稲葉黙齋先生農村自治ニ關スルノ訓戒

一、農家今川状

今川状者一篇、盖今川氏家範也。時俗無士庻無都鄙、家藏而戸誦。如其水循方圓器、人資善悪友之言、最鱠炙人口矣。予聞有其書。然未嘗経耳目。頃隣家児甫六歳能誦之。及一聞之稱其竒、乃求之閲焉。其文或漢或倭、古而俗、困于顛倒錯乱不能成誦。又憾其規模淺近不足埀教士大夫間。然其意出於正而務実、不矜於武而重礼儀。可謂善訓耳。至其不聞垩賢之道、則亦復何論矣。顧其書可以施農家、而其事皆士大夫之事。無補農家乃又何益之有。仍效其体換其事、用其詞轉其意、輙繕写以與其本并貽隣家児子。謂之農家今川状亦可也。
【読み】
今川状なる者一篇、盖し今川氏の家範なり。時俗士庻と無く都鄙と無く、家々に藏して戸ごとに誦ず。其の水は方圓の器に循い、人は善悪の友に資[よ]るの言の如き、最も人口に鱠炙す。予其の書有るを聞く。然れども未だ嘗て耳目を経ず。頃[このごろ]隣家の児甫[はじ]めて六歳能く之を誦ず。一たび之を聞くに及びて其の竒なるを稱し、乃ち之を求めて閲す。其の文或は漢或は倭、古にして俗、顛倒錯乱して誦を成すこと能わざるに困しむ。又其の規模淺近にして教を士大夫の間に埀るるに足らざるを憾[うら]む。然れども其の意は正に出でて実を務め、武を矜[ほこ]らずして礼儀を重んず。善訓と謂う可きのみ。其の垩賢の道を聞かざるに至っては、則ち亦復何をか論ぜん。顧[おも]うに其の書以て農家に施す可くして、其の事は皆士大夫の事なり。農家に補うこと無くば乃ち又何の益か之れ有らん。仍[よ]りて其の体に效[なら]い其の事に換え、其の詞を用い其の意を轉じ、輙[すなわ]ち繕写し以て其の本と并せて隣家の児子に貽[おく]る。之を農家の今川状と謂うも亦可なり。

一、不執鍤钁而農家終不得繁昌事。(鍤[すき]钁[くわ]を執らずして農家終に繁昌を得ざる事。)
一、好雜談寄合、樂無益深夜而朝寢事。(雜談[ぞうだん]寄合を好み、無益に夜を深して朝寢を樂しむ事。)
一、以瑣細之理屈不為堪忍、令行我慢事。(瑣細の理屈を以て堪忍を為さず、我慢を行わしむる事。)
一、大法不曽通達、任己之物好贔屓、致沙汰事。(大法曽て通達せず、己が物好き贔屓に任せ、沙汰を致す事。)
一、軽水呑百姓貪小作人、不可極栄花事。茶湯風流、無用之遊藝。(水呑百姓を軽んじ小作人を貪り、栄花を極む可からざる事。茶湯風流は、無用の遊藝。
一、先祖之遠忌日精進專一、乱舞宴樂停止事。(先祖の遠忌日は精進專一に、乱舞宴樂停止の事。)
一、地頭・先祖・父母重恩毎日存出、不可忘却事。(地頭・先祖・父母の重恩は毎日存じ出し、忘却す可からざる事。)
一、厭公用專私用、不憚世間働事。(公用を厭い私用を專らにし、世間を憚らざる働きの事。)
一、不辨村内善悪、軽々敷不可批判事。(村内の善悪を辨えず、軽々しく批判す可からざる事。)
一、我能如知組下召使之働、地頭亦可為同前事。油断不可有者也。(我れ能く組下召使の働きを知るが如く、地頭も亦同前と為す可き事。油断有る可からざる者なり。
一、企金銀通用、以他人愁樂身事。(金銀の通用を企て、他人の愁[うれ]えを以て身を樂しむ事。)
一、取扱他人之不調法、依之募我意事。(他人の不調法を取り扱い、之に依りて我意を募る事。)
一、不知百姓分限效武家之風而過分、或對水呑百姓却萬事不足事。(百姓の分限を知らず武家の風を效って分に過ぎ、或は水呑百姓に對しては却って萬事不足の事。)
一、嫌目上之人愛手下之諂軰、非分取扱事。(目上の人を嫌い手下の諂う輩を愛し、非分の取り扱いの事。)
一、非道人之冨不可羨。正路人之哀徽不可軽事。(非道人の冨は羨む可からず。正路人の哀徽は軽んず可からざる事。)
一、長酒宴・遊興・諸勝負・物見・狂言・浄瑠理・小歌・三味線、忘家職壊家法事。(酒宴・遊興・諸勝負・物見・狂言・浄瑠璃・小歌・三味線に長じ、家職を忘れ家法を壊[やぶ]る事。)
一、迷己利根、傲学問藝術、就萬端嘲他人事。(己の利根[りこう]に迷い、学問藝術に傲[ほこ]り、萬端に就き他人を嘲る事。)
一、人来時構虚病不對面、或久敷為待置、并来使之返書遲滯、不思使退屈事。(人来る時虚病を構え對面せず、或は久しく待たせ置き、并びに来使の返書遲滯し、使の退屈を思わざる事。)
一、好獨樂不施人、米穀倉積共不貸親類郷黨之求、無仁心事。(獨樂を好み人に施さず、米穀倉に積めども親類郷黨の求めに貸さず、仁心無き事。)
一、家具衣装己過分、村内逾、反而田器並火災非常之用意無之、召使心宛等見苦敷事。(家具衣装己に過分、村内に逾え、反って田器並びに火災非常の用意之れ無く、召使も心宛等見苦しき事。)
一、旦那寺尤致尊崇、先祖年忌法事並喪礼之時節、厚布施之事。以冨家不可效水呑百姓之布施。可尽分限事。但信地獄極樂之虚談、親戚子弟之中猥遂出家、捨親兄弟去夫婦、不可絶子孫之種者也。(旦那寺は尤も尊崇を致し、先祖年忌法事並びに喪礼の時節は、厚く布施する事。冨家を以て水呑百姓の布施に效う可からず。分限を尽くす可き事。但し地獄極樂の虚談を信じ、親戚子弟の中猥りに出家を遂げ、親兄弟を捨て夫婦を去り、子孫の種を絶つ可からざる者なり。)
一、貴賤不辨仁義之道理、任勝手耽安樂事。(貴賤仁義の道理を辨えず、勝手に任せ安樂に耽る事。)
一、於村内立會約、吉事凶事致親切、病死人自三日前埋地、萬一於地下蘇生、其苦痛令煩骨肉親人事。(村内に於て會約を立て、吉事凶事親切を致し、病死人は三日より前地に埋め、萬一地下に於て蘇生して、其の苦痛骨肉親人を煩わしむる事。)

右此條々常可被掛心。鍤钁執事、農家之道、不珎之間、專一可被執行儀第一也。先保家事、無学問而不可成和睦之旨、小学・家禮・四書其外従朱子學之師、農事之儀者、農業全書等顕然也。幼少之時相伴道正軰、悪友不可有隨順。水隨方圓之器、人依善悪友云事、實哉。是以治一村名主者愛学問人、貪金銀豪民者好浮世之邪人、末利之事者也。先欲知一村之風、見其村名主・組頭軰。仁心深知廉耻、義理為先、身之勝手為後、好勝己友、不好劣我朋、善人賢心也。但斯云迚、強勿撰捨村諸人。是只不可愛悪友謂事也。不限名主・組頭・大百姓身、一日送日傭之軰無禮敬衆人之心、而諸事難成就。第一生一村冨豪農家、農業不掛心者、村中之百姓被賺之由、名家冨翁多被誡置也。先可知我家盛衰者、村中諸人。如親戚群集懇意来、則可思家之栄。雖招諸人踈、無出入之軰、不懐我家時、己心行可知不正。吝嗇不惠人之由也。乍然門前成市二種可有之。冨豪不惠貧人、無理非道之出入、或求縁權門、不應分為媒之類、又者田畠地力之外、為利倍之手段、如此能々分別而紀家内之猥、任憲法沙汰、可致教訓一家。為家主者、大方君上之如國中萬民下知。妻子・親属・召使・男女老若迠、晝夜廻慈悲忠信之仁心、隨其人可撫憐之。為名主者、為家主者、無智惠才覚令油断、則村中諸人可請批判事可多之、家内召仕之者、可為同前也。唯人心之明德為備一身、行住坐臥如君上之臨視。碎心緒、不可昏明德之寶。主一家長一村者、仁義礼智闕一可危。以地頭之仰治諸百姓者、無人恨。構非義觸地頭之仰、則其私意大罪不可遁當役。第一忠・不忠能分別而可觸行事、專要也。無益之遊藝構私好、耕作之事不煅練而不能百姓一人之用軰、村中遊食無詮哉。公田私領自先規年貢無相違、上雖無御咎、百姓之身不暗農事者、其時々依名主心持可教訓也。既生可為農業家、徒田地従他人手狂不持鍤钁、不耻空手遊民之嘲儀、偏可口惜次第也。仍壁書如件。
【読み】
右此の條々常に心に掛けられる可し。鍤钁執る事は、農家の道、珎しからざるの間、專一に執り行わるる可き儀第一なり。先ず家を保つ事、学問無くして和睦を成す可からざるの旨、小学・家禮・四書其の外朱子學の師に従い、農事の儀は、農業全書等に顕然たり。幼少の時より道正しき輩に相伴い、悪しき友は隨順有る可からず。水は方圓の器に隨い、人は善悪の友に依ると云う事、實なるかな。是を以て一村を治むる名主は学問の人を愛し、金銀を貪る豪民は浮世の邪人、末利の事を好む者なり。先ず一村の風を知らんと欲せば、其の村の名主・組頭の輩を見よ。仁心深く廉耻を知り、義理を先と為し、身の勝手を後と為し、己に勝る友を好み、我に劣る朋を好まざるは、善人賢心なり。但し斯く云う迚[とて]、強いて村の諸人を撰び捨つる勿かれ。是は只悪友を愛す可からずと謂う事なり。名主・組頭・大百姓の身に限らず、一日を送る日傭の輩も衆人を禮敬するの心無くして、諸事成就し難し。第一一村の冨豪農家に生まれて、農業に心を掛けざる者は、村中の百姓に賺[すか]さるるの由、名家冨翁多く誡め置かるるなり。先ず我が家の盛衰を知る可き者は、村中の諸人なり。親戚の如く群集懇意に来らば、則ち家の栄えと思う可し。招くと雖も諸人踈んじ、出入の輩無く、我が家に懐かざる時は、己が心行正しからざるを知る可し。吝嗇人に惠まずの由なり。然し乍[なが]ら門前市を成すの二種之れ有る可し。冨豪貧人に惠まず、無理非道の出入、或は縁を權門に求め、分に應ぜず媒を為すの類、又は田畠地力の外、利倍を為すの手段[てくだ]、此の如きは能々分別して家内の猥りを紀[ただ]し、憲法沙汰に任じ、教訓を一家に致す可し。家主為る者は、大方君上の國中の萬民を下知せるが如し。妻子・親属・召使・男女老若迠、晝夜慈悲忠信の仁心を廻らし、其の人に隨って之を撫憐す可し。名主為る者、家主為る者、智惠才覚無く油断せしむれば、則ち村中の諸人批判を請う可き事之れ多かる可く、家内召仕の者も、同前と為す可し。唯人心の明德一身に備わる為に、行住坐臥君上の臨視するが如し。心緒を碎き、明德の寶を昏[くら]ます可からず。一家に主たり一村に長たる者は、仁義礼智一を闕けば危うかる可けん。地頭の仰せを以て諸百姓を治むる者は、人の恨み無し。非義を構え地頭の仰せを觸れば、則ち其の私意大罪にして當役に遁る可からず。第一に忠・不忠を能く分別して觸れ行う可き事、專要なり。無益の遊藝私好を構え、耕作の事不煅練にして百姓一人の用を能くせざる輩は、村中の遊食詮無きかな。公田私領先規より年貢相違無く、上御咎め無しと雖も、百姓の身農事を暗んぜざる者は、其の時々名主の心持に依って教訓す可し。既に農業を為す可き家に生まれて、徒[いたずら]に田地他人の手狂わせに従い鍤钁を持たず、空手遊民の嘲りに耻じざる儀、偏えに口惜しかる可き次第なり。仍って壁書すること件の如し。