善行10
○薛包好學篤行。父娶後妻而憎包分出之。包日夜號泣不能去。至被敺杖、不得已廬于舍外、旦入而灑掃。父怒又逐之。乃廬於里門、晨昏不廢。積歳餘、父母慚而還之。後服喪過哀。既而弟子求分財異居。包不能止。中分其財。奴婢引其老者曰、與我共事久、若不能使也。田廬取其荒頓者曰、吾少時所理、意所戀也。器物取其朽敗者曰、我素所服食、身口所安也。弟子數破其産輒復賑給。
【読み】
○薛包學を好み行いを篤くす。父後妻を娶りて包を憎み之を分ち出だす。包日夜號泣して去ること能わず。敺杖[おうじょう]せらるるに至りて、已むを得ずして舍外に廬し、旦に入りて灑掃す。父怒りて又之を逐う。乃ち里門に廬し、晨昏廢せず。積むこと歳餘、父母慚じで之を還す。後喪に服して哀に過ぐ。既にして弟の子財を分ち居を異にせんことを求む。包止むる能わず。[すなわ]ち其の財を中分す。奴婢は其の老いたる者を引きて曰く、我と事を共にすること久し、若使うこと能わじ、と。田廬は其の荒頓なる者を取りて曰く、吾が少[わか]き時理むる所、意戀うる所なり、と。器物は其の朽敗する者を取りて曰く、我が素服食する所、身口安んずる所なり、と。弟の子數々其の産を破れば輒ち復た賑給す。

二月二十一日
【語釈】
・二月二十一日…寛政2年(1790)2月21日。

○薛包好学云々。これより下、孝子を並たに、學問けのあるもあれば学問けのな井もあるか、学問のあるな井にかまわぬと云ふか善行篇の趣向なり。さて学者の方で吟味するときは、学問がな井と孝行と思ふことに不孝かある。それは大学や近思彔で云ふこと。小学の善行ではそれに頓と貪着せぬことぞ。八九十年前に今泉村五郎ェ門と云ふ孝行人あって読み賣にしたと云ふ。あれも朱子の前にあればこれに載ることなり。○分出之は勘當ではなく、己かやふなやつは鼻の先に置くもいやじゃと云ふてたたき出した。身上を分けて、己はわきへゆけと云ふたことなり。親と云ふものは子を可愛かるものなれども、ものに迷ふ段になればこれなり。己れくるなと云ふたになせきた。親の面を踏付にすると云てたたきちらす。なんぼ親でもと云ふ気が出そうなものなれとも、晨昏不廃云々なり。そこで親も面目なくなってきたゆへ反したそ。
【解説】
「薛包好學篤行。父娶後妻而憎包分出之。包日夜號泣不能去。至被敺杖、不得已廬于舍外、旦入而灑掃。父怒又逐之。乃廬於里門、晨昏不廢。積歳餘、父母慚而還之。後服喪過哀」の説明。薛包の父は薛包が嫌いだったので分家にして追い出した。薛包は毎日早朝に父のもとへ行って掃除をしたので、父は彼を叩いて追い出した。それでも薛包は朝夕のご機嫌伺いを欠かさなかった。そこで、父も恥ずかしくなって彼を家に戻した。
【通釈】
「薛包好学云々」。これより下に孝子を並べてある。それには学問気のあるものも学問気のないのもあるが、学問のあるないに構わないというのが善行篇の趣向である。さて学者の方で吟味する時は、学問がなければ孝行と思うことにも不孝があるが、それは大学や近思録で言うこと。小学の善行ではそれには全く頓着をしない。八九十年前に今泉村五郎衛門という孝行な人がいて読売に載ったと言う。あれも朱子の前にいればこれに載ったことだろう。「分出之」は勘当ではなく、お前の様な奴は鼻の先に置くのも嫌だと言って叩き出したこと。身上を分けて、お前は脇へ行けと言ったのである。親というものは子を可愛がるものだが、ものに迷う段になるとこの通りである。お前は来るなと言ったのに何故来たのか。親の顔を踏み付けにすると言って叩き散らす。それではいくら親でもという気になりそうなものだが、「晨昏不廃云々」だった。そこで親も面目がなくなって来たので家に戻した。
【語釈】
今泉村五郎ェ門

○弟子求分財異居は、薛包かやふなものがあって、ろくな親や兄弟はなかったと見へて、薛包はいつ迠も兄弟一所にをろふと思ふたれども、大勢の弟どもかたってとあるゆへ不能止なり。財は金銭のことを云へとも、身帯を分けることゆへ、田地も山もなにもかもひとつに云ふ。○荒はあれると云字で田についた字。頓は壊頓とつつき、つぶれること。廬につ井た字なり。こわれかかった小座敷などを、これはをれが若ひ時からをったなじみの座敷じゃと云ふて取りこはれた。椀などを、これははけたれとも、ま井からこれで食ふて口にをちついて食ひよいと云ふ。つまるところ迂偽と云ふことは学者の方で禁物なことなれとも、この迂偽ばかりはつひてもよ井。天道へも通することなり。今日の人は迂偽をついて手前の勝手をする。薛包は迂偽をついて手前の勝手をせぬ。○輒はたやすいと云ふ字で、手短なことなり。それと云てやることぞ。せふことなしにやるでない。○復は、前にやったをなくすとまたやることなり。
【解説】
「既而弟子求分財異居。包不能止。中分其財。奴婢引其老者曰、與我共事久、若不能使也。田廬取其荒頓者曰、吾少時所理、意所戀也。器物取其朽敗者曰、我素所服食、身口所安也。弟子數破其産輒復賑給」の説明。弟にせがまれて薛包は財産を分けた。その時も、薛包は荒れた田地や老朽した器物などを、自分の馴染みのだと嘘を吐いて貰った。その様な嘘は自分勝手にすることではないから吐いてもよい。また、前に遣ったものを弟が失えば、また遣った。
【通釈】
「弟子求分財異居」。薛包の様な者がいても、碌な親や兄弟はいなかったと見えて、薛包はいつまでも兄弟一所にいようと思ったのだが、大勢の弟共がたっての望みと言うので「不能止」で財産を分けた。「財」は金銭のことを言うが、身代を分けることなので、田地も山も何もかも一つに言う。「荒」はあれるという字で田に付いた字。「頓」は壊頓と続き、潰れることで、廬に付いた字。壊れかかった小座敷などを、これは俺が若い時からいた馴染みの座敷だと言って請うて取った。椀などを、これは剥げているが、前からこれで食っているので口に落ち着いて食いよいと言う。詰まるところ嘘を吐くのは学者には禁物だが、この嘘ばかりは吐いてもよい。天道へも通じるもの。今日の人は嘘を吐いて自分勝手をする。薛包は嘘を吐いて自分勝手をしない。「輒」は容易いという字で、手短なこと。それと言って遣ること。仕方なく遣るのではない。「復」は、前に遣ったのをなくせばまた遣るということ。


善行11
○王祥性孝。蚤喪親、繼母朱氏不慈、數譖之。由是失愛於父、毎使掃除牛下。祥愈恭謹。父母有疾、衣不解帶、湯藥必親嘗。母嘗欲生魚。時天寒冰凍。祥解衣將剖冰求之。冰忽自解、雙鯉躍出。持之而歸。母又思黄雀炙。復有雀數十飛入其幕。復以供母。郷里驚嘆、以爲孝感所致。有丹柰結實。母命守之。毎風雨祥輒抱樹而泣。其篤孝純至如此。
【読み】
○王祥、性孝なり。蚤く親を喪い、繼母朱氏慈ならず、數々之を譖す。是に由りて愛を父に失い、毎に牛下を掃除せしむ。祥愈々恭謹なり。父母疾有れば、衣帶を解かず、湯藥必ず親[みずか]ら嘗む。母嘗て生魚を欲す。時に天寒にして冰凍る。祥衣を解きて將に冰を剖[さ]きて之を求めんとす。冰忽ち自ら解け、雙鯉躍り出ず。之を持して歸る。母又黄雀の炙を思う。復た雀數十飛びて其の幕に入る有り。復た以て母に供す。郷里驚嘆して、以て孝感の致す所と爲す。丹柰實を結ぶこと有り。母命じて之を守らしむ。風雨毎に祥輒ち樹を抱きて泣く。其の篤孝純至なること此の如し。

○王祥云々。孝の上に性の字あるがくるいない文字じゃと合点するがよい。唐辛や沙糖はいつも々々々からくいつも々々々あまい。ちょふどその様に、いつも孝行なり。今日の人は孝行にたちきへかする。迂斉の弁に、天然自然骨髄の孝行と云ふ弁じゃと云へり。○牛下は、きっと牛の糞と不潔をさして云はずに牛下と云で不潔ぞ。これか身帯のわるい者はにくんてするではないが、王祥は歴々で大勢家来もありて、それをする身分ではな井が、くわたいにこの様なことを云ひ付たものなり。子共もつかいやふがあるものぞ。家来が牛部屋の掃除してをると、我はこちへこいと云ふて菊畑の掃除をさせて、王祥に牛部屋の掃除をさせる。そのやふなことをさせるに、愈恭謹なり。直方先生の云ふ、孝行をくらやみてもとりちかへぬと云がこれなり。こちを親がむごくすれはなを々々恭そ。愈と云字か孝子にも忠臣にもつく。謝枋得が雪中松柏愈青々と書た。変のあるときもかわらぬことなり。牛糞をさらふにつつしむことでないか、茶湯道具てもかたつける様にする。これがみな性孝也からきたもの。○帯は大帯と云ふて官衣になるゆへ、此方で云へば袴を取らぬと云やふなものなり。これで子ぬことなり。
【解説】
「王祥性孝。蚤喪親、繼母朱氏不慈、數譖之。由是失愛於父、毎使掃除牛下。祥愈恭謹。父母有疾、衣不解帶、湯藥必親嘗」の説明。ここに「性孝」とあるのが、いつも孝行だということ。王祥は継母に愛されず、牛部屋の掃除までさせられていたが、親が酷くすればするほど恭んだ。
【通釈】
「王祥云々」。「孝」の上に「性」の字のあるのが狂いのない文字だと合点しなさい。唐辛子や砂糖はいつも辛くいつも甘い。丁度その様に、いつも孝行である。今日の人は孝行に立ち消えがする。迂斎の弁に、天然自然骨髄の孝行ということだとある。「牛下」は、はっきりと牛の糞と不潔を指して言わずに牛下で不潔なことを言う。これが身代の悪い者を憎んでするのではないが、王祥は歴々で大勢の家来もいて、それをする身分ではないのだが、過大にこの様なことを言い付けた。子供にも使い様があるもの。家来が牛部屋の掃除していると、お前はこちらへ来いと言って菊畑の掃除をさせて、王祥に牛部屋の掃除をさせた。その様なことをさせたのに、「愈恭謹」である。直方先生が、孝行を暗闇でも取り違えないと言うのがこれ。親が酷くすれば尚更に恭む。愈という字が孝子にも忠臣にも付く。謝枋得が「雪中松柏愈青々」と書いた。変のある時にも変わらないということ。牛糞を浚うのが恭むことでもないが、茶湯道具でも片付ける様にする。これが皆性孝から来たもの。「帯」は大帯と言って官衣になる。日本で言えば袴を取らないという様なもの。これで寝ないことを言う。
【語釈】
・謝枋得…南宋末の忠臣。文人。字は君直。畳山と号。江西弋陽の人。元軍が江都を侵すや義軍を募って迎戦して敗れ、虜となっても節を屈せず餓死。著「畳山集」。編「文章軌範」。1226~1289
・雪中松柏愈青々…謝枋得。初到建寧賦詩。「雪中松柏愈青青、扶植綱常在此行。天下久無龔勝潔、人間何獨伯夷清。義高便覺生堪捨、禮重方知死甚輕。南八男兒終不屈、皇天上帝眼分明」。

○或時母が生魚が食ひたいと云ふた。これも江戸などではむづかしくないこと。この方で云へば東金へ買ひにやれと云ふ。井やそれは死んだのじゃ。生魚をと云ふときに、すはの湖水を狐かわたりはじめるころのやふに、どこもかも氷がはりつめてをる。世間に傳る二十四孝の繪を見るに、王祥が氷に腹をあててをるが、あれは繪のかきちかい。帯を解いてかかろふとするところなり。その内に氷がとけてはち々々と鯉が二疋出た。こんどは雀を食たいと云ふたれば、雀がのれんの中へ入りた。そこで一在所でもきもをつぶして、誠に王祥か孝行、天へも通したであろふと評判をしたぞ。さてこれには吟味のあることなり。人間と人間のことはめづらしいことはなくうたか井はないが、人と天との感通のことは、天は形な井ゆへ疑ふか、人と天は本と一心なものゆへ、人の方の誠が至れは天心とひとつになる。迂斉の、これは微妙なことなれとも、天から感ずるも段々あるを見ること。理外な不思儀なことは学者の方ではとらぬことなれとも、これは理外なことはない。あるべき鯉が出、あるべき雀がきた。明の世に祁王と云女があって、夫がいこふ鯉がすきであった。死後に何卒買ふて具へたう思ふて求むれども、あの方は大國ゆへ江河の辺へ近くないものは中々求られぬ。高金を出して買たれば、鯉の腹から金か一两出たと云ふ。これはそらことと迂斉云へり。なぜなれは、理外なことなり。この様なことは必いつはりか妖恠なものぞ。王祥のはあるべきことなり。時も時、をりもをり、王祥が誠が天へ通したかして鯉か出たと見ることなり。
【解説】
「母嘗欲生魚。時天寒冰凍。祥解衣將剖冰求之。冰忽自解、雙鯉躍出。持之而歸。母又思黄雀炙。復有雀數十飛入其幕。復以供母。郷里驚嘆、以爲孝感所致」の説明。厳寒に継母が生魚を食いたいと言うので王祥が水辺に行って魚を獲ろうとすると、氷が解けて二匹の鯉が出た。雀が食いたいと継母が言うと、雀がこちらに捕まりに来た。人と天は本来一心なものなので、人の方の誠が至れば天心と一つになる。そこで、王祥のことは理外なことではない。
【通釈】
或る時母が生魚を食いたいと言った。これも江戸などでは難しくないことだが、こちらで言えば東金へ買いに遣れと言う。いや、それは死んだ魚だ。生魚をと言う時に、諏訪の湖水を狐が渡り始める頃の様に、何処もかも氷が張り詰めている。世間に伝わる二十四孝の絵を見ると王祥が氷に腹を当てているが、あれは絵の描き違い。帯を解いて掛かろうとしたところ、その内に氷が解けてばちばちと鯉が二匹出た。今度は雀を食いたいと言うと、雀が暖簾の中に入って来た。そこで一在所でも肝を潰して、誠に王祥の孝行が天へも通じたのだろうと評判をした。さてこれには吟味のあること。人間と人間とのことは珍しいことはなくて疑いはなく、人と天との感通のことは、天は形がないので疑うが、人と天は本来一心なものなので、人の方の誠が至れば天心と一つになる。迂斎が、これは微妙なことだが、天が感ずるにも段々があることを知らなければならないと言った。理外な不思議なことは学者の方では取らないが、これは理外なことではない。あるべき鯉が出、あるべき雀が来た。明の世に祁王という女がいて、夫は大層鯉が好きだった。死後に何卒買って具えたいと思って求めたが、中華は大国なので江河の辺りに近くない者には中々求められない。高金を出して買うと、鯉の腹から金が一両出たという。これは空言だと迂斎が言った。それは何故かと言うと、理外なことだからである。この様なことは必ず偽りか妖恠なもの。王祥のはあるべきこと。時も時、折も折、王祥の誠が天へ通じて鯉が出たと見るのである。

○王祥か梨子の木に抱付て泣たもたわけなことぞ。されども親へたいして利口めいたことはわる井。そんなら馬鹿がよいかと云をふが、兎角利口はうす井ものなり。実情かなくなる。子共は正直ゆへ泣く。成人はたかをくくる。親へはいつも子共のときの通りなか孝子なり。篤はひととをりではない。子ころの椀のやうで、あつい湯を入れてもなか々々はけぬ。今日の人の孝行は大坂下りの重箱の様に、立派に蒔繪もあるがじきにはける。迂斉の、篤行純至を継母へあててみろと云ふた。みぢんも継母などと云心はな井。我を生た親ではないなどと云ふ心あっては中々こふはゆかぬことなり。
【解説】
「有丹柰結實。母命守之。毎風雨祥輒抱樹而泣。其篤孝純至如此」の説明。王祥が梨の木に抱き付いて泣いたのは戯けたことだが、親に利口めいたことをするのは悪い。王祥は「篤孝純至」で、継母などという心はなかった。
【通釈】
王祥が梨の木に抱き付いて泣いたのも戯けなこと。しかしながら、親に対して利口めいたことをするのは悪い。それなら馬鹿がよいかと言うが、とかく利口は薄いもの。実情がなくなる。子供は正直なので泣く。成人は高を括る。親へはいつも子供の時の通りなのが孝子である。「篤」は一通りではないこと。根来塗りの椀の様で、熱い湯を入れても中々剥げない。今日の人の孝行は大坂下りの重箱の様で、立派な蒔絵もあるが直ぐに剥げる。迂斎が、「篤孝純至」を継母へ当てて見ろと言った。微塵も継母などという心はない。自分を生んだ親ではないなどという心があっては中々この様には行かない。


善行12
○王裒字偉元。父儀爲魏安東將軍司馬昭司馬。東關之敗、昭問於衆曰、近日之事誰任其咎。儀對曰、責在元帥。昭怒曰、司馬欲委罪於孤耶。遂引出斬之。裒痛父非命、於是隱居敎授、三徴七辟皆不就。廬于墓側、旦夕常至墓所拜跪、攀栢悲號。涕涙著樹、樹爲之枯。讀詩、至哀哀父母、生我劬勞、未嘗不三復流涕。門人受業者、並廢蓼莪之篇。家貧躬耕、計口而田、度身而蠶。或有密助之者。裒皆不聽。及司馬氏簒魏、裒終身未嘗西向而坐。以示不臣于晉。
【読み】
○王裒[おうほう]、字は偉元。父儀、魏の安東將軍司馬昭の司馬爲り。東關の敗に、昭、衆に問いて曰く、近日の事誰か其の咎を任ぜん、と。儀對えて曰く、責、元帥に在り、と。昭怒りて曰く、司馬、罪を孤に委せんと欲するや、と。遂に引き出して之を斬る。裒、父の非命を痛み、是に於て隱居し敎授し、三徴七辟皆就かず。墓側に廬し、旦夕常に墓所に至りて拜跪し、栢を攀[よ]じて悲號す。涕涙樹に著き、樹之が爲に枯る。詩を讀みて、哀哀たり父母、我を生みて劬勞せりに至りて、未だ嘗て三復して涕を流さずんばあらず。門人、業を受くる者、並びに蓼莪[りくが]の篇を廢す。家貧にして躬ら耕し、口を計りて田づくり、身を度りて蠶[さん]す。或は密かに之を助くる者有り。裒皆聽かず。司馬氏魏を簒うに及びて、裒身を終うるまで未だ嘗て西に向きて坐せず。以て晉に臣たらざるを示す。

○王裒云々。○安は、將軍は天下の乱を安するゆへ安の字つく。○東は安西の安東のと將軍がわかれてをりた。○司馬昭は魏の將軍で、王儀はその將なり。儀がだいのきれもので、今度の敗軍は誰が無調法と云ふことではござらぬ、御前でこざるとすっかりと云はなした。そこで司馬昭がきつい腹立なり。孤はみなしこと云ふて、かるいものから歴々迠通じて親のない者は孤なれとも、自ら孤と名乘るは歴々のことの称にて周以来の制なり。これも司馬昭が家督を継た頃のことぞ。誠に上か明なれば、直言を云ふ王儀ゆへ、一たん怒に合ふても褒美を取ろふほどのこと。それに殺されたは天命の外のことて死たなり。そこて王裒が、親は咎なきことて死たゆへ、をれ一生奉公なとをすることではないとて隠居してをった。教授を浅見先生も丁寧にことわって、學問所ではないと云はれた。学問所は上からの云付てする。隠居と云ふゆへ學問所ではな井。
【解説】
「王裒字偉元。父儀爲魏安東將軍司馬昭司馬。東關之敗、昭問於衆曰、近日之事誰任其咎。儀對曰、責在元帥。昭怒曰、司馬欲委罪於孤耶。遂引出斬之。裒痛父非命、於是隱居敎授」の説明。王儀が敗軍の責任は司馬昭にあると言ったので、王儀は司馬昭によって殺された。天命ではなく死んだのである。それで王裒は一生奉公はしないとして隠居をした。
【通釈】
「王裒云々」。「安」。将軍は天下の乱を安んずるので安の字が付く。「東」。安西や安東と、将軍が分かれていた。司馬昭は魏の将軍で、王儀はその将である。儀は大の切れ者で、今度の敗軍は誰の無調法だということではありません、御前のせいですとすっぱりと言い放った。そこで司馬昭がきつく腹を立てた。「孤」は孤児と言い、軽い者から歴々までを通して親のない者は孤だが、自ら孤と名乗るのは歴々の称であって、これが周以来の制である。これも司馬昭が家督を継いだ頃のこと。上が誠に明であれば、直言を言った王儀なので、一旦は怒りに遭っても褒美を貰うほどのこと。それが殺されたのは天命の外のことで死んだのである。そこで王裒が、親は咎がなくて死んだので、俺は一生奉公などはしないと言って隠居をしていた。「教授」は浅見先生も丁寧にことわって、学問所ではないと言われた。学問所は上からの言い付けでする。隠居と言うので学問所ではない。

○徴は天子から召すこと。○辟は大名から召すこと。三の七のと云ふはたび々々のことなり。あの方では墓所に木をうへて高くして碑銘の石はわきへをく。○さて悲と云ふものはものによるもの。柏の木にすかりてはっと泣き、涙のついたで木もついかれた。詩經の哀々父母云々、この句を読と泣き出す。弟子も後には案内をしりて、をらが師匠の前ではこの詩は読ぬことしゃと、此の句のところへははり札をしてさきへ飛びこした。○計口而田は、家内の食ほとつくりた。つめて云へばよけいのな井ことと見るがよい。そっと合力しよふと云ふものがあったか中々うけぬ。三徴七辟皆不就ゆへ、立派な処から合力しよふと云ふては受ぬ。目に見へてをるゆへ合力ではない。まつこれをつかわれよと云ふにそれも受ぬ。これかみな親の非命を痛み栄曜をせぬしかたと見へる。司馬昭もあの通りの者なれとも、曹操三代にとを々々天下を取った。これで王裒かひとしを怒か出て、あの司馬か天下を取ったかと心に怒もあり、西の方へ向てすわらぬ。王裒が所から晋の都は西に當てをる。晋の方に向てをると、どふかまだ晋の臣のやうしゃと西の方へ向はぬ。これも親を思から出たものなり。
【解説】
「三徴七辟皆不就。廬于墓側、旦夕常至墓所拜跪、攀栢悲號。涕涙著樹、樹爲之枯。讀詩、至哀哀父母、生我劬勞、未嘗不三復流涕。門人受業者、並廢蓼莪之篇。家貧躬耕、計口而田、度身而蠶。或有密助之者。裒皆不聽。及司馬氏簒魏、裒終身未嘗西向而坐。以示不臣于晉」の説明。中華では墓所に木を植えて高くして碑銘の石は脇へ置く。王裒がその木に寄って泣いたので、木が枯れた。詩経の「哀哀父母、生我苦労」を読んでも涙を流した。合力は受けず、司馬昭のいる晋の都に向かっては座らなかった。
【通釈】
「徴」は天子が召すことで、「辟」は大名が召すこと。「三」と「七」は度々ということ。中華では墓所に木を植えて高くして碑銘の石は脇へ置く。さて「悲」というものは物に寄るもの。柏の木にすがってばっと泣き、涙が付いたので木も遂には枯れた。詩経の「哀哀父母云々」を読むと泣き出す。弟子も後には事情を知って、俺の師匠の前ではこの詩は読まない様にしようと、この句のところに貼り札をして先へ飛び越した。「計口而田」は、家内で要る食の分だけ作ったということ。詰めて言えば、余計のないことと見なさい。そっと合力しようと言う者がいたが中々受けない。「三徴七辟皆不就」なので、立派な処から合力をしようと言っても受けない。それは目に見えているので合力ではない。先ずこれを使いなさいと言うが、それも受けない。これが皆親の非命を痛み栄耀をしない仕方と見える。司馬昭もあの通りの者だが、曹操三代からとうとう天下を取った。これで王裒に一入怒りが出て、あの司馬が天下を取ったかと心に怒りもあったので、西の方へ向いては座らない。晋の都は王裒の所から西に当たる。晋の方に向いていると、どうもまだ晋の臣の様だと西の方へ向かわない。これも親を思うことから出たもの。
【語釈】
・詩經の哀々父母…詩経小雅蓼莪。「蓼蓼者莪、匪莪伊蒿。哀哀父母、生我劬勞」。


善行13
○晉西河人王延、事親色養。夏則扇枕席、冬則以身温被。隆冬盛寒、體常無全衣、而親極滋味。
【読み】
○晉の西河の人王延、親に事えて色養す。夏は則ち枕席を扇ぎ、冬は則ち身を以て被を温む。隆冬盛寒に、體常に全衣無くして、親滋味を極む。

○晋西河人云々。人と云のある文例、このやふなる井に気を付て見ることぞ。○之人王延と云ふがかすならぬ身分ゆへ書たもの。何の何かしと人の知た者でな井。身分はかるいものなれとも、甚た垩人の心に合ふ孝行なり。○色養は格段なことになってをる。ここへ二つ引て見るがよ井。礼記に孝子之有深愛者必有和気、有和気者必有愉色と云。孔子か子夏へ色難と云れた。事につ井たことはどふかこふかなるものなれども、顔かほき々々せ子ば親に事ることはならぬ。人の所へ行てもそれなり。何程馳走しても、亭主の顔かわるいと客がはやくかへる。儼威儼恪の御奉行の前へ出た様なは親へ事にはわるい。色養と云ふで親への心入の大切なり。これからしてはそうたい手當のゆきとどいたか見へてをる。○冬則以身温被は、歴々は無礼なと云をうが、晋西河人王延なと、佐倉炭もををくつかふことはならぬ。
【解説】
顔がほぎほぎとしなければ親に事えることはできない。王延は身分は軽くて貧乏だったが、親には色養だった。
【通釈】
「晋西河人云々」。「人」とある文例、この様な類に気を付けて見なさい。「之人王延」は、大した身分でないのでこの様に書いた。何の何某と人が知っている者ではない。身分は軽いが、甚だ聖人の心に合った孝行である。「色養」は格段なことである。ここは二つ引いて見るとよい。礼記に「孝子之有深愛者必有和気、有和気者必有愉色」とある。孔子が子夏に「色難」と言われた。事に付いたことはどうかこうかできるものだが、顔がほぎほぎとしなければ親に事えることはできない。人の所へ行ってもそれ。どれ程馳走をしても、亭主の顔が悪いと客が早く帰る。「厳威儼恪」な御奉行の前に出た様なことでは親に事えるには悪い。色養が親への心入れに大切なもの。これからして、総体の手当の行き届いていたことが見える。「冬則以身温被」。歴々は無礼なことだと言うだろうが、晋の西河の人王延などは佐倉炭も多く使うことができない人である。
【語釈】
・孝子之有深愛者必有和気、有和気者必有愉色…小学内篇明倫6の語。
・色難…論語為政8。「子夏問孝。子曰、色難。有事、弟子服其勞、有酒食、先生饌、曾是以爲孝乎」。
・儼威儼恪…「嚴威儼恪」。小学内篇明倫6の語。

○全衣は、まるの衣服を着ることならず、つき々々した衣類なり。その様なて井てをりなから、頓と親は鴨も鯛も食ふ。新茸も買ふてくる。しんけん勝負なり。これらか読では恥ち入ることなり。天然の孝行で今しよふとてぢきなることではないか、かたからしをぼへるがよい。石原先生のたび々々かたからしろと云はれたが親切なことぞ。これもかたからするとなる。いつも云ふ、中蕐では哭は虚泣きとて迂偽になく。本に泣く。人は泣く涙をもってをる。涙は出すとも迂偽に泣くと本の涙か出てくる。そうすると泣く連衆かををくなる。かたて心移るもの。田舎の山奥に居ても、江戸の道落もののはやる衣類を着、道落者のかたる浄瑠理を語れば、江戸へ出ぬ前から半分道落になってをるなり。善ひ事もかたからすればなる。今日小学の善行を読む人もこの方へ一つ々々はこぶやふにするかよい。たた読では役に立ぬ。繪に畫た餅のやふで、腹に飽くことはな井。繪に畫た樽のやふで、いくらあってもあたたかにはならぬ。今日皆の衆内へ帰りたらは、ぢきに其時からま子ることなり。さて今日若ひ者が越後屋え行ても気に入たがない、白木屋で買ふて来たと云ふ様に、さま々々なものずき栄曜をする。それでは親極滋味は出来ぬ筈ぞ。王延が心なれば、皆身代を親に入れあけるなり。
【解説】
王延はまともな衣服を着ることもせず、自分は物好きも栄耀もせずに親への滋味を極めた。孝行は形から入るのがよい。形からすることが心に移って本物になる。
【通釈】
「全衣」は、まともな衣服を着ることができず、継ぎを当てた衣類のこと。その様な体でいながら親は鴨も鯛も食う。椎茸も買って来る。真剣勝負である。これらが読んでは恥じ入ること。天然の孝行で今しようとしても直ぐにできることではないが、形からし覚えるのがよい。石原先生が度々形からしろと言われたのが親切なこと。これも形からするとできる。いつも言う、中華では、哭は嘘泣で嘘に泣く。それで本当に泣くことになる。人は泣く涙を持っている。涙は出なくても嘘で泣くと本当の涙が出て来る。そうすると泣く連れ衆が多くなる。形ですると心に移るもの。田舎の山奥にいても、江戸の道楽者が流行る衣類を着て、道楽者が語る浄瑠璃を語れば、江戸へ出ない前から半分道楽になっている。善い事も形からすればできる。今日小学の善行を読む人も自分の方へ一つ一つ運ぶ様にするのがよい。ただ読んでは役に立たない。それは絵に画いた餅の様で、腹が飽くことはない。絵に画いた樽の様で、いくらあっても温かくはならない。今日皆の衆が家に帰ったら、その時から直ぐに真似なさい。さて今日若い者が、越後屋へ行っても気に入るものがなかったので白木屋で買って来たと言う様に、様々な物好き栄耀をする。それでは「親極滋味」はできない筈。王延の様な心であれば、身代を皆親に入れ上げる筈である。


善行14
○柳玭曰、崔山南昆弟子孫之盛、郷族罕比。山南曾祖王母長孫夫人、年高無齒。祖母唐夫人事姑孝。毎旦櫛、縰、筓、拜於階下、即升堂乳其姑。長孫夫人不粒食數年而康寧。一日疾病、長幼咸萃。宣言、無以報新婦恩。願新婦有子有孫、皆得如新婦孝敬。則崔之門安得不昌大乎。
【読み】
○柳玭[りゅうへん]曰く、崔山南、昆弟子孫の盛んなること、郷族比[たぐい]罕[まれ]なり。山南の曾祖王母長孫夫人、年高くして齒無し。祖母唐夫人、姑に事えて孝なり。旦毎に櫛[くしけず]り、縰[かみつつみ]し、筓[かんざし]し、階下に拜し、即ち堂に升りて其の姑に乳す。長孫夫人粒食せざること數年にして康寧なり。一日疾で病み、長幼咸萃まる。宣言す、以て新婦の恩に報ゆる無し。新婦に子有り孫有り、皆新婦の孝敬の如きを得えんことを願う。則ち崔の門安んぞ昌大ならざるを得んや、と。

○柳玭曰云々。此章は女孝行を云。女と云ふは自分を生た親に孝行はちっとのうちなり。姑へ孝行をすると云ふか本の孝行なり。今の婦は夫の方へ嫁ても里を第一にする。これもって肉親ゆへわる井ことでもないが、名教からは我舅へ孝行をすると云ふか婦のかたまりところぞ。ここも婦の孝行したて其家か栄たと云ふ。○崔山南か家のやふににきやかな家はな井と云ふも孝行からをこりた。○乳其姑は愛敬のそろふたことと見ることなり。姑の堂の上にをるを急度拜をして、それからすか々々とあかって乳をあける。○宣言は遺言ではない。親類の若ひ者も子共どもよりてをったとき、皆へ云ふことなり。
【解説】
女は、里へ孝行をするのも肉親なので悪いことでもないが、姑に孝行をするのが本来である。崔山南の家が栄えたのも、婦が孝行をしたからである。
【通釈】
「柳玭曰云々」。この章は女の孝行を言う。女が自分を生んだ親に孝行をするのは少しなことで、姑へ孝行をするというのが本来の孝行である。今の婦は夫の方へ嫁いでも里を第一にする。それも肉親なので悪いことでもないが、名教から言えば、自分の舅へ孝行をするというのが婦のお決まりのところである。ここも婦が孝行をしたのでその家が栄えたと言う。崔山南の家の様に賑やかな家はないと言うのも孝行から起こったもの。「乳其姑」は愛敬の揃ったことと見なさい。堂の上にいる姑をしっかりと拝して、それからずかずかと上がって乳をあげる。「宣言」は遺言ではない。親類の若い者や子供達が寄っていた時、皆に言うこと。


善行15
○南齊庾黔婁爲孱陵令、到縣未旬、父易在家遘疾。黔婁忽心驚、舉身流汗。即日棄官歸家。家人悉驚其忽至。時易疾始二日。醫云、欲知差劇、但嘗糞甜苦。易泄利。黔婁輒取嘗之。味轉甜滑、心愈憂苦、至夕毎稽顙北辰、求以身代。
【読み】
○南齊の庾黔婁[ゆきんろう]、孱陵[せんりょう]の令と爲り、縣に到りて未だ旬ならざるに、父易、家に在りて疾に遘う。黔婁忽ち心驚き、身を舉げて汗を流す。即日官を棄てて家に歸る。家人悉く其の忽ち至るに驚く。時に易疾みて始めて二日。醫云う、差劇を知らんと欲せば、但糞の甜苦[てんく]を嘗めよ、と。易、泄利す。黔婁輒ち取りて之を嘗む。味轉々[うたた]甜滑、心愈々憂苦し、夕に至れば毎に北辰に稽顙[けいそう]し、身を以て代らんことを求む。

○南斉庾黔婁云々。晋の世から隨へかかる間のこと。この方の遠国役のやふに、ここの令に云付られ、そこへ行た。そのあとで親が病氣なり。遠ひゆへ即刻知らせられぬか、庾黔婁かなにとなくわさ々々として汗が出た。兼て孝行の庾黔婁ゆへ、必定親か病気てあろふとひびひた。これは不断の人へはをされぬことぞ。風を引てわさ々々として汗の出ることもある。家内て知らせにやろふと云内に、庾黔婁が来た。○差はいへること。○劇ははな々々だしとよんで、段々さしをもること。庾黔婁の名高ひ孝行と云ふがこれなり。○輒はゆとりのな井こと。何程孝行でも、大便をなめるが當然でもな井。医者の心持を云ふたもの。糞を嘗めてみて、味が甜ひか滑なれば、それで知れやふと云たれば、なんのくもなくぢきに心みられた。味ひが甜ひ方では療治ならぬと云ふたとみえて愈憂苦なり。どふも人謀はつきたゆへ、これからは祈りより外はあるまいと云ふて北辰に祈り、私を身替にして親の病気を愈る様にと祈りをした。
【解説】
庾黔婁は父が病気であることを感じて任地から帰って来た。医者に大便の味がわかれば病状が知れると言われてそれを嘗めたが、容体は悪かった。そこで病気が癒える様にと北辰に祈った。
【通釈】
「南斉庾黔婁云々」。晋の世から隋へと掛かる間のこと。日本の遠国役の様に、孱陵の令を言い付けられてそこへ行った。その後で親が病気になった。遠いので即刻には知らせられなかったのだが、庾黔婁は何となくわさわさとして汗が出た。前々より孝行だった庾黔婁なので、きっと親が病気なのだろうと響いた。これは普通の人へは通用できないこと。風邪を引いてわさわさとして汗が出ることもある。家内で知らせに遣ろうと言っている内に、庾黔婁が来た。「差」は癒えること。「劇」は甚だしと読み、段々とさし重ること。庾黔婁を名高い孝行と言うのがこれ。「輒」はゆとりのないこと。どれ程孝行でも、大便を嘗めるのは当然のことではない。ここは医者の心持を言ったもの。糞を嘗めて見て、味が甘いか苦いのであれば、それで知れるだろうと言うと、何の苦もなく直ぐに試みられた。味が甘ければ療治はできないと言ったと見えて、「愈憂苦」である。どうも人謀は尽きたので、これからは祈りより外はないだろうと言って北辰に祈り、私を身代わりにして親の病気が癒える様にと祈った。

○稽顙北辰か庾黔婁か誠なり。祈の法あってするではない。北辰は人の死を主るゆへ、兎角死を祈はこれへする。その法があるかと云。はや山伏や祈祷加持の類になる。本と祈はそう云ふことではない。吾が誠ですること。舜かたた旻天に號泣したと同しこと。此方の一心で賞翫すること。誠か積てをるゆへ庾黔婁か天へひび井て、格段に天の納受あって親の病気もなをりたと云ふことなり。なをったと云ふを朱子の取らぬか面白ひ。庾黔婁が誠からして、これも天感ゆへ微妙な道理かある。術かあれば咒て異端のする叓。周公の祈もなにを唱へると云ふことはない。祈は誠ばかり。難義なとき人へむしん云ふ。これは人同志ゆへ疑はない。こちか通して人が金をもかすそ。天に通ずることは微妙なことにて合点しにく井なれども、誠が通すると雨もふる。誠でする。祈と云ふと分のことに思ふか、法かあれば古の祈ではな井。
【解説】
祈りは方法があってするものではない。法があってすれば、山伏や祈祷加持の類になる。祈りは誠でするのである。
【通釈】
「稽顙北辰」が庾黔婁の誠である。祈りは法があってするものではない。北辰は人の死を司るので、とかく死を祈るにはこれへする。その法があるかと言うと、法ですれば早くも山伏や祈祷加持の類になる。本来、祈るとはそういうことではなく、自分の誠ですること。それは、舜がただ旻天に号泣したのと同じ。こちらの一心で賞翫すること。誠を積んでいるので庾黔婁の心が天へと響いて、格段に天の納受があって親の病気も治ったということ。治ったということを朱子が取らなかったのが面白い。庾黔婁が誠からして天が感じたのには微妙な道理がある。術があれば咒いであって、それは異端のすること。周公の祈りも何を唱えるということはない。祈りは誠ばかり。難儀な時に人へ無心をする。これは人同士なので疑いはない。こちらが通じて人が金をも貸す。天に通じることは微妙なことで合点し難いことだが、誠が通じると雨も降る。誠でする。祈りと言うと特別なことと思うが、法があれば古の祈りではない。
【語釈】
・稽顙…額を地につけること。
・舜かたた旻天に號泣した…孟子万章章句上1。「萬章問曰、舜往于田、號泣旻天。何爲其號也」。


善行16
○海虞令何子平、母喪去官、哀毀踰禮。毎哭踊頓絶方蘇。屬大明末東土饑荒、繼以師旅、八年不得營葬。晝夜號哭、常如袒括之日。冬不衣絮、夏不就清凉。一日以米數合爲粥、不進塩菜。所居屋敗不蔽風日。兄子伯興欲爲葺理。子平不肯曰、我情事未申。天地一罪人耳。屋何宜覆。蔡興宗爲會稽太守、甚加矜賞、爲營壙。
【読み】
○海虞の令何子平、母の喪に官を去りて、哀毀禮に踰ゆ。哭踊する毎に頓[にわか]に絶して方[わずか]に蘇る。大明の末、東土饑荒し、繼ぐに師旅を以てするに屬[あた]り、八年營み葬むることを得ず。晝夜號哭して、常に袒括の日の如し。冬は絮を衣ず、夏は清凉に就かず。一日に米數合を以て粥と爲し、塩菜を進めず。居る所屋敗れて風日を蔽わず。兄の子伯興爲に葺理せんと欲す。子平肯ぜずして曰く、我が情事未だ申[の]びず。天地の一罪人のみ。屋何ぞ宜しく覆うべけんや、と。蔡興宗、會稽の太守と爲り、甚だ矜賞を加え、爲に壙を營む。

○海虞令云々。中蕐の礼で、親の喪には必す御役を願ふぞ。この方では、御役人は一生とかけて勤めることになってをる。あの方ては何年つとめると云ふかきりかある。親の喪には御役を願ふと云ふか御定のことなり。○哀毀踰礼は、身のやつれて礼のほどを越たこと。礼記に垩人の教が方々に載て、喪もほどよくすることなれとも、踰た方は馳走すること。ほどを踰ると云ふはよのことではわる井ことの、親の死たとき泣きやふのほとを踰へたと云ふはよいことなり。あの方では孝行な者も不孝な者も哭して踊ることか礼なり。ときに何子平か気絶した。女などが子に死なれたとき目をまわすことがあるもの。その様てあった。○袒括は、喪服の出来ぬうちはだをぬ井てをる。括は茶筌髪でをること。八年ほどこふであったと云ふ。八年はきついことなり。垩人も親の喪を三年と立て、一二年の後は常へ反る。八年なとと云ふは思ひもつかぬことぞ。親は土にうつもってをるにらくをすることではないと、身をつめたものなり。從子かあまりと思ふて修葺しやふと云ふたれば、いや々々そんなことではない。をれが心に大事かある。それかまたならぬ。胸に思ふことかあるが、それかかかんでまたのひぬ。親を葬むることかならぬ。をれは咎人しゃ。その様なことをすることではな井となり。
【解説】
親が死んだ時は礼を踰えて哀しんでもよい。何子平は親が死んで八年の間、親を葬むることができなかった。そこで、その間は親が死んだ直後の様に身を慎んだ。
【通釈】
「海虞令云々」。中華の礼で、親の喪には必ず御役を願う。日本では、御役人は一生勤めることになっているが、中華では何年勤めるという様に限りがある。親の喪には御役を願うというのが御定まりのこと。「哀毀踰礼」は、身がやつれて礼のほどを越えたこと。礼記の方々に聖人の教えが載っていて、喪もほどよくするものだが、踰えた方は馳走すること。ほどを踰えるというのは他のことでは悪いが、親が死んだ時の泣き様がほどを踰えるのはよい。中華では孝行な者も不孝な者も哭して踊るのが礼である。時に何子平が気絶した。女などが子に死なれた時に目を回すことがあるもので、その様だった。「袒括」。喪服のできない内は肌を脱いでいる。括は茶筌髪でいること。八年ほどこの様であったという。八年はきついこと。聖人も親の喪を三年と立て、一二年の後は常へ反るが、八年などというのは思いも付かないこと。親は土に埋もれているのに楽をするものではないと、身を詰めた。従子があまりに思って修葺しようと言うと、いやいやそんなことではない、俺の心には大事があるが、それがまたできない。胸に思うことがあるが、それか屈んでいてまだ伸びない。親を葬むることができない。俺は咎人だ。その様なことをするものではないと言った。


善行17
○朱壽昌生七歳、父守雍。出其母劉氏嫁民間、母子不相知者五十年。壽昌行四方求之不已。飮食罕御酒肉。與人言輒流涕。熈寧初、棄官入秦、與家人訣。誓不見母不復還。行次同州得焉。劉氏時年七十餘矣。雍守錢明逸以事聞、詔壽昌還就官。繇是天下皆知其孝。壽昌再爲郡守。至是以母故通判河中府。迎其同母弟妹以歸。居數歳母卒。涕泣幾喪明。拊其弟妹益篤、爲買田宅居之。其於宗族尤盡恩意。嫁兄弟之孤女二人、葬其不能葬者十餘喪。蓋其天性如此。
【読み】
○朱壽昌、生まれて七歳、父雍に守たり。其の母劉氏を出だして民間に嫁し、母子相知らざること五十年。壽昌四方に行きて之を求めて已まず。飮食に酒肉を御すること罕なり。人と言いては輒ち涕を流す。熈寧の初、官を棄てて秦に入り、家人と訣[わか]る。母を見ずんば復た還らずと誓う。行きて同州に次して得たり。劉氏時に年七十餘なり。雍の守錢明逸、事を以て聞し、壽昌に詔して、還りて官に就かしむ。是に繇[よ]りて天下皆其の孝を知る。壽昌再び郡の守と爲る。是に至りて、母の故を以て河中府に通判たり。其の同母弟妹を迎えて以て歸る。居ること數歳にして母卒す。涕泣して幾んど明を喪わんとす。其の弟妹を拊すること益々篤く、爲に田宅を買いて之を居く。其の宗族に於ける、尤も恩意を盡す。兄弟の孤女二人を嫁し、其の葬むること能わざる者を葬ること十餘喪なり。蓋し其の天性此の如し。

○朱壽昌云々。兎角親に逢ひたうてあちこちせんきし、そのことか胸にあるゆへ酒肉ところではない。小田原を通りても鰹を食はぬ。それよりこちにいそかしいことかあるゆへなり。此方に苦労があるゆへ、酒肴には思ひもつかぬ。今度は御役を止め浪人になって母を尋る。○誓は、母を尋るに了簡の切りかわりたこと。こふ了簡かきまっては、是非ことか成就するなり。○至是以母故は、王荆公かことについてかれこれあってここへきた、先軰のここへ引て云はれたが、それは云はぬことなり。ここの文にあわせて云ふことぞ。講後先生曰、王荆公か下役に不孝な者かあって、そこであれは遠国役にするがよいとて河中府へやられた。実は不首尾でしたことなれとも、王荆公をわるく云ばかりでここへ役に立ぬことそ。壽昌か孝行か天下へはっときこへて、母の方へちか井州なり。そこへ行かれた。○幾は、目のつぶれるほどてあった。目をつぶしはせぬ。この様に孝行な壽昌ゆへ惣体の親類へもよし。○兄弟之孤女は家へついた兄弟と見へる。これを引取てかたつけてやられた。親の葬埋か思ふやふにならぬと云ふものへは自分の孝行からみてをられず、そのなるやふにしてやられた。○天性如此は記彔をする者の書たもの。壽昌か学問したと云ふ沙汰もきかぬか、生れ付かこのとをりであった。
【解説】
朱寿昌は幼い頃に母と別れた。彼は母に逢うために役も辞めた。母が亡くなった時は目が潰れるほどに泣いた。彼の孝行は親類までにも及んだ。寿昌は学問をしたわけでもないが、生まれ付きからこの様に孝行だったのである。
【通釈】
「朱寿昌云々」。とかく親に逢いたくてあちらこちらを詮議し、そのことが胸にあるので酒肉どころではない。小田原を通っても鰹を食わない。それよりもこちらに忙しいことがある。こちらに苦労があるので、酒肴には思いも付かない。今度は御役を辞めて浪人になって母を尋ねた。「誓」は、母を尋ねることに了簡を切り替えたということ。この様に了簡が決まっては、是非とも事が成就する。「至是以母故」は、王荊公のことについてかれこれあってここへ来たことだと、先輩がここへ引いて言われたが、その様には言わないもの。ここの文に合わせて言う。講後に先生が言った。王荊公の下役に不孝な者がいて、そこであれは遠国役にするのがよいと言って河中府へ遣られた。実は不首尾でしたことだが、それでは王荊公を悪く言うばかりでここには役に立たないことだ、と。寿昌の孝行は天下に広く聞こえたが、そこは母の方に近い州である。そこへ行かれた。「幾」は、目の潰れるほどだったということで、目を潰しはしない。この様に孝行な寿昌なので、総体、親類にもよかった。「兄弟之孤女」は家に付いた兄弟と見える。これを引き取って片付けてやられた。親の葬埋が思う様にならないという者へは自分が孝行なので見て置けず、それができる様にしてやられた。「天性如此」は記録をする者が書いたもの。寿昌が学問したという沙汰も聞かないが、生まれ付きがこの通りだった。


善行18
○伊川先生家、治喪不用浮屠。在洛亦有一二人家化之。
【読み】
○伊川先生の家、喪を治むるに浮屠を用いず。洛に在りて亦一二の人家之に化する有り。

○伊川先生家治喪不用浮屠云々。善行父子之親、一ちあとで伊川先生の喪礼のことを出すが、朱子の甚た思召のある編集のしかたなり。孝行のことか是れ迠あり、伊川先生も孝行は見へてをるが、伊川先生などは孝行と名がつけられぬ。伊川先生の孝行は親の死後に仏道を用ひぬと云ふか至極の孝行なり。まづちょっと聞てはしれぬことぞ。天性の親に孝行なものもあるが、仏道信仰で一生の孝行が無になる。ここには朱子のいかふ思召あることと見ることぞ。仏道か本とにくいやつと云ふことではない。釈迦も達磨も道を見そこなったもの。見そこなふたににくひことはない。医者の病を見そこなった様なもの。よ井と思ふてもった薬が見そこな井なり。そこはにくひではなけれとも、死た者の身になりてはなんとも迷惑なことなり。仏も悪心はな井が、あれに迷へばつい不孝になる。釈迦や達磨も人をよくする気でしたが、見立そこないなり。その見立そこないをかたじけないとすることではな井。さて仏道とても、人の死た世話をやくことはもとあちにもな井こと。だたい本来無一物何処惹塵埃。死んだ者に供養は入らぬ筈。されともそふ云ふことでは行なはれぬゆへ、人の死んた取り納めをする仏法か出来て来た。
【解説】
伊川先生の孝行は、親の死後には仏道を用いないということ。仏道信仰で一生の孝行が無になる。これは仏道を憎い奴だと言ったことではない。仏は道を見損なったのである。本来、仏道には死んだ人の世話を焼くということはない。
【通釈】
「伊川先生家、治喪不用浮屠云々」。善行の父子之親の最後に伊川先生の喪礼のことを出すのが、朱子の甚だ思し召しのある編集の仕方である。孝行のことがこれまでにあり、伊川先生のも孝行のことは見えているが、伊川先生などのは孝行とは名が付けられない。伊川先生の孝行は、親の死後には仏道を用いないと言うのが至極の孝行になる。これは先ず一寸聞いてはわからないこと。天性で親に孝行な者もいるが、仏道信仰で一生の孝行が無になる。ここは朱子の大層思し召しのあることだと見なさい。元々これは仏道を憎い奴だと言ったことではない。釈迦も達磨も道を見損なったのである。見損なったことに憎いということはない。医者の病を見損なった様なもの。よいと思って盛った薬が見損ないだった。そこは憎いことではないが、死んだ者の身になっては何とも迷惑なこと。仏も悪心はないが、あれに迷えばつい不孝になる。釈迦や達磨も人をよくする気でしたが、見立て損ないである。見立て損ないは忝いとすることではない。さて仏道には、人が死んでその世話を焼くことは本来ない。そもそも「本来無一物何処惹塵埃」で、死んだ者に供養は要らない筈。しかし、それでは行なわれないので、人が死んだ取り納めをする仏法ができて来た。
【語釈】
・本来無一物何処惹塵埃…慧能。「菩提本無樹、明鏡亦非台。本来無一物、何処惹塵埃」。

そこであの方に四葬と云ふことかある。それはとどはやく無くする意から制した葬なり。生てをるうちから死た様に思ふ見識ゆへ、はやく体の滅するを悦ぶ。まつ一つには水葬なり。これは人体を水へ捨て、はやく腐る様にする。林葬は体を山林へ捨て、猪や貉の食にする。土葬は體を土へしかに埋て、はやく腐らかす。火葬は体え火を付ることなり。寂滅の見識ゆへ、あの方て寂滅を事に出したことぞ。垩人の礼は周礼儀礼に人の死を丁寧にする。それは平生親を大切にするから、死しても生の如くにする孝心から制した。仏ははやく腐らするが本意になってある。それでやりばなしにする。あれも仏を信する者が、この方からたのむ々々々と云ふからして、人の家へ来て喪の世話をやくことになったもの。人の葬の世話をするが仏道の本意ではな井筈なり。天下一統に仏を信するになって、これからして頓と古先王の礼は用ぬことになったぞ。その上、日本は近年天草のやふなことありて、かれやこれやのわる井人を動かす宗旨ありて、それを制禁するから、改めて今旦那寺と云ふものを列国諸家四民迠に立られて、公法にて用ひ子ばならぬことになってをる。それゆへこれは今日根からやめることは下の勢ではならぬ。宗門改と云ことあれば、我は何宗と一通りは用ることなり。せふこともなきことなり。
【解説】
仏には四葬ということがあるが、それは早くなくす意からするもの。人の葬の世話をするのは仏道の本意ではない筈だが、仏を信ずる人が仏を頼むから仏が葬の世話をする様になり、古先王の礼は行われなくなった。その上、日本では切支丹が入ったので、公法で旦那寺が設けられることになっている。
【通釈】
そこであちらには四葬ということがある。それはつまりは早くなくす意から制した葬である。生きている内から死んだ様に思う見識なので、早く体が滅することを悦ぶ。先ず一つは水葬である。これは人体を水へ捨て、早く腐る様にする。林葬は体を山林へ捨て、猪や貉の食にする。土葬は体を土へ直に埋めて、早く腐らす。火葬は体に火を付けること。寂滅の見識なので、あちらが寂滅を事に出したのである。聖人の礼は周礼儀礼にある通りで、人の死を丁寧にする。それは平生親を大切にするから、死んでも生きている時と同じくする孝心から制したもの。仏は早く腐らせるのが本意になっている。それで遣り放しにする。あれも仏を信じる者が、自分から頼む頼むと言うので、仏が人の家へ来て喪の世話を焼くことになったもの。人の葬の世話をするのは仏道の本意ではない筈。天下一統に仏を信じることになって、それからして全く古の先王の礼は用いないことになった。その上、日本では近年天草の様なことがあり、かれこれと悪い人を動かす宗旨があって、それを制禁するために、改めて今旦那寺というものを列国諸家四民にまで立てられ、公法で用いなければならないことになっている。それで、これを今日根から止めることは下の勢いではできない。宗門改ということがあれば、私は何宗と一通りは用いなければならない。それは仕方のないこと。

ただ垩人の意とは以の外そむいたこと。垩人の葬礼の本意は、不忍之心をあら井風にもあてぬと云ふが孝行の心ぞ。それを死ぬとはやすてると云ふことはな井筈なり。人も生てをる内を見よ。風雨をふせく居住ある。死して地下に埋ても、當分水にもあてす土にもあてぬ様にして室をこしらへ子ばならぬ筈。生の居室は死の棺椁なり。これが死た親を死だにせぬのなり。仏法は寂滅の見ゆへ、死ほとよ井ことはない。焼くはなをよい。なぜなれば、一ちはやくなくなるゆへぞ。生たうち灸をするさへやれこれと云ふ。それに、親の体を焼くと云ふことはなんと云ふことなく忍られぬはつ。當時大罪の火付を焼た。我か親を大罪人にする様なもの。これは本心にてはどふも用ひにくい筈のことなり。去れとも焼けば親の為によ井と思ふ。仏の迷からなり。一生孝行を尽しても葬がわるうては、丁ど客をよひ、折角よい料理を振舞て、しま井にあたまから煮へ湯をあふせる様なもの。伊川先生がいかふ仏法を用ひられぬゆへ、余程かれやこれやにそれを見習て変化した者かあった。伊川先生の方から助言はせぬが、洛の者が見なれて、いかさまああてあろふとて仏法を用ぬ者もありた。
【解説】
聖人の意は、死んだ親を死んだことにせず、生きている時の様にするというもの。生きている時の居室は死んだ時の棺椁である。仏法は寂滅の見なので、死ほどよいことはないとする。火葬にするのは最も早くなくなるからよいとするが、大罪の火付けは火炙りの刑にする。火葬は親を大罪にするものである。
【通釈】
但し、それは聖人の意には以の外に背いたこと。聖人の葬礼の本意は「不忍之心」で、荒い風にも当てないというのが孝行の心である。それを死ぬと直ぐに捨てるということはない筈。人が生きている時を見なさい。風雨を防ぐ居住がある。死んで地下に埋めても、当分は水にも当てず土にも当てない様にして室を拵えなければならない筈。生きている時の居室は死んだ時の棺椁である。これが死んだ親を死んだことにしないということ。仏法は寂滅の見なので、死ほどよいことはない。焼くのは尚更よい。それは何故かと言うと、一早くなくなるからである。生きている内は灸をするのでさえやれこれと嫌がる。それなのに、親の体を焼くということは何ともない。本当は、それは忍びられない筈。今、大罪の火付は焼く。それなら自分の親を大罪人にする様なもの。これは本心ではどうも用い難い筈のこと。しかし焼けば親のためによいと思う。それは仏の迷いからのこと。一生孝行を尽くしても葬が悪くては、丁度客を呼んで折角よい料理を振る舞って、最後に頭から煮え湯を浴びせる様なもの。伊川先生が全く仏法を用いられないので、余程かれこれとそれを見習って変化した者がいた。伊川先生の方から助言はしなかったが、洛陽の者が見慣れて、いかにもあの様なことだろうと、仏法を用いない者もいた。
【語釈】
・不忍之心…孟子公孫丑章句上6。「孟子曰、人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。所以謂人皆有不忍人之心者」。孟子尽心章句下31。「孟子曰、人皆有所不忍、達之於其所忍、仁也」。

○一二人家は伊川の弟子ではない。伊川の弟子はみな一ち々々伊川のとをり本式にする。近所てああありた井ものじゃと云ふた。まづ伊川先生の手抦ではあれとも、本道のことはみな人の本心にあるもの。そこで化するなり。娘の昏礼は丁寧にして、親のことはわれも々々々とそまつにすると云こと本心にはなき筈にて、人の心に親に孝は極天無墜ゆへ、葬をそまつにするは本心には安せぬことなれとも、今は仏法と云うしろ楯があればこそあれを安心するが、仏法がなくて初めて親を焼と云ふたら中々焼くことはなるまい。犬や猫さへ焼れぬ。鷄もかい鳥と思へばめったにしめることもならぬものを、どふして親をそまつにせふぞ。伊川先生の手抦とは云へとも、人心に尤と云ふものをもちあわせてをる。伊川先生の様な人があれは化する筈なり。仏法を用る用ぬで孝不孝になる。
【解説】
洛陽の人が伊川先生に感化された。それは伊川の手柄でもあるが、本来、人は皆親への孝を持っているからである。仏法という後ろ楯があるので葬を粗末にするが、仏法がなければ親を焼くことはないだろう。
【通釈】
「一二人家」は伊川の弟子ではない。伊川の弟子は皆伊川の通りを一々本式にする。近所であの様にありたいものだと言った。それは先ずは伊川先生の手柄ではあるが、本来のことは皆人の本心にあるもの。そこで化する。娘の昏礼は丁寧にして、親のことは我も我もと粗末にするということは本心にはない筈で、人の心に親に孝は「極天罔墜」なものなので、葬を粗末にするのは本心では安んじないこと。今は仏法という後ろ楯があればこそあれを安心するが、仏法がなくて初めて親を焼くと言えば中々焼くことはできないだろう。犬や猫でさえ焼けない。鷄も飼い鳥だと思えば滅多に絞めることもできないもの。どうして親を粗末にすることができるだろうか。伊川先生の手柄とは言え、人心に尤もというものを持ち合わせているからである。伊川先生の様な人があれば化する筈。仏法を用いるか用いないかで孝不孝になる。
【語釈】
・極天無墜…小学題辞。「幸茲秉彛極天罔墜。爰輯舊聞庶覺來裔」。

○化は伊川先生の功。ただの人はならぬ。當所なども迂斉や石原先生か居らるれば化するが、某などか居ってはつんぼほども化せぬ。こちに道德のな井ゆへなり。道德のない学者は一通り出家の談義をとく様なもの。よい弁とは云ふが、今夜成仏するとは誰も思はぬ。今学者の才がありてはたらきなどと云ふはひくひことそ。これも伊川先生の徳でしたものなり。三代に復すと云ふでも、徳かなふてはなることではない。朱子の此編次も仏法を用ず三代へ反すことなり。蒙養集に葬りのことちょっ々々々とあるが、王道へ復すことぞ。葬のこと文會筆録に要ありて、又仏法のことになりては文會にそれ々々に委曲のしめくくりをしてをかれた。ひと通りの末書などとちか井、名教を扶植する所に格段なことあるぞ。
【解説】
才や働きがあっても徳がなければ人を化すことはできない。ここは、仏法を用いずに三代へ復すことを言う。
【通釈】
「化」は伊川先生の功で、ただの人ではできないこと。ここなどでも迂斎や石原先生がおられれば化するが、私などがいるのでは聾ほども化せない。それは、こちらに道徳がないからである。道徳のない学者は出家が一通りに談義を説く様なもの。よい弁だとは言うものの、今夜成仏するとは誰も思わない。今の学者が才や働きがあるなどと言うのは低いこと。これも伊川先生の徳でしたもの。三代に復すと言っても、徳がなくてはできることではない。朱子のこの編次も仏法を用いずに三代へ反すこと。蒙養集に葬のことが所々にあるが、それは王道へ復すこと。葬のことは文会筆録に要があって、また、仏法のことは文会にそれぞれに委曲の締め括りをして置かれた。一通りの末書などとは違い、名教を扶植する所に格段なことがある。