稲葉黙齋先生農村自治ニ關スルノ訓戒
                                後學 田原鋼三郎稿
緒言
あし原の瑞穂の國の稲葉には穗に穗かさなる秋ぞ豊けきトハ、小生ノ示教ヲ蒙リタル石井周庵先生ノ、山﨑闇斎先生以來道統ノ諸先軰ヲ賛シタル歌ノ其ノ一ニシテ、稲葉黙斎先生ノ集大成ノ功ヲ稱シタル者ナリ。吁[ああ]黙斎先生英雄ノ姿ヲ以テ聖賢ノ學ヲ作シ、諸先哲ノ善美ヲ集メテ之ヲ大成シ、規模ノ廣大ニシテ條理ノ詳密ナル、實ニ我邦道学ノ泰斗、萬世ノ師表ナリ。其王佐ノ才ヲ抱負セルヤ、出テヽハ君ヲ堯舜ノ君タラシメ、民ヲ堯舜ノ民タラシムルコトノ誣ユ可カラズトハ先儒已ニ定論アリ、我軰後学ノ敢テ喋々スル所ニアラズ。然ルニ此ノ如キ有為ノ器ヲ以テ世ニ遇ハズ、知命ノ年、遂ニ東海ノ濱ニ肥遯シ隠居、身ヲ終フ。上總國今ノ山武郡増穗村清名幸谷ハ其税駕ノ地ニシテ、天明元年辛丑秋八月九日ハ先生啓行泛舟江戸ヲ去ルノ日ナリ。門人志水義質松本義上高須順正日原以道ノ四人先生ヲ送テ行徳驛ニ別ル。先生舟中一書ヲ作リ以テ四子ニ與フ。其書ニ曰、有見天道性命之原者、必謹洒掃應對之節。是乃鳶飛魚躍活溌々地。學者分本末為両段之事。故見得不分明。然此項最有微意。以克己復礼明脩道之教。闇齋先生所以深有感于茲、誠能有得于此、四子六経不治而明。是吾學之本領也、ト。翌十日、里正鵜澤氏ノ宅ニ至リテ寓居ス。後五年乙已、居ヲ此地三木之荘、大原氏宅地之稱号。ニ移シ、名ケテ孤松庵ト曰フ。其ノ記アリ。遂ニ此地ニ終ハル。享年六十有八、時ニ寛政十一年已未十一月朔日、今ノ陽暦十一月二十七日ナリ。越テ五日、同州成東元倡寺ニ葬ル。卒スル前数日、十月二十四日。其手記スル所ニ曰ク、聖人專是道心、秋月照寒水。曽西艴然[ふつぜん]。是垩門氣象。○董氏曰、仲尼之門、五尺童子羞稱五伯。是叙垩門旨訣。徂徠・太宰平素稱先王仲尼之道。然又言、古無詆管仲者。詆管仲自孟子始矣。畢竟是自家喚成覇業也。右四條ハ正ニ是レ先生孤松全稿六八録ノ絶筆ナリ。
【語釈】
・田原鋼三郎…田原擔庵。名は秀熹。綱三郎と称す。成東町湯坂の人。昭和13年(1938)1月18日没。年68。
・石井周庵…名は一素。音吉と称す。大網白里町清名幸谷の人。明治36年(1903)9月5日没。年69。
・天明元年…1781年。
・志水義質…三九郎と称す。
・松本義上…丸亀藩の臣。
・高須順正…丸亀藩の臣。
・日原以道…手塚坦齋。初めは日原以道。小源太と称す。別号は困齋。土浦藩儒臣。手塚可貞の子。天保5年(1834)5月15日没。年73。
・有見天道性命之原者、必謹洒掃應對之節。是乃鳶飛魚躍活溌々地。學者分本末為両段之事。故見得不分明。然此項最有微意。以克己復礼明脩道之教。闇齋先生所以深有感于茲、誠能有得于此、四子六経不治而明。是吾學之本領也…「天道性命の原を見ること有る者は、必ず洒掃應對の節を謹む。是れ乃ち鳶飛び魚躍る活溌々地。學者本末を分かちて両段の事と為す。故に見得て分明ならず。然れども此の項最も微意有り。克己復礼を以て脩道の教を明らかにす。闇齋先生深く茲に感有る所以に、誠に能く此を得ること有らば、四子六経治めずして明らかなり、と。是れ吾學の本領なり。」
・寛政十一年…1799年。
・聖人專是道心、秋月照寒水。…朱子文集巻4の斎居感興五言詩凡廿首の一。「聖人專ら是れ道心、秋月寒水を照らす。」
・曽西艴然…孟子公孫丑章句上1。「或問乎曾西曰、吾子與子路孰賢。曾西蹵然曰、吾先子之所畏也。曰、然則吾子與管仲孰賢。曾西艴然不悦曰、爾何曾比予於管仲。管仲得君、如彼其專也。行乎國政、如彼其久也。功烈、如彼其卑也。爾何曾比予於是。」
・董氏曰、仲尼之門、五尺童子羞稱五伯。是叙垩門旨訣。…孟子梁恵王章句上7集註の語。是叙垩門旨訣。は「是れ聖門の旨訣を叙づ。」
・徂徠・太宰平素稱先王仲尼之道。然又言、古無詆管仲者。詆管仲自孟子始矣。畢竟是自家喚成覇業也。…「徂徠・太宰平素先王仲尼の道を稱す。然して又言う、古は管仲を詆る者無し。管仲を詆るは孟子より始まる。畢竟是れ自家覇業を喚成するならん。」

先生享保十七年壬子十一月十三日ヲ以テ江戸城東濱町山吹井ニ生ル。父ハ即チ迂斎先生、道學德行ヲ以テ盛名一世ニ冠タリ。下総古河城主土井侯ニ仕ヘ、職教授タリ。先生ハ其二子ナリ。幼ニシテ父ノ膝下ニ學ビ、長シテ父ノ命ヲ以テ野田剛斎先生ニ師事ス。幼ヨリ竒才アリ、早ク大意ヲ見、小成ニ安ンセズ、志ヲ第一等ニ寄セ、遠大ノ圖ヲ希ヒ、特逹英断世儒ヲ盖ヒ、才識老佛ヲ嘲罵ス。其先達ヲ尚友スル、最モ佐藤直方先生ヲ欽慕セリ。其遺書ヲ集メテ名ケテ韞藏録[うんぞうろく]ト曰フ。本篇・拾遺・續拾遺・四編等凡テ五十七巻、珎重服膺終始渝[か]ハラス。先生學益々進ミ雄辯能ク物情ヲ盡スヲ以テ、人多ク講筵ニ待スルコトヲ希フ。然レドモ其章句ニ縛シ見解ナキヲ見レバ、皆謝シテ之ヲ卻ク。意氣慷慨自ラ任ジ、腐儒因循ノ風ヲ切齒ス。頻年矦家老臣権ヲ弄シ君臣手ヲ閣[さしはさま]ヌ。先生之レガ為メニ舊弊ヲ改革シ宰執ヲ痛抑セント欲シテ達スルニ由ナシ。是ニ於テ大義ヲ論ジ同志ヲ勵シ、又通鑑綱目ヲ講究シ、自ラ靖献遺言ニ題シテ曰、是瞑眩ノ良剤、若シ人切ニ宿痾ヲ憂ヘバ、突出シテ我ガ毒手ニ觸レヨ、ト。又自ラ言フ、某粗卒狂獗[きょうけつ]ト雖モ、綱常ヲ振ヒ大義ヲ任ズルニ至テハ、則チ老師宿儒ト虽[いえど]モ少シク心ニ愧チザルナリ、ト。自ラ越復傳ヲ著シ、其末ニ曰、赴東海不知所之、ト。先生時ニ年二十有四。盖シ固ク出デザルノ意ヲ表スルナリ。後年門人花澤秀直ニ語リ笑テ曰ク、某今東海ニ隱ルヽ者、往年ノ傳其讖[しん]ヲ為スノミ、ト。壮歳其業進ミ學成リタレバ、父師先生ヲシテ仕ヘシメントス。先生懇謝シテ肯ンセズ。父師モ亦敢テ強ヒズ。先生ノ出處高尚ニシテ測ル可カラズ。後學ノ以テ輙[たやす]ク語ルベキ所ニ非ズ。世儒或ハ議スル者アリ。徒[ただ]ニ其顕ヲ視テ深ク其微ヲ察スルコト能ハザルナリ。先生少壮ヨリ既ニ深ク邦國ノ時體ヲ識レリ。儒醫ハ制除名ニ在リ。唯々禄仕賓師ハ則チ置テ論ゼズ。若シ才識事ニ幹タリト雖モ、経濟ノ柄儒手ニ下ラザレバ、則チ何ノ裨益カ之レ有ラン。コレ先生固ク隱操ヲ遂グル者、其見亦斯ニ在リテ然ル耶。
【語釈】
・享保十七年…1732年。
・赴東海不知所之…「東海に赴きて之[ゆ]く所を知らず。」
・花澤秀直…林潛齋。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。

寶暦十三年癸未ハ先生居ヲ牛嶋ニ卜シ、髪ヲ削リ人事ヲ謝スルノ歳ナリ。時ニ年三十二。或人ニ與フル書ニ曰ク、落髪與禮違、道服與俗背。又淵明ノ韻ヲ賡[つ]ギ自ラ述ブル詩ニ曰ク、牛嶋幽居裏、獨笑市朝喧。動作多簡傲、心志少陂偏。朝臨墨水流、暮望筑波山。山水終古在、造物去不還。玄妙自識取、昊天本無言、ト。其磊々落々俊異卓抜ノ氣象想見スベシ。嘗テ録スル所ノ册子ヲ名ケテ牛嶋隨筆ト曰フ。其中ニ言ヘルコトアリ曰ク、道妙在片言、経済之要亦在一杷柄。英雄豪傑於是思過半。又曰ク、使事業可観則取禍、欲免禍無事業可観者。吁不如不仕之為愈云々。末ニ録スル一条ニ曰ク、大丈夫一生宇宙間、須欲領海内之事。故讀書究理、達古今事迹、不得志則抱膝畝而已。英雄豪傑素不傚中材人之所為也、ト。當時先生祝髪シテ世榮ヲ絶チ、深ク市中ノ隱トナルヤ、見ル者之ヲ目スルニ顚狂ヲ以テシ、聞ク者之ヲ罵ルニ異端ヲ以テシ、親戚患ヒ師友傷ミ、往々以テ集會ノ話頭ニ登ル。是ヲ以テ舊遊ノ親シキ者多ク其異状ヲ警ム。先生曰ク、我レ敢テ妻肉ヲ絶チ彛倫[いりん]ヲ害ナハザレバ則チ何ゾ傷マンヤ。我カ國俗頂髪半ニシテ古ト異ナル者獨リ如何。是レモ亦狂トシ異端トスル乎、ト。著ス所ノ書先達遺事上梓世ニ行ルヽヤ、自家ノ藏本己レノ名ノ側ニ書入シテ曰、坊主ナリトテ軽視スル人ニ損アリテ吾ニ加損ナシ、ト。先生初メ百方謀慮シ、事定レバ則チ終ニ変易セズ。後年偶々病ニ臥スルコト久ク鬚髪肆[ほしい]マヽニ長ズ。是ヲ以テ復タ剃ラサルナリ。南總海近氣暖。三冬時或開扉。農夫苦勧負暄。似服天公賜衣。コレ先生肥遯ノ冬詠ずる所ノモノニシテ、夫ノ天命ヲ樂ミ復タ奚[なに]ヲ疑ハンノ風采想見スベキナリ。
【語釈】
・寶暦十三年…1763年。
・落髪與禮違、道服與俗背。…「落髪は禮と違い、道服は俗と背く。」
・牛嶋幽居裏、獨笑市朝喧。動作多簡傲、心志少陂偏。朝臨墨水流、暮望筑波山。山水終古在、造物去不還。玄妙自識取、昊天本無言…「牛嶋幽居の裏、獨り笑う市朝の喧。動作簡傲多く、心志陂偏少なし。朝に墨水の流れを臨み、暮に筑波山を望む。山水終古在り、造物去りて還らず。玄妙自ら識取す、昊天本言無し。」
・道妙在片言、経済之要亦在一杷柄。英雄豪傑於是思過半。…「道の妙は片言に在り、経済の要も亦一杷柄に在り。英雄豪傑是に於て思い半ばを過ぐ。」
・使事業可観則取禍、欲免禍無事業可観者。吁不如不仕之為愈云々。…「事業観る可からしむれば則ち禍を取り、禍を免れんと欲せば事業観る可き者無し。吁仕えざるの愈[まさ]れりと為すに如かず云々。」
・大丈夫一生宇宙間、須欲領海内之事。故讀書究理、達古今事迹、不得志則抱膝畝而已。英雄豪傑素不傚中材人之所為也…「大丈夫一たび宇宙の間に生まれれば、須く海内の事を領せんと欲すべし。故に書を讀み理を究め、古今の事迹に達し、志を得ざれば則ち畝に抱膝するのみ。英雄豪傑は素より中材人の為す所を傚[なら]わず。」
・南總海近氣暖。三冬時或開扉。農夫苦勧負暄。似服天公賜衣。…「南總海近く氣暖かなり。三冬時に或は扉を開く。農夫苦[はなは]だ暄[けん]を負うを勧む。天公賜衣を服するに似れり。」「負暄」は、日なたぼっこ。

先生嘗テ新発田侯ヨリ賜ハル所ノ俸アリ。再三之ヲ辞スレトモ可[き]カズ。既ニシテ南總ニ隱レ、数々之ヲ辞シテ息[や]マズ。侯大ニ怒テ之ヲ聴キ、遂ニ先生ヲ踈メリ。是レ天命二年壬寅冬十月ニシテ、先生肥遯ノ翌歳ナリ。先生此ノ地ニ遯レテヨリ固ク門ヲ閉ヂ俗ヲ謝スルモノ殆ント二十年ニシテ簀ヲ易フ。平生妄リニ其門ヲ出デズ。門人花澤秀直一日先生ヲ訪フ。其屋漏一草鞋ヲ掛ルヲ見テ其故ヲ怪ミ之ヲ問フ。先生曰ク、我里人ト合ハザレバ則チ日ヲ終ルヲ俟タズシテ去ント欲ス。之ガ為メニ豫メ備フルノミ、ト。秀直動悸シテ深ク其言ニ感ジ、後年先生ノ傳ヲ著シ此言ヲ録シ、其後ニ書シテ曰、先生萬般已ニ事ノ前ニ豫ニシテ事ノ後ニ屈セズ。謀慮敏捷人ノ後ニ在ラズ。其剛毅英断誰レカ復タ之ニ如カンヤ。故ニ東セシヨリ以來、未ダ曽テ妄リニ人ニ交ハラズ。戸外ニ一書ヲ標シ、以テ紹介ナキノ人ヲ入レズ。自ラ言フ、事ノ端ヲ杜[ふさ]ヒテ敢テ里正ヲ煩ハサヾルナリ、ト。或ハ門人ト雖モ多ク之ヲ農事ニ託シテ之ヲ卻ク。唯々舊来門人ノ如キ、常ニ懇ニ教育ス。偶々過失有レバ則チ聞カザル者ノ為[まね]シテ其開悟ヲ待ツ。率ネ恕シテ問ハズ。或ハ若シ門法ニ背キ心術ヲ傷フ者ニ至テハ、痛呵假サズ、直チニ肚裏ヲ探リ巢窟ヲ破テ、其情ヲ掩フコト能ハザルナリ。一日門人高宮文七ヲ厳責ス。世俗ノ所謂閻王ノ冥譴ヲ断スルガ如シ。丸亀藩士河本仲遷、先生ノ同門。座ニ在リ、以テ湿薪ヲ束ルガ如シトス。先生嘗テ言フ、我終ニ人ヲ絶タズ、人我ニ遠カル者ハ逐ハズ、ト。嘗テ苟モ人ノ親ミヲ求メズ。然レトモ教ヲ請フ者ハ間テズ。常ニ曰ク、直方先生ヲ尊信スル者ハ我ガ門ニ入レヨ、ト。
【語釈】
・高宮文七…東金市押堀の人。
・河本仲遷…名は善。三左衛門と称す。丸亀藩士。

嘗テ佐藤子ノ冬至文ヲ表章シ一冊トシ、其後ニ書シテ曰、佐藤子卒既六十八年、先君子下世亦實二十七年。學者漸失其眞惑他岐投俗論、日歸卑陋之域、而初學可西可東之徒、遂受以為此誠道學之宗旨也。是則可歎矣。因表章冬至文、附三子之言於其後、以峻門風厳心術云。時ニ天明六年丙午正月、先生年五十有五、此歳冬至ノ日、課會ニ當ルヲ以テ諸生ノ為メニ此ノ書ヲ講ジ、花澤秀直之ヲ筆記シ、鈴木恭節追加ノ録アリ。先生為メニ朱筆ヲ加ヘテ之ニ賜フ。既ニシテ佐藤子ノ遺文ヲ発揮スル者凡テ七道ヲ摭[ひろ]ヒ取テ附録トシテ諸生ニ示ス。當時先生言ヘルコトアリ曰ク、學者韞藏録ヲ信セズシテ却テ駿臺雜話ヲ愛スルガ如キ、一種手嶋家ノ學ト伯仲ヲ相為ス、ト。
【語釈】
・佐藤子卒既六十八年、先君子下世亦實二十七年。學者漸失其眞惑他岐投俗論、日歸卑陋之域、而初學可西可東之徒、遂受以為此誠道學之宗旨也。是則可歎矣。因表章冬至文、附三子之言於其後、以峻門風厳心術云。…「佐藤子卒して既に六十八年、先君子の下世も亦實に二十七年なり。學者漸く其の眞を失い他岐に惑い俗論に投じ、日々に卑陋の域に歸して、初学西す可く東す可きの徒、遂に受けて以て此れ誠に道學の宗旨なりと為す。是れ則ち歎く可し。因りて冬至の文を表章し、三子の言を其の後に附し、以て門風を峻くし心術を嚴にすと云う。」

嗚呼先生王佐ノ才ヲ抱負シ、大ニ道學精微ノ玄理ヲ窮盡シ、深ク蘊奧ノ妙旨ヲ開発セル四書或問・抄略ノ篇アリ、實ニ近思ノ遺意ヲ續グモノナリ。嘗テ新発田ノ公子ノ為メニ家禮ヲ抄畧シ、以テ一家日用ノ便ニ供フルモノハ実ニ活蛇ヲ弄スルノ手段ナリ。丁未雜記ニ曰ク、予家禮抄略損三虞為一虞。固獲罪前垩、萬々無所逃罪也。然全之不行、孰若損之行之為愈。予處後世凡百難行之間、経歴事故之久、竊欲斟酌異國古礼於同志之間、以不障時制。亦與守文之虚礼、章句之末流別也、ト。故ニ其農村ニ隱ルヽヤ、時俗ノ制ヲ酌ミ、事ノ宜キニ隨ヒ、妄リニ高キヲ論ジテ行ヒ難キノ説ヲナサズ。常ニ曰ク、心ニノリノアル學問、事ニ實シタル経済、志・才・術ノ三アリテ経世ノ道立ツ、ト。又末書ヲ鬻[うっ]テ農業全書ヲ求メヨト云ヘルガ如キ、人ヲ誨[おし]ユル、循々トシテ序アリ。至誠ノ極、篤く里民ヲ喩[さと]シ、殊ニ三日歛ヲ示セリ。是ヲ以テ今ノ山武郡其德澤ニ浴スル尤モ深ク、餘光今ニ至リテ尽キザルナリ。郷里多ク火葬ヲ悪ンデ棺歛禮ニ效ヒ、始テ櫪青ヲ用井ル者ハ先生ノ化導ナリ。
【語釈】
・活蛇ヲ弄スル…朱子語類89。礼六。「伯量問、殯禮可行否。曰、此不用問人、當自觀其宜。今以不漆不灰之棺、而欲以磚土圍之、此可不可耶。必不可矣。數日見公説喪禮太繁絮、禮不如此看、説得人都心悶。須討箇活物事弄、如弄活蛇相似、方好。公今只是弄得一條死蛇、不濟事。」
・予家禮抄略損三虞為一虞。固獲罪前垩、萬々無所逃罪也。然全之不行、孰若損之行之為愈。予處後世凡百難行之間、経歴事故之久、竊欲斟酌異國古礼於同志之間、以不障時制。亦與守文之虚礼、章句之末流別也…「予が家禮抄略三虞を損して一虞と為す。固より罪を前垩に獲、萬々罪を逃るる所無きなり。然れども之を全くせば行われず、之を損して行うの愈れりと為すに孰若[いずれ]ぞや。予後世凡百行い難きの間に處し、事故を経歴するの久しき、竊かに異國の古礼を同志の間に斟酌して、以て時制に障らざらんことを欲す。亦守文の虚礼、章句の末流と別なり。」

壬寅雑記、肥遯ノ翌年。ニ曰ク、予在清名幸谷自謂、假令後日一二人家化予教、唯棺塗松脂、過三日而大歛二事而已。使民庻一々適禮、程朱其猶病諸。如祭春秋二中用肉饌、忌祭依舊素饌飯僧而可也。如此則漸禮俗可起。若一々欲如家禮、非特立人則不能也。如特立人則身至垩賢之域亦不難至。况於禮儀哉。如其誘引人々成禮俗、須望之以中人事、教之以可断可傳之事。是師導之術也。今如立志造祠堂制神主、亦或由是。毀浮屠霊牌、大生事。未知他縣、如此里中、一旦遽毀佛位廃僧飯、多必至訴訟。僧是其家之檀師。官建之。如祠堂制神主、則私家竊行己之志者。已學者於是大激怒。然是由不達禮之本。喪祭不如禮不足而哀敬有餘。哀敬若有餘、豈憂外面循時受浮屠之令。予故云、心喪之為心、仁之尽、義之至也。世之学者不察於此。怒浮屠之甚、却待浮屠之重也。今日葬事、檀僧關之者官之制也。是做有司看。豈可怒。是ヨリ先キ、天明辛丑秋七月、肥遯ノ前月。親属舊友ノ為メニ葬之心得ヲ著ハシ、其末ニ程子ノ言ヲ追記シテ曰ク、有死而復蘇者。故三日而歛。未三日而歛、皆有殺之理。天保七年丙申、館林侯其藩ニ刻ミ、文久三年癸亥、田邉侯又其藩ニ刻ム。各々序文アリ。先生晩ニ言ヘルコトアリ。予舊年作葬説主張三日歛。是以此試王道之可行今日否、ト。始メ父母ノ喪ニ遭ヒ内外艱劄記ヲ作ル。後學冝シク喪規トスベキモノナリ。
【語釈】
・予在清名幸谷自謂、假令後日一二人家化予教、唯棺塗松脂、過三日而大歛二事而已。使民庻一々適禮、程朱其猶病諸。如祭春秋二中用肉饌、忌祭依舊素饌飯僧而可也。如此則漸禮俗可起。若一々欲如家禮、非特立人則不能也。如特立人則身至垩賢之域亦不難至。况於禮儀哉。如其誘引人々成禮俗、須望之以中人事、教之以可断可傳之事。是師導之術也。今如立志造祠堂制神主、亦或由是。毀浮屠霊牌、大生事。未知他縣、如此里中、一旦遽毀佛位廃僧飯、多必至訴訟。僧是其家之檀師。官建之。如祠堂制神主、則私家竊行己之志者、已學者於是大激怒。然是由不達禮之本。喪祭不如禮不足而哀敬有餘。哀敬若有餘、豈憂外面循時受浮屠之令。予故云、心喪之為心、仁之尽、義之至也。世之学者不察於此。怒浮屠之甚、却待浮屠之重也。今日葬事、檀僧關之者官之制也。是做有司看。豈可怒。…「予清名幸谷に在りて自ら謂う、假令[たとい]後日一二の人家予が教に化すも、唯棺に松脂を塗り、三日を過ぎて大歛するの二事のみ。民庻をして一々禮に適わしむるは、程朱も其れ猶諸を病めり。祭の如きは春秋二中肉饌を用い、忌祭は舊に依りて素饌僧に飯して可なり。此の如くんば則ち漸く禮俗起こる可し。若し一々家禮の如くするを欲せば、特立人に非ざれば則ち能わざるなり。特立人の如きは則ち身垩賢之域に至れば亦至り難からず。况んや禮儀に於てをや。其の誘引して人々禮俗を成すが如きは、須く之を望むに中人の事を以てし、之を教ゆるに断ず可く傳う可きの事を以てすべし。是れ師導の術なり。今志を立て祠堂を造り神主を制するが如きも、亦或は是に由る。浮屠の霊牌を毀[こぼ]ちて、大いに事を生す。未だ他縣は知らず、此の里中の如き、一旦遽[にわか]に佛位を毀ち僧飯を廃せば、多くは必ず訴訟に至る。僧は是れ其の家の檀師。官之を建つ。祠堂(を造り)神主を制するが如きは、則ち私家竊に己の志を行う者なり。已に學者是に於て大いに激怒す。然れども是れ禮の本に達せざるに由る。喪祭は禮足りずして哀敬餘有るに如かず。哀敬若し餘有らば、豈外面時に循いて浮屠の令を受くるを憂えんや。予故に云う、心喪の心と為すは、仁の尽き、義の至りなり、と。世の学者此を察せず。浮屠を怒るの甚だしきは、却って浮屠を待つの重きなり。今日の葬事、檀僧之に關るは官の制なり。是れ有司と做[な]して看よ。豈怒る可けんや、と。」
・有死而復蘇者。故三日而歛。未三日而歛、皆有殺之理。…「死して復蘇る者有り。故に三日にして歛す。未だ三日ならずして歛するは、皆之を殺すの理有り。」
・天保七年…1836年。
・文久三年…1863年。
・予舊年作葬説主張三日歛。是以此試王道之可行今日否…「予舊年葬説を作りて三日歛を主張す。是れ此を以て王道の今日に行う可きや否やを試すなり。」

先生平素己を處スル、禮容恭倹ニシテ惰容傲言ナク、故ニ自ラ怨怒侮慢ノ辱メニ遠レリ。嘗テ曰ク、人ノ侮ヲ受クル者ハ己レガ不恭ニ由ル、ト。常ニ戒懼シテ最モ火災ヲ防ク。往年江戸ノ客舎ニ寓シ將ニ歸ントスルノ日、堅ク爐火ヲ滅シ、以テ店主ヲ呼ヒ、彼ヲシテ點検セシメテ後去レリ。又凡百ノ事敢テ忽ニセズ、殊ニ法度ヲ畏ルヽコト戦兢トシテ惰夫ノ如ク然リ。厳ニ人ニ戒メテ曰ク、此郷里堅ク國禁ヲ謹守シ、季秋ヲ待テ速ニ釣竿ヲ折テ鳥肉ヲ絶ツベシ、ト。此レ近里幕府ノ初メヨリ鷹ヲ掣スルノ地ナリ。故ニ魚鳥ヲ捕ルノ禁アルナリ。以上花澤秀直淵源紀聞ニ見ヘタリ。以下多ク之ヲ取ル。寛政元年已酉夏、大ニ旱ス。先生憂苦シ遽ニ書生ヲ卻ケ、其ヲシテ各自ニ專ラ力ヲ農事ニ盡シ、切ニ水利ヲ求メ、枯苗ヲ養フノ事ニ勉メシム。當年ノ雜記ニ曰ク、大旱對赤地、不堪憂。是可忍、何不可忍。但又以為吾儕志垩學。然徳性大旱、年々歳々有甚於此者。乃垩賢毎有年。孔顔之樂可知。是処了得、乃朝聞道。又曰、念六日、五月。朝霓驟雨微下。予東隣有匠工、其児五六歳、頻呼祖婆云、善哉々々、雨矣。予聞之戚々焉。児言可以感天心也、ト。
【語釈】
・大旱對赤地、不堪憂。是可忍、何不可忍。但又以為吾儕志垩學。然徳性大旱、年々歳々有甚於此者。乃垩賢毎有年。孔顔之樂可知。是処了得、乃朝聞道。又曰、念六日、五月。朝霓驟雨微下。予東隣有匠工、其児五六歳、頻呼祖婆云、善哉々々、雨矣。予聞之戚々焉。児言可以感天心也…「大旱赤地に對し、憂えに堪えず。是れ忍ぶ可く、何をか忍ぶ可からざらんや。但又以為[おも]えらく、吾儕垩學を志す。然れども徳性の大旱、年々歳々此より甚だしき者有り。乃ち垩賢毎に年有り。孔顔の樂しみ知る可し。是の処了し得れば、乃ち朝聞道、と。又曰く、念六日、五月。朝霓驟雨微[すこ]しく下る。予が東隣に匠工有り、其の児五六歳、頻りに祖婆を呼びて云う、善き哉々々々、雨ふる、と。予之を聞きて戚々焉たり。児言以て天心を感ず可し。」「念六日」は26日。

其積年清名幸谷ニ在ルノ間、精義操存日々ニ熟シ、其業益々進ミ其徳益著ル。而レトモ尚未ダ自ラ足レリトセズ、終日書ヲ讀ミ文ヲ作テ輟[や]マザル、書生ノ如ク然リ。其孤松全稿四十巻ハ先生生涯ノ手筆ニシテ、其説大小精粗備ハラザル所ナシ。清谷全話百五十巻ハ門人ノ先生ノ學談講義等ヲ録セル所ノモノニシテ、皆道要ヲ発揮シ、旨訣ヲ開示スル者ナリ。吁當時先生ノ不遇ハ後生學者ノ至大至幸ナラズヤ。所謂為去垩継絶學、為萬世開太平者、先生ニ非ズシテ誰ゾヤ。
【語釈】
・為去垩継絶學、為萬世開太平…近思録為学95の語。

門人ノ中、英才亦多シ。其世ニ名アルモノハ奥平定時桑名。日原以道土浦。尾關當補館林。山田記思仝。志水義質姫路。松本義上丸亀。高須順正仝。花澤秀直上總細谷鋪。篠原惟秀堀上。中田十二仝。鈴木恭節清名幸谷。北田慶年福俵。大木丹二北幸谷。鈴木荘内姫島。高宮文七押掘。小川精義東士川。櫻木廣居東金。等アリ。
【語釈】
・奥平定時…奥平棲遅庵。名は定時。幸次郎と称す。江戸の人。神田小川坊に住む。小川先生。忍藩儒臣。致仕して玄甫。嘉永3年(1850)8月9日没。年82。
・日原以道…手塚坦齋。初めは日原以道。小源太と称す。別号は困齋。土浦藩儒臣。手塚可貞の子。天保5年(1834)5月15日没。年73。
・尾關當補…尾關當補。求馬、隼人と称す。館林藩上大夫。尾關當官の子。文政12年(1829)7月27日没。年51。
・山田記思…山田華陽齋。名は記思。長作と称す。号は黒水。館林藩儒臣。天保3年(1832)9月25日没。年60。
・志水義質…三九郎と称す。
・松本義上…丸亀藩の臣。
・高須順正…丸亀藩の臣。
・花澤秀直…林潛齋。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。
・篠原惟秀…本姓は北田。字は秀甫。初名は安進。與五右衛門と称す。号は靜安。幼称は松次郎。東金市堀上の人。北田慶年の弟。文化9年(1812)2月15日没。年68。
・中田十二…中田重次。十二郎と称す。東金市堀上の人。寛政10年(1798)11月没。
・鈴木恭節…字は子長。長藏と称す。大網白里町清名幸谷の人。鵜澤近義の第三子。館林藩儒臣。文政13年(1830)11月10日没。年55。
・北田慶年…太兵衛、榮二と称す。東金市福俵の人。学思齋の主。
・大木丹二…名は忠篤。東金市北幸谷の人。文政10年(1827)12月17日没。年63。
・鈴木荘内…鈴木養齋。名は直二。莊内と称す。別号は空水。鈴木養察の孫。医者。成東町姫島の人。天保8年(1837)7月11日没。年74。
・高宮文七…東金市押堀の人。
・小川精義…小川省義 幼名は磯次郎、興十郎。後に市右衛門。東金市東士川の人。文化11年(1814)6月21日没。年81。
・櫻木廣居…助右衛門と称す。櫻木誾齋の子。文化13年(1816)9月21日没。年62。

此地世ニ上總七里法蕐ト稱シテ浮屠ニ佞シ迷信尤モ甚シ。其相去ル半里餘ニシテ宮谷檀林ト稱スル法蕐宗什門派ノ教塲アリ、又一里許ニシテ小西檀林ト稱スル法蕐宗身延派ノ教塲アリ、先生ノ學徳地方ヲ風化スルヲ悪ミ、百方之ニ加フルニ害ヲ以スルモ功ナシ。一日、本里ノ檀寺主僧某檀師ヲ挾ミ、卒ニ戸ニ入リ座ニ就キ、厲色先生ヲ難シテ曰、叟ガ此地ニ教授セシヨリ、大ニ衆生ノ心ヲ害シ以テ祈禱ヲ尊バズ、且ツ檀師ヲ軽視スルニ至ル。適ニ教ノ非ナル故ナリ。爾後吾親カラ講席ニ入リ、悉ク検察セン、ト。先生徐ニ之ニ答テ曰ク、未タ曽テ門人ニ檀師ヲ軽ンジ祈禱ヲ廃スルコトヲ教ヘズ。但吾門ニ遊ブ者、一年半歳ノ間、槩ネ自ラ地獄天堂ナキコトヲ覺ル。盖シ是ヲ以テ然ル歟。吾固ヨリ其自ラ悟ル者ヲ禦グコト能ハザルナリ、ト。僧復タ言フコト能ハズ、遂ニ復タ来ラズ。先生即チ里長ニ告ゲテ其檀縁ヲ離絶シ、別ニ爽塏[そうがい]ノ地ヲ卜シ、成東一禪寺ヲ請テ檀師トス。先生是レヨリ門人ノ集會及ビ列國藩士遊學ヲ請フ者ヲ辞シ、遂ニ教學ヲ廃シ、自ラ茶酒ノ間ニ晦マス。其言ニ曰ク、吾門人ヲ教誘スルノ身ニ非ルナリ。占ニ曰ク、孚アッテ于ニ酒ヲ飲、无咎。其首[こう]ヘヲ濡セバ孚アッテ之ヲ失フ。其レ大過ナキニ庻幾ラン乎、ト。事ハ六七録生徒記ニ詳ナリ。嗚呼先生此ノ處置シ難キノ地ニ在リテ風化スルコト此ノ如シ。先生ニ非ズシテ誰カ能クセンヤ。
【語釈】
・孚アッテ于ニ酒ヲ飲、无咎。其首ヘヲ濡セバ孚アッテ之ヲ失フ。…易経未済上九。「上九、有孚于飮酒。无咎。濡其首、有孚失是。」

是レヨリ先キ、南總ノ俗往々父兄ノ教誨ナク、其希ニ学ヲスル者モ亦詞章記聞ノ陋習ノミ。先生教誨懇喩尽サヾル所ナシ。故ニ門徒自ラ老釋覇功刑名ノ術、記誦操觚[そうこ]ノ習ヲ屑[いさぎよし]トセズシテ向道ノ志ヲ発シ、遂ニ道學ノ易ユ可カラザルヲ悟ルニ至ル。故ニ其訓戒ノ又農村ノ自治ニ至大ノ関係ヲ有セルヤ言ヲ俟タズ。所謂不滅ノ偉人ニシテ今ニ至ルマデ尊信置カズ、墓前ニ展拜スル者常ニ絶ユルコトナシ。
【語釈】
・操觚…文を作ること。詩文を作るのを職業とすること。

今回余不敏ヲ顧ミズ、農村ノ自治ニ関する訓戒ヲ取リ一書トシ、以テ之ヲ同志ニ示ス。其淵源ヲ精覈[せいかく]シ旨訣ヲ謹守シ、大學ノ學ヲ會シ中庸ノ心ヲ得ル者ハ、先生ノ格言明訓ニシテ漸ク其全書ニ及ハヾ、大成ノ功其レ窺ヒ知ルニ幾カラン乎。
明治四十三年五月  後學 田原鋼三郎謹識


稲葉黙齋先生農村自治ニ関スルノ訓戒
   目 次
 一、農家今川状
 二、古靈陳先生教民章講義
 三、藍田呂氏郷約章講義
 四、社倉法序講義
 五、治教録上下分明條筆記
 六、治教録酒者古養老條筆記
 七、埋葬筆記
 八、葬之心得
 九、六禮大略講義
 十、道學二字説