善行32
○繆肜少孤。兄弟四人皆同財業。及各取妻、諸婦遂求分異、又數有闘爭之言。肜深懷忿嘆、乃掩戸自撾曰、繆肜汝脩身、謹行、學聖人之法、將以齊整風俗。柰何不能正其家乎。弟及諸婦聞之、悉叩頭謝罪、遂更爲敦睦之行。
【読み】
○繆肜[ぼくゆう]少くして孤なり。兄弟四人皆財業を同じくす。各々妻を取るに及びて、諸婦遂に分異を求め、又數々闘爭の言有り。肜深く忿嘆を懷き、乃ち戸を掩い自ら撾[う]ちて曰く、繆肜、汝は身を脩め、行を謹み、聖人の法を學び、將に以て風俗を齊整せんとす。柰何ぞ其の家を正すこと能わざるや、と。弟及び諸婦之を聞き、悉く叩頭して罪を謝し、遂に更めて敦睦の行を爲せり。

三月六日
【語釈】
・三月六日…寛政2年(1790)3月6日。

○繆肜少孤云々。親にはなれたあとで兄弟四人あったと云ふ。ここに目を着ることぞ。小児の時は兄弟中もよ井ものなれとも、年たけるとわるくなる。それを結び付るか親なり。親かあれば少々わる井はよくなり、親でもな井後は離れ々々のやふになるものなれとも、本道によ井は、親かなふてもわるくなると云ふことはない。少孤なれば親のかけひきなしの所がみへる。兄弟はいつ迠もひとつ処に居りた井ものなれとも、女房もったに付て大勢のよめとも一つにをるでわるいことも出来る。それゆへ分れたいなとと云出し、其上にぶつくさがあった。○忿は、あるまいことじゃと腹を立ち、○嘆は、さてかなしいとなけくこと。忿は義から出る。嘆は仁から出て、あああるま井、腹をたてなさけないこととなげきたことなり。○掩戸自撾は、繆肜汝々と云て手前のからだをふった。いつかも云ふ、兄弟中のわる井も手前に尤をつけるからのこと。この自からを知らぬゆへ、人の頭の蝿ばかりをふ。繆肜は自撾也。學問をして天下の風俗もなをそうと云ふことをしなから、この猫の額ほどな家が正されぬ。なんとしたこととなり。自ら匕のまわらぬことを責た。これが謀ではない。誠にこふ思ふた。誠でなければひひかぬもの。そのことか段々兄弟ともへ知れて、身ともわる井、誤りいりたと云ふたこと。○叩頭は、和訓のたたくと云へば手で頭を打つやふなれともそふではない。あやまりたとき頭を下ける。うすづくことなり。打つやふにみへるゆへ、摸様で云ふたものなり。
【解説】
子は年長けると仲が悪くなるものだが、それを結び付けるのが親である。繆肜の兄弟が妻を娶ってから不満を言う様になった。それを繆肜は自分が悪いからそうなったのだと自分を責めた。人は、自分を知らないから人の頭の蝿ばかりを追う。
【通釈】
「繆肜少孤云々」。親と離れた後は兄弟四人だったと言う。ここに目を着けなさい。小児の時は兄弟仲もよいものだが、年長けると悪くなる。それを結び付けるのが親である。親があれば少々悪い者もよくなる。親が亡くなった後は離れ離れの様になるものだが、本当によいのは、親がなくても悪くなるということはない。少孤だと親の掛け引きなしの所が見える。兄弟はいつまでも一所にいたいものだが、女房を持ち、大勢の嫁とも一所にいるので悪いこともできる。そこで、分かれたいなどと言い出し、その上にぶつくさと不満が出た。「忿」は、そうではない筈だと腹を立てることで、「嘆」は、さて悲しいと嘆くこと。忿は義から出、嘆は仁から出て、ああではないだろうと腹を立てて情けないことだと嘆いたのである。「掩戸自撾」。繆肜が、お前はと言って自分の体を打った。いつかも言ったが、兄弟仲が悪いのも自分に尤もを付けるからのこと。自分を知らないから、人の頭の蝿ばかりを追う。繆肜は自撾だった。学問をして天下の風俗も直そうとしながら、この猫の額ほどの家を正すことができない。何としたことだと言った。自分の匙が回らないことを責めた。これは謀ではない。誠にこの様に思った。誠でなければ響かないもの。そのことが段々兄弟共へ知れて、私が悪かった、謝り入ったと言った。「叩頭」は、和訓で叩くと言えば手で頭を打つ様だがそうではない。謝る時に頭を下げる。舂くこと。これが打つ様に見えるので、その模様で言ったもの。


善行33
○蘇瓊除南清河太守。有百姓乙普明兄弟爭田、積年不斷。各相援據乃至百人。瓊召普明兄弟、諭之曰、天下難得者兄弟、易求者田地。假令得田地、失兄弟心如何。因而下涙。諸證人莫不灑泣。普明兄弟叩頭乞外更思、分異十年、遂還同住。
【読み】
○蘇瓊[そけい]、南清河の太守に除せらる。百姓乙普明兄弟、田を爭う有り、年を積みて斷ぜず。各々相援據して乃ち百人に至る。瓊、普明兄弟を召し、之を諭して曰く、天下に得難き者は兄弟、求め易き者は田地なり。假令田地を得とも、兄弟を失はば心如何、と。因りて涙を下す。諸々の證人泣を灑がざる莫し。普明兄弟叩頭して外にて更め思わんことを乞い、分異十年、遂に還りて同じく住む。

○蘇瓊云々。此章、田地争ひなり。さてこれが昔から中蕐も日本もあって、じきに済もあれとも、長くすまぬもあるなり。○證拠人が百人ほど出たと云ふ。こふなりてはすまぬもので、役人の手とりものなり。蘇瓊か公事をばさばかず、これ々々と云ふて聞せよふとなり。いかさまわるうすると人が兄弟はやっかいもののやふに思ふが、大勢兄弟があるは天からの甚しき賜ものなり。あたまて親かないと云ふなれば、いくら兄弟がほしくても出来ぬ。歴々でもこれか自由にならぬことなり。三代をのけて田地は財宝で求られるもの。この公事も僉義を遂けたら尤な方が取ろふが、せんきをつめずにさとすか趣向の親切ぞ。兄弟は自由にはならぬ。求めやふとしても求められぬものなり。不届と云はず、をのしの心もちはとふしゃ。
【解説】
田地争いが何処にもあるもの。蘇瓊がその公事を裁かず、田地は金で求めることができるが、兄弟は天からの賜物で人の自由にならないもの。兄弟を失ったらどうかと聞いた。
【通釈】
「蘇瓊云々」。この章は田地争いである。さてこれが昔から中華にも日本にもあって、直ぐに済むこともあるが、長く済まないこともある。証拠人が百人ほど出たという。こうなっては済まないもので、役人の一難事となる。蘇瓊が公事を裁かずに、これこれ聞かせようと言った。いかにも悪くすると人が兄弟は厄介者の様に思うが、大勢兄弟があるのは天からの大層な賜物である。最初から親がないというのであれば、いくら兄弟が欲しくてもできない。歴々でもこれが自由にならないこと。三代を除いて田地は財宝で求めることができる。この公事も詮議を遂げれば尤もな方が取ることになるのだろうが、詮議を詰めずに諭すのが趣向の親切である。兄弟は自由にはならない。求めようとしても求められないもの。不届きとは言わず、お前の心持はどうかと聞いた。

○因而下涙は、奉行が涙を流したこと。これ等も謀で、このてでやるのあの手でやるのと云ふことではない。誠なり。迂斉の咄に、諸星某の公事を捌に、不届と云はず笑止なやつじゃと呵りたと云ふが、ここらに遠く意の合たことなり。○乞外更思は、了簡をしなをそうと云ふたこと。心如何と云ふたゆへ、そこで乞外更思と云ふたものなり。中のわるくなるが財を別にするからきたもの。親子中も兄弟中もわるくなるがこれぞ。輕い者の質素からして田舎の風俗て子共にひ子りと云ふやらをやるが、心ある人はやらぬ筈ぞ。これからも分財の本になる。人に銭を貰ふと子共ゆへなに心なくても、これはをれが銭じゃと云ふ。これはをれか銭と云ふが、はや子共にはわる井ことを仕込むのなり。これらはぶんのことの様なれとも、このををきくなりたが争田になる。世間みな可愛子でも、可愛かりやふはかたから知らぬ。銭やらずに紙鳶でもかふてやるがよい。
【解説】
仲が悪くなるのは財を別にすることから起こる。子供にお捻りを遣るとこれは俺の銭だと言う。これが分財の本になる。
【通釈】
「因而下涙」は、奉行が涙を流したこと。これらも謀ではなく、この手で遣るとかあの手で遣るということではない。誠からのものである。迂斎の話に、諸星某が公事を裁くのに、不届きとは言わずに笑止な奴だと呵ったというのが、ここらに遠く意の合うこと。「乞外更思」は、了簡をし直そうと言ったこと。「心如何」と聞かれたので、そこで乞外更思と言ったもの。仲が悪くなるのは財を別にすることから起こる。親子仲も兄弟仲も悪くなるのがこれから。軽い者は質素なので、田舎の風俗で子供にお捻りとやらいうものを遣るが、心ある人は遣らない筈。これも分財の本になる。人に銭を貰うと子供なので何の心はなくても、これは俺の銭だと言う。これは俺の銭だと言うのが、早くも子供に悪いことを仕込むものである。これらは別段なことの様だが、これの大きくなったのが争田になる。世間皆可愛い子でも、可愛がり方は全く知らない。銭を遣らずに凧でも買って遣るのがよい。


善行34
○王祥弟覽母朱氏、遇祥無道。覽年數歳、見祥被楚撻、輒涕泣抱持。至于成童毎諫其母。其母少止凶虐。朱屢以非理使祥、覽與祥倶。又虐使祥妻、覽妻亦趨而共之。朱患之乃止。
【読み】
○王祥の弟覽の母朱氏、祥に遇すること無道なり。覽年數歳、祥の楚撻せらるるを見て、輒ち涕泣して抱持す。成童に至りて毎に其の母を諫む。其の母少しく凶虐を止む。朱屢々非理を以て祥を使えば、覽、祥と倶にす。又祥の妻を虐使すれば、覽の妻も亦趨りて之を共にす。朱、之を患えて乃ち止む。

○王覧かいこふ兄弟中よいものぞ。女の心は大槩同じことなもので、我が生んだ子の可愛からしてこのやふにぶったりむこくしたりする。兄の王祥がぶたれるを見ると、王覧かなぜそうすると云ふたぞ。それからたん々々成長しては母へ異見を云ふた。
【通釈】
王覧は大層兄弟仲がよかった。女の心は大概は同じことで、自分が生んだ子が可愛いからこの様に打ったり酷くしたりする。兄の王祥が打たれるのを見ると、王覧が何故そうするのかと言った。それから段々と成長してからは母へ異見を言った。


善行35
○晉右僕射鄧攸、永嘉末、没于石勒、過泗水。攸以牛馬負妻子而逃、又遇賊掠其牛馬。歩走擔其兒及其弟子綏。度不能兩全、乃謂其妻曰、吾弟蚤亡唯有一息。理不可絶。止應自棄我兒耳。幸而得存、我後當有子。妻泣而從之。乃棄其子而去之。卒以無嗣。時人義而哀之、爲之語曰、天道無知。使鄧伯道無兒。弟子綏服攸喪三年。
【読み】
○晉の右僕射鄧攸[とうゆう]、永嘉の末、石勒に没し、泗水を過ぐ。攸、牛馬を以て妻子を負わしめて逃れ、又賊に遇い、其の牛馬を掠めらる。歩走して其の兒及び其弟の子綏[すい]を擔う。兩つながら全くすること能わざるを度り、乃ち其の妻に謂いて曰く、吾が弟蚤く亡び唯一息有り。理、絶つ可からず。止[た]だ應[まさ]に自ら我が兒を棄つべきのみ。幸にして存することを得ば、我後に當に子有るべし。妻泣きて之に從う。乃ち其の子を棄て之を去る。卒に以て嗣無し。時の人義として之を哀れみ、之が爲に語りて曰く、天道も知ること無し。鄧伯道をして兒無からしむ、と。弟の子綏、攸の喪に服すこと三年なり。

○晋右僕射云々。西晋の末に石勒が出て晋もついつぶされた。石勒は本夷狄の者なり。五胡乱、夏も晋のこと。○乃謂其妻曰云々。さて々々をれも此所に進退谷りた。云ひにく井ことじゃが、をぬしに相談がある。聞てくれよ。先つをれが弟は死で従子ばかりのこりてをる。どふ考て見てもこの種ばかりはのこさ子はならぬ。弟の子をたやすと云ふことは道理にを井てあるまいことじゃ。不便なれともをれが子の方を殺してしまふ。をれも若ひゆへ子か出来ま井ものでもな井と我子をすてた。女房の心は夫とのやふであろふ筈はないが、誠がひひ井たゆへ妻泣而従之なり。この通りのことゆへ、叔父なれとも親のとをり三年の喪を勤めた。さて々々これに吟味のあることぞ。朱子の御編集も小学に手の届かぬことがある。大学の章句は三十年ばかりにかけて出来あがりたか、小学はそふでない。この章は後世これを法にすれば心得たか井になる。小学にあるゆへ我か子を殺す叓と思ふとさしつかへぞ。争の端になるゆへ載られ子ばひとしをよ井と云ほどなことなれとも、この處置にかまはず云ふがよ井。天下の者か、我が子は見苦敷ほと可愛がりて從子などは根からかまわぬ。それゆへ事からま子ず、古人は子を捨て従子を養ふたと思へばこの方のためになる。
【解説】
この章は、自分の子を殺すことだと思うと差し支え、争いの端となる。事で真似ず、古人は子を捨てて甥を養ったと思えばこちらのためになる。しかし、この章はなければ一入よい。
【通釈】
「晋右僕射云々」。西晋の末に石勒が出て晋も遂に潰された。石勒は本は夷狄の者。ここは五胡の乱のことで、夏も晋のこと。「乃謂其妻曰云々」。俺もこの所で実に進退が窮まった。言い難いことだが、お前に相談がある。聞いてくれ。先ず俺の弟は死んで甥だけが残っている。どう考えて見てもこの種だけは残さなければならない。弟の子を絶やすということは道理に反することだ。不便だが、俺の子の方を殺そう。俺も若いので子ができないものでもないと言って自分の子を捨てた。女房の心は夫の様である筈はないが、誠が響いたので「妻泣而従之」である。この通りのことだったので、叔父ではあったが甥も親の通りに三年の喪を勤めた。これには大層吟味のあること。朱子の御編集も小学に手の届かなかったことがある。大学の章句は三十年ばかり掛けてでき上がったが小学はそうではない。後世この章を法にすれば心得違いになる。小学にあるので自分の子を殺すことだと思うと差し支える。争いの端になるので、小学に載らなければ一入よいと言うほどのことだが、この処置に構わず言うのがよい。天下の者は、自分の子は見苦しいほどに可愛がって甥などは根から構わない。そこで、事から真似ず、古人は子を捨てて甥を養ったと思えばこちらのためになる。

○鄧攸なともさて々々親切な心なれとも処置の寸法を知らぬ。垩賢の教に我が子を殺して弟の子を助けると云ふことはない。两方を助ける気で一人殺されるはこちの咎ではなく向ふなり。これらもあまり考へ々々するとわるい。女のたちものをたちそこなふた様に、いくら合せてみても合はぬ。理には計較安排はな井ことぞ。子を殺しても姪を助けた。これほどに迠姪にあついと云ばかりか手本になること。ここは処置の法にはならぬ。どちがとうと云ことなく、子も姪もなり。平生ただほうをなめてやる様なもの。どちをなめるが心なしになめる。とかくただ誠を積が肝心なり。変に合ふたときは天の方からよ井やふにする。内篇に心術の要あり、誠がつんて心ゆきをよくすればどふしてもよい。徂徠なども心と云ふことを知らぬゆへ、先例をくろうと云やふな学問なり。心かわるくては何事もならぬ。心さへよければ療治にしかたが出来る。このときになって、どちを殺そふの助けふのとあんばいがつくと太極に疵がつく。さてだん々々長言を説くも、はづみでするが心術の正いのなり。直方先生の、善行にある人たちに垩人をあてるは雀に蹴鞠ぢゃと云へり。十分にない人もこの方とることぞ。
【解説】
鄧攸などは処置の寸法を知らない。聖賢の教えに自分の子を殺して弟の子を助けるということはなく、両方を助けようとすべきである。それで一人が死んだとしても、それはこちらの咎ではない。誠を積んで、変に遭った時は天の通りにする。
【通釈】
鄧攸なども実に親切な心なのだが処置の寸法を知らない。聖賢の教えに自分の子を殺して弟の子を助けるということはない。両方を助ける気で一人を殺されるのは、こちらの咎ではなく向こうの咎である。これらもあまり考え過ぎると悪い。女が裁ち物を裁ち損なった様に、いくら合わせて見ても合わない。理に計較按排はない。子を殺して甥を助けた。これほどにまで甥に厚いということだけが手本になること。ここは処置の法にはならない。どちらがどうということはなく、子も甥も両方である。平生ただ頬を嘗めて遣る様なもの。どちらを嘗めるということなく、心なしに嘗める。とかくただ誠を積むのが肝心。変に遭った時は天の方のよい様にする。内篇に心術の要があり、誠を積んで心行きをよくすればどうしてもよい。徂徠なども心ということを知らないので、先例に骨を折る様な学問である。心が悪くては何事もできない。心さえよければ療治に仕方ができる。この時になって、どちらを殺そうとか助けようとかと按排が付くと太極に疵が付く。さて段々に長言で説いたが、弾みでするのが正しい心術である。直方先生が、善行にある人達に聖人を当てるのは雀に蹴鞠だと言った。そこで、十分でない人もそこに入れてある。


善行36
○晉咸寧中大疫。庾袞二兄倶亡、次兄毗復危殆。癘氣方熾。父母諸弟皆出次于外。袞獨留不去。諸父兄強之。乃曰、袞性不畏病。遂親自扶持晝夜不眠。其間復撫柩哀臨不輟。如此十有餘旬、疫勢既歇、家人乃反、毗病得差。袞亦無恙。父老咸曰、異哉此子。守人所不能守、行人所不能行。歳寒然後知松栢之後凋。始知疫癘之不能相染也。
【読み】
○晉の咸寧中、大いに疫す。庾袞[ゆこん]の二兄倶に亡び、次兄の毗[ひ]復た危殆なり。癘氣方に熾んなり。父母諸弟皆出でて外に次す。袞獨り留りて去らず。諸父兄之を強う。乃ち曰く、袞、性、病を畏れず、と。遂に親しく自ら扶持して晝夜眠らず。其の間復た柩を撫で哀臨して輟[や]まず。此の如きこと十有餘旬、疫勢既に歇[や]み、家人乃ち反り、毗の病差[い]ゆるを得。袞も亦恙無し。父老咸曰く、異なるかな、此の子。人の守る能わざる所を守り、人の行う能わざる所を行う。歳寒くして然して後に松栢の凋むに後るるを知る。始めて疫癘の相染むる能わざることを知る、と。

○晋咸寧云々。今日の章はどれもみな後世今日へ的中することなり。疫病をいやがるも今にはじまらぬ。上の癘気方熾も世間一統最中流行たこと。下の疫勢既歇みも上に對して世間へかけて云ことなり。○袞性不畏病は迂偽なり。迂偽もつきやふで結搆なり。○晝夜不眠は身を捨てかかりたこと。血気か盛で養がよければ中々病気も受ぬものなれども、不眠と云へば病も受やすいが、とんとその計較はない。皆病気がなをったればその時に感心した。凡夫の心はあさましいものぞ。このときに死ぬと、さて情こはの不埒者めがと云こと。なをれば誉る。これかかの成敗之論なり。俗人は皆これなり。○異哉此子と、これは誉めすきそ。たた井兄の病気を捨て逃る筈はない。異哉なことはなし。こ井つらが誉るは己れが迯ける了簡から異哉此子と誉たもの。人面獣心から見れば異哉と云べし。人間の云ふた口上ではない。中蕐の者だけ雪駄なをしの様なことを云なから論吾を読んだと見へる。きっく逃げぬを誉たが、心あるものは筋ち腹をよりて笑ふこと。
【解説】
疫病が流行った時、家人は皆家から離れたが、庾袞は身を捨てて兄の看病をした。疫病が収まると家人が戻って来た。兄の病が治り庾袞も大丈夫なのを見て庾袞を誉めた。凡夫の心は浅ましいもので、この時に死ぬと、さて情強な不埒者めがと言うが、治れば誉める。兄が病気なのに、それを捨てて逃げる筈はない。家人が誉めるのは自分が逃げる了簡だからである。
【通釈】
「晋咸寧云々」。今日の章はどれも皆後世の今日へ的中すること。疫病を嫌がるのも今に始まったことではない。上の「癘気方熾」も世間一統に大層流行ったということで、下の「疫勢既歇」も上に対して世間へ掛けて言ったこと。「袞性不畏病」は嘘である。嘘も吐き様で結構なことになる。「昼夜不眠」は身を捨てて掛かったこと。血気が盛んで養がよければ中々病気も受けないものだが、不眠と言えば病も受け易い。しかし、全く計較はない。病気が治ってその時に皆が感心した。凡夫の心は浅ましいもの。この時に死ぬと、さて情強な不埒者めがと言うが、治れば誉める。これがあの成敗の論である。俗人は皆これ。「異哉此子」と言うのは誉め過ぎである。そもそも兄の病気を捨てて逃げる筈はない。異哉なことはない。こいつらが誉めるのは自分が逃げる了簡からで、それで異哉此子と誉めたのである。人面獣心から見れば異哉とも言うことだろう。人間の言う口上ではない。中華の者だけに雪駄直しの様なことを言いながら論語を読んだものと見える。つまりは逃げないことを誉めたのだが、心あるものは筋腹を捩って笑うこと。
【語釈】
・成敗之論…後出師之表。「臣鞠躬尽力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣之明所能逆覩也」。

○始知疫癘云々。文集七十一偶読漫記に説ありて、朱書抄畧に取れり。蒙養集に載すへきこと取り落された。疫疾かうつるうつらぬのあやではない。假令ひうつろふともにけることではな井。そこが朱子の思召なり。道理の正面にうつるうつらぬの僉義はないはづ。さて阮咸などが学問もあったが妖はないと云ふた。ないと云ふは知らぬのなり。あるものぞ。あってもきもをつぶすことはないでたしかなり。或夜妖はなきと云咄をしたれば、その坐の客がでもごさるてさと云と鬼の首になった。すぐにその客が妖でありた。気の変ゆへ妖もあらふが、あるとてさわくことはない。丁とそれと同じこと。疫癘のうつるは気の上のことなればうつる筈ぞ。うつりても去らぬがたしかなり。
【解説】
これは疫疾が移る移らないの綾ではない。たとえ移るとしても騒ぐことではない。逃げないのが確かなこと。
【通釈】
「始知疫癘云々」。文集七十一偶読漫記に説があって、朱書抄略に取ってある。蒙養集に載せるべきことだが取り落とされた。疫疾が移る移らないの綾ではない。たとえ移るとしても逃げることではない。そこが朱子の思し召しである。道理の正面に移る移らないという詮議はない筈。さて阮咸などは学問もあったが妖はいないと言った。いないと言うのは知らないのである。あるもの。あっても肝を潰すことはないもので確かなこと。或る夜に妖はないという話をすると、その座の客がそれでもいるさと言って鬼の首になった。まさにその客が妖だった。気の変なのだから妖もあるだろうが、あると言っても騒ぐことはない。これは丁度それと同じこと。疫癘が移るのは気の上のことなので移る筈。移るとしても去らないのが確かなこと。
【語釈】
・阮咸…晋の人。竹林の七賢の一。字は仲容。阮籍の兄の子。


善行37
○楊播家世純厚、並敦義讓。昆季相事有如父子。椿・津恭謙。兄弟旦則聚於廳堂、終日相對未嘗入内。有一美味、不集不食。廳堂間、往往幃幔隔障爲寢息之所、時就休偃、還共談笑。椿年老、曾他處醉歸。津扶持還室、假寢閤前承候安否。椿津年過六十、並登台鼎、而津常旦莫參問、子姪羅列階下。椿不命坐、津不敢坐。椿毎近出、或日斜不至、津不先飯、椿還然後共食。食則津親授匙箸、味皆先嘗。椿命食然後食。津爲肆州、椿在京宅。毎有四時嘉味、輒因使次附之。若或未寄、不先入口。一家之内男女百口、緦服同爨、庭無間言。
【読み】
○楊播の家世々純厚、並びに義讓に敦し。昆季相事うること父子の如き有り。椿・津、恭謙なり。兄弟旦には則ち廳堂に聚り、終日相對し未だ嘗て内に入らず。一の美味有れば、集まらざれば食わず。廳堂の間、往往幃幔もて隔障して寢息の所と爲し、時に就きて休偃し、還りて共に談笑す。椿年老い、曾て他處より醉うて歸る。津扶持して室に還り、閤前に假寢して安否を承け候う。椿・津年六十を過ぎ、並びて台鼎に登りて、津常に旦莫參問し、子姪階下に羅列す。椿、坐を命ぜざれば、津、敢て坐せず。椿毎に近く出で、或は日斜にして至らざれば、津先ず飯せず、椿還りて然して後共に食う。食えば則ち津親[みずか]ら匙箸を授け、味皆先ず嘗む。椿食を命じて然して後食う。津肆州と爲り、椿京宅に在り。四時の嘉味有る毎に、輒ち使の次に因りて之を附す。或は未だ寄せざるが若きは、先に口に入れず。一家の内男女百口、緦服も爨[さん]を同じくし、庭に間言無し。

○楊播家世純厚は幸なことぞ。一代はよくてもあとはよくないものなれとも、世々純厚なり。舜は垩人でも舜の御子はよふな井。よふないとても垩人の無調法にはならぬ。楊播か家は世々純厚と云ふは誉めることぞ。薛文清の子が日雇取のやふな根情なれとも、薛文清のわるいではない。仁斉が子が五人学問があったと云ふは有なり誉めること。○並敦義譲。義がこの方にはつれてをれば、何程金銀かころけかかりてきてもとることはせぬ。義の字の下の譲の字もきこへた。楊播が家の風俗がこふであったと云ふがよい風俗ぞ。そっと取ろふとするが人情なれとも、中々その様なことはせぬ。思ひよらぬ得があればうれしがるものなれども、損をしたときうれしがるほどなたましいでなくてはほんのことでない。兄弟の間で礼義の厚が親子のやふであった。珍らしいものがくると一所でなければ食はぬ。兄弟中がよ井と行義かわるくなる。愛はありても敬がなくなるが、これほど兄弟中がよくても、さて兄のみる所であくらをかくと云ふことはない。をかしい咄やをとし咄を兄弟でしてをると云ふで兄弟中のよ井が知れる。兄弟中わるいと、珍らしい咄しも友のくる迠だまってをるのぞ。心得になる面白ひこともさてもと感心すれば、これはそなたの兄にきいたと云。弟には咄さぬ。
【解説】
「楊播家世純厚、並敦義讓。昆季相事有如父子。椿・津恭謙。兄弟旦則聚於廳堂、終日相對未嘗入内。有一美味、不集不食。廳堂間、往往幃幔隔障爲寢息之所、時就休偃、還共談笑。椿年老、曾他處醉歸。津扶持還室」の説明。子孫が悪いとしても、それは当人の無調法にはならない。楊播家は世々純厚で、よい風俗があった。楊播兄弟は仲がよく、礼義も厚かった。
【通釈】
「楊播家世純厚」は幸せなこと。一代はよくても後はよくないものだが、世々純厚である。舜は聖人でも舜の御子はよくなかった。よくないとしても、それが聖人の無調法にはならない。楊播の家が世々純厚というのは誉めること。薛文清の子は日雇取りの様な根性だったが、それで薛文清が悪いことにはならない。仁斎の子が五人共に学問ができたというのは、その通りに誉めること。「並敦義譲」。義がこちらに外れていれば、どれほど金銀が転げて来ても取らない。義の字の下の譲の字もよくわかる。楊播の家の風俗がこの様だっというのがよい風俗である。そっと取ろうとするのが人情だが、中々その様なことはしない。思いも寄らない得があれば嬉しがるものだが、損をした時に嬉しがるほどの魂でなくては本当のことではない。兄弟の間で礼義の厚いところが親子の様だった。珍しい物が来ると一所でなければ食わない。兄弟仲がよいと行儀が悪くなるもの。愛はあっても敬がなくなるものだが、これほどに兄弟仲がよくても、さて兄の見る所で胡坐をかくということはない。可笑しい話や落し噺を兄弟でしているというので兄弟仲のよいことが知れる。兄弟仲が悪いと、珍しい話も友が来るまで黙っているもの。心得になる面白いことをさてもと感心すれば、これは貴方の兄から聞いたと言う。弟には話さない。
【語釈】
・舜の御子…商均。不肖だったので、舜の後継者とはなれず、商に封じられた。

○假寢は衣冠を取らずにちょっと子ること。今云へば袴をきて薬鍋の脇に子ころんでをる様なもの。○三公になった。三公にでもなってはなにもかも違ひそうなものなれとも、やはり凡夫のときの通りであった。○親授匙箸。親が面白ひ。兄弟をる処へ硯蓋が出ると、これがよかろふとて硯蓋のかまぼこを自らはさむ。学問をすれば尭舜や文王と近付になるゆへ小学にあることはけりゃふに思ふが、この楊播などか心か尭舜や文王にもまけぬことぞ。これが中々なることではない。古今まれなことぞ。○百口は男も女もくるめて親族大勢の者と云ふことなり。親類をくくりて云こと。百の字はすべる字なり。この末の陳氏七百口は七百人口と云ことなり。その次の温公の條もそれ。ここと別なり。○緦服のとを々々し井親類迠ひとつにをったぞ。かまどのひとつと云ふに気を付て見るべし。一つ屋敷にをりてもかまどがちかへは他所も同じこと。飯をくふにかれやこれやのあるもの。ときに従弟はどこ迠ひとつに居てもむつかし井ことかない。
【解説】
「假寢閤前承候安否。椿津年過六十、並登台鼎、而津常旦莫參問、子姪羅列階下。椿不命坐、津不敢坐。椿毎近出、或日斜不至、津不先飯、椿還然後共食。食則津親授匙箸、味皆先嘗。椿命食然後食。津爲肆州、椿在京宅。毎有四時嘉味、輒因使次附之。若或未寄、不先入口。一家之内男女百口、緦服同爨、庭無間言」の説明。三公になっても前と変わることはなかった。一家には親類達が多く一所にいた。
【通釈】
「仮寝」は衣冠を取らずに一寸寝ること。今言えば、袴を着て薬鍋の脇に寝転んでいる様なもの。三公になった。三公にでもなれば何もかも違いそうなものだが、やはり凡夫の時の通りだった。「親授匙箸」。親が面白い。兄弟がいる処へ硯蓋が出ると、これがよいだろうと硯蓋の蒲鉾を自ら挟んだ。学問をすれば堯舜や文王と近付きになるので小学にあることは仮令に思うが、この楊播などの心が堯舜や文王にも負けないもの。これが中々できることではなく、古今希なこと。「百口」は男も女も包めて大勢の親族ということ。親類を括って言う。百の字は統べる字である。この末の「陳氏宗族七百口」は七百人口ということ。その次の温公の条もそれで、こことは別である。「緦服」の遠々しい親類までが一所にいた。「同爨」に気を付けて見なさい。同じ屋敷にいても竈が違えば他所も同じこと。飯を食うのにはかれこれとあるもの。しかし、従弟は何処まで一所にいても難しいことはなかった。
【語釈】
・硯蓋…口取肴などを祝儀の席で盛る広蓋の類。また、その盛った肴。
・陳氏七百口…小学外篇善行52の語。
・緦服…三箇月の喪に用いる喪服。服喪の義務ある最も疎遠な関係を言う。


善行38
○隋吏部尚書牛弘弟弼、好酒而酗。嘗醉射殺弘駕車牛。弘還宅。其妻迎謂弘曰、叔射殺牛。弘聞無所恠問、直答曰、作脯。坐定。其妻又曰、叔射殺牛、大是異事。弘曰、已知。顔色自若讀書不輟。
【読み】
○隋の吏部尚書牛弘の弟弼、酒を好みて酗[く]す。嘗て醉うて弘の駕車の牛を射殺す。弘宅に還る。其の妻迎えて弘に謂いて曰く、叔、牛を射殺す、と。弘聞きて恠しみ問う所無く、直に答えて曰く、脯を作れ、と。坐定まる。其の妻又曰く、叔、牛を射殺す、大いに是れ異事なり、と。弘曰く、已に知る、と。顔色自若として書を讀みて輟[や]まず。

○この章は牛弘か章なれは、牛弘とよみきるべし。牛弘か弟と云点はあしし。日頃家内でもこの弟はもてあつかい、悪んでをりた。○迎はまちか子て云ふたこと。あらふことかあるま井ことかと云ふこと。烟草盆や茶碗をわりてさへあら井酒と云ふ。それに土佐駒と云ふ様な御召を射殺した。牛弘かあまり挨拶もせぬゆへ、又、けしからぬことじゃに、御前の御耳には入らぬかと云ふた。その時牛弘がすこしも気色か替らず、はや聞たとなり。これか兄弟中のよ井ぎり々々を書たもの。今日心のある兄もありて、悪ひやつなれどもをれが怒ると女房が一入じゃと、それさへよいに牛弘は牛を殺したなとと云ふを気にもたぬ。すう々々と書を読んでをりた。やっはり仁人之於弟也不藏怒焉不宿怨焉と云ふがこれと一つ心もちなり。兄弟のわる井ことを帳につける様にして、今度なんぞあったとき出そうとする。仁人之心にそうしたことはない。輕ひ者などには幼年な時はつかみあ井もするが、わる心さへなければよ井。兄弟中のわるいも顔色でしれるもの。○自若読書不輟。そのて井が何んにも胸にとめたことなく書を読んでをりた。
【解説】
牛弘は、弟が駕車の牛を射殺しても何事ない様に書を読んでいた。仁人の心に怒や怨はないもの。
【通釈】
この章は牛弘の章であって、牛弘と読み切りなさい。牛弘の弟という点は悪い。日頃家内でもこの弟は持て余し、憎んでいた。「迎」は待ちかねて言ったということ。あろうことかあるまいことかということ。煙草盆や茶碗を割ってさえ荒い酒だと言う。それなのに、土佐駒という様な駕車の牛を射殺した。牛弘があまり挨拶もしないので、妻がまた、けしからぬことなのに、貴方の御耳には入らなかったかと言った。その時に牛弘は少し気色を変えず、既に聞いたと言った。これが兄弟仲のよいぎりぎりを書いたもの。今日心ある兄もいて、悪い奴だが俺が怒ると女房が一入怒ると言う。それでさえよいのに、牛弘は牛を殺したなどと言われても気にもしない。すうすうと書を読んでいた。やはり「仁人之於弟也、不藏怒焉、不宿怨焉」と言うのがこれと同じ心持である。兄弟の悪いことを帳に付ける様にして、今度何かあった時に出そうとする。仁人の心にそうしたことはない。軽い者などは幼年の時には掴み合いもするが、悪心さえなければよい。兄弟仲が悪いのは顔色で知れるもの。「自若読書不輟」。その体が何も胸に止めたことなく、書を読んでいた。
【語釈】
・仁人之於弟也不藏怒焉不宿怨焉…孟子万章章句上3の語。


善行39
○唐英公李勣、貴爲僕射。其姊病必親爲然火煮粥。火焚其鬚。姊曰、僕妾多矣。何爲自苦如此。勣曰、豈爲無人耶。顧今姊年老勣亦老。雖欲數爲姊煮粥、復可得乎。
【読み】
○唐の英公李勣、貴きこと僕射爲り。其の姊病めば必ず親ら爲に火を然き粥を煮る。火其の鬚[しゅ]を焚く。姊曰く、僕妾多し。何爲れぞ自ら苦しむこと此の如き、と。勣曰く、豈人無きと爲さんや。顧[おも]うに今姊年老い勣も亦老う。數々姊の爲に粥を煮んと欲すと雖も、復た得可けんや、と。

○僕射は唐の世では宰相なり。官名は時々でかわるもの。唐の世では僕射の官は宰相ゆへ天下一人なり。さて年寄て兄弟息才てをるほどうれしいことはない。たひ々々粥を煮やふと思ふても煮られぬゆへ、年のある内煮よふと云ふた。この様なこともかたやきこんでなることではない。若林新七は甚た道を任ずる人て豪強やっこなれども、親孝行で母の月代をそりてやったと云ふ。さかやきをそりたと云ふをみれば、若林が母は比丘尼と見へる。母がああ迷惑しゃ、こなたの様な大儒先生になって人の尊ぶに、さかやきをすらせると云ふたれば、若林が、はてそふ云はしゃるな、いつ迠そりてあけたいとてもなりにくひと勝手で云ふを聞ひたと續話にあり、ここの語意によふ似た。僕射はれき々々の御老中で粥を煮、若林は見処のたか井すると井人で母の月代をすりた。若林などは勇者に仁の気象あるがみへる。あのやっこで母の月代をそりたなどと云が、浅見先生の弟子と云ふが見へる。今の孝行は歴々や身帯よ井者はなる。なぜなれば金でする。よのものはならぬやふなり。この重ひ身て粥を煮たと云が甘ひ味ひぞ。
【解説】
李勣は僕射でありながら姉のために粥を煮た。それは、いつまでも粥を煮て上げることはできないと思ったからである。若林が母の月代を剃って上げたのも同じ意である。
【通釈】
「僕射」は唐の世では宰相である。官名は時々で替わるもの。唐の世では僕射の官は宰相なので天下で一人である。さて年寄って兄弟息災でいるほど嬉しいことはない。度々粥を煮ようと思っても煮られないので、今の内に煮ようと言った。この様なことも形でしてできることではない。若林新七は甚だ道を任ずる人で豪強な奴だったが、親孝行で母の月代を剃って遣ったという。月代を剃ったということをを見れば、若林の母は比丘尼と見える。母がああ迷惑だ、貴方の様に大儒先生になって人の尊ぶ者に月代を剃らせるわけにはいかないと言うと、若林が、さてその様に仰るな、いつまでも剃って上げたいと言ってもでき難いと勝手で言うのを聞いたと続話にあり、それがここの語意によく似たこと。僕射は歴々の御老中でありながら粥を煮、若林は見処の高く鋭い人でありながら母の月代を剃った。若林などは勇者に仁の気象あるのが見える。あの奴でありながら母の月代を剃ったなどというので、浅見先生の弟子ということが見える。今の孝行は歴々や身代のよい者はできる。それは何故かと言うと、金でする。それなら他の者はできない様である。この様な重い身で粥を煮たというのが甘い味わいである。
【語釈】
・若林新七…若林強斎。名は進居。新七と称す。一号は守中翁、晩年は寛齋、自牧。望南軒。京都の人。享保17年(1732)1月20日没。年54。浅見絅斎門下。


善行40
○司馬温公、與其兄伯康、友愛尤篤。伯康年將八十、公奉之如嚴父、保之如嬰兒。毎食少頃則問曰、得無餓乎。天少冷則拊其背曰、衣得無薄乎。
【読み】
○司馬温公、其の兄伯康と、友愛尤も篤し。伯康年將に八十にならんとするに、公之に奉ずること嚴父の如く、之を保つこと嬰兒の如し。食する毎に少頃[しばらく]すれば則ち問いて曰く、餓えること無きを得るや、と。天少しく冷れば則ち其の背を拊[う]ちて曰く、衣薄きこと無きを得るや、と。

○司馬温公與其兄伯康友愛尤篤。親へ孝行が兄へ出る。年よりて兄を親のやふにされた。○得無餓乎。文字のつつきにあとさきにあぐることがみへる。食の叓につ井てはと云ふこと。わか井者は体が丈夫ゆへ飲食もきしだいてよいが、老人は病人にちか井ゆへ、はやく腹もへる。得と云ふ字がでもののよふなれとも、語をゆるりと云ふときかく字なり。ちとさむいと云ふと、さむくはござらぬかと云ふ。○拊はうしろへ手をやるきみ。温公のあの通りの大德ゆへ、さぞこふであったであろふぞ。
【通釈】
「司馬温公与其兄伯康友愛尤篤」。親への孝行が兄へ出る。年が寄って兄を親の様にされた。「得無餓乎」。文字の続きに後先に挙げることが見える。食のことに付いてはということ。若い者は体が丈夫なので飲食も来次第でよいが、老人は病人に近いので早く腹も減る。「得」という字が出物の様だが、語をゆるりと言う時に書く字である。少し寒ければ、寒くはありませんかと尋ねる。「拊」は後ろへ手を遣る気味。温公はあの通りの大徳なので、さぞこうであったことだろう。


善行41
○近世故家惟晁氏、因以道申戒子弟皆有法度。群居相呼、外姓尊長必曰某姓第幾叔若兄、諸姑・尊姑之夫必曰某姓姑夫、某姓尊姑夫、未嘗敢呼字也。其言父黨交游、必曰某姓幾丈、亦未嘗敢呼字也。當時故家舊族、皆不能若是。
【読み】
○近世の故家、惟晁氏のみ、以道、戒を子弟に申ぶるに因りて皆法度有り。群居して相呼ぶに、外姓の尊長は必ず某姓の第幾叔若しくは兄と曰い、諸姑・尊姑の夫は必ず某姓の姑夫、某姓の尊姑夫と曰い、未だ嘗て敢て字を呼ばず。其の父黨の交游を言うに、必ず某姓の幾丈と曰い、亦未だ嘗て敢て字を呼ばず。當時の故家舊族、皆是の若きこと能わず。

○近世故家云々。内篇の長幼の序に兄弟のことには相應之語がな井ゆへ、若ひ者、年倍な者の出合ばかりあるが、長幼之序はもと兄弟が本となり。兄弟のことに載すべき語がな井ゆへあの通りなり。そこで稽古も嘉言善行も長幼の序に兄弟のことばかり主に云ひ、ここに至て始て内篇のやふな長幼がでたなり。○近世故家はれき々々に云こと。晁以道は名高ひ儒者で、朱子も易を改めるにこれを根にしられたもある。あの方に名を呼ぶことあり。親や君は名を呼ぶ。そこで名よばず字なを呼ふこと通礼なり。されとも長者をば字をよぶもををへ井になる。名も字も呼ばずつつきをよはれた。字を云ふが世間通用なれども、それを云ふがにく々々しいものぞ。それゆへ今日も女中などか、他人なれども年長けた女をば叔母さまなとと云ふ。あれは敬ふ意なり。よ井ことなり。大勢歴々もあれとも、頓と晁以道ばかりなり。
【解説】
内篇の長幼の序は兄弟のことではなく、若い者や年倍な者との出合いばかりがある。ここも内篇にある様な長幼である。中華では名を呼ばずに字を呼ぶことが通礼だが、長者を字で呼ぶのでは横柄になる。晁以道は続柄で呼んだ。
【通釈】
「近世故家云々」。内篇の長幼の序に兄弟のことに関した相応の語がなく、若い者や年倍な者の出合いばかりがあるが、長幼之序は本来、兄弟が本になる。兄弟のことで載せるべき語がないのであの通りである。そこで稽古も嘉言善行も長幼の序に兄弟のことばかりを言い、ここに至って初めて内篇の様な長幼が出た。近世故家は歴々に言うこと。晁以道は名高い儒者で、朱子も易を改めるのにこれを根にされたこともある。中華では名を呼ぶことがある。親や君が名を呼ぶので、そこで名を呼ばずに字を呼ぶことが通礼である。しかし、長者を字で呼ぶのも横柄になる。名も字も呼ばずに続柄で呼ばれた。字を言うのが世間通用だが、それを言うのが憎々しいもの。それで今日も女中などが、他人なのだが年長けた女を叔母様などと言う。あれは敬う意であり、よいこと。歴々も大勢あるが、全く晁以道ばかりである。
【語釈】
・晁以道…晁説之。1059~1129


善行42
○包孝肅公尹京時、民有自言。以白金百兩寄我者死矣。予其子、不肯受。願召其子予之。尹召其子。辭曰、亡父未嘗以白金委人也。兩人相讓久之。呂滎公聞之曰、世人喜言無好人三字者、可謂自賊者矣。古人言人皆可以爲堯・舜。蓋觀於此而知之。
【読み】
○包孝肅公、京に尹たる時、民自ら言う有あり。白金百兩を以て我に寄する者死す。其の子に予[あた]うれども、受くるを肯[したが]わず。其の子を召して之に予えんことを願う、と。尹其の子を召す。辭して曰く、亡父未だ嘗て白金を以て人に委ねざるなり、と。兩人相讓り之を久しくす。呂滎公之を聞きて曰く、世人喜[この]みて無好人の三字を言う者は、自ら賊う者と謂う可し。古人、人皆以て堯・舜と爲る可しと言う。蓋し此に觀て之を知る、と。

○この章は朋友の交ぞ。たったこの一條ばかり朋友之交。○尹京はこの方の諸司代にあたる様なれとも、この方の諸司代はこれより重ひ。これは京の町奉行のやふな官なり。さて古今ないことを番所へもって出た。これが俗人の難義せぬことなり。俗人は得たりかしこしなり。この男はこれに難義して訟へたなり。つんど古今な井ことぞ。○呂栄公聞之。よ井聞手ぞ。いかさま京の包孝粛公のしはいにこふ云ふことがあったと云ふが是てすめた。ことかある、世間の者が手抦そふに、世の中によ井人はな井と云ふ。利口者が云。成程相違もな井が、それをうれしがりて云ふは、可謂自賊者矣。我か手に我か体を切るやふなもの。あの京の町人などが尭舜のつるの出たのじゃ。人欲が甚し井ゆへ人の者をなでこみたかるが、やるを取るまいと云ふ。これはただの町人、尭舜は大垩人なり。なれども人のやるものをむさと取らぬと云へば尭舜になる道があ井てをる。○可以為尭舜も尤じゃ。それに無好人などと云は甚だわるいことじゃ。学問をしてこふと云ふことでもない。人の心には仁義のはへぬ井てをるゆへこれなり。無好人などと云ふは息のある内屏風を引廻すやふなもの。なさけないことなり。
【解説】
この章は朋友之交である。人が遣ろうとする物を安易に受け取らないのが堯舜になる道の始めである。人の心には仁義が生え抜いているので、誰もがこれができる筈。無好人などと言うのは情けないことである。
【通釈】
この章は朋友の交わりである。たったこの一条だけが朋友之交である。「尹京」は日本では所司代に当たる様だが、日本の所司代はこれより重い。これは京の町奉行の様な官である。さて古今にないことを番所へ持って出た。これが俗人は難儀でないこと。俗人は得たり賢しである。この男はこれに難儀して訴えたのである。これが古今全くないこと。「呂栄公聞之」。よい聞き手である。いかにも京の包孝粛公の支配にこういうことがあったというのがこれで済めた。ことがあると、世間の者が手柄そうに、世の中によい人はいないと言う。利口者がそれを言う。なるほど相違もないが、それを嬉しがって言うのは、「可謂自賊者矣」。それは自分の手で自分の体を切る様なもの。あの京の町人などが堯舜の筋が出たのである。人欲が甚だしいので人が物を撫で込みたがるが、遣ろうと言うのを受け取らないと言う。これはただの町人で、堯舜は大聖人である。しかし、人が遣ろうとする物を安易に受け取らないと言うので、堯舜になる道が開いている。「可以為堯舜」も尤もなこと。それなのに「無好人」などと言うのは甚だ悪い。学問をしてこうなるということでもない。人の心には仁義が生え抜いているのでこうなる。無好人などと言うのは息のある内に屏風を引き廻す様なもので、情けないことである。
【語釈】
・得たりかしこし…得たり賢し。物事がうまくいって得意になったとき発する語。しめた、これはありがたい。
・呂栄公…呂希哲。字は原明。東莱の人。
・包孝粛公…包拯。包青天、包待制。字は希仁。999~1062