黙斎語録-浅見絅斎のこと

小学講義より

浅見先生の彦根の家中の人へか申さるるに、学問せぬと主をとり違へるものと云われたれば、彼の人いかに学問せぬとて我々式も相応に小禄をも蒙りてをる、主を取違るとは先生の仰でも余り情ないことと腹立ちそふに云ふたを、先生の、いやそうでない、常はとり違ひぬが、乱世になると取違ることのあるぞと云れた。(小学明倫題下)

浅見先生の、鼻紙に親の名を書てをくとふまれぬと云はれた。(小学敬身題下)

鄙と云はさもしいけひたことと浅見先生の云はれた。道理にはつれたと云ことでもないか、さもしい下鄙たと云か凡夫のすかたなり。此頃は銭か三文こさらぬと云はあなかちこれがわるいてもないか、君子のよばぬ口上なり。(小学敬身8)

浅見先生か、辞と云ものは由しないことを云かわるい。くづか出ると云た。(小学敬身23)

浅見先生の御弁に、身のしっかりとかたまることしゃと云へり。礼かないとどふも不丈夫なり。迂斎先生か靣白ことを云た。礼のかたしけなさは柱にくさひのあるやふなものしゃと云へり。柱を吟味して丈夫なぬきをとをしてもきし々々する。そこへくさひを打としっかりとなる。又迂斎先生の弁に、礼かなけれはたたまぬきるものを見るやふなものと云へり。たたむとしっかりとなる。(小学稽古3)

浅見先生が、雁はうぢになりても北へとぶと云はれた。それほどな処が志のとほりぬけたもの。(小学稽古23)

浅見先生の方で新米振舞と名を付て、此月(9月:季秋)に两親計り祭られた。(小学嘉言21)

仏法の中国に来たもづんと後世のこと。中州は後漢の明帝、大倭國は欽明天皇の時に海舶したそ。それより前死して蘇たる人夛くあれとも、一人でも地獄へ行た話はきかぬ。十王は閻魔の下役じゃと浅見先生の弁なり。これを見たものない。これらはよく考てみやれ。どふもある筈はない。…出家も是を信じはせぬ。是を信ずる位では出家ではない。(小学嘉言26)

浅見先生が、ゆきをそろへずかたまへさがりにきものをきるは整斉でないと云はれた。(小学嘉言65)

浅見先生はあのとをり恪実な人なれとも、或る時云はるるに、計較按排あってしそこなわぬこともあり、計較按排なくてしそこのふこともあるが、按排なくてしそこのふた方かはるかよいと云へり。(小学嘉言72)

きみのよいと手抦にするではな井が、浅見先生などの食ひやふでもそれ。女め井たていはな井。若林が持参の餅を一口にされたとなり。古人は元気がさかんゆへ、鱚とあ井なめ湯取飯と云ふやふなことはない。このよふなことが学者にはないはづ。(小学嘉言78)

天地が夫婦と云は、地は天をかへたことはな井ゆへ、人間も夫とを二人もたぬはつなり。なれとも源氏伊勢物語を見てそれから好色に導びかれ、この道体なりの本心がなくなる。伊勢源氏はふらちの媒になると浅見先生云へり。(小学善行27)
 

近思録講義より

淺見先生の、天なりの垩人、垩人なりの天じゃの、垩人は形ある天、天は形ない垩人じゃのと云はるる。(近思録道体1)

大学の入口始めの処は知かさき。知て無ふて何を行ぞ。浅見子の、行ひは知より向え一寸も出ることのならぬものと云はそこなり。(近思録為学6)

浅見先生の、行ひは知の先きへ一寸も出ることはならぬと云。(近思録為学54)

淺見先生の、あれこれやとしてあたるよりはずっとして仕そこなふたが心持がよいと云れたと、若林門人の録に云てある。(近思録為学77)

(「警策」について)淺見先生の、ひたと立直すことじゃと云れた。(近思録為学94)

警策せ子ばならぬ。さうないと淺見先生の所謂古ひ紙子の破れる様に、音もなく死でしまふぞ。(近思録為学94)

仁斎が朱子のことを深く考へぬと云たを、淺見先生の、朱子の処の小丁稚も笑ふであろふと云へり。(近思録為学107)

絅斎の、心に一つ別に敬むと立て云ことはない筈、と。尤なことなり。(近思録存養18)

浅見先生、垩人は肉のある天と云。(近思録存養40)

浅見先生の、無學なれば主をも取違へる、と。そこて何処の家中か服を立、私ともも相応に知行をも取てをれとも主を取違へるとは偖々得其意ぬと云たれは、淺見の、されはよ、太平の世にこそ何こともなけれとも、乱世になったらどれか主かしれまいとなり。(近思録出處)

浅見先生の、すっと出てしそこなふたより考てよいことをした方がわるいとなり。これは面白ひことそ。ずっと出てわるい方が増しなとと見ることか中々只のものの見られぬこと。よいことでも計較安排あれは本のことてはない。(近思録出處26)

某年記を録する中、諸先軰の道德を書に淺見先生のことを如磐石と記した。子ぶかわ石のやうにづっしりとしたと書た意なり。あの先生なとを改めて何にもほめることはない筈のやふなれとも、子ぶかわ石のやふて、君子用れは行ひ、すつれはかくるなれとも、出處はすなをながさん々々わるい。(近思録出處35)