稲葉黙斎語録-上総以外の同門のこと

小学講義より

詩哥は情に流るるものぞ。大和小学に、世の人のたわむれゆいてかへることを知らざるは、源氏伊勢物語あればにやとあるは、業平などぞんとふとく思ふが、哥のついえからぞ。或公家衆の、土岐丹後殿の諸司代のとき、今業平があらばにやとの玉へは、丹後殿の答へゆ。今業平があると関東へ申越て其分にしてはをかれぬと云れた。(小学立教2)

高橋利左ェ門が、手習子と云ものは師匠の書たを一字一点はづすものではないと云た。(小学立教9)

某か亡友村士行藏なと、忠告るはあったか道きやふが下手てあった。某なとは道きやふは能ても忠告るか根からないゆへ向へひひかぬ。(小学明倫92)

渋谷丹右ェ門か、此頃は久く先生に謁せぬ。見先生てちと胸中の洗濯をしよふとて迂斎へ来れり、と。(小学敬身2)

先年野沢十九の云たに靣白ひことかある。石原先生か此方の非礼しゃと云たれは、いやそふ一ちやふに云れぬ。金は非礼てはないか、賄賂に包と非礼になる。紫檀や黒檀に非礼はないか、あれを三弦にすると非礼になる。美人は非礼ではないか、傾城になると非礼になると云た。靣白さは靣白が、つまり此方て云か細にて定説になるなり。(小学敬身3)

沢一か、垩賢になろふとならは思ひ狎れるかよいと云た。(小学敬身7)

渋谷丹右ェ門は、学問をしよう々々々と云た。韓退之は文から道を暁り、丹右ェ門は弓から道を信した。…渋谷丹右ェ門が、たっふりと搆へて気息の滿る処てはなせと云たとなり。其弓勢の音か云に云へぬことてありたと云。(小学敬身33)

直方先生の弟子の沢一か考へたと云。飯を食ふにこれ迠か天理、是からさきを食へは人欲しゃとためしたと云か本の学者なり。中々大抵な坊主ではない。(小学敬身43)

沢一が、垩賢は思ひなれるがよいと云た。思ひなれるとすんど吾方に垩賢に似たことがある。(小学嘉言5)

直方先生の弟子の杦森養德が腹に墨気がないと云ことを云へり。書を読まぬ者のことなり。(小学嘉言9)

余亡友村士行藏も晩年高くとまりて信古堂と云へり。尤なこと。わるいことではないが、大止るだけ斈脉が鹵莽となってくる。垩人は信好古なれとも、今日廣く信古と云へば山崎先生直方先生と傳た学は第二段のやうになる。そこであと々々ではっとしたことになりて、世間の学者のていたらくになる。某や善太郎殿などはちょっと一つ講釈をするにも、直方先生の云はれたぞ、三宅先生の云はれたのと云がさても律儀なと云をふが、我々などを律儀なとも云れまい。これが某や善太郎殿の見処なり。某とて善太郎殿とて大きく云はれぬでもないが、兎角古風にどこ迠も諸先軰を云て学の脉が立てくる。(小学嘉言13)

小野﨑舎人殿の、門柱のををきひ処をみる、はやそこへ行きたがると云はれたことあり。門柱のををきい処へ行きたがると云がさて々々やうないことぞ。(小学嘉言29)

阿部矦の鶉をはなされた。鶉をかふたとてそのやふにわるいことでもないが、鶉が好と云と、よい鶉をもたものがあげたいと云たれば、したたかな鶉をはなした。(小学嘉言35)

幸田云、学者には俗人にない人欲があるもの、と。(小学嘉言68)

迂斎や諸先生なとが年礼などにあるかれ、あまり俗すぎたと云よふであったが周詳からなり。これ道理を見たものなり。あぢにさへた様な、却て快活てはな井もの。事を畧すと、畧す処に道がかけてをるゆへわるい。(小学嘉言74)

石原先生の云ふとをり、行水をするときは大名もわれ々々も同じことと云へり。(小学嘉言77)

味池儀平はきれぬよふな人なれともよく尋思ふたゆへ、あの大口ちな彦明が死た後迠儀平様々々々と云ふた。とかくきよふでをさぬことぞ。(小学嘉言88)

幸田翁が、をれはとかく外篇をよむ。外篇がよいと云はれたが、そふであろふぞ。外篇は手近ひことで高くもなる。若い御旗本衆にきかせるによ井筈ぞ。それは幸田の仕覚へたものなり。(小学嘉言91)

當所なども迂斎や石原先生か居らるれば化するが、某などか居ってはつんぼほども化せぬ。こちに道德のな井ゆへなり。(小学善行18)

先年高木甚兵衛が靖献遺言を講するとき、楚屈平と云ふを読に、ををきな声でにぎりこぶしをして、楚た楚だ、この楚の一字が屈原かあたまのぎり々々から足のつまさき迠楚でかためたと云ふた、と。よい弁ぞ。(小学善行29)

若林新七は甚た道を任ずる人て豪強やっこなれども、親孝行で母の月代をそりてやったと云ふ。さかやきをそりたと云ふをみれば、若林が母は比丘尼と見へる。母がああ迷惑しゃ、こなたの様な大儒先生になって人の尊ぶに、さかやきをすらせると云ふたれば、若林が、はてそふ云はしゃるな、いつ迠そりてあけたいとてもなりにくひと勝手で云ふを聞ひたと續話にあり。(小学善行37)

野沢十九郎、前漢より後漢によい人が多ひと云。人の言はぬことなれどもよく見た。前漢の人は規模の大ひゆへ後世よく人も知り、後漢の人は小ぶりゆへ知る者少なけれとも、道理のじっしりとした方の垩賢の心に叶ふた処がよい。東漢の名節と云もそれなり。(小学善行58)

竹原が増山侯を浪人して引込んだときに具足も鎗もあるが、はや其日から木綿ものになりた。大抵なものはならぬこと。(小学善行78)
 

近思録講義より

會津公が柯先生に逢れぬ前に、仁愛之有味智蔵之無迹と云ことを合点されたほどな人なり。そこで玉講の附録も出きた。夫に大方大事な朱語はのせてある。柯先生のなされたことなれば、ここに遺恨はない。(近思録序)

高木甚平でかありた、(目録は)道学をよこたをしに見せるのじゃと云た。よい弁ぞ。(近思録目録)

幸田子が、学者は凡夫にない人欲あると云へり。訂斎もいこう賞美せり。学者は悪業が入てさま々々に非を飾り、又は先生ぶりたがる。皆心身の病。やはり、人の爲の費なり。(近思録道体1)

(原始反終、故知死生之説について)、石原先生、溝口矦でここを話すに、氣さんじなと云へり。これで主しの學問が知れる。ここの味、石原先生などの外は知らぬことなり。すっはりあらい上けた見である。(近思録道体1)

會津の中將様は三子傳心録をあまれて、此書のあんばいのすんたものが當時日本にあろふかと仰せられたれば、柯先生の、備前の福山におる医者永田羪菴でござると答へられた。其後會津公のたび々々羪菴は息才か、羪菴は無事かと問れて、さて、ゆかしがられた。(近思録道体16)

幸田栄治郎殿の不幸も善太君の不淑と云計りてもなく、吾黨にも不幸ひと云ほどのことじゃは。…今日道体の咄さるる人と云は拂底なり。されは栄治郎殿の不幸も道体沙汰になっては、吾黨で木村長門が死だと云ほどのことなり。(近思録道体16)

いざさらば心くらべん秋の月の清き流れを照らすすがたに、と訂翁のよまれた。(近思録道体19)

石原先生、水稽古するもの板や瓢箪て習へとも、それ者はいらぬ。真桑瓜と小刀を持て游く、と。某なとは直に死ぬことなり。瓜をむきながらをよく。そこか名人なり。(近思録道体21)

此村の酒取りをやぢがあの愚で大智の小野﨑先生に似た。これもえんのないことはない。氣は理のあらはれたもの。なんでも一つさへたことあれば、をのづと皃の似ることもある筈。やはり禽獣の一線路の明と同じ意なり。あの老爺が、くいものはなくても庭へ花を栽てながめるの、大尽の処へいっても中々飯は喰ず酒をばのむなどと、ただの日雇取とはちごう処のあるにて、舎人殿にも似たであらふ。これ氣上の論なれとも、理に筋のあること。(近思録道体40)

小野﨑先生、人か立ていそうもないものなれとも、生た氣でいるとなり。人も生た魂魄あるゆへ、こうして居らるる。(近思録道体44)

そふたい先軰の氣象も色々あり、直方先生や迂斎は大まかで細にむつかしきことなく、何事もそれでもよいわと云。其流れで、をらや幸田君などはどふでもよいと云方なり。浅見先生などは、中々手前の見た処から出ぬことは人がなんと云てもうけぬ。小市や行藏などもはりひじて、めったに人の云なりにはならぬ。(近思録道体49)

小市や宗伯が未発之愛と云ことをかれこれと云たが、あれはこだわりぞ。未発の愛の愛は情なり。未発と云で、それが内にをるときぞ、それは性なり。その性はまだ情に発せぬから未発之愛と云たもの。未明と云はあけるものをもっておる意。また夜のあけぬ内は未明と云様なもの。それから出て情となりては、初手のくらい中にあるもののあかるくなったのぞ。内におるときは性、そとへ出ると情。それはどふしてと云に、つまり一つものなり。(近思録道体50)

為るの字は、一と張りりきんだ文字なり。高木甚平が、為学の為の字が有為の為の字じゃと云ていきりて講じたときく。若軰なやふなれとも頼母しき意あり。今の学者は魂にきり付ぬ。そこでのっほりとしておる。火事塲に火消と同し装束で見て居る様なもの。火消と、只そこにをるものとはちごう。外か目は一つことなれとも、心で違ふ。(近思録為学1)

うか々々世間なりの学問をして、垩人に至られやうはない。したくしなをさ子ばならぬ。某、近来度々新発田の学友へ学問をしなをせ々々々々と云てつかわしたはここなり。(近思録為学3)

吾黨に栗山源助や鵜飼金平、あれほどの人才なれとも文章だけ、道学の根入が浅いぞ。(近思録為学3)

宇井小市が、火事のときにはたとへ足は靜に行ても、心が靜にないと云た。(近思録為学4)

杦森養德が、あの人は腹に墨気はないと云た。俗人も明德を天から下されたなれとも、飯斗り喰て論語もよまぬゆへ、墨気かないと云た。(近思録為学9)

板倉佐渡守殿、諸司代の時、眼を子ふり、茶臼を挽なから訟を聞れたと云は理をみること。茶臼を靜にひけは理も聞へ、眼を閉て居れば顔てにくいやつかない。(近思録為学10)

明石宗伯か幼年の時始てこの講釈して、脩辞立其誠と云は巧言令色とは違ふと説出した。十二歳はかりの時そ。あれも大抵のものてはない。(近思録為学16)

求道迫切なものは、先つ直方先生の弟子で天木善六、迂斎の門ては行藏、三宅の門ては留守希斎でもあろふか、其外はみぬ。(近思録為学17)

小野﨑子云、門柱の大ひ処へ欠込たかると云はれた。このやうな人は、それと云ふと了簡か替る。堺町の役者がどこと云ことはない。金の多ひ方へ行ふと云。あれらは其筈のことそ。(近思録為学39)

伯樂か馬を相するもちらりと見た処て、この馬は名馬と云。書を讀むも、文義は少々づつわすれても、うんと呑込処があれはよい。石原先生か輕くたとへて云はれた。道具の目利するも、一目見るとこれはよい、これはわるいと知る。何返か見て心元ないと云は、いくら見てもやくにたたぬ。(近思録為学41)

澤一が飯を喰ふに、これでは天理、これからさきは人欲と吟味したと云は眞妄をかへりみたものなり。女房を可愛かるは天理なり。そこを天理自然の別か好色かと吟味すへし。よくみへてわるいかある。君へ忠節も心へ問て見るかよい。少とでも禄のことか手傳ふ、妄なり。(近思録為学42)

先輩の云、きれのない小判はどこでも通ると云。(近思録為学43)

沢一が似せ金を鉄槌で打碎ひて微塵にして指でひ子るほどにして、むむ、これで心よいと云たなとが、日比の言忠信行篤敬とつり合ていこうよいこと。某が、沢一は管仲が上へ行くと云もここぞ。管仲は天下を胴がへしにする器量なれとも、言忠信行篤敬と云塲へ成ると、あのざっとの坊に叶ぬ。垩学はにぎやかはない。(近思録為学43)

先輩の、苧柄で千疂鋪を作ては立ぬと云れた。弘而不毅なり。(近思録為学48)

直方先生の、今日の学者は、学問はさても面白ひと云ふは知ぬのそ。中々大抵な苦労なものてはない。何たる因果て学問を初たやらと云か知たのなり。迂斎の初て三宅先生へ見へたとき、若くて何心なく学問したく思ひた。とふかああ学問と云ものは殊の外大義なことしゃと云れた。三木治郎左ェ門を顧て云るるに、をいらか最中こまりて居るのに、此若いものまだ艱難を経ぬゆへ何のことなく心得ているてあろふと云はれた。小野﨑先生が例のいたつらに云へるは、十左ェ門様や石原のをかけて、わるい仲間へはいってせつない目をすると、をとけを云た。この諸先生の口上、皆峻ひ処の覺ありて云たもの。をれはせつなくないと云は役に立ぬ。(近思録為学53)

訂斎先生も医者の子なり。学のために医をやめた。あまり貧乏さに一と年又医者を初たれば、其暮には金がよほど出来た。是ては学問がみんなになると云て、翌春から医をやめた。これ、尚翁のあとをつぐ魂ぞ。今の学者は金の出来ぬてやめるそ。(近思録為学57)

若林が、放伐を尤とゆふ其人は何に付ても心元なしと云てせわをやいたか親切な様で、却て戒にならぬ。尤と云てすれば似せ金。似たことをするから用心もあろふか、權道などは学者の似てもよらぬこと。一寸借りたものを返ずにさへ不埒に成るくらいで、中々權道かなることか。今学者に入らぬ戒そ。(近思録為学65)

石原先生、洗湯の帰に笑て云るるに、歴々も軽ひものも洗湯ては同こととなり。大名は二本道具、轎夫は艸鞋なれとも、裸になりたときは四支百骸貴賎替ることはない。天地を父母と云からは、同ことなり。(近思録為学89)

頃日、幸田栄二の不幸を木村長門か死ぬほとにをしひと云も、此人少年の時より不逆於心と云づんありしなり。(近思録為学89)

迂斎の門人にも、あの酒呑の幸田善を石原濱町二先生ともになせ称せらるるやらと云やふな顔で居た学者ともありた。ここらは別に見処ありのこと。(近思録為学89)

永井隠求先生はもげた人のいこふ識趣高寄な人なれとも、佐野の源左衛門が畫を書て壁に張っておいたはけなげなと警策になりた。(近思録為学94)

大高坂清助が少年のとき、椎の實を穀ごと喰ふ。一とほふばりにする。人がそれを笑ふたれば、学者はひまをとりてはをらぬと云た。後によほどにはなりた。(近思録為学94)

瑣細なことても訂斎なとのは違たもの。或時、茶碗なを買て袖の内へ入れて來て、内へ入なから猿戸にあたりみりりと云たれは、ひょいとあとへほをって見向もせなんた。八十のときに京都から花見にこいとて、某か所へ云ておこした。やっはり御手前の心の大な処から出た。こふした元氣なり。爰が活た処なり。(近思録為学103)

土浦の原田源左ェ門、庄内の今泉十兵衛なと、用先からも諸友に會し、原田なと一六にも濱町へ来た。講釈を三座闕けは、此頃は閑断と云。尤闕ぬから見れば閑断なれとも、其より心か闕ると帳靣向きは済ても心の閑断を知らすに居る。麥を蒔ながらも学問はあかる。(近思録為学104)

彼沢一が紅葉を見ては心喪てないと云た。心の字を云ぬいた。鰺の干物を喰ても心喪の邪魔にはならぬか、庭の牡丹を樂んで見るがわるい。樂みに付は心喪てない。(近思録為学104)

大名の儒者と云へは、学問は家業そ。なれとも請合れぬ。直方先生の弟子、三宅の門人ても大名の儒者役を勤め、或は浪人て教授してをるもあり、それでもたぎらぬかあり。小野﨑舎人の、長谷川観水のと云は佐竹や伊豆公の家老中老なれとも、迂斎や石原先生に並ふ列坐なり。(近思録為学104)

上から、学挍の師がないからこいとありても辞退をする筈。むさと出られぬ。それに吾手から学挍立るなとを学者の役のやうに思ふは穿鑿なり。昔年、一学者が大橋の学舎のことを、石原先生のかぶり觸れたもこのあやなり。(近思録為学106)

若林が、放伐を尤と云ふ其人は何に付ても心元なしと云へり。(近思録為学108)

予少年のとき、渋谷意斎に茶のことを難問したれば、三年ほど立つめられよ、三年すれば知ると云たは尤なり。訂斎先生の、梅の木になま首がなろふともかまはぬと云がここなり。(近思録致知5)

(「固守之」について)石原の語録を大学殿火事のとき、權平が下女が途中ですてた。大切なを知らぬから、これよりも旦那の羽織の一つもと云てつい捨た。石原録一冊ぬけたはあのときのことなり。知れは中々家財を賣拂ふともはなさぬ。(近思録致知8)

某し舅の武井三左衛門は、学力は甲斐なかったが道理を感ずる方でづんと器用はたで迂斎も称したか、袗絺綌必表而出之、この文義を一寸々々とすめぬとて聞れた。疑を闕てをいて、後は何のこともないことをと大笑した。(近思録致知10)

槇七郎左衛門が直方や淺見の若ひとき、各々必經学知りになるなと云へり。(近思録致知18)

京の学者がさま々々こまかに議論をつめたれば、舍人殿が、をりゃ儒者ではない。壹岐守が家老だ。そんな細なことは知らぬ。ゆるしてくれろと云た。議論はのび々々とするでこそよけれ。直方先生が、うつらぬ学者と咄すは疝気の毒にて候と云れた。(近思録致知26)

訂翁の詩經の講釈のとき、通りを歌ふてあるくをも詩と云はるる。ありなりか詩の詩たる処なり。(近思録致知43)

若林が、権道を尤といふ其人はなににつけても心元なしと云も尤なこと。(近思録致知64)

牧七郎左ェ門が、經学者に成れ、垩学知りになるなと浅見佐藤二先生に云た。これがいこう警発になりたと二先生の度々云れた。(近思録存養7)

會津中將公の、論孟は腹の立れぬ異見をきく様なものと云れた。(近思録存養8)

若林の靣白ことを云た。若林の学問の手に入たと云も爰らて看へる。あの奴な人て、親の喪にも小身なものは食事して掛るかよいと云へり。家礼三日不食とあろふとも、茶漬ても食へとなり。あとに大事があるからと云た。礼を主張する学者は三日不食云をしてか、それもよかろけれとも、小身なものは手づからするゆへに三日食ぬては松脂もかけられぬ。穴も最ふ一尺と云処で掘りさすものぞ。精かなけれは一大事の本意遂られぬと云は、あの喪礼の心得にさへあるそ。(近思録存養11)

宗伯か礼者で威義正しかったか、敬を事となして手に入らなんた。そこで宗伯が通ると市井のものか、あれ勅使か通ると云て俗人に馬鹿にされた。(近思録存養16)

若林が、未發を氣なしに扇を遣ふやうなものじゃと云へり。握りつめも落しもせぬ。すら々々することそ。(近思録存養17)

訂斎の余り貧窮ゆへ、一と年医者をしたれば金も出き、暮の仕舞もよかったとなり。そこでこう金が出きてはらりじゃと、ひしと医者をやめた。尚翁の道統なり。訂斎なとのやうなを實に道統と目の付でなければ存養は讀れぬ。學者が詩文も出来るとて喜べとも、それはやはり女の紗綾ちりめんのたち縫も出来ると云様なものぞ。縫物が出来ても不埒なものは女房にされぬ。不埒と云は心のことなり。そこで、心によこれをつけぬやふにするを第一とする。存養なり。(近思録存養24)

八右ェ門が弟平治郎か、溝口候の臣、幸田善太郎殿の花見を花に照合と云ふ。幸田子がこさ々々の欲なく春むき、日の暮るも知らずに花を見てこせ々々せぬ底か輕ひことのやふで大なことなり。(近思録存養29)

垂井の市原主助か方に垩像と訂翁の像ありたを某云に、孔子は四書ですむ、足下は垩像より訂翁の像が上へ行くはづと云れたれは、彼もいこう感心した。(近思録存養41)

立己は大まかがわるい。とかく孔子の道と出たがる。行藏も晩年の号があしし。どふやら古義堂に似てわるい。溝口公の学挍を道学堂とつけたは、孔子めき、まきらをくわせぬ為なり。(近思録存養41)

某若林が扇をつかふたとへを毎々ほんそうするもこれなり。若林も殊の外あれらで学問がよくきこへる。合点した云やふぞ。扇を箱へ入れてしもふてをくことを未発と見たがるが、それでは扇をころしてそこを未発と見るになる。人と對して話をしてをりなから扇をつかふ。それ、扇とも云はず手は動く。そこが未発なり。死だ人の様に未発を見れば、中庸の心法役にたたぬになる。未発はさへきってをこらずにをることぞ。扇はうこいても、心はうこかぬて靜なり。(近思録存養52)

土井利延侯、常に迂斎の講釈をきいて感心しけるが、この章に至て講後だまりてをらるるゆへ、迂斎のすまぬかと思てこの章のことを云たれば、氣の毒そふにをれは夢と云ことを知らぬと云はれた。氣質で見ぬでもあろふが、至てしづかなことなり。(近思録存養54)

直方先生の靜坐の説を若林のわるく云れた。強斎は神道に流れられた。夫と云も、あの高邁な生質に心法のつよい方からであろふ。あの衆の神道へゆくなぞが並みのことではない筈。さて、心法の工夫のつよいにしては、直方の靜坐の説は上もないよいこと。夫をわるいと云れた若林の意、これ計はとんと某もすめぬと思ふぞ。ただ俗儒の靜坐を異なこととするとはちかふべし。疑へきことなり。(近思録存養62)

訂斎の俗を脱せよ々々々々々と云はるるが尤なこと。学者も人欲がぬけぬから、やはり俗の通りか不意々々と出る。をらなどには俗習はないと思は浅見先生の所謂筭用ちがいなり。吾黨の学者が俗学よりは人に憎るるが早ひが、まだ憎まるるなどに俗習が脱せぬぞ。其証拠には、何ぞと云と義理がさへぬ。心に人欲があるからやはらもする。まだ外人からにくむは早ひぞ。(近思録存養64)

永田養庵を誠意の功夫したと云も、予期をたつに至た人なり。あるとき疂が破れて見苦しいゆへ、門人が師につげては合点せぬゆへ、師の留主にとか々々依て疂かへをしたなり。時に養庵歸りてこれを見て、ほほを蚤が居ずによかろふとなり。今日の人なら其事數々言へは、それは執着かあるからなり。迂斎も諸矦へ出て美味なと喰た咄を娵などへするてない。さても執着はなかった。石原先生の父は茶の湯の名人なり。料理は先生手傳はれた。至てよくしったは知た。それても曽てのそみなし。咽へは別に通る。寡欲なり。(近思録克己2)

石原先生が面白こと云た。何ほと大名でも雪隱は三尺四方でよい筈と云れた。(近思録克己6)

野沢十九良の、前漢より後漢によい人が多ひと云はれた。(近思録克己7)

唐彦明が、断次良か義論をするは千両屋鋪を取上けらるる様な面つきだと云た。今日の人は玉と玉との出合の様で役に立ぬ。某抔精出す時分は小市や行藏か大音て義論をする。隣屋鋪て立聞する程て有たそ。(近思録克己15)

迂斎の頃は節要の會にも観水翁の丸いに多田先生の温潤、其れに野沢のあらひいじはりて咄も面白かりた。(近思録克己15)

荻野庄右衛門か、くらやみがこわくは毎晩くらやみへ行がよい、しまいにはこはくないものだと云た。小野﨑先生の咄に、氣痛のものが至て頭が痛んて頭へ手をつけるな々々々々々々と云たに、或人が頭をむりに押へてしたたかこつってやりた。それから頭の痛やみしとなり。よい療治そ。其から直ったなれば、理外のやふなことなれとも、氣を相手にしたことは手ひどいがよい。文義のすまぬは手ひどくしてもすまぬなり。(近思録克己16)

訂斎先生か若ひ学者へ俗を脱しろ々々々と云れた。役に立ぬやうなことなれとも、あそこか訂斎先生の豪強な処。俗を脱すれはずっとゆくとみたなり。(近思録克己37)

会津中將公の所にてやあらん、故伊豆侯の山﨑先生へ御咄に、天から明德を下されておるゆへ天下の公事をさばくと云たれば、先生の、其明德の鏡で御手前を照すがよいと云れた。(近思録家道1)

先存養克己をした人は山﨑浅見佐藤三宅、この四先生なり。迂斎石原二先生迠は存養克己した人なり。小市や行藏なとも少とはした。(近思録家道1)

直方先生の門人武井十兵衛、某か伯舅なり。大ふつよい男なり。娘を片付け少とかれこれ婦女の内から云たことあるを、十兵衛雷のやふな声で、あそこを出るとよせつけぬと云た。そこで目出度さかへたなり。(近思録家道6)

学友の来たとき馳走するか雜佩以贈之なり。長谷川觀水翁の内室なとは学友のいたとき甚馳走せられた。是を天木時中か例の大声て源右衛門殿の内方は雜佩以贈んじゃ々々々々と詩を誦せられしよしなり。(近思録家道17)

訂斎先生に某初めて御目に掛ったとき、先師の断治か、奥山を々々々と尋るか、やがて里へ出るてあろふと申された。貴様などもそふで有ふが、やがて里へ出よふそと云はれた。只太極阴阳の吟味はかりして面前三尺のことを知らぬはつかへる。(近思録家道21)

若林玄朔か、身代は少成に安んじ学問は小成に安すべからずと云ふた。玄朔一代の説そ。此ことを彼か墓表にも記しをくなり。(近思録出處33)