善行49
○張公藝九世同居、北齊隋唐、皆旌表其門。麟德中高宗封泰山、幸其宅、召見公藝、問其所以能睦族之道。公藝請紙筆以對。乃書忍字百餘以進。其意以爲宗族所以不協、由尊長衣食或有不均、卑幼禮節或有不備、更相責望、遂爲乖爭。苟能相與忍之、則家道雍睦矣。
【読み】
○張公藝、九世同居し、北齊・隋・唐、皆其の門に旌表す。麟德中に高宗泰山に封じ、其の宅に幸し、召して公藝を見、其の能く族を睦む所以の道を問う。公藝、紙筆以て對さんことを請う。乃ち忍の字百餘を書して以て進む。其の意、以て宗族の協[かな]わざる所以は、尊長の衣食或は均しからざる有り、卑幼の禮節或は備わらざる有るに由りて、更々[こもごも]相責望し、遂に乖爭を爲す。苟も能く相與に之を忍ばば、則ち家道雍睦すと爲す、と。

三月十六日  纎邸文録
【語釈】
・三月十六日…寛政2年(1790)3月16日。
・纎邸文…林潜斎。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。黙斎門下。

○麟徳中高宗封泰山。唐第三主。封禅は出来た所作ではなし。又、大不是大非礼と云ことでも無けれども、大率賢君はせぬで看よ。○迂斉の、書き入れに紙筆以て對へんと請の意、順良云へり。浅見先生を順良と称するものなし。意ふに直方先生の書き入などに有りしならん。迂斉の生れぬ十四五年以前のことかと見ゆ。○書忍字百餘以進。先祖からのことでなく、公藝が代になりての趣向なり。この百余書くは、言えば人をたはけにしたと云ほどのことなれとも、是か妙薬なり。家内百事の出合がしらを忍の字出すで宗族か睦む。九代つつくは此故となり。なるほど忍の字大切なり。容忍之忍。人に接るに容るでなけれはならぬ。大抵人情我方をゆるして人をば責るものなり。○其意以為云々。善く書けり。こふしたものなり。尊長衣食或有不均は、迂斉、下から云辞となり。子弟の方でをらが兄などは立派と云ひ、老人ばかり美食するなとと云。卑幼礼節云々。上から云辞となり。尊長の方から、あの子姪ともがをれを兄あしらい叔父あしらいにせぬと云。上下不足が立つものなり。それで同居がくつれる。○家道雍睦矣。某が先達ても五倫の間は我れに尤をつけぬことと云が合なり。向をとかめると治らぬ。忍の字で家道雍睦すとは其筈のことなり。
【解説】
公芸の家で九代の宗族が同居しているので、高宗がその秘訣を尋ねた。公芸は「忍」と応えた。忍で宗族が睦む。自分を尤もなものとして相手を咎めると治まらない。また、上下の不足で同居が崩れる。
【通釈】
「麟徳中高宗封泰山」。唐の第三主。封禅はする様なことではない。また、大不是や大非礼ということでもないが、大凡賢君はしないことで見なさい。迂斎が言った。書き入れに紙筆で応えようと請う意だと順良が言った、と。浅見先生を順良と称する者はいない。思うに直方先生の書き入れなどにあったのだろう。迂斎が生まれる十四五年以前のことかと見える。「書忍字百余以進」。先祖からのことではなく、公芸の代になってからの趣向である。この百余を書くのは、言えば人を戯けにしたというほどのことだが、これが妙薬である。家内百事の出合い頭で忍の字を出すので宗族が睦む。九代続くのはこのためだと言った。なるほど忍の字は大切である。容忍の忍。人に接するのには容でなければならない。大抵人情が自分を許して人を責めるもの。「其意以為云々」。よく書いた。こうしたもの。「尊長衣食或有不均」は、迂斎が下から言う辞だと言った。子弟の方で俺の兄などは立派だ、老人ばかりに美食をさせるなどと言う。「卑幼礼節云々」。これは上から言う辞だと言った。尊長の方から、あの子姪共が俺を兄あしらい叔父あしらいにしないと言う。上下不足が立つもの。それで同居が崩れる。「家道雍睦矣」。私が先達ても五倫の間は自分に尤もを付けないことだと言ったのがこれに合う。向こうを咎めると治まらない。忍の字で家道雍睦するとは、その筈のこと。
【語釈】
・麟徳中…麟徳三年。乾封元年。
・順良…浅見絅斎のこと。初めは高島順良と称す。


嘉言50
○韓文公作董生行曰、淮水出桐栢山東馳、遥遥千里不能休。淝水出其側不能千里、百里入淮流。壽州屬縣有安豐。唐貞元年時、縣人董生召南隱居行義於其中。剌吏不能薦、天子不聞名聲。爵祿不及門。門外惟有吏日來徴租、更索錢。嗟哉、董生朝出耕、夜歸讀古人書。盡日不得息。或山而樵、或水而漁。入厨具甘旨、上堂問起居。父母不慼慼、妻子不咨咨。嗟哉、董生孝且慈。人不識、唯有天翁知、生祥下端無休期。家有狗乳、出求食。鷄來哺其兒、啄啄庭中拾蟲蟻、哺之不食鳴聲悲。彷徨躑躅久不去、以翼來覆待狗歸。嗟哉、董生誰將與儔。時之人夫妻相虐、兄弟爲讎、食君之祿而令父母愁。亦獨何心。嗟哉、董生無與儔。
【読み】
○韓文公、董生行を作りて曰く、淮水、桐栢山より出でて東に馳せ、遥遥として千里休むこと能わず。淝水、其の側より出でて千里なること能わず、百里にして淮に入りて流る。壽州の屬縣に安豐有り。唐の貞元年の時に、縣人董生召南、隱居して義を其の中に行う。剌吏薦むること能わず、天子名聲を聞かず。爵祿門に及ばず。門外に惟吏日に來て租を徴し、更に錢を索むる有り。嗟哉、董生朝は出でて耕し、夜は歸りて古人書を讀む。盡日息むことを得ず。或は山にして樵し、或は水にして漁す。厨に入りて甘旨を具え、堂に上りて起居を問う。父母慼慼たらず、妻子咨咨たらず。嗟哉、董生孝にして且つ慈なり。人識らず、唯天翁の知る有りて、祥を生じ端を下して休期無し。家に狗の乳する有りて、出でて食を求む。鷄來りて其の兒に哺し、庭中に啄啄[たくたく]として蟲蟻を拾い、之に哺して食わざれば鳴く聲悲し。彷徨躑躅[てきちょく]して久しく去らず、翼を以て來り覆いて狗の歸るを待つ。嗟哉、董生誰か將に與に儔[ともな]わんとす。時の人は夫妻相虐げ、兄弟讎と爲り、君の祿を食みて父母をして愁えしむ。亦獨り何の心ぞ。嗟哉、董生與に儔なうこと無し。

○韓文公作董生行。行状などの行は実字。董生行の行は虚字にて詩賦の體にあづかること。君子行公子行の類と同じ。行状は俗語で書ふとも假名て記ふとも、その人の実事で行状なり。これは文上の行なり。行、楽府明弁曰歩。驟馳騁疎而不滞者曰行。淮水出桐栢山云々。この詩も詩經の興の體なり。關關雎鳩と云て文王の夫婦中よいを云。天下淝水を知らで人の董生を知らぬ者に興す。○淮水はどたり々々々と千里直くに流れる。小児も知った大河にて利根川と云ものなり。○淝水は枝川にて淮水の小股ゆへ、淝水が淝水にたたぬ。これはとど世の人が淮水は知れとも淝水は知らぬ。京都で云へは、人が鴨河は知って高瀬川を知らぬ如し。これも遂に鴨河と一つになって淀の方へ流れて行く。○壽州屬縣云々。ここへまづ董生を出すが詩の体なり。○貞元年時。德宗の時。董生世間へ知れずに隠居す。上の百里入淮へ落す。○行義云々は、安豊縣に遁れて道理を行ひ身を穢さぬ。
【解説】
「韓文公作董生行曰、淮水出桐栢山東馳、遥遥千里不能休。淝水出其側不能千里、百里入淮流。壽州屬縣有安豐。唐貞元年時、縣人董生召南隱居行義於其中。剌吏不能薦、天子不聞名聲。爵祿不及門」の説明。これは韓愈の詩である。世の人が淮水は知っていても淝水は知らない様に、人は董生を知らない。董生は世間に知られずに隠居して安豊県に遁れ、道理を行って身を穢さない様にした。
【通釈】
「韓文公作董生行」。行状などの行は実字だが、董生行の行は虚字で詩賦の体に与ること。君子行や公子行の類と同じ。行状は俗語で書いても仮名で記そうともその人の実事であって、それが行状である。これは文上の行である。行は楽府明弁に歩と曰う。驟馳騁疎して滞らざる者を行と曰う。「淮水出桐栢山云々」。この詩も詩経の興る体である。関関雎鳩と、文王の夫婦仲のよいことを言う。天下は淝水を知らないことを人の董生を知らないことに興す。淮水はどたりどたりと千里を直に流れる。これが小児も知る大河で利根川というもの。淝水は枝川で淮水の分枝なので、淝水が淝水に立たない。つまりこれは世の人が淮水は知っていても淝水は知らないということ。京都で言えば、人が加茂川は知っていても高瀬川を知らない様なもの。これも最後は加茂川と一つになって淀の方へ流れて行く。「寿州属県云々」。ここへ先ずは董生を出すのが詩の形である。「貞元年時」。德宗の時。董生が世間に知られずに隠居した。これが上の百里入淮へ落としたもの。「行義云々」は、安豊県に遁れて道理を行い身を穢さなかったということ。
【語釈】
・韓文公…韓愈。韓退之。
・關關雎鳩…詩経国風周南関雎。
・貞元年時…徳宗の年号。785~804

○門外只有吏云々。太守より天子へ薦めることもなく、天子も知し召さ子は御召の御奉書や爵録の沙汰はない。只輕ひ役人の租税の催促するのみ。○日来徴租は、日催促と云ことではなく、あの方にそう云ふあやがあると見へる。運上や年貢をはたりに役人の来るなり。索銭は租について銭を出すなり。韓子が詩、面白な井やふにて趣向のあることなり。○刺吏不能薦云々。却て門外唯有吏云々は只の人の様に取あつかふて見せたものなり。○或山而樵云々。貧乏な浪人ゆへ自身薪取る。魚も啇人より買ふことならぬゆへ自から漁りする。皆貧の体を見せる。○入厨具甘旨云々。甘旨は我食をも云へとも、上下の語勢て見ること。上堂てて父母へ繋けて云ふことなり。ここは父母へ事る孝の底を云。○父母不慼云々。ここが骨髓を作れり。貧な時は額に皺をよせるもの。彼の枯枝を取りどぢゃふをすぐると云へとも、寛尓々々なり。其上妻子のなげく底もなきなり。ここのけたか井は上の隠居して行義の実事を見せる。不慼々不咨々が空手ではならぬ。行義の效なり。
【解説】
「門外惟有吏日來徴租、更索錢。嗟哉、董生朝出耕、夜歸讀古人書。盡日不得息。或山而樵、或水而漁。入厨具甘旨、上堂問起居。父母不慼慼、妻子不咨咨」の説明。董生は誰に召し出されることもなく、ただ軽い役人が租税の催促に来るだけだった。彼は非常に貧乏だったがいつも莞爾で、妻子も貧乏を嘆くことはなかった。これが行義の効である。
【通釈】
「門外惟有吏云々」。太守が天子へ薦めることもなく、天子も知らし召さなければ御召しの御奉書や爵禄の沙汰もない。ただ軽い役人が租税の催促をするのみだった。「日来徴租」は、日催促ということではない。中華にはそういう綾があったものと見える。運上や年貢の掛け合い役人が来るのである。「索銭」は租で銭を出すこと。韓子の詩は面白くない様で趣向のあること。「刺吏不能薦云々」よりも却って「門外惟有吏云々」と言うことで、ただの人の様に取り扱って見せた。「或山而樵云々」。貧乏な浪人なので自身で薪を取る。魚も商人から買うことができないので自ら漁る。これが皆貧の体を見せたもの。「入厨具甘旨云々」。甘旨は自分の食をも言うが、上下の語勢で見なさい。「上堂」で父母に掛けて言う。ここは父母へ事える孝の体を言う。「父母不慼云々」。ここが骨髄である。貧な時は額に皺を寄せるもの。枯枝を取り鰌を漁ると言っても、莞爾だった。その上、妻子が嘆くこともなかった。ここの気高いのは、上の隠居をして行義がよかったことの実事を見せたもの。「不慼慼不咨咨」は空手ではできない。行義の効である。
【語釈】
・慼…憂えること。
・咨々…嘆くさま。

○董生孝且慈云々。ここも又上のことの実事を云。上の不幸な処では天子不聞名声と云て役銭のさいそくに逢ひ、ここは世人は知らぬ、天が知ると云て祥瑞なり。前は困窮を云ひ、爰は德を云。偖て韓子は文に長し、文から道に入りて天王は垩明なりと云が文王の御心を見出し、一代の手抦なり。もと文がらあふ書けり。そこへ目をつけると意迠しれる。古歌の読人の意を見るもそれ。此言は詩や倭歌の取あつか井を云。この章は文から見るで其人もしるる。○無休期。詩の餘勢なり。周の餘黎民無有了遺と云様なもの。以文不害意なり。河出圖洛出書、尭舜代鳳凰、孔子に麒麟、皆たま々々のこと。無休期と云はな井ことなり。○家有狗乳出求食云々。祥瑞の中の一を出して見せる。○鷄犬の性を説かよい。鷄の哺は犬は食はぬ筈なり。○有德の家の気がうつると一と通りでないを見せる。三宅先生の西の洞院に居られたとき雀か来り、几の上の糊食たとなり。平素情け深く門人の鼠を殺すさへ制せらるる故、野雀まて近つくと見へる。是が求めてはならぬが、有徳が感するなり。不思測と云ふことでなく、ならはしなり。今も小児や小でっちには犬か狂ふが老人の畜ふは狂はぬ様なものなり。ならわせが犬へひびくのなり。
【解説】
「嗟哉、董生孝且慈。人不識、唯有天翁知、生祥下端無休期。家有狗乳、出求食。鷄來哺其兒、啄啄庭中拾蟲蟻、哺之不食鳴聲悲。彷徨躑躅久不去、以翼來覆待狗歸」の説明。ここは董生の徳を言う。天が絶えず董生に祥瑞を注いだ。有徳の家の気が遷ると犬も鶏の雛の面倒を見る。雀が三宅先生の机の上の糊を食べたというのもこれ。これが習わしからのこと。
【通釈】
「董生孝且慈云々」。ここもまた上のことからの実事を言う。上の不幸な処では「天子不聞名声」とあって役銭の催促に遭い、ここは世人は知らないが天が知ると言って祥瑞のこと。前は困窮を言い、ここは徳を言う。さて韓子は文に長じていたので、文から道に入って「天王聖明」と文王の御心を見出した。これが一代の手柄である。文からあの様に書いた。そこへ目を付けると意までが知れる。古歌の読み人の意を見るのもそれ。この言は詩や和歌の取り扱いを言う。この章は文から見るのでその人も知れる。「無休期」。詩の余勢である。「周余黎民、靡有孑遺」と言う様なもの。「不以文不害意」である。「河出図、洛出書」、堯舜の代に鳳凰、孔子に麒麟は皆偶々のことで、「無休期」ということではない。「家有狗乳出求食云々」。祥瑞の中の一つを出して見せた。鶏犬の性を説くのがよい。犬は鶏の哺を食わない筈。有徳の家の気が遷ると一通りはでないことを見せる。三宅先生が西の洞院におられた時に雀が来て、机の上の糊を食べたという。平素情け深く門人の鼠を殺すのでさえ制せられるので、野雀まで近付くと見える。これが求めてはならないが、有徳が感ずる。それは不思議ということではなく、習わしである。今も小児や小丁稚には犬が吠えるが、老人が畜う犬は吠えない様なもの。習わしが犬へ響くのである。
【語釈】
・天王は垩明…韓愈。羑里操。「臣罪當誅兮、天王聖明」。
・周の餘黎民無有了遺…孟子万章章句上4。「咸丘蒙曰、舜之不臣堯、則吾既得聞命矣。詩云、普天之下、莫非王土。率土之濱、莫非王臣。而舜既爲天子矣。敢問瞽瞍之非臣、如何。曰、是詩也。非是之謂也。勞於王事、而不得養父母也。曰、此莫非王事、我獨賢勞也。故説詩者、不以文害辭、不以辭害志。以意逆志、是爲得之。如以辭而已矣。雲漢之詩曰、周餘黎民、靡有孑遺。信斯言也。是周無遺民也」。詩は詩経大雅雲漢。
・河出圖洛出書…三国志魏書文帝紀。「天垂象、見吉凶、聖人則之。河出圖、洛出書、聖人效之」。

○嗟哉董生誰將與儔云々。斯ふ問かけて針をとめる字なり。世の中に並ぶ男はと尋子るに、董生に儔人はない。夫婦相虐は易の夫妻反目なり。虐は順でな井を云。世の中兄弟ほど親し井ものはなけれとも餘所のは讎となる。偖又君の録て父母を養ふ。有り難井ものなれとも、それが為めに父母へ難義をかける。世の中門並みのことなれとも、独り董生から方[くらへ]れはとふしたことぞ。これは上の不慼々不咨々へかけて云。偖上の句で誰將與儔と問かけて結句に又無與儔云ふは、譬へは王義之を出して世の中斯ふ書ものが有るが、御召の呉服を出してこれが呉服屋に有るか、又世の中に無井董生なれとも淝水の様なもの。識り手はなく、天翁が知ると云類。いろ々々かけて無與儔と結べり。詩でつかまへにくひやふなれども、董生が底のよいか韓子て世の中に残れり。
【解説】
「嗟哉、董生誰將與儔。時之人夫妻相虐、兄弟爲讎、食君之祿而令父母愁。亦獨何心。嗟哉、董生無與儔」の説明。人は様々だが、董生に匹敵する者はいない。韓子の詩によって、董生の体のよいことが後世に伝わった。
【通釈】
「嗟哉董生誰将与儔云々」。この様に問い掛けて針を止める字である。世の中に並ぶ男はいるかと尋ねれば、董生に儔する人はいない。「夫婦相虐」は易の「夫妻反目」のこと。虐は順でないことを言う。世の中に兄弟ほど親しいものはないが、他所のは讎となる。さてまた君の禄で父母を養う。有難いものだが、そのために父母へ難儀を掛ける。それは世の中に通常なことだが、董生を比べて見るとどうしたことだろうか。これは上の「不慼慼不咨咨」へ掛けて言う。さて上の句で「誰将与儔」と問い掛けて結句にまた「無与儔」と言うのは、たとえば王羲之を出して世の中にこの様な書物があるが、御召しの呉服を出してこれが呉服屋にあるがと言い、また世の中にない董生だが、それは淝水の様なもので知り手はなく、天翁だけが知ると言う類。色々と掛けて無与儔と結んだ。詩では掴まえ難い様だが、董生の体のよいのが韓子によって世の中に残った。
【語釈】
・儔…ともがら。たぐいする。
・夫妻反目…易経小畜。「九三。輿説輻。夫妻反目。象曰、夫妻反目、不能正室也」。


善行51
○唐河東節度使柳公綽、在公卿間最名有家法。中門東有小齋、自非朝謁之日、毎平旦輒出至小齋。諸子仲郢皆束帶晨省於中門之北。公綽决私事、接賓客、與弟公權及群從弟再會食、自旦至莫不離小齋。燭至則命一人子弟執經史、躬讀一過訖、乃講議居官治家之法、或論文、或聽琴、至人定鐘、然後歸寢。諸子復昏定於中門之北。凡二十餘年、未嘗一日變易。其遇饑歳、則諸子皆疎食。曰、昔吾兄弟侍先君爲丹州剌吏。以學業未成、不聽食肉。吾不敢忘也。姑姊妹姪有孤嫠者、雖踈遠必爲擇壻嫁之、皆用刻木粧奩纈文絹爲資裝。常言必待資裝豐備、何如嫁不失時。及公綽卒、仲郢一遵其法。事公權如事公綽。非甚病、見公權未嘗不束帶。爲京兆尹・塩鐡吏。出遇公權於通衢、必下馬、端笏、立候、公權過乃上馬。公權莫歸、必束帶迎候於馬首。公權屢以爲言、仲郢終不以官達有小改。公綽妻韓氏相國休之曾孫、家法嚴肅儉約、爲搢紳家楷範。歸柳氏三年、無少長、未嘗見其啓齒。常衣絹素、不用綾羅錦繡。毎歸覲不乗金碧輿、秪乗竹兠子、二青衣歩屣以隨。常命粉苦參・黄連・熊膽、和爲丸賜諸子、毎永夜習學、含之以資勤苦。
【読み】
○唐の河東の節度使柳公綽[こうしゃく]、公卿の間に在りて最も家法有りと名づく。中門の東に小齋有り、朝謁の日に非ざるよりは、平旦毎に輒ち出でて小齋に至る。諸子仲郢[ちゅうえい]、皆束帶して中門の北に晨省す。公綽私の事を决し、賓客に接わり、弟公權及び群從弟と再び會して食い、旦より莫に至るまで小齋を離れず。燭至れば則ち一人の子弟に命じて經史を執らしめて、躬ら讀むこと一過し訖[おわ]り、乃ち官に居り家を治むるの法を講議し、或は文を論じ、或は琴を聽き、人定の鐘に至りて、然して後に歸して寢ぬ。諸子復た中門の北に昏定す。凡そ二十餘年、未だ嘗て一日も變易せず。其の饑歳に遇えば、則ち諸子皆疎食す。曰く、昔吾兄弟、先君の丹州の剌吏と爲るに侍す。學業未だ成らざるを以て、肉を食うを聽かず。吾敢て忘れざるなり、と。姑姊妹姪の孤嫠[こり]なる者有れば、踈遠と雖も必ず爲に壻を擇びて之を嫁し、皆刻木の粧奩[しょうれん]、纈文[けつぶん]の絹を用いて資裝と爲す。常に必ず資裝の豐備なるを待たば、何如ぞ嫁するに時を失なわざらんと言う。公綽卒するに及びて、仲郢一に其の法に遵う。公權に事うること、公綽に事うるが如し。甚だ病むに非ざれば、公權に見ゆるに未だ嘗て束帶せずんばあらず。京兆の尹・塩鐡吏と爲る。出でて公權に通衢[つうく]に遇えば、必ず馬より下り、笏を端して、立ちて候[うかが]い、公權過ぎて乃ち馬に上る。公權莫に歸れば、必ず束帶して馬首に迎え候う。公權屢々以て言を爲すも、仲郢終に官達を以て小しくも改むること有らず。公綽の妻韓氏は相國休の曾孫、家法嚴肅儉約にして、搢紳の家の楷範爲り。柳氏に歸して三年、少長と無く、未だ嘗て其の齒を啓くを見ず。常に絹素を衣て、綾羅錦繡を用いず。歸覲する毎に金碧の輿に乗らず、秪[ただ]竹兠子に乗り、二りの青衣歩屣[ほし]して以て隨う。常に命じて苦參・黄連・熊膽を粉にし、和して丸と爲して諸子に賜い、永夜習學する毎に、之を含みて以て勤苦を資[たす]く。

○唐河東節度使柳公綽條。講後曰、宋太祖不奪節度使之柄、則亦当不至為虜寇危國也。この條、通論に有る筈なり。廣く家内のことを論ぜり。節度使。兵を握りて夷狄を防く。藩鎭と云も是なり。唐の時分より勢か強くなり、遂に五代なども節度使てあの通りになる。藩鎭にもなり、又乱をも興すゆへ人のいむものなり。宋に至り趙晋などか謀て節度使の權を貶せり。なんにもせよ、重ひ身分なり。○有小斉にあんばいあることと見へし。表の内で奥へつ井た小坐敷なり。登城日の外は、夜の引あけに奥から出て彼の小坐敷へ行かれた。○諸子仲郢は、大勢の中で惣領の仲郢が名ばかりを出すなり。迂斉もここを疑へり。是を仲郢を先へ出すと、仲郢が諸士のやうにまよふとなり。○公綽决私事云々。子弟群従弟の目見や賔客と接るゆへ再ひ會すと云。
【解説】
「唐河東節度使柳公綽、在公卿間最名有家法。中門東有小齋、自非朝謁之日、毎平旦輒出至小齋。諸子仲郢皆束帶晨省於中門之北。公綽决私事、接賓客、與弟公權及群從弟再會食、自旦至莫不離小齋」の説明。節度使は兵を握り夷狄を防ぐもの。藩鎮もそれで、重い身分である。公綽は、登城日以外は小座敷にいた。
【通釈】
唐河東節度使柳公綽の条。講後に、宋の太祖、節度使の柄を奪わずんば、則ち亦当に虜寇の国を危くするを為すに至らざるべしと言った。この条は通論にある筈で、広く家内のことを論じたもの。「節度使」。兵を握って夷狄を防ぐ。藩鎮と言うのもこれ。唐の時分より勢が強くなり、遂に五代なども節度使であの通りになった。藩鎮にもなり、また乱をも起こすので人が忌むもの。宋に至って趙晋などが謀って節度使の権を貶した。何にしても重い身分である。「有小斎」に塩梅があると見なさい。表の内で奥へ付いた小座敷である。登城日の外は、夜明けには奥から出てこの小座敷へ行かれた。「諸子仲郢」。大勢の中で総領の仲郢の名だけを出した。迂斎もここを疑った。ここで仲郢を先に出すと、仲郢が諸士の様で迷うと言った。「公綽決私事云々」。子弟や群従弟のお目見えや賓客と接するので「再会」と言う。
【語釈】
・五代…唐から宋への過渡期に中原に興亡した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五朝。907~960
・趙晋…南宋の人。軍師。煙波釣叟歌がある。

○燭至云々。書や論吾のあとで居官治家のことを稽古を合せるなり。經史をむかし話にせぬ。○或論文云々。これからはなくさみなり。文は人の心をうつすもの。これで感ずるのと文体を論す。○至人定鐘云々。四つになりて寢ると云は某毎々感することなり。江戸など四つになると木戸もしめ、町家も戸をしめる。啇に精出すものほど寢る時は寝て行義よ井ものなり。四つと云が丁どよい刻限なり。けっく、とうらく者が夜を更し、能なしの食工して無益な閑話や無用な食ふことに手間を取りて居る。四つに寢ると云で翌日の朝興の為にもよ井ことなり。彼の精出す啇人の寢るときは子ると云行儀のよ井が、学者のすすむもそれなり。啇人の仕出すと学者の志が同しことなものなり。
【解説】
「燭至則命一人子弟執經史、躬讀一過訖、乃講議居官治家之法、或論文、或聽琴、至人定鐘、然後歸寢。諸子復昏定於中門之北」の説明。経史を読んだ後、官吏としての心得と家を治める稽古をした。また、文体も論じ、四つ時に寝た。夜更しと食巧みは無用なことであって、四つ時に寝るというのがよいこと。
【通釈】
「燭至云々」。書や論語の後は「居官治家」のことで稽古を合わせる。経史を昔話にしない。「或論文云々」。これからは慰みである。文は人の心を遷すもの。これで感ずると文体を論じる。「至人定鐘云々」。四つ時になって寝るというのが私が毎々感ずること。江戸などでは四つになると木戸も閉め、町家も戸を閉める。商いに精を出す者ほど寝る時は寝て行儀がよいもの。四つというのが丁度よい刻限である。つまりは道楽者が夜更しをし、能なしが食巧みをして、無益な無駄話や無用な食うことに手間を取っている。四つに寝るというのが翌日の朝起きのためにもよい。あの精を出す商人が寝る時は寝るという、その行儀のよいのが、学者の学問の進むのもそれ。商人の仕出すのと学者の志が同じこと。

○凡二十餘年云々。膝を直して聞ことでもなけれとも、古人は變易せず板行押たやふなり。立教にも游居有常と云。かわらぬのは誠なり。今もかたい主人が某の物は何屋で買へと云てかへぬもの。ささ井なことなれとも、そうなれば家風くつれぬものなり。ろくな知惠もなく親の仕置たことを易へるは、人抦あしくなり家もつぶす。小学ではは子たことはきろふ。形を守るが垩人になる模様なり。○曰昔吾兄弟云々。親の云なり。疏食につ井てこれを引く。をらが若ひ時学業成就せぬで肉をとめられしことを忘れぬ。をのしなどの祖さまは嚴な御方で有ったとなり。それと今日の蔬食が同しことと云なり。さてこの句が段落にて、下文は別のことなり。○有孤嫠者云々。寡居のものなり。爰は字が足りぬ。孤嫠の女などのこと。寡婦の再嫁に非ず。○粧奩。奩ははこなり。○刻木は、引もの。日光細工と云もの。○纈文絹。かのこぎぬと明の朱舜水云ふ。染きぬなり。錦や繍はせぬ。○嫁不失時。これで上の孤嫠の再嫁でな井か知るる。○為京兆尹塩鐵使。何にか小学の末書に兼役と云ふさふなり。○為言。それに及はぬと辞冝するなり。○官達て伯父をいの間でも前とは改まるものなれとも、仲郢は改めぬ。
【解説】
「凡二十餘年、未嘗一日變易。其遇饑歳、則諸子皆疎食。曰、昔吾兄弟侍先君爲丹州剌吏。以學業未成、不聽食肉。吾不敢忘也。姑姊妹姪有孤嫠者、雖踈遠必爲擇壻嫁之、皆用刻木粧奩纈文絹爲資裝。常言必待資裝豐備、何如嫁不失時。及公綽卒、仲郢一遵其法。事公權如事公綽。非甚病、見公權未嘗不束帶。爲京兆尹・塩鐡吏。出遇公權於通衢、必下馬、端笏、立候、公權過乃上馬。公權莫歸、必束帶迎候於馬首。公權屢以爲言、仲郢終不以官達有小改」の説明。公綽は二十余年にわたって変わらなかった。それは誠だからである。変わらないから家風も崩れない。飢饉の年には子に蔬食を食わせた。その時に、自分は学業が成就しないと肉を食うことを許されなかったと言った。「孤嫠」は再嫁のことではない。親のいない女を早く嫁がせた。
【通釈】
「凡二十余年云々」。膝を直して聞くことでもないが、古人は変易しなかった。それは板行を押した様なもの。立教にも「游居有常」とある。変わらないのは誠である。今も固い主人が、私の物は何屋で買えと言って変えないもの。瑣細なことだが、そうであれば家風も崩れないもの。碌な知恵もなく親の仕置いたことを易えるのは、人柄も悪しくなって家をも潰す。小学では跳ねたことは嫌う。形を守るのが聖人になる模様である。「曰昔吾兄弟云々」。親が言ったこと。疏食のことでこれを引いた。俺は若い時に学業が成就しないと肉を止められた。それを忘れたことはない。お前などの爺様は厳な御方であったが、それと今日の蔬食とが同じことだと言った。さてこの句が段落になり、下文は別のこと。「有孤嫠者云々」。寡居の者のこと。ここは字が足りない。これは孤嫠の女などのことで、寡婦の再嫁のことではない。「粧奩」。奩は箱。「刻木」は、引物で、日光細工という様なもの。「纈文絹」。鹿の子絹だと明の朱舜水が言った。染絹のことで、錦や繍はしない。「嫁不失時」。これで上の孤嫠が再嫁でないことが知れる。「為京兆尹塩鉄吏」。何か小学の末書に兼役とある様である。「為言」。それには及ばないと辞儀をした。官が達すると伯父甥の間でも前とは違うものだが、仲郢は変わらなかった。
【語釈】
・游居有常…小学内篇立教9。「志無虚邪、行必正直游居有常」。
・孤嫠…孤は父に死別した者。嫠は寡婦。

○公綽妻韓氏相國休之曽孫云々。奥方も善く、先日の正献公の婦人のやふなもの。韓休は玄宗の若ひ時の老中なり。玄宗の大ふ憚りて、某のこと韓休が聞はせぬかと云はれたほどのこと。侍臣か休の相たりしより痩せられしと云ふに、をれがやせたで天下はふとると見事なことなり。貴妃に溺れたはよい年のことなり。里の家法まで斯ふと語りたものなり。○歸覲。里かへりのことなり。○金碧輿。鋲打の乗物と云ふものなり。○竹兠子。こざつつみのかごと云もの。あじろかごなり。○青衣歩屣。只今足軽の青合羽きると云やふなもの。尻をからげてこそ々々と行なり。○粉苦参黄連熊膽云々。めったに苦味で眠気を除くと云ことてもなく、医にも問合せてのことで有ふなり。これが入門にも見へてあり、迂斉の、目のさめるでよ井、事になづむはわるいとなり。唯々眠気ざましなり。范文正公眠気づく時水で顔を洗ふたとあり、この藥もそれと同じことなり。毒と云ふことでもなく、藥と云ことでもなく、眠気を去る為めなり。
【解説】
「公綽妻韓氏相國休之曾孫、家法嚴肅儉約、爲搢紳家楷範。歸柳氏三年、無少長、未嘗見其啓齒。常衣絹素、不用綾羅錦繡。毎歸覲不乗金碧輿、秪乗竹兠子、二青衣歩屣以隨。常命粉苦參・黄連・熊膽、和爲丸賜諸子、毎永夜習學、含之以資勤苦」の説明。公綽の妻もよい家柄の人だった。妻の祖父の韓休は玄宗の老中だった。韓氏は躾が厳しかった。それで公綽の妻も慎み深かった。ここに薬のことがあるが、それは眠気を去るということ。
【通釈】
「公綽妻韓氏相国休之曾孫云々」。奥方もよくて、先日の正献公の婦人の様なもの。韓休は玄宗が若い時の老中である。玄宗が大分憚って、私のことを韓休が聞きはしないかと言われたほどのこと。侍臣が、休が相になってから痩せられたと言うと、玄宗が、俺が痩せたので天下は太ったと言った。見事なことである。貴妃に溺れたのは晩年のこと。これが里の家法までがこうだったと語ったもの。「帰覲」。里帰りのこと。「金碧輿」。鋲打ちの乗物というもの。「竹兜子」。御座包の駕籠というもの。網代駕籠のこと。「青衣歩屣」。今の足軽が青合羽を着る様なもの。尻を絡げてこそこそと行く。「粉苦参黄連熊肝云々」。苦味で滅多矢鱈に眠気を除くということでもなく、医にも問い合わせてのことだろう。これが入門にも載っていて、迂斎が、目が覚めればよく、事に泥むのは悪いと言った。唯々眠気覚ましである。范文正公も眠気の付いた時には水で顔を洗ったとあり、この薬もそれと同じこと。毒ということでもなく、薬ということでもなく、眠気を去るためのこと。
【語釈】
・正献公の婦人…小学外篇善行1を指す。
・こざつつみ…茣蓙包。御座包。江戸時代に乗物を許された大名以下の人々の通常用いた駕籠。
・范文正公…范仲淹。北宋の詩人・文筆家。字は希文。蘇州呉県の人。仁宗に仕え辺境を守り、羌人から竜図老子と尊ばれた。989~1052


善行52
○江州陳氏宗族七百口、毎食設廣席、長幼以次坐而共食之。有畜犬百餘、共一牢食。一犬不至、諸犬爲之不食。
【読み】
○江州の陳氏、宗族七百口、食する毎に廣席を設け、長幼次を以て坐して共に之を食う。畜犬百餘有り、一牢を共にして食う。一犬至らざれば、諸犬之が爲に食わず。

○江州陳氏宗族七百口條。前の張公藝につつ井たこと。家内七百口なり。学者が五六人の家内を治ることならぬと云は云わけの立ぬことなり。○七百口ではなるほど犬は百も有ふなり。禽獣が礼を知ふ筈はなけれとも、先刻の董生と同しことで、家内が斯ふ故禽獣へひびくなり。
【通釈】
江州陳氏宗族七百口の条。前の張公芸に続いたこと。家内が七百口である。学者が五六人の家内を治めることができないと言うのでは言い訳が立たない。七百口であれば、なるほど犬も百匹もいることだろう。禽獣が礼を知る筈はないが、先刻の董生と同じことで、家内がこの様なので禽獣へも響く。
【語釈】
・張公藝…小学外篇善行49を指す。
・董生…小学外篇善行50を指す。


善行53
○温公曰、國朝公卿能守先法、久而不衰者唯故李相家。子孫數世、至二百餘口、猶同居共爨。田園邸舍所收、及有官者俸祿、皆聚之一庫、計口日給餉、婚姻喪葬所費、皆有常數。分命子弟掌其事。其規模大抵出於翰林學士宗諤所制也。
【読み】
○温公曰く、國朝の公卿能く先法を守り、久しくして衰えざる者は唯故李相の家のみ。子孫數世、二百餘口に至り、猶同居して爨[さん]を共にす。田園邸舍の收むる所、及び官有る者の俸祿、皆之を一庫に聚め、口を計りて日に給餉[きゅうしょう]し、婚姻喪葬に費す所、皆常數有り。子弟に分ち命じて其の事を掌らしむ。其の規模は大抵翰林學士宗諤[そうがく]の制する所に出ず。

○温公曰國朝公卿云々。宗族のこと通論に三條ならべて編集せり。これは難ひことと見へる。○故李相。見言行彔前集。○邸舎処収。地代がある。○聚之一庫。御役人も御番衆も御藏米もある。家を一つにして一庫にあつむ。○婚姻喪葬云々。二百人ゆへ婚礼も度々あるはづ。いやはや争の出来そふなことなり。○其規摸云々。これがきまったゆへ家風が乱れぬ。とかく物は仕方なものなり。人は秉彛の天性と云へとも所置てくづれる。林道春父子は上でも信仰なれば諸家でも用て、定めて今日諸家の善ひ法なども林公で残りて有ふなり。偖一代とふらく者でも法がよければくづれぬもの。此序に云もいかかなれとも、駿河町越後屋などのつついて繁昌なも家法がよいゆへなり。啇の上でさへそれなれば、法の調法が是なり。二百人か皆君子の筈もなく、温公の時迠には色々わるい者出たらふなり。此小学に載ったも其家法のよい所なり。
【解説】
故李相の家は二百人が一所に暮らしていた。それほど多く人がいたのに家風が崩れなかったのは家法がよかったからである。
【通釈】
「温公曰国朝公卿云々」。宗族のことを通論に三条並べて編集した。宗族のことは難しいものと見える。「故李相」。言行録前集に見える。「邸舎処収」。地代がある。「聚之一庫」。御役人も御番衆も御蔵米もある。家を一つにして一庫に聚めた。「婚姻喪葬云々」。二百人なので婚礼も度々ある筈。いやはや争いができそうなこと。「其規模云々」。これが決まったので家風が乱れない。とかく物は仕方次第である。人は秉彛の天性とは言うが、処置で崩れる。林道春父子は上でも信仰しているので、諸家でもそれを用い、きっと今日諸家のよい法なども林公から残ったのだろう。さて一代の道楽者でも法がよければ崩れないもの。この序に言うのもいかがかとは思うが、駿河町の越後屋などが続いて繁昌なのも家法がよいからである。商いの上でさえそれなのだから、法の調法というのがこれ。二百人が皆君子の筈もなく、温公の時までには色々と悪い者も出たことだろう。この小学に載ったのも家法がよいという所からである。


右實明倫。
【読み】
右、明倫を實にす。