黙斎冬至文一講

黙斎先生冬至文講義 天明六年丙午十一月朔日
  朱批亦信    花澤文次
【語釈】
・天明六年…1786年
・丙午…「ひのえ・うま」と読む。
・朱批…朱批とは、上の人が目を通し、要すれば書き込みをすること。
・亦信…稲葉黙斎の諱は正信、幼名は又三郎である。正信の「信」と又三郎の「又(亦)」で黙斎を指す。
・花澤文次…林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1817

佐藤先生冬至文。この文、當年七十一年になるなり。先ず斯ふ言がをかしきことの様なれとも、感慨あり、又、趣向あることぞ。直方先生晩年の文なり。冬至の文と云ても冬至に付たことでなく、冬至に書たゆへ冬至の文と云なり。この文、三人の當て処が有て書たぞ。其三人の歴々はこれを遺言のやふにして、迂斎先生死去の年まで、冬至には此文を讀んだことなり。然れば冬至には讀むべきことなり。讀べき義なれば誰でも讀ことはなることなれとも、形をして善ひこともあり、形をしてわるいこともあるなり。朝起をするの類は形でして益あり。爰が、某が見所なり。親のまねをして先生ぶり、誠もなくて亡父もかやふなどと尤づくめをすることあし。此文を冬至に讀はいとやすいことなれとも、爰ばかりが形になりては心術の病なり。我師のこと、我親のことで毎年冬至に讀と云ふも、そふも有べきことと云ひそふなことなれとも、道学は心術のことで、某が誠意正心もせいで、三人の歴々の跡ついた顔で只かたでして、冬至にきっと讀まふと思ふはいやなことなり。されとも、今日のやふに學友集會の定日が幸ひ冬至に當ては只通すことでもなく、これを讀も今日に限ったことなり。
【解説】
冬至文は佐藤直方晩年の作であり、迂斎・剛斎・隱求という三人の弟子のために書いたのである。この三人は冬至文を直方の遺言の様に思って大事にし、冬至の日にはこれを読んでいた。だから、我々も冬至には冬至文を読むべきである。冬至文は誰でも読むことはできるが、ただ形だけで読んではならない。真似は悪い。師や親などのことを慕って冬至文を読むよりも、道学は心術のことなのだから、自分のために読まなければならない。
【通釈】
佐藤先生冬至文。この文は今年で七十一年になる。最初にこの様なことを言うのは可笑しい様だが、感慨深く、また、趣向のあること。冬至文は直方先生の晩年の文である。冬至の文と言っても、冬至に関したことが書かれているのではなく、冬至の日に書いたから冬至の文と言う。この文は三人の目当てがあって書いた。その三人の歴々はこの冬至文を遺言の様にして、迂斎先生は死去の年まで冬至にはこの文を読んでいた。よって、我々も冬至には冬至文を読むべきである。冬至文は読むべき文だから、誰でもこれを読むことはできるが、しかし、形ですることに善いこともあり、逆に、悪いこともある。早起きをする様な類は人真似でしても益がある。ここが私の見処である。親の真似をして先生ぶり、誠もないのに亡父もこの様に言っているなどと尤もらしいことを言うのは悪い。この文を冬至に読むのは簡単なことではあるが、形だけで読むのは心術の病である。我が師のことを思い、我が親のことを思って毎年冬至に冬至文を読むのも、それも当然なことだと言えそうなことではあるが、道学は心術のことだから、自分が誠意正心もしないで、三人の歴々の跡を引き継いだ顔をして、ただ形だけで、冬至には必ず読もうと思うのは嫌なこと。しかし、今日の様に学友集会の定例日が幸い冬至に当たっては、読まないわけにもいかないので読むが、それは今日に限ったことである。
【語釈】
・誠意正心…大学章句首条。「古之欲明明德於天下者…欲脩其身者先正其心。欲正其心者先誠其意。欲誠其意者先致其知。致知在格物(古の明徳を天下に明らかにせんと欲せし者は…其の身を修めんと欲せし者は、先ず其の心を正しくせり。其の心を正しくせんと欲せし者は、先ず其の意を誠にせり。其の意を誠にせんと欲せし者は、先ず其の知を致せり。知を致すは物に格るに在り)」。格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下を大学八條目、明明徳・親(新)民・止至善を大学三綱と言う。

この文は直方先生一生の骨髄なり。皆々直方先生の孫弟子なり。すれは此れを不断心にして學ぶべきことで、骨髄にここを心懸やふことなり。毎年先例を以て冬至に読ふと思より、毎日この心得がよいぞ。これがなぐさみ學問でなく、其事が此のうちにあるぞ。さて、この文が微塵も冬至に付たことではないが、しかしながら、あとから謂へば冬至にあづからぬことでもないぞ。冬至は如此十一月の寒ひ最中にかかり何も無ひ時で、種も蔵に仕舞て何も出来ぬが、今日一陽来復して、是が来年の仕事の真っ始なり。今日人にも一陽来復せぬものはないぞ。人が本心を失ったなれとも脉はあるぞ。其脉の切れぬ所が性善なり。ここから性善の種をみがくことぞ。今、艸木も落葉して是限りと思ふに、其寒ひ最中に一陽来復してここから何もなることなり。気質変化と云も一陽来復からなり。其一陽来復よりして気質変化に至るも、性善の脉のある所なり。それで此日は学問を仕上る基になるゆへ、大切と思ふことなり。冬至は俗人も目出度と云が、学者の方は格段と目出度なり。これより取立て々々々、聖賢に至ることなり。
【解説】
冬至文には直方の真髄がある。直方の系統の者は、日頃から冬至文を学ぶ様に心得なければならない。冬至文は冬至について語ったものではないが、全く冬至に関係が無くもない。冬至は一陽来復の時であって、それは人も例外ではない。人は今本心を失ってはいるが、誰にも天から賦与された性善を持つから、その性善を磨かなければならない。学者にとって冬至の日は、学問の出発点として大切な、目出度い日なのである。
【通釈】
この文は直方先生一生の真髄である。皆は直方先生の孫弟子である。そうであれば、冬至文を絶えず心に入れて学ぶべきであり、それを深く心懸けなければならない。毎年、先例に則して冬至に読もうと思うより、毎日この様に心懸けるのがよい。それが慰み学問ではないと言うことで、その理由は冬至文の中にある。さて、冬至文は少しも冬至について語ったものではないが、しかしながら、後で考えると冬至に関係の無いことでもない。冬至はその字の通り、十一月の寒い最中に当って何も無い時で、種も蔵にしまわれて何もできないが、今日が一陽来復して、来年の仕事の出発点となる。今日の冬至に、人に関しても一陽来復とならない者はいない。人は今本心を失ってはいるが脉はある。その脉の切れない所が性善である。冬至から性善の種を磨きなさい。今、草木も落葉してこれ限りで終わりだと思うが、その寒い最中に一陽来復して、ここから何もかもができる。気質変化というのも一陽来復から始まる。その一陽来復から気質変化に至るのも、性善の脉があるからである。それで、この冬至の日は学問を仕上げる基になる日となるのだから、大切な日だと思いなさい。冬至は俗人も目出度いと言うが、学者の方にとっては格段に目出度い。これから色々と話すが、それは聖賢に至ることを言うのである。
【語釈】
・一陽来復…陰がきわまって陽がかえってくること。陰暦11月または冬至の称。冬が去り春が来ること。悪い事ばかりあったのがようやく回復して善い方に向いてくること。
・性善…易経繋辞上伝に「一陰一陽之謂道。継之者善也。成之者性也(一陰一陽之を道と謂う。之を継ぐ者は善なり。之を成す者は性なり)」とあり、孟子滕文公章句上1に「孟子道性善、言必稱堯舜(孟子性善を道[い]い、言えば必ず堯舜を称す)」とある。

道之廃而不行猶擔物捨置地上也。
學問は性善を仕立ることなれとも、道学が廃れたなり。そこで性善を仕立ることならぬ。道の廃れたと云は衰世のことなり。それで先つ衰世のことを云ぞ。道は天地自然で無ならぬものなり。為尭不存為桀不亡と云て、尭舜の為めにふへもせず、桀紂の為めに無なりもせぬなり。道は天地自然に流行して無ならぬ。人にかまわぬものなり。それで一陰一陽謂道と云ぞ。学者の方で目を覚すことなり。道は人が得ねばすたれるぞ。人が道を得ることなり。天地はいつもへらぬ。人が得ねば廃れることなり。非道弘人なり。人がすてて置ゆへ道がすたれるが、そこを人が得ると道が行はれるぞ。

【解説】
学問とは天から人間に賦与された性善を磨くことであるが、道学が廃れているのでそれができない。道が廃れると言うのは衰世のことである。道は天地自然に人に構わず流行する。しかし、道は人が得なければ廃れる。道の興廃は、人次第なのである。
【通釈】
「道之廃而不行猶擔物捨置地上也」。学問は性善を育て上げるものであるが、今は道学が廃れてしまっているので性善を仕立てることができない。道が廃れるとは衰世のこと。そこで先ず衰世のことから話す。道は天地自然で無くならないもの。道は「為堯不存為桀不亡」と言って、堯舜のために増えることもなく、桀紂のために無くなりもしない。道は天地自然に流行して無くならず、人には構わないもの。それで「一陰一陽之謂道」と言うのである。学者の方が目を覚まさなければならない。道は人が得なければ廃れる。人が道を得るのである。天地は減ることのない、絶えず一定なものである。しかし、道は人が得なければ廃れる。「非道弘人」なのである。人が捨てて置くので道が廃れるが、そこを人が得ると道が行われるのである。
【語釈】
・為尭不存為桀不亡…荀子天論篇。「天行有常。不爲堯存、不爲桀亡(天行常有り。堯の爲に存せず、桀の為に亡びず)」。
・尭…中国古伝説上の聖王。陶唐氏。名は放勲。
・舜…中国の古代説話に見える五帝の一。虞の人で、有虞氏という。
・桀…夏の最後の君主。
・紂…殷王朝の最後の王。紀元前11世紀頃の人。殷紂。紂王。
・一陰一陽謂道…易経繋辞上伝。「一陰一陽之謂道。継之者善也。成之者性也(一陰一陽之を道と謂う。之を継ぐ者は善なり。之を成す者は性なり)」。
・非道弘人…論語衛霊公29。「子曰、人能弘道、非道弘人(子曰く、人能く道を弘む。道、人に弘むるにあらず)」。

四書、近思録を蔵え仕舞て置は廃れたなり。書物屋は沢山書をつんで置ても行れぬ。あれが廃れたなり。行はれるとはいはれぬぞ。率性謂道と云も、率性へば道がすたれぬぞ。廃れると云が、うちやりて置からなり。茶をせぬものの茶器、下戸のちろりなり。ちろりを上戸は捨ぬぞ。下戸の内でもなくなりはせぬが、用ひぬなり。碁を打ぬ者の所では碁盤を蹈臺にするぞ。道之廃而不行は、道を得る人の無い端的を云ふなり。道は春夏秋冬の運行する様にいつもあれとも、其道理を得るものの無いが廃れたなり。中庸に道其不行。夫が衰世を云なり。この道之廃而不行があの文字なり。
【解説】
性善を磨くための書物も、それを読んで学ばなければ役には立たず、道が廃れる。道が廃れるのは道を放置するからであり、茶を嗜まない者の茶器、下戸のちろり、碁を打たない者の碁盤と同じである。「道之廃而不行」は中庸の「道其不行」と同じであり、衰世を指す。
【通釈】
四書近思録を蔵にしまって置くのは道が廃れたということ。書物屋では書を沢山積んで置いてあるが、道は行われない。それが廃れたということで、道が行われるなどと言うことはできない。「率性之謂道」と言うのも、性に率えば道が廃れないということである。廃れると言うのは、放って置くからである。茶をしない者の茶器や下戸のちろりと同様である。上戸はちろりを捨てない。下戸の家でもちろりを失くしたりはしないが、使わない。碁を打たない者の所では碁盤も踏台にする。「道之廃而不行」とは、道を得る人がいないことを端的に言ったこと。道は春夏秋冬と運行する様に何時もあるが、道の道理を得る者が無いのが廃れたということである。中庸に「道其不行」とあるが、それが衰世のことである。道之廃而不行は、中庸の文字と同じである。
【語釈】
・四書…「礼記」中の大学・中庸の二編と、論語・孟子の総称。五経《易経(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・礼記・春秋(左氏春秋)》とともに儒学の枢要の書。
・率性謂道…中庸章句1。「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂教(天の命ぜる、之を性と謂う。性に率う、之を道と謂う。道を修むる、之を教と謂う)」。
・ちろり…銚釐。酒を暖めるのに用いる銅・真鍮または錫すず製の容器。
・道其不行…中庸章句5。「子曰、道其不行矣夫(子曰く、道は其れ行われざるかな、と)」。

猶擔物捨置地上也は、直方先生的切のたとへを云へり。凡そ譬は多くあとで云ことなれとも、ここはいつものやふな譬へでなく、初手から譬を出して云は、これが曾子任遠と云語で言ひとめる意ゆへ、擔物の譬でとめることで、此文はこの譬で貫て置ことなり。擔物が入用なたとへで、始終の目星なり。それで擔物を重く説がよいぞ。擔物は荷物なり。荷物と云からは、重ひもので譬るがよい。丁ど東海道公義のはやの様なものなり。あれを擔物にしたなり。上總で云へば上ヶ鳥なり。そのはやや上ヶ鳥を江戸から京まで、上總なれば江戸迠、向えもち行ねばならぬことなり。捨置地上と云は、上鳥が途に捨てあり、はやの状箱がそこに捨てあるやふなものなり。大切のものが捨てあるなり。
【解説】
冬至文を曾子の「任重而道遠」で締め括るのを受けて、擔物の譬えを出した。擔物とは冬至文を貫く重要な譬えであって、早飛脚の状箱や上ヶ鳥の様な物である。
【通釈】
「猶擔物捨置地上也」とは、直方先生は的切な譬えを言ったものだ。凡そ譬えは後で言うことが多いが、ここは通常の譬えではなく、また、最初に譬えを出した理由は、これを曾子の「任遠」の語で締め括る意があるからで、ここで擔物の譬えで括ることにより、冬至文をこの譬えで貫かせる意図があるのである。擔物は必要な譬えで、始終にわたる目当てである。よって、擔物を重く説くのがよい。擔物は荷物である。荷物と言うからは、重い物で譬えるとよい。丁度、東海道を走る公儀の早飛脚の荷物の様なものである。早飛脚の荷物を擔物と譬える。上総で言えば上ヶ鳥である。その早飛脚の荷や上ヶ鳥を江戸から京まで、上総であれば江戸まで、向こうへ持って行かなければならないことなのである。「捨置地上」と言うのは、上ヶ鳥が道に捨ててあったり、早飛脚の状箱が道に捨ててある様なこと。大切な物が捨ててあることを指すのである。
【語釈】
・曾子…孔子の弟子。春秋時代、魯の人。参は名。字は子輿。曾子と敬称。孝行を以て称せられた。前505~
・任遠…冬至文の最後に「任重くして道遠し」とあるのを指す。
・はや…早飛脚。江戸時代の飛脚の一。並飛脚が昼間のみであるのに対し、夜間も逓送した。早便。
・上ヶ鳥…鷹狩りをする鷹の餌になる小鳥のこと。多古村の例…多古村では、上ヶ鳥飼育のため小鳥の捕獲が禁止されていた。鷹匠が上ヶ鳥の調達に村々を巡回した。鷹匠がまわってくると、手伝いの人夫や捕らえた小鳥を江戸まで運ぶ人夫、また宿泊の準備などに多くの人手を必要とし、村では大変なことであった。
・状箱…書状を入れておく箱。

若有其人出於其時則任之而使不永墜地矣。
親義別序信よりして人が任するなり。其人は、擔物をかつくべき人が出れば、これは斯ふしてすてられぬと云はづのことなり。尭舜禹湯より孔曽孟まで打たてて人なり。其人と云が面白ひことで、天の筭用ではないなり。人と云が聖賢の徒で荷をかつくべき人なり。途へ捨置べきことでないぞ。孔孟より周程張朱の人が任の役にあたると捨て置れぬことなり。其任にあたってする人が無ひぞ。其人が出て任すると墜地さぬぞ。

【解説】
人には天から特別に与えられた親義別序信があり、そこから道を任じるのである。道を任じる人が世に現われると、道は捨てられたままではいない。堯舜禹湯より孔曾思孟までが「其人」であり、孔孟から周程張朱までの人も道を担う人である。しかし、今は荷を担ぐ任にあたる人がいない。
【通釈】
「若有其人出於其時則任之而使不永墜地矣」。「親義別序信」から人が道を任じるのである。「其人」とは擔物を担ぐべき人のことで、その人が世に現れれば、道は捨てられたままではいないと言う筈である。堯舜禹湯から孔曾思孟までをまさに其人と言う。其人と言うのが面白いことで、天の仕業ではない。「人」と言うのは聖賢の徒のことで、荷を担ぐべき人である。途に荷を捨てて置いてはならない。孔孟から周程張朱までの人が荷を担ぐ任にあたれば道は捨てて置かれない。今、荷を担ぐ任にあたって行動する人がいない。其人が出て道を任じれば、擔物を地に墜とすことはしない。
【語釈】
・親義別序信…孟子縢文公章句上4。「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無教、則近於禽獣。聖人有憂之。使契爲司徒、教以人倫。父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信(人の道有るや、飽食煖衣、逸居して教えらるる無ければ、則ち禽獣に近し。聖人之を憂うる有り。契[せつ]をして司徒たらしめ、教うるに人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序あり、朋友信有り)」。
・禹…中国古代伝説上の聖王。夏の始祖。鯀の子で、堯の時、治水に功をおさめ、天下を九州に分ち、貢賦を定めた。舜の禅譲を受けて位につき、安邑(山西省)に都し、国を夏と号した。洪範九疇を定める。
・湯…殷(商)王朝を創始した王。殷の始祖契より一四世目。
・思…子思。中国、春秋時代の学者。孔子の孫。伯魚の子。子思は字。曾子の門人。「子思子」23編を著す。「中庸」はその中の一編という。前483?~前402?
・周…周敦頤。北宋の儒者。宋学の大家の一。字は茂叔。濂渓先生と称。湖南道州の人。太極説を唱えて、宋学の宇宙論の確立に寄与した。著「太極図説」「通書」など。1017~1073
・程…程明道と程伊川。
・程明道…北宋の大儒。字は伯淳。河南洛陽の人。1032~1085
・程伊川…程頤。北宋の大儒。字は正叔。諡は正公。河南洛陽の人。1033~1107
・張…張載。北宋の儒者。字は子厚、横渠先生と称。関中(陝西)横渠鎮の人。1020~1077
・朱…朱子。朱熹。南宋の大儒。宋学の大成者。字は元晦・仲晦、号は晦庵・晦翁。1130~1200

今務聖學者乃擔夫也。
擔夫は学者をくるめて云ぞ。道は聖賢のことと云ふと遠ひが、たんてき、今そなた衆と云って、向ふに當てをして云ぞ。この務の字は我役にするなり。勤は其中にあたることで務と勤とは違ふぞ。勤は精出せなり。務は我仕事にしているなり。今日の人が、ちとたつさはって見やふと云はなくさめにするのなり。務は飛脚の首へ状箱なり。其状箱を人えはわたさぬぞ。荷物を主とするが擔夫なり。荷をかつきて途が行かれぬと云て、荷を捨ては擔夫でないぞ。扨ここがと云て、先生疂をたたいて曰、乃の字が直きに指して云ことで、是れが遁れかふはないのっ引ならぬことで、皆がこの擔物の人足なり。今日学問するものは、それをうちやりて置てはすむまいことなり。是がぬけさせぬ口上で、只の学でないことなり。学問を遠くからすることでなく、我擔物なり。

【解説】
「務」とは、道を自分の役にすることであって、「勤」とは違う。道を自分の主として担いでいくのが擔夫である。学問とは遠くのことをするものではなく、自らが荷を担うという、近いところにあるものなのである。
【通釈】
「今務聖學者乃擔夫也」。「擔夫」とは、学者を含めて言う。道は聖賢のことだと言えば遠くの話の様に思えるが、端的に今、お前たちと言う様に、向こうに目当てを持って言うのである。この「務」の字の意味は、自分の役にするということ。「勤」はそれに当たることで、務と勤とは違う。勤は精を出せということで、務は自分の仕事にしていること。今日の人が、少し携わって見ようと言うのは遊びである。務とは飛脚の首に状箱で、飛脚はその状箱を他人に渡しはしない。この様に、荷物を主にするのが擔夫である。荷を担ぐと先に進めないと言って荷を捨てるのは担夫でない。さてここが、と言って、先生が畳を叩いて言った。「乃」の字が直に擔夫を指す字であり、これが遁れることのできない抜き差しならないことであって、皆が擔物の人足なのである。今日学問をする者が荷を放置しておいては、それは済まないことである、と。これが学問から抜けさせないための口上で、聖学がただの学問でない理由である。学問は遠くからするものではなく、自らが荷を担うことなのである。

俗學之徒路中之游手耳何足望道之任乎。
游手はむだ手なり。游は游民の游なり。懐手してあるくなり。兎角あることで我役でないゆへ、ぶらりとして居るぞ。そのやふなものはすてるがよいなり。司馬遷の、司馬相如の、桺子厚杜子美のと云ものは、なくさみにあるくものなり。文章の冨の、風流のと云ふ斗りのことなり。擔夫と云は役屋舗のはっひを着たなり。温公のやふな大德でも、道にかかはらぬものはなぐさみ同前なり。夫で分限者でも歴々でも慰をしてをるものは、上ヶ鳥にはかたづけられるぞ。游手のものは、はやの、上ヶ鳥のと云ふ時は、蹴散らかして通るぞ。通りの邪魔になるからつきのけて通ること。今日の経学者も擔夫の中え入ることなれとも、道を任ぜぬものは寄せ付られぬことで、記章詞誦は勿論のこと、我黨の書を取あつかふても道を任ぜぬは皆俗儒なり。道の任がかけられぬぞ。斯ふ言はれて見れば、直方先生時分の學者も皆赤面することなり。あの時分はいかふ歴々もあれとも、かふ言が撰りぬいたことぞ。夫で。

【解説】
擔夫とは道を担う者であって、道に関わらない者は遊び人と同じである。慰みをしている者は、富貴や地位、芸術の高さにかかわらず、路中の游手である。経学に関しても、記誦詞章は勿論、道を任じない者は全て俗儒である。
【通釈】
「俗學之徒路中之游手耳何足望道之任乎」。游手とは無駄な手合。游は游民の游。懐手して歩く人たちである。よくあることで、自分の役目でないからと言ってぶらぶらとしている。その様な者は捨てるのがよい。司馬遷、司馬相如、柳子厚、杜子美などと言う様な者は、遊び歩く者である。文章が富んでいるとか、風流であるとかというだけのこと。擔夫とは役屋敷で法被を着た様な者である。温公の様な大徳ある人でも、道に関わらない者は遊び人と同じであって、それで、金持でも歴々でも慰みをしている者は、上ヶ鳥に片付けられる。早飛脚や上ヶ鳥が通るという時は、游手の者を蹴散らかして通る。游手の者は通りの邪魔になるから、彼等を突き除けて通るのである。今日の経学者も擔夫の中へ入る筈であるが、道を任じない者は寄せ付けられない。記誦詞章は勿論、我が党の書を取り扱っていても道を任じなければ皆俗儒である。彼等に道の任を任せることはできない。この様に言われてしまっては、直方先生の時分の学者も皆赤面することとなる。あの当時は歴々が大層いたが、この様に言うのが撰り抜いた言い方である。それで…。
【語釈】
・游民…職業もなく遊んでいる人。仕事もせずに遊んでいる人。のらくら者。
・司馬遷…前漢の歴史家。字は子長。前145頃~前86頃
・司馬相如…前漢の文人。字は長卿。四川成都の人。賦文学の大成者。前179~前117
・桺子厚…柳宗元。中唐の詩人・文章家。唐宋八家の一。字は子厚。河東の人。773~819
・杜子美…杜甫。盛唐の詩人。字は子美、号は少陵。洛陽の東、鞏県の人。律詩の完成者とされる。712~770
・役屋舗…役人がその役目に当った屋敷。
・温公…司馬光。北宋の政治家・学者。字は君実。山西夏県の人。司馬温公と略称。文正と諡。1019~1086
・分限者…金持。ものもち。ぶげんもの。
・経学…四書・五経などの経書を研究する学問。
・記章詞誦…大学章句序。「自是以來、俗儒記誦詞章之習、其功倍於小學学而無用、異端虚無寂滅之教、其高過於大學而無實(是(孟子没を指す)より以来、俗儒の記誦詞章の習は、其の功小学に倍すれども用無く、異端の虚無寂滅の教は、其の高きこと大学に過ぐるも実無し)」。記誦はいたずらに多くの文章を記憶し暗誦すること。詞章は苦労して修辞の巧みな詩文を作ること。

朝鮮李退渓之後欲負荷此道者吾未聞其人焉。
近来で一人を出したぞ。まづ、あの李退渓は知たものもないと云ほどのことなり。然るにこの一人を出さるること、甚たたぎりたることなり。李退渓のことは、自省録と、又、文集から見出して節要二十冊を出したなり。この二つで李退渓が知れるぞ。是が直方先生の眼力なり。自省録がさへたことはないが、朱子を丸で持った小手前な朱子なり。小手前と云が恥ぬ字なり。朱子を丸で小さく持たなり。

【解説】
有名ではない李退渓を冬至文に出したのが、直方の眼力の優れたところである。李退渓に関しては自省録と節要を読めば理解ができる。李退渓は朱子をそのまま小さくした様な人である。
【通釈】
「朝鮮李退渓之後欲負荷此道者吾未聞其人焉」。近来の中から一人を出した。李退渓は、まず日本では彼を知るものがいないという程度の人である。然るに、冬至文にこの李退渓を出されたのは、甚だ際立ったことである。李退渓のことは自省録と、また、文集から見出して節要二十冊を出しているので、この二つで彼がわかる。これが直方先生の眼力である。自省録には特に冴えたことが書かれているわけではないが、朱子をそのまま引き継いだ小手前な朱子が李退渓なのである。小手前と言っても恥じない字である。朱子を丸っきりそのまま小さく持ったのである。
【語釈】
・李退渓…朝鮮李朝の代表的儒学者。名は滉。字は景浩。真宝の人。陶山書院に拠って嶺南学派を興し、日本の儒学にも大きな影響を及ぼした。1501~1570
・自省録…李退渓著。
・文集…朱子著。
・節要…李退渓著。
・小手前…手前は腕前。技量。朱子を小さくした腕前。

又、李退渓の卓越の見があるぞ。節要の序に朱子の書を論語より善ひと云てあるぞ。是が見なり。だたい、論語の上と云は何もないことなり。なぜそれを論語より節要が能ひと云なれば、そこに訳がありて、論語は學者の飯の種になるぞ。論語を治るも専門の學、一部の論語で吾生業になり、只今大名の扶持になるも論語なり。先生、又疂をたたいて曰、一念之微、気味がわるいぞ。大名にかかへられるにも論語は媒になる。節要と云へば、節要とは何のことだと云はれるぞ。人に名さへ知らぬ処が骨髄ぞ。李退渓の平な口から理が行きぬけて、するどさにかく云たぞ。変んなことを云たが、見取なり。この冬至文でこのことを云も、これは入らぬことなれとも、皆に李退渓を近付にする為めなり。さて、直方先生の見の高いは、學問のことになりては、気質はちっとも出さぬぞ。其證拠は、朱子の後さへたは薛文靖なり。それは取らずに李退渓を取りたが直方なり。李退渓は、はねぬ人と云ほどのことなり。然るを李退渓を見出したが直方先生の眼なり。負荷は天秤棒でかづくなり。
【解説】
李退渓が節要の序で朱子の書を論語より善いと言うのは、彼の卓越の見からである。論語より優れたものはなく、論語一冊で大名の扶持となることができる。それにもかかわらず、節要の方が優れていると言うのは、大事なのは道を担うという一念だからである。直方先生は見が高く、学問に関しては気質を少しも出さなかったので、評価の高い薛文靖を採らずに、評価の低い李退渓を採った。
【通釈】
また、李退渓には卓越の見がある。節要の序で朱子の書を論語より善いと言っている。これが卓越の見である。大体、論語の上と言うものは何もない。それを何故、論語より朱子の書の方がよいと言うのかというと、そこには訳があって、論語は学者の飯の種になるからである。論語を修めることは専門の学問であって、一冊の論語だけで生業とすることができる。ただ今大名の扶持になるのも論語からである。先生がまた畳を叩き、一念がなければ気味が悪いと言った。大名にかかえられるにも論語は媒介となる。節要と言えば、節要とは何のことだと言われる。人に名さえ知られないのが李退渓の真髄である。李退渓の平らな口から理が行き抜けて、鋭く論語よりも朱子の書がよいと言ったのである。変なことを言ったが、これがこの見取りである。この冬至文でこの様な話は要らないことではあるが、皆に李退渓を近付けるために言った。さて、直方先生の見が高いところは、学問に関しては気質を少しも出さなかったところである。その証拠は、朱子の後に優れていると言われたのは薛文靖だが、それを採らずに李退渓を採ったのが直方だからである。李退渓は、目立たない人というほどのこと。それにもかかわらず、李退渓を見出したのが直方先生の眼力の優れたところである。「負荷」とは天秤棒で担ぐこと。
【語釈】
・一念之微…「一念之れ微[なかり]せば」。信念が無ければの意。
・薛文靖…薛徳温、薛敬軒。

吾未聞其人と云がなさけないことのやふなり。既に山崎先生が大器量、大学才で李退渓が上へぬけ、李退渓よりはばの廣いことなり。不聞其人と云が、是が直方先生のいかふ思召あることなり。山崎先生は器量と學才とはばとが李退渓の上へ越た人なれとも、ここが山崎先生はしんしゃくあることと見へたなり。近思の序も直方先生のかれこれ云て読まぬも気質についたことでなく、きっすいの処で、一分一点いかがと思ふては、直方先生の合点せぬことなり。大成と云は朱子、其後は李退渓一人と云は、あとからは心を付けて見るがよいぞ。山崎先生のことは、道理人情でも入れそふなことを、遠い朝鮮の人を出したと云は、直方先生の深い思召あることと窺ふて置ふことなり。
【解説】
李退渓よりも優れた山崎闇斎がいるにもかかわらず、李退渓の後に道を任じる者がいないと直方は言う。その理由は、闇斎がいくら優れていても、彼には問題があると直方が深く吟味したからである。ここで、闇斎の問題点とは神道に傾倒したことである。
【通釈】
「吾未聞其人」と言うのが情けないことである。既に山崎先生は大器量、大学才で李退渓より優れ、李退渓より幅が広いのだが、ここで不聞其人と言うのが直方先生の大層な思し召しあってのことなのである。山崎先生は器量と学才と幅とが李退渓の上を行く人ではあるが、山崎先生については斟酌しなければならないところがあると見える。直方先生が山崎先生の書いた近思録序をかれこれ言って読まないのも、気質に由るためではなく、生粋のところからのことであって、細かいところにも疑いが生じれば、合点することができないないからである。大成したと言うのは朱子で、その後は李退渓一人しかいないと言うことを、後で深く考えてみなさい。山崎先生のことは、道理人情からも其人の中に入れそうであるが、そこに遠い朝鮮の人を出したのは、直方先生の深い思し召しがあるものと推量すべきことである。
【語釈】
・山崎先生…山崎闇斎。江戸前期の儒学者。名は嘉。字は敬義。通称、嘉右衛門。別号、垂加。京都の人。初め僧となったが、谷時中に朱子学を学び、京都で塾を開き、門弟数千人に達した。後に吉川惟足に神道を修め、垂加神道を興した。1618~1682

中庸序所謂吾道所寄不越乎言語文字之間正謂此也。
道学をいざなふと、其人の身にあるなり。続不傳之學於遺経と云ぞ。朱子の我道之所寄と云は人の家に居るやふなものとなり。道統を得た人を道が宿にして居るぞ。道を得た人ないと、道は言語の上に宿る。ときに道を得ると云は、不傳の学を言語文字上にあるを続くなり。

【解説】
担う人がいないと、道は言語文字上に宿る。道学を学ぶことによって、学んだ人の身に道が宿る。道を得るとは、言語文字上にある不伝の学を引き継ぐことである。
【通釈】
「中庸序所謂吾道所寄不越乎言語文字之間正謂此也」。道学を誘うと、道が学ぶ人の身に宿る。これを、「続不傳之學於遺経」と言う。朱子が「我道之所寄」と言うのは、人が家に居るようなことだと言ったのである。道統を得た人を道が宿にしている。道を得た人がいないと、道は言語の上に宿る。道を得ると言うのは、言語文字上にある不伝の学を引き継ぐことである。
【語釈】
・吾道所寄不越乎言語文字之間…中庸章句序。「及其没而遂失其傳焉。則吾道之所寄、不越乎言語文字之間、而異端之説、日新月盛(其(孟子)の没するに及んで遂に其の伝を失う。即ち吾が道の寄る所は、言語文字の間に越えずして、異端の説は、日に新たに月に盛んにして…)」。
・続不傳之學於遺経…明道先生墓表。「得不傳之學於遺經(不傳の學を遺經に得)」。

我_邦、自古至于今欲任此道者幾人也耶。
神代は知らず、神武以来を云ことなり。至于今は七十一年前のことなり。直方先生の是が大口で言ことで無ひぞ。大切のことゆへに、一粒よりにしたものなり。斯言ふことは、李退渓が朱子の道を丸で傳へたと云眼からでなければ知れぬことなり。幾人也耶は、何ん人あるや、ありはせまいなり。語をゆるく云ことなり。

【解説】
日本で道を任じた者がいないとは、大口をたたいた様に思えるがそうではなく、慎重に評価しての結果である。
【通釈】
「我_邦、自古至于今欲任此道者幾人也耶」。「古」とは、神代はともかく、神武以来のことである。「至于今」とは、七十一年前のことである。ここは、直方先生が大口をたたいたということではない。大切なことだから、丁寧に吟味して言ったのである。この様に言うことは、李退渓が朱子の道をその通りに伝えたという着眼がなければ知ことはできない。「幾人也耶」は、何人あるか、ありはしないだろうということ。話を柔らかく言うこと。
【語釈】
・七十一年前…享保元年丙申。1716年。冬至文を書いた年。
・一粒より…一粒選り。一粒ずつ選り出すこと。多くの中から精選すること。

二三子有志於聖學矣乎無乎。
二三子はこなた衆なり。直に三人をさすぞ。有矣乎無乎はたいぜふをとることなり。扨ては、無乎もが善ひ問なり。御弟子衆へ託して云なり。朝鮮の李退渓へ目をつけろ。聖學は斯ふじゃとなり。並々は目を付けぬなり。唐崎彦明が直方先生文に不案内ゆへ、有志於聖学矣乎無乎の無乎がわるい、非邪と書そふなものじゃとなり。先年、某もそふと思ふたが、そふでないぞ。無乎と書は、これは反て古文とも云べし。周子の文などにもあることで、上の志の有無の二字で云ことで、あるかなきかを噺し出せと云ことなり。彦明があじなこと云たぞ、どふでもよいなり。彦明もちょと云たことなり。思ひ出せしままかたるなり。

【解説】
「有矣乎無乎」は、直接三人の弟子に託して言ったもので、「無乎」がよい問い方である。この「無乎」に関して唐崎彦明は「非邪」とするべきだと言ったが、「無乎」は古文にもある正しい文法なのである。
【通釈】
「二三子有志於聖學矣乎無乎」。「二三子」とはあなた方弟子衆のこと。直に迂斎、剛斎、隱求の三人を指す。「有矣乎無乎」は好きな方を撰ばせること。そこで、「無乎」と言うのが善い問い方である。弟子衆へ託して言ったのである。朝鮮の李退渓へ目をつけろ。聖学はこれだ、と言っているのである。普通の人では目を付けない。唐崎彦明が直方先生の文に不案内だったので、有志於聖学矣乎無乎の無乎が悪い、非邪と書きそうなものだと言った。かつて私も同様に思ったが、そうでない。無乎と書くのは、かえって古文に則るとも言うことができる。周子の文などにもある。上にある志を有無の二字を用いて、志が有るか無いかを決めなさいということ。彦明が味なことを言ったが、それはどうでもよい。彦明もちょっと言っただけである。思い出したままに語る。
【語釈】
・こなた…此方。相手を指す。あなた。
・たいぜふ…太上。最もすぐれたもの。極めて善いもの。最良。最上。極上。
・唐崎彦明…三宅尚斎門下。芸州竹原の人。黙斎の親友。彦明は伊勢長島藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せられたとき、黙斎はその救援に献身したという。なお竹原は頼山陽の出たところでもある。~1758

若果有其志則堅立脊梁骨可以願以學孔孟矣。
ほんとふに志があらは、只今のなりではすまぬ。仕直して出ろなり。脊梁骨は胴骨なり。道を荷ときたものゆへ、脊梁骨を丈夫にしやれなり。兎角、擔物が主になるぞ。擔物のことゆへ脊梁骨を堅立せよなり。是が道を荷ふきり々々の所ぞ。二程全書の、重擔子須是硬脊梁漢方擔行謝顕道の記憶の語から出たものぞ。あれを本にして書たことなり。語類にも引てあり。可以願以學孔孟矣は孟子が出所なり。所願學孔子なり。今日の人は目當てなしに、なんぞになろふと云のなり。こぎつける気はなく、どこぞでよかれなり。直方先生のは、孔孟の外はすてると云ほどに、胴骨を丈夫にせよなり。

【解説】
道を担う志があるのなら、脊梁骨を丈夫にしなければならないと言い、この文の出所が二程全書と孟子にあることを述べる。直方先生の脊梁骨は、孔孟の外は捨てると言うほどに強いものである。
【通釈】
「若果有其志則堅立脊梁骨可以願以學孔孟矣」。本当に志があるなら、今の心構えではいけない。仕直して来なさいということ。脊梁骨は胴骨のことである。道を荷にするのだから、脊梁骨を丈夫にしなさい。とにかく、擔物が主になるのである。擔物だから脊梁骨を堅立しなさい。そうするのが道を荷う極致である。二程全書にある「重擔子須是硬脊梁漢方擔行」の文は、謝顕道が記憶していた話から出たもの。それをもとにして直方がここに書いたのである。語類にも引用されている。「可以願以學孔孟矣」は孟子が出所で、「所願學孔子」からの語である。今日の人は目当てもなくて何らかの者になろうと言う。努力して目標に至る気はなく、どこでもよいと思う。直方先生の脊梁骨は、孔孟の外は捨てると言うほどに強いものである。この様に、道を担うものは胴骨を丈夫にしなければならない。
【語釈】
・脊梁骨…背骨。
・胴骨…胴の骨。あばら骨。度胸。きもだま。胆力。この場合は、胴を支える骨という意味で背骨とする。
・二程全書…程明道、程伊川の語録をまとめた書物。
・重擔子須是硬脊梁漢方擔行…程氏遺書3。「重擔子須是硬脊梁漢、方擔得(重擔子須く是れ硬脊梁の漢、方に擔い得べし)」。朱子語類35に「重擔子須是硬着脊梁骨、方擔荷得去」とある。
・謝顕道…謝上蔡。
・語類…朱子語類。1270年、南宋の黎靖徳が朱熹とその門人らとの問答を集大成し、部門別に分類した書。140巻。鎌倉末期にわが国に伝来。
・所願學孔子…孟子公孫丑章句上2。「乃所願、則學孔子也(乃[すなわ]ち願う所は、則[すなわ]ち孔子を学ばん)」。
・こぎつける…努力して目標に到達する。

曽子不云乎士不可以不弘毅任重而道遠仁以為己任不亦重乎
不云乎が、語意が面白くなるぞ。人の始めて聞たでないなり。なんのことないなれば、曽子曰と書ぞ。ふだんどれも熟して居るゆへ、不云乎と云なり。曽子がかく云はしゃれたではないか、皆なんと思ふと云意なり。直方先生の道をいさなえが冬至の文なり。御手前のことは云はず。この擔いやれ。其擔ふたものは朝鮮の李退渓じゃと云ふことが冬至の文で、初に云ふ通り、冬至のことは無ひぞ。其れを擔ふは弘毅でなければならぬと云ことなり。さて此文、づつまる処は弘毅の章なり。學者の任ここにあること。昔し、此弘毅の章を直方先生の読まれて、三宅先生の筆記が薀蔵録にあり、今年新発田になったぞ。各別にきめてをくべきことなり。

【解説】
弘毅の章は誰もが知っているので「不云乎」と言った。道を誘うのが冬至文の主意であり、担うのは李退渓の道であるが、弘毅でなければそれを担うことはできない。
【通釈】
「曾子不云乎士不可以不弘毅任重而道遠仁以為己任不亦重乎」。「不云乎」で語意が面白くなる。これは人が始めて聞く文ではない。何のこともなければ、「曾子曰」と原文通りに書く。普段から誰もがこの文を熟知しているから、不云乎と言ったのである。曾子がこの様に言われたではないか、皆何と思っているのかという意である。道を誘いなさいと言うのが、直方先生の冬至文の主意である。技量のことは構わず、早く担いなさい。その担ったものは朝鮮の李退渓だというのが冬至文であって、最初で言った通り、これは冬至の話ではない。それを担うには弘毅でなければならないということ。さて、この文の詰まる処は弘毅の章である。学者の任はここにある。昔、この弘毅の章を直方先生が読まれ、三宅先生がそれを筆記したものが韞蔵録にあり、今年新発田で出版された。弘毅の章は格別に理解しておかなければならない。
【語釈】
・士不可以不弘毅任重而道遠仁以為己任不亦重乎…論語泰伯8。「曾子曰、士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎(曾子曰く、士は以て弘毅ならずんばある可からず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す。亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや)」。
・づつまる…①小さくなる。また、短くなる。ちぢまる。②簡潔になる。まとまる。
・弘毅の章…論語泰伯8を指す。
・三宅先生…三宅尚斎。
・薀蔵録…韞蔵録。佐藤直方著、正編16巻、拾遺30巻、続拾遺6巻、四編5巻。
・新発田…新潟県北東部の市。もと溝口氏10万石の城下町。食品・衣類工業がある。ここは新発田藩のこと。
・板…出版。

曽子の生質きで、それからだん々々一貫を得たぞ。孔子の道をついたはそれぞ。曽子はうっとりとした人でなく、朱子の、勇気のある人となり。凡て大賢の勇気と云は、道を仕とげることなり。それで曽子の語がつよく出るぞ。士と云が學者のことなり。士農工商でないぞ。さて、かの擔物が弘毅でなければ荷はれぬことなり。どのやふなことなれば、弘は胸のひろいなり。只今云ふ胸の弘いは人の騒ぐことをさはがぬや、金銭をはっ々々と遣ふものを胸がひろいと云なり。それは素人細工なり。又、胸の弘いと云ふに高ぞれがありて、曽点の風と云ものがあるなり。皆それは気質のひろいなり。そふしたことでなく、全体、道理と云ものは廣大なものなり。それを胸へたたみこむことゆへ、胸がひろくなければならぬことなり。気質を馳走ヶ間敷云ことは、ふっつりばったりないことなり。これがいこふ深ひ味ひのあることで、論語を読むものが、それほどに見ぬぞ。
【解説】
曾子はのろまだったが、次第に一貫を得るようになった。彼は大賢の勇気を持った人物である。大賢の勇気とは、道を成し遂げること。ここの士は学者を指す。人が弘毅でなければ道を担うことはできい。弘とは胸が弘いこと。広大な道理を畳み込むので胸が弘くなければならないのである。世間で胸が弘いと言われるものは気質によるものであって、それは本物ではない。
【通釈】
曾子は生まれつきのろまだったが、それから段々一貫を得るようになった。孔子の道を継いだのは一貫だったからである。曾子はうっとりしとした人でなく、朱子は彼を勇気を持った人物であると言った。大賢の勇気と言うのは全て、道を成し遂げることである。それで曾子の語が強く出て来る。士とは学者のことで士農工商の士ではない。さて、あの擔物は弘毅でなければ担うことができない。弘毅とはどの様なことかと言うと、弘とは胸が弘いことである。今世間で言う胸が弘いとは、人が騒ぐ様なことに対して騒がなかったり、金銭をぱっぱと遣う者のことで、それを胸が弘いと言うが、そんなことは素人細工であって本物ではない。また、胸が弘いと言うと、高逸れて曾点の風と言うことがあるが、皆それは気質が広いのである。そうしたことではなく、道理と言うものは全体に広大なもの。それを胸に畳み込むので胸が弘くなければならないのである。気質を有り難がって言うことなどは絶対にない。これが大変に味わい深いことなのではあるが、論語を読む者がこの点をそれほど重視していない。
【語釈】
・魯…論語先進18。「柴也愚。參也魯。師也辟。由也喭(柴や愚。參や魯。師や辟。由や喭)」。
・一貫…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣(子曰く、參や、吾が道は一以て之を貫く。曾子曰く、唯。子出ず。門人問いて曰く、何の謂ぞや。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ)」。
・曽点の風…曾子の父。曾皙。孔子の門弟。論語先進26に、孔子が四人の弟子に「もしお前たちが認められたら、何をするつもりか」と尋ねると、他の三人が国政のことや礼楽のことを言うのに対して、曾皙は「春もたけてから、仕立て上がりの合服を着て郊外へ散歩に行きたいものです。若者が数人、他に子供も数人まじえて、沂水のほとりを歩いた後、舞うで風に吹かれて、歌でも歌って帰りましょう」と答え、孔子の賛同を得る。

信云、佛老など虚大なことを云は弘やふなれとも、得手不得手すききらいあれば弘でなし。聖人無適無莫大中至正行蔵用舎。たた道のまま。それを目當に弘なり。
【解説】
聖人に好き嫌いはない。聖人はただ、道のままに従うので弘である。好き嫌いがあっては弘ではない。
【通釈】
黙斎が言った。仏教や老荘が虚大なことを言うので「弘」の様に感じるが、彼等には得手不得手、好き嫌いがあるので弘ではない。聖人は無適無莫、大中至正行蔵用舎で、ただ道のままに従う。道を目当てにするから弘なのである、と。
【語釈】
・無適無莫…論語里仁10。「子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比(子曰く、君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義にこれ与に比しむ)」。
・大中…正蒙中正。「大中至正之極、文必能致其用、約必能感而通。未至於此、其視聖人恍惚前後、不可爲之像。此顏子之歎乎(大中至正の極、文なれば必ず能く其の用を致し、約なれば必ず能く感じて通ず。未だ此に至らざれば、其の聖人を視るに前後に恍惚として、像を爲す可からず。此れ顏子の歎ぜるところか)」。易経大有。「彖曰、大有、柔得尊位、大中而上下應之、曰大有(彖に曰く、大有は、柔尊位を得、大中にして上下これに応ずるを、大有と曰う)」。大中とは不偏不倚、偏らないこと。この上なき中正。
・行蔵用舎…論語述而10。「子謂顏淵曰、用之則行、舍之則藏。惟我與爾有是夫(子、顔淵に謂いて曰く、之を用うれば行い、之を舍[す]つれば蔵[かく]る。惟、我れと爾と是れ有るかな)」。

分限者が小い蔵でならぬ。なぜなれば、道具が多いからなり。ほんとふに道を胸へ疂みこむには弘くなければならぬぞ。生質を云ふてまぎらかすは、この弘ひにはづれたなり。道体はすんだが三年の喪はつとめられぬと云が曽点めいて高いやうなれとも、それでは弘ひでない。其つとめられぬと云がせまいなり。毅は何んでもつとめられぬと云ことのなく、つとめぬく丈夫ないじのつっはり。めげぬ。つよいのなり。是が気質の弘毅でなく、もしこれを気質の一事で弘毅な生れ付と云心得では、それは聖賢になる注文でないぞ。
【解説】
弘毅の「弘」は、大きな道を自分の胸に畳み込むのだから、その胸は弘くなければならないということで、「毅」とは、途中であきらめずに最後まで成し遂げることである。弘毅は気質によって成るものではない。
【通釈】
金持の蔵が小さくてはならない。それは何故かと言うと道具が多いからである。本当に道を胸へ畳み込むには胸が弘くなければならない。生質のことを言って紛らかすのは、弘から外れたことである。道体は済んだが三年の喪は務められないと言うのは曾点風で高い様であるが、それは弘でない。その務められないと言うのが、胸が狭いということ。毅とは、どの様な状態でも務められないということがなく、務め抜く丈夫な意地のつっぱりであって、めげないこと。強いということ。これは気質が弘毅なのではない。もしもこれを気質の一事によるものとして、弘毅な生まれ付きだからだと心得ているのなら、聖賢になりたいと思っても叶わないことである。
【語釈】
・道体…近思録道体を指す。
・三年の喪…論語陽貨21。「宰我問、三年之喪、期已久矣。君子三年不爲禮、禮必壞。三年不爲樂、樂必崩(宰我問う、三年の喪は期已に久し。君子三年礼を為さずんば、礼必ず壊[やぶ]れん。三年楽を為さずんば、楽必ず崩れん)」。

信云、禹稷陋巷も皆なるなり。直方云、我にすききらいと云ことはなしと。
【解説】
本来、人に違いはないが、無適無莫の体得が人の違いとなる。
【通釈】
黙斎が言った。禹稷も陋巷に住む人も同じ人間である、と。直方先生が言った。自分には好き嫌いがない、と。
【語釈】
・禹稷…「禹」については前出、夏の始祖。「稷」は舜の時代に農業を栄えさせた周の始祖。
・陋巷…論語雍也11。「子曰、賢哉囘也。一箪食、一瓢飮、在陋巷。人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉囘也(子曰く、賢なるかな囘や、一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず。囘や其の樂しみを改めず。賢なるかな囘や)」。

毅と云が、天地の大きな道理を得るには、弘ばかりでも毅でなければならぬなり。蔵が十間四方でも、財木が二寸三寸の小柱では、一昨日の風で潰れるぞ。毅の字のつよいと云は、大極柱や臼になる楠の、赤松のと云ものなり。番帒は大ひばかりで毅がない。毅と云は骨組が八寸角なり。弘は武蔵野の原なり。毅はへだらぬ。持ちこたへの実した処は、立臼のやふな太い柱なり。どのやふな風にも潰れぬぞ。毅の字が骨なり。大兵[だいひょう]な男が弱くては、ばん袋なり。弘毅の二つ揃はねばならぬぞ。気質へ持って行ってはすまぬことなり。某が発明なり。弘は大学八條目の皆あるを云。毅は其八條目を不残みんな身でするなり。それを仕とげるを云ぞ。世々の学者一條目ぎりなり。一色つつ吾得手方をきり取り、性の近ひ処からくるそれを弘とは云はれぬ。気質なり。
【解説】
毅とは立臼であり柱であって、強く支えること。骨の強いことである。ここで黙斎は、弘とは大学八條目を全部持つことで、毅とはその八條目を自らが実践することであると、弘毅についての新解釈を述べ、気質に頼ってはならないと言う。
【通釈】
何故、毅の話をするのかというと、天地の大きな道理を得るには、弘ばかりでは駄目で、毅がなければならないからである。蔵が十間四方でも、組んである材木が二寸や三寸の小柱では、一昨日の風で潰れてしまう。毅の字の強さをたとえれば、大極柱や臼になる楠や赤松である。番袋は大きいばかりで毅がない。毅は骨組みが八寸角である。弘は武蔵野の原である。毅はへたることがなく、その持ち堪える姿は、立臼の様な太い柱である。どの様な風にも潰れない。毅の字は骨が強いこと。大男も骨が弱くては番袋と同じである。弘毅は二つ揃わなければならない。しかし、弘毅を気質のせいにしてはいけない。次のことは私の発明である。弘とは大学八條目が全部あること。毅とはその八條目を残らず皆我が身で実践することで、八條目を成し遂げることを言う。代々の学者は一條目しか持っていない。自分の得意なその一種類だけを用いるが、その様に性に近いところから来るものを弘と言うことはできない。それは気質である。
【語釈】
・財木…日原以道真蹟本では「材木」。
・番帒…番袋。武士が宿直するときの用意に、衣服や寝具を入れた大きな袋。
・大兵…体の大きく、たくましいこと。また、そういう男。
・大学八條目…格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下。三綱は、明明徳、新(親)民、止至善。
・性の近ひ処…論語陽貨2。「子曰、性相近也、習相遠也(子曰く、性、相近し。習、相遠し)」。

任重道遠は、遠きは向へ遠ひでなく、一生のことを云ぞ。任は其の道理なり。一通でなく道理を皆得ることで、一の谷の坂落し限りでないぞ。あのやふなことを毎日するが一生のことなり。大ていよりがもとるぞ。それて今印可をもらったとて喜ぶは心得違なり。あとでわるくなるぞ。人間のからだにはうたれぬ。聖も不思則為狂なり。そこで、曽子も死ぬ時、今日にして免と云れた。仁以為己任。本心の全德は道のなりなり。道を得たなりあがりを孔門で仁と云なり。仕上けのことゆへ、これほど重いことはないそ。
【解説】
「任重道遠」は重い道理全てを一生涯かけて担うことで、それで、曾子は死ぬ間際に「今知免夫」と言ったのである。「仁以為己任」にある「仁」とは道の体得が成就した姿であって、これほど重いものはない。
【通釈】
「任重道遠」。「遠」とは、距離に関したことではなく、一生のことで、「任」とはその道理のことである。一通りすると言うのではなく、道理を全部得るのであって、一の谷の坂落しの様な一回限りのことではない。あの様なことを毎日するのが一生のことなのである。それで、大抵のことは縒りが戻る。よって、今印可を貰ったと言って喜ぶのは心得違いであって、後で悪くなる。人間の身体には銘を打つことはできない。聖人も「不思則為狂」である。そこで、曾子も死ぬ時に「吾知免夫」と言われた。「仁以為己任」。人の本心である全徳は道の姿である。道を得切ったところを孔子の門下では仁と言う。仕上げのことだから、仁ほど重いことはない。
【語釈】
・印可…仏が弟子の理解を承認すること。また、師僧が弟子の悟りを証明すること。允許。武道・芸道のゆるし。免許。
・銘…金属や石に刻み記したもの。
・不思則為狂…「思わざれば則ち狂と為る」。
・今日にして免…論語泰伯4。「曾子有疾。召門弟子曰、啓予足。啓予手。詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫、小子(曾子疾有り。門弟子を召びて曰く、わが足を啓け。わが手を啓け。詩に云う、戰戰兢兢として、深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し。今よりして後、吾れ免るることを知るかな、小子)」。

伯夷柳下惠は弘と云はれぬぞ。あれは一くせあるなり。それで桺下惠がことは伯夷がならぬ。又、桺下惠へ伯夷がことを持てゆくと、草臥てならぬと云なり。吾欲仁ここに仁至るの、或は、伯夷叔斉求仁得仁と云とあたりの別なことなり。この仁へこき上け、道理の至極へつめることなり。孔子は聖之時なる者也が仁なり。至極の処なり。太極の至極えつまり、仁の至極えつまるが只の任物でない。一通の重みでないなり。
【解説】
世間では伯夷と柳下恵が共に高く評価されているが、彼等は「弘」ではない。その理由は、伯夷は隘、柳下恵は不恭で、どちらも偏っているからである。仁とは道理の至極であって、そこに至ることが己の任であるが、それは並大抵な重みではない。
【通釈】
伯夷と柳下恵を「弘」と言うことはできない。彼等には一癖ある。それで、柳下恵の行いは伯夷が許さないし、柳下恵に伯夷の行いを持って行くと、くたびれて駄目だと言う。ここは、「我欲仁斯仁至矣」や「伯夷叔斉求仁而得仁」と言うこととは別な話である。ここは、この仁まで自分を引き上げて、道理の至極に行き詰めることである。「孔子聖之時者也」が仁であって、至極のところである。太極という至極へ行き詰め、仁という至極へ行き詰めるのだから、普通の物を任じる様なことではない。並み大抵の重みではない。
【語釈】
・伯夷…中国の古代伝説上の賢人兄弟。伯夷が兄,叔斉は弟。孤竹国の公子。周の武王が殷の紂王を討つのは不義であるとし、首陽山に隠れて蕨のみを食して餓死して清節を保ったという。
・柳下惠…魯の賢大夫。
・吾欲仁ここに仁至る…論語述而29。「子曰、仁遠乎哉。我欲仁、斯仁至矣(子曰く、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る)」。
・伯夷叔斉求仁得仁…論語述而14。「伯夷叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁。又何怨(伯夷叔斉は何人ぞや。曰く、古の賢人なり。曰く、怨みたるか。曰く、仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん)」。
・孔子は聖之時なる者也…孟子万章章句下1。「孔子聖之時者也。孔子之謂集大成(孔子は聖の時なる者なり。孔子を之れ集めて大成すと謂う)」。
・太極…中国で、易学から発し、宋学の宇宙論の中で重視された概念。天地がまだ分れない以前の宇宙万物の元始。宇宙の本体。万物生成の根元。周敦頤の「太極図説」、太極を気一元と捉える張載の太虚説、太極に理を想定する朱熹の理気説など。
*伯夷、柳下恵が弘と言われない理由…孟子公孫丑章句上9に、「伯夷隘、柳下惠不恭。隘與不恭君子不由也(伯夷は隘なり、柳下恵は不恭なり。隘と不恭とは君子由[よ]らざるなり)」とある。伯夷は正しい君主にしか仕えないとした。当時の諸侯は不義であると考えていたので仕えなかったのである。柳下恵は汚れた君主にも仕え、つまらない官職でも卑しいとは思わなかった。自分の賢才を隠さず、自分の執るところの道を主張してまげなかった。人のことは気にせず、自分の正しさを心がけた。孟子は万章章句下1で、「孟子曰、伯夷聖之清者也。伊尹聖之任者也。柳下惠聖之和者也(孟子曰く、伯夷は聖の清なる者なり。伊尹は聖の任なる者なり。柳下惠は聖の和なる者なり)」と、伯夷を清、柳下恵を和と述べている。

信云、ここに伯桺の事あるゆへ、得仁の処にもとるやふなり。地頭々々にみるべし。仁以為己任。第一等極致の処。伯の得仁はあの上にて云ことなり。顔曽は道統、伯桺は中庸心法と云はれず。これにてしるべし。
【解説】
「仁以為己任」は一番重要で極致のところである。伯夷と柳下恵は偏りがあるので中庸心法を実践しているとは言えない。
【通釈】
黙斎が言う。ここでは伯夷と柳下恵のことを言っているので、「得仁」という題目に戻る様だが、適宜に考えること。「仁以為己任」は第一等の極致の処。伯夷の得仁は、その上で語ること。顔回と曾子は道統の者だが、伯夷と柳下恵は偏りがあるので中庸心法の者とは言えない。そのことを、ここで理解しなさい。
【語釈】
・地頭…それぞれの場所、それぞれの場面。

死而後已不亦遠乎。
隠居して隙なは番に出ぬを云。そこを已むとは云はぬ。ぎゃっと生れて息を引とるまでのことなり。遠と云が、紅毛まで行くでなく、一生かかることなり。こちの胸へこれをたたみ込むことなり。この通りでなければ仁でないぞ。己が任が仁なり。曽子の勇と云も、孔子の道を丸で持ををせたことなり。この通りで無ればほんとふの道學でなく、この通り任ぜねば、ほんに任じたと云ものでないぞ。死而後已は、今而知免が行ついたと云て、がっくり息を引たなり。直方先生の、三人の衆をもこの処へつまることとしたなり。今迠思ふたとは、なんと格別なことなり。
【解説】
任じるとは一生のことで、その任じるものは仁である。曾子の勇とは、孔子の道をそのまま全て持ち通したことで、これを任じると言う。
【通釈】
「死而後已不亦遠乎」。隠居して暇なのは役目に出ないことであって、これを「已」とは言わない。「死而後已」とは、おぎゃあと生まれてから息を引きとるまでのこと。「遠」とはオランダまで行くことではなく、一生かかるということである。自分の胸にこの句を畳み込まなければならず、この通りでなければ仁ではない。「己任」が仁である。朱子の言う曾子の勇も、孔子の道をそのまま持ち通したことにある。この通りでなければ本当の道学ではなく、この通り任じなければ、本当に任じたことにはならない。「死而後已」とは、「今而知免」が行き着いたことであり、そこでがっくりと息を引き取ることである。直方先生は、三人の衆もまた、このところに至りなさいと、ここに示したのである。死ぬ時まで思い続けるとは、なんと格別なことではないか。
【語釈】
・亦…「示」の誤り。

豈悠々徘徊終歳月與夫游手浮浪之徒為伯仲哉。
悠々徘徊は、春向遊山に出たやふなは、學問の上では以の外なことなり。終歳月はいつの間にか親父になることで、世間の学者は皆遊山なり。浮浪はうきみだりなり。これは人別の外なり。あちへぶら々々、こちへぶら々々なり。伯仲は、それと兄弟ぶんになっては面白ないことなり。伯仲は似たことを云て一つ面らでいるなり。それではやくに立ぬぞ。

【解説】
今の学者は真剣に道を任じることをしないまま、歳を重ねている。游手浮浪の者と一緒になっていてはならない。
【通釈】
「豈悠々徘徊終歳月與夫游手浮浪之徒為伯仲哉」。「悠々徘徊」とは春に遊山に行く様なことで、学問の上では以ての外である。「終歳月」とは何時の間にか親父になることで、世間の学者は皆遊山である。「浮浪」は浮き乱れで、その様な人は無宿者と同じである。あっちへぶらぶら、こっちへぶらぶらとしている。「伯仲」と兄弟分になっては面白くない。伯仲とは、似たことを言って同じ様な顔をしていること。それでは役に立たない。
【語釈】
・人別…人別帳の略。人別帳は、江戸時代の戸籍簿。当初キリシタン吟味のために設けたが、享保(1716~1736)以後人口調査の目的で6年ごとに作成。これに記載されない者は無宿者とされた。

享保丙申冬至日直方書之與鈴木正義野田德勝永井行達以勵其志云。冬至の日、有感て世間を學と思はぬぞ。贈る相手があって書たなり。さて、直方先生の弟子も大勢あったなれとも、かね々々云はるる弟子と云ことでなく、をれがよびずてにするが弟子となり。浅見先生などは、ぎうさんにかまへたなり。直方先生の見どころがありて三人えをくられたなり。此あとの文は、直方先生の三人へ贈られた眼鑑の違はぬと云ことを、某が編集して出したなり。
【解説】
冬至文は、直方の目が確かで、しかも三人の弟子がいたから書かれたのである。その弟子とは、門下生の中で直方が呼び捨てにしている者である。ここの文は、直方の鑑識眼が正しかったことを、黙斎が付記したものである。
【通釈】
「享保丙申冬至日直方書之與鈴木正義野田德勝永井行達以勵其志云」。冬至の日、直方に感じるところがあり、世間の者を学ばせ様と思って冬至文を書いたのではない。贈る相手があって書いたのである。さて、直方先生にも弟子が大勢いたが、本当の弟子とは普段よく言われている弟子のことではなく、俺が呼び捨てにする者のことだと直方は言っていた。浅見先生などは、沢山の弟子を持っていた。直方先生は見所がしっかりとしていたので、冬至文をこの三人に贈ったのである。最後にあるこの文は、直方先生が三人に冬至文を贈られたことについて、その目利きの違わなかったことを、私が編集して出したものである。
【語釈】
・享保丙申…享保元年。1716年。

信云、外にもれき々々ありたれとも、此三人の德義たいはい、道を任するの付託にそむかぬ処、三四十年の後にさてもと知られぬるなり。
【通釈】
黙斎が言う。外にも優れた方々がいたが、この三人の徳義帯佩から、道を任じて欲しいとする直方の付託に背かなかったことが、三十年、四十年の後に、しっかりと知ることができる、と。
【語釈】
・德義たいはい…徳義帯佩。徳義は、道徳上の義理、道徳上の義務。帯佩は、身構え。作法。身のこなし方。

講餘
八條目と云気質はあるまいなり。ここが大事のことなり。桺橋の要翁に謂って曰く、冬至の文を冬至の日に読よりは、毎日よむがよいなり。親父もよんだと云て、一年に一度づつ読はきびのわるいことなり。執德不弘の或問に論あり。可熟読。迂斎先生の所で冬至の文を読だは講釈ではない。贈られたものが揃ふて、只一返素読したなり。永井子は早世、その後、長谷川克明小野崎師由多田維則野沢弘篤、集會なり。予、兄弟成長の後は、料理をも丁寧にして諸老を饗したりき。其前とても、この夜は節要會とちがい、諸老辨當にてはなかりき。
【解説】
冬至文は毎日読むのがよい。迂斎先生の所で三師が冬至文を読んだ際は、ただ一回素読しただけだった。尚、黙斎は、諸老に対して丁重に対応したことを述べる。
【通釈】
八條目という気質はないだろう。ここが大事な点である。柳橋の要翁に次の通りに言った。冬至文を冬至の日にだけ読むよりも、毎日読むのがよい。親父も読んだからと言って、一年に一度だけ読むのは感じの悪いことである。執徳不弘の或問にこのことが論じられているので熟読しなさい、と。迂斎先生の所で冬至文を読んだ時、それは講釈ではなく、冬至文を贈られた弟子三人が揃って、ただ一回素読しただけである。永井隱求は早く世を去り、その後、長谷川克明、小野崎師由、多田維則、野沢弘篤が集会した。私も兄弟成長の後は、料理も丁寧に用意して諸老を饗した。また、それ以前からこの冬至の夜会は節要会と違い、弁当などではなかった。
【語釈】
・桺橋の要翁…大原要助。大網柳橋の黙斎門下。
・きび…気味に同じ。おもむき。味わい。気持。
・執德不弘…論語子張2。「子張曰、「執德不弘、信道不篤。焉能爲有、焉能爲亡(子張曰く、徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと為さん。焉んぞ能く無しと為さん)」。
・長谷川克明…長谷川觀水。源右衛門。
・小野崎師由…小野崎舎人。本姓大田原。出羽秋田の人。牛島随筆に「小野崎師由、雅量通長」とある。直方晩年の門人。直方の子就正が秋田の佐竹候に仕えたのは、師由の推挙によったとある。
・多田維則…多田儀八郎。
・野沢弘篤…野沢十九郎。

信云、執德不弘の或問、幷[ならび]に語類みるべし。我にすこしの得た処あれば、はやそこを是とおもい、そこに腰をかけ、すこし知見あれば自是と心得、大言を云ひ、大酒を飲み、人をたわけとはかり思ひ、曽点風にまぎらかし、又、謹愿篤実の君子風で、郷愿德之賊中に陥り、道理を我得手の方にまわし、年老に及へば、次第に血気衰に従て今迠なき出来人欲始り、上べは尤らしく、心術よろしからぬに果す。歎ずべし々々々々。此冬至文よみて、己も人も実に志ある人と云んや。
【解説】
道を任じるのは一生をかけてのことだから、少しの知見で満足したり、人を馬鹿にしたり、わかった振りをして誤魔化したりしてはならない。また、年老いてくると新たな人欲が生じるので、更に心術を厳にしなければならない。
【通釈】
黙斎が言う。執徳不弘の或問及び語類を見なさい。自分に少し理解したところがあれば、すぐにそれを正しいことと思ってそこに腰を掛けて止まったり、少しの知見があるだけで自分が正しいと思って大言を吐き、大酒を飲み、他人を戯け者とばかりに思い、曾点風に誤魔化して、また、謹愿篤実な君子の様に振る舞って郷愿徳之賊中に陥り、道理を自分の得意な方のみで言い、年老いてくると次第に血気が衰えるのに従って今までなかった人欲が出て来て、うわべは尤もらしく見えるが、心術がよくないままで行動する。これは全く歎じるべきことである。この冬至文を読んで、我々も、本当に志のある人だと言える様にならなければならない。
【語釈】
・謹愿篤実…謹も愿もつつしむの意。篤実は人情にあつく誠実なこと。
・郷愿德之賊…論語陽貨13。「子曰、郷原德之賊也(子曰く、郷原は徳の賊なり)」。

先師送先君子適唐津文曰。
この題は某が出すゆへに、先師、先君子と云。迂斎先生唐津へ行とき、野田先生の贈られたなり。
【通釈】
この題は私が書いたので、野田先生を先師、迂斎先生を先君子と呼ぶ。迂斎先生が唐津に行く時、野田先生が彼に贈った文である。
【語釈】
・迂斎先生…稲葉迂斎。十左衛門。1684~1760。
・野田先生…野田剛斎。七右衛門。本所石原町に住んでいたので石原先生と呼ばれる。1690~1768。

竊謂先生既没學道漸衰。
学道は世間の方へ変ったことでないが、ちとぬるけて来たやふなり。扨、これに付て、小野崎舎人が、直方先生存生のときはをれもうっかと聖人になられるやふに思ったが、没後はどことなくばっととしたやふじゃとなり。世間では、直方先生は濶論を云て酒でも飲で居ると人が思ふが、直方先生のことは、あの手先で出来た人で知れるぞ。三子を看よ。
【解説】
学道は自らが変化することはないが、しかし、最近は弱くなって来ている。小野崎舎人は直方先生が亡くなって、道が遠くなった様に感じた。直方の偉大さを世間はわからないが、三人の弟子を看ることで理解することができる。
【通釈】
学道は世間に対して変わることはないが、少し冷めて来た様である。さて、これについて小野崎舎人が、直方先生が存生の時は俺もうっかりと聖人になることができると思ったが、先生の没後は何となくそれが遠いことの様に思えると言った。世間の人は、直方先生は濶論を言いながら酒を飲んでばかりいると思っているが、直方先生のことは彼の手先で作られた人で知ることができる。三人の弟子を看ればわかるのである。
【語釈】
・小野崎舎人…小野崎師由。本姓大田原。出羽秋田の人。牛島随筆に「小野崎師由、雅量通長」とある。直方晩年の門人。直方の子就正が秋田の佐竹候に仕えたのは、師由の推挙によったとある。
・濶論…濶はひろいこと。大きいこと。濶論は大きな話。

異學跋扈邪説肆行此道日湮塞學術幾絶矣。
直方先生か死んだから、さあよいと云て異學邪説が起ったではないぞ。數に具へた口上でないなり。あの時分、學者のより合がそふなり。ここは江戸のことで云ぞ。徂徠学が江戸へ盛んなり。幾絶矣は、蔓の切れそふになったなり。
【解説】
直方が死んだから異学邪説が生れたのではない。当時の江戸では徂徠の学が盛んだった。
【通釈】
直方先生が死んだから、さあよいと言って異学邪説が起こったのではない。これは数合わせではない。「異端跋扈邪説肆行」とは、あの時分の学者の寄合を指す。これは江戸のことで言う。徂徠学が江戸に盛んだった。「幾絶矣」は、蔓が切れそうになったこと。
【語釈】
・徂徠…荻生徂徠。江戸の人。初め朱子学を学び、のち古文辞学を唱道。1666~1728

信云、三輪善蔵なとは直方在世より叛き、専ら王学を唱ふ。されとも江戸にて此比は盛ならず。故に三宅先生、京にて専ら王学を弁しられしなり。
【通釈】
黙斎が言う。三輪善蔵などは直方先生が在世の時から叛いて、専ら王学を唱えた。しかしその頃の王学は、江戸では盛んでなかった。そこで、三宅先生は専ら京で王学を弁駁されていた、と。
【語釈】
・三輪善蔵…三輪執斎。江戸中期の陽明学者。名は希賢。字は善蔵。京都の人。崎門三傑の一人である佐藤直方に学ぶ。致良知の説を尊び、1712年王陽明の『伝習録』に標注を加えて翻刻し、中江藤樹・熊沢蕃山なきあと、江戸の地で陽明学の先駆をなした。和歌もよくした。著書『伝習録講義』『周易進講手記』『古文大学講義』など。1669~1744
・此比…この頃。
・三宅先生…三宅尚斎。
・王学…王陽明の唱えた学説。陽明学。

有志之士當寝薪嘗膽夜以継日堅苦刻勵衛正排邪直負荷此道以使不永墜於地之秋也。先生嘗以擔夫望於兄。遺訓猶新。傳道之責兄豈得辞哉。
有志は学者の真なり。只の学者と云は藝者なり。わるくすると家業にしたがるぞ。家と云を願ひ、大家を望むやふになるなり。学者は手前の方のことなれば世間にかまふことはないぞ。真は志のあると無となり。有志が冬至の文のさなごの士不可以弘毅へ志すことなり。世間は違ふことで、鳩巣は徂徠が行はれるとて戸を立たなり。有德院様の始めなり。あちは戸を立たを自謾にするぞ。孟子の能言闢楊墨なり。鳩巣は朱子學で召出されたから、あれを闢くべきことなり。門を杜ぐは任にせぬなり。石原先生などは本處に引こんで居られたけれとも、この道を任にしたなり。それで異学を歒と思たが、これが擔夫と云ものなり。
【解説】
志とは、「士不可以不弘毅」のことである。室鳩巣は、荻生徂徠の学が盛んになったので引きこもったが、そうではなく、異学に対しては闘わなければならない。石原先生も、異学を敵とみなした。
【通釈】
「有志之士」とは、真の学者のことである。ただの学者は芸者と同じである。悪くすると学問を家業にしたがる。管、江、林家に憧れ、大家になることを望む様になる。学者とは自分の為のことを学ぶ者だから、世間に構うことはない。学者の真偽は志の有無でわかる。有志が、冬至文の真髄である「士不可以不弘毅」に志すこと。世間はこれと違っていて、室鳩巣は荻生徂徠の学が行われると言って戸を立てて防いだ。有徳院様の治世の始めの頃である。あちらは戸を立てたことを自謾にする。しかし、ここは孟子の言う「能言闢楊墨」が正しい。鳩巣は朱子学で召し出されたのだから徂徠を距ぐべきであり、門を塞ぐのでは道を任じないことになる。石原先生などは本所に引っ込んでおられたが、この道を任じた。それで、異学を敵と思っていたが、これが担夫と言うものなのである。
【語釈】
・管…菅原氏。平安時代の学問で名高い家系。代々、紀伝道をもって朝廷に仕えた。
・江…大江氏。平安時代以降、文章道を家学にした家。
・林…林羅山。江戸初期の幕府の儒官。名は忠・信勝。僧号、道春。京都の人。藤原惺窩に朱子学を学び、家康以後四代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌の起源をなした。多くの漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行。著「本朝神社考」など。1583~1657
・さなご…米の粉をふるう時に篩に残るかす。瓜のたね。核。
・鳩巣…室鳩巣。江戸中期の儒学者。名は直清。江戸の人。木下順庵に朱子学を学び、加賀藩の儒官、のち新井白石の推薦で幕府の儒官となり、将軍吉宗の侍講。著「駿台雑話」「六諭衍義大意」「赤穂義人録」など。1658~1734
・有德院…徳川吉宗の諡号。吉宗在職は1716~1745。
・能言闢楊墨…孟子滕文公章句下9。「能言距楊墨者、聖人之徒也(能く言いて楊墨を距[ふせ]ぐ者は聖人の徒なり)」。
・本處…塾のあった江戸本所石原町のこと。

信嘗云、不出門庭凶なり、と。
【解説】
荻生徂徠の学問が盛んになった際に、室鳩巣が戸を立てて引っ込んだことを非難するたとえ。
【通釈】
黙斎が言う、門庭を出ないのは凶事である、と。
【語釈】
・不出門庭凶なり…易経節卦九二。「門庭を出でず。凶なり」。

寝薪嘗膽は歒の文字をつかふた。石原先生は、文章は書ぬ人なれとも、全体の學術から能ひ字をかって来たなり。越王勾践呉王夫差のこと。世人の知た通俗呉越軍談にもあるぞ。寝薪は、夫差父の歒討たいなり。嘗膽は苦ひなり。喰ものを喰はずに居ると云ことではないぞ。越王が會稽の恥を雪ぎたいなり。夫で、異学をああして置がわるいなり。をとなしい顔をしてをるは道を任ぜぬ人なり。呂東莱などは、佛をそしるはをとなしくないと思へり。朱子の訶ったなり。この國で野廻りが釣をするをとがめるが、あそこが擔夫なり。御法度の処で釣はならぬと云が任するなり。日蓮安國論が大ていでないぞ。法蕐宗をわるく云ものをば引裂くやふに意得たり。をとなしい顔をして有德らしく見へるはわるい。石原先生のあの丸い人が歒討にたとへてあのやふなきついことを云たぞ。
【解説】
石原先生が、臥薪嘗胆を引用して異学を放置してはならないと言った。大人しい者は道を任じていない。仏教を謗るのは大人しくないと思った呂東莱を、朱子が叱った。日蓮も法華を悪く言う者を批判した。
【通釈】
「寝薪嘗膽」は俗学の文字を使ったもの。石原先生は文章をあまり書かない人であるが、ここでは、学術全般の中からよい字を引き抜いて来たのである。越王勾践と呉王夫差のこと。世人によく知られた通俗呉越軍談の中にもある。「寝薪」は夫差が父の敵を討ちたいということ。「嘗膽」は苦いことで、喰うものを喰わずにいるということではない。越王が会稽の恥を雪ぎたいということ。この語で、異学をあの様に放置して置くのは悪いと言っているのである。大人しい顔をしているのは道を任じない人である。呂東莱などは、仏教をそしるのは大人しくなく、よくないことだと思った。それを朱子が訶った。この国では、野廻りが釣りをする者を咎めるが、それが擔夫なのである。御法度の処で釣りをしてはならないと言うのが任じるということ。日蓮の安国論は並大抵のものではない。法華宗を悪く言う者を引き裂くような意がそこにはある。大人しい顔をして徳が有る様に見えるのは悪い。石原先生の様な丸い人が敵討ちにたとえて、この様に厳しいことを言った。
【語釈】
・寝薪嘗膽…臥薪嘗胆。
・越王勾践…春秋時代の越の王。父王の頃から呉と争い、父の没後、呉王闔閭を敗死させたが、前494年闔閭の子夫差に囚われ、ようやく赦されて帰り、のち范蠡と謀って前477年遂に呉を討滅。~前465
・呉王夫差…春秋時代の呉の王。越王勾践を会稽に破り父闔閭の仇を討ったが、のち勾践に敗れて自殺し、呉は滅びた。~前473
・呂東莱…名は祖謙。字は伯恭。宋代官界で代々要職を勤めた家系。朱子の講友。鵝湖の会の主催者。近思録の共同編纂者。1137~1181
・野廻り…野を見回る人。野守(野を守る人。特に、禁猟の野を守る番人)を指すのではないか?
・日蓮…鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。字は蓮長。安房国小湊の人。1222~1282
・安國論…立正安国論。一巻。日蓮の著。1260年(文応一)成る。鎌倉幕府の執権北条時頼に送って治世の要道を説き、当時頻発した天変地異は浄土宗などの邪法の弘通によるとして批判し、法華の正法を弘めるべきことを主唱した問答体の漢文の書。

堅苦刻勵云々。邵子などが夏不扇冬不爐となり。あれが堅苦なり。負荷は本文の字なり。之秋也は、春から驋ぐも収るが大事ゆへ、秋と云字をときとよませる。ここが大事の時と云ことなり。先生御存生の時、仰しゃったことなれとも、今が大事と云ことなり。望於兄は、御手前さまへなり。是が言ひて人によりてにげる口上になるが、それは知らぬ人の云ことなり。石原先生は、御手前が任じてをれとも謙退で云なり。それに迂斎は一老、野田先生は二老なり。遺訓猶新云々。猶新は、没後間もないことなり。此事をにげてはならぬと唐津へ行に付て云なり。
【解説】
「堅苦」とは我慢すること。「負荷」は冬至文本文の字。「秋」とは大事な時の意。今が大事だということ。石原先生は自らも道を任じているが、年上の迂斎に謙譲して「望於兄」と言った。「猶新」とは、直方が死んでから日が浅いということ。
【通釈】
「堅苦刻勵云々」。邵子などが「夏不扇冬不爐」と言った。それが堅苦である。「負荷」は冬至文の本文の字。「之秋也」は、春から物事が騒ぎ始まるが、収穫することが大事だから秋という字をときと読ませる。ここが大事な時ということ。石原先生が存生の時に仰ったことであるが、今が大事ということ。「望於兄」は、貴方様へお願いするということ。この様に言うと、言い手によっては逃げる口上となるが、それは知らない人が言うこと。石原先生は自分自身が任じられていたが、謙譲してこの様に言ったのである。それに迂斎は野田先生よりも年上だったから、兄に望むと言ったのである。「遺訓猶新云々」。「猶新」は、直方先生が没して間もないこと。石原先生が、伝道の責から逃げてはならないと、迂斎が唐津へ行くにあたって言ったのである。
【語釈】
・邵子…邵康節。北宋の学者。宋学の提唱者。名は雍、字は堯夫。康節は諡。河北范陽の人。易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤の理気学に対して象数論を開いた。著「皇極経世」「漁樵対問」「伊川撃壌集」「勧物篇」など。1011~1077
・夏不扇冬不爐…「夏に扇せず、冬に爐せず」。
・謙退…へりくだり退くこと。謙譲。

君子求道無所而不在焉。兄而今雖不遑啓處其志勿忘焉。雖到于津其志勿怠焉。雖在君所其志勿忘焉。雖居燕處其勿怠焉。
三人がここと冬至文をつかまへたが、ゆるまんかとをそるるなり。鞭策録を編む意と同ことで、こことつかまへてもひょっとゆるむものぞ。其ゆるむ所へ鞭をあてるなり。迂斎のゆるまふかと石原先生をもへるなり。誠に朋友の切偲なり。冬至の文で的黨なるに、又是を贈られたが親切ぞ。不遑啓處は旅さきのことなり。これも文字のやといやふがよい。詩経の字なり。在番のことなり。
【解説】
石原先生は、迂斎の道を担う気が緩むことを懸念してこの文を迂斎に贈ったが、これは、石原先生の深い思い遣りというものである。うっかりすると気が緩む。
【通釈】
三人がここぞと冬至文をつかまえたが、それが緩まないかと心配をした。鞭策録を編集した意と同じで、ここぞとつかまえてもついうっかりすると緩むものである。その緩む所へ鞭をあてたのである。迂斎が緩むのではないかと石原先生は思った。誠に朋友の切偲である。冬至の文で充分なのに、また、この文を贈られたのが親切である。「不遑啓處」とは旅先のこと。これも文字の用い方がよい。詩経が出典で在番のこと。
【語釈】
・鞭策録…佐藤直方著。
・切偲…論語子路28。「子路問曰、何如斯可謂之士矣。子曰、切切偲偲、怡怡如也。可謂士矣。朋友切切偲偲、兄弟怡怡(子路問いて曰く、いかなればこれを士と謂うべき。子曰く、切切偲偲、怡[い]怡如たる、士と謂うべし。朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡たり)」。
・的黨…「的当」の誤りか。日原以道真蹟本では「的実」。
・在番…①勤番に当って勤めること。②江戸時代、幕府の役人が遠地に交代勤務したこと。③大名が幕府の命で他の城地を守ったこと。

雖在君所は、奉公が何ほど忙しくても志をたがへず、兎角志は事につかぬことなり。事はいそがしふても志はたがはぬ筈なり。今礼文學者が、礼樂が行はれぬと云て今、古への礼樂を行ひたいと云が、それは我行へばよいなり。夫より我三年喪も吾が心喪をつとめれば能ひぞ。結句、古の礼樂が今行はれたらこまろふなり。然れば、志さへあればなることなり。事上ではないなり。
【解説】
志と事は別である。よって、事が忙しいことを理由に志を違えてはならない。礼楽も三年の喪も我が心で行うことであって、志があれば全て成るのである。
【通釈】
「雖在君所」は、奉公がどれほど忙しくても志を違えないこと。とかく、志は事に付いたことではない。奉公が忙しいといっても、志は違わない筈である。礼文学者が、今は礼楽が行われないから古の礼楽を今に行いたいと言うが、それは自分自身が行えばよい。それから、三年の喪も自分自身が心喪を務めればよい。結局は、古の礼楽が今行われたら困るだろう。よって、志さえあればできることなのである。事に関したことではない。
【語釈】
・礼文…典礼と文化。礼法・制度・文物など。
・三年喪…論語陽貨21。「宰我問、三年之喪、期已久矣。君子三年不爲禮、禮必壞。三年不爲樂、樂必崩(宰我問う、三年の喪は期已に久し。君子三年礼を為さずんば、礼必ず壊[やぶ]れん。三年楽を為さずんば、楽必ず崩れん)」。

君前に居ふがいそがしかろふか志は怠らぬなり。さて、有德者必有言で、ここらの文はよく書て、辞者達而止む也なり。殿さまの御前にあるときも燕所の隙でをるときでも怠らず忘れぬなり。志がつっ立てば何をして居ても学問のならぬことはないぞ。今日、鷹匠の陣屋でいそがしふても廃ぬぞ。直方先生の、道理を慥に見付たら、病人の看病までもゆっくとしてかかる筈。せつなく太儀がるは道を見ぬのなり。にげたがるのなり。今日学者が何ぞと云と佛を弁するが、事をうるさがり、客のあいさつをいやがりて、そこを、のっつそっつ雪山え行くの小さいなり。其時は志が死んで居るなり。志がたぎれば場所はないなり。道学はいつも生き々々として居るなり。
【解説】
どの様な状況にあっても、志を怠ってはならない。志を立て、道を確かに見つけなければならない。仏教は事を煩わしく思ってそれから逃れようとするが、それでは志が死んでいる。道学は志が活発で、生き生きとしているのである。
【通釈】
君前にいても、忙しくても、志を怠らない様にしなければならない。さて、「有德者必有言」と言う通り、ここの文はよく書けていて、「辞達而已矣」である。殿様の御前にある時も、燕所でひまな時も、怠らず忘れない様にしなければならない。志が立てば、何をしていても学問をすることができないということはない。今日、鷹匠の陣屋では、忙しくても志は廃れない。直方先生が、道理を確かに見付けることができたなら、病人の看病までもゆっくりと取りかかる筈だと言った。つらく面倒くさがるのは、道を見ないで逃げたがるからである。今日、学者が何かと言うと仏教のことを話すが、事を煩わしく思い、人との係わりを嫌がって悩んでいるのでは、それは雪山へ行かなければ悟りを開けなかった釈迦と同じで小さなことあって、それでは志が死んでいる。志がたぎれば居場所は関係ない。道学はいつも生き生きとしている。
【語釈】
・有德者必有言…論語憲問5。「子曰、有德者必有言。有言者不必有德。仁者必有勇、勇者不必有仁(子曰く、徳有る者は必ず言あり。言有る者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。勇者は必ずしも仁あらず)」。
・辞者達而止む也…論語衛霊公41。「子曰、辭、達而已矣(子曰く、辞は達するのみ)」。
・燕所…君に仕えて安らかなところ。
・太儀…大儀。めんどうくさいこと。骨の折れること。転じて、くたびれてだるくなること。
・のっつそっつ…伸びたり反ったり。のつそつ。
・雪山…釈尊は、過去世(前世)に雪山で修行して悟りを開き、成道した。

而其所以自明者日新又新而後推以覚来裔傳道学於無窮慰先生在天霊則非斯文之大幸吾黨之栄耀哉。
日新は大学の傳文なり。直方先生の、学問はをきあかりこぶしの様ながよいなり。いつでも起るなり。学者の大事なり。場所にかまわぬが日新なり。素夷狄行夷狄。とこでもおきあがりこほふして起るなり。因て言、点も一大事なり。夷狄を行うと云点は、夷狄をするになるぞ。博奕打の所へ行くとばくちをうつになるぞ。俗学多は其意なり。和光同塵熊沢もそれなり。この書やふが一寸と云ても明徳新民なり。
【解説】
学問は起上がり小法師の様なもので、何時でも何処でも起き上がらなければならない。それは夷狄の地にいたとしても同様である。「行乎夷狄」は夷狄に行うと読むのが正しく、夷狄を行うと読むのは間違いである。俗学の多くは間違った理解をしている。
【通釈】
「日新」は大学からの語である。直方先生は、学問は起上がり小法師の様なものがよいと言った。何時でも起きる。ここが学者の大事なところである。場所に構わず、何処でも起き上がるのが日新である。「素夷狄行乎夷狄」で、何処でも起き上がり小法師の様に起きる。そこで、点の付け方も大事である。夷狄を行うと点をしては、夷狄の振舞いをすることになる。それでは、博奕打ちの所へ行くと博打を打つ様になるのと同じ。俗学の多くはこの意である。和光同塵も熊沢蕃山もそれである。ここの書き方は短いが、それは明徳新民のことを言っているのである。
【語釈】
・日新…大学章句2。「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新(湯の盤の銘に曰く、苟[つつし]みて日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)」。
・素夷狄行夷狄…中庸章句14。「素夷狄、行乎夷狄(夷狄に素しては夷狄に行う)」。
・和光同塵…①老子無源第四。「和其光、同其塵(其の光を和げ其の塵を同ず)」。
・熊沢…熊沢蕃山。江戸前期の儒学者。名は伯継、号は息游軒。隠退後、蕃山了介と称。京都の人。中江藤樹に陽明学を学び、岡山藩主池田光政に仕える。著「大学或問」が幕府の嫌疑にふれ、古河城中に幽閉されて没。著「集義和書」「集義外書」など。1619~1691
・明徳新民…大学三綱。明明徳・新民・止至善。

来裔は小学題辞にも出つ。右段々のぎり々々をすますが道学なり。世上の学問するもの、吾黨をも、あれもこちの仲間じゃと云はれるが、いやなことなり。江戸などで大名へかかへられた学者が、諸家の儒者を仲ヶ間と覚へているなり。朱子が陳安卿に、学者に盗人があるとなり。それでこの道学と云字にだん々々のあること思ふべきことなり。中庸の序の道学なり。直方先生又曰、世間の学者が我々を仲ヶ間と云は御紅屋なりと笑へるよし。昔一人湿瘡をやむに、京の御紅屋瘡毒やみて御同前にと云へば、一人大に腹立て、我はかさはかかぬと云たる咄あり。
【解説】
一概に道学と言っても色々で、真の道学は中庸章句序に述べられたものである。学者はとかく仲間と言うが、本当はそうではない。
【通釈】
「来裔」は小学の題辞にも出ている。右にある一つ一つを済ますのが道学である。世間で学問をする者から、我々の党までをも自分の仲間だと言われるのは嫌なことである。江戸などで大名に抱えられた学者が、諸家の儒者を仲間と思い込んでいる。朱子が陳安郷に、学者の中には盗人がいると言った。それで、道学と言っても色々あると思わなければならない。真の道学は、中庸の序にある道学である。直方先生が、また言われた。世間の学者が我々を仲間だと言うのはお紅屋と同じだと、そう言って笑ったそうである。昔或る人が湿瘡を病んでいると、京のお紅屋が、私も瘡毒を病んでいるのでご一緒ですなと言った。そこで或る人は大いに腹を立て、私は梅毒などは被っていないと言った話がある。
【語釈】
・来裔…来る裔で子孫のこと。
・題辞…書物の巻頭や画幅などの上に記すことば。題詞。題言。
・陳安卿…陳淳。南宋の学者。朱子の弟子。字安卿。号は北渓。竜渓の人。朱子が漳州知事に赴任した際に教えを請い、高弟となる。直接指導を受けたのは二度だけで、陸学や禅学を強く排斥、思索に長じて概念を厳密に解明する心が強く、『字義詳講』を著して朱子学の術語、命、性、心、情、道、理、太極など26項目について解明。講義四章(道学の体統、師友の淵源、用功の節目、読書の次序)、二弁(以道、以学)。1557~1223
・中庸の序の道学…中庸章句序。「中庸何爲而作也。子思子、憂道學之失其傳而作也(中庸は何の爲に作れるや。子思子、道學の伝を失わんことを憂えて作れるなり)」。
・湿瘡…皮膚病の一種。疥癬の類。
・瘡毒…梅毒。かさ。
・かさ…梅毒の俗称。

栄耀哉はきつい見へではあるまいかなり。見へも今のは、けば々々しいを云なり。迂斎先生の心の中のよくなるを云ぞ。迂斎先生のなされた板行ものはと云そ。なんのことぞ。なんと御著述はと云者はすてることなり。学問は、我心が尭舜の心になることなり。石原先生の迂斎先生を責るに、誰か目にも見へぬ所を云なり。これが何んのこともない文なれとも、直方先生の弟子と見へるぞ。直方先生の弟子でないとは謂はれまいなり。是が、某が跡へ入る直方先生の眼鑑なり。
【解説】
学問とは、自分の心が聖人の心になることであって、書物のことではない。石原先生の遺文は何でもない文の様であるが、これによって、確かに彼が直方の弟子であることがわかる。黙斎が冬至文への補記した通り、直方の目利きは確かなのである。
【通釈】
「栄耀哉」とは、何と強い見栄えではないか。しかし、今日の見栄えは派手なことを指して言う。栄耀とは、迂斎先生の心の中がよくなることを言う。人は迂斎先生の作られた板行物は何かと言う。それは何たることか。著述は何かと言う者は棄てておきなさい。学問は、自分の心が堯舜の心になることである。石原先生が迂斎先生を責めるにあたって、誰の目にも見えないことを言った。この遺文は何でもない文の様ではあるが、この遺文によって、石原先生は直方先生の弟子であることがわかる。これで、彼を直方先生の弟子ではないとは言えないだろう。ここが、私が冬至文の末尾に入れた文の趣意であって、直方先生の目利きは確かである。
【語釈】
・栄耀…栄えかがやくこと。栄華。転じて、派手でぜいたくなこと。
・見へ…①見えるさま。かくれないさま。②「見栄」と当てる。他人を意識し、自分をよく見せようとすること。体裁をつくろうこと。
・板行…書籍・文書などを印刷し、発行すること。刊行。
・某が跡へ入れる…冬至文の最後、「享保丙申冬至日直方書之與鈴木正義野田徳勝永井行達以勵其志云」の文を指す。

信云、先君子は洒然として和順、先師は毅然として温厚、永井子は肅然として鋒芒あり。風采各々異なれとも、皆道義に出て血気上の振舞なき人と云べし。吾人静かに想みよ。
【解説】
三人の弟子の性格は夫々異なるが、三人共に道義に従い、血気にまかせて行動することはなかった。
【通釈】
黙斎が言う。稲葉迂斎は洒然として和順、野田剛斎は毅然として温厚、永井隱求は粛然として鋒鋩である。風采は各々異なっているが、皆道義から出たことで、血気にまかせて振舞うことのない人である。皆、静かに彼等を想い直してみなさい、と。
【語釈】
・洒然…さっぱりとあかぬけしたさま。
・和順…①気候が順調で適度なこと。②やわらぎ従うこと。
・肅然…①おごそかなさま。また、かしこまるさま。②しずかなさま。
・鋒芒…正しくは、鋒鋩。刃物のきっさき。ほこさき。気性や言葉の鋭いたとえ。

永井先生病革不能執筆使先君子書之之言曰。
たしか病が腫気であったなり。この文は七月二十五日に迂斎先生の見舞にまいた時で、死の三日前のことなり。永井先生の筆がとられぬゆへ、迂斎先生に書せたなり。本書は迂斉和書集にあるぞ。これを某が文にしたが、たたい假名がよけれとも、本文になをしても少も意は違はぬことなり。わるくすると表具して本眞を失ふものなり。本書は國字[かな]で云々なり。これへ載せるゆへに、本文に仕立たぞ。
【解説】
この遺文を作ったときには、永井先生は筆を執れる状態ではなかったので、迂斎が代筆した。原書は仮名で書いてあるが、黙斎が漢文に書き直して遺文としてここに載せた。文体は違っても、原文の意は違わない。
【通釈】
確か、永井先生の病は腫気だった。この遺文は七月二十五日に迂斎先生が見舞いに行った時のもので、死の三日前のことである。永井先生は筆を執ることができないほどだったので、迂斎先生に書かせた。その書は迂斎和書集にある。これを私がこの文にしたが、大体、仮名で書くのがよいのであるが、本文の様に漢文に直しても、少しも意は違わない。悪くすると、書き直すと元の真意を失うものである。原書は仮名で書いてある。冬至文遺文として載せるので、本文に仕立てたのである。
【語釈】
・腫気…はれもの。冬至文五講では、永井隱求の病状を脚気衝心とも言っている。
・表具…布または紙を貼って、巻物・掛物・書画帖・屏風・襖などに作り上げること。表装。

不資孔孟程朱之訓則病中殆失平生。今且得如此可謂幸也。然病苦至劇提撕之功最難。可警哉。元文五年庚申閏七月二十五日稲葉正義記之。
資はだん々々くり出し取って出すことを云う。孟子、君子深造之以道章の文字なり。道理をこの方へ得た上から云。然病苦は、今日などは別してさし重ったなり。劇は病気に多く使ふ字なり。提撕は宋朝で敬に用るぞ。ぐったりとして気のゆるむ処を引たてるなり。眠る所をつめるなり。敬は聖学の始終と云て、提撕は大事のことなり。之功最難は、この処が太義となり。これがなんのこともないやふなれとも、論語の序に曽子の手足を啓くことを道統を継だことに云て、一貫のことはないぞ。道統をつくには一貫のことでも引きそふなものなれとも、啓予手啓予足を引たぞ。一貫は極致なれとも、あれにはまきらかしもなるぞ。ここの段は真劍なり。胡子の説でか有ったか、曽子の声が糸のやふに出たで有ふとなり。その場まで守りとどけた永井先生も、これが曽子の小いのこと。この時になりて斯ふ言ふことを云へば、曽子にもまけぬと云ほどのことなり。
【解説】
「提撕」は敬に用いる語である。敬は聖学を貫くものだから、提撕は重要である。また、論語の序では道統を継ぐことを、その極致とも言うべき「一貫」ではなく、「啓予手啓予足」を引用して述べている。永井先生の言も曾子の「啓予手啓予足」に通じており、彼は曾子にも負けない人である。
【通釈】
「資」とは段々と繰り出して取って出すことを言う。孟子の「君子深造之以道」の章にある文字である。道理を自分の方に得た上で言う。「然病苦云々」は、その日は特に病がひどくなったということ。「劇」は病気に多く使う字である。「提撕」は宋朝で敬に用いる。ぐったりとして気の緩むところを引き立てる。眠る所を堪えるのである。敬は聖学の始終に通じるものだから、提撕は大事である。「之功最難」は、ここが最も骨が折れるということ。これは何でもない様であるが、論語の序に、曾子が手足を啓いたことを道統を継いだこととして言い、「一貫」のことは何も言っていない。道統を継ぐには一貫のことでも引用しそうなものであるが、「啓予手啓予足」を引用した。一貫は極致のことではあるが、あれは紛らかしをすることもできる。ここの場面は真剣なところである。胡子の説であっただろうか、曾子の声が糸の様に出たのだろうと言っている。死ぬ時まで守り通した永井先生は、曾子の小さい姿である。死に直面してもこの様なことを言えるのだから、曾子にも負けない人だと言えるのである。
【語釈】
・くり出し…糸などを繰って順々に引き出す。
・君子深造之以道…孟子離婁章句下14。「孟子曰、君子深造之以道、欲其自得之也。自得之、則居之安。居之安、則資之深。資之深、則取之左右逢其原。故君子欲其自得之也(孟子曰く、君子の深く之に造[いた]るに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲すればなり。之を自得すれば、則ち之に居ること安し。之に居ること安ければ、則ち之に資[と]ること深し。之を資ること深ければ、則ち之を左右に取りて其の原[みなもと]に逢う。故に君子は其の之を自得せんことを欲するなり、と)」。
・曽子の手足を啓く…論語泰伯4。「曾子有疾。召門弟子曰、啓予足、啓予手。詩云、戦戦競競、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫、小子(曾子疾有り。門弟子を召びて曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云う、戦戦競競として深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し。今よりして後、吾れ免るることを知るかな、小子)」。
・一貫…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣(子曰く、参や、吾が道は一を以って之を貫く。曾子曰く、唯。子出ず。門人問いて曰く、何の謂ぞや。曾子曰く、夫子の道は忠恕のみ)」。
・胡子…胡宏。宋の建寧祟安(福建省)の人。字は仁仲。胡安国の末子。五峰先生と称せられる。著書『五峰集』『皇王大記』『胡子知言』。~1155

是から三日過きて死去なり。其時は迂斎先生は行かなんだが聞傳へず。石原先生と彦八なとが付て居たかなり。この時ものは言はず、奥方に手をふって見せたとなり。そこへ寄らぬやふにされた。男子は不絶婦人之手の意と見へたなり。傳四郎と云藥箱持一人で、夫婦かけ向ひでも、死ぬときに奥方はよせぬなり。けれとも、りきんで仕たでなく、提撕の功最難。とく道学者なり。臨終正を得るなり。奥方に手を振て見せたれば、奥方も平生そのやふなことは聞及んで居ればこそ、そこへ寄らぬなり。是を冬至の文え載せたは、この処で直方先生の目がねの違はぬが知れることなり。
【解説】
永井先生の臨終の様子を述べる。永井先生は「提撕之功最難」で臨終の正しきを得た。
【通釈】
これから三日過ぎて永井先生は死去された。その時、迂斎先生はそこに行ったか否かは聞き及んでいない。石原先生と彦八などが付いていた様だ。この時、永井先生は言葉を発せず奥方に手を振って見せたそうだ。奥方がそこに寄らない様にされた。「男子不絶婦人之手」の意と見受けられる。夫婦二人きりの生活にあっても、死ぬ時には伝四郎と言う薬箱持ち一人だけで、奥方は寄せない。しかし、それは力んでしたのではなく、「提撕之功最難」だからである。まさに彼は道学者だったのである。臨終にあたって正しく振る舞った。奥方に手を振って見せたら、奥方も平生その様なことは聞いていたので、そこに寄らなかった。この遺文を冬至の文に載せたのは、この処で直方先生の目がねが違わなかったことがわかるからである。
【語釈】
・彦八…佐藤就正。佐藤直方の子。39歳で没。~1747
・男子は不絶婦人之手…「男子は婦人の手に絶えず」。婦人の手の中で死なないという意。
・かけ向ひ…掛け向かい。他人を交えずに二人が向かいあっていること。特に、夫婦二人きり。さしむかい。

信云、資の字を用たること、今春ふと譯したなり。恐らくは的當ならず。更に考べし。永井子の沢、上總にのこりたること、庄内か時まてはあり。此等も藥剤と同しことにて、六君子益気湯全体にて功あれとも、ここは此一味のきくと云ことあり。當國は三先生の沢なれとも、然るに永井子の沢、言外の意なり。
【解説】
永井先生は早世だったので、上総では鈴木養察までしか彼を知らないが、先生の恩沢は今も残っている。
【通釈】
黙斎が言う。資の字を用いたことを、今春ふと訳したが、恐らくは適切な訳ではないので更に検討しなければならない。永井子の恩沢は庄内の頃までは上総に残っていた。これも薬剤と同じことで、六君子益気湯は全体に効果があるが、ここでこの一薬が効くと言う場合がある。この地方は三先生の恩沢を受けているが、永井先生の恩沢には言葉に表せない意がある、と。
【語釈】
・庄内…鈴木養察。上総姫島村の人。迂斎門下。1695~1779。一講の時点では、既に逝去。
・六君子益気湯…薬の名。総合薬。

先君子諭学者文曰、夫博文約礼聖門之教而下学上達は造之之方也。
迂斎先生は、石原先生永井先生とは違ふて文も沢山あるゆへ、冬至の文にひしと合やふな文もあって、ここへ載せる文もあろふが、其れに是を載せたはわけがあるぞ。是は迂斎晩年の文で、其上この中に冬至の文を擔った意があれば、其れを含ませて此文を載せたぞ。これは聖学の綱領をつまんで書たぞ。諭學者は誰と指したことではないぞ。即ち、ここにある額なり。濱町の講席へかかけあり。
【解説】
迂斎先生は文が多いが、この遺文を冬至文に載せた理由は、これが晩年の作で、文中に冬至の文を担った意があったからである。黙斎の講席には、「諭学者文」が額として掲げてある。
【通釈】
迂斎先生は、石原先生や永井先生とは違って文が沢山あるので、その中には冬至の文にぴったりと合うような文もあって、ここに載せてもよい文も他にあるとは思うが、遺文としてこれを載せたのにはわけがある。この遺文は迂斎晩年の文で、その上、この中には冬至の文を担った意があるので、それを考慮してこの文を載せたのである。これは聖学の綱領を要約して書いたものである。「諭学者」とここで言うのは、誰々と指してのことではない。それはここにある額に書かれた学者を諭す文の学者のことである。この額は浜町の講席にも掲げてある。
【語釈】
・濱町…日本橋浜町。迂斎の塾のあった所。黙斎はここで生まれている。

博文約礼は、孔門御定りの看板で、聖学の動かぬ所なり。車の両輪、鳥の両翼なり。博文は知惠の惣名、約礼は行の総名なり。片へらなれば聖学でない。博文きりなれば吾ものにならず。博文なしの約礼は見識がないゆへ気が低いなり。そこで博文約礼を胸へ疂むが聖学なり。気質の癖はない。これが聖門の教なり。下學上達則造之之方也は、下学は自分相応に博文約礼をするぞ。この博文約礼が顔子の場でも同じことで、顔子が是をして三月不違仁に至たぞ。誰でも博文約礼なり。それが突きぬけると上達なり。石原先生が、この句ちときこへ兼ると云はれた。上達と云て造ると云はいかがのやふなり。なれとも、是れは我に得る所の造りやふの道と云ことで、造の字はやはりあれで能ひぞ。博文約礼の二つを我引うけてしてゆく処は、下学上達して我に得るぞ。そこを造之之方と云。
【解説】
「博文」は知、「約礼」は行であり、知行の両方を実践するのが聖門の教えであるから、聖学は気質に拠るところがない。「下学」は、自分相応に博文約礼をすることで、誰でも博文約礼しなければならない。下学が突き抜けると「上達」である。博文約礼の二つを自分が引き受けて実践していくということは、下学上達して道を自分に得るという意味である。
【通釈】
博文約礼は孔門のお決まりの看板で、聖学の根幹である。それは、車の両輪、鳥の両翼である。博文は知恵の総称で、約礼は行の総称である。片方だけでは聖学ではない。博文だけなら道を自分のものにすることができない。博文のない約礼は見識がないので気が低い。そこで、博文約礼を胸に畳み込むのが聖学である。そこに気質の癖はない。これが聖門の教えである。「下学上達則造之之方也」の中の「下学」は、自分相応に博文約礼をすること。この博文約礼が顔子の場合でも同じことで、顔子がこれをして「三月不違仁」に至ったのである。誰でも博文約礼である。下学が突き抜けると上達である。石原先生が、この句は少し納得がいかないと言われた。上達と言いながら、造ると言うのは如何かと思った様である。しかしながら、この句は、下学上達が自分に得る所の造り方の道ということで、やはり造の字でよいのである。博文約礼の二つを自分が引き受けて実践して行くことは、下学上達して道を自分に得ることである。そこを、「造之之方」と言う。
【語釈】
・博文約礼…論語雍也27と顔淵15。「子曰、君子博学於文、約之以礼、亦可以弗畔矣夫(子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔[そむ]かざるべきか)」。
・車の両輪、鳥の両翼…朱子文集巻63の「答孫敬甫書」の語。
・片へら…傍片。一対のものの一方。かたほう。
・下學上達…論語憲問37。「子曰、不怨天、不尤人。下學而上達。知我者、其天乎(子曰く、天を怨みず、人を尤[とが]めず。下学して上達す。我を知る者はそれ天か)」。
・三月不違仁…論語雍也7。「子曰、囘也、其心三月不違仁。其餘則日月至焉而已矣(子曰く、回や、其の心三月仁に違わず。其の余は則ち日月に至るのみ)」。

學者得其門者或寡矣。於是踰等陵節終身埋首於書冊而終不能入德者天下滔々矣。
得は知行をこめて云なり。兎角得手方になるなり。或寡矣は、孔門でも各性の近き所に得て、かた々々になったなり。丁度なは顔曽ばかりなり。於是踰等陵節は、孔孟の教を知らねば、踰とむせふに高くなる。夫れがほんの高ひでなく、口真似をするなり。楷子の下で上のことを云なり。埋首は、朱子の詩で書いたろふなり。而終不能入德云々は、酒屋の前をぐる々々歩行くやふなものなり。飲ねばやくにたたぬぞ。書の道理を得れば德になるぞ。棚経を誦んで歩行やふなはやくに立ぬ。ここの処がこの文の骨髄。冬至の文の主意もここにあり。
【解説】
知行双方を実践する者は少なく、孔門でも、それができたのは顔回と曾子だけである。孔孟の教えを知らなければ、等を踰え節を凌ぐことになる。知行の実践がこの遺文の骨髄であり、冬至文の主意もここにある。
【通釈】
「得」とは、知行双方のことで言う。とかく得意な方に偏るもの。「或寡矣」は、孔門でも弟子たちは皆性に近い所を得るばかりで、片方だけのものになった。聖門を得たのは顔回と曾子だけである。「於是踰等凌節」は、孔孟の教えを知らなければ、踰となって無性に高くなる。それは本当に高いのではなく、口真似をしているだけのことである。梯子の下で上のことを言うのと同じである。「埋首」は、朱子の詩から引用して書いたのではないかと思う。「而終不能入德云々」は、酒屋の前をぐるぐる歩き回る様なこと。飲まなければ何の役にも立たない。書の道理を得れば、それが徳になる。棚経を誦んで歩き行く様なことは役に立たない。ここの処がこの文の骨髄である。冬至の文の主意もここにある。
【語釈】
・性の近き…論語陽貨2。「子曰、性相近也。習相遠也(子曰く、性相近し。習相遠し)」。
・楷子…梯子。
・棚経…盂蘭盆会に精霊棚の前で僧が経を読むこと。

故其所為日誦五車月巧文辞亦誇多闘靡之媒何足謂之学乎。
是を言ふは迂斎先生の低ひやふなれとも、この時分は、徂徠は死たなれど南郭が盛んなり。道学で迂斎、文字で南郭と云やふに、あちのものが此方へも来、こちの者があちへも行たなり。それで是を云たぞ。博識や文章者を相手に道学者が言ことは無はづなれとも、これが時で云ことなり。南郭が盛んで詩文者も三体詩杜律古文なとをば几の上にも置ぬやふになったなり。誦五車は、五つ車の書と云ことで、博識を云ぞ。
【解説】
迂斎が博識や文章者をここで非難するのは、その時代に南郭が盛んで、学者の往来があったためである。南郭の盛んな様子は、詩文者ですら、三体詩杜律古文などを几の上に置かなくなったほどである。
【通釈】
こんなことを言うと、迂斎先生は低い人物の様であるが、この時分は、徂徠は死んだが南郭が盛んで、道学で迂斎、文字で南郭と言う様に、あちらの者がこちらへも来、逆に、こちらの者があちらへも行ったりしたので、この様なことを言ったのである。博識や文章者を相手にして道学者がものを言うことは無い筈ではあるが、言わなければならない時代だったのである。南郭が盛んで、詩文者も三体詩杜律古文などを几の上に置かないほどになった。「誦五車」は五車分の書のことで、博識なこと。
【語釈】
・南郭…服部南郭。江戸中期の儒学者・詩人。名は元喬。京都の人。柳沢吉保に仕え、荻生徂徠に学び、古文辞を修め、詩文に長じた。著「唐詩選国字解」「南郭先生文集」など。1683~1759
・三体詩…唐代の詩人一六七人の作を、七言絶句・七言律・五言律の三体に分けて編纂した書。6巻。宋の周弼編。1250年成る。原題は「唐賢三体詩家法」。三体詩。
・杜律…杜甫による律詩。
・古文…古文真宝。先秦以後宋までの詩文の選集。20巻。宋の黄堅編。前集10巻は古詩、後集10巻は古文の模範とするものを集めたもの。
・五車…荘子天下編。「恵施多方、其書五車(恵施は多方、其の書は五車)」。

亦誇多闘靡之媒は、いやと云はれぬことで、人情と云ものが人の知らぬ所をさま々々知たと云が、物識と云はれたいなり。両国の見世ものに熊女が出たと云ふと、はや博物志にあると云、この雷はと云ふと、はや月令にもと云なり。闘靡は、文章の蕐やかなり。闘と云が軍さではない軍なり。きゃしゃ風流と云ひながら、人の詩文をあふ云ふ口調ではと云て、詩文で鎗長刀なり。凡人の心は克伐怨欲で勝たりほこったりするより外はないぞ。それに、重荷に小附で文も詩も作らでも人のことを言ひたいに、詩文で最ふ一つ人欲がふへて来るぞ。月見の宴も月を見るでよいに、詩を作って手前を誉られたがる。それからして小倉半切ではいやと云て、唐紙半切がほしくなるぞ。娘の子の楊枝指と同ことなり。あれが學者めいてよいものに似たなり。論語も四角な字、詩文も四角な字なり。似たものゆへ、学者のすへきことのやふなり。
【解説】
「誇多」のは、物識りと言われたいからであり、「闘靡」とは、詩文を用いて文章の華やかさを競うことである。凡人の心は、気質に従って勝ったり誇ったりするだけである。それから段々と人欲が増えてくる。論語も詩文も字で書いてあるのは同じだが、両方共に学者が行わなければならないわけではない。
【通釈】
「亦誇多闘靡之媒」は、そうではないとは中々言えないことで、人には人情があって、人が知らないことを様々に知っていると言いたがるが、それは物識りと言われたいからなのである。両国の見世物に熊女が出たと言えば、直ぐに博物志にあると言い、この雷はどうしたことかと言えば、早、月令に書いてあると言う。「闘靡」は、文章の華やかさのこと。闘とは言うが、本当の戦争のことではない。華奢風流と言いつつも、人の詩文を、あの様な口調ではいけないと言って、詩文で鎗長刀を使う。凡人の心は克伐怨欲によって、勝ったり誇ったりする以外のことはない。また、重荷に小附で、文や詩を作らなくても人のことについて話をしたいのに、詩文を作ることでもう一つ人欲が増えて来る。月見の宴も月を見るだけでよいのに、詩を作って自分を誉められたがる。それから段々と、小倉半切れでは嫌だと言って、唐紙半切れが欲しくなる。それは娘子の楊枝入と同じで、段々と豪華なものが欲しくなる。それが学者風でよいものの様に見える。論語も四角な字、詩文も四角な字である。似ているから、両方共に学者のすべきことの様に感じるが、そうではない。
【語釈】
・博物志…晋の張華撰、10巻。原本は散逸し、後人が補う。
・月令…礼記月令。「是月也、日夜分。雷乃發聲、始電(是の月や、日夜分[ひと]し。雷乃ち聲を發して、始めて電す)」。
・克伐怨欲…論語憲問2。「克伐怨欲不行焉、可以爲仁矣。子曰、可以爲難矣。仁則吾不知也(克伐怨欲行なわずんば、もって仁となすべきか。子曰く、もって難しとなすべし。仁は則ち吾れ知らざるなり)」。
・重荷に小附…小附は、荷物の上にさらにつけ添える小さい荷物。重い負担の上に、さらに負担の加わること。
・小倉…藤原定家が小倉百人一首を書いたと考えられる色紙。小倉山荘色紙。
・半切…半切紙。書簡用の丈短く横に長い和紙。もとは杉原紙を横に二つに切ったもの。元禄頃からこれを継ぎ合せて巻紙としたので、巻紙のことを半切ともいう。
・唐紙…中国渡来の、紙に胡粉を塗り、その上に雲母の粉末で文様を刷り出した紙。また、わが国でそれを模造したもの。

直方先生の、尹彦明が母の為に経を誦んだら、密夫をするにはおとるとなり。是が明らかなことで、悪ひことは人が知ておるゆへにまだもましぞ。尤らしくまぎらかしがわるひぞ。文章者の詩も詩経の詩も、詩と云なり。道へ對してぶしつけがあるぞ。南郭が文章は能くても学識は何も無い。全く荘子ぞ。晝寝したを高致にした、或は業平までをも割を入れる、何のためぞ。
【解説】
悪いことは人が皆知っているのでそれを防ぐことができるが、尤もらしく紛らかすのが悪い。南郭は、文章が上手くても学識は何も無いから、学者風であっても、真の学者ではない。
【通釈】
直方先生が、尹彦明が母のために経を誦んだことについて、それは密夫をするよりもひどいことだと言った。これは明白なことで、密夫の様な悪いことは人が知っているからまだしも、尤もらしく紛らかすのが悪い。文章者の詩も詩経の詩も同じく詩と言うが、それでは道に対して無礼である。南郭は文章が上手くても、学識は何も無い。全く荘子と同じである。昼寝をしたことを高致にしたと言い、或いは業平までをも引き合いに出すが、それが何になるのか。
【語釈】
・尹彦明…尹和靖。名は焞。程伊川の高弟。紹興の初め祟政殿説書兼侍講。当時金との和議に反対し、学問は伊川の敬を継承して著しく主体的。『伊洛淵源録』『宋元学案』同『補遺』。1071~1142
・高致…高尚な心持。最高の極致。
・業平…平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。阿保親王の第五子。世に在五中将・在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃にも取材された。825~880
・割を入れる…仲裁者を入れる。調停者を入れる。衣服や帯などで、他の小幅の布を裁ち入れて縫い合せる。

之媒は、俗人にも無ひ欲を出すが、詩文を誉られるやふにとするなり。直方先生の、詩を作りてはすぐに火にくべ々々するものならば、誰も作るものあるまいと云へり。靡をただかわすの媒にはきはまりた。何足謂之學乎は、これは云にも及そもないことで、取りあげられそもないものなれとも、迂斎先生時分は斯ふなり。水戸の大學候の若、御老中の本多伊豫守殿が徂徠学にて、其外大名衆、朱子学を排擯する方多かりしゆえ、初学の為めに示せるなり。
【解説】
靡を闘わすのは俗人にも無い人欲によるものである。迂斎の活躍した頃は、多くの人が徂徠学に傾倒して、朱子学を排斥していた。
【通釈】
「之媒」とは、俗人にも無い欲を出し、詩文を誉められる様にと思ってすること。直方先生が、詩を作る都度、直ぐに火にくべれば誰も詩を作らないだろうと言った。「闘靡之媒」には呆れる。「何足謂之學乎」は、これは敢えて言う必要もないことで、ここに取り上げて言うほどのことでもないが、迂斎先生の時分は、敢えて言わなければならない状況だった。つまり、水戸の大学侯の若君や老中の本多伊豫守殿などが徂徠学で、その他の大名の中にも朱子学を排斥する者が多かったから、初学の者のために、ここに示したのである。
【語釈】
・水戸の大學侯の若…松平(水戸)頼貞か?従四位下大学頭。守山藩。1664~1744。若は子の頼寛か?従四位下大学頭。1704~1764
・本多伊豫守…老中本多正珍か?従四位下。老中在職1746~1758。
・排擯…排と擯、共にしりぞけるの意。

入我門者深絶此意以實致為己之學焉則得寸者己之寸得尺者己之尺各自随分不可以無益也。不然則為人之弊噫不如無學也。二三子其思之。寛延二年己巳正月朔旦迂齋識。
為己はほんとふの学なり。博文約礼が道を我に得たいなり。己寸は、これで道を得ると云ことを見ることぞ。道の廃れたと云も、得るものが無ひからなり。是に大小はあれとも、それなれば受とるぞ。史記得寸者王之寸と云は土地を得ることなり。これは軍で國を取ることに譬へて云たぞ。一寸は小いことでも本んの者ゆへ能ひなり。為人弊は、一丈でもほんの者ではないなり。我ものなれば一寸でもよいぞ。人の千両よりは我一両がよいなり。永田養庵が、韓退之は張この虎、尹彦明はいんすの蚤じゃとなり。尹彦明は小さくてもいんずの堅ったなり。韓退之は大くてもはりこの虎なり。義丹庄内は一寸あるか二寸あるか知らぬが、あれで堅まったなり。
【解説】
「為己」の学が真の学問である。「己寸」によって道を得れば、たとえ得たものが少なくてもそれは本物である。「為人之弊」は真の学問ではなく、それによって得たものは、たとえ多くても全て偽物である。義丹や庄内も為己の学を実践した。
【通釈】
「為己」が本当の学である。道を自分の身に得たいから博文約礼をする。「己寸」は、これによって道を得るのだと理解しなさい。冬至文で「道之廃而」と言うのも、得るものが無いからである。己寸には人それぞれに大小があるが、これなら道を受け取ることができる。史記で「得寸者王之寸」と言うのは、土地を得ることで、戦争で国を取ることをたとえて言ったこと。一寸は小さいが、本当のことだからよい。「為人之弊」は、それが一丈の様に大きくても本当のものではない。自分のものであれば一寸でもよい。人の千両よりは我が一両がよい。永田養庵が、韓退之は張り子の虎、尹彦明は金の蚤だと言った。尹彦明は小さくても金の堅まったもの。韓退之は大きくても張り子の虎である。義丹や庄内は一寸あるのか二寸あるのかは知らないが、己寸で堅まったのである。
【語釈】
・史記…二十四史の一。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。本紀12巻、世家30巻、列伝70巻、表10巻、書8巻、合計130巻。前漢の司馬遷著。紀元前91年頃に完成。ただし「三皇本紀」一巻は唐の司馬貞により付加。
・得寸者王之寸…「寸を得る者は王の寸」。史記。范雎蔡沢列伝で、魏の范雎が秦王に遠交近攻を説いた際に言った言葉。
・永田養庵…山崎闇斎門下。佐藤直方は初め永田養庵に学び、彼を介して山崎闇斎の弟子となる。
・韓退之…韓愈。唐の文章家・詩人。唐宋八家の一。字は退之。号は昌黎。768~824
・いんす…印子。よく精錬された舶来の純金。明から輸入され、豊臣秀吉・徳川家康らの貯蔵金となった。純金で作った品物。
・義丹…和田義丹。下総酒々井の人。迂斎門下。1694~1744

丸亀の中野順齋が六十二かになるが、特立独歩で金火箸のやふになりて死ぬつもりと云て越したが面白ひことなり。今は京極候で御二男の指南をすると承ったが、あの言は某もいかふ穪美することで、学者はたしろいてはいかぬぞ。それで、小さいぐるみに立て通すことなり。足もとがすわらねば人で動くぞ。人て動くは操の立ぬ女なり。油断はならぬぞ。時の拍子で学者が相場がかわるぞ。寸を得ぬなり。金火箸にならぬからなり。大い小いはゆるすことなり。孔子の弟子に嘘はないぞ。為人之弊は、人見せゆへなり。
【解説】
学者は己の為の学を貫かなければならない。自分自身を立てなければ、人に影響されて「為人之弊」となる。
【通釈】
丸亀の中野順斎は六十二歳ほどになるが、特立独歩で金火箸の様になって死ぬつもりだと言って遣したのは面白いことである。今は京極候の所で御二男の指南をしていると聞いたが、あの言は私も大いに賞賛することで、学者はひるんではならない。それで、小さければ小さいなりに貫き通すのである。足元がしっかりしていなければ、人に影響されて動く。人で動くのは操の立たない女と同じである。油断はならない。その時の状況で学者の評価が変わる。それは寸を得ないからであり、金火箸にならないからである。得るものの大小は問題ではない。孔子の弟子に嘘はない。「為人之弊」は、人に見せることを目的としている。
【語釈】
・丸亀…香川県北西岸の市。もと京極氏の城下町。江戸後期から、金刀比羅宮参詣の船着場。
・中野順齋…迂斎の弟子。後、黙斎に師事する。
・京極候…丸亀藩主。
・穪美…ほめること。賞賛。
・立て通す…ある態度や主張を最後まで貫き通す。

不如無学がなさけないことのやふなれとも、学問ははやらずとも悪ひ学はない方がよいなり。これがつれなくて親切なり。養生訓に、山奥では藥を飲むよりのまぬがよひとなり。なるほど、違った藥は飲まぬがよいぞ。不如無藥なり。異学が邪気なり。さて、迂斉先生などの温順でも、道を任ずるからはこのやふなつれないやうなことを云ぞ。学問せぬものには手がつかぬなり。わるい学問の了簡違のあるは、せぬにはをとりなり。斯ふ言は憐む意もありて、親が勘當するやふな子は無ひがよいと云はづのことなり。なるほど、盗をする子は無ひがよいなり。迂斉先生などのあの和した人なれとも、道を任するからは斯ふ云なり。温らかなが、するどき気になることなり。
【解説】
温順な迂斎先生が「不如無学」と言うのは、間違った学問は、学問をしないことよりも劣ることだから、寧ろ、無い方がよいという意である。これは、彼が道を任じているから言えた言葉なのである。
【通釈】
「不如無学」が情けないことの様であるが、学問は流行らなくても悪い学問は無い方がよい。これが薄情だが親切なのである。養生訓に、山奥では薬を飲むよりは飲まない方がよいとある。なるほど、間違った薬は飲まないのがよい。薬無きに如かざるなりである。異学は邪気である。さて、迂斎先生などの様な温順な人でも、道を任じるからはこの様な薄情なことを言う。学問をしない者には手が付けられない。しかし、悪い学問で了簡違いがあるのは、学問をしないことよりも劣る。この様に言うのは憐れむ意もあって、親が勘当するような子は無い方がよいと言う筈だからである。なるほど、盗みをする子は無い方がよい。迂斎先生などはあの通り温和な人だったが、道を任じるからこの様に言った。温和だったのが鋭い気となった。
【語釈】
・養生訓…貝原益軒著。益軒十訓の一。養生の法を和漢の事跡を引用して通俗的に述べた書。8巻。1713年(正徳3)成る。

直方先生の冬至の文は弘毅を根にしたなり。この文も、其冬至の文を何処を受けたと云こともなけれとも、博文約礼が骨なり。曽子の弘毅をつかまへたは、この博文約礼でつかまへたぞ。不可士以不弘毅が博文約礼のことなり。博文ばかりで約礼をなぐりてせず、又、約礼第一とこころへ博文なき、皆片へらなり。その片へらを気質と云て、気質のなりにひかさるるは弘でないなり。博文も約礼もたたみこむが弘なり。そふ心得てそふ見たばかりなれば、道を得たと云はれず。その通りしとげるを毅と云なり。冬至文の弘毅もこの文の博約も皆、道學全備の旨なり。
【解説】
冬至文は弘毅が骨子であり、迂斎の遺文は博文約礼が骨子である。曾子が弘毅を得たのは博文約礼によってである。博文も約礼も心に畳み込むのが弘であり、その弘の通りに成し遂げることを毅と言う。弘毅と博文約礼は道学の旨訣である。
【通釈】
直方先生の冬至文は弘毅を根本としたもの。この遺文は、冬至文の何処の部分を受けたものだと言うこともないが、博文約礼が骨子である。曾子が弘毅をつかまえたのはこの博文約礼によってであり、「士不可以不弘毅」が博文約礼なのである。博文ばかりで約礼を手抜きして行わず、逆に、約礼を第一と心得て博文をしないのは、皆片手落ちである。その片手落ちなところを気質だからと言って、気質の通りに引きずられるのは弘でない。博文も約礼も双方心に畳み込むのが弘である。その様に心得、理解しただけでは、道を得たとは言えない。その通りに成し遂げることを毅と言う。冬至文の弘毅もこの文の博文約礼も皆、道学を完備するための旨訣である。
【語釈】
・なぐりて…手をぬくこと。
・全備…完全にそなわること。不足なく十分であること。

信云、順齋金火箸のこと、尹彦明印子の蚤の類、弘の字にささわる様なれとも、ここは実心の処にみるべし。学問を家業にすれば、大ぶりにても皆為人と云につまるなり。此処より省みば、吾も人も赤面すべきなり。
【通釈】
黙斎が言う。順斎の金火箸のことや尹彦明の印子の蚤の類は弘の字に障わる様であるが、ここ本心についてのことだと理解しなさい。学問を家業にすれば、それが盛況でも皆、結局は「為人」である。この点から省みれば、自分も人も皆、赤面せざるを得ない、と。

佐藤子卒既六十八年。先君下世亦實二十七年。學者漸失其眞惑佗岐投俗論日歸卑陋之域。而初學可西可東之徒遂受以為此誠道學宗旨也。是則可嘆矣。因表章冬至文附三子之言於其後以峻門風嚴心術云。天明丙午正月稲葉信謹書
この正月のことなり。山中無暦日幽居無事のまま、指を屈して感慨のまま、冬至の文から段々を抜出したり。要助貴老など幾んと五十年ほど勉学して、これまで冬至の文を知らぬと云も、皆が韞蔵録などを蔵え仕舞て置たゆへ、冬至文のあるを知らぬぞ。直方先生のことは、同志の人に示したきことなり。秋中よりして閏月あるからは、ををかた此朔日などが冬至に中らふと思ったれば丁ど冬至にあたりて、冬至文を今日讀むは天の賜と聴たがよい。天の霊によると云ほどのことなり。
【解説】
黙斎の遺文は正月に書かれた。直方先生の行状は黙斎門下に知られていないが、教えておきたいものである。
【通釈】
それは正月のことであった。山中暦日無く幽居事無しで、指を折りながら感慨のまま、冬至文から優れた文章を抜き出した。要助老翁などが五十年余りも勉学していながら、これまで冬至文を知らなかったと言うのも、皆が韞蔵録などを蔵へ仕舞い込んでいたから、冬至文があるのを知らなかったのである。直方先生のことは、同志の人達に教えておきたいことである。秋中より後に閏月があるから、大方、今日という一日が冬至にあたるだろうと思ったら、丁度冬至にあたった。よって、冬至文を今日読むのは天の賜と思って聴きなさい。天の霊のお陰というほどのことである。
【語釈】
・山中暦日無く…唐詩選太上隠者答人詩。「偶来松樹下 高枕石頭眠 山中無暦日 寒盡不知年」。
・幽居…俗世間を避けて物静かな所に引きこもって暮すこと。また、その住居。閑居。
・要助…大原要助。大網白里町柳橋の人。
・韞蔵録…佐藤直方著。
・閏月…閏に当る月。太陰暦で、12ヵ月の他に加えた月。

下世は世を下ると云ことなり。何やら出所はわすれた。学者漸失其眞。この學と云も上総では別して云はれることで、どれも直方、石原、迂斎諸先生から来ぬはない。それで何處にも近思録などがあるぞ。皆冬至の文から下流の学なり。なれとも、直方先生の學の旨訣と云処はそろ々々ぬけて来たぞ。惑佗岐は淋しくなったなり。店を半分、片みせは外の商をするなり。それが衰へなり。芝のたいこう菴の、駿河町の越後屋のと云は、いつもさびれぬことなり。餘のものは賣らぬ。近来学問がさし水がしたなり。神道もまぜ、雜書をよみ、又、今はやる手嶋と云もあり。勢ひがそふなるなり。他岐に惑ふとは云ふなり。そふたひ學者が衆人愛敬はやわらを入れる類。弱ひ商人もそれなり。商賣のかわるは皆衰へぞ。
【解説】
上総の学は直方、石原、迂斎諸先生から来たものであって本当の学問である。しかし、最近はそれが衰えつつある。また、学問とは本来混じりのないものだが、神道や雑学などが混じることもある。これを「他岐に惑う」と言う。学問に混じりがあってはならない。
【通釈】
「下世」とは、世を下ること。何が出所かは忘れた。「学者漸失其眞」。この学と言うことも、上総では特に言えることで、どれも直方、石原、迂斎諸先生から来ないものはない。それで、何処にでも近思録などの書がある。皆冬至文から流れ出た学である。しかしながら、直方先生の学の奥義はそろそろ抜けて来ている。「惑他岐」は淋しくなったということ。店を半分に分け、片方の店では他の商いをすること。それが衰えである。芝の太好庵や駿河町の越後屋はいつも寂れない。それは、本業以外のものは売らないからである。最近、学問に差水がある。神道を混ぜ、雑書を読み、また、今流行る手嶋と言う者もいる。時の勢いでそうなる。これを惑他岐と言う。大体、学者が衆人に愛敬を振りまくのは和らを入れる類。弱い商人も同じである。商売が替わるのは皆衰えである。
【語釈】
・近思録…宋の朱熹・呂祖謙の共編。一四巻。
・さし水…差水。井戸に他から悪い水がしみ込むこと。また、その水。
・手嶋…手島堵庵。江戸中期の心学者。名は信。通称、近江屋嘉左衛門。京都の商人。石田梅岩に学び、心学の普及に努め、広く市民教育に尽力。(1718~1786)
・やわらを入れる…和らを入れる。なまぬるいことをする。差水と同じ意。

投俗論は、人に馳走されたがりて、兎角身代のことが大事じゃなどと云なり。聖人のは洪範五福を云が、我が身に善を持つと福の来ると云までなり。福に目をくれることの微塵もない。兎角尤づくめを云て御奉公が大事の、身代が大事のと云が尤なことなれとも、それを看板にして白徒づきをよいやふにし、とかく忰をもあの人へたのまんと馳走されたがるが俗儒根性なり。
【解説】
奉公や身代は大事なことではあるが、人にもてはやされたいと思ってその様に言うのを俗儒根性と言う。聖人は己に善を持った結果、福を得るのであって、福を目当てに行動するのではない。
【通釈】
「投俗論」は、人にもてはやされたくて、とかく身代のことが大事だなどと言うこと。聖人は洪範の中で五福を言っているが、自分の身に善を持つと福が来るというだけのことである。聖人は、福を目当てにすることなど微塵もない。とかく尤もらしく、ご奉公が大事だとか、身代が大事だと言うが、それは尤もなことではあるが、それを看板にして仲間付き合いをうまくして、とかく、忰もあの人へ頼もうと、もてはやされたがるのが俗儒根性なのである。
【語釈】
・洪範…書経周書の編名。
・五福…書経洪範にある人生の五種の幸福。寿命の長いこと、財力のゆたかなこと、無病なこと、徳を好むこと、天命を以て終ること。
・白徒…訓練しない兵士(漢書鄒陽伝注)。

歸卑陋之域。武士を初とし、志のあるものは、落したものは銭百文も取らぬなり。それを拾ったら下卑た男と云はふが、学問にそれがあるぞ。卑陋之域と云は、上べは見事で心はもっと浅ましきことなり。それはと云にとふかく人に誉られたがり、先生になりたがり、講席群集すればうれしがり、門人のちらぬやふに合せかけ、老荘をも一味加へ、神道も習合、衆人愛敬、銭捨ふたよりもさもしいぞ。心ざま陋ひ処が卑陋の域と云。孟子好て人の師たると云。幸田云、学者には俗人にも無ひ人欲をもち合せているとは、さて々々名言なり。
【解説】
志を持った人は、人が落した金を拾ったら下卑だと言うが、下卑た学者もいる。学者における卑陋とは「為人」をすることで、これは落した金を拾うよりも下卑たこと。学者は俗人には無い人欲を持っている。
【通釈】
「歸卑陋之域」。武士をはじめとして、志のある者は、落したものは銭百文でも取らない。それを拾う者を下卑た男だと非難するが、学者にもそれがある。卑陋之域とは、上辺は見事で、心はそれ以上に浅ましいこと。それはどの様なことかと言うと、とかく人に誉められたがり、先生になりたがり、講席が人で賑わえばうれしがり、門人が散らない様に色々な学派を掛け合わせて、老荘をも一味加え、神道も習合し、衆人に愛敬を言う。それは銭を拾うことよりもさもしいことである。心の様が陋いことを卑陋之域と言う。孟子は「人之患在好爲人師」と言われた。幸田の言う、学者は俗人にも無い人欲を持ち合わせているとは、さてさて名言である。
【語釈】
・学問…日原以道真蹟本では「学者」。
・とふかく…日原以道真蹟本では「とかく」。
・習合…相異なる教理などを折衷・調和すること。
・さもしい…一説に、沙門からサモンシイが作られ、サモシイと転じた語で、沙門のような感じだというのが原義という。①見苦しい。みすぼらしい。②いやしい。卑劣である。心がきたない。
・心ざま…心様。気だて。性格。心体。
・陋ひ…せまい。いやしい。
・好て人の師たる…孟子離婁章句上23。「孟子曰、人之患、在好爲人師(孟子曰く、人の患は、好んで人の師に爲るに在り、と)」。
・幸田…幸田子善。江戸の人。幕臣。迂斎門下。1720~1792

而初學可西可東之徒。とかくに師匠やくに立つと、それからわるくなるぞ。弟子になって行くものが迷惑なり。可西可東は、初学なんの合点なく、品川へも千住へも誘引次第で引こまれるぞ。遂受以為此誠道學宗旨也。我身持の取り違ひは手前一箇の不調法なり。道脉の取り違ひは、此邊でも直方迂斎両先生の道と云てとほふもないことをとなへれば、志ありて學ぶものらちもなくなり、それのみならず、新たに学ぶものがまんまと受けて、両先生の学脉は斯ふと思ふなり。若ひものはどふもなるものなれば、そこが気の毒なり。前賢を汙し、後生を誤るなり。是則可嘆矣。某がやふなををちゃくなものでも嘆ぜねばならぬことなり。
【解説】
とかく師匠の役に就くと、それから悪くなる。身代を潰すのは自分だけの失敗だが、道脉を取り違えれば志ある者は嫌気が差すし、初学の者は信じ込む。それは気の毒なことである。
【通釈】
「而初學可西可東之徒」。とかく師匠の役に就くと、それから悪くなる。弟子になる者が迷惑である。「可西可東」は、初学の者が何もわからず、品川へも千住へも誘われた通りに引き込まれることを言う。「遂受以為此誠道學宗旨也」。自分の身持ちの誤りは自分一人のしくじりである。道脉の取り違えは大変なことで、この文も直方迂斎両先生の道と言って途方もないことを唱えれば、志があって学ぶ者はつまらなく思い、それのみならず、新たに学ぶ者がまさにこれを信じて、両先生の学脉はこうだと思ってしまう。若い者はどうにでもなるから、気の毒なことである。前賢を汚し、後世の人を誤ることになる。「是則可嘆矣」。私の様な横着な者でも嘆じざるを得ない。

峻門風。門風は直方以来傳へ来た門風なり。門風は手前のものでないぞ。某も学問でどふらくはせぬぞ。幸田もそれなり。禅意もあり、あの通り方曠なれとも、見臺に向ふと朱子以来直方迂斎石原諸先生よりうけた所の外はわきへ出さぬぞ。宗旨と云がかふしたこと。すこし違ふと門風が峻でないぞ。峻ははげしくするなり。我好きを出さぬなり。師匠役になれば、道を傳へる役人なり。そこをするどにすることなり。嚴心術。是が大事なり。心からすることなり。生其心害其政で、嚴心術は心のそこのことゆへ、儒佛王覇も。心の根からきめることを嚴にすと云なり。其心のそこがゆるむゆへ、其位のことはよひと云なり。夫で一大事をするときにぶいことはない。命をすてるに且[まあ]はないぞ。まあは棄ぬぞ。身を投るものがまあでは、両國から歸るぞ。
【解説】
「門風」とは、直方以来の学風のことで、この学問のみを行うことを宗旨と言う。「峻」とは、門風の通りを激しく行うことで、そこに自分の好みを出してはならない。「厳心術」とは、心底から極めることを言う。心が緩んではならない。
【通釈】
「峻門風」。門風とは、直方以来伝え来た門風のことである。門風は自分のものではない。私も学問では道楽をしない。幸田もそうである。彼は禅にも通じ、あの通りの博識であるが、見台に向かうと朱子以来直方迂斎石原諸先生から引き継いだこと以外は話に出さない。宗旨と言うのはこの様なことである。少しでも宗旨に違えば門風が峻でない。峻は激しく行うことで、自分の好みを出してはいけない。師匠役になるのは、道を伝える役人となることである。そこで、鋭くしなければならない。「嚴心術」。これが大事で、心から行うことである。「生其心害其政」で、嚴心術は心底のことであって、儒仏王覇も心の違いからそうなる。そこで、心の根本を極めることを「嚴」と言うのである。「其心」の底が緩むので、その位のはよいと言う。それで、一大事をする時にこれほど鈍いことはない。命を棄てる時に、まあとは言わない。まあと言う人は命を棄てる気はない。身を投じる者がまあなら両国から帰る。
【語釈】
・方曠…気ままで物事にこだわらない。開け放って明るいさま。
・見臺…見台。書見台の略。書物をのせて読むための台。支柱に板を斜めにとりつけ、その板の上に本をのせる。邦楽の譜面をのせるのにも用いる。
・生其心害其政…孟子公孫丑章句上2。「生於其心、害於其政(其の心に生ずれば、其の政に害あり)」。滕文公章句下9では「作於其心、害於其事。作於其事、害於其政(其の心作[おこ]れば其の事に害あり。其の事に作れば其の政に害あり)」とある。
・儒佛王覇…儒教・仏教・王道・覇道、または、儒者・仏教徒・王者・覇王
・覇…日原以道真蹟本では「伯」。
・両國…吉良上野介邸が本所松坂町にあり、両国が近い。身を投じるとは赤穂浪士のこと?または両国橋での身投げ?

心のきまりのよいわるいを心術と云なり。小學の心術の要が子供の時からきめるぞ。朱子の学は微塵でもぬけ所のないなり。これが冬至の文にかかったことでないやふなれとも、ここが冬至の文のぎり々々の処なり。峻門風は、聖人の道は廣大なことなどとまぎらかさぬ。そこを若輩なほどするどく守ることなり。学問は、しゃれたはわるいぞ。又、大様なと云も俗学者めいてわるいぞ。それで直方先生壮年の時、人が蟻通の明神と云たとなり。それがものとがめをするから云たぞ。其ものとがめをするも、こちを磨く心術が嚴ゆへなり。それで、学者はぎやふさんな程がよいぞ。王陽明るいの柔和にんにくいやみなり。聖学は俗儒や異端を闢くが嚴心術なり。伯夷望々然去之なり。伯夷は人の頭巾の曲がったも気にかかるなり。心術に三寸の見のがしはないぞ。
【解説】
「心術」とは、心の極め方の良否を言う。朱子学は厳である。学問は洒落、大様、柔和忍辱では悪い。「峻門風」で強く実践しなければならない。聖学では、俗儒や異端を退けることが「厳心術」なのである。
【通釈】
心の極め方の良い悪いを心術と言う。小学にある心術の要諦が、子供の時から極めなければならないことである。朱子の学は少しも緩んだ所はない。これは冬至文に関連したことでない様に思えるが、ここが冬至文の極致の処なのである。「峻門風」は、聖人の道は広大なことだなどと誤魔化さないことで、そこを若輩な者ほど鋭く守らなければならない。学問は洒落ると悪い。また、大様なことも俗学風で悪い。直方先生が壮年の時、人が彼を蟻通の明神と言ったそうである。直方が小さなことでも咎めるからその様に言ったのである。彼がもの咎めをするのも、自分を磨く心術が厳だからである。よって、学者は甚だしく行う方がよい。王陽明の類の様な柔和忍辱は嫌味である。聖学では、俗儒や異端を攻撃して退けることが「嚴心術」なのである。「伯夷望々然去之」である。伯夷は人の頭巾の曲がったのも気に掛かる。心術には少しの見逃しもない。
【語釈】
・大様…①度量が大きいこと。大度。②ゆったりと落ち着いていること。鷹揚。③おおざっぱなさま。おおまか。
・蟻通の明神…大阪府泉佐野市長滝(蟻通の地)にある元郷社、蟻通神社。枕草子・古事談などに見える。祭神は大名持命。
・王陽明…明の大儒。名は守仁。字は伯安。陽明は号。浙江余姚の人。初め心即理、後に致良知の説を唱えた。世にこれを陽明学派または王学と称する。兵部尚書。文成と諡された。著「伝習録」「王文成公全書」など。1472~1528
・にんにく…忍辱。六波羅蜜の一。もろもろの侮辱・迫害を忍受して恨まないこと。
・闢く…退ける。取り除く。
・伯夷望々然去之…孟子公孫丑章句上9。「與郷人立、其冠不正、望望然去之。若将浼焉(郷人と立ちて其の冠の正しからざれば、望望然として之を去る。将に浼[けが]されんとするが若し)」。

徳で云へば某などは、今司馬温公がここへ来らるると艸履をも直す身分なれとも、格物致知の論に於ては、大学は某が読で聴せやふと云ふなり。孟子をわるく云ふと一太刀切かけるが嚴心術なり。貝原久兵衛くはえをつくること迠を気をとめ、京めぐり日光めぐり。道学は、あのやふなことはないぞ。和ら身になると、世上一通りの君子めくぞ。吾黨の任は奴を出すがよいなり。見識がするどでなければ卑陋になるから、斯ふ言わねばならぬことなり。
【解説】
聖学に関しては、地位の高い人に対しても譲歩しない。聖学に敵する者は排除する。穏やかではいけない。
【通釈】
徳のことを言えば、私などは今司馬温公がここへ来られれば、彼の草履をも直すほどの低い身分であるが、格物致知の論なら、大学は私が読んで聴かせましょうと言える。孟子の悪口を言われれば、一太刀切りかけるのが「嚴心術」である。貝原久兵衛がくわえをつくることまでを気にとめ、京めぐり日光めぐりをする。道学では、あの様なことはしない。穏やかになると世上一般の君子風になる。我が党の任としては貝原を追い出すのがよい。見識が鋭くなければ卑陋になるから、この様に言わねばならないのである。
【語釈】
・司馬温公…司馬光。北宋の政治家・学者。字は君実。山西夏県の人。神宗の時、翰林学士・御史中丞。王安石の新法の害を説いて用いられず政界を引退、力を「資治通鑑」の撰述に注いだ。哲宗の時に執政、旧法を復活させたが、数ヵ月で病没。太師温国公を賜り司馬温公と略称。文正と諡。1019~1086
・格物致知…大学八条目の二つ。
・貝原久兵衛…貝原益軒。江戸前期の儒学者・教育家・本草学者。名は篤信。損軒とも号。筑前福岡藩士。松永尺五・木下順庵・山崎闇斎を師とし、朱子学を奉じた。著「慎思録」「大疑録」「大和本草」「益軒十訓」など。1630~1714
くはえ…補足?追加?
・京めぐり日光めぐり…貝原益軒著、京城勝覧一巻(京めぐり)、日光名勝記一巻がある。

信云、當春よりの出席にて如此に吾黨の趣き領會し、録し、認めらるること珍重々々。去れとも中々此様なることにてはなし。新発田の学友へも、とかく今迠の学問を仕直せ々々々と申遣候べき。左なくては一新のと云はれぬ。今是昨非の望なし。此亦冬至文第一の見所なり。
【通釈】
黙斎が言う。当春からの出席で、この様に我が党の趣きを合点し、記録し、認めることができたのは珍重である。しかし、中々この様なことは簡単にできるものではない。新発田の学友へも、今までの学問をやり直せと言い聞かせなければならない。そうでなければ一新などと言えず、今是昨非の望みもない。これもまた、冬至文第一の見所である、と。
【語釈】
・領會…領解し会得すること。合点。
・新発田…新潟県北東部の市。もと溝口氏10万石の城下町。
・一新…古いことを全く改めて、万事を新たにすること。
・今是昨非…陶淵明の帰去来辞より。境遇が一変して、昨日非と思ったことが今日は是と思うようになること。

講餘
微笑曰、手前の文を手前で講釈と云は始てなり。十一月三日洪範會後、先生文七に謂て曰、先日、冬至文で学者に盗人があると云は、直方迂斎先生の学をしながら、又、外の学をするからぞ。朱子学と云て外のことをもそっと加れば、女なれば密夫をもったのぞ。そこを盗と云なり。先日、重次郎が学問と行を別々にすると云が、なるほど学者は道を重く身を軽くすることなり。今の学者が凡夫の水ばなれせずに身と道を並べ行ふとするゆへ、身に合ふやふに道を卑く云なす。道の罪人なり。
【解説】
冬至文一講の三日後にあった洪範会の後、高宮文七に対して、学者の中には盗人がいることの説明をする。また、学問と行を別々にすると言った重次郎の言について、これを是とし、学者は道を重く身を軽くするのがよく、並立させては身が基準となって道が卑しくなる。
【通釈】
黙斎が微笑んで言う。自分の文を自分で講釈するのは初めてのことである。十一月三日の洪範会の後、先生が文七に対して次の様に言った。先日の冬至文講釈の中で、学者の中に盗人がいると言ったのは、直方や迂斎先生の学問をしながら、また、その他の学問をするからである。朱子学だからと言って、藤門以外のものを少しでも加えれば、女であれば密夫を持ったのと同じである。そこを盗と言う。先日、重次郎が学問と行を別々にすると言ったと述べたが、なるほど学者は道を重く身を軽くするのがよい。今の学者は凡夫が親離れできないように身と道を並べて行おうとするから、身に合う様に道を卑しめてしまう。それでは道の罪人である。
【語釈】
・洪範…書経周書の編名。儒家の政治道徳の基本法則に基づいて述べた政治哲学の書。
・文七…高宮文七。東金市押掘の人。黙斎門下。
・もそっと…もう少し。もちっと。
・重次郎…浅見絅斎。中田十二か?
・水ばなれ…親の手もとを離れること。一般に、別れること。縁を切ること。

通辞がよひは、こちの意をそへぬなり。町同心がよいは、身が軽けれとも上意と云てれき々々えも蹈こむぞ。任が重ひからなり。学者も聖人の道を上意と懸かけることなり。温公貝原は小い道を持ってくるなり。と云て、某に司馬温公貝原ほどな德になってと云ふと痛み入るが、そこを町同心になれなり。天下の罪人を縛るには、歴々の大臣に縛れとは謂はれぬぞ。同心が縛るなり。学者の尊ひも道を重んずるからなり。冬至の文を編集したも、直方迂斎両先生の学がだん々々小くなるやふに思ふからなり。
【解説】
通訳や町同心は我意を入れずに自分の任を貫く。その様に、学者も道を任じなければならない。また、冬至文を編集したのは、道統の学が小さくなってきたと思えたからである。
【通釈】
通辞がよい理由は、自分の意を加えないからである。町同心がよい理由は、身分は低いが上意と言って身分の高い人の所へも踏み込むからである。それは彼等の任が重いからできるのである。学者も聖人の道を上意と言って掲げなければならない。温公や貝原は小さい道を持って来る。だからと言って、私が司馬温公や貝原ほどの様な徳になれと言われれば恐縮してしまうが、そこは、町同心になればよい。天下の罪人を縛るにも、身分の高い大臣に罪人を縛れとは言われない。同心が縛るのである。学者が尊い理由も、道を重んじるからである。私が冬至文を編集したのも、直方迂斎両先生の学が段々小さくなってきている様に思うからである。
【語釈】
・通辞…①通訳。通弁。江戸時代、長崎に唐通事・和蘭通詞が置かれた。②中間に立って取り次ぐこと。
・温公…司馬光。北宋の政治家・学者。1019~1086
・貝原…貝原益軒。1630~1714

習合と云がわるいことで、神道も儒を習合がわるいぞ。をれが神道のこと、たんてき、山崎家の神道がわるいと云ことなり。習合だけわるい。湯武の放伐は各別のことと云が誰ゆるすことか、をかしきなり。日本では放伐したと云ことはない。どこ迠も湯武の放伐もわるいと云がよい筈のことなり。そふたい、三教一致のるい。佛者も靠傍底之意思はよはい方からなり。なんでもまぜることはたぎらぬ。右餘論の中、重次郎が学と行と別々にすると云は一意思あることなれとも、争の端ぞ。某當年の雜録の中、この趣を云述る二條ありと出し示せり。下に見たり。
【解説】
習合は悪い。山崎闇斎は、神道を習合した分だけ悪い。湯武の放伐も、それは日本にあるべき筈もなく、悪いことなのである。
【通釈】
習合と言うのが悪いことで、神道も儒教を習合するのは悪い。私が神道のことを言うのは、つまり、山崎家の神道が悪いと言うことである。習合の分だけ悪い。湯武の放伐は特別であると言うが、誰がそれを許すか。妙なことである。日本では、放伐をするということはない。どこまでも湯武の放伐も悪いと言うのが正しい筈である。大体、三教一致の類は悪く、仏教徒も靠傍する様になるのは意思が弱いからである。何にしても混ぜれば滾らない。先に述べた餘論の中で重次郎が学と行と別々にすると言ったのは一意趣あることではあるが、争いの種にもなる。私が今年書いた雑録の中に、この趣きを言い述べたものが二條あるのと言って、ここに示した。それは次の通りである。
【語釈】
・習合…相異なる教理などを折衷・調和すること。
・山崎…山崎闇斎。1618~1682
・湯武の放伐…湯王は夏の桀王を滅ぼして殷を開いた。武王は殷の紂王を破って周による天下統一を行った。
・三教一致…神道・儒教・仏教を合わせること。
・靠傍…傍らに靠[もた]れる。

學者不自省極口説第一等処依舊不進者其罪軽矣。言行相顧欲己言與古人近似己所為畧類古人凡百從第二箸者其罪重矣。一雖無得於己亦無枉聖賢之道故無罪也。一雖如己動作當道亦盖蔽以欺人我枉聖賢之道故有罪也。
【読み】
學者自ら省みざるに口を極めて第一等の処を説き、舊に依りて進まざる者は其の罪軽し。言行相顧み、己が言と古人と近似し、己が為す所古人に畧類することを欲し、凡百第二箸よりする者は其の罪重し。一は己に得る無きと雖も、亦聖賢の道を枉げること無き故に罪無きなり。一は己が動作道に當たるが如しと雖も、亦、盖蔽以て人我を欺き聖賢の道を枉ぐ故に罪有るなり。
【解説】
自省なくして古人の真似をして極致を説くが、古人の教えに従ってそれ以上のことは行わない者は、言行を聖人に似せて二流のことを説く者よりもよい。後者は聖賢の道を枉げる。
【通釈】
学者の中で、自省もせずに口を極めて極致の処を説き、古人の教えに従ってそれ以上進まない者は罪が軽い。自分の言行を顧みて、自分の言を古人の言に似せ、自分の行いが古人のものに類する様に謀り、諸々の第二等に従っている学者は罪が重い。一方は、自分に得るものがないと言っても、聖賢の道を枉げることがないから罪が無いのである。もう一方は、自分の動作が道に当たっている様でも、人欲に蔽われることによって他人や自分を欺き、聖賢の道を枉げるので、罪が有るのである。
【語釈】
・凡百…いろいろのもの。もろもろ。はんぴゃく。
・第二箸…「第二著」。第二着。第二等。
・盖蔽…盖、蔽ともにおおうこと。

答劉子澄書曰、来喩又有避主張程氏之嫌。若只欲其合於世俗而使庸人愛之則符読書城南一篇足矣。何事労吾人桾摭之功哉。文集三十五。
【読み】
劉子澄に答えるの書に曰く、来喩に又、程氏を主張するの嫌を避ける有り。若し只、其れ世俗に合わせ、庸人に之を愛せしめんと欲せば、則ち、符書を城南に読むの一篇にて足る。何事ぞ、吾人桾摭[くんせき]の功を労せんや。文集三十五。
【解説】
劉子澄の手紙には、程氏を主張しすぎることを避ける意があり、それを朱子が非難した。凡人に愛されるためだけなら、韓愈の符読書城南詩の一篇で足りると言う。
【通釈】
朱子の劉子澄に答える書に言う。手紙には程氏を主張し過ぎることを避ける意があるが、もしもただ世俗に迎合して凡人に学問を愛せしめようとしたければ、符読書城南の詩一篇だけで足りる。何で貴方が書物調べに苦労する必要があろうか。文集三十五。
【語釈】
・劉子澄…諱は清之。朱子の門に学びその指授を受け『小学』を編纂した。
・来喩…他人から言ってよこした言葉の尊敬語。来命。
・庸人…普通の人。なみの人。凡人。
・符書を城南に読む…韓愈の詩。符は韓愈の子。城南は別荘のあった所。韓愈が符に勤学を勧めた詩。
・桾摭…「桾」、「摭」ともに拾う意。拾いとること。転じて、書物の要所を拾い集めること。桾採。

舊見劉子澄作某処學記、其中有雖不能為向上事、亦可以做向下一等之意。大概是要退。如此便不得。語類六十。
【読み】
舊、劉子澄が某[おのれ]の処の學記を作るを見るに、其の中、上に向きて事を為す能わずと雖も、亦、以て下に向きて一等を做[な]す可きの意有り。大概是れ退くを要す。此の如きは便ち得ず。語類六十。
【解説】
劉子澄の作った学記に、上に向いて事をすることができなくても、下に向いて一番よいところを行うべきだという意があったが、下に向くのは二等であり、それでは後退するばかりで何も得ることができないと朱子は言う。
【通釈】
昔、私が劉子澄に命じて作らせた学記を見ると、その中には、上に向いて事をするがことができなくても、下に向いて一等のところを行うべきだという意があった。大概、それでは後退してしまい、何も得られない。語類六十。

右二語有感抄之。如学者不信韞蔵録而愛駿臺雜話皆下等手段與一種手嶋家政相成伯仲。皆不會読朱書之過耳。佐藤子門人専講朱書節要訓門人之二書。其指導誘掖與今日學者功夫甚別也。
【読み】
右二語感有りて之を抄す。学者韞蔵録を信ぜずして駿臺雑話を愛でるが如きは、皆下等の手段、一種手嶋家の政と伯仲を相成す。皆、朱書を読むことを會せざるの過ちのみ。佐藤子門人専ら朱書節要訓門人の二書を講ず。其の指導誘掖の方、今日学者の功夫と甚だ別なり。
【解説】
当世の学者は、朱子の書を読む機会がなかったために下等になっているが、佐藤門下は学問の功夫が彼等とは違って朱子書節要と訓門人を専ら講じる。
【通釈】
右の二つの文章は、感慨があって書き写した。学者が韞蔵録を信じないで駿台雑話を賞美する様なことは皆劣った人のすることで、一種手嶋家の政と似たこと。朱子の書を読む機会がなかったという過ちから起こっているのである。佐藤先生の門人は専ら朱子書節要と訓門人の二書を講じている。この指導や補佐の方法は、今日の学者の方法とは甚だ違っている。
【語釈】
・抄す…書きうつす。抜き書きする。抜き書きして注釈を加える。
・駿臺雑話…随筆。室鳩巣著。5巻。1732年(享保17)成る。見聞にことよせて道義と学問とを説いたもの。
・手嶋…手島堵庵。江戸中期の心学者。1718~1786
・伯仲…兄と弟。長兄と次兄。きわめてよく似ていて優劣のないこと。
・誘掖…「誘」は前にあって導く意、「掖」は傍から助ける意。みちびき助けること。輔佐。

追加 鵜沢恭節
【語釈】
・鵜沢恭節…鈴木恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830

附録あれば予が講義は載せずとよけれど、異日の感にはよかるべし。附録の中、天木は皆々知りたることなれとも、佐藤門人の中ち年若にて甚英気ありたり。今日、学者とかく天木を目當にすべし。即ち彼の筆記にてみへたり。因て云、此人は甚だ気象よく言語さはやか快活にて平世風采をあらはし、どふだ々々々と肩を聳へて切磋したり。眼をさらし書を読み、湯に入る間もなかりしよし。生ま米をかみ、書を読み、腹を下し、諸友にしかられたること、先達遺事に載せたり。此人もと唐津生れなれとも如此豪傑ゆへ、小杉長兵衛つね々々したい、江戸町宅のときもあみ笠をかぶり、若黨二人にてしのび尋ぬ。小杉は千石の家老なれとも中々屈せず、同輩にあしらひき。供の者にくみて土ちごほう先生と云たるよし。これにても其人品しるべし。
【解説】
以下の文は、冬至文附録の「凡て七道」の説明。最初に、天木時中の人品を述べる。ここで黙斎は、天木の豪傑さを高く評価する。天木の日常や小杉長兵衛との関係を例に出して、彼の人柄を述べている。
【通釈】
附録があるので私の講義は載せなくてもよいのだが、改めてそれをしてみるのもよいことだろう。附録の中にある天木は皆が知っている人だが、佐藤門人の中で、年若くして甚だ英気のあった人である。今日、学者はとかく天木を目当てにしなさい。それは彼の筆記で理解することができる。そこで以下の通りに言う。この人は甚だ気象がよく、言語爽やかで快活、平世から優れた風采を現し、どうだどうだと肩を聳やかして学問に励んだ。眼をさらして書を読み、湯に入る間もなかった様だ。生米を噛みながら書を読み、腹を下して学友に叱られたことは先達遺事に載せてある。この人は、元々は唐津生まれだがこの様に豪傑だったので、小杉長兵衛が常々慕って、江戸町宅にいた時も編み笠をかぶり従者を二人連れて、お忍びで彼の元を訪ねた。小杉は千石の家老だが、天木は中々遠慮をしないで小杉を同輩の様に扱った。それで小杉の供の者が天木を憎んで、天木のことを土牛蒡先生と呼んだそうである。このことからも、天木の人柄を理解することができる。
【語釈】
・附録…冬至文附録「凡て七道」を指す。
・異日…過去または将来の或る日。他日。
・天木…天木時中。通称は善六。33歳の時に佐藤直方に入門するが、翌年に直方は死去。その後、三宅尚斎に師事。1696~1736
・切磋…詩経国風衛風淇奧。「瞻彼淇奧、綠竹猗猗。有匪君子、如切如磋、如琢如磨(彼の淇[き]の奧を瞻れば、綠竹猗猗[いい]たり。匪たる君子有り、切るが如く磋するが如く、琢[うが]つが如く磨くが如し)」。
・小杉長兵衛…江戸時代後期。下総古河藩家老。~文政3(1820)
・若黨…①若い郎党。若い武士。②武士の従者。近世には武家奉公人の最上位で、戦闘に参加したが馬に乗る資格のない軽輩を指す。

学問ゆへ身代もつぶし至て貧なれとも、上京のとき、道中書をみるひまをしきとて、とふし駕籠にて上る。駕籠の中ちにて書をみるためなり。たしか此金は石原先生の合力かと聞き及ひぬ。あるとき、迂斎より手紙をやりければ、只今理気の吟味にとりかかり、草々貴報に及ふとかき来りしよし。これ又、今日学者のなき文言なり。博識ゆへ、迂斎も様々のことを問えり。遠遊紀行再遊紀行は迂斎天木と會し故事を問へり。そのあいだ、道体性命のことに及べば両方の肩をふり、手をささめかして、さあ々々ここは道体じゃ々々々々、稲葉兄、御渡し申す々々々々々と云たるよし。そのころ、迂斎先生は同学のうち、道体者とのけをきたり。沢一か、これ道体様とよびかけたることも同し。これは先達遺事に載たり。此両人のこと、我未生以前にて先君子の物語にて聞及ぬ。
【解説】
天木は貧乏で、上京の際の費用も石原先生が出したほどであるが、道学には熱心だった。また、博識だったので、迂斎も彼によく質問をした。尚、当時迂斎は道を体した人と評価されていた。
【通釈】
学問に熱心だったから身代も潰し、いたって貧しかったが、上京の時に、道中読書をする時間が惜しいと言って、通し駕籠で上京した。駕籠の中で書を読むためである。確か、これに要した金は石原先生の援助だった様に聞いている。ある時迂斎が手紙を送ると、ただ今理気の吟味に取り掛かっているので、それが終れば、早々にも貴方の便りを読むと書いて遣した。これもまた、今日の学者にはない言葉である。天木は博識だったから、迂斎も様々なことを質問した。迂斎の書いた遠遊紀行や再遊紀行には、彼が天木と会って故事を質問したことが載っている。その中で、道体性命のことに話が及ぶと両肩を振り、手を動かして、さあここが道体だ、稲葉兄、お渡ししますと言ったそうだ。その頃、迂斎先生は同学の中にあって、道体者として別格に扱われていた。沢一が、道体様と呼びかけたのも同じ意からである。このことは先達遺事に載せてある。この両人のことは、私が生れる前のことだから、先君子の物語で知ったのである。
【語釈】
・とふし駕籠…通し駕籠。出発地から目的地まで継ぎ替えずに、同じ駕籠に乗り通して行くこと。また、その駕籠。反対は替駕籠。
・合力…力を添えて助けること。助勢。金品を施し与えること。また、その金品。
・ささめかして…さざめくは、声を立てていい騒ぐ。がやがやいう。騒がしい音がする。ざわざわする。
・沢一…大神沢一。佐藤直方門下。筑前佐原郡原村の人。幼年にして盲目となる。始めは貝原益軒、林大学に学ぶ。享保10年12月1日42歳にて没。

出淵立恒。一つの名は守行と云、毛利家の臣なり。迂斎初年の弟子なり。依て佐藤三宅両先生へも見へたり。此人至て志たぎりたること度々迂斎咄せとも一々覚へず。至て若死なり。死するとき、迂斎つきそいくるしきやと問たれば、天地ひっくりかへるやふな心もちなりと答へ、それより迂斎学談をしてきかせ、安然として死すたるよし、三宅先生きかれ、甚きどくと穪美せられ、その後も度々門人へ、江戸にて十左が弟子出渕七右衛門と云もの死すとき、天地がひっくるかへると云たとぞ、諸生たち、兼々心得居べきこととなり。三宅先生は甚た生死のことに覚悟をためされ、或年迂斎への書状に、昨夜諸症急発、すわやと存候と如此ことともなり。そのかみ、諸君子の風采気象これらにて知るべし。人欲ありては何ほどにても及びがたきことなり。
【解説】
出淵立恒の説明。彼は守行、七右衛門とも言われる。毛利家の家臣で迂斎の初期の弟子。佐藤三宅両先生にも学ぶ。生死の間を通った経験のある三宅尚斎は出淵の死際を賞賛した。人欲があっては、とても当時の人に及ぶことはできない。
【通釈】
出淵立恒のもう一つの名は守行と言って、毛利家の家臣であり、迂斎の初期の弟子である。よって、佐藤三宅両先生にも学んだ。この人が特に志が強かったことを度々迂斎は話したが、一々覚えていない。かなり若くして死んだ。死ぬ時に迂斎が付き添い、苦しいかと問うと、天地がひっくりかえるような心境であると答えた。そこで迂斎が学談をして聞かせたので安らかに死んだ。そのことを三宅先生が聞かれて甚だ殊勝なことだと賞美され、その後も度々門人に対して、江戸で迂斎の弟子の出渕七右衛門と言う者が死ぬ時、天地がひっくるかえると言ったそうである。諸生たち、予てより心得ておくべきことであると話した。三宅先生は特に生死について覚悟を試された人だが、或る年の迂斎に宛てた書状に、昨夜諸症が急発して、さては死ぬのかと思ったと書いたのも、それを物語る一つである。当時の諸君子の風采や気象を、これ等のことでも理解することができる。人欲があっては、どんなことをしても彼等には及ばない。
【語釈】
・きどく…奇特。特にすぐれて珍しいこと。また、行為などすぐれて賞すべきこと。殊勝。
・十左…稲葉迂斎。通称を十左衛門と称した。
・七右衛門…日原以道真蹟本では「七左衛門」。
・そのかみ…其の上。事のあったその時。過ぎたその時。その昔。

酒井脩敬は代官手代なり。佐平二と云。これ上総道学の初めなり。成東橋かけかへの役がかりにて来りとき、義丹庄内ふと對面し、その縁を以て二人迂斎先生門人となる。此人至て静なる人にて知見もありたるよし、文字の力はなけれともかくだんなるゆへ、迂斎など学友のうちなり。右の出渕は我未生以前のこと、佐平二は迂斎の隣家なり。我五六歳のとき死す。かすかに覚えたるやふなり。永井先生は我九歳のとき卒せり。それゆへよく覚ゆ。然れとも、道徳のをもむきは皆迂斎並に、幸田氏の話しなどにてききしりぬ。冬至の文など文義ばかりのことにあらず。そのかみ、諸門人德義風流にて格別思ひあはすべきことなり。今日諸生の学ひかたにてはとりあはざることなり。
【解説】
酒井脩敬の説明。酒井は代官の手代で佐平二と言う。成東橋架け替えの役で上総へ来た時、義丹と庄内が彼に会い、その縁で二人は迂斎先生の門人となる。よって、酒井脩敬によって上総道学が始まったのである。当時の佐藤門下の徳義には聖人の遺風があり、それは今日の諸生の学び方では及びもつかないほどのものであった。
【通釈】
酒井脩敬は代官の手代で佐平二と言う。これが上総道学の初めである。成東橋架け替えの役の係りでこちらへ来た。その時、義丹と庄内がふと彼に対面し、その縁で二人が迂斎先生の門人となる。この人は実に静かな人で見識もあったそうで、文字を書く力はなかったが格段な人物だったので、迂斎などの学友の内に入っている。先に述べた出渕は私が生れる前の人だったが、佐平二は迂斎の隣家で、私が五六歳の時に死んだので、かすかに覚えている様な気がする。永井先生は私が九歳の時に死んだ。それで、よく覚えている。しかし、道徳の趣は皆迂斎並みであることを、幸田氏の話などで聞いて知っている。彼等が優れているのは、冬至文の文義ばかりのことでない。当時の諸門人の徳義には聖人の遺風があったことを格別に考慮すべきである。それは、今日の諸生の学び方とは全く比較にならないものである。
【語釈】
・手代…江戸時代、郡代・代官・奉行などに雇用され、収税その他の雑務をつかさどった小吏。
・義丹…和田義丹。下総酒々井の人。迂斎門下。1694~1744
・庄内…鈴木養察。上総姫島村の人。迂斎門下。1695~1779
・幸田…幸田子善。名は誠之、善太郎と称す。江戸の人。代々の幕臣。迂斎門下であるが後に野田剛斎にも学ぶ。1720~1792。
・風流…前代の遺風。聖人が後世に残し伝えたよい流儀。

訂斎先生、徂徠などは論ずるに足らぬと云はわけのあることなり。非徂徠学の序にも畧々みへたり。あれらはあたまで道の外とみているなれば、彼れ是れ論ずれば此方のひくいにをちること。丁ど荀子人相見をそしる呂東莱がしかりて、あれを弁ずれば、あれをも一かぶにあしらふにをつると云はれた。これは甚だ面白ひことなり。然るに、迂斎諭学者文に當時の詩文章者をあいてにして、彼れ是れと弁したもひくい様なれとも、面り初学のものあの方へ心を騖[は]するゆへ、をのづから弁ずるなり。予が手嶋をしかるもそれなり。冬至文などにて彼等が学を彼れ是れ歯牙にかける筈はなけれとも、端的、講席え来るものに彼を学んだものもあるゆへ、とりあげて云ことなり。後世より云はば取るに足らぬことを彼れ是れ云ふと笑はん。
【解説】
訂斎先生が、徂徠などは論じるに足らないと言った理由は、彼等と論議をすると、自分自体が彼等の次元まで落ちるからである。それでは、迂斎が学者を諭すの文で当時の詩文章者を批判したことが矛盾する様だが、それは、門弟の新参者が徂徠学に心を引かれていたので、自ずと批判しなければならなかったのである。
【通釈】
訂斎先生が徂徠などは論じるに足らないと言うのには理由がある。徂徠は学に非ずの序にもその概略が書かれている。彼等を最初から道の外にいる者だとみなしているわけだから、そんな彼等をあれこれ議論をすれば、こちらが卑陋に落ちてしまうことになる。丁度、荀子が人相見を謗ったのを呂東莱が叱って、人相見を謗れば、人相見までをも一人前に扱うことになると言われたのと同じ。これは甚だ面白いことである。それなら、迂斎が学者を諭すの文で、当時の詩文章者を相手にあれこれと弁駁したのは低いことの様だが、顔を合わせる初学の者が徂徠学に心を引かれるから、止むを得ず弁じなければならなかったのである。私が手嶋堵庵を批判するのもそれと同じである。冬至文などで彼等の学をあれこれ問題とする必要はない筈だが、講席へ来る者に徂徠を学んだ者がいるから、これを取り上げて言ったのである。後世の人からは、取るに足らないことをあれこれ言っていると笑われることだろう。
【語釈】
・訂斎先生…久米訂斎。京都の人。名は順利。通称は断二郎。三宅尚斎の娘婿で、黙斎が尊敬した学者。「西に訂斎、東に黙斎」とうたわれた。天明四年(1784)十月七日、86歳で没。著書『有含輝集』47巻。
・荀子…中国、戦国時代の思想家。名は況。荀卿また孫卿と尊称。趙の人。50歳にして初めて斉に遊学し、襄王に仕え祭酒となる。讒に遇って楚に移り春申君により蘭陵の令となったが、春申君の没後、任地に隠棲。前298?~前238以後
・人相見をそしる…荀子非相篇。「相人、古之人無有也、學者不道也。…(人の相するは、古の人有ること無きなり、学者道[い]わざるなり。…)」。
・呂東莱…名は祖謙。字は伯恭。宋代官界で代々要職を勤めた家系。朱子の講友。鵝湖の会の主催者。近思録の共同編纂者。1137~1181
面り…まのあたり?顔を合わせる?

此度、冬至文講釈のしかた、見どころありたる読みやうにもあらず。ただ、弘毅の二字のとりあつかいばかりは、先輩未発の説きやふと思はるる。文二録も大概通すれともはきとせず、予が几上の雜記中に書をきたり。考べし。即ち左に識す。
【解説】
一講で、黙斎は弘毅について新しい解釈を行ったと述べる。文二の記録で講義の意は大概通じるが、几上の雑記中に補足を書き置きした。
【通釈】
この度の冬至文講釈は、上手い読み方だったとは言えない。但し、弘毅の二字の取り扱いだけは、先輩が未だ行ったことのない説明の仕方ではないかと思える。文二録でも講義の意は大概通じるが未だはっきりとしないから、私の几上の雑記中に補足を書き置いておいた。これによって考えなさい。その書き置きを左に記す。
【語釈】
・文二録…花澤文二が録した黙斎先生冬至文講義一講を指す。

冬至日講佐藤子冬至文因示聽徒云。人多誤認士不可以不弘毅章帯来気質底説弘毅。不知此是至聖人之材量。集註弘寛廣也。何故寛廣。大学三綱八目論語博文約礼以下凡聖人之教悉具不廃一都在裏。合曽点漆彫開與伯夷桺下惠都會得在裏。自道体之大至曲礼之細都在裏。豈不寛廣乎。非如一善一得之為活計也。毅強忍也。何故強忍。合以上所云云都力行不墜于地。無時無処無一息間断至死豈不強忍乎。非如一旦鋭気之半途廃也。
【読み】
冬至の日、佐藤子冬至文を講じ、因りて聴徒に示して云う。人多く、士不可以不弘毅の章を誤認して、気質底を帯び来て弘毅を説く。知らず、此は是れ聖人に至るの材量なるを。集註に、弘は寛廣なり、と。何故に寛廣なる。大学三綱八目論語博文約礼、以下凡そ聖人の教え悉く具えて一を廃さず、都[すべ]て裏に在り。曾点漆彫開伯夷柳下恵とを合わせて、都て會得して裏に在り。道体の大より曲礼の細に至るまで、都て裏に在り。豈に寛廣ならざらんや。一善一得の活計を為す如きに非ざるなり。毅は強忍なり。何故に強忍なる。以上云々する所を合わせて、都て力行して地に墜さず。時と無く、処と無く、一息の間断無くして死に至るまで、豈に強忍ならずや。一旦鋭気の半途にして廃る如きに非ざるなり。
【解説】
多くの学者は弘毅の章を気質によって説いている。弘毅の弘とは、三綱八目や博文約礼などの聖人の教えを全て身に持つことで、毅とは、弘で得たものを死ぬまで持ち続けることである。
【通釈】
冬至の日に佐藤先生の冬至文を講じ、聴徒に示して次の通りに言う。多くの人は、「士不可以不弘毅」の章を誤認して、気質によって弘毅を説いている。彼等は弘毅が聖人に至るための材量であることを知らない。集註に、弘とは寛広であるとある。何故寛広なのか。大学三綱八目、論語博文約礼、以下凡そ聖人の教えを悉く具えてその一つたりとも棄てずに全て内に持っている。曾点漆彫開と伯夷柳下恵とを合わせて、全て会得して内に持っている。大きな道体から曲礼の細に至るまで、全て内に持っている。どうして寛広でないことがあろうか。一善一得の様な活計をすることとは違う。毅とは強忍のことである。何故強忍なのか。上で言うこと全てを努力して地に墜さない。時期や場所に関係無く、少しの間断も無く、死に至るまでこれを行なう。どうして強忍でないことがあろうか。僅かな鋭気が道半ばで廃れる様なことなどとは違う。
【語釈】
・士不可以不弘毅…論語泰伯8。「曾子曰、士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」。弘毅の章。
・弘は寛廣なり…論語泰伯8集註。「弘、寛廣也。毅、強忍也。非弘不能勝其重。非毅無以致其遠(弘は寛廣なり。毅は強忍なり。弘に非ざれば其の重きに勝うること能わず。毅に非ざれば以て其の遠きを致すこと能わず)」。
・大学三綱八目…三綱は、明明徳、新(親)民、止至善。八目は、格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下。
・論語博文約礼…論語雍也27と顔淵15。「子曰、君子博学於文、約之以礼、亦可以弗畔矣夫(子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔[そむ]かざるべきか)」。
・曾点…曾子の父。曾皙。孔子の門弟。
・漆彫開…漆雕が姓、開が名。孔子よりも十一才若い。
・伯夷…中国の古代伝説上の賢人兄弟の兄,叔斉は弟。孤竹国の公子。周の武王が殷の紂王を討つのは不義であるとし、首陽山に隠れて蕨のみを食して餓死して清節を保ったという。
・柳下恵…魯の賢大夫。

佐藤子初編鞭策録次著排釈晩有標的之作。又作冬至文付託三君子。実相傳的々之旨訣。分毫有加損於此則非朱子之学矣。
【読み】
佐藤子初めに鞭策録を編じ、次に排釈を著し、晩に標的の作有り。又、冬至の文を作りて三君子に付託す。実に相傳的々の旨訣なり。分毫も此れに加損有らば、則ち朱子の学に非らず。
【解説】
直方の著書は道統の旨訣であって、少しでも修正すれば朱子の学ではない。
【通釈】
佐藤先生は最初に講学鞭策録を編集し、次に排釈録を著し、晩年に道学標的を作った。又、冬至の文を作って三君子に付託した。よって、冬至文は実に正当な相伝の奥義である。少しでもこれに加除があれば、それは全く朱子の学ではなくなる。

冬至文兼鞭策排釈二書之旨矣。
【読み】
冬至の文、鞭策排釈二書の旨を兼ぬ。
【通釈】
冬至文は、講学鞭策と排釈録の二書の要旨を兼ねる。

講解聖言如譯人通語不可一句加己意於其間矣。排斥異学如獄吏捉賊不可一毫加己愛憎於其間矣。
【読み】
聖言を講解すること、譯人の語を通ずる如く、一句も己が意を其の間に加う可からず。異学を排斥すること、獄吏の賊を捉うる如く、一毫も己が愛憎を其の間に加う可からず。
【解説】
聖賢の教えには、我意を加えてはならない。異学の排斥には、愛憎を入れてはならない。
【通釈】
聖人の言を講解することは、通訳が話を通じる様に、一句と言えども自分の意をその間に加えてはならない。異学を排斥することは、獄吏が賊を捉える様に、少しも自分の愛憎をその間に加えてはならない。
【語釈】
・譯人…訳人。通訳のこと。

予講冬至文極口排擯俗儒之陸沈。似非君子之気象。然是傳先輩之旨訣於諸君萬分寸悃也。殆復夜半一声雷。
【読み】
予、冬至の文を講じ、口を極めて俗儒の陸沈排擯す。君子の気象に非らざるに似たり。然るに是れ、先輩の旨訣を諸君に傳える萬分寸悃なり。殆ど復た夜半一声の雷
【解説】
冬至文の講釈で俗儒を排斥するのは、先輩の奥義を弟子に伝えるための心遣いある。
【通釈】
私は冬至の文を講じる中で、口を極めて俗儒の陸沈を排斥する。それは君子の気象ではない様に見えるが、先輩の奥義を諸君に伝えるためにした、私のほんの小さな真心からのことなのである。それはまた、夜半一声の雷と同じことだと理解しなさい。
【語釈】
・陸沈…陸に沈む。転じて賢人が俗世間の中に姿を隠していることの譬え。荘子雑篇則陽第25にある語。
・排擯…排、擯、共に斥けること。
・萬分…万分の一。少ないこと。
・寸悃…ちょっとした真心。
・夜半一声の雷…朱子文集の「袁機仲啓蒙を論ずるに答う」の中に、「忽然半夜一声雷」とあり、悟りの機会を表している。

長蔵追加も出来候間、猶又、とくと別に心を立て會得可被成候。千々万々俗と先手後手の棋にては、冬至文に面目も無之次第に候。心の外は皆無用の事と合点、そこを磋きたてて事物に応するに候。学問は飯の種になるものに無之と心得候はは、一格の價[あたい]と存候。田舎にては仕官の弊はなく候へ共、好為人師の累はあり候。年寄るほど學問さがるものに候。御用心々々々。
【解説】
ここで特に心を立て、道統の学を会得しなければならない。田舎では仕官の弊はないが、師匠役になりたがったり、年寄るほど学問が低下するという様な弊はあるから、用心しなければならない。
【通釈】
長蔵が録した追加も出来たが、猶また、特に心を立てて道統の学を会得しなければならない。いつも俗人と碁を打ち合っている様なことでは、冬至文に対して面目もない次第である。心の外は皆無用であると理解し、そこを磋きたてて事物に応じていくこと。学問は飯の種になるものではないと心得ることができれば、それは格別の価値を持ったことになる。田舎では仕官の弊はないが、人の師となるのを好むの累いはある。年寄るほど学問は低下するのである。御用心、御用心。
【語釈】
・長蔵…鵜沢(鈴木)恭節。1762~1830
・一格…自分一人の主義で立てた格式。一流。
・好為人師…孟子離婁章句上23。「孟子曰、人之患在好爲人師(孟子曰く、人の患は好んで人の師と爲るに在り、と)」。

先君子享保丁未冬至詩
奉誦遺文冬至日 群陰拘蔽拂難成 未見來復切思力 果識
十年不克征
【読み】
先君子享保丁未冬至詩
遺文に奉誦す 冬至の日 群陰拘蔽[こうへい]して 拂[はら]うこと成し難し。
未だ見ず 来復切偲の力 果たして識す 十年征[せい]する克[あた]わず

【通釈】
冬至の日にあたって、遺文に謹んで誦じる。靄が包み込んで、それを払い除けることが難しい。一陽来復を切に思ってきたが、未だその効果を見ることができない。ここに識す。この十年は不正を正すことを全うしきれなかった、と。
【語釈】
・先君子…稲葉迂斎。
・享保丁未…1727年。丁未は「ひのと・ひつじ」と読む。
・十年不克征…易経復卦上六に「至于十年不克征(十年に至るまで征する克わず)」とある。

これもはや六十年に候。感慨まま抄出示諸賢候。
【通釈】
迂斎が冬至の詩を書いてから六十年が過ぎた。感慨のままに抜き出して諸賢に示した。
【語釈】
・抄出…抜き出して書くこと。

右一巻、訓門人開巻講義幷[ならび]に節要開巻大意の両冊を通看せよ。是、愚老家学を謹守するの愚悃。田野二三の書生を誘導するの拙法。別に是れ一色之主張のみ。後九年、因人之需之書巻尾。
【通釈】
右一巻に関しては、訓門人開巻講義並びに節要開巻大意の両冊を通看しなさい。これは、愚老家が学を謹守する真心からのことであって、田舎で二三の書生を指導するためのものである。そして、その主張は一つだけである。九年後、人の求めに応じて迂斎の詩をここの巻尾に書いた。