稲葉默齋先生傳


王仁氏古矣。予不敢知。降至藤林二先生、其所造詣亦如何哉。亦未敢知之。獨有山崎先生。此吾 邦道學之祖歟。佐藤子其門之峻之又峻者。默齋先生其傳也矣。
右是庵三上先生壬申雜録中之語也。頃者兒幸與山口君芳男相謀、欲印行林潛齋所撰默齋先生傳、求一言於予。因表出此語以代序云爾。
昭和乙亥初冬 後學 田中謙藏識

【読み】
王仁氏は古なり。予は敢えて知らず。降りて藤林二先生に至り、其の造詣する所も亦如何。亦未だ敢えて之を知らず。獨り山崎先生有り。此れ吾が邦道學の祖か。佐藤子其の門の峻の又峻なる者なり。默齋先生は其の傳なり。
右は是庵三上先生壬申雜録中の語なり。頃者兒幸と山口芳男君と相謀り、林潛齋の撰する所の默齋先生傳を印行せんと欲するに、予に一言を求む。因りて此の語を表出し以て序に代えて爾か云う。
昭和乙亥初冬 後學 田中謙藏識
【語釈】
・王仁…古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという。和邇吉師。
・藤林…藤原惺窩と林羅山。
・山崎…山崎闇斎。
・佐藤子…佐藤直方。
・是庵三上…三上是庵。伊豫国久米郡浄瑠璃村の農家に生まれる。名は景雄。幼名は長太郎。通称は退助。1844年に奥平棲遅庵門下となる。晩年松山に三上学寮を開く。1818~1876
・昭和乙亥…昭和10年。1935年。


題齋柱
                  稲葉正信
  默最妙
    此予三字符、文清公發此言。不特戒多言。道體之妙於是足以體認耳。[若松艸]
【読み】
  默は最も妙なり
    此の予の三字の符、文清公が此の言を發す。特に多言を戒むにあらず。道體の妙は是に於て以て體認するに足るのみ。[若松艸]


稲葉默齋先生傳
                  門人潛齋林秀直撰
                  後學池上幸二郎參訂
先生初生至年二十四之事實、詳備於越復傳。秀直久遊先生門。是以今竊捜索其後年之行實、以續之、敢俟識者之採録云。
【読み】
先生、初生より年二十四に至るの事實、詳らかに越復傳に備わる。秀直久しく先生の門に遊ぶ。是れを以て今竊かに其の後年の行實を捜索し、以て之を續ぎ、敢えて識者の採録を俟つと云う。

先生姓越智、稲葉氏、名正信、號默齋。父迂齋先生、名正義、仕土井侯、職爲敎授、以道學聞于世。母武井氏、以享保十七年壬子十一月十三日生先生於武藏江戸城東濱町山伏井。
【読み】
先生、姓は越智、稲葉氏、名は正信、號は默齋。父、迂齋先生、名は正義、土井侯に仕え、職は敎授を爲し、道學を以て世に聞ゆ。母、武井氏、享保十七年壬子十一月十三日を以て先生を武藏江戸城東濱町山伏井に生む。
【語釈】
・享保十七年…1732年。

幼學父膝下、長師事野田剛齋先生。純以道學自任。早見大意、不安小成、而希遠大之圖。特達英斷、足當經濟。鋭氣掩世儒、才識錙銖老佛。尚友先達、最欽望佐藤先生。非聖賢之書未嘗經其心。終始志在常儒之外。其資質明敏、神氣清爽、言語能辨。容止閒雅而可觀、威儀嚴厲而可畏。凡動止起居、出入進退、視聽氣息、皆恭而安、重而有節。先生居家、夙興沐浴束髪、一日未懈。盥嗽至剪爪皆不苟焉、恒好潔。雖身外物亦然。凡書籍篋笥調度什器、位置齊整、如循規矩也。先生性雖嘗嗜酒、常戒定量、食亦絶夕膳。衣襟端正、雖絹素而可觀。
【読み】
幼にして父の膝下に學び、長じて野田剛齋先生に師事す。純ら道學を以て自ら任ず。早く大意を見て、小成に安んぜずして、遠大の圖を希う。特達英斷、經濟に當るに足る。鋭氣世儒を掩い、才識老佛を錙銖す。先達を尚友し、最も佐藤先生を欽望す。聖賢の書に非ざれば未だ嘗て其の心を經ず。終始志は常儒の外に在り。其の資質明敏、神氣清爽、言語能辨。容止閒雅にして觀る可く、威儀嚴厲にして畏る可し。凡そ動止起居、出入進退、視聽氣息、皆恭にして安んじ、重にして節有り。先生家に居るや、夙に興き沐浴束髪すること、一日も未だ懈らず。盥嗽より剪爪に至るまで皆苟くもせず、恒に潔を好む。身外の物と雖も亦然り。凡そ書籍篋笥調度什器の位置齊整として、規矩に循うが如し。先生、性嘗て酒を嗜むと雖も、常に定量を戒め、食も亦夕膳を絶つ。衣襟端正、絹素と雖も觀る可し。
【語釈】
・錙銖…錙も銖も僅かなこと。軽んじること。

三歳穎悟、過常兒、良敏慧頓、智出於衆。其爲乳兒、人戲之曰、形大尚貪乳味。先生直曰、我學老萊子也。以下越復傳之事也。秀直竊抄其要。多約文字、或加嘗闕其傳中之遺事以記焉。甫六歳作文。越復小學諸子品題是也。元文元年尚翁東、偶訪迂齋。翁以嗜餅、翁所好之餅者、俗以牡丹名之、又以萩稱焉。饗之。先生率爾將入翁之坐見之。家人遽而止。童心竊憤之云、彼之拒我、以我爲欲其餕餘者然爾。我豈敢哉。嗚呼先生自幼不屈氣概如此。
【読み】
三歳にして穎悟、常兒に過ぎ、良敏慧頓、智は衆より出ず。其の乳兒爲りしとき、人之に戲れて曰く、形大なるに尚乳味を貪る、と。先生直ちに曰く、我老萊子を學ぶなり、と。以下は越復傳の事なり。秀直竊かに其の要を抄す。多くの文字を約し、或いは嘗て其の傳中に闕くの遺事を加え、以て記す。甫めて六歳、文を作る。越復小學、諸子品題、是れなり。元文元年尚翁東し、偶々迂齋を訪う。翁の餅を嗜むを以て、翁の好む所の餅は、俗に牡丹を以て之に名づけ、又萩を以て稱す。之を饗す。先生率爾として將に翁の坐に入り之に見えんとす。家人遽かに止む。童心に竊かに之を憤りて云う、彼の我を拒むは、我を以て其の餕餘を欲する者と爲して然るか。我豈に敢えてせんや、と。嗚呼先生幼よりして不屈なる氣概此の如し。
【語釈】
・老萊子…春秋時代の楚の賢人。老いて小児の真似をして親を喜ばせた故事がある。
・元文元年…1736年。
・尚翁…三宅尚斎。
・餅…牡丹餅とお萩。
・餕餘…食べ残し。

九歳作迂齋荅問。見迂齋先生文集。十一歳釋書。意氣慷慨、露風采。長谷川觀水嘆曰、愈時祭酒。重次曰、嘗聞先生少童講解孟子之書。觀水翁在席、驚異嘆曰、嗚呼國學士寧若阿兒、則我之望足矣。明年先生意竊欲講書導人。唯爲童形未稱、自廢總角、作成人之容。擧家驚惶。家嚴獨摩其頂大笑。終備冠禮。後成童豪狂自張、專逞從橫之氣概、出遊會飮事縱肆、不屑謹細。其放蕩不覊、爲世所毀、家嚴包荒。先生亦聰明之發、終謹守法度、益進業。於是負笈事野田先生。時年十六。
【読み】
九歳、迂齋荅問を作る。迂齋先生文集に見ゆ。十一歳、書を釋く。意氣慷慨、風采に露わる。長谷川觀水嘆じて曰く、時の祭酒に愈 [まさ]れり、と。重次曰く、嘗て先生少童にして孟子の書を講解するを聞く。觀水翁席に在り、驚異し嘆じて曰く、嗚呼國學の士、寧ろ阿兒の如くんば、則ち我の望み足らん、と。明年先生意 [おも]うに竊かに書を講じ人を導かんと欲す。唯々童形未だ稱[かな]わずと爲し、自ら總角を廢し、成人の容を作す。家を擧げて驚惶す。家嚴獨り其の頂を摩して大笑す。終に冠禮を備う。後に成童するや豪狂自ら張り、專ら從橫の氣概を逞 [たくま]しくし、出遊會飮縱肆を事とし、謹細を屑[いさぎよ]しとせず。其の放蕩不覊は、世の爲に毀る所なるも、家嚴荒を包[か]ぬ。先生も亦聰明の發、終に法度を謹守し、益々業に進む。是に於て笈を負い野田先生に事う。時に年十六。
【語釈】
・長谷川觀水…長谷川克明。佐藤直方門下。
・祭酒…大学頭の唐名。
・重次…中田重次。上総堀上村の人。~1798
・總角…古代の少年の髪の結い方。頭髪を左右に分けて頭上に巻きあげ、双角状に両輪をつくったもの。
・家嚴…父。
・冠禮…元服の式。
・負笈…郷里を出て遊学する。

弱冠與唐彦明、父之執。村士宗章、明石義道、宇仲喜、幸田子善結交、而切磋有年。業益振、而學舍大新。後先生獨畏子善與彦明。好自言、士爲知己者死、二子眞知我矣。寛延三年庚午、侯家當閣老享禮之大會、先生未職仕、而充儐介之選。乃大怒曰、我有棟梁之具。公未能用。反使我磬折肉食兒也。罵而不已。父兄故老嚴戒、而後稍給其事。尋有嫂之喪。懇裁葬禮。嘗講索文公家禮、斟酌度時宜。親舊有凶事、必走而護喪焉。
【読み】
弱冠、唐彦明、父の執。村士宗章、明石義道、宇仲喜、幸田子善と交わりを結びて、切磋年有り。業益々振いて、學舍大いに新たなり。後、先生獨り子善と彦明とを畏る。好んで自ら言う、士は己を知る者の爲に死す、二子眞に我を知れり、と。寛延三年庚午、侯家、閣老享禮の大會に當り、先生未だ職仕せずして、儐介の選に充たる。乃ち大いに怒りて曰く、我に棟梁の具有り。公未だ用うること能わず。反って我をして肉食の兒に磬折せしむ、と。罵りて已まず。父兄故老嚴戒して後稍々其の事を給す。尋 [つ]いで嫂の喪有り。懇に葬禮を裁す。嘗て文公家禮を講索し、斟酌して時宜を度る。親舊に凶事有れば、必ず走りて喪を護る。
【語釈】
・弱冠…男子の20歳の異称。また、成年に達すること。
・唐彦明…唐崎彦明。三宅尚斎門下。安芸竹原の人。竹原先生と称す。1714~1758
・村士宗章…村士玉水。江戸の人。稲葉迂斎門下。1729~1776
・明石義道…柳田求馬。明石宗伯。1738~1784
・宇仲喜…宇井黙斎。肥前唐津の人。1725~1781
・幸田子善…幸田誠之。江戸の人。幕臣。1720~1792
・士爲知己者死…史記刺客列伝26。「豫讓遁逃山中、曰、嗟乎、士爲知己者死。女爲説己者容。今智伯知我。我必爲報讎而死、以報智伯、則吾魂魄不愧矣」。
・寛延三年…1750年。
・侯家…唐津藩主土井家。
・閣老…老中。
・儐介…儐は案内、介は仲立ち。
・磬折…身体を折り曲げて礼をすること。
・肉食…高禄の官吏。

當時先生與子善彦明會、折中四方諸儒之説、論道體、及六合之外。彦明揚眉曰、老子在官、三餘訪諸子、話及人閒之事、未嘗語妙道。今得此遊。自泰山之崩、未嘗有此事也。先生學益進、以雄辯能探物情。人希侍講筵也、以其徒往往縛章句無見解、皆謝而卻之。獨意氣慷慨自任、切齒腐儒陸沈之風矣。寶暦二年壬申韞藏録初編成焉。時年二十一。
【読み】
當時、先生子善彦明と會し、四方諸儒の説を折中し、道體を論じ、六合の外に及ぶ。彦明眉を揚げて曰く、老子官に在りて、三餘諸子を訪い、話人閒の事に及ぶも、未だ嘗て妙道を語らず。今此の遊を得たり。泰山の崩るるより、未だ嘗て此の事有らざるなり、と。先生の學益々進み、雄辯を以て能く物情を探る。人の講筵に侍せんことを希うも、其の徒往往にして章句に縛られ見解無きを以て、皆謝して之を卻く。獨り意氣慷慨自ら任じ、腐儒陸沈の風に切齒す。寶暦二年壬申、韞藏録初編成る。時に年二十一。
【語釈】
・老子…唐崎彦明自身を指して言った語。
・泰山之崩…礼記檀弓上。「孔子蚤作、負手曳杖、消搖於門。歌曰、泰山其頹乎、梁木其壞乎、哲人其萎乎」。ここは孔子が死んだ後という意か?
・寶暦二年…1752年。

頻年侯家老臣弄權、君臣閣手。先生欲改革舊弊痛抑宰執、而無由於達。空論大義、勵同志、獨講究通鑑綱目。自題靖獻遺言曰、是瞑眩良劑。若人切憂宿痾、突出觸我毒手。又自言、某雖粗卒狂獗、至於振綱常任大義、則老師宿儒、不少愧於心乎。此歳、時年二十四。赴東海、不知所之。秀直謂、此之東海云者、假設之辭。葢固表不出之意矣。一日先生笑語秀直。某今隱東海者、往年之傳爲其讖耳。以上前文所謂越復傳之事也。
【読み】
頻年侯家の老臣權を弄すれども、君臣手を閣[お]く。先生、舊弊を改革して宰執を痛抑せんと欲すれども、達するに由無し。空しく大義を論じ、同志を勵まし、獨り通鑑綱目を講究す。自ら靖獻遺言に題して曰く、是れ瞑眩の良劑なり。若し人切に宿痾を憂うれば、突出して我が毒手に觸れよ、と。又自ら言う、某粗卒狂獗なりと雖も、綱常を振い大義に任ずれば、則ち老師宿儒、少しく心に愧じざらんや、と。此の歳、時に年二十四。東海に赴くも、之く所を知らず。秀直謂 [おも]えらく、此の東海と云えるは、假設の辭なり。葢し固より出でずの意を表す。一日先生笑いて秀直に語る。某今東海に隱るるは、往年の傳、其の讖の爲せるのみ、と。以上は前文の謂う所の越復傳の事なり。
【語釈】
・頻年…毎年。年々。
・讖…予言。予言の記録。未来記。

六年丙子春正月十三日、遭母氏喪、編内艱剳記。十年庚辰冬十一月十日、遭父喪、亦外艱剳記成焉。秀直竊謂、合先生外内艱剳記與家禮抄略、可以爲吾門之喪規也。明和四年丁亥、先達遺事上梓焉。先生不充于意、後年欲燒而廢毀焉。
【読み】
六年丙子春正月十三日、母氏の喪に遭い、内艱剳記を編む。十年庚辰冬十一月十日、父の喪に遭い、亦外艱剳記成る。秀直竊かに謂えらく、先生の外内艱剳記と家禮抄略とを合わせて、以て吾が門の喪規と爲す可し。明和四年丁亥、先達遺事を上梓す。先生、意に充たず、後年燒きて廢毀せんと欲す。
【語釈】
・六年…宝暦6年。1756年。
・明和四年…1767年。

先生在家、事父兄也、逆志先意、而能給其事。父母亦鐘愛先生殊至。兄弟友愛交不薄、共謀以可久可大爲別號。先生庶幾德業、懷經濟之大圖者、竊可知焉。其平素秘藏佐藤子家君之書、佐藤子與迂齋之書、及家嚴戒先師而所告之書也。至晩謹帶於身。垂年六十、暇日自誦先君子行實、未數行頻催涕涙、終爲是廢。嘗曰、敬親者當如國君。故曰、家有嚴君、父母之謂也。又曰、事親者以敏速詳勉爲最務。事至割烹、可習熟矣。
【読み】
先生の家に在りて父兄に事えるや、志に逆らい意を先にして、能く其の事を給す。父母も亦先生を鐘愛すること殊に至れり。兄弟の友愛交々薄からず、共に謀りて可久可大を以て別號と爲す。先生の德業を庶幾い、經濟の大圖を懷くは、竊かに知る可し。其れ平素は佐藤子家君の書を秘藏し、佐藤子迂齋に與うるの書、及び家嚴先師を戒めて告ぐる所の書なり。晩に至るも謹みて身に帶す。年六十に垂 [なんな]んとして、暇日に自ら先君子行實を誦じ、未だ數行ならずして頻りに涕涙を催し、終に是れが爲に廢す。嘗て曰く、親を敬するは當に國君の如くあるべし。故に曰く、家に嚴君有りとは、父母の謂なり、と。又曰く、親に事うるは敏速詳勉を以て最務と爲す。事は割烹に至るまで、習熟す可し、と。

先生與親戚故舊、常以情話歡好、不敢以賢智侮慢。一愛遺財物致情意也。他日語秀直曰、我性好授與、而惡受取焉。因意我之諸親、好於信者、非菲德之所及、在務而遺物耳。
【読み】
先生、親戚故舊と、常に情話を以て歡好し、敢えて賢智を以て侮慢せず。一に財物を遺りて情意を致すを愛す。他日秀直に語りて曰く、我が性授與を好みて、受取を惡む。因りて意うに我の諸親の信を好むは、菲德の及ぶ所に非ずして、務めて物を遺るに在るのみ、と。
【語釈】
・信…黙斎を指す。
・菲德…薄い徳。

晩容狂姪之寄託迎之。其愛顧撫育無所不盡。彼與先生咫尺異席、而妄歌狂吟、日夜多嘩。聽者耳煩氣衝、先生在几案自若。秀直慰曰、累年讀書安眠苦辛如何。希自愛。先生慘然曰、彼之喧則善。唯其寂寥閒默不忍見之。
【読み】
晩に狂姪の寄託を容れ之を迎う。其の愛顧撫育すること盡くさざる所無し。彼、先生と咫尺[しせき]し席を異にして、妄歌狂吟、日夜多嘩す。聽く者耳煩り氣衝すれども、先生几案に在りて自若たり。秀直慰めて曰く、累年讀書安眠に苦辛すること如何。希わくば自愛されよ、と。先生慘然として曰く、彼の喧なるは則善し。唯々其の寂寥閒默は之を見るに忍びず、と。
【語釈】
・狂姪…名は十二。諱は通徳。兄廓斎の末子。寛政11年(1799)9月16日没。34歳。墓は黙斎の墓の隣。
・咫尺…近い距離。

先生接物感速慮深。望之則威嚴雖不可近、而即之則中誠遂感、欲長從之。辭令聽之、則雖可畏、而能辯懇喩。自服希乎尋承敎、唯懼永被遐棄。門人歸路遠者、其去必問曰、得無饑乎。若奴僕、則必與酒錢曰、須汝過店充飢。偶聞門人故舊之喪、則驚悸惻痛、動容見於色、怳然如有失也。
【読み】
先生の物に接するや感ずること速く慮り深し。之を望めば則ち威嚴近づく可からずと雖も、而して之に即けば則ち中誠にして遂に感じ、長く之に從わんと欲す。辭令は之を聽けば、則ち畏る可しと雖も、而して能く辯じ懇ろに喩す。自ら服し尋いで敎を承けんことを希い、唯々永く遐棄されんことを懼る。門人の歸路遠き者には、其の去るや必ず問いて曰く、饑うる無きを得んや、と。奴僕の若きには、則ち必ず酒錢を與えて曰く、須く汝店を過 [よぎ]りて飢えを充たすべし、と。偶に門人故舊の喪を聞けば、則ち驚悸惻痛し、容を動かし色に見われ、怳然として失有るが如し。

先生自東以來、未嘗交人。戸外標一書、不入無紹介之人。自言杜事端、不敢煩里正也。或雖門人、多歸之農畝而卻之。唯如舊來門人、常懇敎育、偶有過失、則爲不聞者、而待其開悟、率恕而不問。或有背門法傷心術者、痛呵不假、直瀉肚裏破巣窟、不能撩其情也。一日痛督高宮文七。其密責嚴呵、世俗所謂猶閻王之斷冥譴也。河仲遷在座、以爲猶束濕薪也。先生嘗言、我不終絶人。人遠於我者不逐。不苟求人之親。有請敎者則曰、尊信直方先生者、入我門矣。
【読み】
先生東せしより以來、未だ嘗て人に交わらず。戸外に一書を標し、紹介無きの人を入れず。自ら言う、事端を杜ぎ、敢えて里正を煩わさざるなり、と。或いは門人と雖も、多くは之を農畝に歸らしめて之を卻 [しりぞ]く。唯舊來の門人の如きは、常に懇ろに敎育し、偶に過失有れば、則ち聞かざる者と爲して、其の開悟するを待ち、率ね恕して問わず。或いは門法に背き心術を傷る者有れば、痛く呵りて假 [ゆる]さず、直ちに肚裏を瀉き巣窟を破り、其の情を撩する能わず。一日痛く高宮文七を督[ただ]す。其の密責嚴呵、世俗謂う所の猶閻王の冥譴を斷ずるがごとし。河仲遷座に在りて以爲らく、猶濕薪を束ぬるがごとし、と。先生嘗て言う、我終に人を絶たず。人の我より遠ざかる者は逐わず。苟も人の親を求めず、と。敎を請う者有れば則ち曰く、直方先生を尊信者、我が門に入れ、と。
【語釈】
・里正…村長。
・高宮文七…黙斎門人。押掘村の人。
・河仲遷…河本仲遷。名は善、通称は三左衛門。丸亀藩士。迂斎門人。

先生處事、取舍與奪、雖各度其宜、而取於人、乃最極其至密精詳。始在江都、受新發田侯、浩軒君。之俸。俗曰出入扶持。既而隱于南總、數辭俸。侯不可、辭之不息。侯大怒而容之、遂疏先生矣。晩年遊江都之日、爲當侯、溝口出雲守。所延而進講焉。遂再謁浩軒君。退語吾輩曰、幸矣哉今日拜老侯之溫顏。侯數有先生喬居之賜。又嘗固辭門人履端伏臘之壽貲。秀直敢問、世儒皆義納之。夫子貧而不肯何也。曰文七之輩、爲略干祿、而多出于江都。懼其媿體自我始也。
【読み】
先生の事を處する、取舍與奪、各々其の宜しきを度ると雖も、而して人に取ること、乃ち最も其の至密精詳を極む。始め江都に在るや、新發田侯、浩軒君。の俸を受く。俗に出入扶持と曰う。既にして南總に隱れるや、數々俸を辭す。侯、可 [ゆる]さざるも、之を辭することを息めず。侯、大いに怒りて之を容[ゆる]し、遂に先生を疏んず。晩年江都に遊ぶの日、當侯、溝口出雲守。に延 [ひ]かれて進講す。遂に再び浩軒君に謁す。退いて吾輩に語りて曰く、幸いなるかな、今日老侯の溫顏を拜せり、と。侯、數々先生に喬居の賜有り。又嘗て門人の履端伏臘の壽貲 [じゅし]を固辭す。秀直敢えて問う、世儒は皆義として之を納[い]る。夫子貧にして肯ざるは何ぞや、と。曰く、文七の輩、略々祿を干めんが爲に、多く江都に出ず。其の媿體の我より始むるを懼るるなり、と。
【語釈】
・新發田侯…新発田藩主。溝口浩軒。直養。1736~1797
・溝口出雲守…新発田藩主。溝口直侯。浩軒の弟。
・喬居…仮住まい。
・履端…新年。
・伏臘…夏祭りと冬祭り。
・壽貲…お祝いの金品。
・媿體…愧ずかしい姿。

先生自壯至晩、常立貧窮之閒能支吾不狼狽焉。衣不一見其破絮、飮食亦精潔甘美、養生尤至。其活計之制、節儉之度、區劃最密。嘗曰、節儉之策、大易而小難。若使先生得其志、則家國何有。固無二理也。幸田語録中有家計與經濟之一事。先生言曰、天下經濟猶言衆人家計也。葢自其若年、志在經濟。豈慢人而然耶。雖然小心翼翼、毎務小物、不敢少置。亦與大事何擇。殊長於處事、百度萬般、經畫前定、區別豫具、臨時綽然有餘裕焉。不獨生事、鬼事亦不待年制之備禮。沒十年前、選具無缺遺、而別緘後事之一書、以待死期之至也。
【読み】
先生の壯より晩に至る、常に貧窮の閒に立ち能く支吾し狼狽せず。衣は一も其の破絮を見ず、飮食も亦精潔甘美にして、生を養うこと尤も至れり。其の活計の制、節儉の度、區劃最も密なり。嘗て曰く、節儉の策、大は易く小は難し、と。若し先生をして其の志を得しむれば、則ち家國何か有らん。固より二理無し。幸田語録中に家計と經濟との一事有り。先生言いて曰く、天下の經濟は猶衆人の家計を言うがごとし、と。葢し其の若年より、志は經濟に在り。豈人を慢りて然らんや。然りと雖も小心翼翼、毎に小物を務め、敢えて少しも置かず。亦大事と何をか擇ばん。殊に處事に長じ、百度萬般、經畫を前に定め、區別を豫め具え、時に臨みて綽然として餘裕有り。獨り生事のみならず、鬼事も亦年を待たずして之を制し禮に備う。沒するの十年前、選具して缺遺無く、而も別に後事の一書を緘し、以て死期の至るを待てり。

先生晩年多凶、失千載之望。迂齋之孫繼子早世、家終絶矣。雖其痛惻摧心胸、未嘗向人説憂患、自負煩苦、權宜之制最盡。嗚呼先生終身祚薄、事常多差。雖然經畫早定、居之泰然、處之裕如。其格致之效、以至於命者乎。
【読み】
先生の晩年凶多く、千載の望みを失う。迂齋の孫繼子早世し、家終に絶えたり。其の痛惻心胸を摧[くだ]くと雖も、未だ嘗て人に向かいて憂患を説かず、自ら煩苦を負い、權宜の制最も盡くす。嗚呼先生終身祚 [さいわい]薄く、事常に差うこと多し。然りと雖も經畫を早く定め、之に居して泰然たり、之に處して裕如たり。其の格致の效、以て命に至る者か。

先生平素處己、禮容恭儉、毫無瞞盱惰容驕夸傲言。故自遠怨怒橫逆侮慢之辱。嘗曰、受人之侮者、己之不恭職之由。常戒懼焉。最防火災。往年寓江戸之客舍、將歸之日、嚴滅爐火、以使店主點檢而後去。凡百事雖不敢忽、殊畏制禁。戰兢如惰夫然。嘗戒人曰、此鄕當謹守國禁待季秋速折釣竿絶鳥肉矣。此近里自國初官掣鷹之地、故有捕魚鳥之禁也。
【読み】
先生の平素己を處する、禮容恭儉、毫も瞞盱の惰容驕夸の傲言無し。故に自ら怨怒橫逆侮慢の辱に遠ざかる。嘗て曰く、人の侮りを受くるは、己の不恭職の由、と。常に戒懼す。最も火災に防 [そな]える。往年江戸の客舍に寓し、將に歸らんとするの日、嚴に爐火を滅し、以て店主をして點檢せしめ、而る後去る。凡そ百事敢えて忽[ゆるが]せにせずと雖も、殊に制禁を畏る。戰兢、惰夫の如く然り。嘗て人を戒めて曰く、此の鄕當に國禁を謹守し季秋を待ちて速かに釣竿を折り鳥肉を絶つべし、と。此の近里、國初より官の鷹を掣 [ひ]くの地、故に魚鳥を捕うるの禁有りしなり。
【語釈】
・瞞盱…瞞はだますこと。盱はみはること。
・驕夸…おごりたかぶること。
・季秋…陰暦九月。

秀直問處患難如何。先生曰、不愛一頸、則萬事定矣。其臨義不顧死生者、既斷然見氣概之表、其操確乎不可拔者、夫先生乎。一日酒後笑曰、某往年在江戸、偶罹厲虐之疾、自決其死。不圖痊瘳之後、乃反發背初心之異念、未以爲幸焉。其激發之至、痛洗利心、極絶外飾。世榮不意、聞達不求、澡雪之功、誠正之驗、隱顯爲一。至其心術之微、則未讓先達。而幽不怍鬼神、明不愧人閒者、亦夫先生乎。
【読み】
秀直問う、患難に處すること如何、と。先生曰く、一頸を愛[お]しまずんば、則ち萬事定まる、と。其の義に臨みて死生を顧みざる者、既に斷然として氣概の表を見わし、其の操確乎として拔く可からざる者は、夫れ先生か。一日酒の後に笑いて曰く、某往年江戸に在り、偶々厲虐の疾に罹り、自ら其の死を決す。圖らずして痊瘳の後、乃ち反って初心に背くの異念を發し、未だ以て幸いと爲さず、と。其の激發の至るや、痛く利心を洗い、極めて外飾を絶つ。世榮を意わず、聞達を求めず、澡雪の功、誠正の驗、隱顯一と爲る。其の心術の微に至るや、則ち未だ先達に讓らず。而して幽に鬼神に怍じず、明に人閒に愧じざる者は、亦夫れ先生か。
【語釈】
・痊瘳…癒えること。

先生之學、早明道體而通事情、尤長無極太極性理之談、而業既成矣。爾後吾黨諸老尋而逝焉。明和以來、京師獨有訂齋先生、東武有幸田先生及我先生。葢道學之衰、未有甚於此時者、而闇齋佐藤子之學、不絶如線。況復天下益厭道學、而僅學焉者、亦非第一等之人乎。君子雖任道之切、而衰世之運、可如之何哉。先生終隱、而日日録所以自發揮之旨訣、又善筆先諸達之遺言事實。多出乎其一手之業、而空俟後之子雲而已。是故今日東方之學、傳于世者、葢先生之功也。
【読み】
先生の學、早に道體を明らかにして事情に通じ、尤も無極太極性理の談に長じて、業既に成れり。爾後吾黨の諸老尋いで逝けり。明和以來、京師に獨り訂齋先生有り、東武に幸田先生及び我が先生有り。葢し道學の衰え、未だ此の時より甚しきは有らず、而して闇齋佐藤子の學、絶えざること線の如し。況んや復 [また]天下益々道學を厭いて、僅かに學ぶ者も、亦第一等の人に非ず。君子道を任ずること切なりと雖も、衰世の運、之を如何す可けんや。先生終に隱れ、日日以て自ら發揮する所の旨訣を録し、又善く先諸達の遺言事實を筆すること、多く其の一手の業より出し、而して空しく後の子雲を俟つのみ。是れ故に今日東方の學の世に傳わるは、葢し先生の功なり。
【語釈】
・訂齋…久米訂斎。三宅尚斎門人。名は順利。通称は断二郎。尚斎の娘婿。1784年没。

先生家書、皆則大學近思録之條目、以發道學之要也。大學八條、近思十四目、先師家學之龜鑑、而其踐履所自出也。乃其終始闢異端之邪説、退百家之陋習、痛説極辨、不得遁其情也。上自天道鬼神造化時運之奧、下至日用彝倫齋家經國之密、其所講、探頤鈎深顯微闡幽、其所得、理事一串、渾融浹合、無不盡至當也。
【読み】
先生の家書は、皆大學近思録の條目に則り、以て道學の要を發す。大學八條、近思十四目は、先師家學の龜鑑にして、其の踐履の自ら出でし所なり。乃ち其の終始は異端の邪説を闢き、百家の陋習を退け、痛説極辨、其の情を遁れるを得ざるなり。上は天道鬼神造化時運の奧より、下は日用彝倫齋家經國の密に至るまで、其の講ずる所は、頤を探り深を鈎り微を顯わし幽を闡き、其の得る所は、理事一串、渾融浹合して、至當を盡くさざること無し。

秀直嘗竊謂、先生之學之柄、信所謂心與理之外無他矣。先生曰、朱子曰、人之爲學心與理而已矣。此語三見朱書中。眞秘藏第一之訓也。而其所以事之任、自斷曰、我乃此學之捕吏。身雖微賤、不敢避貴戚也。是以雖實尊先輩、不敢阿所好、而公然議其所未盡。凡天下之學、辨是非異同、欲以章明永垂後裔也。
【読み】
秀直嘗て竊かに謂えらく、先生の學の柄は、謂う所の心と理との外は他無きを信ず、と。先生曰く、朱子曰く、人の學を爲むるは心と理とのみ、と。此の語三たび朱書中に見ゆ。眞に秘藏第一の訓なり、と。而して其の以て事とする所の任は、自ら斷じて曰く、我は乃ち此の學の捕吏たり。身は微賤なりと雖も、敢えて貴戚を避けず。是れを以て實に先輩を尊すと雖も、敢えて好む所に阿らずして、公然として其の未だ盡くさざる所を議す。凡そ天下の學は、是非異同を辨じ、以て章明永く後裔に垂れんと欲するなり、と。

先生之出處、高尚不可測、迥然不可據、非後學所以可輒語。而老儒或有議者也、由徒視其顯不能深察其微已。先生若弱既深識邦國之時體。儒醫者制在除名、唯祿仕賓師、則置而不論。雖才識幹事、而經濟之柄、未下儒手、則何裨補之有。
【読み】
先生の出處、高尚にして測る可からず、迥然[けいぜん]として據る可からず、後學の以て輒ち語る可き所に非ず。而して老儒の或いは議する者有るは、徒に其の顯わるるを視て深く其の微を察すること能わざるに由るのみ。先生若弱にして既に深く邦國の時體を識る。儒醫者の制は除名に在り、唯祿仕賓師は、則ち置きて論せず。才識事を幹すと雖も、而して經濟の柄、未だ儒の手に下さざれば、則ち何の裨補か之有らん。
【語釈】
・迥然…遥かなこと。遠いこと。
・除名…古代の律で、特定の重罪を犯した官人から、六年間、すべての位階・官職を剥奪する付加刑。
・裨補…たすけおぎなうこと。たすけ。

佐藤子嘗聞鳩巣子之出曰、唐虞之治、今將可庶幾焉。先生固遂隱操者、葢其見亦在於斯而然耶。遇世而出明道天下者、伊尹太公也。不遇而處傳學萬世者、孔孟也。是正出處之標準、而我先達之去就隱顯、葢取于此已。故先生業進學成。父師進仕。先生懇謝不肯。二老亦不敢強。信其志也。先生其豈謂不知時體乎。何謂不明出處之道乎。他日恝然謂人曰、若有召我者、止於俸祿萬鐘月講一課、不敢給他事、則我可出仕。
【読み】
佐藤子嘗て鳩巣子の出を聞きて曰く、唐虞の治、今將に庶幾う可し、と。先生の固く隱操を遂げしは、葢し其の見も亦斯に在りて然るや。世に遇いて出で道を天下に明らかにする者は、伊尹太公なり。遇わずして處り學を萬世に傳えし者は、孔孟なり。是れ正に出處の標準にして、我が先達の去就隱顯は、葢し此を取りしのみ。故に先生の業進み學成る。父師仕を進む。先生懇謝して肯ぜず。二老も亦敢えて強いず。其の志を信ずればなり。先生其れ豈時體を知らずと謂わんや。何ぞ出處の道を明らかにせずと謂わんや。他日恝然 [かいぜん]として人に謂いて曰く、若し我を召す者有らば、俸祿萬鐘月講一課に止め、敢えて他事を給せざれば、則ち我出仕す可し、と。
【語釈】
・鳩巣子…室鳩巣。江戸中期の儒学者。名は直清。江戸の人。将軍吉宗の侍講。1658~1734
・唐虞…陶唐氏と有虞氏。堯と舜。
・恝然…物事に無頓着なこと。

其壯歳遂祝髪。固避塵俗、絶世榮、深爲市中隱、判然明其不仕。而韜晦形跡、徜徉物外、一任自適。見者目之以顚狂、聞者詈之以異端。親戚患焉、師友傷焉。膾炙人口、以掲集會之話頭也。是以舊遊親者、多警其異状。先生曰、我不敢絶妻肉害彝倫、則何傷焉。我國俗頂髪半而與古異者、獨如何。是亦爲狂爲異端乎。先生初謀百法而事定、則終始不必變易矣。後年偶疾久臥、鬚髪肆長。是以不復剃也。
【読み】
其の壯歳、遂に祝髪し、固く塵俗を避け、世榮を絶ち、深く市中の隱と爲り、判然として其の仕えざるを明らかにす。而して形跡を韜晦し、物の外に徜徉し、一に自適に任す。見る者は之を目するに顚狂を以てし、聞く者は之を詈るに異端を以てす。親戚患い、師友傷む。人口に膾炙し、以て集會の話頭に掲ぐ。是れ以て舊遊親者、多く其の異状を警む。先生曰く、我敢えて妻肉を絶ち彝倫を害さざれば、則ち何をか傷まん。我が國俗の頂髪を半ばにして古と異なるは、獨り如何。是れも亦狂と爲し異端と爲すか、と。先生、初めに百法を謀りて事定むれば、則ち終始必ずしも變易せざるなり。後年偶々疾みて久しく臥し、鬚髪肆長す。是れ以て復剃らず。
【語釈】
・祝髪…髪を剃ること。髪を剃って僧侶となること。剃髪。
・韜晦…自分の才能・地位などをつつみかくすこと。形跡をくらましかくすこと。

安永元年、壬辰。先生適於京師。有紀行、曰西遊轎録。初見訂齋先生。訂翁時年七十四、先生年四十一。訂齋寵異先生甚至。會談數囘、互相歡好、如舊相識。
【読み】
安永元年、壬辰。先生京師に適く。紀行有り、西遊轎録と曰う。初めて訂齋先生に見ゆ。訂翁時に年七十四、先生年四十一。訂齋、先生を寵異すること甚だ至れり。會談數囘、互いに相歡好すること、舊より相識れるが如し。
【語釈】
・安永元年…1772年。

先生壯歳至不惑、隱於市中及墨水。知命之歳、天明元年辛丑八月九日泛舟啓行、以去江都。志水義質、松本義上、高須順正、日原以道、各送先生別于行德驛。先生舟中作一書以與四子。詳見辛丑雜記。時年五十。移于上總清名幸谷。村名鵜澤氏父子兄弟、迂齋先生門人。先生友也。故迎之以卜其居。至此固閉門謝俗、殆二十年、終世未嘗一出其門也。秀直一日訪先生、見其屋漏掛一草鞋、怪問其故。先生曰、我若與里人不合、則欲不俟終日而去、爲豫備已。秀直動悸、深感其言。先生萬般已豫事前、而不屈事後。謀慮敏捷、不在人後。其剛毅英斷、誰復如此。
【読み】
先生壯歳より不惑に至り、市中及び墨水に隱る。知命の歳、天明元年辛丑八月九日舟を泛べて啓行し、以て江都を去る。志水義質、松本義上、高須順正、日原以道、各々先生を送り行德驛にて別る。先生舟中にて一書を作り、以て四子に與う。詳しくは辛丑雜記に見ゆ。時に年五十。上總清名幸谷に移る。村の名鵜澤氏父子兄弟は、迂齋先生の門人。先生の友なり。故に之を迎え以て其の居を卜す。此に至りて固く門を閉し俗を謝すこと殆ど二十年、世を終うるまで未だ嘗て一も其の門を出でず。秀直一日先生を訪い、其の屋漏に一つの草鞋の掛けしを見て、怪しみて其の故を問う。先生曰く、我若し里人と合わざれば、則ち日の終わるを俟たずして去らんと欲す、爲に豫め備うのみ、と。秀直動悸し、深く其の言に感ず。先生萬般已に事前に豫めして、事後に屈せず。謀慮敏捷、人後に在らず。其の剛毅英斷、誰か復此の如くならん。
【語釈】
・天明元年…1781年。

三年癸卯四書或問抄略成焉。後來享和二年壬戌館林侯梓藏焉。寛政元年己酉夏大旱。先生憂苦、卻書生使其各自專盡農事切求水利、鑿井灌田之類。以勵養枯苗之力也。秀直閒時獨得聞鬼神集説之講。先生編鬼神集説考證。
【読み】
三年癸卯、四書或問抄略成る。後來享和二年壬戌、館林侯梓藏す。寛政元年己酉夏、大旱。先生憂苦し、書生を卻け、其れ各々自ら專ら農事を盡くし、切に水利、井を鑿ち田を灌するの類。を求め、以て枯苗を養うの力を勵ましむ。秀直閒時、獨り鬼神集説の講を聞くを得。先生鬼神集説考證を編む。
【語釈】
・三年…天明3年。1783年。
・享和二年…1802年。
・寛政元年…1789年。

五年癸丑之秋、館林侯、松平久五郎、後稱右近將監。老臣、尾關隼人、松倉主水。欲使幼君學正學。大臣共謀延先生爲師範、乃命於儒臣鈴木恭節東行、先容其意。先生意固在不出、而慮煩再請、徐荅曰、某明春欲展省父母之墓。至之日宜謀事荅懇命。幸勿復問焉。十一月聘使川鰭源藏、侯之傅。副使恭節、訪先生之廬。謹陳書及侯言曰、孤及一二老臣、久仰先生正學德風。冀得一西遊辱敎道、則敝藩之幸、何任積望之懽。敢納方金若干光絹三匹茶酒及八丈帛外套、但外套母君所遺也。聊以致微諒。昭察惟祈。先生事差乎往日之慮、而大怪。雖然侯賜非可固辭。乃進拜納、復席曰、信今老劣衰弱。假令雖辱顧問、何益之有。希垂高恕、明春待暖、再旬遊都下。須敢望高邸拜謝侯賜焉。
【読み】
五年癸丑の秋、館林侯、松平久五郎、後に右近將監と稱す。老臣、尾關隼人、松倉主水。幼君をして正學を學ましめんと欲す。大臣共先生を延きて師範と爲さんと謀り、乃ち儒臣鈴木恭節に命じ東行し、先に其の意を容る。先生の意固より出でざるに在り、而も再請を煩わすを慮り、徐ろに荅えて曰く、某明春父母の墓を展省せんと欲す。至るの日、宜しく事を謀り懇命に荅えん。幸に復問うこと勿れ、と。十一月、聘使川鰭源藏、侯の傅。副使恭節、先生の廬を訪う。謹みて書及び侯の言を陳べて曰く、孤及び一二の老臣、久しく先生の正學德風を仰ぐ。冀わくは一たび西遊して敎道を辱するを得ば、則ち敝藩の幸、何ぞ積望の懽 [よろこび]に任[た]えんや。敢えて方金若干光絹三匹茶酒及び八丈帛外套、但し外套は母君の遺す所なり。を納め、聊か以て微諒を致す。昭察を惟れ祈らん、と。先生、事往日の慮りに差えば、大いに怪しむ。然りと雖も侯賜は固辭す可きに非ず。乃ち進んで拜納し、席に復して曰く、信は今老劣衰弱せり。假令顧問を辱すと雖も、何の益か之れ有らん。希くは高恕を垂れ、明春暖を待ちて、再旬都下に遊ばん。須らく敢えて高邸に望み侯賜を拜謝すべし、と。
【語釈】
・五年…寛政5年。1793年。
・鈴木恭節…通称は長蔵。黙斎門下。1762~1830

明年甲寅春三月十一日、啓行江都。門人大木丹二、及秀直從焉。寓八丁堀客舍。門人小川氏官舍。乃詣侯邸、謹謝往年重聘、爲侯進講小學之書。侯殊作書、賜俸三十口。老臣等請曰、後年希在視春秋時令西行之佳、以意命駕。辱永承敎誨、則千萬幸甚。先生謹謝恩遇、固辭俸而不受。其講暇省祖先父師之墓。語秀直等曰、先師之碑、猶使人畏矣。徧問親戚、出入必有限、未必失半刻。遊中又爲桑名侯、松平下總守。所延、學談數刻而退。爲新發田侯、溝口出雲守。丸龜公子、京極蔀。進講焉。應仲遷之請爲公子講好學論。新發田侯之筵、未詳講何書。都下門人故舊來訪日多。先生果再旬告歸。侯酒禮盛饌尤至。賜白銀十枚。先是早春爲門人講考盤之詩、益見不出之意。
【読み】
明年甲寅春三月十一日、江都に啓行す。門人大木丹二、及び秀直從う。寓八丁堀客舍。門人小川氏官舍。乃ち侯邸に詣り、謹みて往年の重聘を謝し、侯の爲に小學の書を進講す。侯殊に書を作り、俸三十口を賜う。老臣等請いて曰く、後年希わくは春秋の時令に西行の佳を在視するの意を以て駕を命ぜん。永く敎誨を承るを辱すれば、則ち千萬幸甚なり、と。先生謹みて恩遇を謝し、固く俸を辭して受けず。其の講暇に祖先父師の墓を省す。秀直等に語りて曰く、先師の碑は、猶人をして畏れしむ、と。徧く親戚を問い、出入には必ず限有り、未だ必ずしも半刻を失せず。遊中又桑名侯、松平下總守。に延かれる所、學談數刻にして退く。新發田侯、溝口出雲守。丸龜公子、京極蔀。の爲に進講す。仲遷の請に應じ公子の爲に好學論を講ず。新發田侯の筵、未だ何の書を講ぜしか詳かならず。都下の門人故舊の來訪日々に多し。先生果して再旬にして歸るを告ぐ。侯の酒禮盛饌尤も至れり。白銀十枚を賜う。是れより先早春、門人の爲に考盤の詩を講じ、益々出でざるの意を見わす。
【語釈】
・大木丹二…東金市北幸谷の人。名は忠篤。権右衛門。孤松庵を譲り受ける。1765~1827

七年乙卯春二月、本里檀寺主僧某、挾檀師來。率爾入戸就座、厲色以直難先生曰、自叟之敎授此地、大害衆生之心、以至於不尊祈禱輕視檀師。適敎之非故也。爾後吾親入講席、悉檢察矣。先生徐荅之曰、予未嘗敎門人輕檀師廢祈禱。但遊吾門者一年半歳閒、概自覺無地獄天堂。葢是以然歟。吾固不能禦其自悟者也。僧不能復言。亦不再來。
【読み】
七年乙卯春二月、本里檀寺主僧某、檀師を挾みて來たり。率爾として戸に入り座に就き、色を厲し以て直ちに先生を難じて曰く、叟の此の地に敎授せしより、大いに衆生の心を害し、以て祈禱を尊ばず檀師を輕視するに至る。適々敎の非なる故なり。爾後吾が親を講席に入れ、悉く檢察せん。先生徐ろに之に荅えて曰く、予未だ嘗て門人に檀師を輕んじ祈禱を廢するを敎えず。但々吾が門に遊ぶ者は一年半歳の閒に、概ね自ら地獄天堂の無きを覺る。葢し是れ以て然るか。吾固より其の自ら悟る者を禦ぐこと能わざるなり。僧復言うこと能わず。亦再び來ず。
【語釈】
・七年…寛政7年。1795年。

先生即告里長而離絶其檀綠、別卜爽塏地。請成東一禪寺、元倡寺。而爲檀師。先生自是辭門人集會及列國藩士請遊學者、遂廢敎學、自晦於茶酒之閒。其言曰、吾非誘講學之人也。占曰、有孚于飮酒无咎。濡其首、有孚、失是。其庶幾無大過乎。以上見郤生徒説。秀直抄出其梗概已。
【読み】
先生即ち里長に告げて其の檀綠を離絶し、別に爽塏の地を卜す。成東の一禪寺、元倡寺。を請いて、檀師と爲す。先生是れより門人集會及び列國藩士の遊學を請う者を辭し、遂に敎學を廢し、自ら茶酒の閒に晦す。其の言に曰く、吾は講學を誘う人に非ざるなり。占に曰く、孚 [まこと]有れば飮酒に咎无し。其の首を濡らすは、孚有りても是を失う。其れ大過無きに庶幾からん、と。以上生徒を郤くの説に見ゆ。秀直其の梗概を抄出するのみ。
【語釈】
・爽塏…乾燥した高台
・有孚于飮酒无咎。濡其首、有孚、失是…易経未済上九。

十一年戊午之春應館林侯之請、而再遊館江都、寓弓坊之客舍。進講十餘日、侯家寵遇恩賜益篤。故舊門人、日來問學。虛往實歸之益未鮮。先生時年六十七、從是後養老不復西矣。侯家宰執諸大夫之賢、專尊道學、善務政務、信先生長於事、數寄書以謀國事。侯藩新建學校。先生命之曰道學館。當時先生語吾輩曰、扁掲道學館三字。後來伊荻文辭之徒或雖靦面目、而豈得入而講書哉。又邸學名官偸舍。或邦治以歡農爲主、更始設其官吏。是以治敎超列國云。
【読み】
十一年戊午の春、館林侯の請に應じて、再び江都に遊館し、弓坊の客舍に寓す。進講すること十餘日、侯家の寵遇恩賜益々篤し。故舊門人、日に來たりて問學す。虛往實歸の益未だ鮮からず。先生時に年六十七、是れ從り後、老を養いて復西せず。侯家宰執諸大夫の賢、專ら道學を尊び、善く政務を務め、先生の事に長ずるを信じ、數々書を寄せ以て國事を謀る。侯、藩に新たに學校を建つ。先生之に命じて道學館と曰う。當時先生吾輩に語りて曰く、扁に道學館の三字を掲ぐ。後來伊荻文辭の徒、或は靦 [てん]して面目せんと雖も、而して豈入りて書を講ずるを得んや、と。又、邸學を官偸舍と名づく。或は邦治は歡農を以て主と爲し、更に始めて其の官吏を設く。是れ以て治敎は列國に超えりと云う。
【語釈】
・十一年…寛政11年。1799年。
・扁…額。名札。
・伊荻…伊藤仁斎と荻生徂徠。
・靦…あつかましいこと。

先生之在清谷也、精義操存日熟、其業益進、其德益著。而尚未以爲足、終日讀書作文不輟。猶書生然也。講學既優、警戒日密。固衞斯文、不一背朱夫子之訓矣。其誠之至、能敎子弟、篤喩里民。殊懇示三日斂。葬之義。是以鄕村多惡火葬、棺斂效禮。始用櫪青者、先生之化導也。
【読み】
先生の清谷に在るや、精義操存日々に熟し、其の業益々進み、其の德益々著わる。而も尚未だ以て足ると爲さず、終日書を讀み文を作るを輟[や]めず。猶書生のごとく然り。講學既に優れ、警戒日に密なり。固く斯文を衞り、一も朱夫子の訓に背かず。其の誠の至れる、能く子弟を敎え、篤く里民を喩す。殊に懇ろに三日の斂。葬の義。を示す。是れ以て鄕村多く火葬を惡み、棺斂は禮を效す。始めて櫪青を用いるは、先生の化導なり。

其晩誘掖門徒、定立課程。敎授之法、嚴則程朱之讀法、純守家學之定規、循循有次序、不敢許踰等走捷徑也。先是南總之俗、往往無父兄之敎誨、其或爲學者、亦詞章記聞之陋習耳。然先生諄誨懇喩、無所不盡矣。講會之課、雖病而不敢闕、祁寒暑雨、雖酷而不敢廢、長日永夜、雖飢而不敢倦。其説書也、四筵解頤、懸河之辯。賢愚峙聽。説高而不虛、解卑而不淺。古以今徴、今託古避。其考證援引、多稱先達之活説、爬疏剖析、詳明經傳之旨訣。滋味奧義愈出愈新。著實親切、精彩發見。精彩二字、先生嘗所示學者也。故聽徒自有得其彷彿者也。是以不屑老釋覇功刑名之術記誦操觚之習。稍悟他術之可廢道學之不可易、以發向道之志矣。且權輿南總之道學者、先生之厚澤也。
【読み】
其の晩は門徒を誘掖し、課程を定立す。敎授の法は、嚴に程朱の讀法に則り、純ら家學の定規を守り、循循として次序有り、敢えて等を踰え捷徑に走るを許さず。是れより先、南總の俗は、往往にして父兄の敎誨無く、其れ或は學を爲むる者も、亦詞章記聞の陋習あるのみ。然るに先生、諄誨懇喩、盡くさざる所無し。講會の課、病むと雖も敢えて闕かず、祁寒暑雨、酷なりと雖も敢えて廢さず、長日永夜、飢うと雖も敢えて倦まず。其の書を説くや、四筵頤を解き、懸河の辯に、賢愚聽を峙つ。高きを説きて虛ならず、卑きを解きて淺からず。古は今を以て徴し、今は古に託して避く。其の考證援引、多く先達の活説を稱し、爬疏剖析、詳らかに經傳の旨訣を明らかにす。滋味奧義愈々出で愈々新たなり。著實親切に、精彩を發見す。精彩の二字、先生嘗て學者に示す所なり。故に聽徒自ら其の彷彿を得る者有るなり。是れ以て老釋覇功刑名の術、記誦操觚の習を屑しとせず。稍 [やや]他術の廢す可く、道學の易わる可からざるを悟り、以て道に向かうの志を發す。且つ南總の道學を權輿せしは、先生の厚澤なり。
【語釈】
・操觚…文筆に従事すること。
・權輿…はじまり。事の起り。発端。

先生垂古稀罹不治之病。自知不復起、而絶藥餌。門人惟秀稟曰、使松慶診則如何。先生奮然曰、彼若使我起、何使重次死。惟秀畏屈。嗚呼先生之死、追悼重次之深、何亦至此。其後門人以先生愛丹二、使彼進湯藥、爲之少服。病閒謂人曰、吾門徒未嘗講禮。吾死則必狼狽已。又曰、吾今日得其死。先生果病革。會館林侯使者某、門人鈴木恭節。至、謹告侯命問病納幣。先生將已絶、而頭不能擧、口不能言。幸養女在傍。稍勉目示、使彼代受其賜、而先生沒矣。實寛政己未十一月朔也。享年六十八。蓋始振起道學於東方者、闇齋先生、而佐藤淺見三宅三先生繼其傳、集而全備之者先生也。門人主事、棺斂以禮。葬于上總成東元倡寺境内西南隅。其家書文稿語録諸講義數百卷、藏門人之家。
【読み】
先生古稀に垂んとして不治の病に罹る。自ら復起たざるを知りて、藥餌を絶つ。門人惟秀稟して曰く、松慶に診せしむは則ち如何、と。先生奮然として曰く、彼若し我を起たしめば、何ぞ重次をして死なしめんや、と。惟秀畏れて屈す。嗚呼先生、死に之 [いた]りて、重次を追悼するの深き、何ぞ亦此に至れるや。其の後門人、先生の丹二を愛するを以て、彼をして湯藥を進めしめ、之が爲に少しく服す。病閒人に謂いて曰く、吾が門徒未だ嘗て禮を講ぜず。吾死すれば則ち必ず狼狽するのみ、と。又曰く、吾今日其の死を得ん、と。先生果して病革まる。會々 [たまたま]館林侯の使者某、門人鈴木恭節。至り、謹みて侯命より病を問い、幣を納めんと告ぐ。先生將に已に絶えんとして、頭を擧ぐること能わず、口は言うこと能わず。幸に養女傍に在り。稍々勉めて目示し、彼をして代わりて其の賜を受けしめ、而して先生沒す。實に寛政己未十一月朔なり。享年六十八。蓋し始めて道學を東方に振起せしは、闇齋先生にして、佐藤淺見三宅三先生は其の傳を繼ぎ、集めて之を全備せしは先生なり。門人事を主 [つかさど]り、棺斂は禮を以てす。上總成東元倡寺境内の西南隅に葬る。其の家書文稿語録諸講義數百卷は、門人の家に藏せり。
【語釈】
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812
・重次…中田重次。東金市堀上の人。寛政10年(1798)11月没。
・寛政己未十一月朔…寛政11年(1799)11月1日。

林秀直曰、先生臨終之時、亡人亦在席上。葢懼彼代受侯賜、而目示養女耳。又意、禮家或責其不避女子以爲議焉。然先生無親戚家僕備將護者、唯養女供使令已。豈效犬馬獨斃野外哉。先生嘗爲禮、非弄死蛇之手段者、已存家禮抄略。又何差終焉之禮哉。嗚呼先生究格克治、素養之熟、而克塞之浩氣、激昂之精神、丁其臨終之際最著矣。非體道學嚴心術者、誰能得然乎。
【読み】
林秀直曰く、先生臨終の時、亡人も亦席上に在り。葢し彼代りて侯賜を受くるを懼れて、養女に目示せしのみ。又意えらく、禮家、或は其れ女子を避けざりしを責め、以て議を爲す。然れども先生、親戚家僕の將護に備うる者無く、唯養女をして使令に供するのみ。豈犬馬の獨り野外に斃るるを效 [まね]んや。先生嘗て禮を爲むる、死蛇を弄するの手段に非ざるは、已に家禮抄略に存せり。又何ぞ終焉の禮に差わんや。嗚呼先生の究格克治、素養の熟、而して克塞の浩氣、激昂の精神、其の臨終の際に丁 [あた]り最も著る。道學を體し心術を嚴にする者に非ずして、誰か能く然るを得んや。


参考資料
黙斎先生傳本文
林潜斎『稲葉黙齋先生傳』を読む(長野美香 聖心女子大学論叢)
東金市史