黙斎冬至文二講

黙齋先生再講冬至文筆記   惟秀

庚戌十一月十六日課會之日、幸為南至。因再講之。須與先是丙午所講纎邸録通考。
【読み】
庚戌十一月十六日課會の日、幸いに南至と為る。因りて再び之を講ず。須く是の先丙午に講じたる所の纎邸録と通考すべし。
【通釈】
庚戌十一月十六日の定例会の日が幸いに南至となったので、再び冬至文を講じる。この前の丙午に講じた纎邸録と併せてよく吟味しなさい。
【語釈】
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812
・庚戌…「かのえ・いぬ」と読む。寛政二年。1790年。
・南至…秋分の日から太陽が南方に回り、冬至の日にその極に達することから冬至に同じ。
・丙午…「ひのえ・うま」と読む。天明七年。1787年。冬至文一講を講じた日。
・纎邸録…黙斎冬至文一講を指す。纎邸は花澤文次のこと。林潜斎。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

此冬至文は、つまり道を任すると云こと。道を任するに心得違があるぞ。今の学者はどふやら道を向へをいて、それをこちで世話をする様に思ふ。さうではなくて、任道は吾得ること。こちのものにするから任する。荷の字を合点せよ。人の荷をかつくでない。吾荷だからかづく。任道はつまり為己と云の至極と合点せふこと。
【解説】
冬至文は、道を任じることを説いている。今の学者達は道を遠くに置いて、それをこちらで世話する様に思っているが、それは間違いである。任道とは、道を自分の荷として担ぐことであって、己の為にすることの極致である。
【通釈】
この冬至文は、つまり道を任じることを説いている。道を任じることに心得違いがみられる。今の学者はどうやら道を向こうへ置いたまま、それをこちらで世話をする様に思っている。そうではなくて、道を任じるとは自分が道を得るということ。自分のものにするから任じると言うのである。荷の字を合点しなさい。他人の荷を担ぐでのではない。自分の荷だからを担ぐのである。任道とは、つまり己の為ということの極致のことだと合点しなさい。

わるい譬で云はば、田地公事のをこるは田地が手前の物だから起る。只方々の田を見て公事をせふ筈はない。任道は、孟子が異端邪説をひらいて吾豈好弁哉吾不得已也。こちのことだから云たもの。彼の排釈録の始に、譬如火之焚将及身。身に火のつく様など云ふが聞へた。遠くの山の焼るに騒はせた。任道は吾得るからの騒きなり。
【解説】
田地の訴訟は自分自身のことだから起こる。孟子が弁を好むと言われたのも己の為に止むを得ずしたことである。排釈録の始めにも、自分の身に炎が及ぶ如くとある。つまり、任道とは己の為のことなのである。
【通釈】
たとえが悪いが、田地の訴訟が起きるのは、その田地が自分の物だからである。色々な人の田を見て訴訟をする筈はない。任道とは、孟子が異端邪説を退けて、「予豈好辯哉予不得已也」と言ったのと同じである。自分のことだからこの様に言ったのである。あの排釈録の始めに、「譬如火之焚将及身」とある。身に火のつく様な、と言うのでよくわかる。遠くの山が焼けても騒ぐことはない。任道とは自分に得るための騒ぎなのである。
【語釈】
・ひらいて…闢く。退ける。
・吾豈好弁哉吾不得已也…孟子滕文公章句下9。「閑先聖之道、距楊墨、放淫辞、邪説者不得作。作於其心、害於其事…予豈好辯哉。予不得已也。能言距楊墨者、聖人之徒也(先聖の道を閑[まも]り、楊墨を距ぎ、淫辞を放ち、邪説の者作[おこ]ることを得ざらしむ。其の心に作れば、其の事に害あり…予豈弁を好まんや。予[われ]已むことを得ざればなり。能く言いて楊墨を距ぐ者は、聖人の徒なり、と)」。
・排釈録…佐藤直方著。
・譬如火之焚将及身…「譬えば、火の焚の将に身に及ばんとするが如く」。
・せた…「せぬ」の誤り。

道を任するは即古今の弁、義理之分と云のぎり々々なり。夫れと云も此方の相談だからなり。人の世話をやくに分弁することではない。そこを荷と云字なり。任道はどこで任じやうか知れぬ。宦位も将束も入らぬ。禅で秉拂[ひんほつ]を取るの、此方の僧の能化[のうけ]上人になるの、坐頭が宦をする様なこととは違ふ。外から来ることではないが、道を為己得よふと云ふ日には、道の害になるをは世話をやかねばならぬ。手前の田地だからぞ。百姓が野等[のら]がりをするは任するからぞ。夫て耕作がよくなる。これが為己なり。
【解説】
道を任ずるとは古今の弁と義理の分をすっかりと得ること。それは自分の問題であって、人の世話を焼くことではない。また、任道は職責を任じることとは違う。しかし、道を得ようとすれば、道の害になるものには対処しなければならない。何故なら、それは任道を損なわないためだからである。
【通釈】
道を任じるとは、即ち古今の弁と義理の分の極致のこと。それと言うのも、自分の問題だからである。人の世話を焼くために古今の弁や義理の分を修得するのではない。そこで荷と言う字が出てくる。任道は何処で任じることになるのか、わからない。道を任じるのに官位や装束はいらない。禅で秉拂を取ったり、こちらの僧が能化上人になったりと、坐頭が宦位を得る様なこととは違う。任道は外から来ることに対してのことではないが、道を己の為に得ようとする時は、道を害するものに対処しなければならない。それは、道が自分の田地だからである。百姓が野良刈りをするのは田地を任とするからである。それで耕作が良くなる。これが己の為ということである。
【語釈】
・古今の弁…聖人の言葉。道統の伝。
・秉拂…払子を秉(ト)る意。首座が住持に代って払子を取り、法座にのぼって説法すること。
・能化…一宗派の長老または学頭。化主。
・上人…僧位の名。法橋上人位の略。

道之廃而不行云々。さて、道と云字をどのやふなと云ことを合点せふこと。尭舜の時はあの政か道、孔孟の時はあの学問が道なり。偖て、此筋のことは楊廉渕源録の序によく云たなり。道に姿はないことなり。尭舜は万乗の位に居て道を荷にする。孔子は浪人、顔子はもそっと貧て道を荷にする。姿のかわるは居場でのこと。道に姿はない。そこて、事物當然日用當行之理なそと云なり。冬至文の文たる処は、つまり道を得ること。爰を合点するか大きいことなり。さふすれば、少しの得方を是とし、志願が小さくてはならぬ。此位で得たかなぞと道を小さく心得ると役に立ぬ。爰の処を合点すると冬至文はすむ。吾人羅漢にでも成た皃でをれとも、道は向にをいて拜む内は埒は明ぬ。我へ得ること。吾へ得たとても小さくてはほんものでない。
【解説】
道には決まった姿や形がない。政が道になったり、学問が道になったりするが、それは道を担う人の立場に拠るのである。道はどこにでもあるので、「事物当然日用当行之理」とも言われる。冬至文の主意は道を得ることである。それは中途半端な理解や小さな志ではいけない。道を自分の荷にしても、得たものが小さくては本物の道ではない。
【通釈】
「道之廃而不行云々」。さて、道とはどの様なものなのかということを合点すること。堯舜の時は彼等の政が道であり、孔孟の時は彼等の学問が道である。さて、この関連については楊廉が渕源録の序に上手く書いている。道に決まった姿はない。堯舜は天子の位にいて道を荷にした。孔子は浪人、顔子は孔子よりもう少し貧乏だったが、道を荷にした。道がこの様に変わって見えるのは、人のいる場の違いによるのである。道に決まった姿はない。そこで、「事物当然日用当行之理」などと言うのである。冬至文の文たる処は、つまり道を得ることにある。ここを合点することが大事である。そうであれば、自分が理解した少しのことのみを正しいと考えたり、志願が小さかったりしてはいけない。この位で得ただろうなどと、道を小さく心得ては役に立たない。ここの処を合点すれば冬至文の理解は済む。我々が羅漢にでもなった様な顔をしていても、道を向こうに置いて拝んでいる内は埒が明かない。自分に得ることが大事である。しかし、道を自分に得たとしても、それが小さくては本物ではない。
【語釈】
・尭…中国古伝説上の聖王。陶唐氏。名は放勲。舜と並んで中国の理想的帝王とされる。唐堯。帝堯。
・舜…中国の古代説話に見える五帝の一。虞の人で、有虞氏という。
・楊廉…明代の学者。
・渕源録…朱子著。
・万乗…一万台の車。天子。天子の位。天位。
・事物當然日用當行之理…朱子の言。朱子は「道は日用の事物に当に行わるべきの理」と言う。
・羅漢…阿羅漢の略。仏教の修行の最高段階、また、その段階に達した人。もとは仏の尊称にも用いたが、後世は主として小乗の聖者のみを指す。声聞四果の第四位。

執德不弘信道不篤焉為有焉能為亡。道はちっと得たではならぬから、此文の仕舞に曽子を引て弘毅云々なり。是程迠に得たから、最ふひたるい目はすまいと云位ではならぬ。そこで、目當に仁と云を出して示したもの。爰では、仁は愛之理愛人などと云ことにあらず。大学の至善へつめることなり。そこで任重而道遠とは云ぞ。してみれば、此冬至文のはばが道学標的へ落すこと。此はばへ落す冬至文じゃから、何にも標的と別なことに思ふでない。冬至文は、あのはばへなれとすすめること。道学標的は行付き処、冬至文は帯號[えふ]なり。此帯號を持てあそこへ行けと云なり。承れば、冬至文は動き立と云はそこのことなり。
【解説】
執徳不弘ではいけないから、冬至文の最後に弘毅が書かれているのである。曾子の「以仁為己任」を冬至文は引用しているが、道を担う目当てとして仁があり、仁とは大学で言う至善に至ることである。冬至文は道学標的に至るための、荷物の荷札の様なものである。
【通釈】
「執德不弘信道不篤焉為有焉能為亡」。道はちよっと得た位では駄目だから、冬至文の終わりに曾子を引用して弘毅云々と言った。これほどまでにして道を得たのだから、もうひもじい目には合わないようにしようと言う様ではいけない。そこで、道を担う目当として、冬至文に仁を出し示した。ここでの仁は、「仁は愛の理、人を愛す」などと言うことではない。大学の至善へ至ることである。そこで「任重而道遠」と言うのである。この様にみれば、この冬至文の幅の広さが道学標的に通じること。広大な道学標的に通じる冬至文なのだから、何も冬至文が道学標的とは別なものだと思う必要ははない。冬至文は、道学標的の幅になりなさいと勧めているのである。道学標的は目的地であって、冬至文は帯號である。この帯號を持って目的地に行けということ。命令されれば冬至文は動き立つと言うのも、冬至文が道学標的へ行き着くための帯號だからである。
【語釈】
・執德不弘信道不篤焉為有焉能為亡…論語子張2。「子張曰、執德不弘、信道不篤、焉能爲有、焉能爲亡(子張曰く、徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からずんば、焉ぞ能く有りと為さん、焉ぞ能く亡しと為さん)」。
・弘毅…論語泰伯8。「曾子曰、士、不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」。
・ひたるい…ひだるい。ひもじい。空腹である。
・仁は愛之理愛人…論語学而の集註に、「仁者愛之理心之徳也(仁は愛の理、心の徳なり)」とあり、孟子梁惠王上の集註に、「仁者心之徳愛之理(仁は心の徳、愛の理)」とある。また、論語顔淵22に、「樊遲問仁。子曰、愛人(樊遲仁を問う。子曰く、人を愛す)」とある。孟子離婁章句下28に、「孟子曰、君子所以異於人者、以其存心也。君子以仁存心、以禮存心。仁者愛人、有禮者敬人(孟子曰く、君子の人に異なる所以の者は、其心を存するを以てなり。君子は仁を以て心を存し、禮を以て心を存す。仁者は人を愛し、禮有る者は人を敬す)」とある。
・大学の至善…大学章句1。「大學之道在明明德、在親民、在止於至善(大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り)」。
・道学標的…佐藤直方著。
・帯號…絵符。会符。江戸時代、幕府・武家・公家などが物資輸送に際して、特権を表示するため荷物につけた札。荷物などにつける目じるしの札。

若有其人出於其時を、元気を付て見ること。ひょっと其人があろふならば、其分んにしてはをかぬと云こと。学者の聖賢にならぬは、今日面々の合点てはさもあるべきことと云はふが、ひょっと其人が出たらば、其荷物を其分にしてはをくまい。なぜなれば、孟子が折角性善と云ても、性善の年貢を上けずにをる。今吾黨学者が性善ときいて、明ひた口に餅にして、をらなども犬とは違ふ、尭舜と兄弟じゃと云て大きな皃をしておるが、其性善の年貢を上けねばやっはり彼の無教則近禽獣の列。つまらぬことぞ。百姓の年貢は誰も見逃にはせぬ。性善の年貢は見逃しをする。見逃しの元祖は老荘なり。佛はたたきつぶす。伯者はぬかぬ太刀の高名。俗学は左様、且、又でやわらを云。誰も年貢を上るものがない。
【解説】
道が廃れていても、道を任じる人が現われれば道を放置してはおかないから、その時は道が廃れたままではいない。しかし、孟子が性善を唱えているのに、誰も性善の道を実践していない。学者であると自負する者も、性善の道を行わなければ禽獣に近い。老荘や仏教、覇者、俗学は皆道を荷にしていない。
【通釈】
「若有其人出於其時」を、気力を持って見なさい。ひょっと道を任じる人が出れば、道をそのままにはしておかないということ。今の学者が聖賢になれないのも、今日、我々の如き者が合点する程度では当然であると言うが、ひょっと道を任じる人が出たなら、その荷物をそのままにしてはおかないだろう。それは何故かと言うと、孟子が折角性善と言っても、人は性善の年貢を納めないでいる。今我が党の学者が性善と聞いて、その思いがけない好運により、私は犬とは違う、堯舜と兄弟だと言って大きな顔をしているが、性善の年貢を納めなければ、やはり「無教則近禽獣」の列である。それではつまらない。百姓の年貢は誰も見逃しにはしないが、性善の年貢は見逃しをする。見逃しの元祖は老荘である。仏教は性善を叩き潰す。覇者は不抜の太刀の高名。俗学は左様、且[しばら]く、又などと悠長なことを言っている。誰も年貢を上げるものがいない。
【語釈】
・元気…天地間に広がり、万物生成の根本となる精気。活動のみなもととなる気力。
・式…副助詞的に用いて、たかが…くらい。わずか…ほど。
・性善(説)…人間の本性は善であり仁・義を先天的に具有すると考え、それに基づく道徳による政治を主張した孟子の説。荀子の性悪説に対立。
・明ひた口に餅…「棚から牡丹餅」に同じ。思いがけない好運がめぐってくることのたとえ。
・無教則近禽獣…孟子滕文公章句上4。「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無教、則近於禽獸(人の道有るや、飽食暖衣、逸居して教えらるる無ければ、即ち禽獣に近し)」。
・伯者…覇者に同じ。
・やわら…本来の厳しさに欠けてなまぬるいさま。女々しいさま。

擔夫也は辱く又迷惑な文字。わるい火に喰ひあてたのなり。何たる因果で聖学にはかかりたぞと云ふ様ながよい。擔夫は今云人足なり。雪の中でも人足となればゆかねばならぬ。そこで、人足にあたりたものはなまけぬ。学者は夫程に思わぬ。なまける。浅間しいことぞ。擔夫と云が気味のよいこと。そちは人足あたりたではないか。其れもて行け。なぜすててをくと云が、任じさせるのなり。
【解説】
担夫とは人足の様な者である。人足は自分の仕事を怠けない。今の学者は人足ほどに荷を担ぐことを強く思っていない。人足の様に荷を担げと言うのが、任じさせることである。
【通釈】
「擔夫也」とは辱くも迷惑な字である。それは、火の通りが悪いものを食べて食中りを起こす様に迷惑なことである。何の因果で聖学に関わったのかと言う様なところがよい。擔夫は今で言う人足のことである。雪の中でも人足だったら行かなければならない。そこで、人足に就いた者は怠けないが、学者は人足ほどには強く思わないので怠ける。それは浅ましいこと。擔夫という言葉は気味がよい。お前は人足に就いたではないか。それ、荷を持って行け。何故捨てて置くと言うのが、任じさせるということである。
【語釈】
・わるい火に喰ひあてた…「火食」は物を煮たきして食べること。火の通りが悪くて食中りを起こしたことか?

游手也。游手は道を任する心がない。そんなら、男蛇の躑躅見物して月見の詩をつくり、酒を飲で居たかよい。たのしみにはならふなれとも、白扇倒懸東海天、道の為にはならぬ。それから冨士を摺鉢に見立た詩もあり、云ふたればとて何の役に立つことぞ。何んとでも云たがよい。
【解説】
游手はどうせ役には立たないのだから、日々を楽しんで、勝手なことを言っていればよい。
【通釈】
「游手也」。游手には道を任じる心がない。それなら、雄蛇ヶ池の躑躅見物をして、月見の詩を作り、酒を飲んでいればよい。楽しみにはなるだろうが「白扇倒懸東海天」で、道のためにはならない。それから富士山を摺り鉢に見立てた詩もあるが、そんなことを言って何の役に立つのだろうか。游手は何とでも勝手なことを言っていればよい。
【語釈】
・男蛇…雄蛇ヶ池のこと。
・白扇倒懸東海天…石川丈山1623年春作の七言絶句の第4句。「白扇倒[さしま]に懸かる東海の天」と読む。富士山が雪を戴いて立つさまをいう。東海とは日本。
・石川丈山…江戸初期の漢詩人・書家。六六山人・四明山人・凹凸窩などと号。三河の人。徳川家康に仕え、大坂夏の陣に功をたてた。のち藤原惺窩に学び、晩年は京都に詩仙堂を築いて閑居。著「覆醤集」など。1583~1672

朝鮮之李退渓云々。直方先生は何足望道之任乎と歯ぎしりかんで云たから、跡えどのやふないきりものを出すかと思ふたれば、のろりと李退渓を出された。これなどか人の目の及はぬ処。退渓が、朱子を孔子以来の一人と見て、骸の建立は朱子でなくてはならぬと見たからなり。尭舜の時は尭舜の骸に道がのりてあり、孔子の時は孔子に道がのりてありたが、其後は宿なしなり。
【解説】
直方は、冬至文に李退渓を道を任じる人として出したが、これが直方の優れたところである。李退渓は、朱子が道を任じた一人であるとみなし、身の建立には彼の学問でなければならないと考えた。堯舜の時は堯舜の身に道が在り、孔子の時は孔子の身に道が在ったが、その後は道を宿す人がいない。
【通釈】
「朝鮮之李退渓云々」。直方先生は、「何足望道之任乎」と歯ぎしり噛んで言ったから、その後へどの様な凄い人を出すのかと思ったら、穏やかな李退渓を出された。これなどが人の目の及ばないところである。李退渓を出した理由は、彼が朱子を孔子以来の道統の一人とみなし、身を建立するためには朱子の学問でなくてはならないと考えたからである。堯舜の時は堯舜の身に道が載って行われ、孔子の時は孔子に道が載ってあったが、その後は道が宿とする所はない。
【語釈】
・李退渓…朝鮮李朝の代表的儒学者。名は滉。字は景浩。真宝の人。陶山書院に拠って嶺南学派を興し、日本の儒学にも大きな影響を及ぼした。著「自省録」など。1501~1570
・いきり…「熱る」。いきまく。りきむ。

不越乎言語文字之間。道が書の上にあるは野陳をさせる様なもの。それでも道の方てはせくことはないが、人の方では口惜ひことなり。本陳がないから幕を張って野陳なり。形ないから道は向の相手次第て逗留する。月は随分うつる気なれとも、瓦へはうつられぬ。水なればうつる。言語文字は、道か中庸論孟にありて、人の上にはない。若其人と云はたんてきなり。石原先生永井先生迂斎先生を直方先生が、人にあしろふた道の宿をする人でなふては役に立ぬ。をぬし達が宿をせずは、宿の仕人[して]があるまいと云て、此文を與へられたと見るべきことそ。これ、言外の意なり。
【解説】
「不越乎言語文字之間」とは、道が書物の上にあって世に行われないことを言う。まるで野陣の様だが、それは本陣となるべき道を担う人がいないためである。道は相手次第で宿をする。「若其人」は、三人の弟子を指し、その弟子たちに直方が、お前たちが道の宿になれと言って冬至文を与えたのである。
【通釈】
「不越乎言語文字之間」。道が書物の上にあるのは野陣をさせる様なもの。それでも、道の方では焦ったり急いだりはしないが、人の方では、それは口惜しいことである。本陣がないから幕を張って野陣をする。道は形がないから相手の対応次第で逗留する。月は随分映りやすい気であるが、瓦へは映ることはできない。水になら映る。道も月の様に相手次第なのである。不越乎言語文字之間とは、道が中庸や論語、孟子にあって、人の上にはないということ。「若其人」というのはつまり、石原先生、永井先生、迂斎先生のことで、直方先生が、人のために設けられた道の宿をする人でなくては役に立たない、お前達が宿にならなければ宿をする者がないだろうと言って、この冬至文を与えられたのだと見るべきである。これが言外の意である。
【語釈】
・石原先生…野田剛斎。
・永井先生…永井隱求。
・迂斎先生…稲葉迂斎。

舎人殿が直方先生のことを、こちの先生は匁が重ひと云たも、只、歯ぎしりで人を訶ることを云はせぬ。得た処ありて道を任じたからのこと。道の御宿を仕やれ々々々と云たことぞ。こせ々々異見を云ではない。爰が匁が重ひ処。
【解説】
直方がひどく怒るのは、道の御宿をしなさいと弟子を励ますためである。
【通釈】
舎人殿が直方先生のことを、こちらの先生は匁が重いと言ったが、ただ、怒って歯ぎしりをしながら人を訶ることを指して言ったのではない。先生は得たところがあって道を任じ、それで、道の御宿をしなさいと弟子を励ましたことを指して言ったのである。こせこせとしたことで訶ったわけではない。ここが直方の匁が重い処である。
【語釈】
・舎人…小野崎舎人。小野崎師由。本姓大田原。出羽秋田の人。牛島随筆に「小野崎師由、雅量通長」とある。直方晩年の門人。直方の子就正が秋田の佐竹候に仕えたのは、師由の推挙によったとある。

我邦自古云々。爰へ我邦と云字の出さふもない処なれとも、三人の衆が我邦の人だから云たもの。
【通釈】
「我邦自古云々」。ここに「我邦」という字は出そうもないが、三先生が我が邦の人だから言ったのである。

自古云々幾人耶。ああ、はやこまったもの。性善の帯號でこそ人々こふして居たもの。道沙汰のないは何んたることそ。
【通釈】
「自古云々幾人耶」。ああ、早、困ったことである。性善の帯號を持っているからこそ人々は道を任じることができるのに、今、道の沙汰がないのは何ということか。

堅立脊梁骨。道を一つ得やふには、只ではならぬ。目をさませ。今迠の手ではゆかぬ。直方曰、身上を取り直すも一番鑓をつく心得じゃとなり。聖賢を目かけるが一通りのなまだらけてはなるまい。そこで、堅立脊梁骨なり。
【解説】
道を得ようとするのは大変なことである。そこで、脊梁骨を堅立して当たらなければならない。
【通釈】
「堅立脊梁骨」。道を得ようとするには、通り一遍の行いではならない。目を醒ませ。今までの方法ではいけない。直方は、身上を取り直すにも一番鑓をつく心得でなければならないと言った。聖賢を目指すには、通り一遍で中途半端なことではいけない。そこで、脊梁骨を堅立するのである。

曽子不云乎云々。孟子が所願学孔子と云はれた。直方の夫を持来て、可以願学孔孟なり。斯ふ云相談になりては、気のきいたものは御暇申さふと云ひそうなこと。実はをいとま申すが利口なとも云はふが、されとも、そふすると好学論みんなになる。今の学者がこんなことをきくとぐじ々々して居らねばならぬけれとも、人の忝さには形せぬ仁義礼智を持ておる。形ないことは自由自在、どふともなるもの。あの男は惜ひことに、最ふ一寸丈が高くばよかろふと云ても、形したことは孔孟の手ぎわにもゆかぬ。道はもふ一寸の、二寸の云ふことてはない。
【解説】
孟子の「所願学孔子」を引用して、直方が「可以願学孔孟」と言った。孔孟を学ぶことを辞退するのは、好学ではない。人は特別に仁義礼智を持っており、仁義礼智に形は無い。形が無いということは自由自在であって、自由自在だからどの様にもなるのである。しかし、有形なことは孔孟の手腕でもうまくいかないものがある。
【通釈】
「曾子不云乎云々」。孟子が「所願学孔子」と言われた。直方がそれを冬至文へ持って来て、「可以願学孔孟」と言った。そう言う話になっては、気のきいた者はお暇を申しましょうと言いそうである。本当に、お暇申し上げるのが利口だなどと言い張るが、それでは好学論は台無しになる。今の学者がこんなことを聞くと、ぐじぐじしていなければならないけれども、人は有り難いことに無形の仁義礼智を持っている。形がないということは自由自在であって、どうにでもなる。しかし、あの男は惜しいことにもう一寸丈が高ければ良いのだがと言っても、形のあることは孔孟の技量をもってしてもできないことがある。道は形が無いから、もう一寸、二寸と言うことはない。
【語釈】
・所願学孔子…孟子公孫丑章句上2。「乃所願、則學孔子也(乃ち願う所は、則ち孔子を学ばん)」。
・好学論…程伊川著。近思録為学3条。
・みんなになる…なくなる。尽きる。

孔孟に至るは形のないもの。どのやうにもならるるから、学以至聖人道也とある。形ない孔孟になること。そこを無極而太極とも云。形のないことなり。形がなければ、どふとも御相談が出来る。羽生村のあさ子が器量のわるいで泣くやふなことではない。学者は泣くことはない。どふともならるる。好な酒も止めやふとするはならるる。これも仕にくひことなれとも、酒は今日から飲むまいと思へはさふなること。酒をやめるは瘤や黶[ほくろ]を取るよりは仕よいこと。孔孟に至るは酒を止めるの大きいもの。聖人のことも遠く計り云へは迯るものが多くなる。斯ふ近く話すで、どんなものも御いとま申すとは云はれぬ。そこで、学ぶ相談に形が付て、士不可以不弘毅なり。
【解説】
孔子や孟子の様な聖人の域に至ることは、無形なことである。形が無いからどの様にもなることができる。そこで、形の無い学問を行うことが、聖人の域に到達するための道であると言うのである。形の無いことをするのは、酒を止めようとする様なことで、その大きなものが孔孟に至ることである。
【通釈】
孔孟に至るのは無形なこと。どの様にもなることができるから、「学以至聖人道也」なのである。形の無い孔孟になること。それを「無極而太極」とも言う。形が無いということ。形が無ければどの様にも対応ができる。羽生村のあさ子が器量の悪くて泣く様なことではない。学者は泣くことはない。それは、どの様にもなることができるからである。好きな酒も止めようとすることができる。これもやりにくいことではあるが、酒は今日から飲まないと思えば酒を止めることができる。酒を止めるのは瘤や黶を取るよりはし易いことである。孔孟に至ることは、酒を止めることを大きくした様なもの。聖人のことも、遠くのことばかりを言っていれば逃る者が多くなる。この様に近くのことで話すから、どんな者も御いとま申しますと言うことができなくなる。そこで、学ぶ方法に形が付いて、「士不可以不弘毅」となる。
【語釈】
・学以至聖人道也…近思録為学3条。「伊川先生曰、學以至聖人之道也(伊川先生曰く、学は以って聖人に至るの道なり)」。
・無極而太極…周濂渓の太極図説の語。近思録道体初条。

大きいことを学ぶには、はばひろにつよくなければならぬ。学問を得手方に落さぬこと。少し計りの本手で仕出さふと思ふが、そんな細本價すてるがよい。商ひの方では一両が萬金にもなると云はふが、気質の本價やくにたたぬもの。才のあるものは才を元手にし、律義なものは律義を元手にしたがるが、いつも々々々其ままで居るぞ。さふ心得ると学問が只のが只の律義になる。気質はすてものにする。学問はさば々々するがよい。気質は善悪色々あれとも、たたい、ろくなものではないと云はどふなれは、気質には移り香かする。移り香がすると仁義礼智が風をひく。弘毅は気質をすてて、只、孔孟のことを皆あい々々ときく意なり。
【解説】
聖人の道を学ぶには弘毅でなければならない。自分の得意とするものは気質によるものであって、それを頼りにしてはならない。気質は捨てること。気質には善悪が色々とあるが、大体ろくなものではなく、仁義礼智の邪魔をする。弘毅とは、気質を捨てて、ただ孔孟の言うことを全て唯々諾々と受け入れることである。
【通釈】
大きいことを学ぶには、幅が広くて強くなければならない。学問を自分の得意な分野に限って行わないこと。少しばかりの元手で始めようと思うなら、そんな少ない元手などは捨てるのがよい。商いでは一両が万金にもなると言い張るが、気質を元手にしても役には立たない。才のある者は才を元手にし、律義な者は律義を元手にしたがるが、いつもそのままでいて進歩がない。その様に心得ると学問がただの生まれつきの才能か、ただの律義になってしまう。気質は捨てておく。学問はさばさばするがよい。気質には善悪が色々とあるが、大体、ろくなものではない。それは何故かと言うと、気質には移り香がする。移り香がすると仁義礼智が風邪を引く。弘毅とは、気質を捨てて、ただ孔孟のことを全部はいはいと聞くことなのである。
【語釈】
・本手、本價…元手。事業を営むために要する資本金。
・材…生れつき有する能力。また、それを有する人。才に同じ。
・移り香…物に移り残った香。残香。
・あい々々…「あい」は呼ばれて返事をする時や同意をあらわす時の声。「はい」よりくだけた感じで使う。「はいはい」という返事。

学問は弘毅が元手ぞ。弘毅で学ふが道体なりの為学ぞ。弘は天の持前、毅は地のもち前。天地のもち前を人の工夫にするから天地なりな学になる。そこが自然なりの学問ぞ。弘はひろい。ひろいに天程なものはない。毅はつよい。つよいに地程なものはない。冨士が大きくても、駿河かめり込みはせぬ。そこて、人を弘毅で建立する。知のうけこみやふが天の如くて、それを地の様にてつちりと肩にうけてめりこむことのないなり。
【解説】
弘毅によって学ぶことが道体の通りの為学である。弘毅の弘は天のものであり毅は地のものであるから、弘毅による学は天地の学問であり、自然の学問である。また、弘は限りなく広いことで、毅は限りなく強いことだから、弘毅とは、知を広く受け込んで強くしっかりと持ち堪えることなのである。
【通釈】
学問をするには弘毅が元手となる。弘毅によって学ぶのが、道体の通りの為学である。弘は天の持ち前で、毅は地の持ち前である。天地の持ち前を人の工夫に用いるから、天地の通りの学問になる。それが自然の通りの学問なのである。弘は広いこと。広いと言えば天ほど広いものはない。毅は強い。強いと言えば地ほど強いものはない。富士山がいくら大きくても、駿河がめり込むことはない。そこで、弘毅によって人を建立する。知の受け込み方が天の如く、受け込んだ知を地の様にずしりと肩に受けてめり込むことのない様にするのである。
【語釈】
・道体…道の本体。道の姿。近思録は道体から始まる。
・為学…学を為す。学問の行い方。近思録では道体の次に為学がある。

天地が弘毅な姿のものゆへ、人の学問がそれてゆく。持て来ひ々々々々とうけこむ弘は知の持ち前、行は毅のもち前。知行合一と云か、云た通りのなること。分限者か大名の仕送をする様なもの。御姫様御昏礼に千五百両、をい心得た。今度の御役に五千両、御尤と出す。知が弘で、毅と云ふ肩の丈夫なものでうけること。この二つ揃はねばならぬこと。知めいた学者は天づり、行めいた学者は地づりなり。其つりと云がよくない。学問は、気質は取らぬ。燕の無性にひら々々飛ぶは天づり、鯨や鼈[すっぽん]の上へ上ることのならぬ、地づりなり。学問は知行合一、天地に合せること。それなれば、道体形の為学で天へも徹り、地へも透る。これが揃へば仁にならるる。さうきけば、仁には大抵のことでは至られぬなり。
【解説】
弘は知の持ち前で、行は毅の持ち前である。知行合一とは、天地の通りに受け込み、それをその通りに持ち堪えること。知に偏った学者は天にぶら下がっている様なもので、行に偏った学者は地に引っかかっている様なものである。天地双方に合わすことができなければいけない。弘毅が揃い、知行合一となって仁となる。よって、仁に至るのは大変なことなのである。
【通釈】
天地は弘毅な姿なので、その弘毅によって人は学問を行うことができる。持って来い、持って来いと何でも受け込む弘は知の持ち前で、行は毅の持ち前である。知行合一とは、天地の言った通りになること。分限者が大名の仕送りをする様なものである。お姫様のご婚礼に千五百両、はい心得た、今度のお役に五千両、ご尤もと金を出す。知が弘で、毅という肩の丈夫なもので受けること。この二つが揃わなければいけない。知に偏った学者は天吊りで、行に偏った学者は地吊りである。その吊りと言うのがよくない。学問は気質を用いない。燕が無性にひらひら飛ぶのは天吊り、鯨や鼈が空へ昇ることのできないのは地吊りである。学問は知行合一で天地に合わせること。そうすれば、道体の通りの為学で、天へも徹り、地へも透ることになる。弘毅が揃えば仁になることができる。この様に聞けば、仁には大抵のことでは至ることができないことがわかる。
【語釈】
・知行合一…知の通りに行われること。道体の通りの為学となること。
・分限者…金持。ものもち。ぶげんもの。

任重而道遠。初手から孔孟とはきいても、今日やあすでは行つかぬ遠いこと故、今なることではない。今、面々からは生し子を見て、天窓のはげるを云様なり。吾学問を至善へつめることゆへ、節季に仕立屋の縫ふやふでは至善にはつまらぬぞ。死而後已む。今日はよいと云ふことはない。直方先生の、学問は吹いご玉の様なものじゃ、と。唐しゃぼんを筒の中え入れて吹けば空へあがる。少し息がつづかねば、じきに落る。学問はどこ迠もと云ことなり。遠いと云がこのこと。長嵜と云ことではない。命あらんかぎりはと云ことなり。顔子は三十で仕舞ひ、孔子は七十で仕舞へり。学問は一生のことなり。一通りのぶらつき男とつれ立てはゆかぬこと。そんなものと伯仲では、中々なんとしてじゃ。
【解説】
孔孟の域には直ぐに至ることはできない。孔孟に至るとは、自分の学問を至善に持って行くことであって、そのためには、学問を絶えず続けなければならない。一生をかけて行うのである。よって、世間並みな人間と仲良くして無駄な時間を費やしていてはならない。
【通釈】
「任重而道遠」。最初から孔孟と聞いても、今日や明日では行きつけないほど遠いことだから、今直ぐ孔孟の域になる話ではない。今、各々から生れた子を見て頭の禿げることを言う様な、ずっと先の話である。自分が学問をするのは至善へ至るためなのだから、季節の終わりに仕立て屋が服を縫う様な学び方では、至善に至ることはできない。「死而後已」。今日はしなくてもよいということはない。直方先生が、学問は吹いご玉の様なものだと言われた。吹き続けなければならない。唐シャボンを筒の中へ入れて吹けば空へ上がる。少しでも息が続かなければ、直ぐにシャボン玉は落ちる。学問は何処までも続けること。遠いと言うのがこのことである。長崎の様に、地理的に遠いということではない。命のある限りはということである。顔子は三十で終わり、孔子は七十で終わった。学問は一生のことである。ぶらぶら徘徊している世間並みの男と連れ立っていては、学問は行えない。そんな者と兄弟分の様に仲良くしていては、中々、どうしようもない。
【語釈】
・天窓…あたま。
・節季…①季節の終り。また、時節。②盆・暮または各節句前などの勘定期。③年の暮れ。年末。歳末。ここでは①の意。

先師送先君子適唐津文曰云々。朋友には切々偲々、朋友の責めを切磋と云が、向のわるいことを遠慮なく云も朋友の親切。又、たしなませると云仕方も有る。療治は一通りには限らぬ。石原先生の迂斎え云は、遠慮會釈もなく云とは違ふ。平生も殊の外丁寧に引き上けたことなり。是文もいこう尊んで任にをく意なり。あの衆などに見事づくを云なぞと云ことはない。とんと上けて云が切磋なり。
【解説】
朋友の親切とは、相手の悪いところを遠慮会釈なく叱責したり、逆にたしなませたりと、その方法は一通りではない。石原先生は何時も迂斎を励ましていた。この文の主意も、石原先生が迂斎を尊んだ上で道を実践する様に励ますことにある。朋友の叱責を切磋と言うが、それは相手を励ますことである。
【通釈】
「先師送先君子適唐津文曰云々」。「朋友切切偲偲」という言葉があり、朋友の叱責を切磋とも言うが、相手の悪いところを遠慮なく言うことも朋友の親切の一つである。また、たしなませるという仕方もある。療治は一通りとは限らない。石原先生が迂斎に対して言ったことは、遠慮会釈もなくということではない。彼は日頃から殊の外、迂斎を丁寧に励ましていた。この文も、石原先生が迂斎を大層尊んだ上で道の任に務めさせる意があってのこと。あの衆には偉そうなことを言うことなどはない。相手をとんと引き上げて励ますのが切磋である。
【語釈】
・朋友には切々偲々…論語子路28。「子路問曰、何如斯可謂之士矣。子曰、切切偲偲、怡怡如也。可謂士矣。朋友切切偲偲、兄弟怡怡(子路問いて曰く、いかなればこれを士と謂うべき。子曰く、切切偲偲、怡[い]怡如たる、士と謂うべし。朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡たり)」。
・切磋…詩経国風衛風淇奧。「瞻彼淇奧、綠竹猗猗。有匪君子、如切如磋、如琢如磨(彼の淇[き]の奧を瞻れば、綠竹猗猗[いい]たり。匪たる君子有り、切るが如く磋するが如く、琢[うが]つが如く磨くが如し)」。
・引き上けた…一段高くすること。または、励ますこと。
・見事づく…見事なことばかり。

直方先生没後間もないに、はや漸と云てあり。漸はゆたんもすきもいらぬもの。吾知らずになる。則、今日床にかけた四先生の墓表でみよ。あれは石塔え押付て摺たもの。違ひはないが、早、今あれを写せばどこかちごふ。又、其写で書たものはすこしちがふ。それを借りて三人目には、又もそっと違ふ。板行で押たさへそれじゃ。漸くがこわいもの。学問の違ふは、夫よりは又もそっと違ふ。手前の見所が至らぬから向をはるかに謀り、そこないが有る。亭主が最ふ酒は上るまい、銚子を取れと云ても、客の方ではもそっとと思ふことも有る。今の学者が手前を知たふりをして、これでよいと思ふが、師匠の了簡と合ふと思ふことがちごふもの。親炙のものでさへそれじゃ。漸衰はこはいことぞ。胸の中で衰て居る。其外なんでも是方の盛んでないことはちごふもの。羽ぶりがわるくなると云ことがある。秀云、鷹匠衆が、あの鷹の捉飼に向て鳥を追ふ羽ぶりが、いかにも外の鷹の及ぬ所が有ると云はれた。をもしろし。
【解説】
文中に「漸」とあるが、漸くとは時による違いであって、学者にとって大変怖いものである。時の経過に従い違いが生じ、少しずつ本と違ってくる。また、学問における違いは、自分と師匠との相違であって、その違いが衰えである。盛んでないことは違うことであり、本物ではない。
【通釈】
直方先生が没して間もないのに、早くも「漸」と言うことが書かれている。漸くは油断もすきもない。自分が知らないうちにできてくる。そこで、今日床に掛けた四先生の墓表を見なさい。あれは石塔に押し付けて摺ったものである。それに違いはないが、早、今あれを写せばどこか違う。また、それを写して書いたものは少し違う。それを借りた三人目では、またもう少し違う。板行で押したものでもこうなってしまう。漸くは怖いものである。学問の違いは、それとはもう少し異なる。自分の見極めが足りないから、相手の思いからかけ離れたことを考えるので、そこに損ないが生じる。亭主が、もう酒は飲まないようにしよう、銚子を片付けろと言っても、客の方ではもう少し飲みたいと思うこともある。今の学者が知ったかぶりをしてこれでよいと思っているが、それが師匠の了簡と合うと思うこと自体が違いなのである。親しく感化を受けている者でさえこうなる。漸衰は怖いこと。胸の中で衰えている。その外のことでも、何でも自分に盛んでないことは違うもの。羽振りが悪くなると言うことがある。惟秀が言った。鷹匠衆が、あの鷹が捉飼した上げ鳥を追うその羽振りの良さには、いかにもほかの鷹の及ばない所が有ると言われた、と。面白い話である。
【語釈】
・板行…一枚摺の錦絵や瓦版などの刊行物。印形。
・親炙…孟子尽心章句下15にある語。親しくその人に接して感化を受けること。
・捉飼…捉まえて飼う餌。上げ鳥を指す。

大尽あれこれと丁寧をする。上部[うわべ]からは見へぬがそろ々々衰へなり。日蓮が一宗を切り立るに、首の坐迠もりきんだ。学者もあの様ながよい。今時はあれではと云は衰へなり。今の佛者が儒者と合せるは衰へなり。三教一致と云は役に立ぬ者の云ふ論なり。漸衰が本になりて異学云々。色々のものが出てくる。
【解説】
学者は日蓮の様に強い意志を持って志を貫徹しなければならない。習合は役に立たない者の論であって、異学その他が流行るのも漸衰がもとである。
【通釈】
大尽があれこれと丁寧なことをする。上辺からはわからないが、そろそろ衰えが始まっている。日蓮が一つの宗派をつくるのに、打ち首をも辞さずに気張った。学者もあの様になるのがよい。今時、日蓮の様ではと言うのは衰えである。今の佛者が儒者と習合するのは衰え。三教一致と言うのは役に立たない者の言う論である。漸衰がもとになって異学云々と、色々なものが出て来る。
【語釈】
・大尽…財産を多く持っている人。富んでいる人。豪家。富豪。素封。資産家。
・日蓮…鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。字は蓮長。安房国小湊の人。初め天台宗を学び高野山・南都等で修行、仏法の真髄を法華経に見出し、1253年(建長5)清澄山で日蓮宗を開いた。辻説法を行なって他宗を攻撃し、「立正安国論」の筆禍により伊豆に流された。赦免後も言動を改めず、佐渡に流される。74年(文永11)赦されて鎌倉に帰り、身延山を開く。武蔵国池上に寂。著「観心本尊抄」「開目抄」など。1222~1282
・首の坐…打ち首。

使不永墜於地。ここへ一つ冬至文の字を出した。是の文義が、いつがいつ迠も斯ふしてはをくまいと云た様なもの。いつ迠も浪人ではをるまいの、いつもこのつらで裏店には居るまいのと云ふ様なもの。
【通釈】
「使不永墜於地」。ここのところへ冬至文の字を一つ出した。この文の意味は、何時までもこの様な状態にはしておかないと言う様なもの。何時までも浪人ではいないとか、何時までもこの面を下げて裏店にはいないと言う様なものである。

以擔夫望於兄が石原先生の挨拶なり。三人え云たことでも、中にもこな様へと云なり。兄豈得辞哉。迯がさぬぞ々々々々々と云ことなり。
【通釈】
「以擔夫望於兄」が石原先生の挨拶である。冬至文は三人に与えられたものだが、特に貴方に対してのものだ、と彼は言う。「兄豈得辞哉」は、逃がさないぞと言うことである。
【語釈】
・こな様…「此様」。あなた。おまえさん。そなた。近世上方で、主として女性が目上に対して用いた。

君子求道無所而不在焉云々より燕居其志勿怠焉。とど頓と非番はならぬことじゃとなり。
【通釈】
「君子求道無所而不在焉云々」から「居燕処其志勿怠焉」までは、とどのつまり、絶対に非番をしてはならないと言うことである。

傳道学於無窮。為萬世開太平の意なり。あの語が、横渠が云へば横渠めく。浅見先生が云へば浅見先生めく。此道学を無究に傳へろと云が石原先生めくことなり。某などが云てはめかぬ。をらなどは、面白ひことは石原先生よりも云はふが、しら々々しくも是の声色はつかわれぬ。
【解説】
「傳道学於無窮」は、石原先生らしい言い方である。
【通釈】
「傳道学於無窮」は、張横渠の言った「為萬世開太平」の意である。あの語を横渠が言えば横渠らしくなる。浅見先生が言えば浅見先生らしくなる。ここの、道学を無窮に伝えろと言うのが石原先生らしいところである。私などが言ってもそれらしくならない。俺などは、面白いことは石原先生よりもよく言うが、空々しくここを真似することはできない。
【語釈】
・為萬世開太平…張横渠の語。近思録為学95。「爲去聖繼絶學、爲萬世開太平。(去聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く)」。

宰我子貢有若孔子のことを尭舜にまさるの、自生民以来未有夫子の、未有盛孔子のと云た。三子の言を孟子の引れて、汙なりとも不至阿所好と云はれたをみよ。我寺の佛、尊しと無ひことは云はれぬ。石原先生を某が吹上るではない。実境から出たこと。先師などが是をただ文章づくに書くことではない。道学を無究に傳へろと本に書た。やっはり為萬世開太平の中へ足を蹈みこんで云たこと。道を任するにあたりた人なり。
【解説】
孔子の域には至らなかった宰我、子貢、有若だが、彼等は好むところに阿ることはしなかった。それは藤門も同じであって、石原先生は道を任じた人である。
【通釈】
孔子のことを、宰我が「賢於堯舜遠矣」と言い、子貢が「自生民以來未有夫子也」と言い、有若が「未有盛於孔子也」と言ったが、それを孟子が引用して、「汙不至阿其所好」と三人を評価したことに着目しなさい。そうすれば、我々の学派の先師達を尊くないなどとは言えない。それは石原先生を私が持ち上げて言っているわけではない。先生の実際の姿から言えることである。先師はこの文を、ただ文章のみを気にかけて書いたのではない。道学を無究に伝えなさいと本気で書いたのであって、やはり、「為萬世開太平」の中へ足を踏み込んで言ったのである。石原先生は道を任じることにあたった人である。
【語釈】
・宰我…宰予。孔門十哲の一。字は子我。通称、宰我。魯の人。斉の大夫。
・子貢…孔門十哲の一。姓は端木。名は賜。子貢は字。衛の人。孔子より31歳若いという。
・有若…孔子の門人。魯の人。その言貌が孔子に似ていたので、孔子の没後に門人が思慕したのは有名。有子と敬称。
・孔子のことを堯舜にまさる…孟子公孫丑章句上2。「宰我曰、以予觀於夫子、賢於堯舜遠矣(宰我曰く、予を以って夫子を観れば、堯舜に賢ること遠し)」。
・自生民以来未有夫子…孟子公孫丑章句上2。「子貢曰、…自生民以來、未有夫子也(子貢曰く、…生民自り以来未だ夫子あらず)」。
・未有盛孔子…孟子公孫丑章句上2。「有若曰、…自生民以來、未有盛於孔子也(有若曰く、…生民自り以来未だ孔子より盛んなるはあらざるなり)」。
・汙なりとも不至阿所好…孟子公孫丑章句上2。「宰我子夏有若、智足以知聖人。汙不至阿其所好。(宰我子夏有若は、智は以て聖人を知るに足る。汙[お]なるも其の好む所に阿[おもね]るに至らず)」。
・我寺の佛…佐藤門下の先師達、または儒教の先師達を指す。
・実境…実際のありさま。

任じたものが云へば、在天之灵が慰さるる。此掛物の神灵が慰す。こちの心がすっとの皮では慰されぬ。をらやが給仕では、諸先生の神灵慰されぬ。今の世に、をらなど程道学の旨訣明にして疑のないものも希で有ふが、但し、まだかがとで巾着を切ると云域を脱せぬから慰されぬ。をらは道学は知りても玉しいがわるいぞ。をらがこんなことを云ふは、漢之用知力持天下のるいぞ。道学にもそれが出るものなり。丁度、按摩の下手な子とあんまの上手な子と云ふと同しことなり。按摩は上手でも不孝な子がある。按摩が下手でも天へ通する子が有る。某などの道学の社中で大きい皃をするは入らぬこと。江戸に居たとき、新発田の名主が来て、麻上下で無性に天窓を下けるから、あまり丁寧になさるるな、御互に人欲のある内は同格じゃと云た。これはをれも一生の名言とをもふぞ。
【解説】
道を任じる者の行為は、天や先師の思いに応えることとなる。黙斎は、自分は当世に抜き出て道学の奥義を理解しているものの、まだ未熟者だから彼等の思いに応える段階にいないと言う。それは自分の魂の問題であり、人欲がある内は未熟者の仲間なのである。
【通釈】
道を任じたものが話せば、「在天之霊」が慰められる。この掛物の神霊が慰められる。こちらの心が盗人根性では慰められない。俺や松の給仕では、諸先生の神霊は慰められない。今の世で、俺ほど道学の奥義が明らかで疑いのない者も希だと思うが、但し、まだ踵ですりを行うという域を脱せないから慰められない。俺は、道学は知っていても魂が悪い。俺がこんなことを言うのは、「漢之用知力持天下」の類である。道学にもそれが出る。それは丁度、按摩の下手な子と按摩の上手な子がいるのと同じこと。按摩は上手でも不孝な子がいる。按摩が下手でも天へ通じる子がいる。私などが道学の仲間内で大きい顔をするのは不要なこと。江戸にいた時、新発田藩の名主が来て、麻裃で無性に頭を下げるから、あまり丁寧になさるな、お互いに人欲のある内は同格だと言った。この言葉は俺も一生の名言と思う。
【語釈】
・すっとの皮…透波[すっぱ]の皮。かたり。盗人。盗人根性。
・松…秋葉惟恭(松太郎)。東金市押堀の人。黙斎門人。
・かがとで巾着を切る…「かがと」は「かかと」。「巾着切り」はすり。まともなすりは、かかとを使ってすりはしない。つまり、未熟者。
・漢之用知力持天下…近思録致知61条。「漢專以智力持世(漢は専ら智力を以て世を持す)」。漢は覇道と王道とで天下を治め、徳を用いないこと。
・社中…詩歌・邦楽などの同門。連中。同じ結社の仲間。
・新発田…新潟県北東部の市。もと溝口氏十万石の城下町。新発田藩のこと。

そんなら左様な身で、なぜ今日斯ふした道任付託の遺文を讀むぞと云はふぞ。をらなぞは火消屋敷の欠出しの様なもの。斯文をよむは道を任ずる例ではないが、火を消すのじゃ。火を消すと云ふ役にあたれば、あの不埒な鳶のものも火事場ではきくぞ。唯見てをるではなし。却て温厚和平な学者はをとなしく、いかにも有徳者とみへ、議論も全くで見事つくを云へとも、火を消すと云人数でなければ游手浮浪之徒を免れず。我友、程朱と云ふ法被を着てをるから老佛覇者王陽明陸象山其外異学の徒がどのやふな議論しやふとも、大纏を立て出るゆへ、中々たまらせはせぬ。打つぶすぞ。先つ、こんなことをよむも、今日の冬至に雷をぐはか々々々とならすのじゃ。そふもなふて冬至文をよむはいらざることぞ。道を任ずると云人数の内に入れてはたらく合点なれば、せめても冬至文を地に墜さぬと云ものぞ。
【解説】
道任付託の遺文を読むのは異端邪説を排斥するためであり、それは火消しと同じである。温厚和平な学者は火を消す仲間に入らないから、游手浮浪の徒と同じである。異端は必ず打ち潰さなければならない。
【通釈】
俺がその様な身でありながら、何故今日こうした道任付託の遺文を読むと言い張るのか。それは、俺などは火消屋敷の駆け出しの様な者であって、私がこの文を読んでも道を任じる例とはならないが、とにかく異端邪説の火を消すためなのである。火を消すという役に当たれば、あの不埒な鳶の者も火事場では重宝である。彼等は唯見ているのではない。却って温厚和平な学者は大人ぶって、いかにも有徳者の様に見え、議論も完全で見事なばかりに話すが、火を消すという人数の中に入らなければ、游手浮浪の徒と言われても仕方がない。我が学友は程朱という法被を着ているから、老仏覇者王陽明陸象山その外異学の徒がどの様な議論をしようが、大纏を立ててその場に行って、彼等を中々溜まらせたままにはしない。彼等を打ち潰す。先ず、この様に遺文を読むのも、今日の冬至に諸生に対して雷を鳴らすためである。それがわからなければ、冬至文を読む必要はない。道を任じる人数の中に入って働くことを理解したなら、少なくとも、冬至文を地に墜さない様にしなければならない。
【語釈】
・陸象山…南宋の大儒。名は九淵。字は子静。象山・存斎と号。江西金渓の人。程顥の哲学を発展、理気一元説を唱え、心即理と断じ、朱熹の主知的哲学に対抗。文安と諡す。1139~1192

永井先生病革云々。さて、是迠は読だが、是から先が又ならぬこと。死に際に一はいな我侭凡情を云て、死さへならぬこと。其下は、今日は醫者がなんと云たと云て、ちっとも長くいきたがる。又其下は念佛なり。もげたものの死際に、辞世でも云がある先は少していがよいなれとも、若林の語録に、辞世は死ぬ迠名を好む心の離れぬのじゃと云はれたは、きつい処を見てとられた。聖賢の道を聞たものも、心にないことを云はふなら辞世も同然じゃが、永井先生の是を云たは天へ預をかへすやふなもの。死際になって、滞りなく天の方へ返進せふと云うのなり。偖てもけ高いことなり。
【解説】
人が死に際を潔くするのは中々難しい。我侭や凡情が邪魔をする。少しでも長く生きたがる。念仏にすがったりする。辞世を言うのも名を好む心が離れないことの表れである。しかし、永井先生の文は、預かっていた道を滞りなく天に返す意であり、本当に気高いものである。
【通釈】
「永井先生病革云々」。さて、これまでは簡単に読んだが、これから先はまた、中々できないことが書いてある。死際に沢山の我侭や凡情を言って、死ぬことさえもうまくできない。その下の者は、今日は医者が何々と言ったと言って、少しでも長く生きたがる。また、その下の者は念仏にすがる。切腹する人が死際に辞世でも言う様な、そんな人たちは少し程がよいものの、若林の語録に、辞世は死ぬ時まで名を好む心が離れないからであるとあるのは、厳しく、また的確な見所である。聖賢の道を聞いた者も、自分の心に無いことを言うのなら辞世も同然だが、永井先生がこれを言った意味は、天に預かっていた物を返すという様なことである。死際になって、預かっていた道を滞りなく天に返すということである。それは本当に気高いことである。
【語釈】
・病革…危篤になる。病が重くなる。
・もげた…「もげる」はちぎれてはなれ落ちる。首がちぎれることで、死刑になった人や切腹した人を指す。
・若林…若林強斎。

陳継祖蔡西山を嶋へやりたも、とど朱子を憎んだからのこと。朱子をやりたいなれとも、差つかへなことがあるから蔡西山をやりた。西山が嶋で二年目に死なれたが、死の三日前に、をれははや死ぬぞ、静にして死ふから誰にも逢せるな、造化の舊物に反ると蔡九峯に云て死なれた。是が、天から大切のものを預りたから、静にして返さふと云心なり。永井先生もそれなり。程なく死であろふが、孔孟程朱の御陰で何のことなく死ぬは仕合せじゃとなり。
【解説】
朱子の代わりに島流しにあった蔡西山が死際に言った言葉は、天からの預かりを静かに返すという意味である。永井先生の死際も蔡西山と同じで、孔孟程朱のお陰で何の迷いもなく死ねるのは幸せだと言っているのである。
【通釈】
陳継祖が蔡西山を島流しにしたのも、結局は朱子を憎んでしたこと。朱子を嶋へ流したいのだが、差し支えがあるから蔡西山を流した。西山は島で二年目に亡くなったが、死の三日前に、俺は早、死ぬ。静かにして死にたいから、誰にも逢わせるな。造化の旧物に返る、と蔡九峯に言って死なれた。これは、天から大切なものを預かったから、静かにして返そうという心意から言ったことである。永井先生もそれと同じ。間もなく死ぬだろうが、孔孟程朱のお陰で何の迷いもなく死ねるのは幸せだと言ったのである。
【語釈】
・陳継祖…沈継祖の誤り?南宋の監察御史。朱子を皇帝に対する不敬、国家に対する不忠で弾劾。この中に蔡西山などを味方にして御陵建設に異論を挟んだことが含まれる。陳継祖は1196年に朱子を落職罷祠させ、蔡西山を道州に流した。
・蔡西山…蔡李通。蔡元定。韓佗胄の偽学の禁により道州に流され、そこで死去する。天文地理律暦の説に詳しく、特に邵雍の数学を取り上げ、朱子と討議して「易学啓蒙」「通鑑綱目」を作る。その他の著書として「律呂新書」「大衍詳説」「皇極経世・太玄・潜虚指要」がある。1135~1198
・蔡九峯…蔡西山の子。蔡信。字は仲黙。

提撕之功最難。病苦でいこうせつない。せつなさにわるくしたらきたない音を出しさふなが、夫れを力を入れてこらえるぞ。其の力を用ること甚なりにくひとなり。すれば、平日提撕之功と云は大切なことじゃ。ゆるむとぐわらりとなる。提撕とは下へめりこむ処を上へ引上ること。出処は孟子之孩提之童の処にある古註の文字と覚ゆ。子供をかかへる底なり。ぐわたり落しさふなを引上けること。此を宋朝で敬の工夫のことに用るなり。小児が灸をすえるに手拭をくわへるで泣ぬ。学者もうっかとなるとならぬから提撕する。うっかとして泣くと只の凡夫になる。
【解説】
病苦で切なくなった際に平静を保つのは甚だ難しい。それで、日頃からの提撕が重要なのである。提撕がなければただの凡夫である。
【通釈】
「提撕功最難」。病苦で大変に切ない。その切なさのために悪くすると悪声を出しそうになるが、それを、力を入れて堪えるのである。その堪えようとすることが甚だ難しいと永井先生は言う。それで、日頃の提撕の功が大切となるのである。提撕が緩むと崩れてしまう。提撕とは下へめり込む処を上へ引き上げること。出処は孟子の「孩提之童」の処にある古註の文字だと思う。子供を抱える様なこと。がたりと落しそうなところを引き上げる。これを宋朝では敬の工夫に用いた。小児が灸をすえる際に手拭をくわえるから泣かない。学者もうっかりとしてはいけないから提撕をする。うっかり泣くと、ただの凡夫となる。
【語釈】
・孩提之童…孟子尽心章句上15。「孟子曰、人之所不學而能者其良能也。所不慮而知者其良知也。孩提之童、無不知愛其親也(孟子曰く、人の学ばずして能くする所の者は其の良能なり。慮[おもんばか]らずして知る所の者は其の良知なり。孩提の童も、其の親を愛することを知らざる無し)」。

可警。今死ぬでござるが油断のならぬことじゃ。今警策の最中でと云ぬなり。此日付は廿五日とあるが、これよりして段々をもり、廿八日に死去なり。これらは生金をもった人なり。直方先生が、丹次真釼でためした男じゃ、をらなどは泣きだそふも知れぬと云はれたも是のあやなり。爰らは誠にためしぬいたのじゃ。永井先生は、醫者は上手ではあり、時々脉を見て丈夫に一両日じゃと見て云たこと。一両日で死ぬ。脉は知るるもの。をらなどでも知ることあれば、永井先生は知た筈。知ればあわれになる。じゃが、斯ふしたことは及はれぬこと。是でこそ、学問の藝でないことが見える。斯ふしてみれば、直方の門にあの衆三人と云が盛と見ること。
【解説】
永井先生は遺文を二十五日に作って二十八日に亡くなった。彼は医者だったので自分の命があと一両日で終わることを理解していた。そんな中で、彼は提撕に励んだ。永井先生は本当に道を試し貫いた人である。迂斎、剛斎、隱求の三人がいたことが、直方の門が盛だった証明なのである。
【通釈】
「可警」。今死ぬと言う時点が油断できない。永井先生は、今警策をしている最中だなどとは言わない。この文の日付は二十五日とあるが、これから段々病気が重くなって、二十八日に死去された。これ等の話は、永井先生が純金を持った人であることを物語っている。直方先生が、丹次は真剣で試した男だ、俺などは泣き出すかも知れないと言われたのもこの関連を言ったのである。これ等の話は永井先生が本当に道を試し貫いたのことを語っている。永井先生は上手な医者で、時々脈を見て気丈夫に、自分の命はあと一両日だと看てこの遺文を語った。一両日で死ぬ。脈で病状はわかるもの。俺などでも脈で病状がわかる時もあるから、永井先生は自分の状態がよくわかった筈である。よくわかれば自分が哀れになる。しかし、死はどうすることもできない。これでこそ彼の学問が芸でないことがわかる。この様に見れば、直方の門にあの三人の衆がいることで、直方の門の盛んなことがわかる。
【語釈】
・警策…①馬をいましめて疾行させるための策[むち]。また、馬をむち打つこと。②ある文章の中で全編を活かす働きをする肝要な短い句。③禅寺で、坐禅の時に惰気・眠気をさまさせるため鞭うつのに用いる、長さ四尺余りの扁平な棒状の板。
・をもり…重る。病気が重くなる。
・生金…純粋な金。
・丹次…丹治。三宅尚斎。
・真釼でためした…三宅尚斎が46歳の時から三年間、武蔵忍藩の獄に繋がれた経緯を指す。

俗学は講席に人の多ひを盛んと云が、目ざすもの三人とあるは盛んなり。こんなことは俗学の知らぬこと。永井先生が死ぬ時、こんなことを云はれたはにぎやかと云ことぞ。斎藤主税と云馬乗が弟子を千人持たとて祝ふたれば、渋谷丹右ェ門と云弓の上手が嘲て、あれが弟子供千持たとて祝ひますと云て笑ったよし。同じ藝術の師でもこれほど違ふぞ。又、徂徠門人の歴々が某に云た。今江戸で大家と云はそちの大人と南郭じゃと云た。人足をあてるやふな見やふで、人の多ひで云たもの。玄関に中ぬき草履の多ひで盛とは云はれぬ。永井先生などの今死ぬと云とき、こんなことを云たは、直方先生を盛んにしたのなり。或人が丹波の湖月に、こなたが死ぬと禅の法燈が絶ると云たれば、湖月が、原白隠と云大たいまつがあると云た。永井先生も直方先生門の大たいまつじゃ。
【解説】
学流が盛んか否かは門人の数では決まらない。道を任じる者が三人もいれば、その門は盛んである。永井先生の遺文は、直方先生を盛んにした。永井先生は藤門の大松明である。
【通釈】
俗学は講席に人の多いことを指して盛んと言うが、道を目指す者が三人いれば盛んである。こんなことは俗学の知らないこと。永井先生が死ぬ時に遺文を話されたのは藤門が賑やかであることの証明である。斎藤主税という馬乗りが弟子を千人持ったので祝いを催したら、渋谷丹右ェ門という弓の名人が嘲って、あいつが弟子供千持ったので祝いますと言って笑ったそうだ。同じ芸術の師でもこれほどに違う。また、徂徠門人の歴々が私に、今江戸で大家と言うのは貴方の大人である迂斎と南郭だと言った。それは、人足の多寡で判断する様な見方で、この二人に弟子が多かったから、その様に言ったのである。玄関に中抜き草履が多いからといって、盛んだは言えない。永井先生が今死ぬという時にこの文を話したのが、直方先生を盛んにしたのである。或る人が丹波の湖月に、貴方が死ぬと禅の法燈が絶えると言うと、湖月が、原白隠と言う大松明があると言った。永井先生も直方先生門下の大松明である。
【語釈】
・斎藤主税…斎藤定易。江戸の人。大坪流八代斎藤求馬辰之に学び、新たな一波を立てて大坪本流馬術と称した。明暦3年(1657)~延年元年(1744)
・渋谷丹右ェ門…阿波鳴門の人。土佐藩及び阿波藩に仕える。元文5年(1740)7月28日、79歳にて没。
・中ぬき草履…中抜き草履。表は藁の心で作り、藁に白紙を巻いてよった緒をつけた草履。なかぬき。あわぞうり。
湖月…古月禅材?禅僧。1667~1751
・法燈…①仏の正法が世の闇を照らすのを灯にたとえていう語。仏の教え。のりのともしび。②転じて、僧のうちの最もすぐれたもの。③仏前の灯火。ここでは①の意。
・原白隠…白隠と言う人物はいる。江戸中期の臨済宗の僧。名は慧鶴、号は鵠林。駿河の人。若くして各地で修行、京都妙心寺第一座となった後も諸国を遍歴教化、駿河の松蔭寺などを復興したほか多くの信者を集め、臨済宗中興の祖と称された。気魄ある禅画をよくした。諡号は神機独妙禅師・正宗国師。著「荊叢毒蘂」「息耕録」「槐安国語」「遠羅天釜」など。1685~1768

先君子諭学者文曰云々。先君子の、手前の弟子を仕こむことなり。手前の弟子を仕込むに一と意思ありて学堂に掲けたに、古めかしいことを出された。是がやっはり冬至文の士以弘毅を請取たことなり。即ち、爰に掛てある諭学者の文なり。此が士以弘毅と同じこととはどふなれば、伊川先生の好学論の文字を、これは太極圖説から出たと云と同じこと。此文の博文約礼下学上達が直方の士以弘毅を冬至文に示したから出たことなり。迂斎の弟子をあつこふは、いこう温和でひん々々と訶りたこともない人で、ふっくりとした気象なり。そして、吾気質を出さず、吾と云う一箇の見を立ぬ人なり。めったに新しい見込は云はぬ。博文約礼下学上達と論語で云た。あの学識で弟子の諭しを云に一と趣向云れもせふが、これからゆけの、あれからゆけのと云はぬが、やっはり冬至文の弘毅と同じことで、得手方を出さぬこと。拙者得手の不得手のと云と気質におちる。
【解説】
「諭学者文」を遺文に載せたが、この文は、迂斎が自分の弟子を教育するためのもので、かつて学堂に掲げたものである。この文の博文約礼下学上達は、好学論が太極図説を請け取ったのと同じく、冬至文の士以弘毅を請け取ったものである。迂斎は温和な人で自分の気質を出さない人だった。古人の言に拠って、新説を作ることはなかった。この諭学者文も博文約礼下学上達で語っている。
【通釈】
「先君子諭学者文曰云々」。これは、先君子が自分の弟子を仕込むためのものである。自分の弟子を仕込むため、一工夫して学堂に掲げたのであるが、そこに論語という古めかしいものを出された。しかし、これがやはり冬至文の「士以弘毅」を請け取ったことなのである。これが即ち、ここに掛けてある諭学者文のことである。これが士以弘毅と同じことだというのは何故かと言うと、伊川先生が書いた好学論の文字を、これは太極図説から出たものだと言うのと同じである。この文の博文約礼下学上達は、直方が士以弘毅を冬至文に示したから出て来たのである。迂斎が弟子を扱う際は大層温和で、びんびんと訶ることもなく、その気象もふっくりとしていた。そして、自分の気質を出さず、私見を立てない人でもあった。滅多に新しい考えは言わない。ここも博文約礼下学上達と論語で言った。あの様な学識なのだから、弟子への諭しを言う際に一工夫して言うこともできただろうが、これからやれ、あれからやれなどと言わないのが、やはり冬至文の弘毅と同じことで、それは得手方を出さないということなのである。自分はこれが得意だ、これが不得手だと言えば気質に落ちる。
【語釈】
・好学論…程氏文集八(伊川先生文四)に「顔子所好何学論」がある。これをとった近思録為学第3条が好学論という題になっている。
・博文約礼…論語雍也27と顔淵15。「子曰、君子博学於文、約之以礼、亦可以弗畔矣夫(子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔[そむ]かざるべきか)」。
・下学上達…論語憲問37。「子曰、不怨天、不尤人。下學而上達。知我者、其天乎(子曰く、天を怨みず、人を尤[とが]めず。下学して上達す。我を知る者はそれ天か)」。

終身埋首云々何足謂之学乎。これが時々を防ぐことゆへ、論にも足らぬ俗学を相手にする。丁度摂養の仕方を云ふ様なもの。暑ひ時は暑気にあたるな、寒ひ時は風をひくなと云うのなり。三宅先生は京都で王陽明の学が流行たから王学を歒にして、三輪善蔵三宅石庵なと王陽明の学なり。一生弁じられた。迂斎は江戸で徂徠の徒が盛にて詩文博雜を主としたから、此戒がある。脇を防くことは皆、時々流行るものを防くことなり。
【解説】
「終身埋首云々何足謂之学乎」は、その時々に流行るものを防ぐことを言う。時々に流行るものとは俗学のことで、特に今は王陽明の学である。
【通釈】
「終身埋首云々何足謂之学乎」。これがその時々に流行るものを防ぐことで、話にもならない俗学を相手にすることである。丁度、それは養生の仕方を言う様なもの。暑い時は暑気にあたるな、寒い時は風邪をひくなと言うこと。三宅先生は、京都で王陽明の学が流行ったから王学を敵にして、三輪善蔵や三宅石庵などは王陽明の学である。一生弁駁された。また、江戸では徂徠の徒が盛んで詩文博雑を主として行っていたから、迂斎がこの戒めを作った。身を守るとは皆、時々流行るものを防ぐことである。
【語釈】
・三宅先生…三宅尚斎。
・王学…王陽明の学。
・三輪善蔵…三輪執斎。江戸中期の陽明学者。名は希賢。京都の人。1712年、王陽明の「伝習録」に標注を加えて翻刻する。1669~1744
・三宅石庵…江戸中期の儒学者。名は正名。京都の人。観瀾の兄。懐徳堂の初代学主。朱子学に陸王の学を併せた自由な学風を立て、鵺学問と評された。1665~1730

得寸者己之寸得尺者己之尺。任道は己が役と云がこのこと。町人がみせへ人を雇ってをくにさへ、をれは呉服屋だが今日は紙屋に頼まれたと云ふ様なは役に立ぬ。我に一つ得たものが任ずるぞ。爰はをれが得たと思へば、其方は我物になりたのなり。そこで任ずる。己之尺己之寸なれば、人の物ではなひ。これなれば頼しひ。さふ無れば世上流行の毒を呑む。孟子が楊墨を禦ぐは、世間流行の道の邪魔をして、後世へ毒を流すから弁じたなり。孟子は擔物をこちの物にしたからぞ。さうでなければ人の為の学なり。どこまでも我に得ると云につまることなり。
【解説】
道を任じるのは己の役目である。そして、自分が真に得た一つのものが道であって、これを任じるのである。自分が得たものは人の物ではない。道を任じることができないと、時々流行る俗学に毒される。孟子が楊墨を禦いだのは孟子が道を任じたからであって、俗学は聖学の邪魔をするからである。つまり、孟子は「為己之学」であって、そうでなければ「為人之学」となる。
【通釈】
「得寸者己之寸得尺者己之尺」。任道とは自分の役目であると言うのがこのこと。町人が店に人を雇って置く際にも、俺はいつもは呉服屋に雇われているのだが、今日は紙屋に頼まれたと言う様な者は役に立たない。自分が本当に得た一つのもの、それを任じるのである。これは俺が得たと思えば、それが自分の物になったということ。そこで任じるのである。自分の尺、自分の寸であれば他人の物ではない。そうであれば頼もしい。そうでなければ、世に流行している毒を呑むことになる。孟子が楊墨を禦いだのは、世間に流行している俗学が道の邪魔をして後世へ毒を流すから、それで弁駁したのである。孟子は担物を自分の物にしたからそうすることができた。そうでなければ人の為の学である。どこまでも自分に得るということに尽きるのである。
【語釈】
・孟子が楊墨を禦ぐ…孟子滕文公章句下9。「…吾爲此懼、閑先聖之道、距楊墨、放淫辭、邪説者不得作。(…吾此が為に懼れて、先聖の道を閑[まも]り、楊墨を距[ふせ]ぎ、淫辞を放ち、邪説の者作[おこ]ることを得ざらしむ)」。
・楊墨…楊朱と墨子。その学説を奉ずる楊家と墨家。前者は利己、後者は兼愛を主張。左右の両極端として儒家から排撃された。

不如無学。じれた口上ぞ。じれると云が親切なことに出るもの。世の人が書物さへ懐にすれば学者と云からじれたもの。只の者が天窓を剃りて黒ひ羽織で藥箱をもたせてあるくと、扁鵲仲景が腹を立つ。唯の者を学者と云と、聖賢が腹を立つ。偖て、迂斎の此文は若年から老成の人、凡そ学舎へ来る弟子を見かけて誰にも心得になるやふに書たから規模が小さい。弟子がちいさいからなり。冬至文のをもいは三人の衆の手柄なり。大きい弟子を見かけて云から規模が大きい。三人の衆のあの通りになられたは大きいことぞ。因て、冬至文は直方先生の手柄ではなくて、弟子の手柄なり。
【解説】
今は書物さえ懐中に入れれば学者であると言われるが、それは学が無いに等しい。医者でない者が医者の真似をすれば名医が腹を立てるのと同じく、学者でない者が学者の真似をすれば、聖賢が腹を立てる。迂斎が書いたこの文は、誰にでもわかるように書いたので規模が小さくなった。冬至文の規模が大きいのは、贈られた三人の弟子が大きいからである。それで、冬至文は直方先生の腕前によると言うよりも、三人の弟子による成果なのである。
【通釈】
「不如無学」。これは、腹を立てた言い方である。腹を立てるというのが切実な気持ちから出るもの。世間の人が書物さえ懐中に入れれば学者と言うので腹を立てたのである。普通の人に頭を剃り黒い羽織で薬箱を持たせて歩かせると扁鵲や仲景が腹を立てる。普通の人を学者だと言うと聖賢が腹を立てる。さて、迂斎のこの文は、若年から老成の人に到るまで、凡そ学舎へ来る弟子を見掛けて誰にでも心得になるように書いたから規模が小さい。よって、規模が小さいのは弟子が小さいためである。冬至文が重いのは三人の衆の手柄である。大きい弟子を見掛けて言うから規模が大きい。三人の衆があの通りになられたのは大きいこと。因って、冬至文は直方先生の手柄ではなくて、弟子の手柄なのである。
【語釈】
・扁鵲…中国、戦国時代の名医。渤海郡鄭の人。姓は秦、名は越人。長桑君に学び、禁方の口伝と医書とを受けて名医となり、趙簡子や虢の太子を救ったという。耆婆と並称される。
・仲景…張仲景。河南省南陽県の人。長沙の太守を勤める。「傷寒雑病論」を著した。

佐藤子卒既六十八年。をれが是を書たときが六十八年。今は早、又五年古りた。投俗論。これが学者のたしなむべきこと。俗論に投する、さりとてはいやなもの。俗論は人の機嫌のよくなるもの。道中で一里乗る駕舁にも、きげんのわるいは道中がしにくい。立場[たてば]の亭主の機嫌のわるいも居にくい。一夜の泊宿も泊りにくひもの。そこで上手をして方々がにこ々々すると泊よく、道中しよい。学者も方々へ合ふ様にすると吾術が行れよいなれとも、学者の投俗論が殊の外きたないこと。それがつまり、吾骸を安樂平易の地にくらさふと云ふ心根で、道理を主にせぬからなり。直方の、学者日蓮に及ずの論を書ふと云れたも、日蓮が法蕐一宗とみた卓越の見からなり。死ぬとも念佛は云はぬ。八宗兼学と云と胸中のひろい大器量のやうに心得るが、やはり俗論に投ずるなり。学者が本んのことをもてゆくと合ぬから、まぜこぜに方々を合せる。きたないことに上もないこと。
【解説】
他人に合わせれば都合よくいくが、学者は俗論に投じない様にして、慎まなければならない。日蓮が法華をただ一つの宗教と捉えた様に、学者は自分の学問一つで進まなければならない。八宗兼学などは、本当のことを言うと意見が合わないから色々な論を合わせただけであって、この上なく汚いことである。
【通釈】
「佐藤子卒既六十八年」。俺がこれを書いた時が、直方が亡くなってから六十八年後。今は早、また五年が過ぎ去った。「投俗論」。これが学者の慎むべきこと。俗論に投じるのは全く嫌なことである。俗論は人の機嫌がよくなるもの。道中で駕籠に一里乗るにも、駕籠舁きの機嫌が悪いと旅がしづらい。立場の亭主の機嫌が悪いと、そこに居づらい。一夜の宿泊も泊まり難いものである。そこでお世辞を言って周りの者がにこにこするとよい感じで泊まることができ、また、旅もし易い。学者も方々の者に合う様にすると自分の学術が行われ易くなるけれども、学者が俗論に投じるのは殊の外汚いことである。それはつまり、自分の体を安楽平易の地に置いて暮らそうという心根からで、道理を主にしないからである。直方が学者日蓮に及ばずの論を書こうと言われたのも、日蓮が法華をただ一つの宗教と捉えた、その卓越の見からである。死んでも念仏は唱えない。八宗兼学と言えば胸中が広く大器量の様に思っているが、やはり俗論に投じることである。学者が本当のことを言うと意見が合わないから、ごたまぜに方々の論を合わせる。それはこの上もなく汚いことである。
【語釈】
・たしなむ…嗜む。つつしむ。遠慮する。我慢する。
・立場…江戸時代、街道などで人夫が駕籠などをとめて休息する所。明治以後は人力車や馬車などの発着所、または休憩所。
・八宗兼学…ひろく八宗の教義を兼ね学ぶこと。八宗とは、南都六宗(奈良時代における仏教の宗派。三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の六宗)に、平安二宗の天台・真言を加えたもの。

三宅先生の難にあはれたも、本と弟子からをこりたぞ。其者が先生を背て、前で陰[ひそ]かに山崎派をわるく云とて、学者に政などをさせることではないと云、されとも、後藤松軒なぞはよいと云た。そんな俗人によいと云はれただけ、松軒が後世へわるく聞へるぞ。百年論定と云て、よいものをわるく云たも後にはわかるもの。わるいもののほめたは、どふしても投俗論からぞ。つまり、わるいは悪ひに定り、善ひ人はよいに定るもの。せくことはない。其當座をよくしたがりて俗論に投すが殊の外浅間敷ことと思へ。孔子のあの丸い御口から、郷人之善者好之不如其不善者悪之とあるがたしかなり。わるい者にわるい者にほめらるるは出かさぬこと。あの人は悪い人にもほめらるると云は、悪人の汁を吸ふからなり。どこへもよいと云が見所の無ひものの有りさまなり。学者も諸儒に出合、どこへも行く、寛厚なと云は、どふしても俗論に投するなり。
【解説】
時が経てば論は定まり、善は善、悪は悪と本来の通りに明らかになる。よって、当座をよくしようとして俗論に投じてはならない。何も急いで俗論に迎合する必要はない。また、悪人に褒められてはならない。誰からも好かれるのは分別のない者の姿であり、投俗論なのである。
【通釈】
三宅先生が難に遇われたのも、元々は弟子が原因で起こったのである。ある弟子が先生に背いて、君前でひそかに山崎派を悪く言い、学者には政などをさせてはならない、しかし、後藤松軒ならよいと言った。そんな俗人によいと言われただけ、松軒が後世に悪く伝聞される。「百年論定」と言う通り、善いものを悪く言っても、後で善いことだとわかるもの。悪いものを褒めるのは、何でも「投俗論」だからである。つまり、悪い者は悪いに定まり、善い者は善いに定まるのである。急ぐことはない。当座をよくしたいと思って俗論に投じるのは殊の外あさましいことだと思いなさい。孔子があの丸い口から「不如郷人之善者好之其不善者惡之」と話されたが、それは確かなことである。悪い者に褒められるのはよくないこと。あの人は悪い人にも褒められると言われるのは、その人が悪人の汁を吸うからであって、誰からも好かれると言うのが分別のない者の姿である。学者も諸儒に出合ってどこへでも行ったり、寛厚な人だと言われたりするのは、それが何であろうが俗論に投じることなのである。
【語釈】
・三宅先生の難にあはれた…宝永四年(1707)五月、四十六歳の時から三年間、三宅尚斎が武蔵忍[おし]藩城内に投獄となったこと。
・君…忍藩主阿部正喬。
・後藤松軒…江戸中期の儒者。瞽者。会津藩の儒者。享保2年86歳にて没。
・百年論定…出典「撈海一得下」
・郷人之善者好之不如其不善者悪之……論語子路24。「不如郷人之善者好之、其不善者惡之(郷人の善き者は之を好み、其の善からざる者は之を惡むに如かず)」。
・出かさぬ…「出かす」が、しとげる。はたす。うまくやる。
・寛厚…心がゆったりしていて温厚なこと。

卑陋之域。親切な学者にある病て学問の世話をやくもの。多葉粉屋の番頭にも学問を始めるがよいの、酒屋の杜氏も始めろ。そふ世話をやくと、後には堺町木戸番も、悪所妓有[きう]も考経をよめのと云様になる。皆卑陋之域なり。孟子などは戦國のときで盗人同前のものの中へ出られたから、さぞ世話をせらるると思ふたれば、退而與万章之徒序詩書なり。たった一両人なり。秀録曰、直方先生曰、徒と云ても三千の徒とはちかふ。孟子はたった一両人じゃ、と。万章公孫丑、ここで云はば義丹庄内と云た様なもの。孟子が巾着切の様な者ともを取立ふとは云はれぬぞ。卑陋なものをば御慶申入るぎり。門礼にすることなり。直方の、旦那寺とをれが云もしゅこふの有ることとなり。和尚が来た時は、よふござりた、遠方へ御出なら茶漬けでもと云は、旦那寺じゃからなり。出家と出合ひ、合はぬことを合せて念ごろするは卑陋なり。
【解説】
学問をするには相手を選ばなければならない。教える相手を選ばないことを「卑陋之域」と言う。孟子が学問を教える相手に選んだのは、たった二人だけだった。直方が和尚をもてなすのは檀那寺としてであって、仏教と通じるのは卑陋之域である。
【通釈】
「卑陋之域」とは親切な学者にある病で、彼等は学問の世話を焼くもの。煙草屋の番頭にも学問を始めるとよいとか、酒屋の杜氏にも学問を始めろと言う。その様に世話を焼いた後には堺町の木戸番にも、遊郭の遊女にも考経を読めと言う様になる。皆、卑陋之域である。孟子などは戦国時代にあって盗人同前の君主たちの中へ行かれたから、さぞ彼等に対して学問の世話を焼かれたことかと思えば、政から退いて弟子の万章達と一緒に詩書を序した。孟子が学問の世話を焼いた相手はたった二人である。惟秀が録して言う。直方先生が、徒と言っても三千の徒とは違う、孟子の徒はたった二人だと言った、と。孟子の弟子の万章と公孫丑は、この場で言えば義丹と庄内という様な者である。孟子はすりの様な者たちを取り立てようなどとは言われない。卑陋な者に対しては、お慶び申し入ると言うだけ。門口で挨拶をするだけである。直方が、檀那寺と俺が言うのも趣向のあることだと言ったそうである。和尚が来た時に、よく来られた、遠方へお出でなら茶漬けでもいかがかと言うのは、それは檀那寺としてのことである。仏者と出合って、論の合わないところを合わせて懇ろにするのは卑陋である。
【語釈】
・堺町…東京都中央区蠣殻町の北にあった町。江戸時代に歌舞伎・浄瑠璃・操芝居などがあり繁昌した。
・木戸番…江戸時代、町々の木戸に設けた番屋。江戸では番太郎といった。興行場などの木戸の番人。
・悪所…遊蕩をする場所。遊里(遊女のいる所。いろざと。くるわ。遊郭)。
・妓有…「妓」は芸者、遊女。
・考経…封建制下の諸階級に応じて、それぞれの考道を論じる。曾子の門人の著作とされる。
・盗人同前のもの…戦国下克上の中で、君主となった者を言う。
・退而與万章之徒序詩書…孟子序説。「退いて万章の徒と詩書を序す」。
・序す…順序をきめる。序文を書く。はしがきを書く。
・一両人…万章と公孫丑を指す。
・義丹…和田義丹。下総酒々井の人。1694~1744
・庄内…鈴木養察。上総姫島村の人。上総八子の一人。迂斎門下。1695~1779
・旦那寺…檀那寺。自家の帰依している寺。檀家の所属する寺。檀寺。
・出家…俗世間をすて、仏道修行に入ること。仏教徒を指す?

志が卑陋なれば却て親切にきこへるものなり。村の役人にはこれを読めの、娵[よめ]には比賣加賀美[ひめかがみ]、子守りには是れ歌を謡へと云。そんな聖賢はない。それで孔孟の学がゆくことではない。卑陋と云ても、借た金をひったくる様なことではない。きっとした学者にあることなり。己が卑陋で聖賢の道を小さくする。聖賢の[かみ]にあるときは、教が大釜で煮る様じゃから、どこと云ことはない。づら々々よくなる。一軒づつ別々に廻るやふなことはない。孟子は、得英才教育之。よくならぬものは國え皈[かえ]して畠をうなへと云のなり。卑陋な学者はほうじきを賣る野郎にも堪忍大明神ををがめと云。道学傳来はけ高ひこと。いかに寒むさふじゃとても四品[しほん]侍従の装束を馬士駕舁には着せられぬ。親切がよくないことになる。
【解説】
志が卑陋だと却って親切に聞こえるものだが、それでは道は行われない。志が卑陋な者は、立派な学者に多い。聖賢の道を担うには、担う人が卑陋であってはならない。聖賢が統治すれば、教えは偏りなく全てに広まる。しかし、孟子の世には聖賢が統治していなかったので、孟子は「得天下英才而教育之」と言った。聖賢の学は気高いものだから、教える相手を選ばないとその親切が却って悪い結果となる。
【通釈】
志が卑陋だと却って親切に聞こえるものである。村の役人にはこれを読め、嫁には姫鑑を読め、子守りにはこの歌を謡えと言う。そんな聖賢はいない。それでは孔孟の学が行われる筈がない。卑陋と言っても、借りた金をひったくる様なことではない。卑陋は立派な学者によくあること。自分が卑陋だから聖賢の道を小さくする。聖賢が統治する時は、教えが大釜で煮られる様に、偏ることなく悉くよくなる。一軒づつ別々に廻る様なことはない。孟子は「得英才教育之」と言った。よくならない者は国へ帰し、畠を耕しなさいと言う。卑陋な学者は、ほおずきを売る野郎にも堪忍大明神を拝みなさいと言う。道学が伝え来たものは気高いこと。いかに寒そうだからと言って、四品侍従の装束を馬士駕舁きに着せることはできない。その親切がよくないことになる。
【語釈】
・比賣加賀美…姫鑑。女性として守るべき事柄。
・きっとした…「屹度する」が、おごそかなさまで行う。きちんとする。
・上…身分・地位の高い人。また、その人のいる場所。主君。主人。かしら。長。
・づら々々…熟々。つくづく。よくよく。念入りに。
・得英才教育之…孟子尽心章句上20。「孟子曰、君子有三樂。而王天下、不與存焉。父母倶存、兄弟無故、一樂也。仰不愧於天、俯不怍於人、二樂也。得天下英才、而教育之、三樂也。君子有三樂。而王天下不與存焉(孟子曰く、君子に三樂有り。而して天下に王たるは與[あずか]り存せず。父母倶に存し、兄弟故無きは、一の樂なり。仰ぎて天に愧じず、俯して人に怍[は]じざるは、二の樂なり。天下の英才を得て、之を教育するは、三の樂なり。君子に三樂有り。而して天下に王たるは與り存せず、と)」。
・ほうじき…「ほうづき」の誤り。ほおずき。酸漿。
・大明神…神号の一。明神を更に尊んでいう称。また、神名の下につけて称える。
・四品…令制で、親王の位(一品から四品に至る)の初位。四位の異称。
・侍従…君主の側近くに仕えること。また、その人。律令制で中務省に属し、天皇に近侍する職員。

あまり役に立ぬ世話をするを学者の任とは云はぬ。我れに得ることなり。得れば卑陋之域を免る。万民をよくするは上に有る人のすることなり。為己の学と云は道を任ずる。風俗の世話をすれば思出其位なり。孟子の巻軸の善治と眞儒とのあやはそこなり。
【解説】
万民を善くすることは君主の仕事であって、学者の仕事は己の為の学、つまり道を任じることである。論語にある様に、他人の世話をしていれば、自分の領域を出てしまうことになる。人の領域を犯さないこと、それが、孟子の巻き軸にある善治と真儒との綾なのである。善治とは政治を善く治めることで、真儒とは真の儒者のこと。
【通釈】
あまり役にも立たない世話をすることを学者の任とは言わない。学者の任とは、道を自分の身に得ることである。道を得れば卑陋の域を免れる。万民をよくするのは君主のすること。己の為の学とは道を任じることである。社会の世話をすれば「思出其位」となってしまう。孟子の巻き軸に書いてある善治と真儒との関係はこの綾である。
【語釈】
・風俗…①一定の社会集団に広く行われている生活上のさまざまなならわし。しきたり。風習。
・思出其位…論語憲問28。「曾子曰、君子思不出其位(曾子曰く、君子は思うことその位を出でず)」。
・善治と眞儒…孟子尽心章句下38集註。「有宋元豐八年、河南程顥伯淳卒。潞公文彦博題其墓曰明道先生。而其弟頤正叔序之曰、周公歿、聖人之道不行。孟軻死、聖人之學不傳。道不行、百世無善治。學不傳、千載無眞儒。無善治、士猶得以明夫善治之道、以淑諸人、以傳諸後。無眞儒、則天下貿貿焉、莫知所之、人欲肆而天理滅矣(有宋の元豐八年、河南の程顥伯淳卒す。潞[ろ]公文彦博其の墓題して明道先生と曰う。而して其の弟頤正叔之に序して曰く、周公歿して、聖人の道行われず。孟軻死して、聖人の學傳わらず。道行われざるときは、百世善治無し。學傳わらざるときは、千載眞儒無し。善治無きときは、士は猶以て夫の善治の道を明らかにして、以て諸を人に淑[よ]くし、以て諸を後に傳えんことを得。眞儒無きときは、則ち天下貿貿焉として、之く所を知ること莫く、人欲肆にして天理滅す)」。

門風。鷹は餓ても穂はつまぬ。鷹は不了簡。餓たら啄[つ]んでもよさそふなものなれとも、死ぬとも啄まぬ処が鷹の鷹たる所。勝手になること有ふとも、門風を違へぬが学者の学者たる処。
【解説】
鷹は餓えても穂を啄まない。門風を違えないのが本当の学者である。
【通釈】
「峻門風」。鷹は餓えても穂は啄ままない。鷹はそれを認めない。餓えたら啄んでもよさそうなものだが、死んでも啄まないのが鷹の鷹たるところである。自分の勝手になることがあっても、門風を違えないのが学者の学者たるところなのである。
【語釈】
・門風…藤門の学風。

嚴心術。心術と云が大事なこと。ちっとな方へきれると、はやそれから夫れきりになるもの。ちっとなことで胸中が大なしになる。胸のひろい様なことを云は心術が嚴でない。嚴は親の忌日に肴を喰はぬやふなもの。ちっと喰ふてもさまで不孝と云でもないが、決して喰はぬと云でよい。異端や覇者のことに吾知らず馴染むことある。それとてもきついこともないが、ちらりとあらばそこをゆるさぬこと。随分吾が道を守りても、つい老佛めく。つひ覇術になる。是れ心術嚴でない処なり。
【解説】
心術を厳にすることが大事である。道を守ることに務めていても、気付かない内に異端や覇者に染まることがある。少しも道から逸れない様にしなければならない。
【通釈】
「嚴心術」。心術ということが大事なことである。小さな方へ逸れると、早、それで終わってしまう。少しのことで胸中が台無しになる。しかし、胸の広い様なことを言うのは心術が厳でない。厳とは親の忌日に肴を喰わない様なこと。少し食べてもそれほど不孝ということはないが、決して食わないというのがよい。異端や覇者に自分が気付かない内に馴染んでいることがある。その馴染む程度がそれほどひどくはないにしても、少しでもそれがあれば赦さないこと。随分自分の道を守っても、つい老仏風になる。つい覇術になる。これでは厳心術ではない。

暴君汙吏[おり]は経界を簡[おろそか]にする。其簡が嚴でないを云。ぐにゃ々々々にしてをいて、争がをこると上へ取上る工靣なり。をろそかでもふける心なり。聖賢はきっと正す。田地もこちは重次、こちは與五右衛門と分るでよい。心法は佛で得ても神道で得てもよいと云は儒者ではない。嚴でないぞ。又、異端を相手に云ことでなくとも、すこしの処がふれても道学中の異端じゃ。孔子の弟子も源遠而末益分る。子貢から田子方、それから荘子になりた。心術の嚴がないとじきにそれなり。心の底のちらりとした処からみんなになる。経界のことなどは爰へ合ぬことなれとも、嚴の字の姿を見せる為めに云ぞ。
【解説】
「暴君汙吏必慢其經界」は「厳」でないからである。厳しく藤門の道を実践し、異端の説を入れないことが重要である。心術を厳にしなかったから、孔子の門流も多岐に分かれることとなった。
【通釈】
暴君や悪官吏は土地の境界を簡にする。その簡が厳でないということである。土地の境界を曖昧にしておいて、争いが起こると取り上げてしまう算段である。経界を曖昧にして儲けようとする心得である。聖賢は厳しく正す。田地もこちらは重次に、あちらは與五右衛門へと厳しく分けるので問題が起きない。心法は仏教で得ても神道で得てもよいと言う者は儒者ではない。それは厳でない。また、異端を相手にしなくても、少しでも異端の影響を受ければ道学の中にあっての異端である。孔子の弟子も「源遠而末益分」という状態で、子貢から田子方、それから荘子へと変わって行った。心術の厳がないと直ぐにこの様になる。心の底にある少しの緩みから全体が台無しになる。境界のことなどはこの文に合わないことだが、厳の字の姿を見せるために話した。
【語釈】
・暴君汙吏は経界を簡にする…孟子滕文公章句上3。「是故、暴君汙吏必慢其經界(是の故に、暴君汙吏は必ず其の経界を慢[まん]にす)」。
・重次…中田重次。十二とも言う。博徒であったが、三十歳頃に黙斎に入門。~1798
・與五右衛門…篠原惟秀。
・源遠而末益分る…孟子序説。「孔子之道大而能博。門弟子不能徧觀而盡識也。故學焉而皆得其性之所近。其後離散分處諸侯之國、又各以其所能授弟子。源遠而末益分。惟孟軻師子思、而子思之學出於曾子。自孔子沒、獨孟軻氏之傳得其宗。故求觀聖人之道者、必自孟子始(孔子の道は大いにして能く博し。門弟子徧く觀て盡く識ること能わず。故に學んで皆其の性の近き所を得。其の後離散して諸侯の國に分處し、又各々其の能くする所を以て弟子に授く。源遠く末益々分かる。惟孟軻のみ子思を師として、子思の學曾子に出づ。孔子沒してより、獨[ただ]孟軻氏の傳のみ其の宗を得たり。故に聖人の道を觀んことを求むる者は、必ず孟子より始む)」。
・田子方…魏の文公の賢臣。文公の子の武公が太子の時に、「貧賎なる者、人に驕るのみ」と言って太子を諭した話がある。

偖て、嚴と云字について咄有り。程子が、漢儒は[ものいみ]を知らぬ。斎の日、思居処思笑語と云て有るが、斎は心に一物置ぬこと。胸の中に居処笑語を思ふと云ふ一物有りては斎ではないと云はれた。あまり吟味づよいと云ふ程のことなり。それを三宅先生が心術の嚴と云はれた。斎は心術に邪念を起さぬためで、不断思ふ様なわるいことを思はぬことぞ。そこで、親の居処笑語を思ふ。よいことを思ふはよさそふなものなれとも、斎にはそふうした思もやめろと云が嚴の字なり。
【解説】
程子は、漢の儒者は親の居処笑語を思うことを斎だと思っているが、そうではなくて、何も心に抱かないことが斎なのであると言い、三宅先生は、これが心術の厳だと言われた。親の居処笑語をも思わない様にするのが「厳」である。
【通釈】
さて、厳と言う字について話がある。程伊川が、漢の儒者は斎を知らない。漢の儒者は斎の日に亡くなった親の当時の振舞や笑って話をしている姿を思うと言っているが、そうではなくて、斎とは心に何も持たないこと。胸の中に居処笑語を思うという一物が有っては斎ではないと言われた。これは、あまりに詮議のきついことではあるが、それを三宅先生が心術の厳と言われた。斎は心術に邪念を起こさないためのもので、普段思う様な悪いことを思わないことである。そこで、親の居処笑語を思うのはよいことだから、よいことを思うのはよさそうなものだが、斎にはその様な思いも止めろと言うのが厳の字の意味である。
【語釈】
・斎…ある期間、飲食・行為をつつしみ、身体を浄め、不浄を避けること。
・斎の日、思居処思笑語…礼記祭義。「斎之日、思其居處、思其笑語、思其志意、思其所樂、思其所嗜(斎するの日は、其の居処を思い、其の笑語を思い、其の志意を思い、其の楽しむ所を思い、其の嗜む所を思う)」。

火の用心を觸るから大火をふつと消す。まだ火が見へるから灰をかける。もっと吟味をすれば、手を入れて見てほか々々しても水をかける。これほどでなければ本んの火の用心のきびしひでない。心術の嚴は、すいの漉しの上の絹篩ぞ。今の学者があらくとうしてあれもよい、是れもよいと云。それでは嚴でない。道を任する以上の学者に大酒をするなの、わるいことをするなのと云あらいことは入らぬ筈。それは只の者へ云こと。冬至文を聞くものなどに竹箒で掃くことなどはない。王道云々と説ひても、つい利口を云ふ。はや伯者めくことがあるもの。伯者めいたことが一念にちらりと有っても、はや道学でない。克己と云が欲を根だをしに無くすこと。それではあんまりじゃ、佛者めくと云ほどなが克己の嚴なり。欲がありては仁にはなられぬ。根だをしにするが心術の嚴なり。某など及ぬことながら、冬至文を嚴心術でとめたがこのあやなり。
【解説】
火の用心を厳しくするから大火にならない。心術も絹篩を使う様に厳密にしなければならないが、今の学者は粗く行う。道を任じる者は厳心術だから、今の粗い学者の忠告は不要である。また、欲があっては仁にはなることができない。そこで、欲を根倒しにすることが克己の厳であり、心術の厳である。ここが、この文を「厳心術」で結んだ意なのである。
【通釈】
火の用心を触れ廻るから大火にならずに火を消すことができる。まだ火が見えるから灰をかける。もっと慎重になれば、手を入れて見てほかほかしていれば水をかける。これほどでなければ本当の火の用心の厳しさではない。心術の厳は、漉し切った上で更に絹篩を使う様なこと。今の学者が粗く通して、あれもよい、これもよいと言う。それでは厳ではない。道を任じる学者に大酒をするな、悪いことをするなと言う様な、粗野な忠告は要らない筈。それは普通の者へ言うことである。冬至文を聞く者などは、竹箒で掃く様な粗いことはしない。王道云々と説いても、つい小利口なことを言って直ぐ覇者めくことがある。覇者めいたことが一念にちらりと有っても、最早それは道学でない。克己とは、欲を根倒しにして無くすことである。それはあんまりなことで仏教徒の様だと言うほどのことが克己の厳である。欲があっては仁になることができない。根倒しにすることが心術の厳である。私などではとても及ばないことではあるが、私が冬至文の遺文を「厳心術」で結んだのはこの綾である。
【語釈】
・すいの漉し…粋の漉し。

右筆記中に四先生墓表とは、鈴木恭節上京の時、節写し来る垂加絅尚三翁に、江戸にて佐藤子を加へたる墓表のかけものなり。今日先生これを掛り。
【通釈】
右筆記中にある四先生墓表とは、鈴木恭節が上京の時、当人が写し持って来た山崎闇斎、浅見絅斎、三宅尚斎の三翁の表に、江戸で佐藤直方の表を加えた墓表の掛け物のことである。今日、先生はこの掛け物を掛けた。
【語釈】
・鈴木恭節…清名幸谷の人。二十八歳の時に黙斎の推薦で館林藩の儒臣となる。1762~1830
・垂加…山崎闇斎。
・絅…浅見絅斎。
・尚…三宅尚斎。