善行54
或問第五倫曰、公有私乎。對曰、昔人有與吾千里馬者。吾雖不受、毎三公有所選舉、心不能忘。而亦終不用也。吾兄子嘗病。一夜十往、退而安寢。吾子有疾。雖不省視、而竟夕不眠。若是者豈可謂無私乎。
【読み】
或ひと第五倫に問いて曰く、公も私有るか、と。對えて曰く、昔人、吾に千里の馬を與うる者有り。吾受けずと雖も、三公選舉する所有る毎に、心忘るること能わず。而れども亦終に用いざるなり。吾が兄の子嘗て病む。一夜に十たび往き、退きて安く寢ぬ。吾が子疾有り。省み視ずと雖も、竟夕眠らず。是の若きは豈私無きと謂う可けんや、と。

三月二十一日  纎村文録
【語釈】
・三月二十一日…寛政2年(1790)3月21日。
・纎村文…林潜斎。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。黙斎門下。

○この條より心術之要なり。心術は心法と云と同こと。小學は小児の教なれば心術を出しては取り合はぬ様なれとも、これが親切なことにて、世話に三つ子の魂六十迠と云。なるほど三つ子の魂が六十迠心術へこびついて居る故なり。百姓の種を下すや蒔ときの加减が違ふてはならぬ。初の手あてが豊凶にもあつかること。あそこにある。小児から心法のきめが大切。小児の時から悪る心と云かある。小児ゆへさしたることは無けれども、それをすてて置と遂ひわる井人になる。心術の善悪か紙鳶をあける時からのこと。饅頭よりは金をほし井と云は利口な小児なり。利口とは云へども、それは請合はれぬ。爰て云は如何なれども、原田甲斐が彼の山鳥より云々のことが小児にあるまいこと。あれが悪逆の種なり。偖心法と云へば禅坊主なれども、何事でも心法のはつれることはない。一口に云へば心に一物のないを云。無一物と云へば無念無想の仏老のやふに聞ゆるが、五倫のは心を道理の通りにする故胸に何もない。然るに道理の正面はそふなれどもと云なから、勝手のよ井方を仕たがる。其よ井ことが一物ある。
【解説】
三つ子の魂六十までで、最初の手当が大事であり、小児からの心法の決めが大切である。心法とは心に一物のないこと。心が道理の通りなので胸には何もない。
【通釈】
この条からが心術の要である。心術は心法と同じこと。小学は小児への教えなので心術を出しては取り合わない様だが、これが親切なことで、世話に三つ子の魂六十までと言う。なるほど三つ子の魂が六十まで心術にこびり付いているのでそう言う。百姓の種を下す時や蒔く時の加減が違ってはならない。初めの手当てが豊凶にも与ること。そこにある。小児からの心法の決めが大切。小児の時から悪心ということがある。それは小児なので大したことではいが、それを放って置くとつい悪い人になる。心術の善悪が凧を揚げる時からのこと。饅頭よりは金を欲しいと言うのは利口な小児である。利口とは言っても、それは請け合えるものでもない。ここで言うのはどうかと思うが、原田甲斐のあの山鳥より云々のことが小児にはない筈のこと。あれが悪逆の種である。さて心法と言えば禅坊主の様だが、何事にも心法の外れることはない。一口に言えば心に一物のないことを言う。無一物と言えば無念無想の仏老の様に聞こえるが、五倫は心を道理の通りにしたので胸に何もない。そこを、道理の正面はそうだと言いながら、勝手のよい方をしたがる。そのよいということに一物がある。
【語釈】
・原田甲斐…仙台藩の家老。寛文事件(伊達騒動)の一方の当事者。1619~1671。甲斐の狼退治という民話がある。榴ヶ岡の花見に行った時に山鳥を見て、それを持って帰ろうとして、そのために白狼を殺した話。

嘉言の心術に董仲舒を出すが道理の通にして胸へ余のものは置ぬ。直方先生の歌に、世の中は風に木の葉のことくにて、とにもかくにもとにもかくにも。これは老荘のやふに聞ゆれとも、とにもかくにもと云は道理の通りにすること。論吾の無適也無莫也と云はとうなれば義之與比ふなり。これが傳授の心法なり。世の中やれ尤じゃと云ても心ゆきでよいに立られぬ。心術の要はずんど大切なこと。あら井ことでは垩人の道は得られぬ。偖、親の病気も知すに草臥て寢たと云はつまらぬことなれとも、若ひ者の子ると云ふはそふもあるべきこととゆるすが、表むき美くみへに事るは其立派な孝も吾儒では取らぬ。人に借りた金も惰弱で終ひ餘念なくかへさぬはゆるすが、立派にかへせども、そふして跡に手のあるはゆるされぬ。隠怨友其人云々。心の吟味のこと。微生高か酢もそれなり。心底を唁ること。三思而行を再是可也との玉ふも、三思は道理を外にする。そこで呵らるる。
【解説】
「無適也無莫也」が伝授の心法である。「匿怨而友其人」も微生高も「季文子三思而後行」も道理に外れているので孔子が叱ったのである。
【通釈】
嘉言の心術に董仲舒を出すのが道理の通りにして胸へ余の物を置かないこと。直方先生の歌に、世の中は風に木の葉の散る如く、とにもかくにもとにもかくにもとある。これは老荘の様に聞こえるが、とにもかくにもというのが道理の通りにすること。論語の「無適也無莫也」というのは何かと言うと「義之於比」である。これが伝授の心法である。世の中でやれ尤もなことだと言っても、心行きでよいことに立てられないもの。心術の要は大層大切なこと。粗いことでは聖人の道は得られない。さて、親の病気も知らずに草臥れて寝たというのは詰まらないことだが、若い者が寝るというのはそうもあるべきことだと許す。しかし、表向きは美しくても見栄で事えては、その様な立派な孝も我々の儒では取らない。人に借りた金も惰弱でつい余念なく返さないのは許すが、立派に返しても、跡に手があれば許せはしない。「匿怨而友其人云々」は心の吟味のこと。微生高の酢もそれ。心底を呵ったこと。「三思而後行」を「再斯可矣」と仰ったのも、三思は道理を外にするからで、そこで呵られたのである。
【語釈】
・嘉言の心術に董仲舒を出す…小学外篇嘉言56。「董仲舒曰、仁人者正其誼、不謀其利。明其道、不計其功」。
・無適也無莫也…論語里仁10。「子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之於比」。
・隠怨友其人…論語公冶長25。「子曰、巧言、令色、足恭、左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之。丘亦恥之」。
・微生高か酢…論語公冶長24。「子曰、孰謂微生高直。或乞醯焉、乞諸鄰而與之」。
・三思而行…論語公冶長20。「季文子三思而後行。子聞之曰、再、斯可矣」。

○この章のこと、第五倫がたたい善ふないことなれども、手前で悪ひと知ったで格段なことなり。偖其心術の要を一物の有無で説がこの章の綱領になる。○公有私乎云々。露ちり私のない人ゆへ或人が斯ふ問ふ。赤松を割たやふな丈夫な人ゆへ、そなたも病ふことが有るかと云。○對曰昔人云々。なる程ごさると云。第五倫、けたかい人なり。今日の人は我れに私はな井と思ふて居るに、第五倫は有私と云は心法を知った人なり。ここを知らぬ故漢唐夢をとくと云。直方先生、俗人の中でも奇特は第五倫と云へり。これが直方先生、例の開活てたやすく云には非す。俗人の中でもの字が中庸の心法戒愼恐懼でなければならぬこと。二帝三王の外は心法へ手をつけたは鮮井。中庸の規矩から出せば、第五倫も俗人の中でもと誉られたものなり。丁と朱子ほどな学問ても医者から素人なれども、この病気の医案はと云はふなり。さて此の條か学者の大益なり。そこで近思にもここの程説を載せり。
【解説】
第五倫は俗人だが、「有私」と言ったのが格段なこと。第五倫は心法を知った人である。中庸の心法の戒慎恐懼をした人なのである。
【通釈】
この章のこと、第五倫はそもそもよくない人だが、自らが悪いと知ったので格段なこと。さてその心術の要を一物の有無で説くのがこの章の綱領になる。「公有私乎云々」。露塵も私のない人なので或る人がこの様に問うた。赤松を割った様な丈夫な人なので、貴方も患うことがあるかと聞いた。「対曰昔人云々」。なるほどありますと答えた。第五倫は気高い人である。今日の人は自分に私はないと思っているが、第五倫が有私と言ったのは心法を知った人だからである。ここを知らないので漢唐夢を説くと言う。直方先生が、俗人の中でも奇特なのは第五倫だと言った。これは直方先生が例の開闊で容易く言ったのではない。俗人の中でもという字が、中庸の心法、戒慎恐懼でなければならないこと。二帝三王の外で心法へ手を付けた者は少ない。中庸の規矩から出せば、第五倫も俗人の中でもよいと誉められたもの。丁度朱子ほどの学問でも医者から見れば素人だが、この病気の医案はと言う様なもの。さてこの条が学者の大益になる。そこで近思にもこの程子の説を載せてある。
【語釈】
・漢唐夢をとく…朱子語類51。「漢唐諸人説義理、只與説夢相似、至程先生兄弟方始説得分明。唐人只有退之説得近旁、然也只似説夢」。同93。「今看來漢唐以下諸儒説道理見在史策者、便直是説夢」。
・近思…近思録家道12を指す。

○毎三公有所選挙心不能忘云々。迂斎云、をらが仲ヶ間でのこととなり。名馬のことが心に浮み、其人を用る気はなけれども贔屓になりて忘れぬとなり。ここが胸を羽帚の処。直方先生、心術の大切と云へば、上へ役に立ぬ者を取立れば君の方が馬より輕くなると云へり。なるほど人君と馬をとりかへるになる。あるまいことなり。今日凡夫は賄賂でやはりそれを用ることを為るに、其事をせずに胸に浮む迠も私と見た。これをは有り難く読べきことなり。本の奇麗好きなれば、顔や手の見へる処より人の見ぬからだをよく洗ふべし。○吾兄子嘗病云々。偖またごさるなり。大率兄の前や嫂の前もあるゆへそれもあること。たた井一心の誠が出れば兄の子我が子はな井はづなり。無私て学問全体これで盡る。人の思つきがどふで有ふの外見があるのとてするも凡人はいまたなれども、程朱を学ぶ者はそんなことではならぬ。学問で一とはたらき有ると云へども、心底に露ちり私ある内は垩賢の道は得られぬ。太宗を賢君の名君のと云へとも、朱子の云はるる、少しのことでも太宗に私のな井ことは無となり。太宗之心則吾恐其無一念之不出於人欲也。直以其能假仁借義以行其私。節要五。さて又朱子も心術のことじゃめったにも云はれぬが、荅陳同甫書に委くあり。あれが何からなれば、皆孔子から出たこと。晋文公譎而不正との玉ふが心術にたたりたことなり。この入口ちから斯ふかかるで垩賢にも至る。そこで心術か大切のこと。あの丸い垩人か郷原德之賊との玉ふ。巧言令色を悪み、疂み障りのあら井子路か出るといつも御喜なり。
【解説】
第五倫は昔賄賂で馬を貰いそうになり、その馬のことが心に残ったと言った。また、兄の子が病気の時と自分の子が病気の時では心が違ったと言った。丸い孔子が「晋文公譎而不正」や「郷原徳之賊」、「巧言令色鮮矣仁」と言い、子路がいると喜んだが、それは心術に掛かったこと。
【通釈】
「毎三公有所選挙心不能忘云々」。迂斎が、自分の仲間内でのことだと言った。名馬のことが心に浮び、その人を用いる気はないが贔屓になって忘れないと言った。ここが胸を羽箒の処。直方先生が、心術が大切なのは、上へ役に立たない者を取り立てれば君の方が馬より軽くなると言った。なるほど人君と馬とを取り替えることになる。それはあってはならないこと。今日やはり凡夫は賄賂を用いるが、それをせずに胸に浮ぶことまでも私と見た。これを有難く読みなさい。本当の奇麗好きであれば、顔や手などの見える処よりも人の見ない体をよく洗いなさい。「吾兄子嘗病云々」。さてまたある。大率兄の前や嫂の前にいることもあるのでそれもあること。そもそも一心の誠が出れば兄の子と自分の子の別はない筈である。無私で学問全体が尽きる。人の思い付きはどうだろうとか、外見があると言ってするのも凡人であれば仕方もないが、程朱を学ぶ者がその様なことではならない。学問で一働きあると言っても、心底に露塵でも私のある内は聖賢の道は得られない。太宗を賢君とか名君とかと言うが、朱子が、少しのことでも太宗に私のないことはないと言った。太宗の心は則ち吾其の一念の人欲より出でざること無きを恐るるなり。直以て其れ能く仁を假り義を借り、以て其の私を行う。節要五。さてまた朱子も心術のことなのでこれを滅多にも言わないが、答陳同甫書に委しくある。あれが何からかと言うと、皆孔子から出たこと。「晋文公譎而不正」と仰ったのが心術に祟ったこと。この入口からこの様に掛かるので聖賢にも至る。そこで心術が大切。あの丸い聖人が「郷原徳之賊」と仰った。「巧言令色」を悪み、畳障りの粗い子路が出るといつも喜ばれた。
【語釈】
・晋文公譎而不正…論語憲問16。「子曰、晉文公譎而不正。齊桓公正而不譎」。
・郷原德之賊…論語陽貨13。「子曰、郷原、德之賊也」。
・巧言令色…論語学而3。陽貨17。「子曰、巧言令色、鮮矣仁」。


善行55
○劉寛雖居庫卒、未嘗疾言遽色。夫人欲試寛令恚、伺當朝會裝嚴已訖、使侍婢奉肉羹、翻汚朝服。婢遽收之。寛神色不異。乃徐言曰、羹爛汝手乎。其性度如此。
【読み】
○劉寛、庫卒に居ると雖も、未だ嘗て疾言遽色せず。夫人寛を試して恚[いか]らしめんと欲し、朝會に當り裝嚴已に訖[おわ]るを伺い、侍婢をして肉羹を奉じ、翻して朝服を汚さしむ。婢遽に之を收む。寛、神色異らず。乃ち徐[おもむろ]に言いて曰く、羹、汝が手を爛[ただ]らすか、と。其の性度此の如し。

○劉寛雖居庫卒云々。前の第五倫は心に功夫する人。劉寛はそふでなく、うっかりひょんのやふなり。前と並はぬ章のやうで、劉寛が心ののび々々としたは一物な井故のこと。朱子の編集面白ことなり。迂斉、性静者可成學をここで見よと云。性の静が学問によし。高ひ所へ火の見なり。○倉卒な時でもはや言や肝を消した色はない。にょほんと生れた男なり。○夫人欲試寛令恚。亭主を輕しめるかとふしたことじゃ。世の中の女にこれがあるものなり。試はためすこと。○装嚴已訖は、供ぞろへありて今に出仕のときなり。装束で参内の所を奉肉羹云々なり。あの方出かけに食事することが有るかなり。○寛神色不異。迂斉の神に気をつけよとなり。よい気つけやふなり。顔色は巧言令色でこしらへる。神はこしらへられぬ。ここは心の中かをなんともなく魂か動かぬ。
【解説】
第五倫は心の功夫をした人だが、劉寛は心が伸び伸びとしていて、心に一物がなかった。
【通釈】
「劉寛雖居庫卒云々」。前条の第五倫は心の功夫をする人。劉寛はそうではないので、うっかりとして妙なことの様である。前とは並ばない章の様だが、劉寛の心の伸び伸びとしたところは一物がないからのこと。朱子の編集が面白い。迂斎が、「性静者可成学」をここで見なさいと言った。性の静なのが学問によい。高い所へ火の見である。「倉卒」な時でも失言や肝を消す様な色はない。のほんと生まれた男である。「夫人欲試寛令恚」。亭主を軽しめるとはどうしたことだろう。世の中の女にこれがあるもの。試は試すこと。「装厳已訖」は、供揃えがあって今出仕をする時のこと。装束をして参内の所を「奉肉羹云々」である。中華では出掛けに食事をすることがある様である。「寛神色不異」。迂斎が神に気を付けなさいと言った。よい気の付け様である。顔色は巧言令色で拵えることができるが、神は拵えられない。ここは心の中が何ともなく魂が動かないこと。
【語釈】
・性静者可成學…近思録為学68。「明道先生曰、性靜者可以爲學」。
・倉卒…あわただしいさま。あわてるさま。

○徐言曰云々。ゆっくりとした声で、はてあぶない、をれはやけどはせぬがとなり。これはどのやふなものでも怒ること。歴々なれば目通りへ出るなと云ほどのこと。それのみならず、登城のさしつかへになることなり。○其性度如此。これは学問や功夫でない。度は度量の度。せきはやいは入もの小井ゆへのこと。小徳利は一と柄杓で水一盃になるが、雨でも大河は満たぬ。又、川は満でも海の満たと云ふことは聞かぬ。量次第なり。度かをして云はれぬこと。度量大なれば何でもさわがぬ。軽いことでも、大身は衣服をかぎざきて引破りても麁相したなどとは云へともなんとも思はぬが、小身の貧乏ものはそれもはっと思ふ。身帯恰好による。人か美事な顔しても入もの小さければ、とこぞで神色へ出る。
【解説】
劉寛は度量が大きかった。そこで神色に表れることはなかった。これは学問や功夫ではなく、生まれ付きからのこと。
【通釈】
「徐言曰云々」。ゆっくりとした声で、実に危ないことだ、俺は火傷をしなかったがお前は大丈夫かと言った。これはどの様な者でも怒ること。歴々であれば目通りへ出るなと言うほどのこと。それのみならず、登城の差し支えにもなること。「其性度如此」。これは学問や功夫ではない。度は度量の度。急き早いのは入物が小さいからである。小徳利は一柄杓で一杯になるが、雨でも大河は満ちない。また、川は満ちても海が満ちたということは聞かない。量次第である。度が確かなもの。度量が大きければ何であっても騒がない。軽いことでも、大身は衣服を鉤裂きで引き破れば、粗相をしたなどとは言っても何とも思わないが、小身の貧乏者はそれもはっと思う。身代の恰好に拠る。人が見事な顔をしていても、入物が小さければ何処かで神色に出る。


善行56
○張湛矜嚴好禮、動止有則。居處幽室、必自脩整。雖遇妻子、若嚴君焉。及在郷黨、詳言正色。三輔以爲儀表。建武初爲左馮翊。告歸平陵、望寺門而歩。主簿進曰、明府位尊德重。不宜自輕。湛曰、禮下公門、軾路馬。孔子於郷黨恂恂如也。父母之國所宜盡禮。何謂輕哉。
【読み】
○張湛、矜嚴にして禮を好み、動止則有り。居處幽室、必ず自ら脩整す。妻子に遇うと雖も嚴君の若し。郷黨に在るに及びては、言を詳かにし色を正しくす。三輔以て儀表と爲す。建武の初、左馮翊[さひょうよく]と爲る。平陵に告げて歸り、寺門を望みて歩む。主簿進みて曰く、明府位尊の德重し。宜しく自ら輕んずべからず、と。湛曰く、禮に公門に下り、路馬に軾す、と。孔子郷黨に於て恂恂如たり。父母の國は宜しく禮を盡すべき所なり。何ぞ輕くすと謂わんや、と。

○張湛矜嚴好礼云々。この条も心術へ入て見る。わるくすると心術ばかりでないやふなれども、どこ迠も心術になる。張湛、生れつき計でなく好礼に気を付た。轎夫揖師の中にも生れ付に矜嚴底あるもの。好礼で一通りならぬが知るる。○居處幽室は他行をせぬときのこと。居所恭が是なり。家内でも幽室は人の見ぬ処なれとも、皆修整なり。若嚴君は殿中の様にする。○詳言正色。只の人は論はなけれとも、我に才器あれは郷人を輕くして長刀あしらいにするもの。然るに学者同士のあいさつの様にする。人を三分五厘に見下たすは得手になるもの。処をまじ目になりてそこへ誠が出る。病人があると云へば、一文字引かぬ者へも医案のこと迠こまかに言やふにする。○三輔以為儀表。三輔を山宮管兵衛が今の三奉行のやふなものとなり。なるほど三奉行に當て丁とよい。
【解説】
「張湛矜嚴好禮、動止有則。居處幽室、必自脩整。雖遇妻子、若嚴君焉。及在郷黨、詳言正色。三輔以爲儀表」の説明。張湛は生まれ付きの矜厳のみならず、好礼にも気を付けた。自分に才器があると人を軽くあしらうものだが、張湛にその様なことはなかった。
【通釈】
「張湛矜厳好礼云々」。この条も心術へ入れて見る。悪くすると心術ばかりではない様だが、何処までも心術になる。張湛は生まれ付きばかりではなく、好礼に気を付けた。駕篭舁きや船頭の中にも生まれ付きが矜厳底な者もいるものだが、好礼で一通りでないことが知れる。「居処幽室」は他行をしない時のこと。「居処恭」がこれ。家内でも幽室は人が見ない処だが、いつも「修整」である。「若厳君」は殿中の様にすること。「詳言正色」。普通の人は論にもならないが、自分に才器があれば郷人を軽く見て長刀あしらいにするもの。そこを学者同士の挨拶の様にする。人を三分五厘に見下すことはよくあるもの。そこを真面目になる。そこに誠が出る。病人があると言えば、一文字も読めない者へも医案のことまで細かに言って遣る様にする。「三輔以為儀表」。山宮官兵衛が三輔は今の三奉行の様なものだと言った。なるほど三奉行に当てると丁度よい。
【語釈】
・居所恭…小学内篇敬身5。「居處恭、執事敬、與人忠。雖之夷狄不可棄也」。
・山宮管兵衛…山宮雪樓。名は維深。字は仲淵。別号は翠猗。官兵衛と称す。江戸の人。羽後亀田藩岩城氏に仕え、後に館林藩に仕えるが去り、直ぐに殞命。年40。三宅尚斎門下。

○初為左馮翊。三輔之一也。告歸平陵は隠居でなく、漢の時分病気なれば一寸故郷へかへることも有ると見へる。○望寺門云々。公儀の役所のある郷なり。何府々々と云様なもの。誰どのの役所あるなり。○主簿。御代官に近ひものなり。○明府。諸大夫以上の格。尊穪して云。○湛曰礼下公門云々。虚礼でないゆへ心術の要へ載せり。下公門軾路馬は上を尊ふ魂からのこと。下馬札のある処はたれも慇懃にする。ここは張湛が下りずともよい所なれとも蘧伯玉が魂なり。○とこ迠も心術の要なり。張湛が心術に安んぜぬことあるゆへ云々なり。然るに礼はいんぎんに餘るがよいと云はいやなり。いんぎんはいんぎんが礼なり。餘るはわる井。書ましき様の字を書ていんきんにするは心はたわけにするなり。○父母之国所宜尽礼は心から真すくに出る処なり。外見を餘りをとなしくして、故郷ゆへ歴々になりても大ひ顔を見せまいと上手をしたことでなし。そこで心術ぞ。
【解説】
「建武初爲左馮翊。告歸平陵、望寺門而歩。主簿進曰、明府位尊德重。不宜自輕。湛曰、禮下公門、軾路馬。孔子於郷黨恂恂如也。父母之國所宜盡禮。何謂輕哉」の説明。張湛は故郷に帰った時に寺門で馬から下りた。それは大きな顔をしない様にと上手をしたからではなく、礼の当然でしたのである。
【通釈】
「初為左馮翊」。三輔の一つである。「告帰平陵」は隠居ではない。漢の時分は病気になると一寸故郷へ帰ることもあったものと見える。「望寺門云々」。公儀の役所のある郷である。何府と言う様なもの。某殿の役所があるところ。「主簿」。御代官に近い者。「明府」。諸大夫以上の格を尊称して言う。「湛曰礼下公門云々」。虚礼ではないので心術の要へ載せた。「下公門軾路馬」は上を尊ふ魂からのこと。下馬札のある処は誰もが慇懃にする。ここは張湛は下りなくてもよい所だが、これが蘧伯玉の魂である。何処までも心術の要である。張湛が心術に安んじないことがあったのでこの様に言ったのである。しかし、礼は慇懃に余るのがよいと言うのは嫌なこと。慇懃は慇懃とするのが礼である。余るのは悪い。書いてはならない様の字を書いて慇懃にするのは心を戯けにするのである。「父母之国所宜尽礼」は心から真っ直ぐに出る処。外見をあまりに大人しくして、故郷なので歴々になっても大きい顔を見せない様にしようと上手をしたのではない。そこで心術なのである。
【語釈】
・蘧伯玉…小学内篇稽古24を指す。


善行57
○楊震所舉荊州茂才王密、爲昌邑令、謁見、懷金十斤以遺震。震曰、故人知君。君不知故人、何也。密曰、莫夜無知者。震曰、天知、神知、吾知、子知。何謂無知。密愧而去。
【読み】
○楊震舉ぐる所の荊州の茂才王密、昌邑の令と爲り、謁見し、金十斤を懷にして以て震に遺る。震曰く、故人君を知る。君故人を知らざるは何ぞや、と。密曰く、莫夜知る者無し、と。震曰く、天知る、神知る、吾知る、子知る。何ぞ知ること無しと謂わんや、と。密愧じて去る。

○楊震所挙荊州茂才王密云々。楊震か手さきて取出した男なり。所挙は誰殿の見出したと云ものなり。茂才は若ひ秀才と云こと。茂は秀と同し意。光武の諱ゆへ秀を忌む。茂も秀もしけると云ふことなり。若ひ学者の惣名なり。○為昌邑令云々。御役人になり昌邑の奉行になる。これと云も楊震の取立なれば尚この上も世話になりた井心て賄ふ。これは恩をくと賄賂と両掛なり。偖官府は金銀は遣られぬこと。もと進物は心の誠なり。○懐にすとは井やなことと見べし。表門から釣り臺で大きな声してものを申ふと云とは違ふ。○故人知君云々。やわらかで井たい口上なり。孔子の原譲を故人と云。旧交のものを云ふなり。をれを取そうな男かと思ひやるかと云て呵らぬが向へもひひく。○莫夜無知者。夜のことなり。外に御客もなしと云ふ。けちな子を出した。直方先生、日雇取の口上となり。学者の座敷へ出して云口上でない。いよ々々賄賂が知れる。○楊震四知が是なり。呵ったよりよく、口上でいたむ。理から云へば人の知る不知にかまわぬことなれとも、これが向を諭すのなり。向で無知と云ふ無からうけて有ると云。なぜ知ることなしと云ふぞや。
【解説】
王密は楊震が取り立てた者。王密はこれからも取り立ててもらおうと賄賂を贈ろうとした。楊震が俺のことを知らないのかと言うと、王密が誰も見る者はいないと言った。そこで、人が知るとか知らないとかということではないと楊震が諭した。
【通釈】
「楊震所挙荊州茂才王密云々」。王密は楊震の手先で取り出した男である。「所挙」は誰殿が見出したと言うもの。「茂才」は若い秀才のこと。茂は秀と同じ意。秀は光武の諱なので秀を忌んだ。茂も秀も茂るということ。若い学者の惣名である。「為昌邑令云々」。御役人になって昌邑の奉行になった。これというのも楊震の取り立てであれば、尚更この上も世話になりたい心で賄う。これは恩を置くのと賄賂との両掛けである。さて官府では金銀は遣ってはならないものであって、元々進物は心の誠からのこと。「懐」とは嫌なことだと見なさい。表門から釣り台で大きな声をして物申すと言うのとは違う。「故人知君云々」。柔らかだが痛い口上である。孔子が原譲を故人と言った。旧交の者を言う。俺がそれを取りそうな男だと思ったのかと言って呵らないのが向こうへも響く。「莫夜無知者」。夜なので他に御客もないと言った。けちな本音を出した。直方先生が日雇取りの口上だと言った。学者が座敷へ出して言う口上でない。いよいよ賄賂であることが知れる。「楊震四知」がこれ。呵ったよりよく、口上で痛む。理から言えば人の知る知らないには構わないことだが、これが向こうを諭すことになる。向こうが無知と言ったので、無から受けて有と言った。何故知ることなしと言うのかと言ったのである。
【語釈】
原譲


善行58
○茅容與等輩避雨樹下。衆皆夷踞相對。容獨危坐愈恭。郭林宗行見之而竒其異、遂與共言、因請寓宿。旦日容殺鷄爲饌。林宗謂爲己設。既而供其母、自以草蔬與客同飯。林宗起拜之曰、卿賢乎哉。因勸令學。卒以成德。
【読み】
○茅容、等輩と雨を樹下に避く。衆皆夷踞して相對す。容、獨り危坐して愈々恭し。郭林宗、行々之を見て其の異を竒とし、遂に與に共に言い、因りて請いて寓宿す。旦日、容鷄を殺して饌を爲る。林宗己が爲に設くと謂う。既にして其の母に供し、自ら草蔬を以て客と同じく飯す。林宗起ちて之を拜して曰く、卿、賢なるかな、と。因りて勸めて學ばしむ。卒に以て德を成す。

○茅容與等輩避両樹下云々。野沢十九郎、前漢より後漢によい人が多ひと云。人の言はぬことなれどもよく見た。前漢の人は規模の大ひゆへ後世よく人も知り、後漢の人は小ぶりゆへ知る者少なけれとも、道理のじっしりとした方の垩賢の心に叶ふた処がよい。東漢の名節と云もそれなり。義理から発した、我しらず垩賢の肌を持ったは後漢に多きなり。○郭林宗行見之奇其異云々。雨やどりの馬士や啇人の中て格段に行義のよ井を珍しく思はれて、共に話されたなり。○因請寓宿は、郭林宗旅さきのことゆへ宿を茅容に請ふ。○旦日容殺鷄云々。為己設くとは人情でそふ思ふべきはづ。○以草蔬與客同飯。庭の萱艸でもひたしものにしたらふ。そこで郭林宗が昨日の雨やどりの行義と今朝の鷄のことを思ひ合せて挌別に感して拜礼せり。○成徳は重ひ文字なれども、これは徳のある一疋の男と成りしと云ふこと。以文不害意なり。丁ど一騎當千の勇士と挙て書く如し。
【解説】
前漢の人は規模が大きいが、後漢の方が聖賢の肌を持った人が多い。郭林宗が雨宿りをしている茅容の行儀がよいのに感心した。彼の家に泊まることになったが、朝に鶏を母に食わせ、他の者には草蔬を出した。やがて茅容は成徳した。
【通釈】
「茅容与等輩避両樹下云々」。野沢十九郎が、前漢よりも後漢によい人が多いと言った。これが人の言わないことだがよく見たもの。前漢の人は規模が大きいので後世よく人も知っているが、後漢の人は小振りなので知る者が少ない。しかし、道理のずっしりとした方で聖賢の心に叶った処がよい。東漢の名節と言うのもそれ。義理から発した、我知らずに聖賢の肌を持った人が後漢には多い。「郭林宗行見之奇其異云々」。雨宿りの馬士や商人の中で格段に行儀がよいのを珍らしく思われて、共に話された。「因請寓宿」は、郭林宗が旅先のことだったので宿を茅容に請うたのである。「旦日容殺鶏云々」。「為己設」は、人情でそう思う筈のこと。「以草蔬与客同飯」。庭の萱草でも御浸しにしたのだろう。そこで郭林宗が昨日の雨宿りの時の行儀と今朝の鶏のことを思い合わせて格別に感じて拝礼した。「成徳」は重い文字だが、これは徳のある一疋の男となったということ。「以文不害意」である。丁度一騎当千の勇士と挙げて書く様なもの。
【語釈】
・野沢十九郎…野澤弘篤。十九郎と称す。江戸の人。佐藤直方門下。初め菅野兼山に学ぶ。
・以文不害意…孟子万章章句上4。「不以文害辭、不以辭害志」。


善行59
○陶侃爲廣州刺吏。在州無事、輒朝運百甓於齋外、莫運於齋内。人問其故。答曰、吾方致力中原。過爾優逸、恐不堪事。其勵志勤力、皆此類也。後爲荆州刺吏。侃性聦敏、勤於吏職。恭而近禮、愛好人倫、終日歛膝危坐。閫外多事、千緒萬端、罔有遺漏。遠近書疏莫不手答、筆翰如流。未嘗壅滯。引接疏遠門無停客。常語人曰、大禹聖人、乃惜寸陰。至於衆人、當惜分陰。豈可逸遊荒醉。生無益於時、死無聞於後、是自棄也。諸參佐或以談戲廢事者、乃命取其酒器蒱博之具、悉投之于江。吏將則加鞭扑。曰、樗蒱者牧猪奴戲耳。老莊浮華非先王之法言、不可行也。君子當正其衣冠、攝其威儀。何有亂頭養望、自謂弘達耶。
【読み】
○陶侃[とうかん]、廣州の刺吏爲り。州に在りて事無ければ、輒ち朝に百甓を齋外に運び、莫に齋内に運ぶ。人其の故を問う。答えて曰く、吾方に力を中原に致さんとす。過爾として優逸せば、事に堪えざらんことを恐る。其の志を勵し力を勤むること、皆此の類なり。後、荆州の刺吏と爲る。侃、性聦敏にして、吏職を勤む。恭にして禮に近づき、人倫を愛し好み、終日膝を斂めて危坐す。閫[こん]外多事、千緒萬端、遺漏有る罔し。遠近の書疏手ずから答えざること莫く、筆翰流るるが如し。未だ嘗て壅滯せず。疏遠を引接して門に停客無し。常に人に語りて曰く、大禹は聖人なるに、乃ち寸陰を惜しむ。衆人に至りては、當に分陰を惜しむべし。豈逸遊荒醉す可けんや。生きて時に益無く、死して後に聞ゆる無きは、是れ自ら棄つるなり、と。諸參佐或は談戲を以て事を廢する事は、乃ち命じて其の酒器蒱博[ほはく]の具を取り、悉く之を江に投ず。吏將は則ち鞭扑を加う。曰く、樗蒱[ちょほ]は牧猪奴の戲れのみ。老莊の浮華は先王の法言に非ず、行う可からざるなり。君子は當に其の衣冠を正し、其の威儀を攝むべし。何ぞ亂頭養望し、自ら弘達なりと謂うこと有らんや、と。

○陶侃為廣州刺吏云々。朝運百甓於斉外は、御役やしきに瓦のありしを、御役さきの暇な時はそれを書院の外となどへ運はれた。これは何の為めか知れぬゆへ、人問其故なり。馬や擊劍は人も怪まぬこと。又庭のうへ樹の虫取ることなどは有るはづ。甓を運ぶは訳か知れ子は乱心の沙汰なり。○答曰吾方致力中原。自分は今御役の外に了簡ありと云。致力中原はいつも々々々はない。此の事この後は朱子の時にあることなり。偖東西晋あり。西晋の末石勒に没せられ、陶侃か時は東の方へ逐ひ掠められ、天下はなからはんじゃくの太平なり。元来夷狄は百代必報の讐なり。朱子の一生和議を弁するも力を中原に致もそれなり。陶朱同じ志なり。そこで甓を運ひ筋骨を丈夫にすとなり。○過爾はうか々々。○優。野々宮高砂。○逸。月花てくらす。それでは一大事の時役に立ぬゆへ勵志勤力と云。これは甚しひ忠節と思ふべし。當分よして萬々年云て仕舞ふものなり。病も当分よいと山帰来で根をきらぬものなり。陶侃は當分よして目出度々々々とは云はぬ。朱子と並べる人ではなけれとも、中原の歒討の志が同しことなり。
【解説】
「○陶侃爲廣州刺吏。在州無事、輒朝運百甓於齋外、莫運於齋内。人問其故。答曰、吾方致力中原。過爾優逸、恐不堪事。其勵志勤力、皆此類也。後爲荆州刺吏」の説明。陶侃は役先で暇な時は百甓を運ばせた。当時の東晋は小康の状態だったが、陶侃はそれでよいとはしなかった。筋骨を丈夫に保ち、夷狄に備えた。
【通釈】
「陶侃為広州刺吏云々」。「朝運百甓於斎外」は、御役屋敷に瓦があったのを、御役先が暇な時はそれを書院の外などに運ばれた。何のためにそれをするのかが知れないので、「人問其故」である。馬や剣術であれば人も怪しまない。また、庭の植木の虫を取ることなどはある筈。しかし甓を運ぶのは、わけを知らなければ乱心の沙汰である。「答曰吾方致力中原」。自分は今の御役の外に了簡があると言った。致力中原はいつものことではなく、その後は朱子の時にあった。さて東西の晋があった。西晋の末は石勒に没せられ、陶侃の時には東の方へ逐い掠められ、天下は中途半端に太平な時だった。元来夷狄は百代必報の讐である。朱子が一生和議を弁じたのも力を中原に致すのも同じで、陶朱は同じ志である。そこで甓を運び筋骨を丈夫にすると言った。「過爾」はうかうかとしたこと。「優」。野々宮高砂。「逸」。月花で暮らす。それでは一大事の時には役に立たないので「勵志勤力」と言う。これは甚だしい忠節だと思いなさい。当分がよければ万々年と言って済ますもの。病も当分よいと山帰来で根を切らないもの。陶侃は当分はよくても目出度いとは言わない。朱子と並べる人ではないが、中原の敵討の志は同じこと。
【語釈】
・なからはんじゃく…半ら半尺。中途半端。いい加減。

○聦敏勤於吏職。いかいことはたらかずとも埒のあく才を聦敏と云。耳へ入が早ひか首をひ子らずに作略がなる。吏職は、小役人の職なり。勤は奉行は吏とは違へども、そこを骨を折てする。ここが面白ことなり。奉行はだた井大さわやかで善い。それは上の聦敏にあつかること。偖又英雄豪傑と云ま子をするが、高くかかりて吏職に情が出ぬゆへ下のことが奉行の耳へ入らず下情通ぜぬ。役人のぬけがそこなり。大きな百姓か作人に計りまかせるか、自身耟[くわ]を取らずとも雪駄て見まわりても違ふ。こせ々々はわるいが、勤は生き々々とした所を云。迂斉の書き入に、勤吏職は天子でも云はれると云がよいなり。某か昔し云た説かと思ふ。無逸の篇に知稼穡艱難と幼君へ戒るが、これを国の本と気かつくと勤吏職なり。○恭而近礼。我を高ぶらぬ。これが奉行の大切なり。百姓は虫のやふに思ふあらは何と云こと。あとはらりになる。滕文公篇にも恭儉を云はるる。○愛好人倫。人倫を大切にするは理の上のことなり。陶侃人倫好きなり。人が花見の出がけへ叔母が来ると邪魔に思ふか、陶侃か花よりは叔母が面白と云。牡丹で飲より兄と飲むがむま井と云。臨時に君の御召が濱見物よりよいと云。○某嘗て云、陶淵明は陶侃が曽孫なり。好親戚之情話と云が祖孫の意一致なり、と。
【解説】
「侃性聦敏、勤於吏職。恭而近禮、愛好人倫、終日歛膝危坐」の説明。陶侃は聡敏だったが、吏職に励み高ぶることがなく、恭倹だった。また、人倫を愛した。
【通釈】
「聡敏勤於吏職」。大して働かなくても埒の明く才を聡敏と言う。耳へ入るが早いか首を捻らずに策略ができる。吏職は、小役人の職。勤は、奉行は吏とは違うが、そこを骨を折ってする。ここが面白い。そもそも奉行は大爽やかなのでよい。それは上の聡敏に与ること。さてまた英雄豪傑という真似をすると高く掛かって吏職に精が出ないので、下のことが奉行の耳へ入らず下情に通じない。役人の抜けがそこ。大きな百姓が作人にばかり任せるが、自身で鍬を取らなくても雪駄で見回りをするだけでも違う。こせこせするのは悪いが、勤は生き生きとした所を言う。迂斎の書入れに、勤吏職は天子にも当て嵌まるとあるのがよい。これは私が昔言った説かと思う。無逸の篇に「知稼穡之艱難」と幼君を戒めているが、これが国の本だと気が付くと勤吏職である。「恭而近礼」。自分を高ぶらない。これが奉行の大切である。百姓を虫の様に思うのは何ということか。後には台無しになる。滕文公篇にも「恭倹」とある。「愛好人倫」。人倫を大切にするのは理の上のこと。陶侃は人倫好きである。人は花見の出掛けに叔母が来ると邪魔に思うが、陶侃は花よりも叔母が面白いと言う。牡丹で飲むより兄と飲む方が美味いと言う。君の臨時の御召しが濱見物よりもよいと言う。私が嘗て言ったことだが、陶淵明は陶侃の曽孫である。「悦親戚之情話」というのが祖孫の意が一致したもの。
【語釈】
・知稼穡艱難…書経無逸。「周公曰、嗚呼、君子所其無逸、先知稼穡之艱難」。
・滕文公篇にも恭儉…孟子滕文公章句上3。「賢君必恭儉禮下、取於民有制」。
・好親戚之情話…帰去来兮辞。「悦親戚之情話、樂琴書以消憂」。

○閫外夛事云々。支配のことは伺ひことや公事のことがそこへやが上に来る。然るにそれ々々にあ井さつありて公事の流れになることはない。○遠近書疏云々。未嘗壅滞。復書がたまるもの。たまるとどふもうまらぬものなり。陶侃は気味のよいこと。事の上の曽点、明日のことにせふは天地にな井ことなり。某なども眞似るなれとも、ためぬ流義なり。爰か陶侃は知らぬが存養なり。事もすら々々行こと。天地も向ふへ々々々と滞らぬ。人の心術も天地と流行するがよい。○門無停客云々。つけもったいがあるもの。客を待たせるが不埒ではないが、人の難義すること。医者なども薬取を待たせぬがよし。
【解説】
「閫外多事、千緒萬端、罔有遺漏。遠近書疏莫不手答、筆翰如流。未嘗壅滯。引接疏遠門無停客」の説明。仕事は沢山あったが、それが滞ることはなかった。すらすらと事が進むが、それは存養からのこと。客を待たせることもなかった。
【通釈】
「閫外多事云々」。支配のことでは、伺い事や公事のことがそこへ弥が上に来る。それをそれぞれに捌いて公事が流れることはなかった。「遠近書疏云々」。「未嘗壅滞」。返事が溜まるもの。溜まるとどうも埋まらないもの。陶侃は気味がよい。事の上が曾点の様で、明日のことにしようと言うのは天地にはない。私なども真似るのだが、溜めないのが流儀である。それを陶侃は知ってするのではないが、これが存養である。事もすらすらと行く。天地も向こうへと進んで滞らない。人の心術も天地と流行するのがよい。「門無停客云々」。勿体ぶることがあるもの。客を待たせるのは不埒ではないが、人が難儀をする。医者なども薬取りを待たせないのがよい。
【語釈】
・閫外…閫は門の敷居。閫外で敷居の外。ここは任地。

○常語人曰大禹垩人乃惜寸隂。日の立つことを云。今ま縁がわに日があると思ふ、もふ蔭る。人寿百迠は長と思ふが、この坐して居るいくつの年の何月は二度はない。来年の三月廿一日は年をとりてのこと。今月今日只今は一生にこれぎりなり。光隂惜むべし。ぼでふりの情出していそくも利を取ふ為めなり。学者も情出すでぼてふりの肴腐らかさぬか如し。爰が文の昭應にて、前の百甓や聦敏がよめて来る。○逸遊荒醉云々。飲まぬ人か免ると思ふが大きな了簡ちかいなり。うっかりは醉ったも同しことなり。しらふの生醉と云がそれなり。実字ても假り字でも酒をもよふに云へり。○生無益於時。鷄は時、犬は門、人は格別益のある筈なり。○死無聞於後。実があれば後にきこへる。垩賢より達才英雄豪傑は皆後世へ知れる。五兵衛六兵衛も性善と云へとも、直方の云はるる渋紙のごわ々々するなり。あれも遂ひ後は只無なる。そこで陶侃が自分はつとめると云。これ迠は陶侃か語なり。
【解説】
「常語人曰、大禹聖人、乃惜寸陰。至於衆人、當惜分陰。豈可逸遊荒醉。生無益於時、死無聞於後、是自棄也」の説明。今日の時は二度と来ない今だけのものだから分陰を惜しむ。精を出さなければならない。人には五倫が備わっているのに「逸遊荒酔」では悪い。
【通釈】
「常語人曰、大禹聖人、乃惜寸陰」。日の経つことを言う。今縁側に日があると思っていると、もう陰る。人寿百までは長いと思うが、この座している幾つの年の何月は二度はない。来年の三月二十一日には年を取っている。今月の今日の只今は一生にこれ切りである。光陰惜しむべし。棒手振が精を出して急ぐのも利を取るためである。学者が精を出すのが、棒手振が魚を腐らせない様なもの。ここが文の照応で、前の百甓や聡敏が読めて来る。「逸遊荒酔云々」。飲まない人はこれを免れると思うのは大きな了簡違いである。うっかりは酔ったのも同じこと。素面の生酔いと言うのがそれ。実字でも仮り字でも酒を模様として言う。「生無益於時」。鶏は時、犬は門で、人には格別益がある筈。「死無聞於後」。実があれば後に聞こえる。聖賢から達才英雄豪傑までは皆後世へ知れる。五兵衛六兵衛も性善ではあるが、直方が言われる、渋紙のごわごわする様なもの。あれも遂にはただなくなる。そこで陶侃が自分は勤めると言った。これまでは陶侃の語である。

○諸参佐或以談戯云々。談戯が晋の災の本になる。七賢の徒老荘で笑て仕舞ふ。五胡乱蕐の基なり。八達の軰、面白くくらしたが晋の乱れの箇條になる。○廃事者云々。七賢もどきて遊ぶ方から御用をも家職をもすてる。そこを白眼んで酒器蒱博之具悉投于江なり。この時天下半分奪はれて江左に都す。これは御奉行のしたこと故外へもひひくなり。○吏將則加鞭扑。参佐は文を兼る吏。將は武ばかりなり。與力同心と云ものなり。官府の輕ひ吏をは鞭つ。鞭扑は古ひ刑にて尭舜のときからのこと。朝鮮人なとも成敗棒のあるがそれなり。○樗蒱者云々。今もうけて云ならん。猪を畜ふ輕ひ中間のすることを歴々のする筈はない。○牧猪奴を譯して今のことにして云へば、馬屋の奴がすることと云ものなり。○老荘浮蕐云々。晋の時体を知ら子ばすまぬ。老荘は異端なれとも孔子の向へまはるもの。然るに馬屋の奴の對に出すは晋の清談を云。老子は虚無なり。大道廃而有仁義と云て、仁義を守るは錠を下すゆへ、そこで盗人が入る。手を入れずに天なり次第が大道と云。そこを七賢八達が本尊にして酒を飲み花を見から道を得られると云。日用をせず実がな井ゆへ浮蕐なり。はやりで時めく老荘を出して置て、そこでほんのを見せる。
【解説】
「諸參佐或以談戲廢事者、乃命取其酒器蒱博之具、悉投之于江。吏將則加鞭扑。曰、樗蒱者牧猪奴戲耳。老莊浮華非先王之法言、不可行也」の説明。談戯が晋の災いの本である。老荘を本尊にする七賢八達を真似ては、日用をせず実がないから悪い。
【通釈】
「諸参佐或以談戯云々」。談戯が晋の災いの本になる。七賢の徒は老荘で笑って終えた。五胡乱華の基である。八達の輩は面白く暮らしたが、それが晋の乱れの箇条になる。「廃事者云々」。七賢を真似て遊ぶ方から御用をも家職をも捨てる。そこを睨んで「酒器蒱博之具悉投之于江」である。この時には天下を半分奪われて江左に都していた。これは御奉行のしたことなので外へも響く。「吏将則加鞭扑」。参佐は文を兼る吏で、将は武ばかりである。与力同心というもの。官府の軽い吏を鞭打つ。鞭扑は古い刑で堯舜の時からある。朝鮮人などにも成敗棒があるのがそれ。「樗蒱者云々」。今のを受けて言ったのだろう。猪を畜う軽い中間のすることを歴々がする筈はない。「牧猪奴」を訳して今のことにして言うと、厩の奴がすることというもの。「老荘浮華云々」。晋の事態を知らなければわからない。老荘は異端だが孔子の向こうへ回る者。それを厩の奴の対に出したのは晋の清談を指したもの。老子は虚無である。「大道廃而有仁義」と言い、仁義を守るのは錠を下ろすから盗人が入る様なもの。手を入れずに天のなり次第が大道だと言う。それを七賢八達が本尊にして酒を飲み花を見ることから道が得られると言う。日用をせず実がないので浮華である。流行で時めく老荘を出して置いて、そこで本当のものを見せる。
【語釈】
・八達…南朝の八達。胡母輔之・謝鯤・阮放・阮孚・畢卓・羊曼・桓彝・光逸。
・大道廃而有仁義…老子道経俗薄。「大道癈有人義、智惠出有大僞、六親不和有孝慈、國家昏亂有忠臣」。

○正衣冠云々。出所は入らぬやうなれとも、やはり論吾の字なり。垩人の正面な教に乱頭養望はな井。七賢迠はまだしもそふでなけれとも、二代目の八達は是なり。裸でちらし髪を弘達とする。世説に門をしめ戸を立て酒もりを始め人を入れぬ所を一人犬の穴から其席へ這出たを高致に云。それを気象のよ井と云はあまりたわけなり。偖て乱頭養望を講習餘筆の説に、北史魏収か傳、不羪望於兵壑、不待價於城市と云辞あり。然れば六朝の時の辞と見ゆ。望は意望のこころ、養はそだてをくの意にて安じをること。この中村氏の説か善けれとも、惜ひことには文字を説がわる井。それであの説でも片づかぬ。某が意、晋から南北朝の俗語なり。これが動かぬ説なり。斯ふ言ふあやと文字できめることでない。すべて俗語は字心では説かれぬ。なんのことなく高ひこと云て居たを養望と云。これを無理に譯文すれば乱頭のををちゃくものと云ことなり。元日にも寢て居て飲み、俗とは違ふと云て、それを気象が高ひと云て居るなり。
【解説】
「君子當正其衣冠、攝其威儀。何有亂頭養望、自謂弘達耶」の説明。養望は高いことを言っていることで、乱頭の横着者ということ。それを気象が高いと言うのは間違いである。
【通釈】
「正其衣冠云々」。出所は要らない様だが、やはり論語の字である。聖人の正面な教えに「乱頭養望」はない。七賢まではまだしもそうではなかったが、二代目の八達がこれである。裸で散らし髪なのを「弘達」とする。世説に門を閉め戸を立てて酒盛りを始め、人を入れない所を一人が犬の穴からその席へ這い出たことを高致に言う。それを気象がよいと言うのはあまりの戯けである。さて乱頭養望を講習余筆の説に、北史魏収の伝、兵壑に養望せず、價を城市に待たずという辞がある。それで六朝の時の辞と見える。望は意望の心、養は育て置くの意で安じていること。この中村氏の説がよいが、惜しいことには文字を説くのが悪い。それであの説でも片付かない。私の意は、晋から南北朝の俗語とするもの。これが動かない説である。こう言う綾と文字で決めることではない。すべて俗語は字心では説けない。何のこともなく、高いことを言っていたのを養望と言う。これを無理に訳文すれば乱頭の横着者ということ。元日にも寝ていて飲み、俗とは違うと言って、それを気象が高いとする。
【語釈】
・正衣冠…論語堯曰2。「君子正其衣冠、尊其瞻視、儼然人望而畏之、斯不亦威而不猛乎」。
・中村氏…中村蘭林?名は明遠。字は子晦。深蔵と称す。別号は盈進斎。江戸の人。幕府儒官。宝暦11年(1761)9月3日没。年65。稲葉迂斎門下。

講後曰、三つ子の魂百迠と云が、某乳を飲むとき乳へ明りの指して見へるに、兄が母へなにやら物を食はふと云ふを、母が此かしらが、かしらはつむりを指て形容す。眠りてからと云はるるを某聞て、心にをれが食ふと云ははこそと邪念を起して快よからず。又或時七つ計りの頃でもあろふが、印篭を我が弄びにするを永野喜右衛門か菓子と人形をもて印篭と取りかへんとせしを、心に我をあざむいてたぶらかすと憤りて、彼の印篭を取てほふり投げて跡て母に訶られたことあり。三つ子の魂六十迠と云が、今六十に及べとも其意が未去らぬ。偖又迂斉の某へ笑なから云はるるに、すら々々はならぬかと戒められき。某前より兎角滞る方なり。○初のことがのかぬものにて、好色の筋なとでも、髪を撫鬢などの仕やふか年よりてもあぢに昔のとりなりをするもの。小児から心術の吟味が尤なことなり。
【解説】
三つ子の魂百までで、とかく幼時のことを忘れないもの。そこで、小児から心術の吟味をしなければならない。
【通釈】
講後に言った。三つ子の魂百までと言うが、私が乳を飲む時分、乳に明かりが差して見え、兄が母へ何やら物を食おうと言うのを、母がこの子が、かしらはつむりを指して形容したもの。眠ってからと言われたのを私が聞いて、内心で俺が食うと言うからその様に言うのかと邪念を起こして快くなかった。また或る時七つばかりの頃だっただろうか、私が印篭を弄んでいるので、永野喜右衛門が菓子と人形を持って来て印篭と取り替えようとした。そこで、自分を欺いて誑かすと内心で憤り、あの印篭を取って放り投げ、後で母に訶られたことがある。三つ子の魂六十までと言うが、今六十に及んでもその意が未だに去らない。さてまた迂斎が私に笑いながら言われるに、すらすらはできないかと戒められた。私は前からとかく滞る方である。初めのことが去らないもので、好色の筋などでも、撫鬢などの仕様が年が寄っても妙に昔の形振りをするもの。小児からの心術の吟味が尤もなこと。
【語釈】
・つむり…頭。
・永野喜右衛門…唐津藩の臣。稲葉迂斎門下。