稲葉黙斎語録-儒学他派のこと

小学講義より

太宰か、役人は気をつこふものゆへ酒を飲もよいと云た。酒をのめと云はずとのむものなり。(小学稽古18)

貝原老人か日本人三年の喪をすると病死するの、太宰か役人は酒を飲むがよいと云は入ざる世話なり。飲なと云ても飲み、三年の喪をつとめよと云てもするものはない。再嫁も殊によれは免すと云に及はぬ。(小学稽古30)

俗学はこまりたことは、餅屋は餅屋ゆへ、心のことは禅坊主に聞き、政のことは政談経済録と云。當坐まかないには成程随分よかろうが、ほんの政がそんなことで行くことではない。(小学嘉言13)

仁斎もとは材木屋にて冨饒なる者にてあるに、学問出精のため遂に貧究に及び、或時晩食難給継[ゆうめしこめかなくて]、女房が耳語たれば、仁斉何とも云はず、じろりと羽織を見て頥指たれば、女房それを曲衣 [しちにをいて]米を買ひけるとなり。さっきの絮衣[わたいれ]此米と云と親の咽へつかへる。(小学嘉言17)

神道は夫婦と云のあるゆへ異端と云はれぬ。…仏者とはちがい、夫婦の目出度処は同しことなれとも、明の別のと云ふ処にちとちがいがある。(小学嘉言39)


近思録講義より

今日も朱子をそしるに、をれは徂徠でも仁斎でもないと云てそしる学者があるが、これも皆二家の亜流なり。(近思録序)

南郭が徂徠の著述の書を目録にしておいた。これは心いきのいとしいことなり。あの道樂学問昼寐すきなれとも、後世似せものが出やふかと思て目録をあらわしておいた。これが師のことを尊ぶからのこと。竒特なことなり。(近思録目録)

貝原及兵衛か大疑録に、無極而太極も體用一源云々も佛にあると云。朱子の不顧旁人之謗てすむこと。ものの似るにかまわぬ。子の面が父に似てもあてにならぬ。律義な親にどふらく息子あり。陽虎か孔子に似ても役にたたぬ。似やふか似まいか道学の嫌はない。五雜俎に周子を輕く云て、無極を虵足を添ふと云も見やう聞ま子に陸氏なとを祖にしてのことにて取に足らぬ。(近思録道体1)

惣体、俗儒は垩学から高いことは云れぬ。高いことは老荘の処へかりに行。丁ど、徂徠が社中で平生は中原復逐鹿なとて居るか、何その時に郭象を借りて、すましたことを云て高ぶる。(近思録道体10)

徂徠が道は垩人の作り物と云も性悪の見からなり。前々某が云ふ、徂徠は司馬遷に手を引れて荀郷地獄へをちたと云はこのこと。道を作りものと云か、徠のあてなしに云たことではない。皆奧の院は荀郷なり。(近思録道体38)

迂斎曰、五倫の交も治国平天下も人の生道と云た。仁の汁味から出ぬ治国平天下やくにたたぬ、と。さて々々む子ある云分なり。政談經済録、事の上は云ぶんもなくよいあれとも、大名の料理人が煮大豆をこしらへたやふなもの。あの博物な豪傑の上にあの筆力で書た。よいことたらけにみゆるなり。大名の料理人が物入りにかまわぬ。極品をあつめ、よい道具でよい手でした煮大豆ゆへよいはよいなれとも、何を云ても煮大豆ゆへ汁がすわれぬ。徂徠や太宰が云ことに汁氣はない。荀子もそれなり。孟子は大手に云はれても汁氣かあるぞ。道は垩人の作りたものと云て、心のことにかまわず事の上計り云。其見処から出る政ゆへ、露けがない。政は露けのある方から出るものゆへ仁政と云。礼法刑罸すじのわかるが政ゆへ義政とも云はふ筈なれとも、義政とは云ぬ。汁味を本にして惻隠生道から出るものゆへ、仁政と云ぞ。(近思録道体42)

徂徠が性理のことを蹴やうとて云たことなれども、自ら古文辞の学じゃと云たは、銘の打そこないなり。下卑た看版をかけたのじゃ。(近思録為学2)

日本ては只文字はかりよむことを儒学と心得た故に、垩德太子も神道は種根、佛道は花実、儒学は枝葉と云はれた。これは垩学を大ふ末としたことなり。…此学と云を知たものは遥にすぎて、惺窩道春二先生なり。此二子は至垩人之道と云かあること、そふなと始て知られたゆえ、新注と出たそ。惺窩道春二先生のこれを知られたは延平答問を見たをかげなり。(近思録為学3)

吾徒は近思を讀、徂徠なとか方の者は唐詩選。こぶはかりでない、道を害する。何を云も名人の詩章ゆへ、垩賢の書の代りになるやうに心へる。去によって、唐詩選も論語も同しことと思ひ、懐中する人も学者と心得る。そこて後世の大な害じゃ。(近思録為学5)

徂徠か思之思之鬼神に通ずの語を引て云へとも、根がきまら子ば思ほど横へ行く。(近思録為学15)

天下國家の政をするに治体かある。直方先生か、熊沢次良八かやうでは体を知とは云れぬとなり。某なとか見て、熊沢のしたことに心得になることか大いことあり、徂徠が政談、太宰が經済録、調法なことたらけなれとも、法の上はかりて書たもので体を知らぬ。臆病な大将に軍法を教るやうなもの。軍に出たとき根が臆病ゆへ、かかれ々々々と云なから采を持て迯る様なもの。(近思録為学31)

鳩巣先生が無間然者中江与右ェ門しゃ、と。去とは不審なことそ。中江与右ェ門は近江の垩人と云ほとなれば、人となりはさぞよかろふが、王陽明の学で致知格物はすて、明理と云ことはしらぬ。朱子へ弓を引ものを、それを誉るは明理と云ものでない。(近思録為学31)

何ことも皆心てすることなり。これを徂徠がきくといやかって、そりゃ仏じゃと云。あれは百姓日用不知なり。あの朱子を譏るも心で譏るてはなきか。手や足で議るではない。何もかも心なり。(近思録為学33)

今日古文辞の稽古を脩辞の業なとと云。江戸に生れて京詞と云もの。(近思録為学57)

徂徠は心と云と、そりゃ禪坊主と云か、心に近付てないからなり。程子は心と云ものの害になる毒いみをする。百姓は根きりの虫をこはがる。江戸なとては根切虫を知ぬから、鼠をいやかるやうにはない。徂徠は根切虫を知ぬからなり。その上に六經をかさに着て文辞をふき上るは俗儒の陋弊なり。(近思録為学57)

徂徠や太宰があれ程でも、疑を欠ぬから開けぬ。貝原老人愼思録の作は親切に似たれとも、ほんの愼思でなさに大疑録が出来た。(近思録為学72)

徂徠が氣質変化はならぬものと云。そふ云も成程尤なことて、孔子以来垩人はないと出る。斯ふ云はれるとよわい学者は一言も上からぬ。隨分なる証拠がある。徂徠も若ひときは朱子学をして、晩年に成て朱子を譏りた。初手は諼園隨筆てみよ。それか変化して弁道弁明論語徴なり。これて讀て看れは、徂徠が二人の様になる。すれば氣質変化は徂徠にある。わるいくるみ氣質変化したのなり。(近思録為学100)

徂徠が魏の何晏が註を有難がるか、あれは朱子を悪むためのつかまへ処なり。人をそしるにも、つかまへ処かなくてはそしられぬなれとも、何晏か人抦を知らぬ。靣に白粉をぬっていやみな人であったそうな。それがどふして孔子の道を得やふそ。心を得ずに注をすれば、主の心しらぬ用人が取次やふなもの。古注じゃとて喜ぶは、丁ど下手な茶人が古ひものと云と有難がるやふなもの。古椀は役にたたぬて知るべし。王弼が易の注もやはり苟作なり。なぜなれば、垩人の易を老荘て説たはにか々々しいことなり。(近思録為学107)

仁斎が朱子のことを深く考へぬと云たを、淺見先生の、朱子の処の小丁稚も笑ふであろふと云へり。(近思録為学107)

某前々云、徂莱を律義な不器用と云もここなり。あれほどのことを云て程朱をそしる。律義な不器用と云てはあたらぬ様なれとも、文義のさばきが下手で落ち様を知ぬからなり。程朱をそしるも根は疑からなり。どふもつかへてすまぬから、そこでわるく云。垩賢の書の理はくる々々まわる。程朱は丸ひ知で丸ひ理をぐる々々まわして丁度の処へはめる。そこですっはり合ふ。徂徠は一つ短ひ字をこしらへてどこへもはめたがるから、碁盤をころがす様でまわらぬ。廻らぬ処ではさきをなをす。こちは地頭についてくる々々まわす。直方先生の、朱子は眞赤なうそつきと云るるもそこなり。語類などかそれで、地頭と上下の文意でちこう。(近思録致知27)

貝原が羪生訓を高ぞれな学者は笑ふことなれども、あれがよいことなり。そこで此条も動息節宣。醫者めいたこと迠が存羪なり。(近思録存養3)

徂徠が先王々々と云て堯舜文武のことをすると云か、あれは先王てこしらへた伯者なり。先王々々といくら看板を出しても王道にならぬ。唐太宗蝗を食ふて云に、民の稲くふより我腹を食へ、と。いやなこと。心に向はばいかが答へん。そふかと見れば、弟娵を奪へり。(近思録存養40)

並川五市が寐酒三抔と碁は孔子の異見でもやめられぬと云たと云が、凡夫の出合ではよかろふが、学者の口上ではない。(近思録存養52)

鳩巣先生が中庸首章の説を未定の説と云はれたが、あなたがたほどでも皆書物の上の吟味と見へる。山﨑先生は人を呵謙ることもなく、上、朱子をわつらはすと云が敬の工夫をしたゆへ、克己復礼で脩道の教を説と、げにもと云ふ。これが知ではあれとも、行へ片足いれた人が知ると云はここらなり。(近思録存養52)

山﨑先生、直方先生などは見迯しなく弁するから人がにくむほどのこと。任道からなり。夫を知らいで温々恭人是德之基、山﨑氏曽不思之哉と苦労さるるが、曽て夫に及ぬこと。却て鳩巣先生などのあれほどな学識文才で徂徠を弁じられぬが不出門庭なり。公儀の儒宦と成ては徂徠が異説は是非弁ぜ子ばならぬことなり。先つ公儀の学問の根を知ろふことぞ。國初林家を御用ひの始め、道春の四書の新注を讀れた。夫れを公家衆から、朱子の新注は勅許なくてはよまれぬことと咎められた。其時権現様の、朱註か人の為になるなら新註ゆるすべきと仰られて事すみたなり。これより四書の本は家々にて重刻しても何れより咎なきことなり。すれば公儀は國初から朱子学。御代々朱子学と張り出したことなり。然れは、一旦公義の儒者と成ては、あの時の徂徠学天下に流行するを見ては居られぬ。任なり。然れとも、鳩巣先生道德純熟默養してをられた。学識もあり、文章にも冨た人。鬼に金棒なり。當時の任は先生の外はないことじゃに、竟い弁ぜぬ。千きんの弩けい鼠の為に機を発せぬ。徂徠の学がはやるから杜門をられた、と。それを弟子衆が吹聽するは合点ゆかず。とかく謙退遜順な方から節せられたなるかなり。知も行も及もないことなれとも、日比温々恭人と目が付て闇斎なとを不德と思て居られたによってかなり。然れとも、宦儒で居て公儀の学へ弓を引く様な異説を弁せぬ。謙遜のすぎたるかなり。とかく学者吾任に當ったときは、謙退離れて弁せ子ばならぬこと。徂徠は古学の先王のと云立、古文字と云。つまりは文辞からのこと。そこで文筆なきものには手にあまる。鳩巣先生は文章平坦古雅。徂徠が佶倔獒呀とはりあふことなり。それに弁せられぬは節にあはぬやふに思はるる。某などがやふないろは書く様なことては出来ぬ。(近思録克己9)

とかく耻を知らぬ族らが多い。徂徠派が大名へ抱へらるるに論語徴でよんでは家老用人が合点せぬから、宗旨は徂徠で集註でよむ。堀川学と称しても、今時は大名の家へでもゆかば、多は大学もよむべし。利欲紛挐の域に入れば沙汰の限り。このやうな粗跡でさへ一つ振ふことはならぬて心身の建立はならす。程朱をわるく云はまだも元氣よし。云ぬと云。人欲はさて々々なり。(近思録克己9)

司馬温公なとは好仁て悪不仁ぬ人なり。仏法をふせくは名教の助と云た。呂東来か仏法を其やふにふせぐことではないと云。其あとか仁斎ぞ。浮屑導香へ慇謹な手紙をやりたかるなり。惡不仁ぬと、こちまてわるくなる。(近思録克己35)

兼て再嫁を計すはわるい。鳩巣東渓は兼てから再嫁にも次第あると云ふ。入らざることなり。(近思録家道17)

堀川の仁斎が机にかかって書物をよんでいたとき女房がそっと晩の米がござらぬと云たを、何とも答へす着ていた羽織を見てあごてうなづいた。女房がそっと質にやり米買たと云。これが親に苦労を知せぬのなり。(近思録家道19)

鳩巣先生の、をれが若ひとき顔をあかくしたことは今の若ひものは何も思はぬと云へり。(近思録出處31)

東莱博議を作れた。朱子とは大ふ趣の違たこと。さるによって堀川の源藏が跋をした。あのやふなものが跋をすれは朱子と違たは見へること。学問々々と云ても心法へ立入らぬは皆そふしたこと。(近思録出處35)

鳩巣先生の、学者人に忌まるるはよし、慢れるのは役に立ぬと云へり。偖々名言ぞ。(近思録出處37)