黙斎冬至文三講

三講冬至 辛亥 一六談柄[だんぺい]
【語釈】
・辛亥…寛政三年。1791年。「かのと・い」と読む。
・一六…毎月一と六のつく日。この日に課会があった。
・談柄…はなしのたね。話柄。

六年前丙午十一月朔日冬至。去年庚戌十一月十六日も冬至。當年も今日課會冬至にあたるゆへ、前賢を追慕して遺文を講習する。これ六十耄老閑居の事業なり。諸賢幸いに疾病もなく再三此席に會する、亦昇平無事の一幸民と云べし。つら々々顧に道任にあたるの学德なく、外靣皮毛の商量、何顔ありて遺文に對せん。汗出赤発の至り。云にたへす。諸賢春秋冨む。勉勵すべし。
【解説】
六年前の一講、昨年の二講に続いて、今年も冬至の日に遺文を講習する。
【通釈】
六年前の丙午十一月一日は冬至で、去年の庚戌十一月十六日も冬至だった。今年も今日の課会が冬至にあたることから、前賢を追慕して遺文を講習する。これは六十歳になる年寄り閑居の事業である。諸賢幸いに疾病もなく再三この席に会することができ、まさに昇平無事の一幸民である。つくづく自らを顧みると、道を任じるにあたるだけの学徳はなく、外面の考えばかりで、どの様な顔をして遺文に対することができようか。汗出赤発の極致であって言うに堪えない。諸賢は年若く、将来があるのだから勉励しなさい。
【語釈】
・耄老…耄は老いぼれる。年寄りのこと。
・昇平…国運が盛んで、世の中が平和に治まっていること。
・つら々々…熟々。つくづく。よくよく。念入りに。
・商量…あれこれとはかり考えること。
・汗出赤発…冷汗が出て、赤面するの意。
・春秋冨む…史記斉悼恵王世家。年若く、経験に乏しいこと。転じて、生い先が長いこと、将来性があること。

知見高ければ、なに冬至文入らざることと冷笑し、又、篤實にして信深ければ、課日の冬至に當るを侫佛の輩が親の忌日か彼岸にあたるを喜ぶに均しき消息ありて識者のそしりたり。二つの者、皆為己之趣にあらず。為己と云はあたる処に従て商量することなり。ここに実意あれば、今日冬至文を読ても終身の工夫をも得ることあり、実意無れば先父師今ここにあるとも得益はなし。
【解説】
知見に頼って冬至文を低く評価してはならないし、冬至の日が偶々課会の日に当ったことなどで喜んではならない。何故なら、それらは己の為ではないからである。己の為とは、その場その場で実意によって考えることである。
【通釈】
知見が高いので、何も冬至文などは要らないことだと冷笑し、また、篤実で信心深ければ、課会の日が冬至に当るのを喜ぶが、それは仏教に侫[へつら]う輩が親の忌日が彼岸にあたるのを喜ぶのと同じ有様であって、識者の謗りである。この二つの者は、皆己の為の趣ではない。己の為というのは、あたる処に従って商量することである。ここに実意があれば、今日冬至文を読んでも一生涯の工夫をも得ることがあるが、実意がなければ、もしも先父師が今ここにいたとしても益を得ることはない。
【語釈】
・消息…ありさま。なりゆき。
・実意…まことの心。本心。
・先父師…稲葉迂斎。

世間めかす内ばなことと云ふに、冬至の文でも講ずると云ふ手段ほど外見にあつからぬことはなし。されとも、一念外に向ふ心あれば此冬至の文も好名の媒となるなりとはどふなれば、人を相手にして世儒は左国史漢から組み立る。我々は此一文にても君子にならるるなどと一念に世間とはり合、世間を見校る意あれば、すぐに好名と云ものぞ。丁ど、華麗紈羅の中え鼠色の布子を着て出て、又、富貴の家は三十疂もしくに我は二畳じきなりと、それを得計得意にするの気味あれば、隱逸がすぐに冨貴の相になり、冬至文もじきに博雜詞章の徒と同日になることなれば、此一念自ら克治反省あるべきことなり。
【解説】
冬至文は内へ向かう己の為のものである。しかし、冬至文を読んで、外に向かって世間と張り合ったり、世間を見限る様になるのなら、冬至文は好名の媒となり、博雑詞章の徒と同じとなる。そこで、自分の一念を内に向かせる様に、よく治め反省しなければならない。
【通釈】
世俗風にならず控え目なことと言えば、冬至文でも講じるということほど外見に預からないことはない。しかしながら、一念に外に向かう心があれば、この冬至の文も好名の媒介となると言う。それは何故かと言うと、世間の儒者は人を相手にして左国史漢から組み立てるが、我々はこの一文だけでも君子になることができるなどと、一念に世間と張り合い、世間を見限る意があれば、それが直ぐに好名と言うものだからである。丁度、華麗な絹衣を着た人々の中に鼠色の布子を着て出たり、富貴の家は三十畳も敷くが自分は二畳敷きだと自慢する気持があれば、隠逸している顔がすぐに冨貴の者と同じ相になる様なもので、冬至文を読んでも、直ちに博雑詞章の徒と同じとなる。そこで、この一念は自らよく治め反省すべきものなのである。
【語釈】
・左国史漢…春秋左氏伝と国語と史記と漢書。中国史書の代表的なもので、わが国で平安朝以来、文章家の必読書とされた。
・布子…木綿の綿入れ。古くは麻布の袷または綿入れをいう。
・得計得意…計ることを得、意を得る。謀って意とする。
・隱逸…世俗をのがれ隠れること。また、その人。

佐藤子弘毅から先君子博約までを、隱求の提撕と先師の勿忘勿怠の日新にて受用すれば、か所謂峻門風嚴心術なるもの。他に求むるに暇あらず。丙午の冬至は文次が筆記あり。去年は秀父が録あり。今年又新なる説もあらんと聞耳立ておる聴徒もあるべし。これ又舊見を洗ひ去て新意を来し、温故知新ことなれば、左もあるべし。左れとも、発明もなければ云こともなし。今、滑稽法句と云ものあり。東都に多し。歳旦寄合などと云ことあるよし。句はつきぬものなり。此道此話つきることなし。これ諸賢真知実験の発揮あるべし。此処無究。
【解説】
佐藤子の「弘毅」から先君子の「博約」までを、隱求の「提撕」と先師の「勿忘勿怠」の日新によって受け用いれば、黙斎の言う「峻門風厳心術」となる。今回が三回目の冬至文講義となるが、何も新しいことを述べるわけではない。それでも、道も冬至文も尽きることがない。そこで、真知実験に務めなければならない。
【通釈】
佐藤子の弘毅から先君子の博約までを、隱求の提撕と先師の勿忘勿怠の日新によって受用すれば、信の言う峻門風厳心術となる。他に求める暇はない。丙午の冬至には文次の筆記があり、去年は秀父の録がある。今年もまた新たな説もあるのではないかと聞き耳を立てている聴徒もいることだろう。それはまた、旧い見識を洗い去って新意を招き、「温故知新」のことだから尤もなことである。しかしながら、発明もなければ別に敢えて言うこともない。今、滑稽発句と言うものがあって江戸で流行っている。元日寄合などと言うものもあるそうだ。話は尽きないもの。それと同じで、この道もこの冬至文も尽きることはない。よって、諸賢は真知の実験を深める様、務めなければならない。それは窮まることがない。
【語釈】
・佐藤子…佐藤直方。1650~1719。
・弘毅…論語泰伯8。「曾子曰、士、不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」。
・先君子…稲葉迂斎。十左衛門。1684~1760。
・博約…論語雍也27と顔淵15。「子曰、君子博学於文、約之以礼、亦可以弗畔矣夫(子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔[そむ]かざるべきか)」。
・隱求…永井隱求。三右衛門。1689~1740。
・先師…野田剛斎。七右衛門。本所石原町に住んでいたので石原先生と呼ばれる。1690~1768。
・日新…大学章句2。「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新(湯の盤の銘に曰く、苟[つつし]みて日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)」。
・信…稲葉黙斎。1732~1799。
・文次…花澤文次。林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1786
・秀父…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812
・温故知新…論語為政11。「子曰、温故而知新、可以爲師矣(子曰く、故きを温ね新しきを知れば、以って師たるべし)」。
・法句…発句。
・東都…東方の都。特に、江戸または東京を指す。
・歳旦…後漢書呉良伝。新年の第一日。元日。元旦。
・実験…顔氏家訓帰心。実際の経験。

先君子の得寸得尺を直方の願学孔孟、さし合ふことのやふに心得べからず。得寸得尺は実地なり。実地でなくて孔孟は願はれず。千万里の道も一歩を踏出すの実地なければ進歩ならず。先君子の各自随分と云を小成のやふに見ることなかれ。道中にて一日々々に宿をとり食事をする、これ、寸を得るなり。それを積で孔孟に至ることなり。やはり、格致の積累と同じこと。今日一件明日一事はそれに腰をかけることではなし。段々進んでゆくことなり。
【解説】
先君子の言う「得寸得尺」は実地であって、実地無くして直方の言う「願学孔孟」は成らない。また、先君子の「各自随分」とは、小さな成功に甘んじることではなく、寸を得、それを積み重ねて孔孟に至ることであって、格物致知の積累と同じことなのである。
【通釈】
先君子の「得寸得尺」が直方の「願学孔孟」と差し合う様に心得てはならない。得寸得尺は実地である。実地でなくては孔孟を願うことはできない。千万里の道も一歩を踏み出すという実地がなければ進まない。先君子の「各自随分」を、小成のことと考えてはならない。道中で一日毎に宿を取り食事をする。それが寸を得るということ。これを積み重ねていくと孔孟に至る。それは格物致知の積累と同じである。「今日一件明日一事」は日々の事柄に腰掛けて休むことではなく、一歩一歩進んで行くことである。
【語釈】
・さし合ふ…差し合う。さしつかえる。かちあって不都合になる。さしさわりがある。
・小成…少しの成功。
・今日一件明日一事…近思録致知9に「須是今日格一件、明日又格一件(須らく是れ今日一件に格[いた]り、明日又一件に格るべし)」とあり、続く致知10には「若於一事上思未得、且別換一事思之(若し一事の上に於て思いて未だ得ずんば、且[しばら]く別に一事を換えて之を思え)」とある。

五車見答陳師徳書。節要十五。得寸得尺亦見答朱明孫書。節要十七。迂斎などの文字は朱書を出處にするがよし。古書の字にても、朱書に本づくにてよし。これが一意趣の精彩ぞ。唐彦明は尚斎の門にて、博識にて詩文章の名もありたる人なり。然るに門人が名乗の字を求れば、四書章句の集註の文字を以て名づけたることあり。これ却て高趣と云べし。予もそのこと感心して心に留め置たる内、先年、鵜沢兄弟倅共へ名を賜はれと云ゆへ、喜内が名乗就正と云より、彼の倅共をかの章の集註の文字にて付てつかはす。恭節が父は近義と云たるゆへ、此も即、論語の此章の集註の文字を用ゆ。此等のことも、一轉語を下せば、亦、吾黨の一旨訣なり。
【解説】
古書にある字も朱書に基づいて引用するのがよい。唐崎彦明が四書章句の集註の文字を引用して名乗りを付けたが、黙斎自身も鵜沢兄弟の子弟の名乗りを付けた。転語一つをとっても我が党の旨訣となる。
【通釈】
「五車」は、陳師徳に答うるの書を見なさい。節要十五。「得寸得尺」はまた、朱明孫に答うるの書を見なさい。節要十七。迂斎などの文字は朱書を出処にするところがよい。古書の字であっても、朱書に基づくのでよい。これが迂斎の意趣の精彩である。唐崎彦明は三宅尚斎の門人で、博識で詩文章の名声もあった人である。そこで、門人が名乗りの字を求めると、四書章句の集註の文字を引用して名付けたことがあったが、これは却って高趣と言うべきことである。私もそのことに感心してそれを心に留め置いていると、先年、鵜沢兄弟が倅達に名を付けて欲しいと言うので、喜内の名乗りが就正と言うので、彼の倅達をあの四書章句の集註の文字を用いて付けてあげた。恭節の父は近義と言うので、これも論語のこの章の集註の文字を用いた。これ等のことによってもわかるが、転語を一つ下せば、それもまた、我が党の一旨訣となる。
【語釈】
・五車…荘子天下編。「恵施多方、其書五車(恵施は多方、其の書は五車)」。
陳師徳
朱明孫
・唐彦明…唐崎彦明。三宅尚斎門下。芸州竹原の人。黙斎の親友。彦明は伊勢長島藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せられたとき、黙斎はその救援に献身したという。なお竹原は頼山陽の出たところでもある。~1758
・名乗…公家および武家の男子が、元服後に通称以外に加えた実名。
・鵜沢兄弟…鵜沢由斎と鵜沢近義の兄弟。
・喜内…鵜沢由斎。名は就正。鵜沢容斎(本姓は鈴木。1695~1773)の長子。
・恭節…鈴木恭節。鵜沢近義の三男。祖父容斎の実家、鈴木の姓を継ぐ。通称長蔵。館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・近義…鵜沢近義。容斎の次子。上総八子の一人。名は幸七郎。1720~1792
・轉語…ある語から変じてできた語。

冬至文は附録をよくよむべし。初めの天木時中え奥書、佐藤子易簀五十日前の筆なり。末の浅見谷二氏との往復は、垂加没間もなき時か存命の内かなり。子思道学の傳を憂ふ。其憂が冬至の文の一体ぞ。人の憂へぬことを憂へ、人の任せぬことを任するからは、一切のことは度外に置くはづぞ。水損旱損を憂るは西銘の意なれとも、我々のは、やはり凡夫の通りぞ。
【解説】
附録の筆記の作成時期について述べる。冬至文は、子思が道学の伝が失われることを憂いたのと同じく、道が廃れるのを憂いて、これを担うのである。
【通釈】
冬至文は附録をよく読みなさい。初めの天木時中筆記への奥書は、佐藤子の亡くなる五十日前の筆である。後にある浅見絅斎や谷重遠との往復書簡は垂加が亡くなって間もない時か、存命の内かの頃である。子思は道学の伝を憂えた。その憂いが冬至の文で言うことと同一である。人が憂えないことを憂え、人の任じないことを任じるからは、道に関係しないことは一切心に懸けない筈である。水害や旱害を憂うのは西銘の文意だが、我々如き者の心はやはり凡夫の心そのものである。
【語釈】
・奥書…記載事実の真正・確実を証明するために、その書類の末尾に記す文。
・易簀…礼記檀弓上。「曰、華而睆、大夫之簀與。曾子曰、然。斯李孫之賜也。我未之能易也。元起易簀(曰く、華にして睆[かん]なるは大夫の簀か、と。曾子曰く、然り。斯れ李孫の賜なり。我れ未だ之を易[か]うる能わず。元起ちて簀を易えよ、と)」。曾子が死に臨んで、季孫より賜った大夫用の簀を分不相応だとして易えた故事から、病床をとりかえること。転じて、学徳ある人の死。
・垂加…山崎闇斎。
・子思道学の傳を憂ふ…中庸章句序。「中庸何爲而作也。子思子、憂道學之失其傳而作也(中庸は何の為に作れるや。子思子、道学の其の傳を失わんことを憂えて作れるなり)」。
・水損旱損…水害と旱害。
・西銘…張横渠著。近思録為学89条にある。
・式…(副助詞的に用いて)たかが…くらい。わずか…ほど。…程度の者は。

天木など、鞭策録道学標的冬至文か受用になりたのが此筆記てみゆる。吾父師は全体が無跡の方ぞ。天木は其跡著しの方ぞ。天木の、道学へはまったと云ものでもないと云はるる。ここを浅見子の谷氏え俗話俗情云々の句へあてて見べし。高明正大踈暢[そちょう]洞達。まことに天木はこのやふないきかたな気象と見えると。折戸京二軒茶屋の話、天木大音にてああ不気象、と。其声高朗なりしよし。
【解説】
天木の考え方は佐藤直方の著書に拠っていて、名声も高く、高明正大踈暢洞達と評価できるほどの優れた人であった。
【通釈】
天木が鞭策録や道学標的、冬至文を自分のものとしたことが、この筆記を見るとわかる。私の父師は全体的に足跡のない方である。天木はその足跡が著しく多い人であった。天木は、道学には待ったと言ってはならないと言われた。それを、浅見子が谷氏に送った文にある「俗話俗情云々」の句へ当て嵌めて考えてみなさい。高明正大踈暢洞達。本当に天木はこの様な生き方をする気象だったことがそれでわかる。折戸京の二軒茶屋の話に、天木は大声で、あの通りの不気象の者だったとあるが、それは彼の声が高朗なためである。
【語釈】
・鞭策録、道学標的、冬至文…全て佐藤直方著。
・高明正大…「高明」は高くて明らかなこと。「正大」は正しく大きなさま。意志・言行が、正しく堂々としていること。
・踈暢…「踈」は塞がっているところを切り開いて通すこと。「暢」は伸びること。
・洞達…「洞」は見通す。見抜く。「達」は通じる。

依阿、へたくさととりつきひっつきうるさいなり。淟涊、むさくこぎたない。じと々々よこれた油あせのしみたやふな。囘互、あちへやりこちへやり、こしらへとりつくらふ。隱伏、手を見せず尾をかくし、そら死したなりたり。紏結、しなたれてからみつく。蛇蚓、ぬらりくらり。蟻蝨、けちなざま。鬼蜮、かわ太郎。狐蠱、もののけ。詛祝、いちこ。閃倐、魔術。狡獪、猿利口。不可方物、ぬったりはげたり、かげろふ、いなづま。
【通釈】
依阿、べたくたと取り付き引っ付き煩い。淟涊、むさく小汚い。じとじと汚れた油汗の滲みた様。囘互、あちらへやりこちらへやり、拵え取り繕う。隠伏、手を見せず尾を隠し、嘘死した姿。紏結、しなだれて絡みつく。蛇蚓、ぬらりくらり。蟻蝨、けちな様子。鬼蜮、河太郎。狐蠱、物の怪。詛祝、神巫。閃倐、魔術。狡獪、猿利口。不可方物、ぬったりはげたり、陽炎、稲妻。

朱子此品題明物邪態の極て、究めて譯も市井鄙俚の語を用ゆるは小人の象を示すのみ。読者如此に至て、はづめて小人と思ふべからず。これに少近く似たる、即、陰類郡少の情状なり。一六の會に来る人も、以上の君子の風采に似たか、又、以上の小人の模様あるか、ためしてをくべし。浅見子の俗情俗話云々の訓はその上のことぞ。小人山師めいた姿がすこしありても、ちっと似ても、冬至の文には對されぬと知るべし。
【解説】
朱子の品評は優れたものである。小人には突然なるのではなくて、その前兆がある。この会に参加する者は自省しなければならない。小人山師の態が少しあっても、少し似ていても、冬至文を読む資格はない。
【通釈】
朱子のこの品評は、事物の邪な態様を明らかにすることの極みで、その訳についても、特に市井鄙俚の語を用いたのは、小人の姿を表したいという理由からである。しかし、読者はこの様になった者に対して、初めてそれが小人なのだと思ってはいけない。その前段として、これに少し近く似た、即ち陰類郡小という状態がある。一六の会に来る人も、ここの君子の風采に似ているのか、または、上の小人の模様があるのかを確認しておかなければならない。浅見子の俗情俗話云々の訓はそれを踏まえてのことである。小人や山師めいた姿が少しあっても、ちょっとそれに似ていても、冬至文には対することができないと思いなさい。
【語釈】
・品題…品位を論定すること。しなさだめ。品評。品藻。
・明物邪態…物の邪な態様を明らかにする。
・市井鄙俚…「市井」は人家の集まっている所。まち。ちまた。「鄙俚」は言語風俗などのいやしいこと。野鄙。
・はづめて…始めて。
・陰類郡少…「陰類」は陰でこそこそしているもの。「郡少」は群小。

講論をすれば激論になり、文字を精ふすれば章句の末に局すると、さて々々よく云はれた。訂翁の俗を脱せよ々々々と云がここぞ。地金に俗と云ものを持てをるで、どふもかくされぬ。迂斎一人脱俗のやふなり。先師固り脱俗云ふに及ばぬことなれとも、伊川為人執と朱子の云はるる場だけ迂斎が上座であった。其外歴々の先輩も凡そ気習ある内はどふもこげつくものぞ。
【解説】
黙斎は、天木の文を説明しながら、久米訂斎の話も引用して、俗を脱することが必要だと述べる。俗とは気習である。迂斎も野田剛斎も脱俗であるが、人の為という点で、剛斎よりも迂斎の方が上であったと言う。
【通釈】
「講論をすれば激論になり、文字を精くすれば章句の末に局する」とは、天木は実に上手く言われたものだ。訂翁が俗を脱せと言う意味がこれなのである。心に俗というものを持っているので、どうもそれを隠すことができない。迂斎一人が脱俗の様である。先師も固より脱俗であって、敢えてそれを言う必要もないことではあるが、「伊川為人執」と朱子が言われる分だけ、剛斎よりも迂斎の方が優れていた。その外歴々の先輩も、凡そ気習のある内はどうもうまく行かないものである。
【語釈】
・訂翁…久米訂斎。
・伊川…程伊川。程頤。北宋の大儒。字は正叔。諡は正公。河南洛陽の人。1033~1107
・伊川為人執…伊川人の為に執る。

吾父師、冬至文を得られたと云も、思へば一生手前の身へ馳走をせぬ人なり。これ、予が父師を見た処ぞ。つんと道理をたてぬいた人なり。迂斎はすら々々、石原はすら々々せぬやふに見るは眼なきなり。先師は道理をふみとめてゆく人ゆへぞ。二君子に気に流れたる処一生みず。迂斎は疏通、石原は周密。皆形而上のことにて俗態の働きはなし。太極圖気散じなことと云はれたるは、朱解の後一人なり。
【解説】
迂斎に比べて剛斎はゆっくりしている様に見えるが、両人ともに道に則り、気習はなかった。
【通釈】
我が父師は冬至文を得られたとは言うものの、思えば一生自分の身には厳格な人だった。これは、私が父師を見て感じた処で、強く道理を立て、それを貫いた人だった。迂斎はすらすらしているが、石原はすらすらしていない様に思う人は、見る眼のない者である。先師は道理を踏み止めて行く人だから、その様に見えるのである。二君子の気に流れたところを一生見ることはなかった。迂斎は疏通で、石原は周密。彼等の行いは皆、道に則っていて俗態の働きはなかった。石原先生が太極図を気散じなことと説明されたが、この様に言うのは朱子が太極図解を作った後、ただ一人だけである。
【語釈】
・石原…石原先生。野田剛斎。
・疏通…さわりなくとおること。ふさがっているのを開き通すこと。意思の通ずること。条理のよくとおること。
・周密…注意や心づかいなどが、細かい所までゆきとどくこと。
・形而上…易経繋辞上。「形而上者謂之道形而下者謂之器(形而上なる者之を道と謂い、形而下なる者之を器と謂う)」。
・太極圖…北宋の周敦頤の著。近思録道体初条にある。
・気散じ…石原先生が溝口公に太極図説の「原始反終、故知死生之説(始[はじめ]を原[たづ]ね終[おわり]に反[かえ]る。故に死生の説を知る)」を説明する際に、「気散じな」と形容した。

張思叔の伊川を德輶如毛と云はるるは、見て取ったなり。肉のつく内は聖賢と趣違ぞ。いこうここは上品なことで、我々同席の上では取合ぬ咄なれとも、吾黨諸老の向上のことを物語るのみ。もし、此等の商量を怡楽[いらく]せず、観感悚[しょう]動の意なくんば符読書於城南ですんだこと。我々の主張を煩すことはないと、朱子の劉子澄へ云へり。蒙養集に垂加のせられたなり。先年京都にて訂翁の予に云はるるに、其許の任せらるる処はとんと別色なことを云はるる。毎々目の付け処か人と違ふと称美せられたり。則、興國寺の會とも云べし。
【解説】
欲がある内は聖賢になれない。附録は先輩の次元の高さを物語っている。
【通釈】
張思叔が程伊川を「徳輶如毛」と言われたのは的を得ている。肉が付いている内は聖賢には程遠い。これは大層上品なことで、ここにいる我々には不釣合いな話であるが、我が党の諸先輩の次元の高さを物語るものである。もしもこれ等の考えを怡楽せず、観感悚動の意がなければ、ただ「符読書於城南」で済むことで、我々の主張を煩わすことはないと朱子が劉子澄に言った。蒙養集に闇斎がこれを載せられた。先年京都で訂翁が私に言われるには、貴方の任じられる処は、全く傑出したことを言われる。毎々目の付け処が人とは違うと褒められた。この会は則ち、興国寺の会とも言うべきものである。
【語釈】
・張思叔…張繹。伊川の門人で、高識をもって称せられた。
・德輶如毛…詩経大雅烝民。「徳輶如毛、民鮮克擧之(徳の輶[かろ]きこと毛の如きも、民克く之れを挙ぐること鮮し)」。
・怡楽…「怡」はよろこぶ。気持ちがやわらぐ。「楽」はたのしむ。
観感悚動…「観感」は見て感じる。「悚動」は「竦動(慎みかしこまること。)」か?
・符読書於城南…韓愈の詩。符は韓愈の子。城南は別荘のあった所。韓愈が符に勤学を勧めた詩。
・劉子澄…諱は清之。朱子の門に学びその指授を受け「小学」を編纂した。
・其許…そこもと。そなた。
・興國寺の會…張横渠と程明道とが興国寺(伊洛淵源録では相国寺)で議論を闘わせたことを指す。近思録総論聖賢20。程氏遺書2。「伯淳嘗與子厚在興國寺、講論終日。而曰、不知舊日、曾有甚人於此處講此事(伯淳嘗て子厚と興國寺に在りて、講論すること終日なり。而して曰く、知らず舊日、曾て甚[いか]なる人有りて此の處に於て此の事を講ぜしや、と)」。

出淵が、或人先生に若きときより学び、或は御一所におりて五十六十まで云々は、三輪善蔵が王学となりたるをさすならん。外にあたりなし。さて、今までの仕やふは役に立ぬ以下は出淵自家のことを云。三輪を云ふにあらず。
【通釈】
出淵が、「或る人先生に若きときより学び、或いは御一所におりて五十六十まで云々」と言うのは、三輪善蔵が王学者となったことを指すのだろう。それ以外に心当たりはない。「さて、今までの仕方は役に立たぬ」以下は出淵自身のことを言う。三輪を指して言うのではない。

永井先生をただ篤実の人のやふに思ふは学識を知らぬゆへぞ。壮年の英気、この修敬録にて見るべし。尚翁の人喰い馬じゃと云はれたも、鋒芒するどく少ともひかへぬ処ありしなり。それから誠実になられ、持敬涵養、あのやふになられた。誠に佐藤子の眼鑑にはづれぬなり。武人俗吏に浮沈するとは、仕宦をかせぎ奔競する学者多く、学問を售[う]りたる[ぞう]ありしゆへ、きびしく云へり。先師、菅野氏なども終に交りなきも如此嚴なるゆへか。
【解説】
永井先生は篤実なだけでなく、学識も高い人だった。壮年の英気を持っていたが、持敬涵養して篤実な人になった。また、当時は仕官探しに狂奔競争する学者が多かったが、学問を売る輩とは交わるべきではない。
【通釈】
永井先生をただ篤実な人の様に思うのは、彼の学識を知らないからである。彼の壮年の英気をこの酒井修敬の録で見なさい。三宅尚斎が彼を人喰い馬だと言われたのも、気性が鋭く少しも逡巡しない処が彼にあったからである。それから誠実になられ、持敬涵養してあの様になられた。誠に佐藤子の目利きに外れない人である。「武人俗吏に浮沈する」とは、仕官を探し求めて狂奔競争する学者が多く、学問を売る輩がいたから、ここで厳しく言ったのである。先師が菅野氏などと終に交わりがなかったのも、この様に厳だったからだろうか。
【語釈】
・鋒芒…鋒鋩。気性や言葉の鋭いたとえ。
・持敬…居敬が日本に来て持敬と言われる。宋の程頤の説。常に一を主として他にゆくことなく、敬を以て徳性を涵養すること。程朱学の窮理と相対する。
・族…やから。
・菅野氏…菅野兼山。江戸深川に「会輔堂」を建てる。1680(延宝8)~1747(延享4)

佐藤子、顔子家訓より大学或問にをとし、行宮便殿より楊亀山の語にをとされ、さて々々的切の指導なり。
【通釈】
佐藤先生が、顔氏家訓から大学或問へ話を継ぎ、行宮便殿から楊亀山へ話を継いだのは、本当に的を得た指導である。
【語釈】
・顔子家訓…「顔氏家訓」の誤り。中国南北朝時代、北斉の顔之推が子孫への訓戒を記した書。七巻(二巻本もある)。
・行宮便殿…朱子著。
・楊亀山…名は時。字は中立。北宋時代の人。福建省将楽県の生まれ。二程に学ぶ。1053~1135

浅見子、通鑑を四十八遍見られ、遺言の作の企てもありたる萠をみて、諸書を箱に入れ掛をして、小近四等の書ばかりと申しつかはさるる。これも南軒ならば、元晦卓然眞に金石の友也と出やふなれとも、それほどにはさへて請られず。それを却て若林などは、直方も師と鞭策録時分はよかりたが、後はとほうもなくなられたと詆る。其師を抑へらるるの慍りと、自ら師にそむき、神道に左袒したと、四十六士の合はぬのと、一つになっての訶詈[かり]なり。直方の学術にゆかみはなし。此時から冬至文の比まで一調子なり。此手帖に万一御気にさわり候ははとあるをみよ。規模の大な方から、ちと東莱めいた処ありたりとみゆるなり。
【解説】
佐藤直方が浅見絅斎に書簡を送ったのは、彼が資治通鑑を何度も読み、靖献遺言を作ろうとしているのを知ったためで、その手帖には、聖学の書以外は読む必要はないとある。若林は直方を後に途方も無い人になったと悪く言うが、それは間違いであって、直方の学術は終始一貫している。
【通釈】
浅見子が資治通鑑を四十八遍も読まれ、靖献遺言を作る企ても始めたことを見て、佐藤直方が、諸書を箱に入れて封をして、小学、近思録、四書だけを読みなさいと手紙を送った。これも南軒であれば、朱子は卓然として真に金石の友であると言いそうなものだが、浅見氏はそれほどには鋭く受け止めなかった。それを、却って若林強斎などは、直方も浅見先生と一緒の頃や鞭策録を作った時分はよかったが、後には手が付けられないほどひどくなられたと詆った。直方が浅見先生を貶めたことへの憤りと、直方が師の闇斎に背いて、師が神道に左袒したと言ったり、四十六士は間違っていると言ったりしたことまでを、全て一緒にしての罵りである。直方の学術に歪みはない。この時分から冬至文を書いた頃まで一本調子である。この手帖に「万一御気にさわり候わば」とあるのを見なさい。規模が大きくて、少し呂東莱風の処があることがわかる。
【語釈】
・通鑑…資治通鑑。(治世に利益があって歴代為政者の鑑とするに足る意)周の威烈王の23年(紀元前403年)から五代の終り(959年)まで1362年間の史実を編年体に編纂した書。本文294巻。北宋の司馬光が、1065年英宗の詔を奉じ、84年神宗の治世に完成。略称、通鑑。
・遺言…靖献遺言。浅見絅斎著。
・南軒…張南軒。張栻。南京の広漢の人。字は敬夫。楽斎。胡弘に学び、朱子と親交があった。淳熙7年、48才にて没。
・元晦…朱子の字。
・卓然…高くぬけ出ているさま。きわだってすぐれているさま。
・金石…堅固なことのたとえ。金石の交わりが、堅く、破れることのない友情。
・若林…若林強斎。浅見絅斎の門下。
・抑へらるる…「抑える」とは、相手の意に反して低く評価する。おとしめる。
・左袒…史記呂太后本紀。片肌脱いで左の肩をあらわす意。前漢の功臣周勃が呂氏一族を平らげようとした時、呂氏につくものは右袒せよ、劉氏につくものは左袒せよと、軍中に呼びかけたところ、みな左袒したという故事からのもの。加勢すること。味方すること。同意すること。
・東莱…呂東莱。

我に省て公乎私乎と祟りて見候へば、毛頭紛れ無之と存候。信謂難頼他人。道を求る人が細なることにぐず々々氣を配り、色々とあやしきこと有之候は、決而有之間鋪と存候。信幼侍先君子、観其与人応接、至て寛怒なり。然るに未嘗愛惜人情、又、假言色於人者、意象淡爽而明快也。つんぼの道をありき候様にと存じ候云々。明德新民本末先後直截云々。信按朱子嘗議呂居仁見学者則商量、見後生則教之。詳見語類
【通釈】
「我に省みて公か私かと祟って見候えば、毛頭紛れ之れ無きと存じ候」。信謂う、他人に頼み難し(黙斎が言う、他人には頼み難い。自分の問題である)。「道を求める人が細かなることにぐずぐず気を配り、色々とあやしきこと之れ有り候わば、決して之れ有るまじくと存じ候」。信幼くして先君子に侍り、其の人と応接するを観るに、至って寛怒なり。然るに未だ嘗て枉げて人情を愛惜し、又、言色を人に假るを見ざるも、意象淡爽にして明快なればなり(黙斎が幼くして先君子に侍り、人と応接する様子を観ていると、至って寛怒だった。未だかつて不仁によって人情を愛惜したり、言行に人真似をする様なことがなかったのも、意象淡爽で明快だったからである)。「つんぼの道を歩き候様にと存じ候云々」。「明德新民本末先後直截云々」。信按ずるに、朱子嘗て呂居仁の学者に見ゆれば則ち商量し、後生に見ゆれば則ち之の教ゆを議す。詳らかに語類に見ゆ(私が思うに、朱子が嘗て呂居仁が学者に会えば商量し、後生に会えば彼等を教えようとしたことを議論したことがある。詳しくは語類に見える)。
【語釈】
・寛怒…度量広く、おもいやりの深いこと。とがめずにすておくこと。ひろい心でゆるすこと。
・枉…まげる。無理やり罪に落す。不仁。
・言色…ことばつきと顔色。
・意象淡爽…さっぱりしていて爽やかなこと。
・呂居仁…呂東萊。呂本中。原中は大中。宋の寿州の人。
・後生…①あとから生れて来た人。後の世に生れる人。②後に学んだ人。後進。後輩。③あとからできたもの。
・語類…朱子語類132。「呂居仁家往往自擡舉、他人家便是聖賢。其家法固好。然專恃此、以爲道理只如此、卻不是。如某人纔見長上、便須尊敬以求教、見年齒纔小、便要敎他。多是如此。人傑因曰、此乃取其家法而欲施之於他人也(呂居仁の家往々自ら擡舉し、他[か]の人家は便ち是れ聖賢なり、と。其の家法は固より好し。然れども專ら此を恃み、以て道理と爲すこと只此の如くんば、卻って是ならず。如し某人纔かに年長者を見るや、便ち須く尊敬して以て教えを求めんとし、年齒纔小を見るや、便ち他[かれ]を敎えんと要す。多く是れ此の如し。人傑因りて曰く、此れ乃ち其の家法を取りて之を他人に施さんと欲するなり、と)。」

谷丹三郎は直方より先に没す。其子丹四郎は予幼年のとき、先君の講席に侍す。其後、丹四の子丹内、又先君の講席に出て、信この頃やや学問の力も出来て土佐の咄をきく。先達遺事の中にも丹内にききたることあり。此附録の佐浅二子の手帖ともは、土佐の箕浦宇源により得たり。先君晩年に他國より侍席する者は、土佐の箕浦宇源に秋田の中山傳右衛門、この二人而已。学力ありき。今以無事なるべし。
【解説】
谷丹四郎と丹内は迂斎の講席に侍っていた。それで、黙斎は丹内から土佐の話を聞いた。佐藤直方と浅見絅斎が谷重遠に送った手紙は、土佐の箕浦宇源から入手したものである。
【通釈】
谷丹三郎は直方より先に亡くなった。その子の丹四郎は、私が幼年の時に迂斎の講席に侍した。その後、丹四の子の丹内がまた迂斎の講席に出て来たが、私もこの頃にはやや学問の力もできて、土佐の話を聞いた。先達遺事の中にも丹内から聞いたことが書いてある。この附録にある佐藤子と浅見子の手帖は土佐の箕浦宇源から得た。迂斎の晩年に他国から聴講しに来た者は、土佐の箕浦宇源と秋田の中山傳右衛門の二人だけだった。この二人は学力があった。今も尚、健勝だろう。
【語釈】
・谷丹三郎…谷秦山。姓は大神。幼字は小三次。後に重遠と名乗る。山崎門下だったが後に神道(国体論)に傾く。1663~
・丹四郎…谷垣守。小字は虎蔵。号は塊斎。秦山の長子。1698~1752
・丹内…谷眞潮。初名は擧準。号は北渓。丹四郎の長子。1797年71歳にて没。
・先達遺事…黙斎著。
・箕浦宇源…箕浦進斎。右源次。箕浦泰川の次男。迂斎に学ぶ。
・中山傳右衛門…中山菁莪。名は盛履。字は子絢、子約。通称は幸次郎、小次郎、宗専、宗仙、伝右衛門、文右衛門。羽後秋田藩の儒者。寛政4年(1792)藩校明道館初代祭酒となる。平田篤胤は学生の一人。享保13年(1728)~文化2年(1805)

浅見子の谷氏への手帖を見ては、今日社中などには朋友はなきと云ほどなことなり。中々、少しも切磋規諌[きかん]ていはなく、自ら是とし、人を下視するにて、人我ともに親切は見へず。この手帖をよみ警策すへきことなり。利禄と名とを頭巾にせず、盗人にならぬ学者一人も無之候。激論にて無之候と、絅翁此二句肺肝よりでたり。外からは激論とも云ふべし。名と利の二つを我ははなれたると御思召候はは、大なる筭用違にて候。大事のこと々々々々にして、絅翁の言百歳の下、懍然たり。
【解説】
今の黙斎門下は努力もしないで慢心し、人を見下している。絅斎の言は彼の心底から出たもので、彼を知らない者は激論と言うだろう。絅斎の言は今も慄然とさせられる。
【通釈】
浅見子が谷氏へ送った手帖を見ては、今日、我が門には朋友と言える者はいないと言うばかりである。少しも切磋規諌をした様子もなく、自らを是と考え、人を見下して、他人に対しても自分に対してもよくしようとする気持ちがない。この手帖を読んで警策しなければならない。「利禄と名とを頭巾にせず、盗人にならぬ学者一人も之れ無く候」、「激論にて之れ無く候」と、絅斎翁が言ったこの二句は、彼の心底から出たものである。彼を知らない人は激論と言うだろう。「名と利の二つを我は離れたると御思し召し候わば、大いなる算用違いにて候。大事のこと、大事のことにして」と言う絅斎翁の言には、百年経っても懍然とする。
【語釈】
・切磋規諌…「切磋」は、骨・角・玉・石などを刻みみがくこと。転じて、道徳・学問などに勉め励むこと。「規諌」は、正して諌める。
・警策…馬をいましめて疾行させるための策[むち]。また、馬をむち打つこと。禅寺で、坐禅の時に惰気、眠気をさまさせるため鞭うつのに用いる、長さ四尺余りの扁平な棒状の板。
・懍然…おそれる。おののく。心が引き締まる。

直方の恥を知たる者見及ひ不申候と、この言さて々々御座にたまられず。又云、とかく論孟に無之事を気質に任せて働き候事、近時学者の通患たり、と。信が冬至の文を表章するもここらに感悚[かんしょう]ありてのことなり。俗学の知らぬこと。我同志同帷の間にもここを知らぬ輩あり。先年、迂斎の草履取りが、大内忠太夫様はをらが旦那の御仲間と云ふゆへ、予云。ただ水野様の儒者と云べし。学者に仲ヶ間と云ふことはなしと申しければ、奴云。故[もと]旦那にて、御城坊主につとめたる奴なり。御坊主衆のことは御仲ヶ間々々々々と申し来りしなり、と。大抵、世間多く如此。これも面白き話なり。
【解説】
この頃の学者が恥を知らないのは気質に任せて行動するからであり、冬至文を表章したのも、これを危惧したからである。気質に任せて行動する者は、我が門にもいる。
【通釈】
「恥を知りたる者見及び申ざず候」と直方が言ったが、この言葉を聞いては本当にいたたまれないことである。また、「とかく論孟に之れ無き事を気質に任せて働き候事、近時学者の通患なり」とも言った。私が冬至の文を表章するのも、これ等の点に危惧を感じたからである。それは俗学にはわからないこと。我が同志同門の間にもこれを知らない輩がいる。先年、迂斎の草履取りが、大内忠太夫様は俺の旦那のお仲間だと言うので、私が、ただ水野様の儒者と言いなさい、学者には仲間と言ったりする様なことはないと彼に申し付けると、奴は言った。俺の元の旦那であって(お城坊主に勤めた奴だった。)、お坊主衆の間では、主人の儒者をお仲間と申して来たからだ、と。大抵、世間の多くはこの様なもの。これも面白い話である。
【語釈】
・通患…全般に共通な心配。すべてに共通してある弊害。通弊。
・感悚…おそれを感じて。
・大内忠太夫…大内熊耳。漢学者。奥州三春熊耳村の人。江戸に出て秋元澹園に師事、後に荻生徂徠に学ぶ。その後京都に上り伊藤東涯に会い、長崎で講説し、江戸の戻って服部南郭の指導を受けた。後に肥前唐津藩の儒者となる。元禄10年(1697)~安永5年(1776)
水野…水野忠任?肥前唐津藩主。1734~1811。三河岡崎藩主の水野忠辰(1724~1752)の死によって、遠縁にあった忠任が養子として迎えられ、宝暦12(1762)年9月に肥前唐津藩へと転封を命ぜられる。または、学問好きだった忠辰か?