稲葉黙斎語録-三宅尚斎のこと

小学講義より

三宅先生が木曾道中で人足のどや々々するを駕の中に聞ていて、なるほと無敎近禽獸じゃと云れたとあり、あの質朴の岐岨道中のものに、こみ入りたわるさのあろうはづもない。(立教5)

三宅先生があの貧究で、子のないことをいこうなげかれた。晩年一平が死で其後迂斎などへ、ああ先年妾を買ふ塲であろうものをと度々云はれたとなり。(嘉言41)

三宅先生が、食はれすはしほせんべいをうろうと云はれた。これがよいことぞ。近年はこれが今へむくとて学問をあわせるはわるい。(嘉言60)


近思録講義より

三宅先生の、垩人は道心計て人心はないと云。中庸の序ではさし合なれとも、そふなり。(近思録道体1)

(生之謂性について)、いけるむまるるの兩訓あれとも、意はむまるると云か迂斎の説なり。とと朱説かそれ。扨、其上に至極をつめたか三宅先生の説なり。生の字は氣のあつまった名と合点せよと云、これか我定説と、晩年に訂斎先生を呼て云へり。氣と片付て、氣のあつまりたことゆへ誤ないと云。これか生活生出をこめた説なり。(近思録道体21)

三宅先生か、垩人は道心計りで人心はないと云たは内へかぶれぬ理なりを云たこと。垩人もひだるいと云こともあれとも肉へはかぶれぬ。(近思録道体38)

天地の氣はどこ迠も坱然とみつ。彼の鼻の穴の処なり。そこを三宅先生、大釜の蓋をとると湯氣かもやり々々々と上る処と云へり。(近思録道体43)

三宅先生の云はるるに、感するが心の役。感ずるものをすてぬがこちの工夫しゃと云れた。感而遂通るが心の妙なり。(近思録為学4)

虚意で高ぞれを云を、三宅先生の幽灵学問と云れた。下はないと云ふことぞ。(近思録為学73)

直方先生は江戸俗人の利害へ這い入っている人を教るゆへ高くしこむ。三宅子は京の手前の学校てしこむゆへ、じりんから仕込む。向の相手次第て仕込方は違ふそ。今此中に高それる人のないは、夫迠の力らのないのぞ。(近思録為学73)

三宅先生は京都にて怪物屋鋪と知て住居にされたよし。それを君子の所置でないと評した書あり。近来見たなり。しかしこれは其節大ふ困究であったて地代や賣すへの安ても有たか、先生が住れて後は果して怪物も出なんた、と。こちか知か明て曉きって居るのてどふも出られぬ。(近思録致知16)

三宅先生、易くはし。あの以上は數がしるる。忍の獄中にて洪範の占をして見たれば、近ひ中に出窂すると云ことがしれたとなり。そこで出窂の日などは、定て今日は追放になるてあろふ、道中食事にこまるてあろふとて朝飯をのこし、握り食をして置れたそふな。果して其日にゆるされた。されとも入らさることなり。明日のことは今日知れぬと云てよいことそ。三宅先生は邵子にして別のことなれとも、其費からして、もふ弟子には早をかしいこと。迂斎の新婦早死たれは、これも初に占をせぬから如此不幸ありと云たぞ。これも卜筮を主張するから此様なことを云そ。中庸の前知は理てしること。養生をするから長生をせふと云まてのこと。理はひやすてよい。大酒すれは死と理て云なり。伊川先生や南軒のやふにひやして掛るてよい。爰らは大きな致知そ。(近思録致知50)

三宅先生なとも剛陽之臣なり。実の深ひ人なれども、程子の此語を思ひ出す間かなかりたと見へる。忠義の心がするどに実心か勝たゆへ、知見の出る間かない。ちとするど過てあの禍にあわれたが、三宅先生は禍にあへはあふ程忠誠は光れとも、道理の上からは又此心へなふてはならぬことなり。白萑録のなりが晩年德熟されたらは、又別なるべし。(近思録家道3)

成たけ困究を防き手當をする。餓死が手抦てもない。どふなりとして妻子をはこぐむ道を尽す。筆耕でもするか、肩がつよけれは荷物をかづくとも當然ぞ。三宅先生も塩煎餅でも賣ふと云はれた。(近思録出處13)