獻公頴州に通判たり。歐陽公適々州の事に知たり。焦先生千之伯强、文忠公の所に客たり。嚴毅方正なり。正獻公之を招き延べて諸子を敎えしむ。諸生少しく過差有れば、先生端坐し召して與に相對し、日を終え夕を竟えて之と語らず。諸生恐懼畏伏す。先生方に略々詞色を降す。時に公方に十餘歳、内は則ち正獻公と申國夫人と敎訓すること此の如く之れ嚴に、外は則ち焦先生化導すること此の如く之れ篤し。故に公の德器成就し、大いに衆人と異なれり。公嘗て言う、人生内に賢父兄無く、外に嚴師友無くして、能く成る有る者は少し、と。

○呂栄公云々。内篇に立教明倫敬身とあって、その道理に叶ふた人を稽古の篇に出したぞ。外篇もそれで、嘉言に道理を説き、その嘉言に説た道理に叶ふたを善行に出すなり。知惠は料理の献立、行はそれを食ふ様なもの。何程知惠があらふとも、行は子ば献立ばかりで食はぬ様なものなり。さて行をならぬことのやふに人か思ふが了簡ちがいぞ。ま子ればなるものなり。迂斉が面白ひことを云ふた。行ひに古の今の唐の日本のと云ことはなし。中蕐ても日本でも日月にちがいはない。上に日月があるゆへ、種をまくと中蕐ても日本でもはへる。隨分そのやふで行もなることぞ。行と云ものはかたでま子ることぞ。灸をすへるやふなもの。灸は大義なことなれとも、こらへてすれは病氣がよくなるぞ。なりにく井ことも方からま子てゆくと、それからわがものになる。茶人が利休を祖師に立て、むつかしいこともあるが、よい水をあつくわかしてよい茶をのむと云より外はない。湯をあつくしてよい茶を飲めは、やはり利休と同しことなり。町人百姓が武士になるとその日から大小をさす。大小をさへさせば侍あしらいにする。それと同じことて、かたからすればなる。手はわるふても師匠のうったとをり点をうてはよ井。善行の篇などは理窟を云はず、いこふ律義に見ることぞ。呂榮公は格別な人てあったが、その格別な人と云もただ格別な人てない。全体正献公がよかった。よい人が教たでよい人になった。そこが善行の立教なり。
【解説】
「呂滎公、名希哲、字原明、申國正獻公之長子」の説明。内篇では稽古篇で人を出し、外篇では善行篇で人を出す。知があっても行がなければ、それは献立だけがあって食わない様なもの。行は何処でしても違いはない。それは形で真似ること。呂栄公は格別な人だったが、それは親である正献公がよかったからである。
【通釈】
「呂栄公云々」。内篇に立教明倫敬身とあって、その道理に叶った人を稽古の篇に出した。外篇も同じで、嘉言で道理を説き、その嘉言で説いた道理に叶った人を善行に出す。智恵は料理の献立、行はそれを食う様なもの。どれ程智恵があったとしても行わなければ、献立だけがあって食わない様なもの。さて行をできないことの様に人が思うが、それは了簡違いである。真似ればできるもの。迂斎が面白いことを言った。行いに古今や唐日本ということはない。中華でも日本でも日月に違いはない。上に日月があるので、種を蒔くと中華でも日本でも生える。その様なことであって、随分と行もできる。行というものは形で真似ること。それは灸をすえる様なもの。灸は大儀だが、堪えてすれば病気がよくなる。でき難いことも形から真似て行くと、それから自分のものになる。茶人が利休を祖師に立てる。難しいこともあるが、よい水を熱く沸かしてよい茶を飲むというより外はない。湯を熱くしてよい茶を飲めば、やはり利休と同じこと。町人百姓が武士になるとその日から大小を差す。大小さえ差せば侍あしらいにする。それと同じことで、形からすればできる。手は悪くても、師匠の打った通りに点を打てばよい。善行の篇などは理屈を言わず、大層律儀に見るもの。呂栄公は格別な人だったが、その格別な人というのもただ格別な人ということではない。全体、正献公がよかった。よい人が教えたのでよい人になった。そこが善行の立教である。

○簡重寡黙は、正献公の生れ付がむざうさでづっしりと重いことぞ。○不以事物云々。世間のことをああそうか々々々々々と胸へのせぬ。俗人が米の相塲を聞ても胸をわるくして苦労をするとはけんかくなことぞ。○申國夫云々。ここに氣を付て見ることぞ。女は教にかかるものではないか、小児の内は两親の側にをり、十歳からはじめて師の教にかかる。そこで、それより前に親のそばにをるうちが大叓ぞ。兎角母と云ものがあまいかすものなれども、頓と男まさりでなにもかも未熟なことはない。可愛かりなから教をした。○雖甚熱云々。ことの外暑気のつよいときは用捨してもよさそうなものなれども、どの様にあつうても、親御の前などで袴を取るなどと云ことは决してない。巾襪縛袴を去らぬと云ことを一つ出してをいて、さてこの様なる、いかさま々々々々あってかづかぎりないゆへ唯謹と書たもの。
【解説】
「正獻公居家簡重寡默、不以事物經心、而申國夫人性嚴有法度。雖甚愛公、然敎公事事循蹈規矩。甫十歳祁寒暑雨侍立、終日不命之坐不敢坐也。日必冠帶以見長者。平居雖甚熱、在父母長者之側、不得去巾襪・縛袴・衣服。唯謹」の説明。正献公の生まれ付きは無造作でずっしりと重かった。申国夫人も可愛がりながらも教えをしたので、呂栄公は身形を謹んだ。
【通釈】
「簡重寡黙」。正献公の生まれ付きは無造作でずっしりと重かった。「不以事物云々」。世間のことをああそうかと胸へ乗せない。俗人が米の相場を聞いても胸を悪くして苦労をするのとは懸隔である。「申国夫云々」。ここに気を付けて見なさい。女は教えに掛かる者ではないが、小児の内は両親の側にいて、十歳から初めて師の教えに掛かる。そこで、それより前に親の側にいる内が大事である。とかく母というものが甘やかすもの。そこを実に男勝りで何もかも未熟なことはない。可愛がりながら教えをした。「雖甚熱云々」。殊の外暑気の強い時は容赦してもよさそうなものだが、どれ程暑くても、親御の前などで袴を取るなどということは決してない。「巾襪縛袴」を去らないということを一つ出して置いて、さてこの様なことが大層あり、数限りないので「唯謹」と書いたのである。
【語釈】
・巾襪縛袴…巾は頭巾。襪は靴下。縛袴は偪[むかばき]。

○茶肆酒肆云々。幼年の時分からこのやふな所へちょっともよることはない。ここはよったとてもその様にわるいことでもないが、此の方の京の茶屋の様に、茶屋と云ふても不埒な女なとがあるゆへよらぬ。宋では別してつつしむことと毎々説ひたか、これは彦八殿の説かなり。今度思ふに中々そんなことではない。やはりただの茶屋なり。これへよらぬと云で惣体がしれる。今田舎の輕ひ者でも、とかく子共のときから酒屋に行て居ると云ふがよ井そだちではな井ぞ。○市井里巷之語は流行ことばなり。○鄭衛之声はふらちなこへぞ。この様なこと决して耳に入れぬ。○不正之書云々。教のよいことになる。家内中さがして見ても不埒な書はない。この通り耳と目に世話をやくと云ふがよくするの本なり。
【解説】
「行歩出入無得入茶肆酒肆。市井里巷之語、鄭・衛之音、未嘗一經於耳。不正之書、非禮之色、未嘗一接於目」の説明。呂栄公は茶屋にも寄ることはなかった。流行り言葉も不埒な音楽も耳に入れず、不正な書も目にしなかった。
【通釈】
「茶肆酒肆云々」。幼年の時分から少しもこの様な所へ寄ることはない。ここは寄ったとしてもそれほど悪いことでもないが、日本の京の茶屋の様に、茶屋と言っても不埒な女などがいるので寄らないのであって、宋では特に謹むことだと毎々説いたが、これは彦八殿か誰かの説だったと思う。しかし、今度思うに中々そんなことではない。やはりただの茶屋のこと。そこへ寄らないと言うので総体が知れる。今田舎の軽い者でも、とかく子供の時から酒屋に行っているというのがよい育ちではない。「市井里巷之語」は流行言葉である。「鄭衛之声」は不埒な声である。この様なことは決して耳に入れない。「不正之書云々」。これが教えのよいことになる。家内中を探して見ても不埒な書はない。この通りに耳と目に世話を焼くというのがよくする本になる。
【語釈】
・彦八殿…佐藤就正。彦八と称す。号は謙齋。佐藤直方の子。延享4年(1747)2月22日没。年39。迂斎にも学ぶ。

○適は、時も時、をりもをり。正献公がそこの通判になりたれば、丁と歐陽公がそこの知州でをられた。○焦先生がきびし井學者で四角四面な人なり。流落してかかってをったぞ。人にかかりてをるとどをやら惣体が勢のよはりてくるものぞ。学者などがかかりてをると云ふは、道義でかかりてをるもの。○嚴毅方正と云ふで千之伯強のやふすもしれる。面白ひ人じゃの温和な人と云のは教はなるものではない。そこで学者は人に悪まれいまれるがよい方なり。学者は苦ひ薬をのませるゆへ悪れるなり。悪まれるがよい。心安だてされるやふでは役に立ぬ。正献公が千之伯強をよばれたれは、浪人の身で権門方の御子達を弟子にしてもやっはりひんとした顔で、わるいことあるときはじろ々々見てをられたなり。子め付るのなり。呂栄公のよいはす子からもみ出したことなれとも、しよふがよさに徳器成就したと云ふ。この通りのことゆへ呂栄公の無好人云々もすめた。教がよ井とこの通りになる。人間はとかく内にきびし井親や兄をもち、そとへ出ればきびし井師匠のあると云てよい。甘味て成就はなれぬことなり。
【解説】
「正獻公通判頴州。歐陽公適知州事。焦先生千之伯强、客文忠公所。嚴毅方正。正獻公招延之使敎諸子。諸生少有過差、先生端坐召與相對、終日竟夕不與之語。諸生恐懼畏伏。先生方略降詞色。時公方十餘歳、内則正獻公與申國夫人敎訓如此之嚴、外則焦先生化導如此之篤。故公德器成就、大異衆人。公嘗言、人生内無賢父兄、外無嚴師友、而能有成者少矣」の説明。正献公が頴州の通判になった時に偶々欧陽修がそこの知州だった。そして、焦先生という厳しい学者が欧陽修の所にいて、彼に学問を教わったので呂栄公の徳器は成就した。内には厳しい親や兄がいて、外には厳しい師匠がいるのがよい。
【通釈】
「適」は、時も時、折も折ということ。正献公がそこの通判になると、丁度欧陽公がそこの知州でおられた。焦先生は厳しい学者で四角四面な人だが、流落して欧陽公の世話になっていた。人に世話になっていると、どうやら総体の勢いが弱って来るもの。学者などが世話になるというのは、道義で世話になるもの。「厳毅方正」と言うので千之伯強の様子も知れる。面白い人や温和な人と言うのは教えをすることができるものではない。そこで、学者は人に悪まれ忌まれるのがよい。学者は苦い薬を飲ませるので悪まれる。悪まれるのがよい。心安立てをされる様では役に立たない。正献公が千之伯強を呼ばれると、浪人の身でありながらも、権門方の御子達を弟子にしてもやはり稟とした顔で、悪いことのある時はじろじろと見ておられた。睨み付けるのである。呂栄公がよいのは脛から揉み出したからだが、仕様がよいので「徳器成就」したと言う。この通りのことだから、呂栄公の「無好人云々」も済めた。教えがよいとこの通りになる。人間はとかく内に厳しい親や兄を持ち、外へ出れば厳しい師匠があるというのでよい。甘味で成就はできない。
【語釈】
・無好人…小学外篇善行42を指す。


善行2
○呂滎公張夫人待制、諱昷之之幼女也。最鐘愛。然居常、至微細事、敎之必有法度。如飮食之類、飯羹許更益、魚肉不更進也。時張公已爲待制河北都轉運使矣。及夫人嫁呂氏、夫人之母申國夫人姊也。一日來視女。見舎後有鍋釜之類大不樂。謂申國夫人曰、豈可使小兒軰私作飮食壞家法耶。其嚴如此。
【読み】
○呂滎公張夫人は待制、諱は昷之の幼女なり。最も鐘愛す。然るに居常、微細の事に至るまで、之を敎うるに必ず法度有り。飮食の類の如きは、飯羹は更に益すことを許し、魚肉は更に進めざるなり。時に張公已に待制河北都轉運使爲り。夫人呂氏に嫁するに及びて、夫人の母は申國夫人の姊なり。一日來て女を視る。舎の後に鍋釜の類有るを見て大いに樂まず。申國夫人に謂いて曰く、豈小兒軰をして私[ひそか]に飮食を作り家法を壞[やぶ]らしむ可けんや、と。其の嚴や此の如し。

○呂栄公張夫人云々。最鐘愛、然居常、至微細事、教之必有法度は、いこふ可愛かられたが、兎角法がありた。○如飲食云々。これからが小学の親切なことぞ。母と云ふものは飲食の世話より外はない。この処に教あることなり。親の子を可愛かるは天地自然で誰もあるなれとも、教と云ことはない。母は一入のことなり。武士は毎日出仕をし、百姓は農業をし、町人はあきないをするゆへ、小児の内は母の側にばかりをる。とかく母次第なり。ここのそだてやふが大事。爰がわるいとよくはならぬ。なくがやかましいとて一時のがれをするゆへわるい。可愛ければ教をやふせ子ばならぬ。さて呂栄公は母方のいとこをめとられた。従母の娘なり。くるしうないゆへ忌たことはない。魯の國は斉から代々娶られたれども、非礼にあらず。
【解説】
小児の内は母の側にばかりいる。そこで、子供は母次第である。可愛ければ教えをよくしなければならない。
【通釈】
「呂栄公張夫人云々」。「最鐘愛、然居常、至微細事、教之必有法度」。大層可愛がられたが、とかく法があった。「如飲食云々」。これからが小学の親切。母というものは飲食の世話より外はない。この処に教えがある。親が子を可愛がるのは天地自然で誰にもあることだが、教えということはない。母は一入のこと。武士は毎日出仕をし、百姓は農業をし、町人は商いをするので、小児の内は母の側にばかりいる。とかく母次第である。ここの育て様が大事。ここが悪いとよくはならない。泣くのが喧しいと、一時逃れをするので悪い。可愛ければ教えをよくしなければならない。さて呂栄公は母方の従妹を娶られた。従母の娘である。それは間違ったことではないので忌むことではない。魯の国は斉から代々娶られたが、非礼なことではない。


善行3
○唐陽城爲國子司業、引諸生告之曰、凡學者所以學爲忠與孝也。諸生有久不省親者乎。明日謁城還養者二十軰、有三年不歸侍者、斥之。
【読み】
○唐の陽城、國子司業と爲り、諸生を引きて之に告げて曰く、凡そ學ぶは忠と孝とを爲むるを學ぶ所以なり。諸生久しく親を省みざる者有るか、と。明日城に謁して還り養う者二十軰、三年歸り侍せざる者有り、之を斥く。

○唐陽城云々。国子司業は大学挍の師匠なり。陽城が都の学頭をしてをられた。諸生を召して学問はなんの為にするぞ、忠孝のためしゃとなり。これが根ありて云たもの。大学挍に居て国へかへらぬものがある、知りてをるがあるかときく。若しそんな者があらば即日引拂へ、と。それからかへりた者もあるが、中にかへらずにをりた者がある。それを斥けられた。ただの者でも忠孝をせぬと云へは合点せぬ。まして大学挍に居て忠孝をせぬなれば、とるて方角はないことぞ。誰もせ子はならぬと知ってをるものを学者がせずにをる。火の用心を觸ながら、くわへ喜世流であるく様なもの。小学の教は列女傳曰の胎内から教ありて、十歳迠は親の膝下で教る。呂栄公と次の張夫人迠は師にかからぬ教を云。これより以下伊川先生まて、学校のことなり。
【解説】
陽城が都の学頭をしていた時に諸生を召して、学問は忠孝のためにするものだと言った。そう言っても国に帰らなかった者がいたので、その者を斥けた。誰もがしなければならないことを大学にいる者がしないのは悪い。
【通釈】
「唐陽城云々」。「国子司業」は大学校の師匠のこと。陽城が都の学頭をしておられた。諸生を召して学問は何のためにするのか、忠孝のためだと言った。これは根があって言ったもの。大学校にいて国へ帰らない者がいるが、それを知っているのかと聞いた。もしもその様な者があれば即日引き払えと言った。それで帰った者もいるが、中には帰らずにいた者がいた。それを斥けられた。ただの者でも忠孝をしないと言えば合点はしない。ましてや大学校にいて忠孝をしないのであれば、どうしようもない。誰もがしなければならないと知っていることを学者がせずにいる。それは、火の用心を触れながら、くわえ煙管で歩く様なもの。小学の教えは「列女伝曰」という胎内からの教えがあって、十歳までは親の膝下で教える。呂栄公と次の張夫人までは師に掛からない教えを言い、これより以下伊川先生までは学校のことを言う。
【語釈】
・陽城…字は亢宗。
・列女傳曰…小学内篇立教1を指す。


善行4
○安定先生胡瑗、字翼之。患隋唐以來仕進尚文辭、而遺經業、苟趨祿利。及爲蘇・湖二州敎授、嚴條約、以身先之、雖大暑必公服終日以見諸生、嚴師弟子之禮。解經至有要義、懇懇爲諸生、言其所以治己而後治乎人者。學徒千數日月刮劘。爲文章、皆傳經義必以理勝。信其師説敦尚行實。後爲大學。四方歸之、庠舎不能容。其在湖學置經義齋・治事齋。經義齋者擇疏通有器局者居之。治事齋者人各治一事又兼一事。如治民治兵水利筭數之類。其在大學亦然。其弟子散在四方、隨其人賢愚皆循循雅飭。其言談・舉止、遇之不問可知爲先生弟子。其學者相語稱先生、不問可知爲胡公也。
【読み】
○安定先生胡瑗、字は翼之。隋唐以來仕進文辭を尚びて、經業を遺[わす]れ、苟も祿利に趨るを患う。蘇・湖二州の敎授と爲るに及びて、條約を嚴にし、身を以て之に先だち、大暑と雖も必ず公服して終日以て諸生を見て、師弟子の禮を嚴にす。經を解き要義有るに至りては、懇懇として諸生の爲に、其の己を治めて而る後に人を治むる所以の者を言う。學徒千數、日月に刮り劘る。文章を爲るには、皆經義に傳[よ]りて必ず理の勝るを以てす。其の師説を信じ敦く行實を尚ぶ。後に大學と爲る。四方之に歸し、庠舎容るること能わず。其れ湖學に在りて經義齋・治事齋を置く。經義齋は疏通にして器局有る者を擇びて之を居く。治事齋は人各々一事を治め又一事を兼ぬ。民を治め兵を治め水利筭數の類の如し。其れ大學に在りても亦然り。其の弟子散りて四方に在り、其の人の賢愚に隨いて皆循循として雅飭[がちょく]す。其の言談・舉止、之に遇いて問わずして先生の弟子爲るを知る可し。其の學者相語りて先生と稱すれば、問わずして胡公爲るを知る可し。

○安定先生胡瑗云々。これも学問所の教なり。教がわるふては学問処があっても役に立ぬ。その教は師の心入れにあることぞ。心入れがわるければありかいなしになる。會津侯の、とかく学挍を建てやふとあれば、山崎先生が、をもふ様な師がな井ゆへならぬ々々々とて建てられなんだ。安定は明道伊川よりまいに老先生になってをられた。好学論もこの人の手先で出来たぞ。○隨唐にも學挍はありたが、みな仕進のため。宋になりても四六ついの文章などと云ふがある。經書には人のたましいのこやしがのってをるに、それをば頓と打忘れてしまふてをる。日本の古へ文蕐がひらけたなどと云ふが論語と白氏文集を並べ行ふぞ。それでは道は明ならぬ筈ぞ。仕進とは學問ををとりにして官録をもとめる。ここでしわをよせられた。それからして法ともきひし井ぞ。
【解説】
「安定先生胡瑗、字翼之。患隋唐以來仕進尚文辭、而遺經業、苟趨祿利」の説明。学校は、師の心入れが悪くてはならない。隋唐にも学校はあったが、それは皆仕進のためであり、宋でも文章が流行って経書などは忘れられていた。
【通釈】
「安定先生胡瑗云々」。これも学問所の教え。教えが悪くては学問所があっても役に立たない。その教えは師の心入れにあること。心入れが悪ければ有り甲斐はない。会津侯が、とかく学校を建てようとしたが、山崎先生が、思う様な師がいないのでそれはできないと言ったので建てられなかった。安定は明道や伊川よりも前に老先生になっておられた。好学論もこの人の手先でできた。隋唐にも学校はあったが、それは皆仕進のためだった。宋になっても四六対の文章などというものがある。経書には人の魂の肥やしが載っているのに、それをすっかりと打ち忘れてしまっていた。日本の古も文華が開けていたなどと言うが、その時は論語と白氏文集とを並べて行っていた。それでは道が明ではない筈。仕進は学問を囮にして官禄を求めるもの。ここで安定先生が皺を寄せられた。それからして条約なども厳しかった。
【語釈】
・會津侯…保科正之。江戸前期の大名。会津の藩祖。徳川秀忠の庶子。1611~1672
・四六つい…四六文。四六駢儷体。四字および六字の句を基本とし、対句を用いて口調を整え、文辞は華美で典故を繁用するのが特徴。

○嚴の字を見よ。この様なことは酒落な人はよふな井。人を教るが主ゆへ、にがみばしら子ばならぬ。殿中へ出るなりて合ひきびしくされた。これが我をたかくするてはない。病人の藥をいたた井てのむやふなもの。いたた井て飲むと云ふがきくの手傳をする。○學徒千数云々。大勢弟子がよりて平生けづりみがいてよくするなり。またもふ一説にも見へる。学問処へ入ると板へ諸生の名をほり付てをく。それを段々けづることとも見へる。○信其師説は出もののやふなれとも、この根を知ることぞ。學挍と家とは違ふものなり。家は信するものなれども、学挍はくやくなものゆへあまり信せぬ勢なものなれとも信ずるなり。○經義斉・治事斉とわけたが面白ひことぞ。先年三宅先生が西の洞院で培根堂達枝堂と云ふを建られた。どふやらたいそふらし井ことなれとも、胡安定の意を受けてしたもの。むつかしいことは小児の為めにはわるい。ふたわけにすると云がよい。さてここはそのあやではのふて得手不得手がある。そこでわけられた。
【解説】
「及爲蘇・湖二州敎授、嚴條約、以身先之、雖大暑必公服終日以見諸生、嚴師弟子之禮。解經至有要義、懇懇爲諸生、言其所以治己而後治乎人者。學徒千數日月刮劘。爲文章、皆傳經義必以理勝。信其師説敦尚行實。後爲大學。四方歸之、庠舎不能容。其在湖學置經義齋・治事齋」の説明。安定先生の教えは厳しかった。千数人の学徒がそこで学び、皆師の説を信じた。人には得手不得手があるから、経義斎と治事斎を建てて教えた。
【通釈】
「厳」の字を見なさい。この様なことは洒落な人ではよくない。人を教えるのが主なので、苦みばしらなければならない。殿中へ出る様に厳しくされた。これは自分を高くすることではない。それは、病人が薬を頂いて飲む様もの。頂いて飲むというのが効く手伝いをすること。「学徒千数云々」。大勢の弟子が寄って来て平生削り磨いてよくする。またもう一説ある。学問所へ入ると板に諸生の名を彫り付けて置く。それを段々削ることとも見える。「信其師説」は出過ぎたことの様だが、この根を知りなさい。学校と家とは違うもの。家は信ずるものだが、学校は公役なものなのであまり信じない勢いとなるが、それを信ずる。「経義斎・治事斎」と分けたのが面白い。先年三宅先生が西の洞院で培根堂と達枝堂を建てられた。それはどうやら大層らしいことだが、胡安定の意を受けてしたもの。難しいことは小児のためには悪い。二つに分けるというのがよい。さてここはその綾ではなくて、得手不得手があるので分けたのである。
【語釈】
・けづりみがいて…「刮」が削ることで、「劘」が磨くこと。

○疏通はきよふなこと。なにことも疏通と云ふたいかのふては垩賢のことは咄して聞せられぬ。○器局はなんでももってこ井と云ふどだいをもっていることぞ。圍棋盤はををきいゆへものをををく載せる。將棊盤はち井さいだけ載せることがすくな井。そこが器の字、局の字なり。治事斉は一事の得手かたへしこむ。弓にきよふと云者あり。今日諸生にも、論語は不合点なれども啓蒙の占の方がよいと云ふかある。○水利は地方につ井たこと。百姓すちのことはきやふにはかがゆき、よ井了簡も出る。この川はこふするがよ井と云ふと、それから水もよくとれる。經義斉よりわざの方のことゆへ、かくしきがちごふてかるい。○不問云々。古風なじみなことそ。道春様などがよい學問ぞ。徂徠太宰はあたりを訶りちらかしぎょふさんに見へるが、さしひ井て見ると博識も道春様ほどてはあるまい。学者の寄合て咄してをる。どこのものか知れぬが安定の弟子であらふと云ふことが自然と知れる。さまでもないことなれども、これか教の届いたのなり。吾黨の学者、節要訓門人を読めは直方先生や迂斉の学問のきかくのなくならぬのなり。はぜぬ様なことを小学は馳走すると合点するがよいぞ。
【解説】
「經義齋者擇疏通有器局者居之。治事齋者人各治一事又兼一事。如治民治兵水利筭數之類。其在大學亦然。其弟子散在四方、隨其人賢愚皆循循雅飭。其言談・舉止、遇之不問可知爲先生弟子。其學者相語稱先生、不問可知爲胡公也」の説明。疏通で器局な者でなければ聖賢のことを聞かせられない。その様な者を経義斎で教え、一事に得手な者を治事斎で教えた。教えが行き届いていたので、その人の名は知らなくても安定の弟子だとわかった。
【通釈】
「疏通」は器用なこと。何事も疏通という体がなくては聖賢のことは話して聞かせられない。「器局」は何でも持って来いという土台を持っていること。囲碁盤は大きいので物を多く乗せる。将棋盤は小さいだけ乗せる物が少ない。そこが器の字と局の字のこと。治事斎では一事の得手方へ仕込む。弓の器用な者がいる。今日の諸生にも、論語は不合点だが啓蒙の占がよいという者がいる。「水利」は地方に付いたこと。百姓筋のことは器用にはかが行き、よい了簡も出る。この川はこうするのがよいと言うと、それからは水もよく取れる。経義斎では事の方のことをするので、格式が違って軽い。「不問云々」。古風な地味なこと。道春様などがよい学問である。徂徠や太宰は辺りを訶り散らかして仰山に見えるが、差し引いて見ると博識も道春様ほどではないだろう。学者が寄合いで話をしている。何処の者かはわからないが安定の弟子だろうということが自然と知れる。それほどでもない様だが、これが教えが届いたということ。我が党の学者が節要訓門人を読めば、直方先生や迂斎の学問の規格はなくならない。小学は馳せない様なことを馳走するものだと合点しなさい。


善行5
○明道先生言於朝曰、治天下以正風俗、得賢才爲本。宜先禮命近侍賢儒及百執事、悉心推訪。有德業充備足爲師表者、其次、有篤志好學材良行脩者、延聘・敦遣萃於京師、俾朝夕相與講明正學、其道必本於人倫、明乎物理、其敎自小學灑掃應對以往、脩其孝悌・忠信・周旋・禮樂、其所以誘掖・激勵、漸摩成就之之道、皆有節序。其要在於擇善、脩身、至於化成天下。自郷人而可至於聖人之道。其學行皆中於是者爲成德、取材識明達可進於善者、使日受其業。擇其學明德尊者、爲大學之師。次以分敎天下之學。擇士入學。縣升之州、州賓興於大學、大學聚而敎之、歳論其賢者・能者於朝。凡選士之法、皆以性行端潔、居家孝悌、有廉恥禮讓、通明學業、曉達治道者。
【読み】
○明道先生朝に言いて曰く、天下を治むるは風俗を正し、賢才を得るを以て本と爲す。宜しく先ず近侍の賢儒及び百執事に禮命し、心を悉[つく]して推訪すべし。德業充ち備わり師表と爲るに足る有る者、其の次は、志を篤し學を好み材良にして行脩まる有る者は、延聘・敦遣して京師に萃[あつ]め、朝夕相與に正學を講明せしめ、其の道は必ず人倫に本づき、物理に明かにし、其の敎は小學の灑掃應對より以往、其の孝悌・忠信・周旋・禮樂を脩め、其の誘掖・激勵、漸摩して之を成就する所以の道、皆節序有り。其の要は善を擇び、身を脩め、天下を化成するに至るに在り。郷人よりして聖人に至る可きの道なり。其の學行皆是に中る者を成德と爲し、材識明達にして善に進む可き者を取りて、日に其の業を受けしむ。其の學明かに德尊き者を擇びて、大學の師と爲す。次は以て分けて天下の學に敎う。士を擇びて學に入るる。縣より之を州に升げ、州より大學に賓とし興け、大學に聚めて之を敎え、歳ごとに其の賢者・能者を朝に論ず。凡そ士を選ぶの法は、皆性行端潔、家に居りて孝悌、廉恥禮讓有り、學業に通明に、治道に曉達なる者を以てす。

○明道先生言於朝曰云々。家に居て云ふと殿中で云ふに道理に二つはないか、殿中て云ふことは今日端的なことを云。明道は垩人の上のことを丸でもたれた人ぞ。殿中へ出て云ふことは天下を受取て云ふことゆへ格段に見ることぞ。○正風俗得賢才は治体なり。風俗はこせ々々いい付てあるくことではない。今日や明日の間にはならぬ。田舎の邑てもよい邑と云ふは昨日や今日のことではない。づんと根のあるものぞ。とかくよ井人がなければならぬ。政の法制は帳をくりても出来やふことなれども、医者が下手ではなんぼよい書があってもならぬ。御側のよい人が賢者を見出してこ子ばならぬことぞ。ただ者では賢者を見出すことがならぬ。茶器も、素人がよい茶道具はかふことはならぬ。○悉心は、けりょふによ井人があると云ではない。それなににかある。馬がすきゆへ名馬の骨を買ふたと云ふ。馬がすきならば、骨でもかふがよい。通鑑周赧王元年、燕昭王求賢者。郭隗曰、以千金求馬。馬死。買其骨。君怒。涓人曰、死馬且買之、况生者乎。馬今至矣。不期年而千里馬至者三云々。あれが心をつくすもやふぞ。
【解説】
「明道先生言於朝曰、治天下以正風俗、得賢才爲本。宜先禮命近侍賢儒及百執事、悉心推訪」の説明。風俗を正すには、先ず賢者を見出さなければならないが、よい人でなければ賢者を見出すことはできない。よい人に命じ、心を尽くして賢者を探させるのである。
【通釈】
「明道先生言於朝曰云々」。家にいて言うのと殿中で言うのとで道理に二つはないが、殿中で言うことは今日端的なことを言う。明道は聖人の上のことを丸に持たれた人。殿中へ出て言うことは天下を受け取って言うことなので格段に見なければならない。「正風俗得賢才」は治体。風俗はこせこせ言い付けて歩くことではない。今日や明日の間には合わないこと。田舎の邑でもよい邑というのは昨日や今日のことではなく、しっかりと根のあるもの。とかくよい人がいなければならない。政の法制は帳を括ってもできる様なことだが、医者が下手ではどれ程よい書があってもうまく行かない。御側にいるよい人が賢者を見出して来なければならない。只者では賢者を見出すことはできない。茶器も、素人がよい茶道具を買うことはできない。「悉心」は、よい人は偶然にいるのではない。それはどうすればよいかと聞く。馬が好きなので名馬の骨を買ったと答えた。馬が好きであれば、骨でも買うのがよい。「通鑑周赧王の元年、燕の昭王賢者を求む。郭隗曰く、千金を以て馬を求めん。馬死す。其の骨を買う。君怒る。涓人曰く、死馬すら且つ之を買う、况や生なる者をや。馬今に至らん。期年ならずして千里の馬至る者三云々」。あれが心を尽くす模様である。
【語釈】
・通鑑周赧王元年、燕昭王求賢者。郭隗曰、以千金求馬。馬死。買其骨。君怒。涓人曰、死馬且買之、况生者乎。馬今至矣。不期年而千里馬至者三云々…戦国策燕策。「昭王曰、寡人將誰朝而可。郭隗先生曰、臣聞古之君人、有以千金求千里馬者。三年不能得。涓人言於君曰、請求之。君遣之。三月得千里馬、馬已死。買其首五百金、反以報君。君大怒曰、所求者生馬、安事死馬而捐五百金。涓人對曰、死馬且買之五百金、況生馬乎。天下必以王爲能市馬、馬今至矣。於是不能期年、千里之馬至者三。今王誠欲致士、先從隗始。隗且見事、況賢於隗者乎、豈遠千里哉」。

○德業は、德がありても業がないと人の師になりか子る。業がありても德がのふては藝になる。講釈の上手は業德の人からの至極になることぞ。日土圭に柱のあるを表と云ふ。方々から的居を見てをるやふに、云はうやふもないぞ。さて德業の備りたものばかりはな井。○篤志好学は、垩賢を目かけてをるもののことぞ。○材良はすなをなこと。生れ付かすなをにまっすくなこと。人にもえこぢわる井と云者がある。学者にもそれがある。彼れ此れとむづかしく云ふは才良でない。○行脩は、みもちに云ひぶんのないことぞ。これなれば、百姓てあらふと町人であろふと家筋にかまふことではな井。此方から使をやりてま子ぐことぞ。○敦遺はあつくやれと云ことで、傳馬のことても川々のことでも、ずっと通られる勢ひにする。勢ひのあると云ふでなくてはならぬことぞ。公儀へ出るに、西行が冨士見るやふな出やふてはならぬ。朝夕正しひ学問を吟味する。これが三代には異端邪術はな井。学而時習之は学甘盤のと云ふて、一筋より外はな井。
【解説】
「有德業充備足爲師表者、其次、有篤志好學材良行脩者、延聘・敦遣萃於京師、俾朝夕相與講明正學、其道必本於人倫」の説明。徳だけでは人の師にはなれず、業だけでは芸になる。徳業の備わった者を探す。その次は、聖賢を目掛けている篤志好学の者を探す。生まれ付きが素直で身持のよい人であれば家筋に構うことなく招く。
【通釈】
「徳業」。徳があっても業がないと人の師にはなりかねる。業があっても徳がなくては芸になる。講釈上手になるには業徳の人によって至極になるもの。日時計に柱のあるのを「表」と言う。方々から纏を見ている様で、言い様もないこと。さて、徳業の備った者ばかりではない。「篤志好学」は、聖賢を目掛けている者のこと。「材良」は素直なこと。生まれ付きが素直で真っ直ぐなこと。人にも依怙地悪いという者がある。学者にもそれがある。かれこれと難しく言うのは材良ではない。「行修」は、身持に言い分のないこと。これであれば、百姓であろうと町人であろうと家筋に構う必要はない。こちらから使いを遣って招く。「敦遺」は厚く招くということで、伝馬のことでも川々のことでも、ずっと通られる勢いにする。勢いがあるというのでなくてはならない。公儀へ出るのに、西行が富士を見る様な出様ではならない。朝夕正しい学問を吟味する。三代に異端邪術はない。「学而時習之」、「学甘盤」と言い、一筋より外はない。
【語釈】
・学而時習之…論語学而1。「子曰、學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎」。
・学甘盤…書経説命下。「王曰、來汝説。台小子。舊學于甘盤」。

○明乎物理は、物の上に道理かあるが、みがかぬと耳を鼻へをっつける様な事がある。口へ食ふものを鼻から食はれぬが、物理を明らかにせぬと万事に付て鼻からめしをくふ様なことをする。学問せ子は、將棋のききを知らずに將棋をさすやふなもの。されども人は仁義礼智の明なものをもってをるゆへ、学びずともとふかこふかするが、どこぞでは途方もないことをする。○本於人倫は小学全体。明乎物理は大学の入り口。○周旋礼楽でしこむと、かたいのだらけたのと云ことはない。これを小学の時からしこむゆへ、一っ手な人になること。○誘掖云々。人を教ゆるか師の役。弟子もたた毎日顔を合せたばかりではならぬ。師匠からた子く引まわすぞ。誘掖と云は道のわる井所て子共の手を引くやふなもの。○漸摩は、とどの処が急にはならぬもの。そろ々々とよくするなり。在寛と云ふがこれぞ。味噌のなれるやふなもの。酒も米をあらふてから、あれまでは甚たしかたのあることぞ。なれともこの通りしてゆけば、ただの人も垩人になられるものをもってをる。今日この咄をき井て酒を買ふと云ほどのりがつか子ば面白くはない。垩人は遠いやふで実事ゆへなられる。長崎は遠けれとも、行こふとさへ思へばそろり々々々とゆかれる。凡夫も目や鼻のある様に仁義礼智がある。
【解説】
「明乎物理、其敎自小學灑掃應對以往、脩其孝悌・忠信・周旋・禮樂、其所以誘掖・激勵、漸摩成就之之道、皆有節序。其要在於擇善、脩身、至於化成天下」の説明。人には仁義礼智が備わっているが、学ばなくては途方もないことをする。そこで、物理を明にしなければならない。小学の時分から灑掃応対によって、孝悌・忠信・周旋・礼楽を修める様にするのである。
【通釈】
「明乎物理」。物の上に道理はあるのだが、磨かないと耳を鼻へ押し付ける様なことがある。口で食うものを鼻から食くことはできないが、物理を明らかにしないと万事に付けて鼻から飯を食う様なことをする。学問をしないのは、駒の利きを知らずに将棋を指す様なもの。人は仁義礼智の明なものを持っているので、学ばなくてもどうかこうかするが、何処かでは途方もないことをする。「本於人倫」は小学の全体、「明乎物理」は大学の入口である。「周旋礼楽」で仕込むと、きついとかだらけたということはない。これを小学の時から仕込むので、一人前の人になる。「誘掖云々」。人を教えるのが師の役。弟子もただ毎日顔を合わせるばかりではならない。師匠が細やかに引き回すのである。誘掖とは道の悪い所で子供の手を引く様なもの。「漸摩」。急にはならない。そろそろとよくする。「在寛」と言うのがこれ。味噌の熟れる様なもの。酒も、米を洗ってからあれまでになるのには甚だ仕方がある。しかし、この通りして行けば行ける。ただの人でも聖人になれるものを持っているのである。今日この話を聞いて酒を買おうと言うほどに乗りが付かなければ面白くはない。聖人は遠い様だが実事なので、それになることができる。長崎は遠いが、行こうとさえ思えばそろりそろりと行ける。凡夫でも目や鼻がある様に仁義礼智がある。
【語釈】
・在寛…書経舜典。「帝曰、契。百姓不親、五品不遜。汝作司徒、敬敷五教在寬」。

○郷人は鏡をとかぬやふなもの。とぐとなにもかもうつる。雲霧がはれると十五夜の月も明かになる。これほどな学問じゃに詩を作るの文章をかき、それを学問と云ふはかたはらをかし井ことなり。詩文のよ井は、よ井音て浄瑠理を語るやふなもの。よ井と云ふたばかりで役に立ぬ。学問はこの五尺のからだを天地にはめ、天地の理をうのみにすることぞ。○賢者能者云々。賢者は德を主に云ひ、能者は事業を主に云ふ。書の取扱から講釈迠をよくすることを能者と云ふ。講釈も口拍子で云ふてしまふ筈はない。一生の人の覺悟になることゆへ、きっと理の通りを云て聞せやふことぞ。かるはづみに云はうことではない。孔子や孟子の云ふたことを云ふゆへ、云やふで人の藥になる。范淳夫が講釈のしやふがよくて天子も格別感心あったと云ふ。能者ぞ。
【解説】
「自郷人而可至於聖人之道。其學行皆中於是者爲成德、取材識明達可進於善者、使日受其業。擇其學明德尊者、爲大學之師。次以分敎天下之學。擇士入學。縣升之州、州賓興於大學、大學聚而敎之、歳論其賢者・能者於朝。凡選士之法、皆以性行端潔」の説明。学問とは、五尺の体を天地に嵌め、天地の理を鵜呑みにすること。賢者は徳を主に言い、能者は事業を主に言う。
【通釈】
「郷人」は鏡を研がない様なもの。研ぐと何もかも写る。雲霧が晴れると十五夜の月も明らかになる。これほどな学問なのに、詩を作ったり文章を書いたりするのを学問と言うのは片腹痛いこと。詩文のよいのは、よい音で浄瑠璃を語る様なもの。よいというだけで役に立たない。学問はこの五尺の体を天地に嵌め、天地の理を鵜呑みにすること。「賢者能者云々」。賢者は徳を主に言い、能者は事業を主に言う。書の取り扱いから講釈までをよくすることを能者と言う。講釈も口拍子で言って済ます筈はない。一生の人の覚悟になることなので、しっかりと理の通りを言って聞かせなければならない。軽はずみに言うことではない。孔子や孟子の言ったことを言うので、言い様で人の薬になる。范淳夫は講釈の仕方がよかったので天子も格別に感心したという。能者である。
【語釈】
・范淳夫…名は祖禹。唐鑑を著す。

○孝悌の吟味が大事。学問はよ井が、親父とは不和と云ふてはつまらぬ。○通明はすっと明なことぞ。すっと明でなふては人の師にはならぬことぞ。通明は国元の咄をする様なもの。あそこは誰がやしきであそこには誰がいると云ふ。天下のことはさま々々で、大旱と云ふこともあり、大火と云こともある。そのたびにしむけがある。これがありて上へ出ることぞ。この通明暁達と云て一疋ぞ。今の学者は贔屓でしまふ。堺町の役者が贔屓をたのむと云ふ様なもの。今の学者も通明暁達のためしはなく、弟子などか、をらが先生格別とひ井きする。それゆへ役に立ぬ。或大名が山崎先生へ、國元へつかわすからよい御弟子をと云たれば、山崎先生が、よ井弟子がござらぬ。直方と浅見を見て、あれらは出ますまいと云た。そんなら家来を御弟子にしてよくしたいと云たれば、儒者は大根や午房の出来るやふて出来ぬものと云へり。いかさま通明暁達にするなれば、中々請合れぬ。ただ贔屓でたのむ筋はさても々々々ぞ。
【解説】
「居家孝悌、有廉恥禮讓、通明學業、曉達治道者」の説明。天下のことは様々とあるが、そこを通明曉達して一人前になる。儒者は簡単に成るものではない。
【通釈】
「孝悌」の吟味が大事。学問はよいが、親父とは不和というのでは詰まらない。「通明」はずっと明なこと。ずっと明でなくては人の師にはなれない。通明は国許の話をする様なもの。あそこは誰の屋敷であそこには誰がいると言う。天下のことは様々で、大旱ということもあり、大火ということもある。その度に仕向けがある。これがあって上へ出る。この「通明曉達」で一疋になる。今の学者は贔屓で終える。それは、堺町の役者が贔屓を頼むと言う様なもの。今の学者も通明曉達の験しはなく、弟子などが、俺の先生は格別と贔屓をする。それでは役に立たない。ある大名が山崎先生に、国許へ使わすからよい御弟子をと言うと、山崎先生が、よい弟子はいない。直方と浅見を見て、あれらは出ないだろうと言った。それなら家来を御弟子にしてよくしたいと言うと、儒者は大根や牛蒡ができる様にはできないものと言った。いかにも通明曉達にすることなので、中々請け合えない。ただ贔屓で頼む筋では実に悪い。


善行6
○伊川先生看詳學制。大槩以爲學校禮義相先之地、而月使之爭、殊非敎養之道。請改試爲課、有所未至、則學官召而敎之、更不考定高下。制尊賢堂、以延天下道德之士、鐫解額以去利誘、省繁文以專委任、勵行檢以厚風敎、及置待賓・吏師齋、立觀光法。如是者亦數十條。
【読み】
○伊川先生學制を看詳す。大槩以て學校は禮義相先にするの地にして、而して月に之を爭わしむは、殊て敎養の道に非ずと爲す。試を改めて課と爲し、未だ至らざる所有れば、則ち學官召して之を敎え、更に高下を考定せず。尊賢堂を制して、以て天下道德の士を延き、解額を鐫[ほ]りて以て利誘を去り、繁文を省きて以て委任を專らにし、行檢を勵して以て風敎を厚くし、及び待賓・吏師齋を置き、觀光の法を立つるを請う。是の如き者亦數十條。

○伊川先生看詳云々。ここは伊川のことなれば陽城とはちがふことなれとも、陽城も忠孝をする為めと本意へ祟る。伊川先生にまけぬ教なり。伊川先生が学挍の教やふが気に入らぬ。ああではあるまいと見るに、やっはり礼義を先とする本意へ祟る。これは二程全書にありてながいことぞ。近思彔にもちとなかくあるが、小学はくっとつめたものぞ。人は礼義が第一な筈。人の上に立ちたがり、慢勝なことはないはづぞ。爭は器量を爭ふことなり。出家などもはげむ付て天台の論義、禅坊主の江湖もあれをするで油断がならぬ。みがくぞ。學挍争もそれなり。されとも垩人の世をふりかへりて見たとき、垩人の教に争ふことはない筈。人に勝ちたいの、人ををしのけ上へ出た井のと云ふては道德に進むことはなられぬこと。争と云ふになると、この頃元服したものが上に立つこともある。
【解説】
「伊川先生看詳學制。大槩以爲學校禮義相先之地、而月使之爭、殊非敎養之道」の説明。人は礼義が大事であり、人に勝とうとするのは本来のことではない。聖人の教えに争うことなどはない。
【通釈】
「伊川先生看詳云々」。ここは伊川のことなので陽城とは違うが、陽城も忠孝をするためだと本意へ祟るもので、伊川先生に負けない教えである。伊川先生は学校の教え様が気に入らない。ああではないだろうと見て、やはり礼義を先として本意へ祟る。これは二程全書にあって長いもの。近思録にも一寸長くあるが、小学はぐっと詰めたもの。人は礼義が第一な筈。人の上に立ちたがり、慢勝であることはない筈。「争」は器量を争うこと。出家なども励む序に天台などが論議をする。禅坊主の江湖会も、あれをするので油断がならない。磨くのである。学校の争いもそれ。しかし、聖人の世を振り返って見た時、聖人の教えに争うことなどはない筈。人に勝ちたいとか、人を押し退けて上に出たいと言っては道徳に進むことはできない。争うことになると、この頃元服した者が上に立つことにもなる。
【語釈】
・陽城…小学外篇善行3を指す。
・江湖…江湖会。禅宗、特に曹洞宗で、四方の僧侶を集めて夏安居の制を行うこと。また、その道場。

○試は入れ札をする様に、これが一番これが二番と云ふ。爭になるの本なり。○不考定云々。はりあ井のぬけることぞ。さて本道ははりあいがぬけるのぬけぬのと云ふことはない。はりあ井と云ふは藝者根性ぞ。学問にはないことぞ。賢者と云ふには無調法なをやぢもあるが尊ぶなり。都の学挍へ五百人も六百人も来て食ひつぶし、迂偽に学問をしてをりたものがあった。○解は貢と同じことで、上へものあげることぞ。田舎の学問から役に立つものとだす。それが解なり。その解の姓名を書くことを額と云ふ。さて学問所で人抦がわるくなると云ことある。京都などへも勤学にやると云ことがある。あの近國西国大名より若ひ者を出すが、わるくすると身持がわるうなるぞ。なせなれば、親や兄の側にをりたときは、ちとわるいことがあっても叔父などがこの様なことを聞たと云ふ。学挍は他人ばかりゆへ、つひ道落をもする。若ひ者は父兄の側がなんぼでも人抦はくづれぬものぞ。
【解説】
「請改試爲課、有所未至、則學官召而敎之、更不考定高下。制尊賢堂、以延天下道德之士、鐫解額以去利誘、省繁文以專委任、勵行檢以厚風敎」の説明。「試」を止めて「課」とすべきである。高下を評定しないと張り合いが抜ける様だが、張り合いなどは芸者根性である。若者は父兄の側にいれば人柄が崩れないものだが、学問所に行くことで人柄が悪くなるということがある。
【通釈】
「試」は入札をする様に、これが一番これが二番とすること。これが争いになる本である。「不考定云々」。これでは張り合いが抜けるが、本来のことは張り合いが抜けるとか抜けないとかということではない。張り合いというのは芸者根性であって、学問にはないこと。賢者には無調法な親父もいるが、それを尊ぶ。都の学校へ五百人も六百人も来て食い潰し、嘘で学問をしていた者があった。「解」は貢と同じことで、上へ人を上げること。田舎の学問所から役に立つ者を出す。それが解である。その解の姓名を書くことを「額」と言う。さて学問所で人柄が悪くなるということがある。京都などへも勤学に遣るということがある。あの近国西国の大名から若い者を出すが、悪くすると身持が悪くなる。それは何故かと言うと、親や兄の側にいた時は、一寸悪いことがあっても叔父などがこの様なことを聞いたぞと言うが、学校は他人ばかりなので、つい道楽をもするからである。若い者は父兄の側だと、どうでも人柄は崩れないもの。

○待賓云々。尊賢堂と同じこと。道德のある老人を学挍の客にする。某なども迂斉の講席で人の茶の給仕をした。若州小濱興津壮固と云老人ありき。老を礼したなり。○さて觀光とは一体のことが学問所で知れる。風俗も学挍でわかるものぞ。大学の序に教化陵夷風俗頽敗と云。学挍がよふな井と国も治らぬ。觀国之光とはそこなり。さて昔のことにすま井こと。右段々のことが端的この通りが今なる様にしたものぞ。直方先生の云ふがまぼこにしてくわせろと云ふがこれなり。鐫ると云は解額を刻み直し改るなり。五百人ほどありたのを外へやること。そこで姓名をけづるなり。それをするが利誘を去のぞ。利誘を去で、大勢これまで無益にそこに集り居たなり。繁文と云は、これまで学挍にいろ々々と無用な法あるを云ふ。その法を守るゆへ、学挍の師が一はいがならぬ。一はいをせ子ば委任專ことにあらず。繁文を省略してそれにかまわず、師たるものに人を教る委任を心一はいにさすることぞ。即ち安定の弟子が師説を信すると云にて、繁文にかまわず委任の專なを見るべきことなり。
【解説】
「及置待賓・吏師齋、立觀光法。如是者亦數十條」の説明。道徳のある老人を学校の客にする。学校がよくないと国も治まらない。学問所には無益な者が多くいるから「解額」を刻み直すのがよい。また、無用な法が色々とあって師が力を発揮することができない。そこで「繁文」を省略するのがよい。
【通釈】
「待賓云々」。「尊賢堂」と同じこと。道徳のある老人を学校の客にする。私なども迂斎の講席で人の茶の給仕をした。そこに若州小浜の興津壮固という老人がいた。老を礼した。さて「観光」で、一体のことが学問所で知れる。風俗も学校でわかるもの。大学の序に「教化陵夷風俗頽敗」とある。学校がよくないと国も治まらない。「観国之光」はそこ。さて昔のことにしてはならない。右段々のことが、端的この通りにすることができるとしたもの。直方先生が、蒲鉾にして食わせろと言うのがこれ。「鐫」は解額を刻み直して改めること。五百人ほどいたのを外へ遣ること。そこで姓名を削る。それをするのが「去利誘」のためである。去利誘と言うのが、これまで大勢が無益にそこに集まっていたからである。「繁文」は、学校にはこれまで色々と無用な法があったことを言う。その法を守るので、学校の師が力を発揮することができない。力を発揮することができなければ、委任を専らにすることができない。繁文を省略してそれに構わず、師たる者に人を教える委任を心一杯にさせるのである。安定の弟子が師説を信じたことから、繁文に構わず委任の専らなことを見なさい。
【語釈】
・若州小濱興津壮固…興津莊固。名は長教。初め市右衛門と称す。若狭小浜藩家老。致仕して莊固。宝暦8年(1758)没。年78。稲葉迂斎門下。
・教化陵夷風俗頽敗…大学章句序。「及周之衰、賢聖之君不作、學校之政不修、敎化陵夷、風俗頽敗」。
・觀国之光…易経觀卦。「六四。觀國之光。利用賓于王。象曰、觀國之光、尚賓也」。
・安定の弟子が師説を信する…小学外篇善行4。「信其師説敦尚行實」。