訓門人開巻講義序
迂斎先生曰、享保丁酉秋、佐藤先生令德勝・行達・正義読訓門人。豈其無意乎。先生乃言、朱子教人之明訓、語類・文集無所不至矣。而於此篇則其尤喫緊切當者、亦愈夫就経釋義之、或不盡其餘意十分處者也矣。昔日永田養菴從山﨑先生有日、命之以此而後幾得力焉。汝等冝相與講究之。三人同拜其命。今秋狂郎君遠訪函丈。函丈為講訓門人大意。同帷惟秀録之為詳細。因冠其録如右。又取當時諸老先生會約置其首、使讀者知所從來云。
  寛政元年八月十三日
              鵜澤恭節識

【読み】
迂斎先生曰く、享保丁酉の秋、佐藤先生、德勝・行達・正義をして訓門人を讀ましむ。豈其れ意無からんや、と。先生乃ち言う、朱子、人を教うるの明訓、語類・文集に至らざる所無し。而して此の篇に於ては則ち其の尤も喫緊切當なる者にして、亦夫れ経に就き義を釋き、或は其の餘意十分なる處を盡くさざる者に愈 [まさ]るなり、と。昔日永田養菴、山﨑先生に從う。曰える有り。之に命ずるに、此を以てして後に幾んど力を得ん。汝等宜しく相與に之を講究すべし。三人同じく其の命を拜す、と。今秋狂郎君遠く函丈を訪う。函丈、為に訓門人の大意を講ず。同帷惟秀之を録すること詳細為り。因りて其の録を冠すること右の如し。又當時、諸老先生の會約に取りて其の首に置き、讀者をして從來する所を知らしむと云う。
  寛政元年八月十三日
              鵜澤恭節識
【語釈】
・享保丁酉…享保2年。1717年。
・德勝…野田剛斎。名は德勝。七右衛門と称す。江戸の人。本所石原に住む。石原先生。明和5年(1768)2月6日没。年79。佐藤直方門下。三宅尚斎にも学ぶ。
・行達…永井行達。号は淳庵。隱求、三右衛門と称す。江戸の人。元文5年(1740)7月28日没。年52。一名は誠之。佐藤直方門下。
・正義…稲葉迂斎。名は正義(正誼)。十左衛門(重左衛門)と称す。江戸の人。稲葉黙斎の父。宝暦10年(1760)11月10日没。年77。佐藤直方門下。淺見絅斎、三宅尚斎にも学ぶ。
・永田養菴…字は在明。備後福山藩儒臣。山崎闇斎門下。
・狂郎君…鈴木狂二郎。稲葉黙斎の従姪。江戸の人。
・惟秀…篠原惟秀。本姓は北田。字は秀甫。初名は安進。與五右衛門と称す。号は靜安。幼称は松次郎。東金市堀上の人。北田慶年の弟。文化9年(1812)2月15日没。年68。稲葉黙斎門下。
・寛政元年八月十三日…1789年8月13日。
・鵜澤恭節…鈴木恭節。字は子長。長藏と称す。大網白里町清名幸谷の人。鵜澤近義の第三子。館林藩儒臣。文政13年(1830)11月10日没。年55。稲葉黙斎門下。


訓門人開巻講義題言
諸老先生訓門人會約
一、毎月四日、十九日為集會之日。
  但、直日有故、別定一日、必充二會之數。不可少一矣。
一、先軰一人為會正。
一、集會者、巳時至、至晡乃退。既集、以入會之次為序。就坐拜會正。退時亦拜如初。
  但、有故者、雖會未既、告會正許退。
一、有故不至會者、以其事可告會正。
  但、無故而三不至者、告會正出約。
一、饋餉各自裹之、酒肴之類不可具。
  但、會之始及終並歳首歳暮許酒三行。主冝設之。
一、入會者、訓門人日冝熟讀。一二條、或一二版。集會之日、質疑講習討論必究于一矣。朋友講習之間薫陶德性、文意不可忘矣。無用之雜言不可発。
一、毎日夙起、盥漱、束髪、拂拭几案、危坐可讀此。
一、歳首歳末之會及初會終會可着上下。
  但、朔望着袴可對書。
一、同約之人、互傾倒而可規過失。小則以書譙責之、大則可面責之。
  但、三責而不悛者、告會正聽其出約。
凡垩賢出世生時、教人不過三五十年。而其教訓・嘉言布在方策者、則人萬世之達、極天無墮。假令垩賢存于今、盖亦不過以此言教之、則奉而讀之同堂面命、豈有異乎。然其書雖存、或不能讀、雖讀無得之己、則雖與聖人共居、不能化而入矣。吾人既得讀之、何幸如之。其得不得之己、則吾人正在自己立心之實不實而已矣。集會之人實求古人之所至、務古人之所為、不貪利禄而貪道義、勇猛奮躍切己之功夫不可少間断矣。若游戯怠慢無行實、雖令他人不知之、何有顔面對同約諸賢乎。且知其無行状、人將謂程朱之學徒如此、其道何足以學。是則得罪於往垩之甚者、而為同約諸賢亦罪人也。而諸賢亦可得其辱矣。各冝謹守之。雖嫌疑之間、不可忽。因要約如此云。享保十七年壬子七月四日。恭節按、此冬先生生。
【読み】
諸老先生訓門人會約
一、毎月四日、十九日を集會の日と為す。
  但し、直日故有れば、別に一日を定め、必ず二會の數に充つ。一を少くす可からず。
一、先輩一人、會正と為す。
一、集會の者は、巳の時に至り、晡に至りて乃ち退く。既に集まれば、會に入るの次[ついで]を以て序と為す。坐に就きて會正を拜す。退く時も亦拜すること初めの如し。
  但し、故有る者は、會未だ既きざると雖も、會正に告げて退くを許す。
一、故有りて會に至らざる者は、其の事を以て會正に告ぐ可し。
  但し、故無くして三たび至らざる者は、會正に告げて約を出す。
一、饋餉は各々自ら之を裹[たずさ]え、酒肴の類は具す可からず。
  但し、會の始め及び終わり並びに歳首歳暮は酒三行を許す。主、宜しく之を設くべし。
一、會に入る者は、訓門人日に宜しく熟讀すべし。一二條、或は一二版。集會の日、疑を質し、講習討論して必ず一に究めよ。朋友講習の間は德性を薫陶するも、文意を忘る可からず。無用の雜言は発する可からず。
一、毎日夙に起き、盥漱、髪を束ね、几案を拂拭し、危坐して此を讀む可し。
一、歳首歳末の會及び初會終會は上下を着す可し。
  但し、朔望は袴を着して書に對す可し。
一、同約の人は、互いに傾倒して過失を規す可し。小は則ち書を以て之を譙責し、大は則ち之を面責す可し。
  但し、三たび責めて悛[あらた]めざる者は、會正に告げて其の約を出るに聽かす。
凡そ聖賢世に出る生時、人に教うるに三五十年に過ぎず。而して其の教訓・嘉言を布いて方策在る者は、則ち人の萬世の達き、天を極めて墮つること無し。假令、聖賢今に存すとも、盖し亦此の言を以て之を教うるに過ぎざれば、則ち奉じて之を讀む同堂面命、豈異なること有らんや。然るに其の書存すと雖も、或は讀むこと能わず、讀むと雖も之を己に得ること無ければ、則ち聖人と共に居ると雖も、化して入ること能わず。吾人既に之を讀むことを得るは、何の幸之に如かんや。其の之を己に得ると得ざるとは、則ち吾人正に自己の心を立てるの實と不實とに在るのみ。集會の人は實に古人の至る所を求め、古人の為す所を務め、利禄を貪らずして道義を貪り、勇猛奮躍、己に切なる功夫を少間も断つ可からず。若し游戯怠慢にして行實無く、他人をして之を知らざしめんと雖も、何の顔面有りて同約の諸賢に對せんや。且つ其の行状無きを知らば、人將に程朱の學徒此の如く、其の道何ぞ以學ぶに足らんと謂わんとす。是れ則ち罪を往聖に得るの甚しき者にして、同約諸賢の為にも亦罪人なり。而して諸賢も亦其の辱を得る可し。各々宜しく之を謹守すべし。嫌疑の間と雖も、忽にす可からず。因りて要約此の如しと云う。享保十七年壬子七月四日。恭節按ずるに、此の冬先生生まる。
【語釈】
・享保十七年壬子七月四日…1732年7月4日。


訓門人開巻講義
寛政己酉八月一三日  先生為従姪狂郎君講之  惟秀録
【語釈】
・寛政己酉八月一三日…寛政元年(1789)8月13日。

今日朱子學をするものが朱子の時に生れ合せたら猶よかろうと思ふ。なるほど余義もないことなれども、今更ならぬことじゃ。はて朱子にもかぎらず、孔孟にも親炙したいであらふ。親炙ほど願はしきことはなけれとも、世を同ふせ子ばならぬこと。假令ひ同時に生れても、国へだたりてはならぬこともある。既に眞西山が同時でも、つい朱子に逢はれぬ。千歳の後に生れても、朱子の書をよくよめば、朱子に御目にかかったも同前なり。論語をよくよめば、孔子に御目にかかったのなり。孟子をよくよめば、孟子に御目にかかったのなり。然れば朱子の書をよく読て朱子に御目に掛がよい。只今の朱子學は朱子の書に熟さぬから、朱子を慕々と云ひながら御目にかかったことがない。朱子に論語の集註で近付になりたは、孔子の処で朱子に落合せ、孟子の処て朱子に落合ふたのなり。語類文集をとくとよむでなくては朱子の処へ御見舞申たではない。大名衆のつき合も對客のさきや殿中での近付は懇意とは云はれぬ。懇となればその家へひたとゆく。朱子へ御目に掛るも、いつ何時でも勝手通りもなるでなくては本の懇ではない。
【通釈】
今日朱子学をする者が朱子の時に生まれ合わせたらもっとよかっただろうと思う。なるほど余儀もないことだが、今更それはできないこと。さて朱子に限らず、孔孟にも親炙したいことだろう。親炙ほど願わしいことはないが、それは世を同じくしなければならないこと。たとえ同時に生まれても、国が隔たっていてはできないこともある。真西山は同じ時だったが、遂に朱子には逢われなかった。千歳の後に生まれても朱子の書をよく読めば、朱子に御目に掛かったのも同然である。論語をよく読めば、孔子に御目に掛かったのである。孟子をよく読めば、孟子に御目に掛かったのである。それなら朱子の書をよく読んで朱子に御目に掛かるのがよい。只今の朱子学は朱子の書に熟さないから、朱子を慕うとは言いながら御目に掛かったことがない。朱子に論孟の集註で近付きになるということは、孔子の処で朱子に落ち合い、孟子の処で朱子に落ち合うということである。語類文集をしっかりと読むのでなければ、朱子の処へ御見舞い申したことにはならない。大名衆の付き合いも、対客の相手や殿中での近付きを懇意とは言えない。懇は、その家にひたと通うこと。朱子へ御目に掛かるにも、いつ何時でも勝手通りもできるのでなくては本当の懇ではない。
【語釈】
眞西山

今日學者が朱子に近付になりたいならば語類文集をよむがよい。扨、読むさふたんになりては、先つかかりが訓門人節要なり。節要は弟子と手紙の往復なり。訓門人はその人に對談で云たこと。そこで幸田君が訓門人をよめば朱子の直弟子になりたのじゃと云へり。して見れば、訓門人にとふ々々しいは朱子學でない。今、訓門人ときひて知らぬ朱子學もある。それは朱子を學ぶではない。孔孟の取次にするのじゃ。尤四書の注でも朱子學は得らるるが、節要訓門人を知らぬはあんまりな朱子學ぞ。法芲坊主の自我偈をばよんで安国論をよまぬやうなもの。それでは日蓮を尊はぬになる。孔子も篤信と云はれた。この篤信が大事なこと。歌人の名所を尋るはやれ々々と慕ふ。人足が名所を通るは慕でない。ここが須磨明石と云ふと、歌心ある人はしきに駕篭から出る。篤ければ慕ふもの。今、學者が朱子の新注がどふでもよいなどと覺へて居る。東海道も御用の序でに冨士をみる。西行はわざ々々ゆくなり。本に朱子を學へば別段にたづ子ることぞ。訓門人でなければ別に朱子を尋たてはない。尋子ても、年始寒暑に玄関から帰るはやくに立ぬ。とかく朱子の所につめきりて居て、ひたるいときは朱子の臺所て自身と茶漬を喰ふ程でなければよくない。扨、一つ咄あり。昔し永田養菴が備後の福山へ皈るに付て、国へ皈りて何を読ませふと嘉先生に問たれは、訓門人さ、訓門人さと云はれた。養菴が国て熟復して、これで學問を仕上けた。その後、直方先生始め迂斎から諸先軰たへず読んで、迂斎晩年に至て七十年来此訓門人の會のたへたことはない。今日某に従ふ者も、訓門人をよむ気のない内は朱子學の外郭なり。朱子學の囲の内へ這入たではない。節要や訓門人を読は、彼の幸田の云ふ、朱子の直弟子になりたのなり。訓門人はよまずとも朱學はなると云ものは、迚も此方の學問はせぬがよい。直き弟子になると云てきかせても好ましく思はぬならば、親切な朱學ではないには極りた。
【通釈】
今日学者が朱子に近付きになりたいのであれば語類文集を読むのがよい。さて、読む相談になっては、先ずその最初は訓門人節要である。節要は弟子との手紙の往復で、訓門人は人に対談して言ったこと。そこで幸田君が訓門人を読めば朱子の直弟子になったのだと言った。それで見れば、訓門人に遠々しいのは朱子学ではない。今、訓門人と聞いてもそれを知らない朱子学もある。それは朱子を学ぶものではない。これで孔孟の取次ぎにするのである。尤も四書の注でも朱子学を得ることはできるが、節要訓門人を知らないのはあんまりな朱子学である。それは、法華坊主が自我偈を読んで安国論を読まない様なもの。それでは日蓮を尊ばないことになる。孔子も「篤信」と言われた。この篤信が大事なこと。歌人が名所を訪ねるのはやれやれと慕うから。人足が名所を通るのは慕うではない。ここが須磨明石だと言えば、歌心のある人は直ぐに駕篭から出る。篤ければ慕うもの。今、学者が朱子の新注はどうでもよいなどと覚えている。東海道も御用のついでに富士を見る。しかし、西行はわざわざ行く。本当に朱子を学べば別段に尋ねるもの。訓門人でなければ、別段に朱子を尋ねたことにはならない。尋ねても、年始寒暑に玄関から帰るは役に立たない。とかく朱子の所に詰め切りでいて、空腹な時は朱子の台所で主と茶漬けを喰うほどでなければよくない。さて、一つ話がある。昔、永田養菴が備後の福山へ帰るについて、国へ帰って何を読みましょうと嘉先生に問うと、訓門人だ、訓門人だと言われた。養菴は国で熟復して、これで学問を仕上げた。その後、直方先生を始めとして、迂斎から諸先輩がこれを絶えず読み、迂斎が晩年に至っての七十年来、この訓門人の会が途絶えることはなかった。今日私に従う者も、訓門人を読む気のない内は朱子学の外郭にいるのである。朱子学の囲いの内に這い入ったのではない。節要や訓門人を読むのは、あの幸田の言う、朱子の直弟子になったのである。訓門人を読まなくても朱子学は成ると言う者は、こちらの学問を絶対にしない方がよい。直弟子になると言って聞かせても好ましく思わないのであれば、親切な朱子学ではないことに極まった。
【語釈】
・幸田君…幸田誠之。晩に精義と改める。字は子善。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。寛政4年(1792)2月9日没。年73。私諡は穆靖。野田剛斎門下。
・孔子も篤信と云はれた…論語泰伯13。「子曰、篤信好學、守死善道。危邦不入、亂邦不居。天下有道則見、無道則隱。邦有道、貧且賤焉、恥也。邦無道、富且貴焉、恥也」。
・嘉先生…山崎闇斎。

さて読む相談になっては、訓門人は弟子を教るに、さきの気質によりていろ々々な教へ方がある。これが訓門人をよむの眼なり。或時直方先生が跡部殿に云れたことあり。さふたい朱子の書をよく々々よんで見たならば、朱子は眞赤な迂詐つきじゃと云であらふと云はれた。面白ひ云ひ様なり。なぜなれば、その人々々々て云ひやうが違ふ。高ぶれる曽点抵なものにはしか々々と、日用平生の上から周礼儀礼の名物度数まて吟味せ子ばならぬとしかける。又、鄭玄・孔頴達めいた礼文の名物度数を主に云と、上面一段根本上から教へて、其様なことはよいかげんにしてをけと云るる。ここが彼のまっかな迂詐つきの処へ、それがやっはり孔子の教なり。求問聞斯行之乎とある。聞斯行之と云はるる。子路が問へば、父兄有在何聞斯行之乎とある。あれ程な弟子衆に一つやうて對はない。仁を問ふにもそれ々々に答られた。答へのさま々々あるではなくて、さきの弟子の気質の様々と高下あるとなり。医者のさま々々な藥の用ると云も、医者の方は一つなれども、病人の容躰書によりて君臣佐使さま々々な藥をやる。病者にさま々々あるゆへのことぞ。去るによりて、講釈するにも丁寧なものには麁くよめと云、麁ひものには丁寧によめと云。是れをさしひきして丁度のよい処へをちこませる。これが訓門人を読むの綱領なり。
【通釈】
さて読む相談になっては、訓門人は弟子を教えるに当たって、相手の気質によって色々な教え方がある。これが訓門人を読む眼である。或る時直方先生が跡部殿に言われたことがある。総体、朱子の書をよくよく読んで見れば、朱子は真っ赤な嘘吐きだと言うだろうと言われた。面白い言い様である。それは何故かと言うと、その人その人で言い様が違うからである。高ぶれる曾点底な者にはしかじかと、日用平生の上から周礼儀礼の名物度数まで吟味をしなければならないと仕掛ける。また、鄭玄・孔頴達めいた礼文の名物度数を主に言う者には、上面一段根本上から教えて、その様なことはよい加減にして置けと言われる。ここがあの真っ赤な嘘吐きの処で、それがやはり孔子の教えである。求が「聞斯行之乎」と問うと、聞斯行之と言われた。子路が問えば、「父兄有在。如之何其聞斯行之」と答えた。あれ程の弟子衆でも一様には対さない。仁を問うのにもそれぞれに答えられた。それは答えが様々あるのではなくて、相手の弟子の気質に様々と高下があるとするからである。医者が様々な薬を用いるというのも、医者の方は一つだが、病人の容体書によって君臣佐使に様々な薬を遣る。それは病者が様々だからである。そこで、講釈をするにも丁寧な者には粗く読めと言い、粗い者には丁寧に読めと言う。差し引きして丁度のよい処へ落ち込ませる。これが訓門人を読む綱領である。
【語釈】
・跡部殿…跡部光海。名は良顯。宮内と称す。幕臣。享保14年(1729)1月27日没。年71。佐藤直方門下。浅見絅斎、三宅尚斎にも学ぶ。神道を渋川春海に学ぶ。
・求問聞斯行之乎…論語先進21。「子路問、聞斯行諸。子曰、有父兄在。如之何其聞斯行之。冉有問、聞斯行諸。子曰、聞斯行之。公西華曰、由也問、聞斯行諸、子曰、有父兄在。求也問、聞斯行諸、子曰、聞斯行之。赤也惑。敢問。子曰、求也退。故進之。由也兼人。故退之」。

さて今學問するはなんのためぞ。我よくないをよくするのじゃ。然れば皆病人なり。痼疾を持たものは名医をこいしがる。今吾をよいものにしたくば、朱子がなつかしいと思ふ処へ訓門人をよめば千歳の竒遇。さて々々よい折り柄難有とくるより外はない筈なり。そこで訓門人を読んて、論孟の読法にある通り、諸弟子問へ処を自己の問となし、朱子所答を今日の耳聞となすことぞ。さふ看ると、誠に朱子の直弟子になりたのなり。偖又訓門人に朱子の答がさま々々あるは気質がさま々々あると云ふも、又、さま々々でもないもの。朱門も今日の人もかわりはない。人心不同如面と云が、気質は人の顔の様に千人が千色にわかるものではない。大旨は似てをる。さるわけは、本とがその様にさま々々ではない。天地は隂陽の二つなり。活達なさとひ生れの人は天にあやかりたのなり。沈静なにぶいしっとりとしたものは地にあやかりたのなり。大槩此二色からして色々あることで、左までさま々々でもないもの。今訓門人を読むものも、吾が身を朱子の弟子にあてて看と、をれは誰れに似た、彼はあれに似たと云が有る。か子てそふ見て、その吾に似た人を訓じた部を看ると、朱子の御答へが丁度吾に的中し、朱子がよいやうに療治して下さるる。こふ深切に看子ば訓門人をよむでない。なれども吾気質の偏、吾病痛をしらずに吾をよいと思ふ學者は、吾病に丁との訓がありても人のことの様に思ふぞ。それでは益はない。
【通釈】
さて今学問をするのは何のためなのか。自分のよくないところをよくするのである。それなら皆病人である。痼疾を持った者は名医を恋しがる。今、自分をよいものにしたければ、朱子が懐かしいと思う。そこで訓門人を読めば千歳の奇遇。実によい折柄で有難いと来るより外はない筈。そこで訓門人を読んで、論孟の読法にある通りに、諸弟子の問う処を自己の問いとして、朱子の答える所を今日の耳聞とするのである。そう看れば、誠に朱子の直弟子になったことになる。さてまた訓門人に朱子の答えが様々あるのは気質が様々あるからだと言っても、また、それほど様々でもないもの。朱門も今日の人も変わりはない。「人心不同如面」と言うが、気質は人の顔の様に千人が千色に変わるものではない。大旨は似ている。そのわけは、本がその様に様々ではないからである。天地は陰陽の二つ。闊達な聡い生まれの人は天に肖ったのである。沈静な鈍いしっとりとした者は地に肖ったのである。大概はこの二色からして色々とあるのであって、それほど様々でもないもの。今訓門人を読む者も、我が身を朱子の弟子に当てて看ると、俺は誰に似ている、彼はあれに似ているということがある。兼ねてその様に見て、その自分に似た人を訓じた部を看れば、朱子の御答えが丁度自分に的中して、朱子がよい様に療治して下さる。この様に深切に看なければ訓門人を読むとは言えない。しかし、自分の気質の偏や病痛を知らずに自分をよいと思う学者は、自分の病に丁度の訓があっても人のことの様に思う。それでは益はない。
【語釈】
・人心不同如面…近思録道体27。「伊川先生曰、公則一、私則萬殊。人心不同如面、只是私心」。元は左伝襄公31年にある鄭の子産の語。「人心之不同也、如其面焉」。

扨、もふ一つ云ことあり。訓門人は弟子の記録、節要は主しのかいたのである。そこでたしかな処は節要で、訓門人は弟子の録したことゆへ、朱子の意をとりちがいたもたま々々はあるべし。又、録のわるいもある。然らば訓門人は節要よりをとるかと云に、さふでない。節要は、他人の所へあの大賢の手紙にかいてやりたのできつい部したこと。それゆへそっともまちかいはないなれとも、惣体吾手でかくことは議論十分尽頭にはかけとも、語意気象と云ふものは、人の對話する上へに云に云へぬ妙境あるを脇て記録するものゆへ、門人の巧拙はあれとも、語録の方は別段に人を悚動することあるものぞ。それゆへ訓門人かなか々々劣ると云ことではない。節要は經濟から心術、經書の吟味、人事の形勢、こと々々に存のあることで、訓門人より高大なり。なれともつっかかりに朱子へ近つくには、とかく訓門人なり。ここは某か子々々嘗めて見て喰ひ知た。ついに腹にたまる程はまだくわず、喰ひ知りは知りた。兎に角、訓門人語録の忝さには、顔と顔とを見合せて論段の上を録したことゆへ、先生良久曰の、聳身而言のと云様な類。それで、討論の上から朱子の語意気象迠がのりてある。そこて朱子社中のやうすを知るには語類がよいぞ。僧の禅録を看るもそれなり。釈迦の經文よりも禅録から悟入ぬれは、ただの僧とはちかふ筈ぞ。經論は勿論のこと、録は祖師の身ぶりから元気まて知るる。吾黨の學は集注章句て垩學をきめて、それから朱子へ御見まい申すつっかけに訓門人と出るの親切なと云も、さふたい語録と云ものは游山にゆくこともあり、弟子を叱ることもあり、ゆっくりと酒のむこと迠ある。分外に懇な情ありて、これで學に入りよいぞ。朱子にがんざりと近付にならるる。この様なこと□□ても、異學の徒か、そりゃ又宋學が得手方に禪録めいたことをすくと云が、さふしたことてはない。孔子の春秋と十翼は主しの筆なり。されとも孔子に御目にかかるは論語が一ちよい。論吾は弟子衆か孔子の言行を書たもの。これでみよ。訓門人などか弟子のよま子ばならぬと云も、やはり孔子の論語なり。
【通釈】
さて、もう一つ言うことがある。訓門人は弟子の記録で、節要は朱子が書いたもの。そこで確かな処は節要であって、訓門人は弟子の録したことなので、朱子の意を取り違えたところも偶にはあることだろう。また、録が悪いということもある。それなら訓門人は節要より劣るかと言えば、そうではない。節要は、あの大賢が他人の所へ手紙に書いて遣ったものなので、しっかりと部したもの。そこで少しも間違いはないが、総体自分の手で書くことは議論十分尽頭には書くものの、語録の方は、語意気象と言う、人が対話をする上で言うに言えない妙境のあるのを脇で記録するものなので、門人の巧拙はあるが、格別に人を悚動することがあるもの。そこで、訓門人が劣るということは決してない。節要は経済から心術、経書の吟味、人事の形勢と、事々に覚えのあることで、訓門人より高大である。しかし、突っ掛かりで朱子に近付くには、とかく訓門人である。ここは私がかねがね嘗めて見て喰い知ったことだが、遂に腹に貯まるほどにはまだ喰ってはいない。しかし、喰い知るには知った。とにかく、訓門人語録の忝さには、顔と顔とを見合わせて論段の上を録したことなので、「先生良久曰」や「聳身而言」という様な類があって、それで討論の上から朱子の語意気象までが載っている。そこで、朱子社中の様子を知るには語類がよい。僧が禅録を看るのもそれ。釈迦の経文よりも禅録から悟り入れば、ただの僧とは違う筈。経論は勿論のこと、録であれば祖師の身振りから元気までが知れる。我が党の学は集注章句で聖学を決めて、それから朱子へ御見舞い申す突っ掛けに訓門人と出るのが親切だと言うのも、総体語録というものは遊山に行くこともあり、弟子を叱ることもあり、ゆっくりと酒を飲むことまでもある。分外に懇ろな情があって、これで学に入りよいからである。朱子にしっかりと近付きになることができる。この様なことであっても、異学の徒が、それまた宋学が得手方に禅録めいたことを好くと言うが、そうしたことではない。孔子の春秋と十翼は主の筆である。しかし孔子に御目に掛かるには論語が一番よい。論語は弟子衆が孔子の言行を書いたもの。これで見なさい。訓門人などは弟子が読まなければならないと言うのも、やはり孔子の論語と同じだからである。

その上、訓門人を看るには至て端的なことがある。とうなれば、訓門人には為己學と云に上もないことでよいことがある。この叓は李退溪の節要の序にかいてある。俗學は為己を知らず為人學ゆへ、むせうに博物をばつとめるが受用にする心がない。此方は專ら為己の學ぞ。其為己の學と云には論孟より上なことはない。そこて今、論吾孟子を読は為己なり。されとも論孟は一と事業であるゆへ、侖孟が手に入ると大名衆からかかへやふと云こともあるゆへに、扶持方をとるの種にもなることあり、四書を媒にして扶持方になれば、四書が名利の助けをするにもなる。科舉の為めにもなるが、節要や訓門人がすんたらこちへかかへたいと云大名はないから、これが利害には子つきにもひへにもならぬ。根から利誘の助にはならぬから、この処が一入為己の第一なり。この意は退溪の云出したことで、さて々々親切なことなり。禄の為めにはせぬ様に見せて、片心には三十人扶持も取たい心がありては垩賢にはなられぬ。
【通釈】
その上、訓門人を看ると至って端的なことがある。それはどういうことかと言うと、訓門人には己が為の学ということにこの上もなくよいことがある。このことは李退溪の節要の序に書いてある。俗学は為己を知らず、為人の学なので、無性に博物を務めるが受用にする心がない。こちらは専ら為己の学である。為己の学と言えば論孟より上はない。そこで今、論語や孟子を読むのは為己である。しかし論孟は一事業になり、論孟が手に入ると大名衆から抱えようと言われることもあるので、扶持方を取る種になることもあり、四書を媒にして扶持方になれば、四書が名利の助けをすることにもなる。科挙のためにもなるが、節要や訓門人が済んだらこちらへ抱えたいと言う大名はないから、これが利害にはねつきにもひえにもならない。根から利誘の助けにはならないから、この処が一入為己の第一である。この意は退溪が言い出したことで、実に親切なこと。禄のためにはしない様に見せて、片心には三十人扶持も取りたい心があっては聖賢にはなれない。
【語釈】
子つきにもひへにもならぬ

詩や文をかくもいやなことなり。至書札於儒者之事尤近しと明道も云はれた。近ひだけ罪が深い。論吾も文、書經も詩經も文しゃゆへ、それをかさにきて儒者の役の様に思ひ、為己と云ことを知らぬゆへ、文章や詩を作らいでは儒者めかぬ様に思からわるいぞ。表向が儒者の業に似たことて、内がそでないからわるい。たとへば武士として賭的を射ると同しこと。弓の稽古をなさるる、よい御心掛と云てよりて見たときに、もし賭的ならば言語同断なり。いっそこれより棋象戯がましぞ。游びことは弓とまぎらかさぬだけ罪は浅い。學者文詩を作ると人もほめる。吾は自満をする。それからさきはいろ々々な心術の害をなすものゆへ一ちわるい。そこで、程子作文害道と云へり。直方先生が、詩文章も一つ作りては大釜の下へくべ々々するものなら作るものはあるまいと云はれた。なんと云ひわけをしても、本と人に見せたいで作るぞ。學者が詩文章に巧でさま々々な事業をしても、為己の心がないから朝聞道の德は夢にもない。するほどなことが皆人欲をたすけ、名利の媒をする。遍参僧が江湖に難航し、學問に精を出してなにくわぬ顔て坐禪して居ても、大寺をもちたいと云ためにする。本の仏者ではない。仏心を得る心のない出家なれはうささきことなり。文は載道之器。儒者とのいた挨拶柄でもないが、為己の心なく、左様な無用のひまとりをして、天へ云分けはたたぬことぞ。染井の伊兵衛か花の世話をするやう。見事に咲けとも植木屋ぞ。垩學の門墻を伺ふ心がけのないは殘念千萬に非すや。なんでも天地の間に理のないはないから凡そ理外のことはないが、尭舜之知而不偏物急先務也と孟子の云へり。天下のことにははてはない。この方に學如不及と云は急務があるなり。じゃほどに、皆の衆も學問と云はそろ々々垩人に近ひ功夫をするがよい。訓門人をよめばそろ々々垩人の方へをしよせることなり。
【通釈】
詩や文を書くのも嫌なこと。「至於書札、於儒者事最近」と明道も言われた。近いだけ罪が深い。論語も文、書経も詩経も文なので、それを笠に着て儒者の役の様に思い、為己ということを知らないので、文章や詩を作らなければ儒者めかない様に思うから悪い。表向きが儒者の業に似た様で、内はそうでないから悪い。それは、たとえば武士なのに賭的を射るのと同じこと。弓の稽古をなさっている、よい御心掛けだと言って近付いて見た時に、もしも賭的であれば言語道断である。いっそこれよりは碁将棋の方がましである。遊び事を弓と紛らかさないだけ罪は浅い。学者が文詩を作ると人も誉める。自分も自慢をする。それから先は色々な心術の害を成すので一番悪い。そこで、程子が「作文害道」と言った。直方先生が、詩文章も一つ作っては大釜の下へくべるのであれば作る者はいないだろうと言われた。どの様な言訳をしても、本心は人に見せたくて作るのである。学者が詩文章に巧みで様々な事業をしても、為己の心がないから朝聞道の徳は夢にもない。するほどのことが皆人欲を助け、名利の媒をする。遍参僧が江湖に難航して、学問に精を出して何食わない顔で座禅をしていても、大寺を持ちたいためにするのであれば本当の仏者ではない。仏心を得る心のない出家であれば煩いこと。「文者載道之器」。儒者とは縁がないという挨拶柄でもないが、為己の心がなく、その様な無用な隙取りをしていては、天へ言訳が立たない。それは、染井の伊兵衛が花の世話をする様で、見事に咲くが植木屋である。聖学の門墻を伺う心掛けがないのは残念千万ではないか。何でも天地の間に理のないことはないから凡そ理外のことはないが、「堯舜之知而不徧物、急先務也」と孟子が言った。天下のことに果てはない。こちらで「学如不及」と言うのは急務があるからである。そこで皆の衆も、学問でそろそろと聖人に近い功夫をするのがよい。訓門人を読めばそろそろと聖人の方へ押し寄せることになる。
【語釈】
・至書札於儒者之事尤近し…近思録教学5。「至於書札、於儒者事最近」。
・程子作文害道と云へり…近思録為学57。「問、作文害道否。曰、害也」。
文は載道之器
・尭舜之知而不偏物急先務也…孟子尽心章句上46。「孟子曰、知者無不知也。當務之爲急。仁者無不愛也。急親賢之爲務。堯舜之知而不徧物、急先務也。堯舜之仁不徧愛人、急親賢也」。
・學如不及…論語泰伯17。「子曰、學如不及、猶恐失之」。

問ふ、気質弱者、如何涵養到剛勇。曰、只是一箇勉强。然変化気質最難し。これが廖子晦を教へたこと。凡そ書の編集には意のあるとないがあり、近思の編集には存寄あること。論吾孟子編集には意ない。なれとも、論吾の巻頭に學而時習と出したにはちと存寄あること。孟子にも義利の辨を出した。この訓門人のまっ始めに気質変化の條第一に云てあるは、子晦第一の始めの訓の侭に出して編集の意でしたことでなくとも、読むものは寔に目を付てよむへきことなり。気質弱き者。これが地にあやかりたのなり。人にちとそれはと云はるると、もふ二言と出ぬ。今日の様に秋風が吹と、はや風を引ふと云てひっこむ。兎角めりこむ生れなり。弱と云か至て不調法なの不届なのと云ことでもないが、これが父母のうみつけじゃと云て、気質を気質に立るとよくなる瀬はない。これを立ぬが気質変化の學なり。さすが朱門ゆへ、気質をなをさ子ば學問でないと見こんで、ここから相談にかかる。子晦がさほと弱ひ気質とも見へぬが、とど手前が弱ひと見込で、私などこの分にしてをきましたらば俗人で果てませふがどふしたものと、我身から問を起した。
【通釈】
「問、気質弱者、如何涵養到剛勇。曰、只是一箇勉強。然変化気質最難」。これが廖子晦を教えたこと。凡そ書の編集には意のあるものとないものとがあり、近思の編集には存じ寄りがあるが、論語と孟子の編集に意はない。しかし、論語の巻頭に「学而時習」と出したのは一寸存じ寄りのあること。孟子にも義利の弁を出した。この訓門人の真っ始めに気質変化の条を出したのは、子晦への第一の訓のままに出したもので編集の意でしたことではないが、読む者は実に目を付けて読まなければならない。「気質弱者」。これが地に肖ったのである。人に一寸それはと言われると、もう二言が出ない。今日の様に秋風が吹くと、早くも風邪を引くからと言って引っ込む。とかくめり込む生まれである。「弱」は至って不調法だとか不届だということでもないが、これが父母の生み付けだと言って、気質を気質に立てるとよくなる瀬はない。これを立てないのが気質変化の学である。流石に朱門なので、気質を直さなければ学問ではないと見込んで、ここから相談に掛かる。子晦はさほど弱い気質とも見えないが、つまりは自分が弱いと見込んで、私などはこの分にして置いては俗人で果てましょう、どうしたものかと、我が身から問いを起こしたのである。
【語釈】
・問ふ、気質弱者、如何涵養到剛勇。曰、只是一箇勉强。然変化気質最難し…朱子語類113。訓門人1。「問、氣質弱者、如何涵養到剛勇。曰、只是一箇勉強。然變化氣質最難」。
・義利の辨…孟子梁恵王章句上1を指す。

涵養。これが俗學のなめても見ぬこと。學問は知行なり。知も行もそろり々々々と養こむなり。気質をなをすには克己と云ひそうなものを涵羪で云たはさすかなり。気質変化は克己とは違ふ。上戸が德利を打つぶしてこれから酒は呑ぬと、端的手あらにかかるは克己なり。気質変化はうみ付の気質をなをすことゆへ手粗らてはゆかぬ。そろり々々々よくするなり。そこで涵羪と出たもの。田舎でみよ。持あらした田をよくする様なもの。端的にこやしを多くしてもゆかぬ。いろ々々こなし々々々して、年を經てなをることなり。万端のことに涵養はいる。どの様に羪ふかよいぞと云た。曰、只是一箇勉強。この答へてつきりと深切なことじゃそ。只手もなく勉強の二字じゃ、と。この勉強の字が克己にはとり合ふて涵羪には取り合はぬ様じゃが、訳けのあることなり。先つ克己は手あらくかかり、涵羪はそろ々々なり。然れとも、そろ々々ゆくと云中にはたゆむことあり。□こで、その涵養も勉強でなくてはならぬ。いでと云つよみがなければ涵養が涵羪に立ぬ。丸藥只一粒一日切に呑で、ぐはら々々々と腹のなるにはきくとも、全体の病にはきかぬ。今信心するものが神に祈りをするに、百日の行を一日に百度行てもすまぬもの。段々ゆくことぞ。そのだん々々ゆく内、三日めにはやよわることあるゆへ、又勉強ではり出す。やりがふってもゆかふと云が勉強なり。某、景色を見ることがすきなり。されとも京都で將軍塚を見に行たとき草臥て、もふ是れから二三町じゃと云処から駕舁に手ひかれて山を下た。これが勉強のないのなり。この勉強を、をらはならぬとゆるめると暴棄に安すになるぞ。
【通釈】
「涵養」。これが俗学の嘗めても見ないこと。学問は知行である。知も行もそろりそろりと養い込む。気質を直すには克己と言いそうなものを涵養で言ったのは流石である。気質変化は克己とは違う。上戸が徳利を打ち潰してこれから酒は呑まないと、端的手荒に掛かるのは克己である。気質変化は生み付けの気質を直すことなので手荒ではうまく行かない。そろりそろりとよくするのである。そこで涵養と出たもの。田舎で見なさい。持ち荒らした田をよくする様なもの。端的に肥やしを多くしてもうまく行かない。色々とこなして、年を経て直るのである。万端のことに涵養は要る。どの様に養うのがよいかと聞いた。「曰、只是一箇勉強」。この答えがずきりと深切なもの。ただ手もなく勉強の二字だと言った。この勉強の字が克己には取り合い、涵養には取り合わない様だが、それにはわけがある。先ず克己は手荒く掛かり、涵養はそろそろと行く。しかし、そろそろ行くと言う内には弛むこともある。そこで、その涵養も勉強でなくてはならないのである。いざという強味がなければ涵養が涵養として立たない。丸薬をただ一粒一日切りに呑むのでは、がらがらと腹が鳴るのには効いても、全体の病には効かない。今信心をする者が神に祈りをするのに、百日の行を一日に百度行っても済まない。それは段々と行くもの。その段々と行く内に、三日目に早くも弱ることがあるので、また勉強で張り出す。鎗が降っても行こうというのが勉強である。私は景色を見ることが好きである。しかし、京都で将軍塚を見に行った時に草臥れて、もうこれから二三町だという処から駕篭舁に手を引かれて山を下った。これが勉強がないということ。この勉強を、俺はできないと言って弛めると暴棄に安んずることになる。

変化気質最難。凡人と垩賢と別なも、人欲と気質にさへられたのなり。それさへのけれは垩賢なり。気質変化は手もなくなると云は知らぬ云ひ様なり。このならぬ、なりにくひと云が知た口上なり。難と云は大義なこと。丁と長﨑へゆく様なもの。ゆけはゆかるるなれとも、大抵や大方ではゆかれぬなり。この気質と云が朋友や家内てあの人はあふした生れ付のものと云てあけて通すが、公儀へは出されぬこと。明日御成りの御供とあるに、私はだらい生れ付ゆへ御あとから参ると云てその分ですまふか。又、せわしい生れのものが今夜から御城へつめかけては乱心の沙汰ぞ。すれば気質を云ひたてることは内証のこと。公儀へ出されぬこと。気質と云は親の生み付けどろまぶれで、太極の方にさたのないことなり。俗學が人の詩を見て是は唐ではないの、明風じゃの、この文は和習あるのとよくも見わけるか、己が気質のどろまぶれをばしらぬ。爰を知て泥まぶれを洗ひをとそふと云合点なければ、どこ迠も學問とは云はず。さて、気質変化と云ても金の目串や銀のきせるをつぶし、ふいごにかけて湯にしてから、さて色々の細工にする様なことではないぞ。朔日の小學でも云通り、寛而栗。ゆるいにしゃんとしたをまぜ、直而溫。まっすくなにやわらかをもるて気質変化なり。直を直きり、溫を溫きりてをかぬことなり。これらを書經の文面で、昔の樂官の如此しこむ楽の功じゃと計り見るは眼のたぎらぬことなり。やはり気質変化のことなり。異學の徒、文字の見やう拙ひゆへ、宋儒から気質変化と云と腹を立ててそしれとも、だたい舜の典楽を命せられしがすぐに気質変化のことと見るがないなり。
【通釈】
「変化気質最難」。凡人が聖賢と違うのも、人欲と気質に障えられたからである。それさえ除ければ聖賢である。気質変化は手もなくできると言うのは知らない言い様である。このならない、なり難いと言うのが知った口上である。「難」は大儀なこと。丁度長崎へ行く様なもの。行けば行けないこともないが、大抵や大方では行けないもの。この気質というのは、朋友や家内ではあの人はああした生まれ付きの者だと言って開けて通すものだが、公儀へは出せないこと。明日御成りの御供があるのに、私はだるい生まれ付きなので後から参ると言えば、その分で済むだろうか。また、忙しい生まれの者が今夜から御城へ詰め掛けては乱心の沙汰である。それなら気質を言い立てることは内証のことで、公儀へ出せないこと。気質は親の生み付けの泥塗れで、太極の方には沙汰のないこと。俗学が人の詩を見て、これは唐ではないとか明風だとか、この文は和習にあるとよく見分けるが、自分の気質が泥塗れなのを知らない。ここを知って泥塗れを洗い落とそうという合点がなければ、何処までも学問とは言えない。さて気質変化と言っても、金の目串や銀の煙管を潰して鞴に掛けて湯にして、さてそれから色々な細工にする様なことではない。朔日の小学でも言った通り、「寬而栗」。緩いのにしゃんとしたことを混ぜ、「直而温」。真っ直ぐなものに柔らかを盛るので気質変化となる。直を直ぎり、温を温ぎりにして置かないこと。これらを書経の文面から、昔の楽官がこの様に仕込んだ楽の功とばかり見るのは眼が滾らないのである。やはり気質変化のこと。異学の徒は文字の見様が拙いので、宋儒から気質変化と言われると腹を立てて譏るが、それは、そもそも舜が典楽を命じられたことが直ぐに気質変化のことだと見れないからである。
【語釈】
・朔日の小學でも…寛政元年8月1日に小学立教6の講義をしている。
・寛而栗…小学立教6。「命夔曰、命汝典樂。敎冑子。直而温、寬而栗、剛而無虐、簡而無傲」。出典は書経舜典。

とかく學問はここのことで、気質変化して垩賢の域に至るが太極の御直参になりたなり。位記口宣も入らぬ。涵養勉強でそろり々々々と垩賢の域にすすみ、位階て登ることぞ。垩賢の千言万語さま々々あれども、とど気質変化の學のことなり。今迠のことをじり々々なをして気質変化せぬは、いろ々々と守ていても内からなをらぬゆへ長かもちはせぬ。本んに化せぬ中はのうじゅはない。丁度猫か肴はくいたいか、棒を持て番をしてをるゆへ手を出さぬ様なもので、とこぞのあいには手を出すぞ。上はべ計り、わざの上へ計りと云は役にたたぬ。俗學はわざかぎりなり。垩賢になるに、心のそこからなをすことなり。上總生れでも、子共の時から京詞になる。これが変化したのなり。あまり珍しいことはないそ。此からときひろめるとかぎりもないことぞ。なんとこの一くだりでも朱子學の要はみへるではないか。さふ合点してよめば、今日一行よんても訓門人をよみ覺へた列じゃ。
【通釈】
とかく学問はここのことで、気質変化して聖賢の域に至るのが太極の御直参になったということ。位記口宣も要らない。涵養勉強でそろりそろりと聖賢の域に進み、位階て登るのである。聖賢の学は千言万語で様々あるが、つまりは気質変化の学のこと。今までのことをじりじりと直さず気質変化をしないと、色々と守っていても内から直らないので長持ちがしない。本当に化せない内は納受はない。丁度猫が肴は食いたいが、棒を持って番をしているので手を出さない様なもので、何処かの隙には手を出す。上辺ばかり、業の上ばかりというのは役に立たない。俗学は業限りである。聖賢になるとは、心の底から直すこと。上総生まれでも、子供の時から京に住めば京詞になる。これが変化したのであって、あまり珍しいことではない。これから説き広めると限りもないこと。何とこの一行だけでも朱子学の要は見えるではないか。この様に合点して読めば、今日一行を読んでも訓門人を読み覚えた列になる。
【語釈】
・位記…叙位の旨を記して天皇が授与する文書。告身。
・口宣…職事が叙位・任官などの勅命を上卿に伝えること。また、その時に発せられる文書。元来職事のメモであって文書となるべきものではないので、口宣案と称した。


次課日、惟秀繕寫斯録呈先生。其夜先生一閲曰、記得佳。無所誤認某意。但某所説、開示道要之地歩少、而鍼焫俗學之分數多。此不足發明訓門人大意。只為從姪好文辞特及之。又曰、渠亦先君子之姪孫。若脱旧習、一味向道學、豈不慰泉下。又曰、諸老會約・節要典・訓門人大同小異。然槩皆一意。但節要以國字書。在享保五年庚子作焉。此以漢字者、成十七年壬子。盖皆先師文字、其本書今藏越後新發田藩。實先師眞筆也。其穪會正者、當時吾父師固在其責。然二君子皆謙德不自居、未嘗見自以為會正。然自先君當之耳。恭節録○今年狂郎君年二十二。先生五十八歳。自養菴子受読之、盖百有数十年于今。有感記之。
【読み】
次の課日、惟秀斯の録を繕寫し先生に呈す。其の夜先生一閲して曰く、記し得る佳し。某が意を誤り認むる所無し。但し某が説く所は、道要を開示するの地歩少くして、俗學を鍼焫するの分數多し。此れ訓門人の大意を發明するに足らず。只從姪の文辞を好むが為に特に之に及ぶ、と。又曰く、渠も亦先君子の姪孫なり。若し旧習を脱し、一味に道學に向わば、豈泉下を慰めざらんや、と。又曰く、諸老の會約・節要の典・訓門人は大同小異なり。然るに概ね皆一意なり。但し節要は國字を以て書す。享保五年庚子の作に在り。此れ漢字を以てするは、十七年壬子に成る。盖し皆先師の文字にして、其の本書は今越後新發田藩に藏す。實に先師の眞筆なり。其れ會正と穪するは、當時吾が父師固より其の責に在り。然るに二君子皆謙德にして自ら居らず、未だ嘗て自ら以て會正たりと為すを見ず。然るに自ら先君之に當るのみ、と。恭節録○今年狂郎君年二十二。先生五十八歳。養菴子の之を受け読むより、盖し今に百有数十年。感有りて之を記す。


跋訓門人開巻講義
夫訓門人者、朱子之訓門人也。今日先生講之也、先生之訓門人也。惟秀愚陋幸得侍于下座與有聞焉。先生便使惟秀録之、遺同志不在斯席者。稍雖免聾者之看、何得無聾者之譏哉。朱子教人之定規至意氣形狀、先生諄々而言之、誠如會一堂之上親接聲。録之何敢當之乎。顧先生針砭之切、既無所不到、而不得悚動省悟者、吁亦麻木耳。先生曰、以朱門之所病為自己之病、身自懲創之、即朱家之醫療也。雖然識自己之病痾亦在実為功夫者。倘無功夫、則雖聞切己之言、豈能得如今日之耳聞乎。如惟秀、逢迎醫人於日夜、似不曽斥言病痛者也。以此為做為己之學、則何以異徒汲汲詞藻、長區々筆硯者哉。不思之甚也。古人有謂。曰、思則斯得。今日知吾之不曽思矣。因書之巻末以自警。
  寛政己酉八月  篠原惟秀謹識
【読み】
夫れ訓門人は、朱子の訓門人なり。今日先生の之を講ずるや、先生の訓門人なり。惟秀愚陋にして幸に下座に侍るを得て聞くこと有るに與れり。先生便ち惟秀をして之を録し、同志の斯の席に在らざる者に遺らしむ。稍々聾者の看を免がると雖も、何ぞ聾者の譏無きを得んや。朱子人を教うるの定規より意氣形状に至るまで、先生諄々として之を言うに、誠に一堂の上に會して親しく聲を接するが如し。之を録すに何ぞ敢て之に當らんや。顧るに先生の針砭の切なる、既に到らざる所無くして、悚動して省悟するを得ざる者は、吁々亦麻木のみ。先生曰く、朱門の病む所を以て自己の病と為し、身自ら之を懲創せば、即ち朱家の醫療なり、と。然りと雖も、自己の病痾を識るも亦実に功夫を為す者に在り。倘し功夫無くんば、則ち己に切の言を聞くと雖も、豈能く今日の耳聞の如きを得んや。惟秀が如き、醫人を日夜に逢迎して、曽て病痛を斥し言わざる者に似たり。此を以て己が為の學を做すと為さば、則ち何を以て徒に詞藻に汲汲とし、長に筆硯に區々たる者に異ならんや。思わざるの甚だしきなり。古人の謂えること有り。曰く、思えば則ち斯に得。今日にして吾の曽て思わざるを知れり、と。因りて之を巻末に書して以て自ら警む。
  寛政己酉八月  篠原惟秀謹識