善行19
○霍光出入禁闥二十餘年、小心謹愼未嘗有過。爲人沈靜詳審、毎出入下殿門、進止有常處。郎僕射竊識視之、不失尺寸。
【読み】
○霍光禁闥を出入すること二十餘年、小心謹愼にして未だ嘗て過有らず。人と爲り沈靜詳審にして、出入して殿門を下る毎に、進止常處有り。郎僕射竊に識して之を視るに、尺寸を失わず。

二月二十六日
【語釈】
・二月二十六日…寛政2年(1790)2月26日。

○霍光出入禁闥云々。忠臣と云ふと君へきびしひ異見を云ひ、或は馬先て死ぬことと思ふて、平生のことは忠臣ではない様に思ふか、日々の勤めの叓を朱子の内篇の君臣の始に將適公所、引てをかれた。あれをここへ引合て見るがよ井。○霍光を二十餘年脇て気を付て見て居るに、すこしもちかったことがない。なかいうちには変化するもの。此頃はちと前とちかふたと云ふは本のことではない。たたい本道のことはかわらぬものなり。去る証拠は天地にかわったことはな井。二十餘年の間、いつも々々々新参の者の様なり。○沈静はうわばしらぬこと。生れ付のをちついたて井なり。○詳審は事をするに綿密なことぞ。○郎僕射は、譯をつけて云へばこの方の御書院番と云やふなもの。この衆たちが気をつけて見るに、霍光か貞実な人ゆへすこしもまちがふたことがない。
【解説】
霍光は二十余年の間、少しも変わることがなかった。天地が変わることのない様に、本当のことは変わらないもの。霍光は沈静で綿密な人だった。
【通釈】
「霍光出入禁闥云々」。忠臣と言うと君へ厳しい異見を言い、或いは馬先で死ぬことと思って、平生のことは忠臣ではない様に思うが、日々の勤めのことを朱子が内篇の明君臣之義の始めに「将適公所」と引いて置かれた。あれをここへ引き合てて見るのがよい。霍光を二十余年脇で気を付けて見ていると、少しも違ったことがない。長い内には変化するもの。この頃は一寸前とは違うというのは本当のことではない。そもそも本当のことは変わらないもの。その証拠は、天地には変わったことはない。二十余年の間、いつも新参者の様である。「沈静」は上走らないこと。生まれ付きの落ち着いた体である。「詳審」は事をするのに綿密なこと。「郎僕射」は、わけを付けて言えば日本の御書院番という様なもの。この衆達が気を付けて見ていると、霍光は貞実な人なので少しも間違うことがなかった。
【語釈】
・禁闥…宮中。
・將適公所…小学内篇明倫40を指す。

霍光の登城と云ふとかたになってみなが見てをられた。見てをるに、いつでも同し所を通られて、一寸もちがったことはない。廊下の二まい目の板の節の処は右の足かと覺へをしたのぞ。これか上を敬する処のあらはれたものなり。迂斉云ふ、日本橋でこうすれば気違の筋となり。やっはり論吾に入公門菊窮如と云ふと同じことて実底なことぞ。この通りの心入れてなければ君へつかへられぬ。廃昌邑王と云ふもこの心からしたもの。王を追ひ籠たものは古今伊尹と霍光と二人なり。あれらも誠がなくてなることではない。この誠からしたものなり。公孫丑か伊尹の大甲を放たことを問たれば、孟子の有伊尹之志則可、無伊尹之志則簒也と云はれた。霍光もそれなり。主人を追込たゆへ謀反人のやふなれども、不失尺寸と云誠心から出たもの。霍光などのよ井処がなんぞ侍の様でなく、毎日出仕するときがこれゆへ垩賢の心に合ふなり。
【解説】
霍光は登城する時はいつも同じ所を通った。それは上を敬する現れである。霍光が昌邑王を廃したのは誠心からのことで、それは伊尹が太甲を放ったのと同じである。
【通釈】
霍光の登城というと、皆が寄って見ておられた。見ていると、いつも同じ所を通られて、少しも違ったことはない。廊下の二枚目の板の節の処は右の足がと覚えている。これが上を敬する処の現れたもの。迂斎が、日本橋でこうすれば気違いの筋だと言った。やはり論語で「入公門菊窮如」と言うのと同じで実底なこと。この通りの心入れでなければ君へは仕えられない。昌邑王を廃したのもこの心からしたもの。王を追い込めた者は古今伊尹と霍光の二人である。あれらも誠がなくてはできることではない。この誠からしたもの。公孫丑が伊尹が太甲を放ったことを問うと、孟子が「有伊尹之志則可、無伊尹之志則簒也」と言われた。霍光もそれ。主人を追い込んだのは謀反人の様だが、「不失尺寸」という誠心から出たもの。霍光などのよい処がなんぞ侍の様ではなく、毎日出仕する時がこれなので聖賢の心に合う。
【語釈】
・入公門菊窮如…論語郷党4。「入公門、鞠躬如也、如不容」。
・廃昌邑王…小学外篇嘉言23にこの話がある。
・公孫丑か伊尹の大甲を放たことを問た…孟子尽心章句上31。「公孫丑曰、伊尹曰、予不狎于不順。放太甲于桐、民大悦。太甲賢。又反之、民大悦。賢者之爲人臣也、其君不賢、則固可放與。孟子曰、有伊尹之志、則可。無伊尹之志、則簒也」。


善行20
○汲黯、景帝時爲太子洗馬。以嚴見憚。武帝即位、召爲主爵都尉。以數直諫不得久居位。是時太后弟武安侯田蚡爲丞相。中二千石拜謁。蚡弗爲禮。黯見蚡未嘗拜揖之。上方招文學儒者、上曰、吾欲云云。黯對曰、陛下内多欲而外施仁義。柰何欲效唐虞之治乎。上怒變色而罷朝。公卿皆爲黯懼。上退謂人曰、甚矣汲黯之戇也。群臣或數黯。黯曰、天子置公卿・輔弼之臣。寧令從諛承意、陷主於不義乎。且已在其位、縱愛身奈辱朝廷何。黯多病。病且滿三月、上常賜告者數、終不瘉。最後嚴助、爲請告。上曰、汲黯何如人也。曰、使黯任職居官、亡以瘉人。然至其輔少主守成、雖自謂賁・育弗能奪也。上曰、然。古有社稷之臣。至如汲黯近之矣。大將軍青侍中。上踞厠視之。丞相弘宴見。上或時不冠。至如見黯、不冠不見也。上嘗坐武帳。黯前奏事。上不冠。望見黯避帷中、使人可其奏。其見敬禮如此。
【読み】
○汲黯[きゅうあん]、景帝の時、太子洗馬爲り。嚴を以て憚らる。武帝位に即き、召して主爵都尉と爲る。數々直諫するを以て久しく位に居ることを得ず。是の時太后の弟、武安侯田蚡[でんふん]、丞相爲り。中二千石、拜謁す。蚡禮を爲さず。黯、蚡を見るに、未だ嘗て拜せずして之を揖[ゆう]す。上方に文學の儒者を招き、上曰く、吾云云たらんと欲す、と。黯對えて曰く、陛下内多欲にして外仁義を施す。柰何ぞ唐虞の治に效うを欲せんや、と。上怒りて色を變じて朝を罷む。公卿皆黯の爲に懼る。上退きて人に謂いて曰く、甚しきかな汲黯の戇[とう]なるや、と。群臣或は黯を數[せ]む。黯曰く、天子、公卿・輔弼の臣を置く。寧ろ從い諛い、意を承けて、主を不義に陷らしめんや。且つ已に其の位に在り、縱い身を愛すとも朝廷を辱しむるを奈何せん、と。黯、多病なり。病みて且[まさ]に三月に滿たんとすれば、上常に告を賜う者數たび、終に瘉えず。最後に嚴助、爲に告を請う。上曰く、汲黯は何如なる人ぞ、と。曰く、黯をして職を任じ官に居らしめば、人に瘉[こ]ゆること亡し。然るに其の少主を輔け成るを守るに至りては、自ら賁・育なりと謂うと雖も、奪うこと能わざるなり、と。上曰く、然り。古社稷の臣有り。汲黯の如きに至りては之に近し、と。大將軍青、中に侍す。上厠に踞て之を視る。丞相弘、宴見す。上、或は時に冠せず。黯を見るが如きに至りては、冠せざれば見ざるなり。上、嘗て武帳に坐す。黯前に事を奏す。上、冠せず。黯を望見して帷中に避け、人をして其の奏を可とせしむ。其の敬禮せらるること此の如し。

○汲黯云々。汲黯はきびしいと云ふていやかられた。いやがられると云ふが君臣の間では尊ぶことぞ。それか君の御為になるぞ。俗人は衆人愛敬と云ふを尊ふが、衆人愛敬などと云は玉しいはぬけてくるものなり。汲黯は人にあわせることなくつよ井ことばかり云ふゆへ人がいやがるが、忠臣の魂もここにあることなり。さま々々なにやかやこしらへて云ふことは向へひびかぬものなり。心のなりをずっかりと云ふが直諌で、直諌は古今の君の井やかるものぞとなり。○中二千石は歴々の惣名になってをる。さて二千石と云ふてもみいりの二千石でな井があるか、此はみつると云ふ意て、二千石もをを井が中でもよ井二千石なり。その様な歴々か武安侯田蚡に頭を下けられた。誰でも頭をさけるぞ。ところを汲黯が同格のあしら井なり。
【解説】
「汲黯、景帝時爲太子洗馬。以嚴見憚。武帝即位、召爲主爵都尉。以數直諫不得久居位。是時太后弟武安侯田蚡爲丞相。中二千石拜謁。蚡弗爲禮。黯見蚡未嘗拜揖之。上方招文學儒者」の説明。君に厳しいことを言うのが忠臣である。汲黯は歴々が頭を下げる武安侯田蚡を同格にあしらった。
【通釈】
「汲黯云々」。汲黯は厳しいと言われて嫌がられた。嫌がられるというのが君臣の間では尊ぶこと。それが君の御為になる。俗人は衆人愛敬を尊ぶが、衆人愛敬などというものは魂が抜けて来るもの。汲黯は人に合わせることなく強いことばかりを言うので人が嫌がるが、忠臣の魂というのはここにあること。様々に何やかやと拵えて言うのは向こうへ響かないもの。心のなりをすっかりと言うのが直諌だが、直諌は古今の君の嫌がるもの。「中二千石」は歴々の総名になっている。さて二千石と言っても二千石の実入りでないこともあるが、これは満るという意で、二千石でも多いが、中でもよい二千石の者ということ。その様な歴々でも武安侯田蚡に頭を下げられた。誰でも頭を下げるもの。そこを汲黯は同格のあしらいをした。
【語釈】
・武安侯田蚡…景帝の皇后王氏の同母弟。
・揖…拱手。対等な者としての立礼。

○上曰吾欲云々。武帝のつんどうつくしくみことなことを云われた。汲黯が、御尤なことなれとも、御前は殊外御心は欲が深くて外むきばかりよくする。どふして尭舜のやふになろふと云た。そこで殊外不機嫌になって顔色もかわったなり。○罷朝はすっと奥へ引込れた。○公卿皆為汲黯懼は、汲黯はあのとをりの者ゆへ人も悪まぬか、天子が御怒てすっと引込れたゆへ、あのあとか心元な井。あのあとがどふなろふかと懼れた。武帝も実はよく思はしったと見へて、○甚矣汲黯之戇也。どふみてもあいつはあほうなものじゃ。迂斉の弁に、悪くはないがあほうものしゃと云意なり、と。○天子置公卿云々。汲黯か、昔から天子に公卿輔弼之臣があって天子の御側で申上る。然れは我々も上のをためになることを云ふが御役なり。○承意は君の意を合点すること。君の意を合点すると云なればよさそふなものなれとも、これか世々へつろふ家来にあること。丁どの処へもってくることを承意と云ふ。そこで気に入るなり。○奈辱朝廷何は、へつろうてをれはこちはよい様なれとも、朝廷に耻をあたへるになる。昔から朝廷では惣体いっはいを云ふがみめになることになる。朱雲が欄檻を折たこともあり、それからして折檻などと云ふことも云。後世迠も云ひ、上かよいと直臣かををく、上かわる井とへつろふ臣がをを井。そこで諛は朝廷を瀆し、直言を云が美事になる。
【解説】
「上曰、吾欲云云。黯對曰、陛下内多欲而外施仁義。柰何欲效唐虞之治乎。上怒變色而罷朝。公卿皆爲黯懼。上退謂人曰、甚矣汲黯之戇也。群臣或數黯。黯曰、天子置公卿・輔弼之臣。寧令從諛承意、陷主於不義乎。且已在其位、縱愛身奈辱朝廷何」の説明。汲黯は武帝に対しても、君は殊の外欲が深くて外向きばかりをよくすると言った。武帝が怒って引き込んだので、公卿は皆汲黯のことを心配した。しかし、武帝は、汲黯は阿呆者だと言っただけだった。汲黯は上の御為になることを言うのが役目だ言う。君に諂うのは朝廷に恥を与えるものである。
【通釈】
「上曰吾欲云々」。武帝がとても美しく見事なことを言われた。汲黯が、御尤もなことですが、御前の御心は殊の外欲が深くて外向きばかりをよくする。どうして堯舜の様になることができましょうと言った。そこで殊の外不機嫌になって顔色も変わった。「罷朝」は、すっと奥へ引き込まれたということ。「公卿皆為汲黯懼」は、汲黯はあの通りの者なので人も悪まないが、天子が怒ってすっと引き込まれたので、あの後が心許ない、あの後はどうなるだろうかと懼れた。武帝も実はよく思われたと見えて、「甚矣汲黯之戇也」。どう見てもあいつは阿呆な者だと言った。迂斎の弁に、悪くはないが阿呆者だという意だとある。「天子置公卿云々」。汲黯が、昔から天子には公卿輔弼の臣があって天子の御側で申し上げるもの。それなら我々も上の御為になることを言うのが御役だと言った。「承意」は君の意を合点すること。君の意を合点するのであればよさそうなものだが、これが世々諂う家来にあること。丁度の処へ持って来ることを承意と言う。そこで気に入る。「奈辱朝廷何」。諂っていればこちらはよい様なものだが、朝廷に恥を与えることになる。昔から総体、朝廷では一杯を言うが見目なこと。朱雲が欄檻を折ったこともあり、それからして折檻などとも言う。後世でも、上がよいと直臣が多く、上が悪いと諂う臣が多いと言う。そこで諛は朝廷を瀆し、直言を言うのが美事となる。
【語釈】
・戇…愚直。頑固。

○漢の時、役人が三月病気が快復がなければ御役御免あることなれども、武帝の方から役願に及ばぬと病気の暇を下されたこと度々ありしに、一ち終りにとかく病氣も快気せぬとて嚴助と云ふ者又御直に申上た。その時の咄なり。○汲黯何如人也と云ふは、武帝の心によいと思はれたものゆへ、あれらはなんと思ふかと問ふたもの。そこで嚴助が對に、汲黯が御役を勤める所は誰も同じことなれども、○少主は若君のこと。論語可託六尺之孤と云ふかこれ。幼君は惣体をもりたてること。そこで格段な臣を附け子ばならぬ。御幼君などをよくしやふと思ふて汲黯へ打ち掛やふものならは、殊外丈夫なことであろふとなり。孟賁夏育とて古之力士也。ここをつよいことと思ふとちこふ。丈夫なと云ふことなり。今云ふ大舩に乗たと思ふて氣遣るるなと云ふ下世話がこれなり。そこで武帝もそうしゃ々々々々。○昔社稷之臣とて國を枕にして死ぬと云臣があったと云へは、あの汲黯などがそれであろふとなり。○大將軍は天子も尊敬すべきものなり。ところを武帝が踞厠視之也。厠と云に二説あり。えんかはとをりにつくばって、ををこれへきやれ々々々と云たこと。もう一説は雪隠へ行てをることにも云ふが、前説近是なり。○武帝は集成にくわしくある。武帝かそこにをられた。そこにをられたがわる井ではないか、上不冠云々也。可は、あの方て天下の下の申上たを御聞届けられたとき可と云ふことあり、可と云ことばになりてをる。下から云ふときよ井と云ふことを可と云ふ。書付で附札で云ふこともある。
【解説】
「黯多病。病且滿三月、上常賜告者數、終不瘉。最後嚴助、爲請告。上曰、汲黯何如人也。曰、使黯任職居官、亡以瘉人。然至其輔少主守成、雖自謂賁・育弗能奪也。上曰、然。古有社稷之臣。至如汲黯近之矣。大將軍青侍中。上踞厠視之。丞相弘宴見。上或時不冠。至如見黯、不冠不見也。上嘗坐武帳。黯前奏事。上不冠。望見黯避帷中、使人可其奏。其見敬禮如此」の説明。厳助が、汲黯は御役を勤めることは人と違ったことはないが、若君をよくすることでは孟賁や夏育でもそれを妨げることはできないだろうと言い、武帝も彼は社稷の臣だと言った。
【通釈】
漢の時は役人が三月病気が快復しなければ御役御免となることがあるが、武帝の方から役願いには及ばないと病気のために暇を下されたことが度々あった。遂にはとかく病気も快気しないと見て、厳助という者がまた直に申し上げた。これはその時の話である。「汲黯何如人也」は、武帝が心でよいと思われたので、あれらは何と思うかと問うたもの。そこで厳助が応えて、汲黯が御役を勤める所は誰とも同じだが、と言った。「少主」は若君のこと。論語で「可託六尺之孤」と言うのがこれ。幼君は総体を盛り立てるもの。そこで格段な臣を付けなければならない。御幼君などをよくしようと思って汲黯にそれをさせれば、殊の外丈夫なことだろうと言った。孟賁や夏育は古の力士である。ここを強いことと思うのは違う。丈夫だということ。今言う、大船に乗ったと思って気遣いなさるなと言う下世話がこれ。そこで武帝もそうだと頷いた。昔、社稷の臣と言って国を枕にして死ぬと言った臣がいたと言うが、あの汲黯などがそれであろうと言った。「大将軍」は天子も尊敬すべき者。そこを武帝が「踞厠視之」である。厠には二説ある。縁側通りにつくばって、おおこれへ来いと言ったこと。もう一説は雪隠へ行っていることにも言うが、前説がこれに近い。武帝のことは集成に詳しくある。武帝がそこにおられた。そこにおられたのが悪いわけではないが、「上不冠云々」。「可」は、中華では天下の下々の申し上げたことを御聞き届けられた時に可と言うことがあり、それで可という言葉になっている。下から言う時に、よいというのを可と言う。書付の附札で言うこともある。
【語釈】
・論語可託六尺之孤…論語泰伯6。「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節、而不可奪也。君子人與。君子人也」。
・大將軍…「大將軍青侍中」とあり、衛青のこと。


善行21
○初魏遼東公翟黑子有寵於太武。奉使幷州受布千疋、事覺。黑子謀於著作郎高允曰、主上問我當以實告、爲當諱之。允曰、公帷幄寵臣。有罪首實庶或見原。不可重爲欺罔也。中書侍郎崔鑒・公孫質曰、若首實、罪不可測。不如姑諱之。黑子怨允曰、君柰何誘人就死地。入見帝不以實對。帝怒殺之。帝使允授太子經。及崔浩以史事被收、太子謂允曰、入見至尊、吾自導卿脱。至尊有問但依吾語。太子見帝言、高允小心愼密且微賤。制由崔浩。請赦其死。帝召允問。曰、國書皆浩所爲乎。對曰、臣與浩共爲之。然浩所領事、多總裁而已。至於著述、臣多於浩。帝怒曰、允罪甚於浩。何以得生。太子懼曰、天威嚴重、允小臣、迷亂失次耳。臣曏問、皆云浩所爲。帝問允信如東宮所言乎。對曰、臣罪當滅族。不敢虚妄。殿下以臣侍講日久、哀臣欲丐其生耳。實不問臣、臣亦無此言。不敢迷亂。帝顧謂太子曰、直哉、此人情所難、而允能爲之。臨死不易辭信也。爲臣不欺君貞也。宜特除其罪以旌之。遂赦之。他日太子讓允曰、吾欲爲卿脱死而卿不從何也。允曰、臣與崔浩實同史事。死生榮辱義無獨殊。誠荷殿下再造之慈、違心苟免非臣所願也。太子動容稱嘆。允退謂人曰、我不奉東宮指導者、恐負翟黑子故也。
【読み】
○初め魏の遼東公、翟黑子、太武に寵有り。幷州に奉使して布千疋を受け、事覺わる。黑子、著作郎高允に謀りて曰く、主上我に問わば當に以て實に告ぐべきか、爲に當に之を諱むべきか、と。允曰く、公は帷幄の寵臣なり。罪有りて實を首えば或は原[ゆる]さるるに庶からん。重ねて欺罔を爲す可からず、と。中書侍郎崔鑒・公孫質曰く、實を首うるが若きは、罪測る可からず。姑く之を諱むに如かず、と。黑子、允を怨みて曰く、君柰何ぞ人を誘いて死地に就かしむるや、と。入りて帝に見え實を以て對えず。帝怒りて之を殺す。帝、允をして太子に經を授けしむ。崔浩、史の事を以て收えらるるに及びて、太子、允に謂いて曰く、入りて至尊に見え、吾自ら卿を導きて脱せしめん。至尊問うこと有らば但吾が語に依れ、と。太子、帝に見えて言う、高允は小心愼密にして且つ微賤なり。制は崔浩に由る。其の死を赦するを請う、と。帝、允を召して問う。曰く、國書は皆浩の爲る所か、と。對えて曰く、臣と浩共に之を爲る。然るに浩の領する所の事は、多く總裁のみ。著述に至りては、臣、浩より多し、と。帝怒りて曰く、允の罪、浩より甚し。何を以て生かすを得ん、と。太子懼れて曰く、天威嚴重なり、允は小臣、迷亂して次を失うのみ。臣曏[さき]に問わば、皆浩の爲す所と云う、と。帝、允に信に東宮所の言える所の如きかと問う。對えて曰く、臣の罪族を滅するに當る。敢て虚妄せず。殿下、臣が侍講すること日久しきを以て、臣を哀れみて其の生を丐[こ]わんことを欲するのみ。實は臣に問わず、臣も亦此の言無し。敢て迷亂せず、と。帝顧みて太子に謂いて曰く、直なるかな、此れ人情の難しとする所にして、允能く之を爲す。死に臨みて辭を易えざるは、信なり。臣と爲りて君を欺かざるは、貞なり。宜しく特に其の罪を除きて、以て之を旌すべし、と。遂に之を赦す。他日太子、允を讓[せ]めて曰く、吾、卿の爲に死を脱せんと欲して卿從わざるは何ぞや、と。允曰く、臣、崔浩と實に史事を同じくす。死生榮辱、義獨り殊なる無し。誠に殿下再造の慈を荷うも、心に違いて苟も免るるは臣の願う所に非ざるなり、と。太子、容を動かして稱嘆す。允退きて人に謂いて曰く、我、東宮の指導を奉ぜざるは、黑子に負[そむ]くを恐るる故なり、と。

○初魏遼東公翟黒子云々。北朝の髙允が善行なり。もと高允かことを書ふとする前書によのものを出した。初と書出す記文の文例あることなり。○帷幄はまくのことぞ。あの方では歴々にかぎらず、寢所などへはかるい者もまくをはりてをるか、ここで云ふ帷幄は天子の御側へもずか々々とよる身分なり。正い人の口上と不正な人の口上はこのとをりにちこふものぞ。賂を取ではどちしてもならぬことなれとも、君子の療治かたはわる井ことにうはぬりをせぬことぞ。○さて中書侍郎なとと大造な官名なれとも、此口上は中間小者の心も同じことぞ。○帝使允授太子經。この前迠は昔咄して、これからあとが入用なり。高允が太子の侍読を仰付られた。崔浩が記彔をかくに、御先祖のことなどをありさまに書た。とかくあの方で史官の記彔を書くに忌むことをも書くが手柄の様なことになる遺風ありて、つんどあたりさわりのあることを書て、それで崔浩はとられた。高允も手傳たゆへ、をしつけとかが来る。
【解説】
「初魏遼東公翟黑子有寵於太武。奉使幷州受布千疋、事覺。黑子謀於著作郎高允曰、主上問我當以實告、爲當諱之。允曰、公帷幄寵臣。有罪首實庶或見原。不可重爲欺罔也。中書侍郎崔鑒・公孫質曰、若首實、罪不可測。不如姑諱之。黑子怨允曰、君柰何誘人就死地。入見帝不以實對。帝怒殺之。帝使允授太子經。及崔浩以史事被收、太子謂允曰、入見至尊、吾自導卿脱」の説明。これは高允の善行のことで、翟黒子はその前書である。史官の崔浩が帝には当たり障りのあることを記録として書いたので捕らえられた。
【通釈】
「初魏遼東公翟黒子云々」。北朝の高允の善行である。高允のことを書こうとする前書に他の者を出した。「初」と書き出す記文の文例はあること。「帷幄」は幕のこと。中華では歴々に限らず、寝所などへは軽い者でも幕を張っているが、ここで言う帷幄は天子の御側へもずかずかと寄る身分のこと。正しい人の口上と不正な人の口上とはこの通りに違うもの。賂を取るのはどちらにしてもしてはならないことだが、君子の療治方は、悪いことに上塗りをしないこと。さて中書侍郎などとは大層な官名だが、この口上は中間や小者の心も同じこと。「帝使允授太子経」。この前までは昔話だが、これから後が入用である。高允が太子の侍読を仰せ付けられた。崔浩が記録を書くのに、御先祖のことなどをその通りに書いた。とかく中華では史官が記録を書くのに忌むことをも書くのが手柄の様なことになる遺風があって、酷く当たり障りのあることを書いたので、それで崔浩は捕まえられた。高允も手伝ったので、近い内に詮議されることになった。

○至尊有問云々。太子といっしょに出たことと見へる。そちの了簡にせず、をれが云ふ通りになれと云ふた。○天威嚴重は、御前の御威をそろしくてと云こと。左傳の天威とはちがふ。高允がたましいなどか丈夫なことぞ。この様にきってひらいたことぞ。誠があれば人へひびく。江革が孝行で泣けば、盗人もはら々々と涙を流す。この高允がまっすぐが天子へひび井て、さて々々高允かやふなまっすぐな者はあるまいとなり。○直の字で天子の心もほどけ、扨、高允に殊外御感心なされた。これからさきは人のならぬことをしたと云こと。○難と云ふにこの上はあるま井。それを手もなくした。一言で命も捨てると云ふに迂偽をせぬ。誠に信と云ふであらふ。○特は特恩と云ふ字もあって、常例にな井を云。格別に五段と十段と上になれば特進とも云。とりわけて格別にとりあつかふことぞ。○旌ははたをたてることあり、それからしてあらはすと云ふになる。ここははたをたてることではなし。
【解説】
「至尊有問但依吾語。太子見帝言、高允小心愼密且微賤。制由崔浩。請赦其死。帝召允問。曰、國書皆浩所爲乎。對曰、臣與浩共爲之。然浩所領事、多總裁而已。至於著述、臣多於浩。帝怒曰、允罪甚於浩。何以得生。太子懼曰、天威嚴重、允小臣、迷亂失次耳。臣曏問、皆云浩所爲。帝問允信如東宮所言乎。對曰、臣罪當滅族。不敢虚妄。殿下以臣侍講日久、哀臣欲丐其生耳。實不問臣、臣亦無此言。不敢迷亂。帝顧謂太子曰、直哉、此人情所難、而允能爲之。臨死不易辭信也。爲臣不欺君貞也。宜特除其罪以旌之。遂赦之。他日太子讓允曰、吾欲爲卿脱死而卿不從何也」の説明。一言で命を落とすところで高允は嘘を吐かず、本当のことを言った。高允の直が帝の心に響き、高允は罪を赦された。
【通釈】
「至尊有問云々」。太子と一緒に出たことと見える。太子が、貴方の了簡にせず、私の言う通りにしなさいと言った。「天威厳重」は、御前の御威が恐ろしくてということで、左伝の天威とは違う。しかし、高允の魂などは丈夫なものだったので、この様に切って開いた。誠があれば人へ響く。江革が孝行で泣けば、盗人もはらはらと涙を流す。この高允の真っ直ぐが天子へ響いて、実に高允の様な真っ直ぐな者はいないだろうと天子が言った。「直」の字で天子の心も解け、さて、高允に殊の外御感心なさった。これから先は人のできないことをしたということ。難と言うにこの上はないことだろう。それを手もなくした。一言で命も捨てると言うのに嘘を吐かない。誠に信と言えるだろう。「特」は特恩という字もあって、常例にないことを言う。格別に五段・十段と上になれば特進とも言う。取り分け格別に取り扱うこと。「旌」は旗を立てることがあって、それからして現すということになる。ここは旗を立てることではない。
【語釈】
・左傳の天威…春秋左伝僖公。「天威不違顏咫尺」。
・江革…小学外篇善行9を指す。

○臣与崔浩云々は、崔浩が生きるなら生きやふし、死なば死。二人でしたゆへちこふ筈はな井となり。○再造は二たひなすと云ふ字て、首をつ井でくれたと云ふか、これで井きぬものをまたいかすことなり。入門に再造散と云ふ薬かある。これも死ぬに帰したも此薬をのんでなをるゆへつけた名と見へる。私本心に違て生て居ては生きた心ではないと云ふた。凡慮の外なことゆへ太子も身を動して歎じられた。さてこれ迠に委細すみたが、その時分このあとのことを云ふたゆへ此章に初と書きのせたものぞ。○さてここを論するに、昔翟黒子のことかなくは迂偽をつくかと云ふはきき下手の評判なり。やはり豫譲が將以愧懐二心者と云ふたと同しこと。そんならあの歒討も人へつ井てしたかと云はふぞ。翟黒子かな井とても偽は云はぬは知れてをれとも、ここへ翟黒子を出したが豫譲と同じ意なり。此章のつかまへ所は偽を云ぬと云につまること。ここが忠臣の大事のことになる。君臣の間て迂偽をつくは、もと我が身がまへなり。委其身で吾か身と思は子ば迂偽をつく筈はない。子夏の事君能致其身と云ふて、此の體は君へ差し上けたと思へば迂偽はつかぬはづ。そこが忠臣の忠臣たるところなり。
【解説】
「允曰、臣與崔浩實同史事。死生榮辱義無獨殊。誠荷殿下再造之慈、違心苟免非臣所願也。太子動容稱嘆。允退謂人曰、我不奉東宮指導者、恐負翟黑子故也」の説明。ここで、高允は翟黒子のことがなければ嘘を吐いたかと言うのは聞き下手である。高允は翟黒子がいなくても嘘は吐かない。ここへ翟黒子を出したのが豫譲と同じ意である。ここは忠臣は嘘を吐いてはならないことを言ったもの。
【通釈】
「臣与崔浩云々」は、崔浩が生きるのなら生きようし、死ねば死ぬ。二人でしたことなので違う筈はない。「再造」は再び成すという字で、首を繋いでくれたというのが、これで生きない者をまた生かすということ。入門に再造散という薬がある。これも死に帰した者もこの薬を飲んで治るので付けた名と見える。自分の本心に違って生きていては生きた心ではないと言った。これが凡慮の外のことなので、太子も身を動じて歎じられた。さてこれまでに委細が済んだが、その時分のことをこの後に言ったのでこの章に「初」と書き載せたもの。さてここを論じるのに、昔の翟黒子のことがなければ嘘を吐くのかと言うのは聞き下手の評判である。やはり豫譲が「将以愧懐二心者」と言ったのと同じこと。それならあの敵討も人に付いてしたことかと言うが、翟黒子がいなくても偽りを言わないのは知れたことで、ここへ翟黒子を出したのが豫譲と同じ意である。この章の掴まえ所は偽りを言わないということに詰まる。ここが忠臣の大事なことになる。君臣の間で嘘を吐くのは自分の身構えからのこと。「委其身」で、自分の身と思わなければ嘘を吐く筈はない。子夏の「事君能致其身」で、この体は君へ差し上げたと思えば嘘は吐かない筈。そこが忠臣の忠臣たるところである。
【語釈】
・將以愧懐二心者…小学内篇稽古25。「吾所以爲此者、將以愧天下後世之爲人臣、而懐二心者也」。
・委其身…小学立教13集註の語。「委致其身、謂不有其身也」。
・事君能致其身…小学立教13の語。


善行22
○李君行先生、名潜、虔州人。入京師至泗州留止。其子弟請先往。君行問其故。曰、科塲近。欲先至京師、貫開封戸籍取應。君行不許。曰、汝虔州人而貫開封戸籍。欲求事君而先欺君、可乎。寧遲緩數年、不可行也。
【読み】
○李君行先生、名は潜、虔州の人。京師に入り泗州に至りて留止す。其の子弟先ず往かんと請う。君行其の故を問う。曰く、科塲近し。先ず京師に至り、開封の戸籍に貫て應を取らんと欲す、と。君行許さず。曰く、汝は虔州の人にして開封の戸籍に貫る。君に事えんことを求めんと欲して先ず君を欺く、可ならんや。寧ろ遲緩なること數年、行く可からざるなり、と。

○李君行先生云々。上の高允が章も君を欺かぬと云ふが精神になる。高允かやふに事がををきくなくても、かりにも君を欺かぬと云ふが上の為臣不欺君貞也から来た朱子の御編集の意なり。其欺のと云あたまををさへたか李君行なり。科塲は京都の大学挍で学者を吟味する。それもほどちかくなった。○戸籍は人別帳なり。はやく京の者になりて舉に應したいと云ふた。そこで李君行がそれが気に入らず、をのれはどこがどこまでも虔州の人じゃに、奉公をしやふとまっさきに迂偽をつくのじゃ。これらはわづかなことなれども、國のことなどと云ふは大切なことなり。上総者が江戸者と名乗るやふなもの。それかわるいことなり。これらもどふと云ふ事體と云ふを知ら子ば手にいらぬ。京都の者になると奉公するに手短ではやい。そこでかへるが、古郷をかへると云ふがわるいことぞ。たとへば公訴なそをするも田舎者は御勘定へ出る。されとも上総の者が江戸に出て店をもつ、はや町奉行へ出る。かまどのすへやふでちごふ。わる井ことでもないやふなれとも、上総者が江戸者の分になるは欺くのぞ。それからしてはつ井姦曲もあるぞ。親の生んだ先祖の在所て、それを迂偽をつくは甚たわる井。これを今日學者へ云ふとき、学問を云ひたてて奉公する時、師匠をとりかへることなどがあるもの。これか浅間しきことにて、すぐに欺くなり。奉公のかしまたちに迂偽をつくなり。
【解説】
李君行先生の子弟が、早く戸籍を替えて京の者になり、挙に応じたいと言った。そこで李君行が叱った。親の生んだ先祖の在所がありながら、それを嘘を吐くのは甚だ悪い。これを今日の学者で言えば、奉公のために師匠を替えるのが悪いということ。
【通釈】
「李君行先生云々」。前条の高允の章も君を欺かないというのが魂になる。高允の様に事が大きくなくても、仮にも君を欺かないというのが前条の「為臣不欺君貞也」から来た朱子の御編集の意である。その欺く頭を押さえたのが李君行である。「科場」。京都の大学校で学者を吟味する。それも程近くなった。「戸籍」は人別帳である。早く京の者になって挙に応じたいと言った。それで李君行が気に入らず、お前は何処が何処までも虔州の人なのに、奉公をしようと真っ先に嘘を吐くと言った。これらは僅かなことだが、国のことなどというのは大切なこと。上総者が江戸者と名乗る様なもの。それが悪い。これらもどうという事体かを知らなければ手に入らないこと。京都の者になると奉公をするのが手短で早い。そこで替えるが、古郷を替えるというのが悪いこと。たとえば公訴などをするにも田舎者は御勘定へ出る。しかし、上総の者が江戸に出て店を持てば、早くも町奉行へ出る。竈の据え様で違う。これが悪いことでもない様だが、上総者が江戸者の分になるのは欺くのである。それからしてはつい姦曲もする。親の生んだ先祖の在所があって、それを嘘を吐くのは甚だ悪い。これを今日学者に言う時、学問を言い立てて奉公をする時に師匠を取り替えることなどがあるもの。これが浅ましいことで、直ぐに欺くことになる。奉公の鹿島立ちに嘘を吐くのである。


善行23
○崔玄暐母盧氏、嘗誡玄暐曰、吾見姨兄屯田郎中辛玄馭。曰、兒子從宦者、有人來云貧乏不能存、此是好消息。若聞貲貨充足衣馬輕肥、此惡消息。吾嘗以爲確論。比見親表中、仕宦者將錢物上其父母。父母但知喜悦、竟不問此物從何而來。必是祿俸餘資誠亦善事。如其非理所得、此與盗賊何別。縱無大咎、獨不内愧於心。玄暐遵奉敎誡、以清謹見稱。
【読み】
○崔玄暐の母盧氏、嘗て玄暐を誡めて曰く、吾、姨兄屯田郎中辛玄馭[しんげんぎょ]を見る。曰く、兒子宦に從う者、人來りて貧乏にして存すること能わずと云う有り、此は是れ好消息。貲貨[しか]充足し衣馬輕肥と聞くが若きは、此れ惡消息。吾嘗て以て確論と爲す。比[このごろ]親表中を見るに、仕宦の者錢物を將ちて其の父母に上[たてまつ]る。父母但喜悦するを知りて、竟に此の物何くよりして來ると問わず。必ず是れ祿俸の餘資ならば誠に亦善事なり。其れ理得る所に非ざるが如きは、此れ盗賊と何の別ならん。縱い大なる咎無きも、獨り内心に愧じざらんや。玄暐敎誡を遵び奉りて、清謹を以て稱せらる。

○崔玄暐云々。小学君臣の義の上に奉公の仕方書く。これを説きひろげたが山崎先生の四書抄略にあり、君臣之義のははのひろ井ことなり。そうでなくても、奉公する上にちらりと道理にそむ井たことやきみのわるいがつゆちりあっても君臣之義に闕がある。さて崔玄暐が母は学者の面目を失ふ御袋なり。奉公をするにつ井て戒られた。母親などは子が奉公でもすればたたうれしがるものなれとも、そうでな井。奉公などをするにちらりとわる井ことがあってもならぬと昔咄をされた。殊外貧乏でいかふ不手廻と云ふはよ井。ここの見処がいこふちがふことで格段なことぞ。奉公さきかよくて国へも金をよこすと云へば大槩な者がうれしがるか、知行がたっふりとしてよ井と云ふをきくと、さてわる井ことを聞たと云ふ。それをこの母か聞て、さて凡慮の外なことじゃ、動かぬ論と思ふて毎々これを感心するとなり。
【解説】
「崔玄暐母盧氏、嘗誡玄暐曰、吾見姨兄屯田郎中辛玄馭。曰、兒子從宦者、有人來云貧乏不能存、此是好消息。若聞貲貨充足衣馬輕肥、此惡消息。吾嘗以爲確論」の説明。奉公する上に少しでも道理に背いたことや気味の悪いことがあれば君臣の義の闕となる。崔玄暐の母が辛玄馭の言った論を告げて崔玄暐を戒めた。貧乏で手が回らないというのはよいが、知行がたっぷりとして暮らしがよいのは悪い。
【通釈】
「崔玄暐云々」。小学の君臣の義の上に奉公の仕方を書く。これを説き広げたのが山崎先生の四書抄略にあり、これが君臣の義の幅の広いこと。そうでなくても、奉公する上にちらりと道理に背いたことや気味の悪いことが露塵でもあれば君臣の義の闕となる。さて崔玄暐の母は学者が面目を失うほどの御袋である。奉公をするについて戒められた。母親などは子が奉公でもすればただ嬉しがるものだが、そうではない。奉公などをするにはちらりと悪いことがあってもならないと昔話をされた。殊の外貧乏で酷く不手廻りだというのはよい。ここの見処が大層違ったことで格段なこと。奉公先がよくて国へも金を遣すと言えば大概の者は嬉しがるが、知行がたっぷりとしてよいと聞くと、さて悪いことを聞いたと言う。それをこの母が聞いて、さて凡慮の外なことだ、確かな論だと思って毎々これを感心したと言う。

○親表中は、親は同姓、表は同姓でない、親類のこと。○將銭物云々。できあいの親ゆへ、たたうれしかりて吟味をすべきことをせぬ。○理はすぢめのことなり。役をすれば知行と扶持方かある。その外になんぞあるとそれがわるい。上からこれほとと云ふ外一銭もな井ことぞ。賂を取ふとも、その様にめったに知れるものでもないが、その知れぬを幸と思ふ心はさて々々浅間しきことぞ。御咎がのふてもはつかしそふなもの。盗人か昨夜見付られずに首尾能とって来たと云ふ様なもの。崔玄暐も母の教を受てから以清謹見称なり。○清は役義につ井て欲のな井こと。○謹はものを大叓にすること。欲かないゆへ金銀を貪らず。謹は金さへとら子ばよ井と思ふが、牡丹もとらぬこと。下役なども私のことにつかへは清謹でな井。役所の小者のあるも、上の御用をたさせるためにつけてをくものぞ。それを障子のきりばりの、庭の掃除をさせるなとと云ふは、もふ清謹でない。名主が人足をつかふも、手前の私用につかへば清謹に傷がつく。
【解説】
「比見親表中、仕宦者將錢物上其父母。父母但知喜悦、竟不問此物從何而來。必是祿俸餘資誠亦善事。如其非理所得、此與盗賊何別。縱無大咎、獨不内愧於心。玄暐遵奉敎誡、以清謹見稱」の説明。出来合いの親は物を貰うとただ喜ぶだけで吟味をしない。知行と扶持以外は受け取るものではない。母の教えがあったので、崔玄暐は清謹で称された。
【通釈】
「親表中」は、親は同姓、表は同姓ではなくて親類のこと。「将銭物云々」。出来合いの親なので、ただ嬉しがり、吟味すべきことを吟味しない。「理」は筋目のこと。役をすれば知行と扶持方がある。その外に何かがあるとそれが悪い。上からこれほどだと言う外は一銭もないもの。賂を取ってもその様に滅多に知られるものでもないが、その知られないことを幸いと思う心は実に浅ましいものである。御咎めがなくても恥ずかしそうなもの。それは、盗人が昨夜見付けられずに首尾よく取って来たと言う様なもの。崔玄暐も母の教えを受けてから「以清謹見称」だった。清は役義について欲のないこと。謹は物を大事にすること。欲がないので金銀を貪らない。金さえ取らなければよいと思うが、謹は牡丹も取らないこと。下役なども私のことに使えば清謹ではない。役所に小者があるのも、上の御用を出させるために付けて置くもの。それを障子の切り張りや庭の掃除をさせるなどというのは、もう清謹ではない。名主が人足を使うのも、自分の私用に使えば清謹に傷が付く。


善行24
○劉器之待制初登科、與二同年謁張觀參政、三人同起身請敎。張曰、某自守官以來常持四字。勤・謹・和・緩。中間一後生應聲曰、勤・謹・和既聞命矣。緩之一字某所未聞。張正色作氣曰、何嘗敎賢緩不及事。且道、世間甚事不因忙後錯了。
【読み】
○劉器之待制、初め科に登り、二りの同年と張觀參政に謁し、三人同じく身を起して敎を請う。張曰く、某官を守りてより以來、常に四字を持つ。勤・謹・和・緩、と。中間に一りの後生聲に應じて曰く、勤・謹・和は既に命を聞く。緩の一字は某未だ聞かざる所なり、と。張色を正し氣を作して曰く、何ぞ嘗て賢に緩にして事に及ばざれと敎えん。且つ道え、世間甚事[なにごと]か忙に因りて後錯り了らざる、と。

○劉器之待制云々。同年は公義へ同じきに召出された同軰のことなり。同し日と云ふは今日もあること。あれは同日でこさるとて御番衆も格別に念比なもの。○持四字と云は、いつも々々々この四字をつかまへて勤た。外のことはな井となり。○勤は御役をつとめる上に殊外精の出ることぞ。精の出る気かな井となにもかもべったりとなる。そのことを下に置ずつとめることぞ。勤の意かな井と上へ事る方の気がべったりとなる。百姓などが田畑へ手をつけぬ日もあるか、そのときもわすれぬこと。謀反人などか出て危くなるとき、孔明などの様なものが出る。あれを勤王と云ふ。凡そべったりとなるをしゃっきりとなるは勤の字のことにて、精出してつとめることなり。勤かないとただ人形のすわりてをる様なもの。日夜こんたん精出して学問をすることを勤学と云ふもそれなり。
【解説】
「劉器之待制初登科、與二同年謁張觀參政、三人同起身請敎。張曰、某自守官以來常持四字」の説明。「勤・謹・和・緩」の四つをいつもする。勤は、精を出して、べったりとしているところをしゃっきりとすること。勤王・勤学の勤もこれである。
【通釈】
「劉器之待制云々」。同年は公義へ同時期に召し出された同輩のこと。同じ日というのは今日もあること。あれは同日だと言って御番衆も格別に懇ろなもの。「持四字」。いつもこの四字を掴まえて勤めた。外のことはないと言う。「勤」は御役を勤める上に殊の外精の出ること。精の出る気がないと何もかもべったりとなる。ことを下に置ずに勤めること。勤の意がないと上へ事える方の気がべったりとなる。百姓などが田畑へ手を付けない日もあるが、その時も忘れてはならない。謀反人などが出て危くなる時、孔明などの様な者が出る。あれを勤王と言う。凡そべったりとなるところをしゃっきりとなるのは勤の字からで、精を出して勤めること。勤がないとただ人形が座っている様なもの。日夜今旦精を出して学問をすることを勤学と言うのもそれ。

○謹は何もかも上のことを大事にすることなり。○和はやわらくと云ふ字で温和なこと。これか奉公の大事。和かな井と何もかも打ちこわす様になる。つきあたる人はくづすばかりで成就がな井。和と云ふは物に激するやふなことは頓とな井、ふっくりとしたことなり。緩はものにらいのあること。政をするなどは中々急な了簡ではならぬ。緩は全体にら井のあることなり。この四字でつとめたと云たれば、○一後生応声曰云々。一人が利発な者と見へて合点もしたやうしゃが、ずっと云だした。心ある人の云ふことは考て見る筈のこと。それに考もせずに、緩はゆるりとしてをこたる方へつくこと、いなことじゃ、これまで左様なことは聞及はぬと云ふた。歴々の覚あって云ふたことを此通りに云ふたゆへ、そこで参政か怒り、せきみになってむっとしたは、できすきたわか井者しゃ。○賢はそこもとと云こと。すら々々懐手でらちあかぬやふにしろと教はせぬ。
【解説】
「勤・謹・和・緩。中間一後生應聲曰、勤・謹・和既聞命矣。緩之一字某所未聞。張正色作氣曰、何嘗敎賢緩不及事」の説明。「謹」は上のことを大事にすること。「和」は温和なこと。「緩」はものに余裕のあること。同輩がよく考えもせず、「緩」を言うのは妙だと言った。
【通釈】
「謹」は何もかも上のことを大事にすること。「和」は柔らかくという字で温和なこと。これが奉公の大事。和がないと何もかも打ち壊す様になる。突き当たる人は崩すばかりで成就がない。和は物に激する様なことが全くなく、ふっくりとしたこと。「緩」はものに余裕のあること。政をすることなどは中々急な了簡ではできない。緩は全体に余裕のあること。この四字で勤めたと言うと、「一後生応声曰云々」。一人が利発な者と見えて合点もした様だが、ずっと言い出した。心ある人の言うことは考えて見る筈のこと。それなのに考えもせず、緩はゆるりとして怠る方へ付くことで異なことだ、これまでにその様なことは聞き及んだことはないと言った。歴々の覚えがあって言ったことをその通りに言ったので、そこで参政が怒り、急き味になってむっとした。出過ぎた若者である。「賢」は御前ということ。すらすらと懐手で埒の明かない様にしろと教えはしないと言った。

○且道云々。これから云ふてきかせることぞ。まあ云ふてもみやれ、思ふてもみやれの意なり。其元はぶらりとして怠てをると思ふが、ものはゆっくりとするてなければゆかぬものじゃ。さわがしいと云ふにしそこなはぬことはないとなり。いかさま忙の字は、人の仕をちここからぞ。某なども使のきた時またせるがきらいゆへ返辞をはやく書くが、それゆへ手紙にそまつかある。医者も藥取大勢来て、医書を吟味して薬を盛ても間に合はず取込と云。忙でしそこのふぞ。大切な病人の所へゆき、容躰も脉もいそがわしくそこ々々にしては療治はならぬ。とかく緩でなければならぬ。そうじて咄しをするうちも、病状を考てをればよ井ところ見出すぞ。ちょっと脉を見、じきにさわがしく帰るやふではならぬ。皆世間がいそがし井からしそこなふ。
【解説】
「且道、世間甚事不因忙後錯了」の説明。緩やかでなければうまくは行かない。忙しいからし損ないができるのである。
【通釈】
「且道云々」。これからが言って聞かせたこと。まあ言っても見なさい、思っても見なさい意である。御前はぶらりとして怠っていると思うが、ものはゆっくりとするのでなければうまく行かないもの。騒がしことにし損なわないことはないと言った。いかにも「忙」の字が、人の仕落ちはここからである。私なども使いが来た時に待たせるのが嫌いなので返辞を早く書くが、そこで手紙に粗末がある。医者も薬取りが大勢来て、医書を吟味して薬を盛っても間に合わずに取り込むということがある。忙でし損なう。大切な病人の所へ行き、容体も脈も忙しくそこそこにしては療治はできない。とかく緩でなければならない。総じて話をする内でも、病状を考えていればよいところを見出す。一寸脈を見て直ぐに騒がしく帰る様ではならない。世間が忙しいから皆し損なう。


善行25
○伊川先生曰、安定之門人、往往知稽古愛民矣。則於爲政也何有。
【読み】
○伊川先生曰く、安定の門人、往往にして古を稽え民を愛することを知る。則ち政を爲すに於てや何か有らん。

○伊川先生曰云々。語は伊川で安定のことになる。君臣之義は君に差し向たばかりと思ふが、そふばかりてはない。君の御用に立つ様にしてをくことぞ。忠義を尽そうとてもから手ではならぬもの。上の御役に立つ様にするが君に事へる大事。中々安定の門人などは古のことが案内なり。○稽古とて、たた昔咄を覚へてするやふなことではない。○さて愛民と云字でみよ。今の百姓をいたはるはいたわりよふを知ぬ。子共をかわ井かるとても、甘ひ物はかり食はせるとむしを出す。昔は勸農官の田畯のと云ふがあって、田を耕す処につ井て、こふせいああせ井と云ふ。後世はそれかふっつりない。何もしらぬものが手前々々の了簡てする。どふやらこふやらするが全体民の為めにならず、民の難義あるときも、當坐のためにすることは、たとへば金をかりてやるやふなもの。民の為めになるやふで、それがみな民の身帯をつぶすになる。古の人のことを考てすれば民の為めになる。日待をををくふれると民はうれしかる。いかほど年をとりてもをろかなもの。やすむとあとにせつないことのあるは知らず。借金をよこに子るやふな悪心もな井が、金をかそふと云ふとうれしかりてかりる。らくと云ふかわるい。をっかけをんまわしする様ながな井、そこが愛民の本意なり。後世は百姓のうまみを食ひ覚へた百姓はな井。なんそよ井ことあらばと子らってをる。百姓の尻が輕ひ。そこで武士にでもなる叓を悦ぞ。講後先生曰、たた井武士が百姓になりた井と云ふほどでなければ本のことでない。安定の門人は昔のことを吟味し、それが役人になったものゆへなにもかも出来る。医を知った人の看病をする様なもの。これが上の第一の御為めぞ。君臣之義の大事になる。
【解説】
民は楽を嬉しがるが、その楽が悪い。民を助けるために金を貸すとしても、それが当座のことであれば民の身代を潰すことになる。日待を多く出せば民は後に苦しむことになる。「愛民」の本意は、民を追い回す様なことをしないということ。安定の門人は昔のことを吟味して役人になったので何もかもできた。
【通釈】
「伊川先生曰云々」。この語は伊川の語だが、これが安定のことになる。君臣の義は君に差し向かったことばかりと思うが、そればかりではない。君の御用に立つ様にして置くこと。忠義を尽くそうとしても空手ではならない。上の御役に立つ様にするのが君に事える大事。安定の門人などは古のことをよく知っていた。「稽古」と言っても、ただ昔話を覚えていてする様なことではない。さて「愛民」という字を見なさい。今は百姓の労わり様を知らない。子供を可愛がるとしても、甘い物ばかりを食わせると虫を出す。昔は勧農官や田畯がいて、田を耕す処に付いていて、こうしろああしろと言う。後世はそれが全くない。何も知らない者がそれぞれの了簡でする。どうやらこうやらするが全体が民のためにならず、民に難儀のある時も、当座のためにすることは、たとえば金を借りて遣る様なもの。民のためになる様で、それが皆民の身代を潰すことになる。古の人のことを考えてすれば民のためになる。日待を多く出すと民は嬉しがる。どれほど年を取っても愚かなもの。休むと後に切ないことがあることを知らない。借金を踏み倒す様な悪心もないが、金を貸そうと言うと嬉しがる。楽というのが悪い。追い掛け追い回す様なことがない、それが愛民の本意である。後世は百姓の甘味を食い覚えた百姓はいない。何かよいことがあればと狙っている。百姓は尻が軽い。そこで武士にでもなることを悦ぶ。講後に先生が言った。そもそも武士が百姓になりたいと言うほどでなければ本当のことではない、と。安定の門人は昔のことを吟味し、それで役人になったので何もかもできた。それは医を知った人が看病をする様なもの。これが上の御為の第一であり、君臣の義の大事になること。


善行26
○呂榮公自少官守處、未嘗干人舉薦。其子舜從守官會稽。人或譏其不求知者。舜從對曰、勤於職事、其他不敢不愼。乃所以求知也。
【読み】
○呂榮公少きより官守の處、未だ嘗て人の舉薦を干[もと]めず。其の子舜從、官を會稽に守る。人或は其の知るを求めざる者を譏る。舜從對えて曰く、職事に勤め、其の他は敢て愼まずんばあらず。乃ち知を求むる所以なり、と。

○呂栄公云々。此章、君臣の義のしま井に出て、君臣の間の出処の大事を云ふたもの。君臣の義の出かけがわる井とどふもならぬもの。事は大事なもので、初てかわるいとならぬ。医者も笛の上手も皷の上手もあらふが、それで近付になりた医者は病気の時さへぬものぞ。学者もでる初手がわる井とひひかぬものなり。そこてかる々々と出ぬことぞ。孟子七篇の始に見梁惠王と出処の吟味あるも面白ひことなり。こちは浪人ゆへ門番になってもよ井が、同坐で咄すると云ふが、初手のつっかけかよくなければならぬ。出かけを人に頼み、人のをかげて奉公をしてはきくことはない筈ぞ。あ井つををきなつらだはと云ふほどでなければならぬ。○官守處は御役人になって公儀へ出て居ところ。その塲てと云ふ意。集成に處と云ふ字がない。なければないほとよい。十人か九人まで人を頼て役替をし、人の挙薦で上へ昇進したかる。呂栄公はそれかきつくきらいなり。舜從は遠国役をつとめ、會稽の太守なれとも、心は隠者を見るやふにしてをられた。そこて或人か、あぢなへんくつな人しゃ、出世をする様にしやればよ井と云た。この或人かわけある人て、聞ずてにならぬ人と見へる。○さてここの舜従の對がすぐれたことそ。孔子かいわれてもこの外はあるまいと思ふぞ。英気な人はなにをらがすることを知るものかと云が、平に御奉公むきを殊外つつしみ、一つも不敬はあるまい。然れは御役を精を出し、不敬なことがなければ、これか求知であらふ。実があれば人が知るはづ。論吾に不患人之不己知患不知人とあり、人にしられるやふに人をたのんですることはないぞ。たた井出処と云ふものは手を入れぬことなり。その手を入れぬ人が出て政をすれば、殊外さへの出ることなり。
【解説】
君臣の義は出処が悪いとどうにもならない。御奉公向きのことを殊の外に慎めば不敬はない。御役に精を出して不敬がなければ人に知られることになる。実があれば人が知る。人を頼んで出世しょうとするのは悪い。出処は手を入れないもの。
【通釈】
「呂栄公云々」。この章が君臣の義の最後に出たが、これが君臣の間の出処の大事を言ったもの。君臣の義は出掛けが悪いとどうにもならないもの。事は大事なもので、初手が悪いとうまく行かない。医者にも笛の上手も鼓の上手もいるだろうが、それで近付きになった医者は病気の時には冴えないもの。学者も出る初手が悪いと響かない。そこで、軽々と出てはならない。孟子七篇の始めに「見梁恵王」と出処の吟味があるのも面白い。こちらは浪人なので門番になってもよいが、同座で話をするというのが初手の突っ掛けがよくなければならない。出掛けを人に頼み、人の御蔭で奉公をしてはよいことはない筈。あいつは大きな面だと言われるほどでなければならない。「官守処」は御役人になって公儀へ出ているところで、その場でという意。集成には処という字がない。なければないほどよい。十人が九人まで人を頼んで役替えをし、人の「挙薦」で上へ昇進したがる。呂栄公はそれか大層嫌いだった。「舜従」は遠国役を勤め、会稽の太守だったが、心は隠者を見る様にしておられた。そこで或る人が、ひどく偏屈な人だ、出世をする様にして遣ればよいと言った。この或る人がわけのある人で、聞き捨てにできない人と見える。さてここの舜従の応えが優れたもの。孔子が言われてもこの外はないだろう。英気な人は、何、俺がすることを知るものかと言うが、平らに、御奉公向きのことを殊の外に慎めば一つも不敬はないだろう。それなら御役に精を出して不敬なことがなければ、これが「求知」となるだろうと言った。実があれば人が知る筈。論語に「不患人之不己、知患不知人」とあり、人を頼んで人に知られる様にすることはない。そもそも出処というものは手を入れないもの。その様な手を入れない人が出て政をすれば、殊の外冴えが出る。
【語釈】
・不患人之不己知患不知人…論語学而16。「子曰、不患人之不己之、患不知人也」。