黙斎冬至文五講

黙齋先生五講冬至文筆記 寛政十年戊午十一月十五日 平野長道
【語釈】
・寛政十七年戌午…1798年。戊午は「つちのえ・うま」と読む。
・平野長道…平野登弥太。館林藩士。

道之廃而不行。まづ、道と云字は全体の名で、道は自然なものなれども、道には離るるの、廃るるのと云ことがある。爰の処の吟味を丁寧にせねばならぬことじゃ。そこで、道と云字の立てやうが二つあると合点せふことぞとはどふなれば、道と云字を天から人へ役をあてたときあり。天から役をあてられたが人の人たるみめなこと。三才と並ぶも餘のものにかまはず、道と云を人へあてがってある。これが直方先生の云はるる天から前金をとったのぞ。人へあぶせたことなり。そんなら人へ斗り云ことかと云ときにさうではない。
【解説】
道は天然自然で生滅することはないが、廃れたり離れたりはする。そこで、「天が行う道」と「人が行う道」の二通りの道があることを理解しなければならない。天は万物の中で、人に対してのみ道を担う役をあてがっている。これが、人が行う道である。
【通釈】
「道之廃而不行」。道という字は全体のことで、道は自然なものであるが、道には離れるとか廃れるということがある。ここを丁寧に吟味しなければいけない。そこで、道の捉え方には二種類あることを理解しなければならないが、それはどの様なことかと言うと、一つは、天から人へ役をあてた道である。天から役をあてられたことが人の人たる所以である。万物の中にあっても他のものには構わずに、天は人へ役をあてがっている。これが、直方先生が言われる天から前金を取ったということである。それは人に対して言ったこと。それでは、人に対してのみ言うのかというと、そうではない。
【語釈】
・みめな…目に見える有様、容姿。人の人たるべき姿。
・三才…天・地・人、万物の総称。
・あぶせた…あびせた。掛けた。

道之将行也命也道之将廃也命也は、天へあぶせたこと。道也者不可須臾離は人へあぶせたもの。そこで、道は自然なもので生滅のあると云ことはないが、学者の方で修行せでならぬことぞ。そこが廃るると行はるるとの人にあることなり。一陰一陽之謂道は天なれとも、あとで、君子之道鮮矣とあり、君子と云が人へかけたのぞ。
【解説】
論語の「道之將行也與命也。道之將廢也與命也」や易経の「一陰一陽之謂道」は天道のことで、中庸にある「道也者不可須臾離也」や易経の「君子之道鮮矣」は人道である。道は自然であって生滅などはないが、学者は道を会得するための修行を怠ってはならず、道が廃れるか否かは人によって決まる。
【通釈】
「道之將行也與命也。道之將廢也與命也」は、天に対して言ったこと。「道也者不可須臾離也」は、人に対して言ったこと。道は自然なものであって、生じたり滅したりすることはないが、道が行われるためには学者の方で修行しなければならない。これが、道が廃れるか行われるかが人次第だと言う理由である。「一陰一陽之謂道」は、天に対して言ったことだが、後に「君子之道鮮矣」とあって、ここの君子が人を指して言ったことであり、人に掛けているである。
【語釈】
・道之将行也命也道之将廃也命也…論語憲問38。「道之將行也與、命也。道之將廢也與、命也(道の将に行われんとするや命なり。道の将に廃れんとするや命なり)」。
・道也者不可須臾離…中庸章句1。「道也者、不可須臾離也。可離非道也(道なる者は、須臾も離れる可からざるなり。離る可きは道に非ざるなり)」。
・一陰一陽之謂道…易経繋辞上伝。「一陰一陽之謂道。継之者善也。成之者性也。仁者見之謂之仁、知者見之謂之知、百姓日用而不知。故君子之道鮮矣(一陰一陽之を道と謂う。之を継ぐ者は善なり。之を成す者は性なり。仁者は之を見て之を仁と謂い、知者は之を見て之を知と謂い、百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮[すくな]し)」。

中庸に、天命之謂性は道体の名義。学者之工夫沙汰はない。人の方で構ひはない様なが、脩道之謂教と、はや、そのままでをかれぬ。人の受取まへになるから、じきに道也者不可須臾離云々と人へかけるぞ。そこで、道は自然なものなれとも、人か構はぬと離れる、すたるなり。奇妙なもので、道之大原出于天なれとも、それをこちから相手になってせねば行はれぬ。そこで、道を上へかづけてかまはぬときもあり、こちで請取て任ずるときもある。これ、道体為学一条連綿の処。そこて、川上嘆の注に程子の此道体也と、あちのことにして云。されとも、人はかまったでないは如斯夫と云はしゃるが、人へかけたことなり。
【解説】
中庸にある「天命之謂性」の性とは道体の名義であって天に掛けたこと。その後の「修道之謂教」は人に掛けたこと。道は人に与えられたものだから、「道也者不可須臾離云々」と人に掛かるのである。また、川上嘆は道体のことを言うが、孔子が「如斯夫」と嘆じたのは人に掛かったことである。道体と為学は一条連綿としている。
【通釈】
中庸に言う「天命之謂性」の性とは道体の名義であって、学者が工夫することではない。そこで、性は人の方で構うことではない様であるが、その後に「修道之謂教」とあるから、最早、そのまま道を放置してはおけない。道は人の受取前となるから、直接に「道也者不可須臾離云々」と人に掛ける。それで、道は自然なものだが、人が道を構わないと、道は離れたり廃れたりする。奇妙なもので、「道之大原出于天」であるが、人が道を相手にしないと道は行われない。そこで、道を天に担ぎ上げて人が構わない時もあり、人が請け取って任じる時もある。これが、道体為学一条連綿の処である。そこで、川上嘆の注にある程子の「此道体也」は天に掛けたことで、その、人にはどうすることもできない道を「如斯夫」と孔子が言うのは、人へ掛けたことである。
【語釈】
・天命之謂性…中庸章句1。「天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂教(天の命ぜる、之を性と謂う。性に率う、之を道と謂う。道を脩むる、之を教と謂う)」。
・受取まへ…前文の「天から前金を取った」にある「前金」のこと。
・道之大原出于天…漢書董仲舒伝。「道の大原は、天より出ずる」。道の根本原理は天から生じてくる。薛敬軒は、「教は道に本づき、道は性に本づき、性は命に本づく。命は天道の流行して物に賦するものなり。故に曰く、道の大原は天に出づ」と言う。「大原」とは根本のこと。
・かづけて…「片づけて」または「担ぎ上げて」。
・道体為学一条連綿…道体と為学は一本に延々と交わって続くの意。
・川上嘆…論語子罕16。「子在川上曰、逝者如斯夫。不舍晝夜(子、川上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舍かず)」。
・此道体也…論語子罕16集註。「程子曰、此道體也」。

誠自成と云は天のまま、そこを道自道と云は人の方ぞ。誠も道も天然自然じゃが、人がうちやりてをくとなくなる。どうしてをいても道はついてくると云と、揚氏の云そこない、はづみすぎてああなりたなり。
【解説】
「誠自成」は天のことで、「道自道」は人のこと。揚子は人が打ち遣って置いても道はついて来ると言うが、道は人が任じなければ廃れる。
【通釈】
「誠者自成也」は、天の裁量で誠が生じるということ。そして、「道自道也」は、道の発現が人に掛かっているということ。誠も道も天然自然だが、人が放置しておくとなくなる。どうしようが道はついて来ると揚子が言ったのは、言い損ないであって、そんな彼は、調子に乗り過ぎてあの通りになった。
【語釈】
・誠自成…中庸章句25。「誠者自成也。而道自道也。誠者物之終始。不誠無物。是故君子誠之爲貴。誠者非自成己而已也。所以成物也。成己仁也。成物知也。性之德也、合外内之道也。故時措之宜也(誠は自ら成るなり。而して道は自ら道[よ]るなり。誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと爲す。誠は自ら己を成すのみに非ざるなり。物を成す所以なり。己を成すは仁なり。物を成すは知なり。性の德なり、外内を合するの道なり。故に時に措きて宜しきなり)」。
・揚氏…揚雄。前漢の学者。字は子雲。四川成都の人。博聞多識、易に擬して「太玄経」を作り、論語に擬して「法言」を作り、また「訓纂」「州箴」を擬作したので、模擬の雄と称せられた。ほかに「揚子方言」「反離騒」「甘泉賦」などがある。前53~後18

道也者不可須臾離の注に離去声とある。あれが大ふ大切な字なり。長崎松前のやうに根からはなれたは離去声ではないが、そこにをるべきものが居ぬと去声になる。道は自然、はなれぬものなれとも、それを離れるゆへ 離去声ぞ。そこで、君子小人の別も去声か去声でないかなり。面白ひことぞ。をかしな処へ釈音が出たが、黙斎、去声からつかひ覚た古方家の熊膽をつかひ覚たやうにつかふ。魚の水中にをるも不可離ぞ。水をはなれると魚が死ぬ。離去声になる人は、生きていてかはいがるべき子をかはいがらず、親に不孝、君に不忠、それ離去声じゃ。
【解説】
本来有るべきものが無いと離去声となる。君子と小人の違いは離去声か否かと言うことである。
【通釈】
「道也者不可須臾離」の注に「離、去声」とある。この離去声は大いに大切な字である。長崎や松前の様に、初めから離れているものは離去声と言わない。そこに有るべきものが無いことを離去声と言う。道は自然なもので、本来は人から離れないものであるが、人が道から離れるから離去声となる。そこで、君子と小人の違いは離去声か否かということである。面白いことだ。場違いなところで講釈が出たが、黙斎は古くからある使い覚えた熊胆を、使い覚えた通りに使う。魚が水の中にいるのも「不可離」であって、水から離れると魚は死ぬ。離去声になる人は、この世に人として生を受けたにも関わらず、可愛がるべき子を可愛がらず、親に不孝、君に不忠な人である。それが離去声である。
【語釈】
・離去声…「去声」とは漢字四声の一つ。上声・入声とともに、平仄の仄に属する。中国では、最初高く急激に下る調子の音をいう。
・長崎松前…江戸時代にあっては長崎も松前(北海道の一地)は遠い地であって、本州から離れていた。
・古方家…古医方(江戸時代の漢方の医家の説の一。金・元以後の後世派の医学を批判し、晋・唐の根本精神に復帰し経験と実証的精神に基づいた治療を主張。)を奉ずる漢方医。

道の行はれると云は、人が相手にならねばならぬ。志らずや雪の白く降らんとは、天へあぶせたもの。すりつぶしても道は実理。かはりはてたる世の中にもつぶれきらぬが、乱世まっくらなときは道の廃れたと云もの。そこは人なり。尭舜師天下云々と、尭の身に道かあるから君民一体になる。桀紂師天下以暴云々。桀紂は離去声て、天下中よこしまをさるるから、民がよこしま。天下まっくらになる。君子之德風也と云か、よい方へもわるい方へもなり。
【解説】
道は実理であって消滅はしない。乱世で道が行われないのは人の所為であり、特に、国にあっては君子次第である。「君子之徳風也」もこのことを言う。
【通釈】
道が行われるためには、人が道の相手をしなけらばならない。知らずや雪の白く降るらんとは、天へ掛けたこと。いくら磨り潰しても道は実理であって不変である。変わり果てた世の中でも道は潰れ切ることはないが、乱世真っ暗な時に道が廃れたと言うのは、道がなくなったのではなく、道が廃れた原因が人にあるということである。「堯舜帥天下云々」と、堯の身に道があるから君民一体になる。「桀紂帥天下以暴云々」と、桀紂は離去声で、天下中で邪なことをするから民が邪になって、天下が真っ暗となる。「君子之徳風也」と言うのが、君子次第で善い方へも悪い方へも傾くということ。
【語釈】
・尭舜師天下…大学章句9。「堯舜帥天下以仁、而民從之。桀紂帥天下以暴、而民從之。其所令反其所好、而民不從(堯舜天下を帥いるに仁を以てして、民之に從えり。桀紂天下を帥いるに暴を以てして、民之に從えり。其の令する所其の好む所に反して、民從わず)」。
・君子之德風也…論語顔淵19。孟子謄文公章句上2。「君子之德風。小人之德草。草尚之風必偃(君子の德は風なり。小人の德は草なり。草之れに風を尚[くわ]うれば、必ず偃[ふ]す)」。

近思録為学の初に、伊尹の志す処を志し、顔子の学ぶ処を学ぶとあるが、かの離去声にせぬのぞ。顔子があの通の学ゆへ道をはなさぬ。一箪食一瓢飲でも去声でない。天下帰仁。それが問治邦。あれで天下が治るぞ。伊尹はぐっと出て行はれて、君をも民をも離去声にすまいと云志なり。
【解説】
近思録為学に伊尹と顔子を見習うことが書かれているのは離去声にならないためである。顔淵は仁に違わない様に学問をし、伊尹は政を堯舜の世の様にすることを志した。
【通釈】
近思録為学の初めに、「志伊尹之所志學顔子之所學」とあるが、これは離去声にならないためである。顔子はあの通りの学問だから道を離さなかった。「一箪食一瓢飲」でも離去声ではない。「天下帰仁」と言うのが「問治邦」の答えである。これで天下は治まる。伊尹の志は政治上で広く行われ、それは、君も民も離去声にはさせないとする志だった。
【語釈】
・伊尹の志す処を志し、顔子の学ぶ処を学ぶ…近思録為学1条。「志伊尹之所志、學顔子之所學、過則聖、及則賢、不及則亦不失於令名(伊尹の志せし所を志し、顔子の学びし所を学ぶとき、過ぎなば則ち聖、及ばば則ち賢、及ばざるも則ち亦令名を失わざらん)」。
・伊尹…湯王の賢臣。
・一箪食一瓢飲…論語雍也11。「子曰、賢哉囘也。一箪食、一瓢飮、在陋巷。人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉囘也(子曰く、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人はその憂いに堪えず。回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や)」。
・天下帰仁…論語顔淵1。「淵問仁。子曰、克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉(顔淵、仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁となす。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す)」。
・問治邦…論語衛霊公11。「顏淵問爲邦。子曰、行夏之時、乘殷之輅。服周之冕、樂則韶舞、放鄭聲、遠佞人。鄭聲淫、佞人殆(顏淵邦を爲[おさ]むることを問う。子曰く、夏の時を行い、殷の輅[ろ]に乗り、周の冕[べん]を服し。樂は則ち韶舞[しょうぶ]し。鄭聲[ていせい]を放ち、佞人を遠ざけよ。鄭聲は淫に、佞人は殆し)」。

吾が道を離れぬは明德。それが及へは道の行はるる。これ新民なり。中庸、誠者自成也云々と云て、しまいに成己仁也成物知也合内外之道也とある。どこでも聖学の目あてはかうなる。ここを知らぬを天下の上では覇者の政と云ひ、教学の上では漢唐の訓詁と云。これに付ても、大学の序に権謀術數記誦詞章を出したは面白ひぞ。道にはなれたは天下の政をしても離去声になる。孔安國以来、鄭玄孔頴達までがあの通り経義の学をふるっても、全体道と云ものを吾に得て道を任すると云一段心地からと云ふに氣が付ねば、そのたんてきが離去声と云ものなり。
【解説】
大学でも中庸でも、人が徳を天下にひろめることが書かれている。これが聖学の目当てであって、これを知らない者の行為を天下の政では覇者の政と言い、教学上では漢唐の訓詁と言う。漢唐の訓詁学者は離去声である。
【通釈】
我が道を離れないのが「明徳」で、その明徳を天下の民にひろめると、天下に道が行われる。これが「新民」である。中庸でも「誠者自成也云々」と言った後に、「成己仁也成物知也合内外之道也」と言う。何処でも聖学の目当てはこうなる。聖学の目当てを知らない者の行為を、天下の政では覇者の政と言い、教学上では漢唐の訓詁と言う。それにしても、朱子が大学章句序に「権謀術数記誦詞章」を出したのは面白いことである。道から離れた者は天下の政を行っても離去声になる。孔安國以来、鄭玄、孔頴達までの訓詁学者があの通り経義の学を奮っても、結局、道というものを自分に得て、それを任じるという特段の心構えが必要だということに気が付かなければ、つまりは離去声である。
【語釈】
・明德…大学章句1。「大學之道在明明德、在新民、在止於至善」。
・権謀術數記誦詞章…大学章句序。「及孟子没、而其傳泯焉。則其書雖存、而知者鮮矣。自是以來、俗儒記誦詞章之習、其功倍於小學而無用、異端虚無寂滅之教、其高過於大學而無實。其他權謀術數、一切以就功名之説…(孟子没するに及びてその伝も泯[ほろ]ぶ。即ちその書は存すといえども、知る者は鮮し。是より以来、俗儒の記誦詞章の習いは、其の功小学に倍すれども用無く、異端の虚無寂滅の教は、其の高きこと大学に過ぐるも実無し。其の他權謀術數、一切以て功名を就[な]さんとするの説と…)」。
・孔安國…前漢の儒者。字は子国。孔子一二世の孫。武帝の初年、孔子の旧宅から得た蝌蚪[かと]文字で記された古文尚書・礼記・論語・孝経を、当時通用の文字と校合して解読し、その学を伝えた。また、これらの書の伝(注釈)を作った。
・鄭玄…後漢の大儒。字は康成。山東高密の人。馬融に学び訓詁の大家となり、門人数千。その注解した書は「周易」「尚書」「毛詩」「儀礼」「礼記」「周礼」「論語」「孝経」など。127~200
・孔頴達…唐の学者。字は仲達。河北衡水の人。隋末、明経に挙げられ、更に唐の太宗に召されて国子祭酒となり、顔師古と共に「五経正義」「隋書」などを撰。574~648

冬至文のがかいの大いと云が、天下の政のことでもなし。又、浪人儒者に玉しいを入ると云ことでもない。道ををとさぬと云は、天下一人の御方でも、浪人でも、町人百姓でも、道は日用當行之理ゆへ、日用眼前の実理とみて、それにはなれぬやうにするか道学なり。人には居場と云かあり。そこで道は任ずるに大手をひろげてするもあり。冢宰[ちょうさい]の職から湯武の放伐をされたまでが道を任しられたのなり。又、壊堵二疂じきの中でくふや喰はずでも、道をはなれねば、此道はをちぬ。道の行はれるは、大いも小いも、それもこれも一つにして見ねば、たしかな道の見やふでない。天地位萬物育の注に、此学問之極功聖人之能事とある。
【解説】
全ての人には道を得る資格があって、日用の実理から離れないことが道学である。また、人はそれぞれの居場所があるが、道は人の居場所の大小には関係ない。
【通釈】
冬至文の規模が大きいという意味は、天下の政のことでもなく、浪人や儒者に魂を入れるということでもない。道を落とさないということは、君主でも、浪人でも、町人百姓でも、道は日用の事物に対して当然現れる理だから、道を日用眼前の実理と考え、それから離れない様にすることであって、これが道学なのである。人にはそれぞれの居場所がある。それで、道を任じることを大規模に行う人もいる。宰相の職だった湯武が放伐をされたことがそれである。また、逆に規模の小さい例としては、顔子が挙げられる。壊堵で二畳敷きの狭い中で食うや食わずでも、道を離れなければ道は落ちない。道が行われるのは、大きくても小さくても皆同じことだと考えなければ、確かな道の見方ではない。「天地位萬物育」の注に、「此学問之極功聖人之能事」とある。
【語釈】
・がかい…図体。全体。
・道は日用當行之理…朱子の言。朱子は「道は日用の事物に当に行わるべきの理」と言う。
・冢宰…中国の官名。周代、天子を補佐し百官を統率した。天官の長。宰相。
・湯武の放伐…湯王は夏の桀王を滅ぼして殷を開いた。武王は殷の紂王を破って周による天下統一を行った。
・壊堵…「堵」は「垣根」。壊れた垣根の意。
・室…住みこもる家。特に、僧の住まい。小さな庵。
・天地位萬物育…中庸章句1。「中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉、萬物育焉。(中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。中和を致して天地位し萬物育す)」。
・此学問之極功聖人之能事…中庸章句1集註。「此れ学問の極功にして聖人之を能く事とす」。

孔門の浪人衆、顔子、曽子、あの通りても、一身に道が行はれてをる。これで嬉しいぞ。道は自然なもの。人作ではないか、人が任せぬと廃れる。この方が得るで活てくる。恭惟千載之心秋月照寒水と云ふも、道を得た人のことなり。任道と云は、政をとる者でも、浪人ても、道にはなれぬやうにすること。とかく任すると云と臂を張って役義でもつとめるやふに思ふが、さうすると冬至文が経済のことになる。又、経済でないと云と心法の工夫になるが、どちも違ふぞ。これが規模のひろいと云は、道がとこにもないことはないゆへ、それに向ひ合てするが冬至文の任なり。どこ迄も道の行はれると云は天のことでなく、こちのこと。あちではからくりは違はぬか、皆、からくりの違ふは人の方からのことなり。そこをちがはせぬは乾々對於在天と云以上のこと。横経之士と云ふとはちごう。
【解説】
冬至文は経国済民や心法に偏らない。道は日用当行の理でどこにでもあるのだから、それに向かい合うことが冬至文の任である。それで、冬至文の規模は大きいのである。また、道が行われるか否かは人に由る。天に間違いはないが人には間違いがある。それを間違えない様にするのが聖学だから、異端邪教とは違う。
【通釈】
孔子の門弟の顔子や曾子はあの通り小さいが、一身に道が行われている。これは嬉しいこと。道は自然なもの。人が作ったものではないが、人が任じないと道は廃れる。人が道を得るので道が活きてくる。「恭惟千載之心秋月照寒水」と言うのも道を得た人のことである。任道とは、政を執る者でも浪人でも、道から離れない様にすること。とかく任じると言えば臂を張って役儀でも勤めるように思うが、そうすると冬至文が経国済民のことになる。また、経国済民ではないと言えば心法の工夫になるが、どちらも違う。冬至文は規模が広いと言うのは、道がどこにでもあるということであって、どこにでもある道に向かい合って道を任じることが冬至文の任なのである。どこまでも、道が行われると言うのは天ではなく、人の所為である。天に間違いはなく、間違いが起こるのは人の方からである。そこを間違えない様にするのは、「乾々對於在天」と言う以上のこと。聖門の学者は、横経の学者とは違う。
【語釈】
・恭惟千載之心秋月照寒水…弧松全稿68録絶筆の語として「恭[うやうや]しく惟[おもんみ]るに千載の心。敬者[は]是れ心の貞。聖人専ら是れ道心。秋月寒水を照す」がある。元々は朱子文集巻4の斎居感興五言詩凡廿首の一。
・からくり…しくんだこと。しかけ。計略。たくらみ。
・乾々對於在天…詩経周頌清廟。「對越在天、駿奔走在廟(天に在[いま]せるに對し、駿[と]く廟に在せるに奔走せり)」。近思録道体19条にもある。
・横経之士…「横」は「道理に合わない」という様な悪い意味。「経学」が四書五経を研究する学問であって、「経」はその経学の経。よって、「横経」とは「間違った経義」の意ではないか?

擔物と云字の出るは任の字からとみるかよい。無極而太極と云とき、任之字は出ぬ。上をみて云ことてない。道を任するは手前に引かけて云こと。学者がせわにするから擔と云字が出る。道の方では氣も付ぬこと。寒往暑來昼夜昏旦と行れてをる。此方が君不君臣不臣でがたりと道がをちる。そこで、学者の方では天を見てなげくことでない。我身を扣[たたい]て云ふことなり。
【解説】
道は人が任じるものだから、天では任という字は出て来ない。道は人に担われるか否かということには無頓着で、休まずに運行しているが、人が任じなければ人道は廃れる。よって、道が廃れたとしても、それは天に対して嘆くことではなく、自分が悪いのである。
【通釈】
冬至文に「擔物」と言う字があるのは、任の字からであると理解しなさい。人が道を任じて担うから、擔物なのである。「無極而太極」と言う時には、任の字は出て来ない。道を任じるとは天に対して言うことではなく、人に掛けて言うことだからである。学者が道の世話をするから擔と言う字が出て来るが、それを道の方では気にもかけず、寒往暑来昼夜昏旦と途切れなく運行している。人が「君不君臣不臣」となれば道が廃れる。この時に学者が天を見て嘆くのは間違っている。我が身を叩いて反省すべきなのである。
【語釈】
・無極而太極…周濂渓の太極図説の語。
・君不君臣不臣…論語顔淵11。「齊景公問政於孔子。孔子對曰、君君、臣臣、父父、子子。公曰、善哉。信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾得而食諸(斉の景公、政を孔子に問う。孔子対[こた]えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり。公曰く、善いかな。信[まこと]に如[も]し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずば、粟有りと雖も、吾れ得て諸れを食らわんや)」。

其時と云が場をはなさぬこと。猶擔物之捨置地上。このひゆを皆それほどに親切に思はぬ。我擔物は受取たものではなされぬ。あそこに落てと云と、主しがかけて來る。捨置地上。をとした擔をしらせで聞たやうなもの。それを知たとき、いかにもをれがかづかふと云ふが、学者が荷主にならねばならぬ。此やうな処へ古之学者一今之学者三云々をあててみるがよい。こふしたわけゆへ、舍儒者之学不可とあるも、一入[ひとしお]精彩がつくぞ。古之学とは、大学の明徳を明にした上て新民へかかるを云ふ。大学の書にてもあの明德にかまはず、明明之と云ふの合点もなく、ただ文字ばかりにつくを訓詁の学と云なり。何ても古の学者は荷を下にをくと云ことはないは、為己と云ふ、飯をは喰すにをかぬやふなものするに、詞章の学は明德を明にすると云も文辞のことにして、それを手本と文をかき、詩経と云もそれを元祖として詩を作る。又、異端はそれをすてて上への方をむいておるから不與焉と云ぞ。皆、あいそのつきたことなり。
【解説】
擔物とは道であり、それは手渡しされるものではなく、捨て置かれてあるところを学者が担ぐべきものである。古の学者は明徳を明らかにして新民を行い道を担った。しかし、訓詁の学は文字にばかり囚われ、仏老は学を捨てて天ばかりを考えているから皆愛想が尽きる。
【通釈】
「其時」とは、擔物が地上に捨て置かれている場のことであって、その機会を逃さないこと。「猶擔物之捨置地上」。この比喩を皆、それほど切実には思っていない。自分の擔物は天から受け取ったものなのだから離すことはならない。あそこに自分の荷物が落ちていると聞けば、持ち主が駆けて来る。「捨置地上」とは、落とした荷を人から知らされた様なもの。それを知った時、いかにも俺が担ごうと言うところが、学者が荷主にならねばならない理由である。ここへ「古之学者一今之学者三云々」をあてて見なさい。こうした訳だから、「舍儒者之学不可」とあるのも、一際精彩がつく。古の学とは、大学の明徳を明らかにした上で、新民へ掛かることを言う。大学の書を扱っても、明徳にも構わず、注にある「明明之」の理解もなく、ただ文字ばかりに気をとられることを訓詁の学と言う。古の学者は絶対に荷を下に置くことがないと言う理由は、道が己の為のもので、三度の食事をする様に必須なことだからである。それを詞章の学は明徳を明らかにすると言っても文辞のことと捉え、大学を手本に文を書くだけ、また、詩経にしても、それをもとに詩を作るだけである。それに、異端の老仏は大学などの書を捨てて天の方ばかりを気にしているから「不與焉」と言う。彼等は皆、愛想の尽いた人々である。
【語釈】
・古之学者一今之学者三云々…近思録道体56。程氏遺書18。伊川の語。「古之學者一、今之學者三。異端不與焉。一曰文章之學、二曰訓詁之學、三曰儒者之學。欲趨道、舍儒者之學不可(古の学ぶ者は一にして、今の学ぶ者は三なり。異端は與[あずか]らず。一を文章の学と曰い、二を訓詁の学と曰い、三を儒者の学と曰う。道に趨[おもむ]かんと欲せば、儒者の学を舍[お]くは可ならず)」。

任之とは、大学序でも伏羲神農黄帝云々、中庸序にも尭舜禹湯文武云々から孔子曽子までごたまぜにかいてある。それを、氣を付やうことぞ。一生学談などせぬは伏羲神農尭舜や皐陶伊傅周召なり。また、孔子や曽子は一生講釈はかりをしてをられた。政はせぬひと。それもこれも一つにして朱子のかかれたで、道の任と云ふ形状を見よ。又ちと合点ゆくまいかは知れぬが、達却せば、尭舜之氣象と云ふも思ふべし。尭舜は政をする人、曽点は遊山にあるく人。取り合ぬ人を並て云。そうなれとも、とちも道をこちの物にすると、そこは一つなり。近思録治法にも教学あり。それを教学篇に別に立てある。治法に教学のあるは、伊尹や周公のなさること。教学の篇は孔孟のすること。学問のけだしがかふじゃから、中々訓詁の徒とはなしはならぬことぞ。
【解説】
道を任じることでは天子も賢者も学者も同じである。しかし、任じ方はそれぞれで異なる。
【通釈】
「任之」とは、大学章句序に伏羲・神農・黄帝云々と書いてあり、中庸章句序にも堯・舜・禹・湯・文・武云々から孔子・曾子までをごちゃ混ぜに書いてある。このことに気を付けなさい。一生涯、学談などをしなかったのは、伏羲・神農・堯・舜や皐陶・伊・傅・周・召である。また、孔子や曾子は一生講釈ばかりをして、政はしなかった。これ等を一緒にして朱子は書いているが、ここで道の任の形状を見なさい。皆はちょっと合点がいかないとは思うが、達観して言えば、それ等は堯舜の気象だと思いなさい。堯舜は政をする人で、曾点は遊山に歩く人。釣り合わない人々を並べて言っているが、どちらも道を担うことでは同じなのである。近思録の治法に教学があり、教学篇が別にある。治法に教学があるのは伊尹や周公のなされること。教学の編は孔孟がすること。学問の取り掛かりが違うから、中々、訓詁の徒とは話ができない。
【語釈】
・伏羲…三皇の第一。文字の原型を作り、人々に狩猟・漁業・牧畜を教えたとされる。
・神農…医薬を教え、初めて市場を作ったとされる。
・黄帝…五帝の第一。養蚕を教え、衣・住の制度を定めたとされる。
・尭…五帝の一人。
・舜…五帝の一人。
・禹…舜を助け、舜から譲られて天子の位についた人。治水に功績あり。
・湯…湯王を指す。湯王は夏の桀王を滅ぼして殷を開いた。
・文…文王を指す。周王朝の基礎をつくった王。姫昌。武王の父。殷に仕えて西伯と称す。
・武…武王を指す。武王は殷の紂王を破って周による天下統一を行った。
・皐陶…舜の臣で刑罰を司った。
・伊…伊尹を指す。伊尹は湯王の賢臣。
・傅…傅説を指す。傅説は殷の武丁が中興を成し遂げるのに尽力した賢臣。
・周…周公を指す。周公旦は武王の弟で、武王を助けて周の統一を完遂させた。また、武王の子の成王を助けて周王国の基業、とりわけ礼楽を定めた人として知られる。
・召…召公を指す。召公は周公と協力して周の王業を定めた人。
達却…達観の意?
・曽点…曾子の父。曾皙。孔子の門弟。
・けだし…「蹴出し」。蹴り出し。

今務聖学者乃擔夫也云々。これは直方先生、この先の三人を呼びかけて云語とみることぞ。馬のはねるとき、やれ馬子々々と呼ふも親切ぞ。前に擔物とあるから、そこでたた筭用づめに擔夫とわりを合せて云やうなが、のちの三人の衆をよびかけたこととみるべし。擔夫と云が、古之学者一の方へ入れて云こと。訓詁の徒は訓詁で用向ある。詞章は月花でいそがしい。こちの役は其荷を擔ふ役ゆへ、擔夫と云字はのっひきならぬとみること。聖学は何を役とすれば、擔ふが役じゃと云ふこと。そこに氣が付ぬ。孟子の人牧と云字も、人君ののっひきならぬ字なり。大名の大名たる処は大勢を牧[やしな]ふが役。をれは人牧でないとは云はれぬ。人を持ったからは、その人を牧はねばならぬ。そこで、君の身でのっひきならぬ字なり。
【解説】
冬至文は、直方が三子を相手に擔夫になるかと問い掛けたものである。擔夫とは聖学を志す者である。しかし、人は道を担うことには中々気付かない。たとえば、君子にあっては「人牧」が擔物である。
【通釈】
「今務聖学者乃擔夫也云々」。これは、直方先生が目当ての三人に呼び掛けた言葉とみなさい。馬が跳ね回る時に、馬を落ち着かせるために、馬よ、馬よと呼ぶのは親切なことである。前に「擔物」と言っているから、そこでただ数合わせで「擔夫」と対照させて言った様に感じられるが、後の三人の衆に呼び掛けたことだと理解しなさい。擔夫とは「古之学者一」の方へ入れて言うこと。訓詁の徒は訓詁の用向きがあって忙しい。詞章は月花を愛でるのに忙しい。我々の役目は道を担うことだから、擔夫という字は抜き差しならない字とみること。聖学は何を役目とするのかと言えば、道を担うことである。しかし、そこに気が付かない。孟子にある「人牧」という字も、人君に対して抜き差しならない字である。大名の大名たる所以は、大勢の民を養うことである。大名だったら、俺は人牧でないとは言えない。人を持ったからには、その人を養わなければならない。それで、人牧とは、君の立場にあっては抜き差しならない字なのである。
【語釈】
・わりを合わせて…割りをあわせて。比較させて。対照させて。
・人牧…孟子梁惠章句上6。「今夫天下之人牧、未有不嗜殺人者(今夫れ天下の人牧、未だ人を殺すことを嗜[たのし]まざる者有らざるなり)」。人牧は君主のこと。

道を荷物とかけて擔夫と云いてあるからは、のっひきならず。あの擔はしらぬとは云はれぬ。爰は重く云ことではない、迯けられぬことを云なり。館林家中、誰と云荷かすててあっては、館林のはっひを着ていて、これ々々と云はれては、われらは知らぬと云てにげることはならぬ。どんなに重くても、かつかねばならぬ。爰が直方の、なんたる因果で学問初めたと云のなり。道を任するからは置れぬ。迂斎十四のとき、初て三宅先生へ見へたとき、何のくわんぜもなく学問初て、後にはうい難義をするで有ふと云はれた。これか只の師の知ぬこと。詞章訓詁からはあじな戯を云ふとも評すべし。
【解説】
擔夫であれば、自分の荷を放置してはならない。直方も担うことを避けられなかったから、聖学を始めた。また、若くして初めて三宅門下に入った迂斎に、三宅先生は後々ひどく苦労をするだろうと言われた。三宅先生は道を担うのが大変なことを知っていた。
【通釈】
道を荷物とたとえて擔夫と言うからは、抜き差しならないことである。あの荷は担がないとは言えない。その理由は擔物が重いから言うのではなく、担うことを避けて通れないということである。館林の家中の何某と言う名前が書いてある荷が捨ててあって、館林の法被を着ている者がこれこれと呼び止められたら、私達はそんな荷など知らないと言って逃げることはできない。どんなに重くても、その荷を担がなければならない。ここが、何と言う因果で聖学を始めたのだろうと直方が言った理由である。道を任じるからには荷を捨てては置けない。迂斎が十四才の時、初めて三宅先生に見えた時、何の頑是もなく学問を始めて、後々ひどく苦労をするだろうと先生が言われた。これが普通の師では知らないこと。それに比べれば、詞章訓詁の者は味な戯れを言う程度のことである。
【語釈】
・館林…群馬県南東部の市。もと秋元氏の城下町。文福茶釜で有名な茂林寺がある。
・くわんぜもなく…頑是も無く。物事の是非善悪が分からない。分別がない。多く、幼少の者のさまにいう。
・うい…憂い。倦むと同源。心外な事ばかりで、疲れ、心が閉ざされるように感じられること。また、そのような感じを起させる状態を表す語。

俗学之徒則云々。これはあさけりたことでも訶りて云ことでもない。あさけりたり訶りたりするは、こちに激する心や深切な意あるから。爰はさう云ことではなく、宗旨が違ふゆへ、そこへをかれぬ。江戸市井で云、御宗旨がちがひますと云のなり。あれがさみしたではないが、どうもそこに居て相談がない。こちは不物好で汗をたらしてなんたる重ひ荷をかつくときに、そちは懐手でぶら々々してをるが、それは道を見ると見ぬとの処なり。こちはさうして居られぬと汗になりてかつぐが、そこは向の入ぬことゆへ、ぶら々々して居ても勝手次第。そこをむり所望はならぬ。
【解説】
直方は、俗学の徒に対して激する心や深切な心を用いない。彼等が道を任ずるに足らないのは、我々とは主義主張が違うからであり、よって彼等を相手にしないのである。また、俗学の徒を見下しているわけでもない。俗学の徒がぶらぶらしているは彼等の勝手である。道を任じるか否かは自分のことなのだから、彼等に道を担うことを強いてはならない。
【通釈】
「俗学之徒則云々」。これは俗学の徒を嘲ったことでも訶って言うことでもない。嘲ったり訶ったりするのは、それを言う方に激する心や深切な意があるからである。ここはそう言うことではなく、宗旨が違うので、我々聖門の徒とは一緒にできないということ。江戸町中で、御宗旨が違いますと言うのと同じである。我々は、俗学の徒を見下しているのではないが、彼等が近くにいても、そうも話すことがない。我々が不物好きで汗を垂らして重過ぎるほどの荷を担いでいる時に、彼等は懐手でぶらぶらしているが、それは、道を見る人と見ない人との違いである。我々はぶらぶらしては居られないと汗をかいて担ぐが、そんなことは俗学の徒にとっては関係のないことだから、ぶらぶらしていても彼等の勝手次第である。彼等に対して無理強いはならない。
【語釈】
・激する…はげしくつき当る。衝突する。怒る。いきりたつ。感動してふるい立つ。
・宗旨が違う…信仰する宗門が互いにちがうこと。主義、主張または職業、趣味、嗜好などが互いにちがうこと。従来の傾向、方針、好みなどとちがっていること。
・さみした…褊[さ]みす。あなどる。軽んずる。さげすむ。卑しめる。みくだす。
・不物好…不物好き。人が好まない、かわったものを好むこと。また、その人。

朝鮮李退渓之後云々。ここへ李退渓と云ことを出したが、直方先生、世間の人をさみして出したてもなく、一代の見処がここにある。又、これは李退渓のをかげで学問が上りた故と云でもなく、直方はもと朱子の書を見て、あとで退渓の書を見たものぞ。朱子のをかげで学問が上りて、其眼力で李退渓を見出したのなり。これらは、某云はずば誰も云ひ手はあるまい。今日、直方の学を老佛めいたと思ふはしらぬのぞ。色々さへたことを云て、をれが咄は朱子の説じゃ々々々と云はるるが、なるほどあとから見れば語類文集にある。直方先生、朱子の書を平らに見られたであの通りなり。
【解説】
李退渓を冬至文に用いたのは、直方の優れたところである。しかし、直方は李退渓によって学問が上達したのではなく、朱子を学んだお陰で李退渓を見出したのである。また、直方の学を老仏に似ていると思うのは直方を知らないからである。直方が冴えたことを言いながら、これは朱子の説であると言うのは確かなことである。
【通釈】
「朝鮮李退渓之後云々」。冬至文に李退渓を出したのは、直方先生が世間の人を見下してのことではなく、直方一代の見識があってのことである。また、これは李退渓のお陰で直方の学問が上達したからと言うことでもない。直方は前に朱子の書を読んで、その後で退渓の書を見た。朱子のお陰で学問が上達し、その上達した眼力で李退渓を見出したのである。このことは、この私が言わなければ誰も言う人はいないだろう。今日、直方の学を老仏めいていると思うのは、直方を知らないからである。色々冴えたことを言って、俺の話は朱子の説だと言うが、なるほど後から見れば語類や文集にその言葉がある。直方先生は朱子の書を正しく平らに見られたので、あの通りの人物となられた。
【語釈】
・李退渓…朝鮮李朝の代表的儒学者。名は滉。字は景浩。真宝の人。陶山書院に拠って嶺南学派を興し、日本の儒学にも大きな影響を及ぼした。著「自省録」など。1501~1570

朱子の学問のはばと云が大きくて、中々出来ぬことぞ。あとへまわりてみれば、高いと云へば薛文靖、又、博識なと云は丘瓊山のやうながあり、李退渓は高いと云てもなく、博識でもなく、又、かがいの大きいでもないが、限りもなく進んでゆくものあり。朱子を殊の外信じて、朱子の学をしっかりと見て、手前の見なく、限りないと云に退渓ほどなはない。これが、漆雕開の未能信と云と同ことなり。あれが、顔曽をのけては孔子の御ゆるしの一番になりてをる。聖人の地位に至るものをもった漆雕開なり。李退渓もその通り、朱子迠至るものを持てをる。冬至文のはばの廣ひもこれなり。
【解説】
朱子の学問は偉大で中々真似ができない。朱子の後、学問の高さでは薛文靖が、博識という点では丘瓊山がいる。李退渓は、学問の高さも博識もそれほどでなく、また、学問の規模も大きくはないが、朱子を信じて聖学に限りなく進むという点では一番である。それは、漆雕開の「未能信」と言って学問に邁進したのと同じである。漆雕開も李退渓も道統を継いだ者であり、冬至文の幅の広さはそのためである。
【通釈】
朱子の学問の幅は大きくて、中々真似のできないことである。朱子の後継者を見れば、学が高いのは薛文靖で、博識では丘瓊山がいる。一方、李退渓は学が高いわけでもなく、博識でもなく、また、規模も大きくはないが、限りなく進んで行くところがある。朱子を格別に信じて、朱子の学をしっかりと見て、しかも私見がない。限りないと言えば退渓ほどの人物はいない。これが漆雕開の「未能信」と同じ意味である。漆雕開は、顔子と曾子とを除けば、孔子の許しを得た一番の弟子である。漆雕開は聖人の地位に至るものを持っている。李退渓も同じく朱子に至るものを持っている。冬至文の幅が広いのも、道統を踏襲しているからである。
【語釈】
・薛文靖…薛徳温、薛敬軒。
・丘瓊山…明代の儒家。究理に傾く。
・未能信…論語公冶長6。「子使漆雕開仕。對曰、吾斯之未能信。子説(子、漆雕開をして仕えしむ。對えて曰く、吾れ斯れを之れ未だ信ずること能わず。子説[よろこ]ぶ)」。

今の朱子学と云などは、李退渓を何てもないやふに思ふが、誰ありて目を付ぬに爰へ出したか直方の見処なり。朱子学のかへ名を出したと思ふほどのことぞ。孔子に漆雕開と、朱子に李退渓斗りは寸法きはまらぬから、どれほどゆかふもしれぬ。そこが大いことなり。道之大原出於天と云を五尺のからだで任しやうと云ひ、三才とならぶも此からだでなり。すれば、大きなことなり。人を出したときに、李退渓も朱子を学ふ々々と云てそれほどまでならねとも、いつも云。豫譲が返り討になりたのぞ。敵を討ちををせねとも討ったと一つなり。漆雕開は孔子になりた様なもの。李退渓は朱子になりた様なもの。そこでこれを出されたが、道の寸法をきめぬことなり。
【解説】
今の朱子学は李退渓を軽視しているが、冬至文に李退渓を出したのが直方の見識の高いところである。また、道統の者の寸法に極まりはない。それは、我が身一つで天からの道を得て、天地と対等に位するからである。漆雕開は孔子に至極近く、李退渓は朱子に至極近い。そこで、李退渓を冬至文中に引用したが、その意は、道は限りなく大きいということである。
【通釈】
今の朱子学などは李退渓を何でもない様に思っているが、誰も目を付けないところで李退渓を冬至文に出したのが、直方の見識の高さである。朱子学の替え名を出したと思えるほどのことである。孔子に漆雕開、朱子に李退渓ばかりは寸法に極みがないから、どれほど行くのかは知ることができない。そこが彼等の規模の大きいところである。「道之大原出於天」と言う道を五尺の体で任じようするのも、天地と対等に位置するのも、この体一つで行う。それで、規模が大きいのである。直方が人を例に出す時に、李退渓が朱子をよく学んだことはそれほど頻繁には言わなかったが、豫譲が返り討ちになって敵を討つことができなかったが、それは敵を討ったのと同じであるという話はよく言っていた。漆雕開は孔子になった様な者。李退渓は朱子になった様な者。そこで、李退渓を冬至文に出したが、その心意は、道は限りなく大きいということである。
【語釈】
・豫譲…晋代、智伯の部下で、智伯が趙襄子に殺されたため、趙襄子の暗殺を企てるが失敗する。

さて、中庸の序には皐陶伊傅周召でとめ、冬至文には李退渓でとめたがどうか。灯燈に釣鐘のやうなり。一寸きくと思ふが、それを俗見と云。鳩巣でもそれを見破ることはならぬ。見処は大切なもの。学問をかさで覚るから灯燈に釣鐘と思ふが、退渓を皐陶周召に比しては小いが、朱子の通りになりたいと云は大きなこと。中庸序でも、皐陶伊傅周召まては道が有たか、その後は言語文字になりた。ここでは、退渓までは有たが其後はないとあてる。ここらもよく見ると、道統の傳か中庸の書にのこり、爰て云ふときは、言語文字と云を語類文集にあるとみること。そこで直方先生、訓門人節要の會をさせるは、ここから吟味して道を得ることなり。
【解説】
李退渓の事業は古の賢人のものと比べれば小さいが、朱子の様になりたいと思う心は大きい。中庸の序によれば、道は皐陶・伊・傅・周・召に担われた後、言語文字の中に埋もれたとあるが、冬至文では、道は李退渓に担われた後、語類文集の中に埋もれたと捉えること。直方が訓門人節要の会をさせるのも、語類文集に埋もれた道を得るためである。
【通釈】
さて、中庸の序では、皐陶・伊・傅・周・召で止め、冬至文では李退渓で止めたが、中庸の序にある賢人と冬至文における李退渓とでは、一寸聞いただけでは灯燈に釣鐘で釣合が取れない様に思えるが、それを俗見と言う。室鳩巣でも、李退渓の大きさを見破ることはできない。見処は大切である。学問を事業の大小で考えるから灯燈に釣鐘と思うが、業績で判断すれば退渓は皐・陶・周・召に比べて小さいが、朱子の通りになりたいと願う心は大きなものなのである。中庸の序では、皐陶・伊・傅・周・召までは道があったが、その後は言語文字の中に埋もれたと言っている。そこで、この冬至文では、退渓まではあったがその後はないと捉えること。このあたりもよく見れば、中庸の書の言語文字に埋もれた道統の伝が、この冬至文では、語類文集にあると言っているのだと理解しなさい。それで、直方先生が訓門人節要の会を門弟にさせたのは、語類文集から理解して、そこに埋もれた道を得ようとしたからである。
【語釈】
・灯燈に釣鐘…形は似ていても重さに格段の開きがあるところから、物事のつり合わないことのたとえ。
・鳩巣…室鳩巣。江戸中期の儒者。江戸の人。名は直清。字は師礼、通称新助。木下順庵に学び、程朱の学を信奉し、古学派を排斥した。1658~1734

我邦自古至于今云々と云ことを云出したが、惣体、朱子の学のことを云には、我邦のこと云に及ぬが、これは、冬至文を三人の衆を相手に云れたことゆへ面白ひ。直方の死るる年の春、迂斎へ手紙もあり。其中に、理を天下の宝とみる者でなくては役に立ぬと云てあり。それを爰へあてて見るがよい。其あとに冬至文のこともある。いかさま、理を天下の宝とは、道理より外に宝はないと見て取た人。我邦開闢以来きき及ぬなり。天地之生人為尊と云も、道理を身に持てをるからなりとはどうなれば、天地大ただらでこしらへるときは、獅子も牡丹も一つに出来る。ただ全[まった]いは人斗りなり。
【解説】
朱子学のことを言うのだから、日本ではなくて中国と言えばよいが、冬至文を日本の三人を相手にして講釈しているので「我邦」と言うのである。直方が死ぬ年の春に、迂斎へ宛てた手紙があって、その中には理を大切にするものでなければ役には立たないとあるが、日本が興って以来、理を天下の宝とみる者を聞いたことがない。天地は全てを創造するが、完全なものは人間のみだから「天地之生人為尊」と言う。
【通釈】
「我邦自古至于今云々」と言い出したが、総じて、朱子の学のことを言うのに日本のことを言うには及ばないが、ここで我邦と言うのは、冬至文が三人の衆を相手に話されたことだからである。それは面白いこと。直方が死なれた年の春に迂斎へ宛てた手紙がある。その中に、理を天下の宝とみる者でなくては役に立たないとある。それをここへ当てて見なさい。手紙には、その後に冬至文のことも書いてある。なるほど、理を天下の宝と見る者とは、道理より外に宝はないと理解した人のことである。我が邦開闢以来、その様な人を聞いたことがない。「天地之生人為尊」と言うのも道理を身に持っているからだと言うのは何故かと言うと、天地が大きなふいごで物を創造する時は獅子も牡丹も同じ様に作られるが、完全な物はただ人だけだからである。
【語釈】
・惣体…総体。大体。総じて。
・いかさま…如何様。いかにもそのとおりだ。なるほど。
・天地之生人為尊…考経聖治。「天地之性人為貴(天地の性、人を貴しと為す)」。
・ただら…踏鞴。足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご。地踏鞴。

天叙有典勅吾五典五惇せよとは、犬にも猫にも親はあるが五常はない。人の尊ひはその理ぞ。そこで、理を根にして、それを合点してはなさぬが任道と云もの。任するとは道を相手にしてをとさぬこと。
【解説】
畜生にも親はあるが五常はない。五常を持つのは人間だけ。それで人間は尊いのである。五常を根本にして理解し離さないのが任道である。
【通釈】
「天叙有典勅我五典五惇哉」の意味は、犬にも猫にも親はあるが、五常はないと言うこと。人が尊い理由は理を持っているからである。そこで、理を根本において、それを合点して離さないのが任道ということ。任じるとは道を相手にして落とさないことである。
【語釈】
・天叙有典勅吾五典…書経皐陶謨。解説書の多くは「天叙有典勅我五典(天、有典を叙す、我が五典を勅[いまし]めよ)」と読むが、新釈漢文大系では、「天、有典を叙[つい]ずるに、我が五典に勅[よ]る」と読んでいる。新釈漢文大系での訳は、「天は有典(大法)を地上に叙(秩序を立てる)しているが、それは、我々人間の五典に拠っている」となる。五典とは、書経舜典にある人のふみ行うべき五つの道で、父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝。
・五惇せよ…「五惇哉(五惇[ごとん]せんかな)」。五典を篤く実践しなさいの意。
・五常…儒教で、人の常に守るべき五つの道徳。[白虎通情性]仁・義・礼・智・信。[孟子]父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。[書経舜典]父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝。

川上歎の注に、與道為体と云てあり。あれては、道は形ないが、水が道の体になると云ことなれとも、それをもふ一つ合点してみれば、学者が道の体になると云ほどにみれば親切なり。川の流で道のやまぬがみへる。それを孔子の示されたなり。道に形体はない。学者が体をなすぞ。道を身にもって、こちが体になってをると云で道がすたれぬ。それを任道と云。春秋のとき孔子、戦国のとき孟子、どうしても道理ははなさぬと云ふ処が道を任じたのぞ。兎角、異端と競り合ふとき計り任ずると思ふがさうでない。道を任ずると云が論語の當仁不譲師と云ふ當の字なり。道を擔當する。擔當とは、我引受て、天から拜領の仁を風にもあてぬやふにとするを云。
【解説】
道には形がないが、水が道を体現していると孔子は川上の歎で言った。これを敷衍すれば、形のない道を学者が体するということなのである。学者が道を体すると道は廃れない。これを任道と言いい、孔子や孟子は道を任じた。任じるとは、異端と競り合う時の様なものだけを意味するものではない。道を任じるとは、天から拝領した仁を自ら引き受けて、それを風にもあてない様に大事にすることである。
【通釈】
川上の歎の注に、「與道為体」とある。その注では、道に形はないが、水が道の体になると言っているが、それを今一度よく考えてみると、学者が道の体になると言う様に見れば親切である。川の流れで道が止まらないことがわかる。それを孔子が川上の歎に示されたのである。道に形体はない。学者が道の体を成す。道を身に持って、自分が道の体になっているので道が廃れない。それを、道を任じると言う。春秋の時の孔子や戦国の時の孟子が、どうしても道理は離さないと言うのが道を任じたということである。とかく異端と競り合う時ばかりを任じると思っているがそうではない。道を任じるとは、論語における「當仁不讓於師」中の當の字のことである。道を担当すること。担当とは、自分が天から拝領した仁を引き受けて、それを風にもあてない様に大事にすることを言う。
【語釈】
・與道為体…論語子罕16集註。「道と体を為す」。
・當仁不譲師…論語衛霊公36。「子曰、當仁、不讓於師(子曰く、仁に当たりては、師にも譲らず)」。

幾人也耶。なんぞと云と日本では管丞相々々々と云が、道を任ずるになりては、あれほどな御方ても李退渓の仲間へは入られぬ。ここは別段の話なり。茶を知らぬものが、あの高ひやくにも立ぬやふな道具を買ふと思ふなれとも、知ったものは買てゆく。退渓と云がたれも知りてのない。自省録をみてもそれほどにないやうなが、直方先生が買ふた。先生ほどな高い人ゆへ、人しらぬ人を見出したなり。
【解説】
道を任ずる人は少なく、管丞相の様に有名な人でも該当しない。また、茶道を知らない人は、何故高価な茶道具を茶人が買うのかわからない。直方は高い学問を有していたので、李退渓を冬至文に出した。
【通釈】
「幾人也耶」。何かと言うと日本では管丞相を持ち出すが、道を任じることでは、あれほどのお方でも李退渓の仲間へは入れられない。管丞相の偉業と道を任じることは別の話である。茶を知らない者は、高くて役にも立たない様な茶道具をよく茶人は買うものだと思うが、茶を知っている者はそれを買って行く。退渓という人物に関しては誰も知るものがいない。自省録を見てもそれほど突出してはいない様に思えるが、直方先生が買った。先生の学問が高かったからこそ、人が知らない李退渓を見出すことができたのである。
【語釈】
・管丞相…菅原道真。平安前期の学者・政治家。学問の神として著名。菅公。菅家。845~903

二三子有志於聖学矣乎無乎。これが三人あての有て遺物にかかれた遺言同然なり。有乎無乎と云ふが深切なこと。直方の仁ぞ。この吟味など、今、講釈に出たり、書物てもならべて見て居るものなど、大かい聖学に志すと云ふやうなものなれとも、有志矣とは云はれぬ。ことに館林の衆なぞ、君から命せられ、聖学の役人擔當の任なれとも、有志乎無乎と云は別のこと。職分についたことをするうちは有乎無乎の中へ入れられぬ。此だんになると心の吟味ゆえ、大切なこと。直方先生、学者衆御腹立ちにも候半かと云ふ前書きにて、伴ん人しなければひとりゆく千代の古道あとを尋ねてなそも、又、聖人の可與適道云々と云やうなことも、今日、此やうに儒者めいた通用なことをする者は、此中には入ぬ。
【解説】
「有乎無乎」との問いは、三人の目当てがあってのことで、直方の仁がそこにはある。館林の士も職分から儒学を学んでいるうちは、「有乎」と問われる資格はない。儒者の真似をする者たちは、志有る内には入れられない。
【通釈】
「二三子有志於聖学矣乎無乎」。この文は、三人の当てがあってのことで、遺物に書かれた遺言同然のもの。「有乎無乎」と言うのが親切で、直方の仁がそこにある。この問いなど、今、講釈に出たり、書物でも並べている学者などは大概聖学に志す者だと思われているが、皆「有志矣乎」と問うことはできない。殊に館林の衆などは、君から聖学の役人を担当する任を命じられているけれども、「有志乎無乎」ということとは別である。職分のために学んでいるうちは「有乎無乎」の中へは入れられない。この段になると、心の問題だから大切である。直方先生が、学者衆は半ば御腹立ちになってもいようがと前書きして、伴わん人しなければ一人ゆく千代の古道跡を尋ねてと詠んだのも、また、孔子が「可與適道云々」と言ったことも、今日、講釈に出たり書物を並べて見ている様な儒者めいたことをする者は、志有る者の中に入れられないということなのである。
【語釈】
・聖人の可與適道…論語子罕30。「子曰、可與共學、未可與適道。可與適道、未可與立。可與立、未可與權(子曰く、與[とも]に共に學ぶ可きも、未だ與に道に適[ゆ]く可からず。與に道に適く可きも、未だ與に立つ可からず。與に立つ可きも、未だ與に權[はか]る可からず)」。
・通用…世間一般に用いられること。一般に認められること。また、普通に用いること。この場合、儒者が一般に行うこと、講釈に出たり、書物を並べて見ることを指す。

今、吾友も文字訓詁で書をよむ者をは押しのけて、吾黨の者は文字訓詁ではないと思ふが、やっはり山崎家の文字訓詁なり。丁ど今、禅学をしてもやっはり不立文字の文字訓詁なり。よく々々思ふべし。ここは志と云がぬけると、直方を 笠に着て鞭策録をよんで居ても、鞭策録の文字訓詁なり。靖献遺言綱常名節を任するやうても、多くは靖献遺言の文字訓詁なり。今、禅坊が碧巌臨済録よんでも、悟らぬ内は文字訓詁なり。可愛や、今、吾黨の学者が道学と云ひながら、皆文字訓詁でをる。
【解説】
訓詁学派の人のみならず、禅宗も、また、自分たちの学派も文字訓詁になっている。
【通釈】
今、我々の学友も、文字訓詁で書を読む者を押しやって、我が党の者は文字訓詁ではないと思っているが、やはり、山崎家の文字訓詁である。丁度今、禅学をしている者も、やはり不立文字の文字訓詁である。よくよく思慮しなさい。つまり、「志」という語が抜けると、直方を笠に着て鞭策録を読んでいても鞭策録の文字訓詁、靖献遺言で綱常名節を任じる様であっても、多くは靖献遺言の文字訓詁となる。今、禅坊が碧巌臨済録を読んでも、悟らないうちは文字訓詁である。可愛いもので、今、我が党の学者は道学と言いながら、皆文字訓詁でいる。
【語釈】
・不立文字…「以心伝心」と共に、禅宗の立場を示す標語。悟りは文字・言説をもって伝えることができず、心から心へ伝えるものであるの意。
・鞭策録…講学鞭策録。佐藤直方著。
・靖献遺言…浅見絅斎著。靖献とは、書経微子にある、「自靖、人自献于先王」で、臣下として義に安んじ、先王の霊に誠意をささげること。
・綱常名節…「綱常」とは、三綱と五常。人の守り行うべき道義。「名節」とは、名誉と節操。
・碧巌録…仏書。10巻。宋の圜悟が雪竇の選んだ百則の頌古に垂示・評唱・著語を加えたもの。臨済宗で重視される。詳しくは仏果圜悟禅師碧巌録。碧巌集。
・臨済録…一巻。臨済の法語をその弟子の三聖慧然が編集したもの。詳しくは鎮州臨済慧照禅師語録。

あちも不立文字と云なから不立文字の訓詁をしてをるから、そこをいかう不便なことと思ふて、五祖生死事大無常迅速と声をかけた。大勢の衆徒たださわいてをるから、何と心得ておる。生死事大無常迅速じゃと示した。これ、生死を事大と示したではない。これ、このいそがしいのに、これを何と心得てをると、向へたたりた。皆しり顔にして知らぬと云のぞ。あれほどなことじゃに、いつ迠うろ々々してをると云たのなり。あれに氣のつくものがないそ。そこを六祖にさわられた。異端でも、弟子へ親切はあの通りのことなり。直方を今、たとへが上手じゃの、王陽明しゃのと云は、皮毛外を見たのなり。冬至文なとは伺へぬゆへなり。
【解説】
禅宗も不立文字と言いながら、不立文字の訓詁をしているので、五祖が生死事大無常迅速と言って叱った。また、直方への評価は色々とあるが、それは直方の外面を見てのことであって、冬至文などを読む機会がなく、直方の本質を知らないからである。
【通釈】
禅宗も不立文字と言いながら不立文字の訓詁をしているから、大層融通の利かないことだと思って、五祖が「生死事大無常迅速」と衆徒たちに声をかけた。大勢の衆徒がただ騒いでいるから、何と心得ている、生死事大無常迅速だと示した。これは生死が事大だと言ったのではない。これこれ、この忙しいのに生死事大無常迅速を何と心得ているのだと、衆徒たちを叱ったのである。皆知り顔をしているが何も知らない。生死事大無常迅速なのに、何時までうろうろしているのだと言ったのである。それに気が付く者がいないので、六祖に衣鉢をさらわれた。この通り、異端にも弟子に対する親切心はある。直方を今、たとえが上手だとか、王陽明の様だと言うのは、直方の外面を見ただけのこと。冬至文などを読まないからである。
【語釈】
・五祖、六祖…禅宗の祖。始祖=菩提達磨。二祖=太祖慧可。三祖=鑑智僧燦。4祖=大医道信。五祖=大満弘忍。六祖=慧能。
・生死事大無常迅速…生死のことは、自分にとって大問題である。この問題が解けない内は、安心できない。しかし、光陰は矢の如く速く過ぎ去って、いつ死を迎えるのかはわからない。人生無常、世間無常、諸行無常ではあるが、その中に自分がいる。無常の中にいて、無常を解脱して、安心したい。

さて、この有乎無乎と云はたいぜふこひなり。たとへば今、わしが子は何人あるときくに、知れたこと、そなたの子は十人さと云は不調法な挨拶ぞ。親の心では、十人あるかその中でたった一人、あとは役に立ずじゃと云ふ心から聞たもの。ここは大切そ。家督わけ目の処なり。学者も丁どそれで、大勢机案を並へ、書をつみ、呉服手代の硯をひかへたやうにしてをるが、有乎無乎と云ふ段には一人もないぞ。先頃も江戸から某を慰めせんとして、宦渝舎へ建てつきしたこと知らせて來た。固より美談なれとも、学舎を建つくより、学宦の見処を建てつきしてやりたいと願ふことなり。
【解説】
直方は、弟子たちの中に聖学を志す者はいるのかと、三人に質問をする。そして、その質問の中に、お前たち三人だけだという答えが内包されている。今の学者の学び方は、格好ばかりで中身がない。宦渝舎を建て継ぎするより、学官の見処を継ぎ足す方がよい。
【通釈】
さて、この「有乎無乎」と言う聞き方は、太上請いである。たとえば今、私の子は何人有ると聞いた場合に、それは知れたことで貴方の子は十人さと言うのは無調法な答え方である。親の心では、十人有るが子と言えるのはその中でたった一人、あとは役立たずだと思う心で聞いたのである。ここは大切なこと。家督分け目の処である。学者も丁度それと同じで、大勢机案を並べて書を積み、呉服手代が硯を控えた様にしているが、有乎無乎と言う時には、有ると言える者は一人もいない。先頃も江戸から私を慰めようとして、宦渝舎に建て継ぎをしたと知らせて来た。固よりそれは美談であるが、学舎を建て継ぐより、学官の見処を建て継ぎしてあげたいと私は願う。
【語釈】
・たいぜふこひ…太上請い。「太上」は、最もすぐれたもの。極めて善いもの。最良。最上。極上。
・宦渝舎…幕府の学校。

又、今この講釈きく者とても、有乎無乎と云ふやうなものは、まづはみへぬ。先づ、玉しいをさうきたへぬうちは役に立ぬ。四十六士を忠臣か忠臣でないかと云ふ論は姑[しばら]くをき、五万石の家来の中でただ四十六人とは、さて々々すくないこと。越後屋の出見せにもあの位の人数はある。あのへりた処を見れば中々難いこと。有乎無乎と祟られては、学者もいっそやめるがよい。孔門三千人のうちから身通六藝者七十二人ぎり。それをえったら、たった顔子曽子二人なり。学者もかうへりては心ぼそいものぞ。学者たち自ら反省し、有乎無乎の返答すべし。今までのがらくた道具は皆すててしまうがよいぞ。
【解説】
五万石の浅野家でも赤穂浪士は四十六人だけだった。孔子の門弟三千人も、六芸に通じる者は七十二人だけ。それから道統を得た者を選れば顔子と曾子の二人しか残らない。志を持つ者は少ない。学者もここで反省し、志がなければ学者を辞め、志があれば出直して道統の学問を学ぶのがよい。
【通釈】
また、今この講釈を聴いている者の中でも、有乎無乎と問われるような者は、まずはいない。第一に、魂を鍛えなければ役に立たない。四十六士が忠臣か忠臣でないかという論議はしばらく置いておいて、五万石の家来の中でたった四十六人だけとは、本当に少ないことである。越後屋の出店でもあの位の人数はいる。四十六人だけに減った処を見れば、志を持つことが中々難しいことなのだとわかる。有乎無乎と迫られては、志のない者はいっそのこと学問を辞めるのがよい。孔子の門人三千人の内で六芸に通じる者は七十二人だけである。それをまた選り直すと、たった顔子と曾子の二人しか残らない。学者もこの様に減ってしまっては心細いもの。学者たちも自ら反省した後で、有乎無乎の返答をしなければならない。今までのがらくた道具の学問は皆捨ててしまうのがよい。
【語釈】
・越後屋…祖先が越後守高次といったことからの名という。江戸日本橋駿河町にあった呉服店。三井高利が1673年(延宝一)に開店。今の三越の前身。
・身通…(六芸に)通じた身。
・六藝…周代に士以上が必ず学ぶべき科目と定められた六種の技芸、礼・楽・射・御・書・数。

若果有其志則云々。これは三人の者を供につれやうとて云たこと。なまけた者ではいかぬ。堅立脊粱骨は克己復礼と思ふがよい。わるくすると、灸の皮きりをこらへるやうに思ふが、それは女もこらへる。一度丈夫にしたは役に立ぬ。一度堅立すると、もふよいと立てをるものではない。人欲にあふたび々々々々に脊がへこむものゆへ、いつ迠も克己をして鬼神も道をさくと云ふやうに、人欲をなくすと云で無れば役に立ぬ。
【解説】
脊粱骨を堅立するとは克己復礼のことである。人は人欲に合う度に背がへこむから、その都度、克己復礼によって人欲を取り払わなければならない。
【通釈】
「若果有其志則云々」。これは、直方が三人の者を供に選んで連れていこうと思って言ったこと。怠け者では駄目である。「堅立脊粱骨」は克己復礼なのだと理解しなさい。間違って考えると、皮切りの灸を堪える様に思うが、それは女でも堪える。脊梁骨は一度丈夫にしただけでは役に立たない。一度堅立したらもうよいと言って立っているものではない。人欲にあう都度に脊はへこむから、何時までも克己を続け、鬼神も道を避くと言う様に、強く人欲を無くそうとするのでなければ役には立たない。
【語釈】
・克己復礼…論語顔淵1。「克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。(己に克ちて禮に復るを仁と爲す。一日己に克ちて禮に復れば、天下仁に歸す)」。
・皮きり…皮切り。最初にすえる灸。
・鬼神も道をさく…史記李斯伝に「断じて敢行すれば、鬼神も之を避く」とある。

可以願以学孔孟矣とは、字をつめたことと思ふべし。道学標的孔曽思孟周程張朱と八人出された。ここには二人出して聖賢を学ぶべしと云ことぞ。
【解説】
聖賢の学を学ぶのに道学標的では八人を出したが、その代表として孔孟の二人を選んで冬至文に出したのである。
【通釈】
「可以願以学孔孟矣」は、字を詰めたことと理解しなさい。直方先生は、道学標的に孔・曾・思・孟・周・程・張・朱の八人を出された。ここには孔子と孟子の二人を出して、聖賢の学を学びなさいと言うのである。
【語釈】
・道学標的…佐藤直方著。
・孔曽思孟周程張朱…孔子・曾子・子思子・孟子・周濂渓・程伊川・張横渠・朱子。

曽子不云乎云々。弘毅の字、道のすたれる廃れぬと云かこの二字にある。これを路銀にしてゆくことぞ。先つ、大な道を我物にするときに、弘毅でなくてはならぬ。さて、弘の字は何と云ことなく、皆こちの受こみになることを云。毅とは、其受こんたことを、どうもならぬと中から迯ぬこと。一寸みると、弘は知、毅は行のもちまへとみへるか、それもはづれぬことなれとも、さう、知の行のと云ずに、何でも道理をうけこむか弘、そこを受込だがさいご、はなさぬと云が毅なり。そこで、弘毅でなくては、道は任せられぬと思ふことぞ。
【解説】
道の行廃は弘毅にかかっている。「弘」とは何でも道理を受け込むこと、「毅」とは道を受け込んだら最後、それを離さないことである。
【通釈】
「曾子不云乎云々」。道が廃れるか廃れないかということが、この弘毅の二字にある。弘毅を路銀として頼って行くのである。何はともあれ、大きな道を自分のものにする時には弘毅でなくてはならない。さて、「弘」の字は、文句を言わずに皆自分の受け込みにすることを言う。「毅」とは、その受け込んだことを、逃れられないことだと言って、我が身から逃さないこと。一寸見ると、弘は「知」、毅は「行」の領分の様に見える。それも間違いではないが、その様に知や行とは言わずに、何でも道理を受け込むのが弘、受け込んだら最後、これを離さないのが毅である。そこで、弘毅でなくては、道は任じられないと理解しなさい。
【語釈】
・弘毅…論語泰伯8。「曾子曰、士、不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎(曾子曰く、士は以て弘毅ならずんばある可からず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す。亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや)」。

直方の死るる春、迂齋は唐津に居た。其の手帋の中に、先年三人の者へ冬至文をわたすときに、顔子の喟然の章を咄したが覚てかと云ことあるが、どう云ことかとんと伺はれぬことなれとも、直方先生の胸をくむと云はわるいが、爰を某か思ふにいろ々々にとれるが、曽子の弘毅も顔子の喟然も同じことぞ。其一つことと云は、道と云ものは異端がなんぼ高くても片つりたことゆへ、いよ々々高いなとと云ことでない。高くてもつかまへやすい孔子の道は平実なれとも、孔子に追つく顔子じゃが、追かけてゆかふと思ふに中々追つかれぬ。鑚之彌高云々。手に入らぬ。いろ々々にしていかぬから、さて々々及もないと云たのなり。夫からみれは、今の学者がやつ、きゃつとさはいでも、手薄ひことじゃ。曽子の、士不可以不弘毅とこう云たが、大い道をたたみ込むから弘でなくてならぬ。それをこちへもちとげるゆへ毅でなければならぬ。そこで顔子は孔子の道の大いを歎じ、曽子は其道をうけこむゆへ弘毅でなくてならぬと云。それで、つまり一つことなり。
【解説】
直方が迂斎へ遣った手紙の中には顔子の喟然のことが書いてあるが、顔子の喟然を出したのも、曾子の弘毅を出したのも同じ意味である。異端の学風がいかに高いと言われようが、それは偏った学問なので、顔子の「彌高」ではない。孔子の道は平実なものではあるが、顔子ほどの者でも追いつくことは難しい。顔子は、「既竭吾才」と言うほどに努力するが、孔子にはとどかない。しかし、あきらめない。顔子は孔子の道が大きいことを歎じ、曾子は孔子の道を受け込むから弘毅でなくてはならないと言う。それで、同じ意味だと言うのである。
【通釈】
直方が死なれた春、迂斎は唐津にいた。その頃の手紙の中に、先年、三人の者へ冬至文を渡す時に顔子の喟然の章を話したが覚えているかとあるが、どういうことか全く伺い知れないことではあるが、そこで、直方先生の胸中を汲むと言うのは出過ぎていて悪いことだが、私が思うところでは色々に解釈ができるが、つまり、曾子の弘毅も顔子の喟然も同じということである。曾子の弘毅も顔子の喟然も同じだと言うのは、まず、顔子の喟然について言えば、異端がどれほど高くても偏っているから、彼等の道は顔子の「彌高」とは違う。しかし、高くても掴まえ易い孔子の道は平らで真実なものだが、孔子に匹敵する顔子でさえ、追いかけて行こうしても中々追いつけない。「鑚之彌高云々云々」と言う様に、自分の手に入らない。色々やっても孔子に至らないから、「末由也已」と言ったのである。顔子に比べれば、今の学者が誰彼は優れていると騒いでも大したことはない。真の学者は本当に少ないのである。曾子は「士不可以不弘毅」と言ったが、大きい道を畳み込むから弘でなくてはならない。それを自分の方で持ち遂げるから毅でなければならない。そこで、顔子は孔子の道が大きいことを歎じ、曾子は孔子の道を受け込むから弘毅でなくてはならないと言う。それで、つまり曾子の弘毅と顔子の喟然は同じなのである。
【語釈】
・比…「頃」に同じ。
・喟然…論語子罕10。「顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人。博我以文、約我以禮。欲罷不能、既竭吾才。如有所立卓爾。雖欲從之、末由也已(顏淵喟然として歎じて曰く、之を仰げば彌[いよいよ]高く、之を鑽[き]れば彌堅し。之を瞻[み]れば前に在り、忽焉として後に在り。夫子循循然として善く人を誘う。我を博むるに文を以てし、我を約するに禮を以てす。罷[や]まんと欲すれども能わず、既に吾が才を竭[つ]くせり。立つ所有りて卓爾たるが如し。之に從わんと欲すと雖も、由末[な]きのみ)」。
・平実…「平」は、むらがなく安定している様。「実」は、いつわりでないこと。まことのもの。

まつ、弘と云が、あたまで曽子は参也魯と云て、曽子問ても、一つきいては手帳に付た。ひくいやふなれとも、道の廣大、何ても道の外てはない。そこを一々きくは弘なり。そこで先日も云ふ、啓蒙の講釈であくびするは高いやふなが、やはり道を半分みたのなり。曽子はよく々々なこと。婚礼のとき、壻の親が死たときはどうときいて、それまで手帳につけられた。それが皆一つになって一貫ぞ。曽子問は鈍底一貫、唯は敏底なれとも、皆をしこめて弘なり。
【解説】
曾子はわからないことがあると何でも質問をしたが、それは鈍で一貫である。「唯」と答えたのは敏いが、これら全てをまとめて弘である。道は広大で、何でも道の外ではないのだから、わからないことを一々聞くのは弘なのである。
【通釈】
先ず、「弘」ということであるが、曾子の生まれつきは「参也魯」だったが、曾子は質問の際に、一つ聞いてはその内容を手帳に付けた。これは低い次元の様に思えるけれども、道は広大で、何でも道の外ではないのだから、わからないことを一々聞くのが弘である。そこで、先日も言ったが、啓蒙の講釈の最中にあくびをするのは次元が高い様だが、やはり道を半分見ただけのこと。曾子の実践はよくよく大変なこと。婚礼の時や壻の親が死んだ時はどうするのかと聞いて、それまで手帳に付けられた。この様なことが皆一つに合わさって一貫である。曾子が一々問うのは鈍な一貫で、「唯」の返事は敏な様だけれども、皆一つにまとめて弘と言う。
【語釈】
・あたまで…頭で。物事の始め。最初。生まれつきの意。
・参也魯…論語先進17。「柴也愚。參也魯。師也辟。由也喭(柴や愚。參や魯。師や辟。由や喭)」。
・一貫…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣(子曰く、參や、吾が道は一以て之を貫く。曾子曰く、唯。子出ず。門人問いて曰く、何の謂ぞや。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ)」。

毅と云は、啓予手啓予足云々も、孔子から身体髪膚受之父母不敢毀傷と云を受こんでをとさぬ。西銘の解も、手足を啓くことてかかれて、没吾れ安しまで皆毅なり。擔物無別条。もってゆく処まて持ていった。そこて、此喟然の歎へもって来たときに欲従之末由而已。これまで来たがどうも及はれぬと云ふ顔子はいんきん。曽子、免るかな。仕て取たと云はををへいの様なれとも、どちどうしてもゆく処までゆきとどいたは同やなり。
【解説】
「毅」とは、曾子の「啓予足啓予手云々」である。西銘の注解も「吾没寧」までが毅のことである。擔物を担って行ったが、孔子にはとても及ばないという顔子は慇懃な人物である。曾子が仕て取ったと言うのは大柄な様ではあるが、担い切ったという意味では二人とも同じである。
【通釈】
「毅」の例としては、曾子の「啓予足啓予手云々」があり、これは、孔子の「身体髪膚受之父母不敢毀傷」という教えを受け込んで落とさなかったことを言う。西銘の注解も、手足を啓くことで書かれ、「吾没寧」までが、全部毅のことである。擔物を別条なく、持って行ける処まで持って行った。そこで、喟然の歎に持って来た時に、「欲従之末由而已」で、ここまで追って来たがどうも及ばないと言う顔子は慇懃。曾子は「吾知免夫」と、最期まで遣り遂げたと言うのは大柄の様だが、どちらも、どうしても行く処まで行き届いたという意味では同じである。
【語釈】
・啓予手啓予足…論語泰伯4。「曾子有疾、召門弟子曰、啓予足。啓予手。詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫。小子(曾子疾有り。門弟子を召びて曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云う、戦戦競競として深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し。今よりして後、吾れ免るることを知るかな、小子)」。
・身体髪膚受之父母不敢毀傷…考経。小学。「身體髪膚受之父母。不敢毀傷、孝之始也(身體髪膚之れを父母に受く。敢えた毀傷せざるは、孝の始めなり)」。
・西銘…張横渠著。
・没吾れ安し…西銘の語。「没吾寧(没するときは吾寧し)」。
・別条…ほかとかわった事柄。普通と違った事柄。

任重而道遠。その大きい擔なり。それを一つものがさず擔にしてをるから重い。それも俵をさすやうなことならなれども、長崎まで持てゆく。遠しぞ。
【解説】
担う荷は重いが、重量があると言うことではなく、道を全て担うから重いのである。それを死ぬまで持って行くのだから遠いのである。
【通釈】
「任重而道遠」。道とは大きい荷である。それを一つも逃さず荷にしているから重い。それは俵を持ち上げる様なことならできるが、その重い荷を長崎の様な遠いところまで持って行くのである。死ぬまで担うのだから、行き先はとても遠い。

仁以為己任云々。ここがこれ、さきも云ふ、任するとて肱をはることでないと云がこれなり。道を任するを孟子の好弁と云やうに思てをるが、あれも任するの一つなれとも、任するとは仁に疵をつけぬこと。仁にきずを付まいと云へば、克己功夫一つしてしまへば、又一つする。あけしいまはない。不重乎と云か、擔をすくなくして呉れよと云てはない。時々刻々やまれぬ。見ること聞くことに用心してをるが、どうもならぬから重と云。
【解説】
道を任じるとは、仁を疵付けないこと。それを、克己功夫で絶えず続けるのだから重いことなのである。
【通釈】
「仁以為己任云々」。これが前に言った、任じると言っても肱を張ることではないということ。人は、道を任じることを孟子の「好弁」の様に思っているが、孟子の好弁も任じることの一つではあるが、ここの任じるとは仁に疵を付けないことなのである。仁に疵を付けない様にするには、克己功夫を一つして、それが終われば、また一つする。のんびりしている時間はない。「不重乎」というのは、荷を少なくしてくれよと言うことではない。道を担うことは時々刻々で休みはないし止められない。見る事聞く事に用心してはいるが、現実はどうにもならない。それで重いと言う。
【語釈】
・好弁…孟子滕文公章句下9。「豈好辯哉。予不得已也。(豈弁を好まんや。予[われ]已むことを得ざればなり)」。
・あけしい…生活や気分の上でのんびりするさま。気分のさっぱりするさま。

老人の口上に、をれが若ひときは人が悪所へさそってならなんだがと云て、疱瘡しまったやうに、擔ををろしてのがれたやうに思ふてをるが、人欲は夫れきりではない。年老てもゆだんはならぬ。さかつきにむかへばかはる心哉。なんぼ重くても一度向たぎりならよいが、たび々々向からゆだんはならぬ。仁は時々刻々手あてなくてはならぬ。白人ではゆるすが学者はゆるさぬ。老師など、年よりてよいと安堵な顔をするは、甚学問に不案内ぞ。そこで、直方の、年よると又、出来人欲と云ものあると云へり。若ひときないことがはづまるのぞ。某など上総へ来て、芋餅の、濁酒のと、それだけ口腹の人欲の員数がふへた。そんなことも又、ものの来るたびに仁をよこすまいとするなり。
【解説】
仁を疵付けないでおくことは難しい。人欲は何時でもやって来るから年をとっても油断はできない。年をとると今までになかった人欲が現れる。人欲が現れるたびに、仁を汚さない様にしなければならない。
【通釈】
老人の中には、俺が若い時は人が悪所へ誘ってならなかったがと言って、疱瘡が治った様に、荷を下ろして逃れた様に思っている人がいるが、人欲はそれで終わりではない。年老いても油断はできない。盃に向かえば変わる心かな。荷がいくら重くても人欲が一度だけ向かうのならそれを取り払えばよいが、度々向かうから油断ができない。仁は時々刻々手当てをしなければならない。素人なら仁の手当てをしなくても許すが、学者では許さない。老師などは年が寄ってよいと安堵な顔をするのは甚だ学問に不案内である。そこで直方が、年寄るとまた出来人欲と言うものが出ると言った。若い時はないが、年をとると出来人欲が始まるのである。私など上総へ来て、芋餅や濁酒と、それだけ飲み食いの人欲の数が増えた。そんな時もまた、人欲が来るたびに仁を汚さない様にと心掛けることが必要である。
【語釈】
・白人…素人。
・口腹…くちとはら。転じて、のみくい。飲食。

死而後已。一生のことなり。よく云もの、老人御免なされ、と。それは、手足の上のふはたらきのことはきこへた。年よると、わるいことをしても見のがしと覚てをる。これ、恥しらずなり。貴様方は長命、して、ゆるりと喰はるる。をらは年がないからと云て、はや初鮭をくひたがる。死まで功夫することはしらぬ。韓退之盖棺而止。こちはぎゃっと生れるから息を引取るまでのこと。其かはり、死さへすれば、あとはかまはぬ。
【解説】
「御免なされ」と言えば見逃してもらえると思っているような老人は、恥知らずであり、克己工夫をしない人である。道を任じる者は死ぬまで工夫をしなければならない。その代わり、死んだ後はどうでもよい。
【通釈】
「死而後已」。道を任じるのは一生のことである。老人がよく御免なされと言うが、手足の不自由な意味ならわかる。しかし、年寄りだったら悪いことをしても御免なされと言えば見逃してもらえると思っているのなら、それは恥知らずである。皆様はまだ若いから後で何でも食べられるが、私は老い先短いからと言って、早くもに初鮭を喰いたがる。そんな人は死ぬまで克己功夫をすることを知らない。韓退之が「盖棺而了」と言った様に、道を担う者は生まれた時から息を引き取るまでが克己功夫である。その代わり、死んだ後はどうでも構わない。
【語釈】
・韓退之…唐の文章家・詩人。唐宋八家の一。字は退之。号は昌黎。儒教を尊び、特に孟子の功を激賞。柳宗元とともに古文の復興を唱え、韓柳と並称される。詩は険峻と評される力作をよくし、平易な風の白居易と相対した。憲宗のとき「論仏骨表」を奉って潮州に左遷された。諡は文公。「昌黎先生集」がある。768~824
・盖棺而止…韓退之の同冠峡という詩に、「棺を盖[おお]いて事乃[すなわ]ち了[あきらか]ならむ」とある。「了」は終わるという意味があるから「止む」と読んだ。

死から先を世話をするは佛なり。釈迦が死なるるとき、此身の視在は腐りたものなれば、今すれとも、必々弟子とも哀み嘆くなと云は、死而後止てはない。後を含て云たもの。一つことのやうで、あるものかある。不生不滅なものあると云て、あとを大事にする。そこを佛心佛性と云。吾一人のを大宝にする聖人の道は五尺のからだにあるから、此からだがなくなれば、あとにはかまはぬ。あちでは不生不滅と馳走して、有知有覚の灵[れい]をとめて、からだのあとまであると自慢するが、それは雑蝋[だろう]の匂ひのあとへ残りた様なもの。聖人の道は此身一生のことゆへ、此文も、道之廃而不行と直方のかき出しても、死而後已。これまできりなり。
【解説】
死んだ後のことまでを考えるのは仏教である。釈迦が死ぬ時、哀しみ嘆くなと弟子に言ったが、それは、仏教では不生不滅なものがあると考えているからであり、聖人の学で言う「死而後已」とは違う。聖人の道は道を任じる人の体の中にある。それで、体がなくなった後のことは構う必要はない。聖人の道は任じる人の一生と共にある。この冬至文に関しても、「道之廃」で始まるが、「死而後已」で終わる。
【通釈】
死んだ後の世話を焼くのは仏教である。釈迦が死なれる時に、私の身体は腐るものだからといって、今私が死んでも、弟子ども、必ず哀しみ嘆いてはいけないと言ったのは、「死而後已」という意味ではない。死んだ後があるからそう言ったのである。同じことの様で、或るものが有る。仏教では不生不滅なもがあると言って、死んだ後を大事にする。これを仏心仏性と言う。自分一人の身を大宝とする聖人の道は五尺の体の中にあるから、この体がなくなれば、後のことは構わない。仏教では不生不滅と騒いで、知ったり覚ったりする霊が死によって終わっても、その後まで不生不滅あると自慢するが、それは、質の悪い蝋燭の匂いがあとに残った様なもの。聖人の道は自分の一生のことだから、道を担うのも、担う人の死をもって終わる。この冬至文も「道之廃不行」と直方は書き出して、「死而後已」で終わらせている。
【語釈】
・視在…目に見えて在る釈迦の体を指す。
・寂…僧侶の死去。
・佛心佛性…「佛心」は、仏の大慈悲心。「佛性」は、一切衆生が本来もっている仏としての本性。
・大宝…極めて貴いたからもの。重宝。至宝。
・雑蝋…品質の悪い蝋燭。

豈悠々徘徊云々。ただあそんで碁や将棊にかかりてをることとみるでない。四子六経の事業を学者のしておる者を云。五祖が、大勢の僧が経をよく読て精出していても、生死事大無常迅速と云やふなもの。唐の太宗か学校を建て、書生を増し、学問の世話をやいても悠々徘徊ぞ。大学の大学たる処をしらねば、衍義補か皆悠々徘徊なり。漢唐の学問がにぎやかなれとも、あれを学を絶と云は、鄭玄や孔頴達も人の為にはなるが、道を得ぬと云なれば、己が為めにはならぬ。同し。悠々徘徊になる。道理を斯ふ合点せねばならぬぞ。
【解説】
悠々徘徊する者とは遊んでいる者を指すのではなく、儒者のことである。道を任じるという学問の本質を知らなければ、悠々徘徊なのである。漢唐を絶学と言うのも、鄭玄や孔頴達の様な学者は人の為にはなるものの、道を得ないから悠々徘徊の徒と同じだという意味である。
【通釈】
「豈悠々徘徊云々」。悠々徘徊とは、ただ遊んで碁や将棋にうつつを抜かしていることと思ってはいけない。四子六経を事業としている学者を指して言う。五祖が、大勢の僧が経をよく読んで精を出していても、「生死事大無常迅速」と言ったのと同じこと。唐の太宗が学校を建て、書生を増やし、学問の世話を焼いても、学問の本質を知らなければ悠々徘徊である。大学の大学たる処を知らなければ、大学の衍義補も全て皆、悠々徘徊である。漢唐の学問は盛んだったが、それを絶学と言う理由は、鄭玄や孔頴達の様な学者は人の為にはなるものの、道を得ようとしなかったので、己の為にならないからである。それで、彼等も悠々徘徊なのである。道理とは、この様に理解するものである。
【語釈】
・四子…論語、孟子、大学、中庸。
・六経…中国における六種の経書。易経・書経・詩経・春秋・礼・楽経(佚書)の総称。
・唐の太宗…李世民。太宗とは、中国の王朝でその勲功や徳行が太祖に次ぐ皇帝を称する廟号。
・衍義補…「衍義」は、意味をおしひろめて詳しく説くこと。ここでは、明の丘濬が書いた『大学衍義補』160巻を指す。宋の真徳秀が朱子学の大学解釈を項目別に解説した『大学衍義』43巻を補ったもの。

任道と云は得道とはちと違ふて、得道とは道を吾身に持つこと。任するとは、其道を得た人か其道を守て流義をかへぬこと。我々も得道処へはいかぬが、道を得ると云ふ学脉を合点して、其宗旨をまげぬことを任ずると云のぞ。直方先生の、学者不及日蓮説を書ふと云はれたがここのこと。今日も、兎角学者が上の方のつり合を見て学の宗旨をもかへるが、それはあまりなこと。任道などと云ふは、中々氣象心術から各別なることぞ。そろ々々と上品になる様なことはあるまいかと心に問ひ、様子こまかにたづぬべし。
【解説】
得道とは道を自分の身に持つこと。任道とは、道を身に付けた人がその道を守って流儀を変えないこと。未熟な者であっても、道を得る学脉を理解し、その学脉を変えないことで道を任じることになる。日蓮の様に、道を任じ通さなければならない。
【通釈】
任道と得道とは少し違う。得道とは、道を自分の身に持つこと。任とは、道を得た人がその道を守り、その流儀を変えないこと。我々の様な未熟者は道を得る処まで至ることもできないが、その様な者は、道を得る学脉を理解し、その学脉の宗旨を枉げないことが任だと考えるのがよい。直方先生が、学者日蓮に及ばずの説を書こう言われたのはこのためである。今日も、とかく学者が師の評判を比較して、学の宗旨までも変えるが、それはあまりにひどいことである。任道などということは、中々気象や心術の見地から言って格別なことである。知らない間に上品になることはないかと心に問い、こと細かに反省しなければならない。
【語釈】
・式…たかが…くらい。わずか…ほど。
・日蓮…鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。字は蓮長。安房国小湊の人。初め天台宗を学び高野山・南都等で修行、仏法の真髄を法華経に見出し、1253年(建長5)清澄山で日蓮宗を開いた。辻説法を行なって他宗を攻撃し、「立正安国論」の筆禍により伊豆に流された。赦免後も言動を改めず、佐渡に流される。74年(文永11)赦されて鎌倉に帰り、身延山を開く。武蔵国池上に寂。著「観心本尊抄」「開目抄」など。1222~1282

享保丙申冬至日云々。この三人の衆は、直方の目鑑にはづれぬと云斗りが手柄格別たぎりたと云ではない。のっきりてたきったは外にも有ふが、これは死なるる四年か前に、此三人にあたへたがはづれぬこと。此三人の衆か、志純一な処が當仁不譲師と云人々なり。あれが見にくひこと。直方とは皆はだへの違た人じゃが、直方の道をは守てまけぬ。今の学者は師のまねをばするが、師の道をは守らぬ。三人の衆は直方の風彩をまねはせぬが、只我方を建立しやうとして、直方先生の咄が出ると、及ぬことじゃと云てをられたが、守りた処は目かねにちがいなかりた。
【解説】
三人に冬至文を与えたのは、直方の目鑑が優れていたからである。三人は直方の風采を真似することはなかったが、直方の道は守って枉げなかった。
【通釈】
「享保丙申冬至日云々」。この三人の衆は、直方の目鑑に外れなかったということだけが格別に優れた手柄なのではない。乗り切って滾った者は外にもいただろうが、しかし、直方が死なれる四年前に、この三人に冬至文を与えたのは間違っていなかった。この三人の衆の志が純一な処は「當仁不譲師」と言うべき人々である。しかし、人にはそれがわかりにくい。三人は直方とは風采が違っていたが、直方の道を守り通して枉げなかった人達である。今の学者は師の真似はするが、師の道は守らない。三人の衆は師の風采を真似ることはしなかったが、自分の学を建立しようと努力した。また、直方先生の話が出ると、とても先生には及ばないと言っておられたが、道を守ったところは、直方の目鑑に間違いはなかったのである。
【語釈】
・享保丙申…享保元年。1716年。丙申は「ひのえさる」と読む。
・はだへ…人や獣類の体の表面をおおう皮。はだ。

先師先君子適唐津文云々。異學跋扈云々は全く徂徠をさした。これは年号でもみるがよい。徂徠の学のさかんになりたはこの比なり。任道と云は君父のかたきを報するやふなもの。異学は聖学の邪魔をする。そこて排するはあだを報するのぞ。寝薪嘗膽は、越王勾践が會稽の讐をすすくときに此字をつかふた。石原先生、あぢをやられた。文は不調法なれとも、有徳者必有言ぞ。以擔夫望於兄。手前も仲間なれともゆつりた。
【解説】
この頃に、徂徠の学が盛んになったが、任道とは君父の仇を討つ様なもので、異学は聖学の邪魔をするから排斥してもよい。それで「臥薪嘗胆」が出た。「望於兄」は石原先生が迂斎に謙譲して言ったのである。
【通釈】
「先師送先君子適唐津文云々」。「異学跋扈云々」と言うのは、全く荻生徂徠を指して言ったことである。これは年号でも見ればわかる。徂徠の学が盛んになったのはこの頃である。任道とは君父の仇を報いる様なもの。異学は聖学の邪魔をする。それで、異学を排するのは仇を報じるのと同じなのである。「寝薪嘗膽」という言葉は、越王勾践が会稽の讐を雪ぐ時に使ったものである。石原先生が味なことを言われた。文は無調法だが、「有徳者必有言」である。「以擔夫望於兄」。両先生は学友だが、石原先生は迂斎に謙譲して兄と言ったのである。
【語釈】
・先師…野田剛斎。
・先君子…稲葉迂斎。
・徂徠…荻生徂徠。1666~1728
・有徳者必有言…論語憲問5。「子曰、有德者、必有言。有言者、不必有德。仁者、必有勇。勇者、不必有仁(子曰く、德有る者は必ず言有り。言有る者は必ずしも德有らず。仁者は必ず勇有り。勇者は必ずしも仁有らず)」。

今雖不遑啓處。詩経に在番の字なり。迂斎か唐津に在番しやからつかふ。自新とは大学の字ぞ。直方の自新説をかかれたか、三人の衆、大学の講釈には用ひられぬけれとも、こんなときは一寸入れて見ることぞ。あれは経文とちとたがふたが、こんなときはあれを出してみるがよい。直方への精彩なり。享保戊申云々。石原先生、三十九の年なり。
【解説】
野田先生は、詩経と大学を引用した。三人は自新を大学の講釈には使わなかったが、こんな場合に引用するのも直方への精彩となる。
【通釈】
「今雖不遑啓處」。詩経に在番の字がある。迂斎が唐津に在番したから、ここで使う。「自新」とは、大学から引用した字である。直方は自新説を書かれた。それを、三人の衆は大学の講釈に用いなかったけれども、この様な時には一寸入れてみるとよい。あれは大学の原文とはすこし違うが、こんな時はあれを使ってみるのがよい。直方に対する精彩である。「享保戌申云々」。石原先生が三十九才の頃の文である。
【語釈】
・在番…①勤番に当って勤めること。②江戸時代、幕府の役人が遠地に交代勤務したこと。③大名が幕府の命で他の城地を守ったこと。
・自新…遺文の「自明者日新又新」を指す。大学章句1に、「康誥曰、克明德。大甲曰、顧諟天之明命。帝典曰、克明峻德。皆自明也(康誥に曰く、克く德を明かにす、と。大甲に曰く、天の命を顧[おも]い諟[つまびら]かにす、と。帝典に曰く、克く峻德を明かにす、と。皆自ら明かにするなり)」とあり、大学章句2に、「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新(湯の盤の銘に曰く、苟[つつし]みて日に新に、日日に新に、又日に新なり、と)」とある。
・享保戊申…享保十三年(1728)。戊申は「つちのえ・さる」と読む。

永井先生病革云々。これか某、九つの年じゃ。病中も覚へてをる。これは死るる三日まへのこと。廿八日に死れた。病中殆失平生云々。病氣は腫氣で、今此文で考るに大ふせつなかられた様なれば、脚氣衝心かなり。大かい、看病の世話は直方先生の御子息一人でしたやふなり。病革、ここで省察された。ここを平生、大事々々とされたが、死ぬ三日まへのことゆへ甚しかったそうな。
【解説】
永井先生の病気は腫気。この文を作ったのは死ぬ三日前のことだったので、ひどくつらい情況だった。
【通釈】
「永井先生病革云々」。永井先生の病気が急に重くなった時、黙斎は九才だった。病中のことも覚えている。この遺文は死なれる三日前に書かれたもので、二十八日に死なれた。「病中殆失平生云々」。病気は腫気で、今この文を読んで考えてみると大層切なかった様だから、脚気衝心ではないだろうか。大抵、永井先生の看病は、直方先生の子息が一人で行った様である。病気が重くなり、永井先生は文を作った。死際が何時も大事だと考えられていたが、死ぬ三日前だったので、ひどくつらい情況だったそうである。
【語釈】
・病革…病気が急に重くなる。
・脚気衝心…脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を起し、多くは苦悶して死に至る。
・省察…みずから省みて考えめぐらすこと。

提撕之功最難。いこう心が動たこととみへる。永井先生は心法の工夫した人で、醫者ではあり、死ときの工夫はしてとったことと思ふたが、さうではなかりたそうな。此たんになりては、どうやらうろたへさうになりたもの。あの御人と云へども、小児衆のことを思ひ、かれこれして胸がいこうくるしふなったもの。処をどっこい、これではならぬと云れたもの。
【解説】
死際の振舞いは難しい。永井先生ほどの人でもうろたえた。しかし、そこを持ち堪えたのである。
【通釈】
「提撕之功最難」。先生は大分動揺したようである。永井先生は心法の工夫をした人であり、医者でもあったので、死ぬ時の心構えはしてあると思ったが、そうではなかったようだ。最期になって、どうやらうろたえそうになった。永井先生ほどの人でも子供のことを思ったり、色々なことで胸が大層苦しくなったのである。そこを、どっこい、これではいけないと言われたのである。

直方先生が、丹治はためした。おれは泣出すと云はれたか、尚翁牢へ入て三年居られたことを云へり。牢へ入ると云は、向に相手があるからりきんでもなり、張合もあるが、病気さし重り、心のたしかなとき、そこへ子ともなどくると、大ふそこは違たもの。そこを禅坊主めかずに動ぬやうにするから六ヶしい。学者はとかく傷寒て死ぬがよい。其かわり、夢中で日比のわるいことも云が、正氣でたしかなれば取みだす。
【解説】
病気で死を迎えるのと牢屋に入るのとは違う。とかく心が確かだと取り乱すから、学者は寧ろ傷寒で死ぬのがよい。
【通釈】
直方先生が、丹治は試した、俺なら泣き出すと言われたが、それは、尚翁が牢に三年間入っていたことを指す。牢に入ると言っても、相手があるから力むことも、張合いも持つこともできるが、病気が重くなって、まだ意識がしっかりしている時に、そこへ子供などが来たりなどすると、牢に入っているのとはかなり違った心地となる。そこを禅坊主臭くなく、心を動かさなくしようとするのが難しい。学者はとかく傷寒で死ぬのがよい。その代わりに、夢の中で日頃言ってはいけないことも言うが、正気で気が確かだったら取り乱すものである。
【語釈】
・丹治…三宅尚斎。1707~1709(宝永4年~宝永6年:46~48歳)の間に、武蔵忍藩城内に幽閉される。
・尚翁…三宅尚斎。
・重り…病気が重くなる。
・傷寒…漢方医学で、急性熱性疾患の総称。今の腸チフスの類。

先君子諭学者文云々。これはぶん々々のことで、某、うって違たことなれとも、冬至文にならぶものゆへここへのせたが、今又思ひあたりあり。直方の冬至文わたすとき、喟然の章のことを咄たと云手帋なとをここへ出すと、博文約礼と云か顔子と云処へひびいてよひ。さて、此聖門之教而云々と云か、迂斎の文章かいないからきこへ兼るやふに疑ふた。石原先生も、迂斎の没後さう云れた。随分。これで済む。博文約礼は論語孔顔のことで、聖門之教而下学上達云々と云は、博文約礼を看板にして、上につるして置て、これを毎日工夫してゆく処が下学、それからして上達なり。博約はすわりもの。下学は、上達は、それをしてゆく途すがらなり。
【解説】
「聖門之教而云々」という文章はわかりづらいが、「随分」でよい。博文約礼は孔子や顔子のことで、博文約礼を看板に掲げ、これを毎日工夫していくことが下学、それが積み重なって上達となる。
【通釈】
「先君子諭学者文云々」。これは分に随うことで、前の二文とは全く違ったことだが、私としては、これが冬至文に匹敵する内容なのでここに載せたが、今また思い当たることがある。直方が冬至文を三子に渡す時に、喟然の章の話を覚えているかと書いた手紙などをここに出すと、博文約礼が顔子に通じてよい。さて、この「聖門之教而云々」と言うのが、世間にわかりづらい様に思った。石原先生も迂斎の没後、そう言われた。しかし、「随分」でよいのである。博文約礼は論語にある孔子や顔子のこと。「聖門之教而下学上達云々」とは、博文約礼を看板に掲げ、これを毎日工夫していくことが下学で、それが積み重なって上達となる。博文約礼は看板の様に動かないもので、下学上達は博文約礼を実践していく過程なのである。
【語釈】
・ぶん々々…分分。それぞれの分に応じていること。分相応であること。
・手帋…「佐藤子江戸より迂斎へ唐津へと遣し候書状」を指す。
・博文約礼…論語雍也27と顔淵15。「子曰、君子博学於文、約之以礼、亦可以弗畔矣夫(子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔[そむ]かざるべきか)」。
・下学上達…論語憲問37。「子曰、不怨天、不尤人。下學而上達。知我者、其天乎(子曰く、天を怨みず、人を尤[とが]めず。下学して上達す。我を知る者はそれ天か)」。

学者得其門者或寡矣。これが何ことない字で、博文約礼と知行の二つてなければこれが得られぬこと。近思と云ふも異端頓悟所得哉と云たかここのこと。中々ならぬことぞ。中庸易而難なり。たいらでいて、ついわきへゆくもの。三宅先生なとたいらなれとも、門人がわきへいったは其門をうると云がないからぞ。踰等陵節は高ぞ。それ、終身埋首於書冊はひくい者のこと。博文約礼と出されたが、孔子の教の通にゆかぬ。誦五車はいかいこと書をよむこと。荘子の字。
【解説】
博文約礼と知行の二つがなければ聖門の教えは得られない。中庸も易しい様で難しい。「踰等陵節」も、逆に「終身埋首於書冊」も中庸に反する。博文約礼は、孔子の教えの通りには中々うまく行かない。
【通釈】
「学者得其門者或寡矣」とは言うが、それは簡単な意味の言葉であって、博文約礼と知行の二つがなければ聖門の教えは得られないということである。近思録序で「異端頓悟所得哉」と言ったのもここのこと。其門を得るのは容易でない。「中庸易而難」。中庸は平らなものだが、人は直ぐに脇へ逸る。三宅先生も平らな人だったが、門人が脇へ逸れたのは、彼等が其門を得ようとしなかったからである。「踰等陵節」は高逸れ者のことで、「終身埋首於書冊」は低い人のこと。博文約礼と言っても、孔子の教えの通りには行かない。「誦五車」とは多くの書物を読むことで、荘子の言葉から出た。
【語釈】
・異端頓悟所得哉…山崎闇斎近思録序。「至于宋濂渓周子継往聖而開来学。其所謂無極而太極、則啓大易之秘而発中庸之妙也。誠能有得於斯則四子六経可不治而明矣。然此豈若異端頓悟之所得哉(宋に至りて濂渓周子、往聖を継いで来学開く。其の所謂無極にして太極は、則ち大易の秘を啓きて中庸の妙を発するなり。誠に能く斯に得る有らば、則ち四子六経治めずして明かなるべし。然れども、此れ豈に異端頓悟の得る所の若くならんや)」。
・五車…荘子天下編。「恵施多方、其書五車(恵施は多方、其の書は五車)」。

深絶此意以実致為己之学云々。学校へ張たと云も、直方の有志乎無乎と同し思入なり。辰年暮廿一日に講釈納めすんで、きうに額をはりた。迂斎が、春からは目をさまさせずはなるまいとて、大晦日までに出来あがりた。あの額のほねは仙臺産の、市平と云ふ中間作なり。不然則為人之幤云々。これも冬至文をついて云た有乎無乎の処なり。無きものに講釈してきかするは、講釈をすてるなり。人参をせんじては打こぼし々々々々する様な、さて々々うれしうないなり。佛も縁なき衆生は度し難しと云ふ。縁なき衆生は講席の席ふさげなり。
【解説】
迂斎が諭学者文を学校に張ったのは、直方が「有志乎無乎」と三人に尋ねたのと同じである。聖学に縁のない者は、講釈の席から排除しなければならない。
【通釈】
「深絶此意以実致為己之学云々」。迂斎が諭学者文を学校に張った意は、直方の「有志乎無乎」と同じ思い入れである。辰年暮れ二十一日に講釈を納め済んで、急に額を張った。迂斎が、春からは門人たちの目を覚まさせなければならないと言って、その額を大晦日までに作り上げた。額の枠骨は仙台産で、中間の市平という者の作である。「不然則為人之幤云々」。これも直方が冬至文を指し示して言った「有乎無乎」と同じ意味である。聖学を志さない者に講釈をして聞かせるのは、講釈を捨てることである。人参を煎じる度に打ちこぼす様なもので、全く嬉しくない。仏教でも縁なき衆生は度し難しと言う。聖学に縁のない者には、講釈を聴かせてはならない。
【語釈】
・中間…中世、公家・武家・寺院などに仕える従者の一。侍と小者との中間に位する。近世には武家の奉公人の一で、雑役に従事。足軽と小者の中間に位する。
・縁なき衆生は度し難し…いかに仏でも仏縁のないものは救済しにくいように、人の言を聞きいれないものは救いようがない。

佐藤子卒既六十八年。こわいもの。六十八年と云たが、はやもう今年八十年。迂斎も四十年になる。ここはこわいこと。御用心々々々の処しゃ。必竟、この学者漸失其真云々と云は上総へ来て胸にうかんだ。其比、江戸には何もかはったことはない。行蔵がちとふれても、しゃっきりとした。宗伯が甲斐なくても、中々くずさぬ。幸田はもとよりあの通りのこと。江戸ては云分もなかったか、上総へきたれば迂斎の学筋のみだれたるにて、そこでこれを書た。もと上総の弟子筋がわるくなったから書たが、丁ど今、又、江戸をみれば、山崎派も見事づく温厚になった。然れば又、江戸の吾黨へもあたってきた。
【解説】
月日はあっという間に経ってしまうから用心しなければならない。当時の江戸に変化はなかったが、上総では迂斎の学筋が乱れていたのでこの文を書いた。元々は、上総の弟子たちが悪くなったから書いたのだが、今の江戸を見ると、山崎派も大層温厚になったので、江戸の我が党にもこの文の内容が当て嵌ってきた。
【通釈】
「佐藤子卒既六十八年」。恐いもので、六十八年と言ったが、早もう今年で八十年経った。迂斎も卒してから四十年になる。ここは恐いこと。御用心の処である。畢竟、この「学者漸失其真云々」という文は、上総へ来て私の胸に浮かんだもの。その頃、江戸では何も変わったことはなかった。行蔵が少し道を外れても、しゃっきりと直る。宗伯は甲斐性がなくても、中々志を崩さない。幸田はもとよりあの通りの人物である。江戸では文句もなかったが、上総へ来たら迂斎の学筋が乱れているので、それでこれを書いた。元々は上総の弟子筋が悪くなったから書いたのだが、丁度今、また江戸を見れば、山崎派も見事な限りに温厚になった。よって、また、江戸の我が党にもこの文が当て嵌ってきた。
【語釈】
・必竟…畢竟。つまるところ。つまり。所詮。結局。
・行蔵…村士玉水(幸蔵)。迂斎門下。1729~1776
・宗伯…柳田求馬(明石宗伯)。迂斎門下。1737~1784
・幸田…幸田子善。迂斎門下。1720~1792
・づく…「尽く」。名詞に添えて「ある限りを尽す」の意を表す。

峻門風。これを一寸々々と氣を付ねばならぬ。別して館林の衆、役義なれば大事ぞ。あの掛札とても峻嚴ぞ。もちっとこれをへらしたら、あれを入たらと云はうが、先輩のすることを守ること。それは甲斐ないやうなれとも、そこが峻ぞ。峻と云と切れ口でもきいたり、突かかりたりする様なことと思ふか、それは口先のこと。峻門風とは、どこ迠も先輩のしきたりのことを足しも減しもせぬことぞ。
【解説】
「峻門風」とは、何処までも先輩の作ったしきたりを、足しも減らしもしないで守ることである。
【通釈】
「峻門風」。これを着実に、何時も気を付けて行かなければならない。殊に館林の人は聖学を学ぶことが役儀だから大事である。たとえば、あの掛札も峻厳である。減じたり、または増やしたりした方がよいとなどと色々と言うが、先輩のしたことを守ることが大事なのである。それでは甲斐がない様だが、これが峻なのである。峻というと、鋭い口をきいたり、突っかかる様なことだと思いがちだが、それは口先だけのこと。峻門風とは、どこまでも先輩の作ったしきたりを、足しも減らしもしないで守ることである。

嚴心術。かう仕来たことじゃが、こうしては今はいかぬ。どうも上で、これでは行れぬと云やうになる。はや、心術がらりになる。嚴心術と云が、これで討死すると云氣でなくてはいかぬ。誰殿かこの書がすきじゃの、これは掛札に加へても苦しうあるまいのと云と、そのときが羞悪の心のなくなりたのぞ。直方の門流は鞭策排釈標的、ここをくづさぬを門風心術を峻嚴にすと云。
【解説】
「嚴心術」とは先輩のしきたりを守ることであり、これを実践するには大変な覚悟が要る。直方の門流は、講学鞭策録、排釈録、道学標的を守ることが大事で、これを「門風心術を峻厳にす」と言う。
【通釈】
「嚴心術」。今までこの様に行って来たが、それでは今はうまく行かない、どうしてもこれではうまく行かないと言う様になる。しかし、最早それで心術が台無しになる。厳心術というのは、討死にする覚悟でなければならない。誰彼がこの書が好きだと言って人に構ったり、先輩のすることを守らないで掛札に加筆したりするその時が、羞悪の心がなくなった時なのである。直方の門流は、講学鞭策録、排釈録、道学標的を守るのが任であって、これを「門風心術を峻厳にす」と言うのである。
【語釈】
・らり…乱離骨灰・羅利粉灰の略。ちりぢりに離れ散ること。めちゃめちゃになること。
・羞悪…孟子公孫丑上6。「羞悪之心、義之端也(羞悪の心は義の端なり)」。

徂徠学などでさへ、南郭のけなげなと云か徂徠の書目をかいてをいたあとへ、これが先生の定説しゃと書て置た。南郭など、だたい老荘の腹中なれども、師を尊んて師の学を変せぬ。師の書ひて置たものを、これが定説しゃと云たは、学術のわるいぐるみきどくなことぞ。
【解説】
門流を守ることに関しては、荻生徂徠の学派でさえ、南郭がいる。
【通釈】
徂徠の学派でさえ、南郭と言うけなげな者がいて、徂徠が書目を書いておいた後に、これが先生の定説だと記した。南郭などは大体、老荘の術中にはまった者ではあるが、師を尊んで師の学を守り、師の書いておいたものに、これが定説だと言ったのは、南郭の学術が悪いものであることを考慮しても賞賛すべきことである。
【語釈】
・南郭…服部南郭。江戸中期の儒学者・詩人。名は元喬。京都の人。柳沢吉保に仕え、荻生徂徠に学び、古文辞を修め、詩文に長じた。著「唐詩選国字解」「南郭先生文集」など。1683~1759
・書目…書物の題目。書物の目録。図書目録。
・腹中…腹の中。心中。心の中。
・ぐるみ…ある語の下に添えて、「ひっくるめて」「残らず」などの意を表す。
・きどく…奇特。特にすぐれて珍しいこと。また、行為などすぐれて賞すべきこと。殊勝。

石原先生、寝薪嘗膽とかかれた。某など、道学門下に居て、南郭の荘老さへあれじゃ。某も此編を作らねばならぬ。これを書て、我か心術の為と云ではない。ここは全く人の為にしたこと。ここは某が寸悃なり。裏付上下着て、亡父がの、先師がのと云て先生めくことは本望ならざるなり。
【解説】
門流を守ることに関しては、南郭でさえ立派に行っているので、自分も遺文を作らなければならなくなった。聖学とは己の為の学問だが、それに反して、この遺文は人の為のものである。これは、黙斎の寸梱なのである。
【通釈】
石原先生は、寝薪嘗膽と書かれた。私などは道学の門下にいるが、南郭でさえ師を守ることにかけてはあの通り立派だから、私も負けずにこの文を作らなければならなかった。この文は、私の心術のために書いたのではなく、全て人の為にしたことである。これは私のちょっとした真心。裏付草履に裃を着て、亡父が、先師がと言って先生振ることは私の本望ではない。
【語釈】
・寸悃…「寸」は、わずかなこと。「悃」は、真心。ちょっとした真心。
・裏付…裏付草履の略。
・上下…江戸時代の武士の礼装。同じ染色の肩衣と袴とを紋服・小袖の上に着るもの。麻上下を正式とする。裃。