再旬紀行   芲澤
【語釈】
・芲澤文…花澤文二。林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1817

寛政癸丑之年、館林矦江戸より顕使重聘を以て先生草菴を訪ひ、教を受んことを請へり。先生教授の命辞すといへとも、一ひ出て重聘恩遇の辱きを謝せんことを奉答し、明春三月の比出府し、淹留二十日ばかりの前諾あり。故に先生今年甲寅三月十一日啓行し、丹二及ひ文に命して旅瑣の事を執らしむ。因て再旬紀行と題するものなり。
【語釈】
・寛政癸丑…寛政5年。1793年。
・淹留…久しくとどまること。
・甲寅…寛政6年。1794年。
・丹二…大木丹二。東金北幸谷の人。名は忠篤。晩年は権右衛門と称す。1765~1827

癸丑十一月、一日先生を訪ふ。先生曰、先達て館林矦の執事内々鈴木長藏まて某を召すことを議す。予固く辞して、兼て長藏へ來春は某父母祖先の墓を展省せんと思ふ。其節貴藩のこと兎も角もなることなりと、再ひかれこれなきやふに豫め云て置しが、今度使者川鰭源藏、景命。同道に鈴木長藏そふて侯命を致し、即師範に預りたき旨こまりたることなりと、口陳の書幷に目録に羽二重三疋、御肴代金五百疋、薄酒两樽、御隱居方より八丈の羽織一、茶初むかし後むかし別儀一壷、くわし一をりなり。
【語釈】
・鈴木長藏…鈴木(鵜沢)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・川鰭源藏…名は景命。源太郎と称す。後に七郎左衛門と改める。館林藩士。~1814。年67歳。

○河本仲遷書曰、先生辞館林厚聘尤不為不恭。謂壁立萬仭為我道之光可矣。然聞、彼藩太夫松倉氏再発使致侯命、副長叔以盡誠意百計求一諾。加之左平二者將頎家貲以梓或問抄畧。此二事亦足以見非釣名求利之挙也。先生冝應之一也。慰東武書生謁望以有裁之、先生可應之二也。棲隱十年餘特欠展省久、之當親臨先君兆矣。先生冝應三也。先生一出義非君臣、去留意之所欲也。冝應四也。兼得尋医養疴。先生冝應五也。一諾有五可而未見不可出之義。願先生暫廃衡門之栄則幸甚非獨私情之願也。伏請、諒察焉。寛政癸丑十一月望。
【読み】
○河本仲遷書に曰く、先生館林の厚聘を辞すること尤も不恭と為さず。壁立萬仭我が道の光と為すと謂う可し。然るに聞く、彼の藩の太夫松倉氏再び使を発し侯命を致し、長叔を副し以て誠意を盡くし百計をして一諾を求む、と。之に加うるに左平二なる者將に家貲を頎し以て或問抄畧を梓せんとす。此の二事も亦以て名を釣り利を求むるの挙に非ざるを見るに足れり。先生應ずるに冝なるの一なり。東武の書生の謁望するを慰みし以て之を裁すること有り、先生應ずる可きの二なり。棲隱十年餘特に展省を欠くこと久しき、之れ當に親ら先君の兆に臨むべき。先生應ずるに冝なるの三なり。先生一出の義、君臣に非ざれば、去留の意は之れ欲する所のままなり。應ずるに冝なるの四なり。兼ねて医を尋ね疴を養うを得ん。先生應ずるに冝なるの五なり。一諾に五可有りて未だ出でる可からざるの義を見ず。願わくは先生暫く衡門の栄を廃せば則ち幸甚獨り私情の願いのみに非ず。伏して請う、諒察せんことを。寛政癸丑十一月望。
【語釈】
・河本仲遷…丸亀藩士。名は善。通称三左衛門。
・衡門…冠木門。冠木を二柱の上方に渡した屋根のない門。
・望…望月。陰暦の一五日。

○先生曰、斯く重き進物にて大勢どろ々々仕かけられては、もはやとふもたまらぬこと。一旦は出て御礼申さ子はすまぬ勢なり。文曰、先生聘礼受け玉はすんは御使者の役も立つまじ。曰、某にげて合は子ば使者もどうかすめとも、又それ計りては居らずに再三問荅が出來てさわかしきゆへ、來春三月暖にならは、二十日ほと出て御礼申ふとうけたり。其節賢も従行すべし。又曰、彼の藩如此の御とりあつかいなれはいやな筈はなけれども、実にいやなり。賢も知る通り、近き男虵池へも九十九里の濱見物にもさへ出ぬ身なり。况んや又幼君を某今どうするものや。殊更又某出て仕へるなれば土井侯なり。然ればよしや館林矦へ仕へる相談にしても、土井矦より黙斎こちへこいと云はるると、直きにあっちへ引たくらるべし。某今どふ仕官がなるものや。此間或る者が此度は御目出度ごさると來り賀したが、俗人は尤なこと。此等にて世間萬事知るべし。某か意何と思ふや。誰も知己はない。それでも清次は放蕩者だけ却て某を知って、先生さぞこまらふと云たそふな。
【語釈】
・清次…

○同十二月五日、館林矦より聘礼拜納挨拶の再使者として鈴木長藏來る。銀子十枚鴨一麥御樽一荷賜ふ。河鰭源藏手翰並に海苔を贈らる。○先生語文曰、其物の繋累がいやゆへ、生計のことより萬端其日ぎり々々に片付けて、物ののこることなきやうにす。一寸と買ものの代にても直に片付け仕舞ふ。明日迠と云ことはいやなり。賢も見て知るならん。因て三月出ると云のも早く片つけて仕舞たし。文曰、某なども物ごと留在の方はさのみくよ々々とも思は子とも、期待の方がこまることなり。曰、皆それが多し。又一日文に語るに、期待か又依旧て留在になると知るべし。さて、拜領の羽二重、長藏方へ無地に染さすべし、服して以て君侯に拜謁せんと云しが、河本が無紋は公家でなけれは僭と云ふそふなが、隱者にどふしてそんなこと有ん。文曰、儒医制外なり。曰、然り。但それとはちがふ。某あんまり腹が立つゆへ、木綿にても絹にても単物をこしらへ紋付にしてうわをそいにせふと云やりき。長藏などか氣が付かずにあまりやくにたたぬ心つかひなり。須臾して笑曰、無紋にして置けば、やがて質に置くによし。いかさまはや隱者が紋付、あまり馬鹿なこと也。去冬十一月望、丸亀公子、髙教、称蔀。手翰を賜ひ、教を請へり。並に鰆子三箇を賜う。右六條予嘗所聞今此行の大略耳。
【語釈】
・うわをそい…上襲。衣服の上におおい着るもの。うわがけ。

寛政甲寅三月十一日啓行を約し、文前日來り先生の宅に宿し、共に夜八つに興て轎夫馬奴の來るを待つ。天氣遽に曇り雨ふらんとす。先生曰、賢合羽は持來るや。曰、乘り下にそへて福苞にあり。先生むっとして曰く、旅も軍も同じこと。なせ爰へ持て來ぬや。軍なれば直に敗軍ぞ。明道扶溝の普請も治軍之道とあり、あれを軍の法と云は物を嚴しくすることなり。○此行十四年ぶりにて江戸の旧友に逢へは呵ることどももあれど怡々として歸らん。江戸も小源太なり。文曰、高須氏善き底なり。曰、あれはよけれども、この頃の書通の不審は前ほどになし。小源太はいつもよい。或るひは中で学問上らぬは尤なれども、下ったもある。官となれば志を奪ふぞ。
【語釈】
・乘り下…荷をつけて運ぶ馬の鞍の下部。
・扶溝…河南省にある県名。近思録存養62に、「謝顯道從明道先生於扶溝」とある。
・小源太…日原以道。手塚担斎。土浦藩士。通称は小源太。別号は困斎。1762~1834
・高須…高須順正。富八。丸亀藩士。

○昨夜轎夫が行徳迠十二里の道はこまらふなどと役にも立ぬこと思慮し、今朝早く立ふと思ひ、とっくと寐ぬ。さて此行、正客は前髪の御幼君なり。これ迠の御礼に逗留中小学を進講せんと思ふが、一貫すれは何にも入らぬことなり。朱子のこまかも皆こちのことぞ。尚齋先生などを形で学ぶとりきむか、又訓詁になる。何にしても一貫のこと。今度何も書物は持て行かぬ。治教録も持て行かぬ。前日先生文に語るに、若し太夫が別に講釈を望まば治教録をよまんと云れき。今云通り一貫にあること。小学進講のこと、ふと思へはいくらも發明が出てくる。御幼君なれば、力ある老役の衆に聞かせたきもの。
【語釈】
・尚齋先生…三宅尚斎。

○今度出るは大夫主水の軍法に我々か負けたなり。去冬長藏へ春は墓参に出ると云たは竒なり。主水それに乘らず使者を以てするは正なり。そこて我仕方なし。これ、まけ軍なり。さてあのとりあつかいに出るがいやで人欲なしと云はば、賜物や羽織もどこへかすてそふなもの。酒でも飲たがり肴などをくらいたがる。皆すっとの皮なり。尚翁の土佐へ出らるるとき、翁幡然として喜曰、道の將行之機也と云はるるが、唯一人の太夫主馬がどのやうな人か知らぬが、それほどなことてはあるまいに、君子のは違ったことなり。文問、翁の意、專ら行はるる意ならんや。曰、翁は土佐を三代にする心なり。されとも心元なし。一時行はれたは槇七郎右衛門、友松勘十郎なり。あれは事功からなり。其外どふ行はるるものぞ。尚翁のこと合点ゆかぬ。翁をわるふ云てはならぬこと。されども今日翁を形て学ぶと俗学になる。それで門人にろくながない。翁に似ぬやうな、訂齋一人なり。又、人の直方先生をそしるは知らぬからのことで尤なり。それが先つよい方なり。わるく学ぶと犬直方になる。
【語釈】
・主水…松倉主水。勘解由。館林藩家老。名は正達、号は卜山。1777~1833
・すっとの皮…透波の皮。かたり。盗人。盗人根性。
・主馬…山内主馬。土佐藩家老。
・槇七郎右衛門…槇元眞。加納藩主松平丹波守に仕える。~1691
・友松勘十郎…会津藩家老。藩主保科正之公の墓の造営を行う。
・訂齋…久米訂斎。
・直方先生…佐藤直方。

○某江戸着の日限知れると彼の邸より長藏を命し迎に出る。それで前から日限を告けぬ。早く出るがよい。○勇亦道体也。天地あともとりはせぬ。孟子の我知言、我善養吾浩然之氣。勇亦道体也。凡そ功夫も德も道体と云は子ば筋が立ぬ。○福苞の栄二、隣家の大原父子来て別を送る。夜未明けず、猶轎夫を待つ。先生一詩を得たりとて筆硯を出し轉句迠筆を下し、顧文問曰、進字の韻何になるや。曰、進は用る韻字にあらず。それならよしと云て絶句の一首を栄二に與ふ。
造化雖密移 学問須頓進 嘗愛呂蒙童 刮目三日別
○栄二清次灯燈にて送る。栄二は蛇嶋にて別る。
【語釈】
・我知言、我善養吾浩然之氣…孟子公孫丑章句上2の語。
・栄二…北田栄二。東金福俵の人。北田慶年の子。
・大原父子…大原清甫とその子?
・造化雖密移 学問須頓進 嘗愛呂蒙童 刮目三日別…造化は密に移ると雖も 学問は須らく頓に進むべし 嘗て愛す呂蒙の童 目を刮すること三日の別れ

○先生駕篭ゆへ予に馬をすすめ、先つ登戸浦に至り旅の具を舩に積送ることを命す。予登戸の途中七詩を賦す。
  奉和先生留別栄二之作
乾坤一消息 可愛物事回 別後花將落 願期新意開
  土氣村呈先生
杜門既十歳 暁発出田家 君解黄眉聚 無山不着花
  曠野眺望
単袷曠野好 草萌猶且微 非見生々意 誰知牧場肥
  轎夫
十里裏糧足 轎夫腹果然 既雖絶垩久 脚歩奈爾賢
  馬奴。時年十五。
馬奴誰家子 可憐志學時 往々夛岐路 唯任老驢知
  千葉城墟
日月五百歳 全盛知幾時 一朝誰失策 麥苗獨離々
  舩田池
池上藍為水 天二象作舩 還知祈雨迂 漾々灌旱田
【読み】
  先生、栄二と留別するの作を和して奉ず
乾坤一消息 愛す可し物事の回るを 別れて後花將に落んとす 願わくは新意の開くを期つ
  土氣村にて先生に呈す
門を杜じて既に十歳 暁発して田家を出ず 君黄眉の聚めるを解け 山として花を着けざる無し
  曠野眺望
単袷曠野好し 草萌えて猶且つ微なり 生々の意を見るに非ずんば 誰か牧場の肥たるを知らん
  轎夫
十里裏糧足る 轎夫の腹果然たり 既に垩を絶つこと久しきと雖も 脚歩爾が賢を奈ん
  馬奴。時年十五。
馬奴誰が家の子ぞ 憐れむ可し志學の時 往々岐路夛し 唯老驢の知に任ず
千葉城墟
日月五百歳 全盛知んぬ幾時ぞ 一朝誰か策を失す 麥苗獨り離々たり
  舩田池
池上藍を水と為し 天二象を舩と作す 還て知る雨を祈るの迂なるを 漾々として旱田に灌ぐ

○先生登戸驛にて休息し、春風微にして海面長閑なり。眺望の餘り謂文曰、九十九里へは失礼なれども、はて海はよきとて笑へり。○行德驛へ七つ半に着き、銚子屋に宿す。○迂齋は惣体物が簡古ですら々々したこと。旅行とてもそれなり。某は先年京へ出たときでも今度なとにても、用意の仕方が直方よりはよい。其よいと云だけわるいぞ。某も人を呵るが、惣体あのこまかに吟味つよく人を呵ると云も義からなり。小市や幸藏がやかましいは義で知かない。孟子のあの戦國できれ口をきき吟味つよなれとも害はぬ。知ゆへ危きことなし。幸田のあのかまはぬは知でも義がないゆへ、やりばなしきりで仕舞ふ。此世銚子屋の主じ問轎夫曰、旦那は何人なるや。轎夫曰、關東での儒者なり、と。可笑きままに記す。
【語釈】
・迂齋…稲葉迂斎。黙斎の父。
・小市…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・幸藏…村士玉水。名は宗章。行蔵、後に幸蔵。別号は一斎。信古堂を営む。江戸の人。1729~1776
・幸田…幸田子善。迂斎門下。1720~1792

十二日昧旦、少し曇る。行德一番舩にて発す。舟中先生曰、某先年上京のとき、從僕なく一人旅ゆへ熊谷仁左ェ門が意、某兄が友愛を察し、一人旅が却てよしとて傳馬帳の序文に、此御方様急成御用付御供無し。御人御通被成候間、宿々續立川前御候と書て送る。道中殊の外取あつかい丁寧なるも彼か序文ゆへなり。○九月のことでありし。越川に泊る。七つ立と云て置て隣り客の八つ立と一同に立せたが、それがすぐにこちの為によいことなり。途中轎夫共松の下に休み、まだ夜深ゆへ某用意の附木を出し蝋燭にて手紙を書しが、あれほとの旅具を皆駕篭の中へつめて、其上にこのやうな手まはしは人のせぬことなり。又前日の話に、駕篭の内の左右へ物を入る所をこしらへ錠を下し、宿へ着ては駕篭を坐敷へ上けさせ、其傍に寐子しとなり。
【語釈】
・熊谷仁左ェ門…

○舟中暁風甚寒く、暗に今井にかかり、先生皆が風を引かぬやうにと酒を出し、舩人にも手つから酌んで與へ、文に謂て曰く、賢は舟中の詩作ると見へる。舩頭に酒飲ませしも詩になるや、と。予因て過今井渡勧酒一絶を賦す。
暝行舟楫疾 故渡暁風寒 各自殘樽足 莫爲勾践看
【語釈】
・過今井渡勧酒一絶…今井渡を過ぎ酒を勧む一絶
・暝行舟楫疾 故渡暁風寒 各自殘樽足 莫爲勾践看…暝行舟楫疾く 故渡暁風寒し 各自殘樽足る 勾践と爲して看ること莫れ

中川舟中風もなく舩疾きを先生愛せられ、程なく小名木澤釜屋堀を過き、或る別荘なと櫻数株爛熳たるを賞し、土屋侯の別荘を見つつ過て旧きを物語られ、それより阿部侯の別荘を指し示して曰、三宅先生繋縛せられたは此邸なり。文問、平が生れしも此邸ならん。曰、然り。當時のままてこれまて火災もなしや。別荘は昔も今もかはらぬ。感懐なる哉とて、それより大川に出つ。先生又北を指し南を指し先輩の旧居を示し、又向ふの酒井矦の長屋、太夫岡團兵衛の宅にて昔年度々書會せられしことを語り、永久橋に至り、某は小児のとき夛くここて成長せしが、今この邸はどなたなるやと又感懐せられき。○文、舟中二首を賦す。
【語釈】
・延平…
・岡團兵衛…名は政勝。小浜藩執政。~1754。年50。

  中川舟中
両岸鴬芲遍 遊糸雜水烟 此行何日継 早已遡中川
  舟中過阿部矦別荘、時先生新編尚齋実記持來。並有感、因賦。
偶過邸第感當年 身否道亨独超然 伏察忠悃貫日月 遺霊千歳入新篇
【読み】
  中川舟中
両岸鴬芲遍ねく 遊糸水烟に雜わる 此の行何の日か継がん 早く已に中川に遡る
  舟中阿部矦の別荘を過ぐ、時に先生新たに尚齋実記を編んで持し來る。並て感有り、因りて賦す。
偶々邸第を過ぎて當年に感ず 身否り道亨りて独ろ超然 伏して察る忠悃日月を貫き 遺霊千歳新篇に入る

○五皷江戸に着き、北八甼堀矢塲稲荷前小川氏の僑居に舘す。鈴木長藏へ書を投じ、先つ當着を知らせ、即日君邸に謁し去冬の礼詞を宣んことを願ふと告けられよと云。早速鈴木至り、禮畢り曰、當日侯接見のこと、老臣ども願くは先づ御さしひかへ延日下されたき旨申越さる。曰、なぜにや。曰、類焼後下邸へ皆移り、坐敷も多く役所にしてあれば、早束先生請侍の席儀式備りがたし。曰、毎年十一月比より江戸にてはすべて類焼は常なり。堺町邉など、えて棟上しても又あるぞ。其時は如何せん。儀式そなはらさるこそ望なり。必竟不德の隱者を召すに儀式には及ぶまじ。某二十日の滞留日を愛むこと、某御目見へすまぬ前に病氣發せば如何せん。又萬一君侯御風にでも召せば尚更のことなり。某も一日も早く拜謁し、去年からの御礼を申せはまあ少しは安堵する。明日は是非御目見のこと告られよ。兎角去年より重き御とりあつかいにて、殊に御幼君に師禮迠に御執行なさせらるるよふにてはわるきことにてはなけれども、吾人君を開導するの體にあわず。大身は庻人とちがい、行儀坐配は自然と習ありて足るなり。尚翁の、太公望南面而立、武王北面而立と云やうなは某か意にはよくない。幼君には思の外窮屈にもないと思召やうながよし。そこて医者も小児の療治はざっとしたこと。藥も多味にあらず。

○先生謂鈴木曰、去年中申すには料理御断り支度と申たれども、焼失後今の御中邸は僑居に近ければ支度とても御断り、はやく旅宿へ戻るかよし。此こと告らるへし。去年別觀へ先生を館せんことを議せらる。先生不肯、小川氏の僑居を借る。ここに云云は謁する日毎のことなり。○今日市中の酒を買う。鈴木曰、これ田舎の酒へ調合した味あり。先生曰、賢よく味はふ。酒をのむと見ゆ。曰、当年は謹て飲まず。いや飲むと見ゆ。直方先生も幸田子も黙齋も飲むと云ふか、賢今御幼君の侍讀をし、君矦酒に習はば何を以て諉せん。某か御教授申せば禁酒して出る。そふなくて教かなるものや。○某當着のこと、河本日原へ告られよ。曰、諾。高須へも告べし。先生、それよ々々々あれへ告け玉へ。鈴木曰、日原は只今あの役にては兎角出かたき由。曰、日原には議論もあり、出かたきこと惜むべし々々々々。

○僑居の雪隱溷穢云へからず。殊に席に近ふして折々臭氣坐に入る。先生曰、李延平は不觀の觀、予は不鼻の鼻が将た。文天祥かどふもたへられぬ、と。夜分先生これが為めに寐子か子、小便頻數にて夜七行起ぬ、と。文寐さめて聽けは風大にはげし。起て行燈の油を継けば、先生寐られぬこと物語られ、ちと肩打くれよとて曰く、某存養素なきも知れて、とかく臭氣で寐られぬ。されども寐か子たとて損はせじ。明日矦への講書を心で下た見せり。さて、はり合のあることはなるもの。靖献遺言は相手あるゆへなれども、何事もない時、あの通り忠節かなればよい。延平の云大きな目立つことはなれども、小いことが制しにくい。それでりきむことはなる。兎角形で学んてはゆかぬ。兼ても云、尚翁の門人に道を會したはすくない。訂翁一人なり。あれで知るる。○文二、先生の按摩して侍奉す。先生曰、心持のよいて眠る。されども肩を打つを根から知らぬではない。これが未發の摸様覚へると直きに已發なり。これらはよい譬へぞ。丹二録。
【語釈】
・溷穢…溷はにごる。よごれる。便所。穢はけがれる。不潔。
・李延平…字は愿中。羅豫章の門に程氏学を学ぶ。朱子も22歳の時に李延平の門を叩く。1093~1163
・文天祥…南宋末の忠臣。元と戦い捕らえられ、処刑された。獄中で「正気歌」を作る。1236~1282

十三日雨ふる。大に喜ぶ。○先生平居毎朝髭を刺り髪を結はるるは常なり。旅中客舎にても然り。僑居洗湯に隣るを大に喜び旅瑣最上の幸となり。只雪隱斗りの大患にて、或る夜は香なども焼きなり。○朝膳の間、先生曰、なるほど理氣の二にて、孔子より學者迠は理也。医者より人欲迠は氣なり。孔子の老子や郯子に礼を問はるるは理を学ぶなり。医者は艸根木皮の吟味がよい。昨夜存養の工夫したとて大病人どふするものぞ。朱子の学理と云こと、語類に一処かあり。或問にありて面白ことなり。されども氣を離れて理は説かれぬ。理氣一なもの。曽子の手足を啓く時声が糸のやうぢゃと、あの時太極圖説の講釈と云はれては曽子もならぬ。某なども昨夜のつかれて講釈もよくは説れまじ。これ、理氣離れられぬが知るる。
【語釈】
・孔子の老子や郯子に礼を問はるる…論語序説。「適周、問禮於老子」。春秋左氏伝昭公。「仲尼聞之。見於郯子而學之。既而告人曰、吾聞之、天子失官、學在四夷、猶信」。
・曽子の手足を啓く…論語泰伯3。「曾子有疾。召門弟子曰、啓予足、啓予手。詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫。小子」。詩は詩経小雅小旻。

○鈴木至り、昨日の命段々上へも申上けたれども、希くは十五日に旦那相見せんことを乞ふ。曰、明日は御忌日ゆへなるまじと兼て思ひき。十五日と云はるるも其迠は日柄があしきと察せらるる。さためて埀簾から出たことならん。然らは明日太夫に謁し兼ての御礼を述へ、十五日に君侯に見へん。御やしきては兎角重くせらるるがわるし。曰、獨り先生を崇敬するのみに非す、老臣ども旦那にも幼年より師を尊ふことを知らせたき意も有ることと見ゆ。曰、王公の学礼には尤なことなり。されども某は当らぬ。○館林矦僑居へ酒肴を賜ふ。○文問、大夫來るときは袴にて取次せんや。先生叱して曰、百姓の袴着ると云こと有るものか。それは死だときか昏禮のとき計りなり。

○淺倉氏、穪嘉助、近習頭。君侯の命を奉じ、先生長途の労を慰門す。先生曰、去年以來、この不德な役にたたぬ隱者を御丁寧になし下さる、何とも申上べきやうなし、と。須臾くして淺倉出つ。先生椽側迠送りて禮す。淺倉固辞してとどむ。曰、某御やしきの重き御とりあつかいを辞するも、必竟田舎に隱遁し久しくぶせうになり、天窓下ることも懶くなりてのことと笑ふて別る。

○午後川鰭氏至。君矦の命を奉じ、長途の労を慰問す。礼畢り先生曰、仙臺公御代替りには御吉例の連歌あり、大文字屋など出るときく。某それに比して言はんには、御やしき御祖君様迂斎を御招きありた御吉例なれば、今度某召さるるも辞すへからず。曰、先生一度御出府、二度御出府下されば、主人も御なしみ出來てよし。曰、君侯何そ忌まるることや御きらいはなきや。進講の譬喩なとに避けることあるもの。又、迂斎が易の講釈のやうに拍子にのって來て、御前と呼上げては王手々々と云やうになりて、御幼君にはあしし。何にしても御幼君の進講は難し。川鰭云、何もをきらいはまづはなし。氣象全体内はにもなく、又、やつきゃともなけれとも、唯應対に遠慮ふかし。曰、侍医方にもあれをいやと云やうな筋あるもの。それには幸田子の顔よかりき。某などはわるし。御幼君には南條や清十郎がよし。曰、いかさま七八才の頃は顔色にきらいあるもの。主人今それはなし。又さのみ遠慮ぶかくもなく、そこになにもなけれども、只あいさつか出來か子る。表勤のもの初て出たときなどそれなり。曰、人の性質さま々々なれども、御幼年では皆そふなもの。そこがよい処なり。又曰、弓馬讀書手跡等、御精出さるるや。曰、これもきらいもせられぬが、精の出ると云にもあらず。曰、弓馬でも御手跡でも主の御身へ直きにかかるもの。講書は人の説くこと。御自身へ離れぬものゆへ、これが一ち教ゆる者のこまることなり。某進講のとき御顔を見て、御うけよくはどふとも説かん。兎角御幼君には文義をかれこれとくがわるい。幸田などの下手はそこなり。水馬のるやうなもの。馬をはなれてのこと。文義とくのも皆はわるい。大人でも吟味は浪人儒者のことなり。文義をとくはすむときのことぞ。何にしても御幼君がむつかしい。どふも説やうもない。目出度霍亀で仕舞より外はなし。某近年講釈やめてをるが、江戸迠出るからは上總の者へ断り云ふはいかがと存じ、あの方で玉講附彔を一月に二度よむ。上總の書生が精出さぬと云ことてもなく、無人柄と云てもないが、どうも講釈は太義なり。偖、只一つ御やしきへ恩にかけることあり。平生大酒なれども、當年は元日より酒も半減にし、二月より飲まじ。そふのふては痛所つのり乘輿もならず。
【語釈】
・南條…南條元貞?稲葉迂斎門下。
・清十郎…桜木誾斎。名は千之。長崎聖堂教授となる。伴部安崇の感化で神道に傾く。享保10年(1725)~文化元年(1804)
・霍亀…鶴亀。

○大名の経濟ならぬやうな、なるものなり。川鰭云、相馬矦大ふ御不勝手になり、公儀より御咎めもありしなれとも、今長屋もさっ々々と出來る。或云、某の侯云云。恭節云、それは刻剥な所置なり。曰、刻剥と云ことではない。行りたのなり。百姓なれば椀を持て出るのぞ。○今も云通り、同じ脩行でも弓馬は御手前が主になりてなさるる。講書は人のをきく。それで難渋ものなれとも、去年よりの御礼によく讀ま子ばならぬが、それもめったに出しにくい。御講席太夫は遠く、其元さまは君の御側近に侍さるならん。言ことあらば御手前へ向て云はん。川鰭云、冝しく命に任す。さて講釈はよくよむがよい。きこへぬやうに説くは不調法なこと。それはまあ其ときのこと。必竟出まかせに妙あるもの。されともあまり活すると、人がそんなこと人君に聞かせるものかと云。これほどせつないことなし。直方先生は大名の前てよく讀まれた。古今の名人なり。あの面白は学力ある故のこと。迂齋秀丸殿へ進講せしが、只今の佐竹矦ならんか。迂斎も雄辨出なんだと見へて、あのとき評判もなかりき。迂齋も幼君にこまったと見へる。○此夜長雄來り訪ふ。酒を贈り旧懐をかたる。
【語釈】
・長雄…野村長雄。館林藩侍医。江戸の人。

十四日春、先生天氣を憂へ、當年も旱魃ならん、ゆたんならじ、と。文云、某なとも旱魃とて食はずに居るまじ。只家内の戚々たる顔が旱魃よりうるさし。曰、なるほど然らん。○館林矦より酒肉並に旅中の什器ををくる。○仲選來り訪ふ。これより隅田川へ行とて帰れり。○先生四つ過館林矦へ出。彼邸より駕篭にて若黨二人供に遣はさる。先生辞曰、これ迠帯刀の人倶にせしことなし。某上へ達すべしと、若黨をかへさる。暫時にして歸る。先生語諸子曰、今日家老二人用人中玄関迠下りて出迎へられた。重きことぞ。これ迠のこと易退録なとの例によるならん。何にしても某には當らじ。其重聘を蒙り、今度御礼に二十日まかり出しことを述べ、如何さま御先々代右近様迂齋を召させられ、某迂斎の子に相違もなければ御吉例と思召ての恩偶ならん、と。礼畢り常話に及び太夫主水云、先生先達てより二十の御滞留と承るなれとも、隱者の此身なれば御延日ありても然らん、と。某云、某はもと江戸か故郷なれば江戸に居るべきはづ。田舎にをるは不はづなり。さすれは二十日の外居りてもよき身分のやうなれとも、信と云一字はあなた方の御政事も隱者も上も理に二つはなく、某上總を出るとき既に二十日と伍保へも届けたれば、隱者とて信はそむき難し、と。此一条、十五日の事。誤雜ゆ。

○高須冨八來る。共に十四年ぶりの旧懐をのべ、先生曰、学問はどうぢゃ々々々々。高須訥々曰、これをよく学者か催促するもの。上りもせぬか。勝手向は如何ぢゃ。曰、勝手向直らず、上りも見へず。曰、談柄冩し仕舞ふや。曰、下巻果さず。それは埒のあかぬこと。あの知止能得の説如何。あれは違ふか。曰、とくと拜見せず。恭節因云、あの一節小綱領と云はあるい、と。曰、大学題下、程子の語を小序と云はわるいと若林か云も、あれか見所ないからなり。小序と云へは朱子何ほどわるいか合点ゆかぬ。
【語釈】
・若林…若林強斎。名は進居。新七と称す。号は中翁、寛斎、自牧、望楠軒。京都の人。~1732。年54。

○館林藩中松倉勘解由、同又三郎、荻田百助、平野都弥太、荒井喜平太來り見ゆ。皆麻上下にて扇子箱を納る。○とかく学者は学者を用ればわけなくほめるぞ。凡そ京都へ勤学などに出るほとの身分の者、少し学力あればとて、太夫に擢んずるなとは一國の體にあらず。又、某しの太夫などか学友をあつめ、田舎の百姓に出會し、文字なとせりあいするもよくなし。学者はほめるか、家中の者夛くは軽んじ、なまり武士が寄ったなどと嘲ける。皆これ知見ないからなり。笑曰、ああなにも非議せぬこと免し玉へ。我は年寄なり。とかく悪口がやまぬ。
【語釈】
・又三郎…松倉主水(勘解由)の二男。
・荻田百助…萩野百助?館林藩士。
・平野都弥太…平野登弥太。号は長道。館林藩士。
・荒井喜平太…館林藩士。

○先年日原より目付のこと云云。某一文あり。又、志水氏目付になり予に問ふゆへ、返書にとかく何もならぬことと御合点御被成候と申しやりき。皆かとかく知見がない。学問をし、才力ありても知見ないゆへ、やはり盆生活あぶなきことなり。○因云、桀紂あれぎりて古今ないと思ふが、此德利も肴もるとそろ々々酒池肉林なり。道二、仁與不仁なり。斯ふきんみせ子はならぬか、そふ云と皆さしつかへあり、いっそ田家の麥畑のわきがよし。讀書のことに因て顧高須曰、書はすまぬもの。先つ文議が本なれども、それ計りではゆかぬ。さて、相手がない。
【語釈】
・志水…志水質義。姫路藩士。

○鈴木盃を把るを先生顧み、叱して曰、賢は飲まぬがよい。曰、このごろは禁杯す。いや飲とみへる。高須曰、讀書退屈の時など保養にはよし。いや高須殿合せさっしゃるな。飲て益はない。某なとも若し幼君の補佐すれば酒はやめる。災は酒にあり。そのやふなことて幼君のことを常に敬畏すると云はるるものか。誠敬なとと云やふなけっこうなことをはのけ、先つ酒などからやめるがよい。酒は元氣を保養するなどとは氣の毒ゆへ、云わけぞ。火事役など酒は別してのこと。某なとも筑地火事て酒があがりて當年四十九年になる。それからどふらくになりた。生來火に三度合ふたが、迂齋の家て二度、某が一度なり。其時分書物など賣て外の儒者とは違ふなとと元氣云ったが、なににしても火事は若ものの食ものぞ。只今老とては、火事ときくとどふもならぬ。さて酒も夛くは火事で習ふもの。筑地火事か小学校になりて濱町の御簱元衆も酒を習ひ、遠嶋などになりたもありたか、皆彼の酒か基なり。韞藏録の跋を書れた設楽の子息もそれで欠落せり。○某先年姪が用金の封に巖と云字を書てやりたが、判はやくにたたぬもの。そのままなくした。
【語釈】
・設楽…設楽兵蔵。名は精賢、精義。迂斎の地主。迂斎門下。

○午後松倉氏、主水。旅中の盃を贈り、僑居を問へり。曰、先生明日主人に御あい下さる旨仰下さる。一同満足なり、と。禮畢り、先生長く滞留せさると云に因て笑て曰、陶淵明りやうにくをさいて去る、と。曰、いやそれかはや食を乞ふと云下地なり。席上経濟の談に及ぶ。曰、大月庄藏が経済の書へ、某覇心ないと云が跋の主意なり。○松倉云、某初め桂川某に句讀を授られしが、堀川学にて小学は禮記にありなどと云き。其後十郎右衛門に小学近思録を学び、三宅先生の咄など承る。曰、十郎右衛門は行状にある熊一かことにて、某論語或問考書の中にもふと思ひ出し、當時尚翁晩年二童子と穪したなり。あれは貴藩へ出、一人は岡野新藏なり。これは佐竹矦に任ふ。
【語釈】
・りやうにく…粱肉。上等の米と肉の意で、美食のこと。
・大月庄藏…正蔵。名は吉廸。伊予大洲の人。松山藩に仕える。浅見絅斎門下。~1734。年61。
・堀川学…伊藤仁斎の唱えた古義学の別称。
・十郎右衛門…森熊市?三宅尚斎門下。
・岡野新藏…岡野進蔵。佐竹壱岐の守の臣。

○松倉氏又経濟の談に及ぶ。先生曰、列國の太夫経済に長したは槇七郎右衛門、友松勘十郎、二人の外は小野嵜舎人なり。直方時分は小杦長兵衛など計りなり。某など見た中に大才なは小野嵜と思ふ。小野嵜が、迂齋石原二先生の外は皆小児あしらいにされた。或る日小野嵜昨日ふ立松を見たと云を、野澤重九郎が、其元様芝居を見ては御家中の則りになりますまいと云へば、いやをれが芝居を見た計りて二萬石の家中がこの暮餅をつかるる、と。野澤はてなと云へは、舎人云、そんなことは浪人儒者の知らぬことだ、と。二先生は又違ったことて、わきて笑て居てとり上けなんだ。
【語釈】
・小野嵜舎人…本姓大田原。師由。出羽秋田の人。牛島随筆に「小野崎師由、雅量通長」とある。直方晩年の門人。直方の子就正が秋田の佐竹候に仕えたのは、師由の推挙によったとある。
・小杦長兵衛…鳥羽藩家老?
・石原…野田徳勝。剛斎。七右衛門。本所石原町に住んでいたので石原先生と呼ばれる。1690~1768
・野澤重九郎…野澤弘篤。初め菅野兼山に学ぶ。

○松倉曰、幼君補佐は某等今の任なれども要旨を得ず。迂齋先生先に君へ幼君補佐の心得と云一剳子を進せられき云云。○先生云、活計わるいと心術迠わるくなるもの。某活計よきゆへ何もこまらじ。○蠏佐衛門が経済の書篇目多いゆへわるい。多くせぬことぞ。某抄畧したがあれでよい。○鳩巣の、人にいまるるはよいか、あなどられるとやくにたたぬ、と。面白ことなり。信ぜられぬ迠はまだなれども、あなどられてはもふ行はれぬ。それ見臺がと云。そこのかけ引大切なり。あれは直方の言そふなことを、鳩巣で猶面白ひ。然らば術かと云にそふでなし。論吾篤信とあるも言へはひきゃうなが、わけあること。向ふにとんぢゃくないやうなれども、そふなければならぬ。兎角治法政事は出しやうにあること。茶の湯でさへそれなり。経済、書物藝てはならぬ。たとへは四十而仕と云へとも、世禄の人は違ふ出しやうあり。其人にあること。中庸其人存すも人へあぶせたもの。○席上一士人、今は学問はやると云。曰、儒者はやると云は法蕐坊子根性で、それを手前は用ひぬ。講席口の戸外に雪駄が多いと云はかりのこと。されとも其内には、誠の道に入るぞうれしきがあるものなり。凡民の俊秀は格別のこと。領分の者や家中の子弟は上から聲をかけ子ば自ら興起はせぬ。そこばかりのことなり。
【語釈】
・蠏佐衛門…蟹養斎。名は維安。字は子定。佐左衛門と称す。号は東溟。安芸の人。尾張藩に仕え、後伊勢で没。三宅尚斎門下。~1778。年74。
・鳩巣…室鳩巣。
・論吾篤信…論語泰伯13。「子曰、篤信好學、守死善道。危邦不入、亂邦不居、天下有道則見、無道則隱。邦有道、貧且賤焉、恥也。邦無道、富且貴焉、恥也」。
・四十而仕…礼記曲礼上。「人生十年曰幼、學。二十曰弱、冠。三十曰壯、有室。四十曰強、而仕。五十曰艾、服官政。六十曰耆、指使。七十曰老、而傳。八十九十曰耄。七年曰悼。悼與耄、雖有罪、不加刑焉。百年曰期頤。大夫七十而致事」。小学内篇立教。「四十始仕。方物出謀發慮、道合則服從、不可則去。五十命爲大夫、服官政。七十致事」。
・中庸其人存す…中庸章句20。「哀公問政。子曰、文武之政、布在方策。其人存、則其政擧。其人亡、則其政息」。

○松倉問、幼君補佐のこと、どふしてよからふか考へつけられぬ。どこから取ついたものなるや。曰、孝をするは子の當然、親は慈むが自然。どちも天性にてはへぬきなり。そこに又、親の眼にはきりがふると云もあり。孝子巧変と云こともある。又、親の子をそだてるに教のあんばいありて、愛も敬もある。萬事それなり。孝も慈も仁から出るなれども、愛に義方ありと云。そこで皆出しやうにあることぞ。補藥使い瀉藥つかいがわるい。笑曰、とかく宗旨がわかる。医者も家業にする故異論が出來る。とかく我をたてぬことなり。両國の淡雪がどちらも本家と云。仁齋徂徠か古学と云て程朱をうつ。始め徂徠が仁斎を信じ、そこに可笑しきことは、だん々々仁斎学がはやって來たとき、あれもと云て仁斎を討た。果はこちが君子になりそこなふたのなり。松倉曰、仁斎幼君補佐の書ありと云。曰、然らん。某いまだ見ず。今申した孝子巧変のこと、朱子小学にのせず経傳通解に載せたはどふなれば、通解は大学以上のきんみゆへそ。巧変と云はわるくすると心術の病になる。さて今田舎へ引こんで麦はたけを掘る某などの手に教はならぬ。君前大ふこまる。松倉退んとして曰、隱居も明日見んことを乞ふて居らるる。曰、それは有難けれども、决して御さしとめ下さるべし。迂齋以來ないことなり。曰、先年京都尚翁の門集小田原侯へ出られたときの先格もあれば、先生願くは許容し玉へ。曰、あの方には先格も有ん。なれども某が家に例のないこと。強て仰せ下されば、某只今田舎へたちもどらん。曰く、隱居外に御逢申たき意なけれども、ひたすら久五郎御教育頼入たき由申さるる。曰、御尤千萬のこと。されども何分御手前様より冝しく御断り下さるへし。曰、さほどに仰せられば某申しきけて先生の意に任すべし。松倉出つ。先生曰、主水殿一方の太夫なり。このやうな処へは尋られぬもの。小杦以長以來ぞ。供の者などは、をらが旦那はかわった所へ行かしゃる。異なこと。見れば稲荷かある。あれは神主か何かけちなやつが居たと云ものなり。
【語釈】
・孝子巧変…大戴礼記曾子事父母第53。「孝子無私樂、父母所憂憂之、父母所樂樂之。孝子唯巧變、故父母安之。若夫坐如尸、立如齊、弗訊不言、言必齊色、此成人之善者也。未得爲人子之道也」。
・仁齋…伊藤仁斎。
・徂徠…荻生徂徠。
・小杦以長…

○昨日も主水殿、二十日の御逗留と兼て承るか、少々延日ありても然らんと云ゆへ、某云云なり。一士人云、某なども二十日の外を希ふ。曰、貴さま方も人情ずる。益を得たいなら長滞留したとて何の益あるものそ。顔子三十二で萬世の法則になる。をらがやうな老くぢけてはやくにたたぬ。兎角若き内の議論がよいものなり。○御隱居方御目見へ仰せらるるは吹聽すべきこと。文曰、幼成で賢君となしたき御仁愛の餘りならん。曰、御幼君の教、不德ではならぬ。任にたへず。某などは暴君などへ耳ごすりても云は宰我子貢にも負けぬ。
【語釈】
・顔子三十二…顏淵は32歳で死ぬ。前514~前483
・宰我子貢…論語先進2。「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。德行、顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏」。

○先生曰、某仕へる者にしたとき、館林矦へは出られぬ。出ると云ときは土井矦より、あちへ出るならこちへ來いと云はるると直きに引たくられる。某も奉公するなら土井矦へ出子ばならぬ筋そ。靖献遺言、張良五世韓の禄を食んたゆへあの通りのこと。某母の乳を飲んた迠も土井侯の禄なり。如此今ても迂斎の俸餘で嘘吸六十三まてつつき、斯ふして居るなり。そこで魯齋の論もあることぞ。今某などは中間も同じ。韓國を欠落と云ふともなんのかはせん。偖又張良は乱世のこと故ああなれとも、治世は又所置あること。○皆が益を得たいと思ふならふか、そふして居ても益はない。歸て書を讀むがよい。益を得たいは空理、書を讀むは実事なり。
【語釈】
・張良…前漢創業の功臣。字は子房。韓の人。~前168

○講学にも竒正がある。軍者の云やうなことなれども、そふなり。謂恭節曰、東溪が後、鞭策録道学標的や排釈録を貴藩て興したは賢が手柄なり。それぎりて新しいことは出ぬ。只善藏かことわるく云計りで何も新しいこときかぬ。新しいこと出せと云たらこまらふ。そうはたらきがなくて何になるものぞ。上へ申上へ学問上らず、御用に立ぬと云て儒者役やめ、外の御役勤るがよい。今上でも御暇は下さるまい。やはり抱關擊拆がよい。火の用心呼んであるくがある。あれがよいものぞ。某多田先生の供し貴藩の足軽にかわりて日光へ行たことあり。そんながよい。講官を辞し下に居るが却て出處の高いことなり。鈴木曰、いかさま然り。○先生曰、皆やくにたたぬ。小市などてもひたるくなってはよわる。宗伯は金をためる。どふもならぬ。或曰、杢が小市をよいと云。曰、そふは云まい。誰やらがあの人へ、足下のそふして居らるる処、小市によく似たと云しを、吾を小市に似たと云はれてはとて腹を立し由。
【語釈】
・東溪…多田東溪。名は儀。字は維則。号は東溪。通称は儀八郎。平安の人。館林侯に仕える。1702~1764
・抱關擊拆…門を守る人と拍子木をうって夜を警める人。身分の低い小役人。
・宗伯…明石宗伯。柳田求馬。村松樵夫。名は義道。江戸の人。~1784
・杢…佐藤平次郎。新発田藩儒臣。名は誠明、熙明。平次郎、杢右衛門と称す。幸田子善門下。1750~1827

○或人云云。學力さへあれば取立、家老用人にすると云に因て云。魯夫れ亡んかなり。どうしても学者官路をうれしかるゆへうすい。けいさいする氣で経済ならす。学者を用ることは漢家にないと云。いかさま漢が衰へた夛くは任底にて居合腰て出たかる。太夫居あい腰ではならぬもの。○高須曰、或人太夫の筮仕に坤卦を得、某の人へ判断を乞し、と。曰、それは馬鹿なこと。いやはや々々々々どふしたことぞ。高須又曰、某の人、坤は臣の卦、太夫のあたり前。吉占、と。曰、それは根からつまらぬこと。人臣占へは六十四卦が皆臣の卦、獨り坤を云んや。さためてそれからは湯治に出るも占ふならん。高須又曰、御請けして謹らぬ時はしくじるかよい、と。曰、これは尤な云やうぞ。○顧一士人曰、もふ御かへりなされ。要旨聞たいとてのことならふが咄もない。供の者をひだるくさせてをくも、一夫も不得其処ぢゃ。処を得ぬと太極へ欠か出來る。偖、奉公するは御馬先き計りてない。平生死ふと云ことなり。すれば長雪隱もならぬ。
【語釈】
・一夫も不得其処…近思録為学1。「伊尹恥其君不爲堯舜、一夫不得其所、若撻于市」。

○經済の談に及び高須云、諸藩紀綱立ずに只爉燭がいくら入りたなとと云。曰、経済なる氣で居るが、經済ならぬと云なればなるものなり。○先生謂高須曰、今度某主水殿に軍に負けたと云を誰も問手がないが、これも竒正がある。去年彼藩の重き使者は正なり。某は竒なりと云はどふなれば、そのやうな沙汰あると某豫め長藏へ固く諷したことあり。韓子其奇がわるかった。そこをあちからも又奇と出そふな処を却て重聘で正をせられた。もふそふなって來てはたまらぬ。これが上手二人なれば、互いに竒をし正をするゆへ勝負分らぬものなれども、某が奇はかりなり。仕そこないぞ。某も墓参など少し出る氣もあったが、實はうそなり。あちから思ひよらず正をされたゆへ大負けになりた。されとも奇正のあたりから覇術になる。去年洪範で剛克柔克のことに奇正と云ことをといたが、あの説はよかろふと思ふ。いつぞ文二が筆記を見玉へ。
【語釈】
・韓子其奇…
・剛克柔克…書経洪範。「三德。一曰正直、二曰剛克、三曰柔克。平康正直、彊弗友剛克、燮友柔克、沈潛剛克、高明柔克」。

○髙須殿、貴様と小源太两人を志して参りた。今栄次郎殿は死ぬ。二人と別に咄す積りぞ。玄朔も死ぬ。段々なくなる。十四年以前上總へ立つとき某を行徳迠送ったは三九、要七、小源太、足下。あの時の者は皆無事で生ている。○平二郎か談に及ぶ。高須曰、あれは訂翁をきつい信仰なり。先生因云、小市が弟子を呵るは親の子を勘当するときや番頭が手代を呵るやうなり。小市任ずるからならふが、師弟あふ云学問なり。学問上ればあふはないはづ。さて又訂翁小市が間、訂翁にも似合はぬこと。必竟術がないゆへ、丁ど子供の腹立つやうなり。そこが赤子の心を失はぬよい所ぞ。小市も我親炙して、即今翁の心すが知んずは二千年跡のことは知れまい。
【語釈】
・栄次郎…幸田栄次郎。幸田子善の次子。~1790。
・玄朔…若林玄朔。名は弘篤。江戸の人。1740~1784
・三九…志水質義?
・要七…
・平二郎…小注に、「平次恐東四」とあるが、佐藤平次郎を指す。

○先生謂或人曰云云。荅曰云云。予輩口を出すことはならぬ。一向只左右の使令に従ふのみ。先生曰、足下に今一つ不審あり。向きに幸田子をすすめたそふなが、足下の意如何。あの衆の善いは知れたが、又晏嬰不可も尤なことなり。才發あるゆへぞ。曰、年日講釈や只一と通りの咄では縛り付て引立ることならぬ。そこて幸田先生の快活を一と匕なめさせたい計りのことなり。曰、それなれば筋が立つ。幸次郎が上總へ來たとき某へ咄すゆへ、幸田あの大酒では害にならふと云き。もと晏嬰不可も幸田を知らぬからなれども、其塲では尤なこと。足下は温鈍よしとする病人に蕎麥ゆるした。そふで有ふ。
【語釈】
・晏嬰不可…論語序説。「公欲封以尼谿之田、晏嬰不可」。
・幸次郎…奥平棲遅庵。名は定時。通称は幸次郎、晩年は玄甫。武蔵忍藩士。明和6年(1769)~嘉永3年(1850)
・温鈍…饂飩。

○先生問諸賢曰、訂翁が今日の政、小過をゆるす政がない々々と云。あれはとれからが小科、とれからが大科にすることや。宗伯かたばこぼん蹴たは小過、青樓行は大過と云やふなことではあるまい。垩賢にそんな馬鹿なことはない。翁の意少しのけざさから人才をなさぬと云ことならん。そこをどの位に云かなり。諸賢黙してやみぬ。恭節云、某も京で訂翁に謁したは久しいこと。高須云、賢者の容貌辞氣を見て置くは美事なり。儀封人なり。嵐山の櫻、廬山五賢堂なり。先生曰、五賢堂と云より濂溪の故居なり。
【語釈】
・けざさ…障害。邪魔。
・儀封人…論語八佾24。「儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也。從者見之。出曰、二三子何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子爲木鐸」。

○一士人云、板倉兵次郎、一ちむつかし屋なり。○恭節云、酒を飲んだとき氣象もよく發明もある。曰、酒をのんだとてよいと云ことはない。さん々々なり。發明は花など見てあることもある。酒を飲んでは客氣もつよく、俠者の一はい飲で喧嘩に行くと云になる。学者も酒で元氣よいやうでも精彩ないものなり。さて賢か發明によいは顔子如愚のこと計りなり。文云、この談、先年高須問鈴木曰、孔子の曽子子貢に一貫を告け玉へとも顔子になし、如何。荅曰、顔子合下に一貫を領會す。其地位終日不違如愚で看よと先生毎々穪す。
【語釈】
・板倉兵次郎…名は弘毅、号は震斎、兵次郎と称す。新発田藩儒臣。久米訂斎門下。1746~1816
・顔子如愚…論語為政9。「子曰、吾與囘言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以發、囘也不愚」。
・孔子の曽子子貢に一貫を告け玉へ…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。論語衛霊公2。「子曰、賜也、女以予爲多學而識之者與。對曰、然。非與。曰、非也。予一以貫之」。

○先生謂高須曰、子は工夫はなるぞ。書をよく覚へてをれば、火を吹きながらも工夫はなる。○先生曰、幼君の進講が一ち出來にくひ。某思ふに小学五箇に讀やうあり。幼主一、人君と太夫一、諸士一、経済に當る人一、道体性命を聞く人一なり。人君幼年なればとて、常人の通りにはよまれぬ。太夫は又ふりのあること。これには魯齋神明の如しと云あんばいあり。道體形なし。それを事へ出せば経済なり。○謂高須曰、一六談柄補傳の処見るや。曰、未し。曰、あれは始は経済の意で聴徒へといた。○先生曰、ああ久五郎殿よりいろ々々賜りた。明日の講釈は返礼なり。幼君へ向ては巧言令色せ子ばならぬ。我もち前を出しては為めにならぬ。垩賢の人君や太夫を見るは礼なり。それをめけては。浪人儒者多は利害、恐るべし、々々々々なり。○先生語文曰、明日の講釈小鳥の子飼のこと説ふと思ふ。曰、よい御趣向ならん。發句に蝿打になれし萑の子飼哉と、いかさま子飼からなればよくなるるもの。先生曰、とめには御目出度ことと云てむすぶつもりなりとて笑へり。○上總て與五右衛門か一ち文字もあれと、氣質も出さず道理も出さぬ。
【語釈】
・與五右衛門…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

十五日快晴。文問、賈誼か太子は教を早ふすると左右をえらぶにあり、太子正而天下定ると、朱子奏箚の中其外度々ほめてあり。幼君輔佐はこれに有りと覚ゆ。曰、然り。昨日某が孝子巧変のこと主水へ敷衍して聞得しや。文曰、親に事ふると幼君輔佐を一つに示さるる。滋味親切面白あやに覚ふ。事の出しやうかあると云が力らなくてはならぬこと。太夫の幼君輔佐の心得より仁齋か書のこと問はるるか、仁齋は保傅傳などより出たるべし。必竟幼君補佐は小學の書より外は無かるべし。曰、主水殿は一言以蔽之を聞たいなり。問、迂斎先生幼君補佐の心得は土井矦へ献じられしや。曰、直方先生の弟子の土井矦の子出雲守は早世し、支族土井辨之助と云玉しを仮り養子にせられ、土井矦卒し辨之助を嗣とす。これを迂齋教授された。其時のことなり。家老は潮田堪右衛門、佐々木武左衛門と云。合田忠藏が飼鳥のこともこの殿なり。事見幸田先生語録。迂齋の講後、をらなどは幸でこれを聞たと云はれし、と。迂齋を二百石にしたもこの殿なり。事見迂齋先生行実。又たしか十八計りのとき、迂齋存養篇夢寐のこと説かれしにうつらなんだゆへ迂齋問ふ、いつも御不審もあり御感心もあれど、今日はそふなし、と。矦曰、夢と云ものあるそふなれども、吾□□夢を見しことなし、と。この矦某が兄と同年くらいにて某を直三郎と覚へ、迂齋へ賜書の尚々書に鉄二郎直三郎も無事かとあり。矦は静な生質と見へて、夢を見られぬ。惜哉、二十二で卒しぬ。某十三のときなり。又某四つ計りのとき、直方の弟子の土井矦某にぎうひあめ賜ふたこと覚てをる。又五つのとき疱瘡したが、疱瘡前に尚齋先生の迂斎を訪はれたことを覚へてをる。先生上下で小さくちんまりと席に即てあり。武井三左衛門と某か兄が取持に出つ。某もそこへ出やうとするを三左衛門が兄の十兵衛子めて呵れり。そこへ出さぬ。そのとき某が意、吾御旗元の茶の給事をもさせられたものを、舅翁か意、尚翁へ献した牡丹餅を、先生牡丹餅好ゆへ供したなり。食いたがりて出ると思ふならんと心に憤りき。それぎりて何も覚へぬ。役にたたぬこと覚へるものぞ。
【語釈】
・賈誼…前漢の学者。洛陽の人。前200~前168
・合田忠藏…唐津藩主土井利実に採用される。
・存養篇夢寐…近思録存養53。「人於夢寐閒、亦可以卜自家所學之淺深。如夢寐顚倒、即是心志不定、操存不固」。
・武井三左衛門…武井敬勝。迂斎の妻の弟。唐津藩士後に古河藩の儒臣。1709~1786
・子めて…睨める。

○五つ半、館林矦へ出つ。表門より入る。表門はじきに廳にのほり、又僑居へも近し。これ計固辞せさるものは便利を取ると云。九つ半歸る。○先生語文曰、今日も御家老用人中玄関迠下らる。迷惑ぞ。○矦に謁す。矦、手つから熨斗を賜ふ。某兼て思ふに、矦虚弱ならん、と。左に非す。健な方に見へる底もよきなり。

○小學序を講す。○古者小学云云。小学校か今の辻番のやうにいくらもあり。垩人の世を云てから、それが段々へりて無なった。そこで朱子、この小学の書編集せられたれば、これがすくに小学校なり。この書があれば小學校はあるのなり。○隆師と云はもと学校の師なれとも、御大名なとは家老用人を始め君を補佐する者を云ことなりと心得あられよ。嚴廟御幼少のとき、阿部君豊後守此任たり。近比も公儀に御補佐あり。儒官のことに非ず。師を尊ふは古三公道を談すると云がそれなり。講釈なとする儒者役のことに非すと思召せ。○友と云はもと大名は大名、幷に御同席を云なれとも、ここの親友と云は弓馬ても手習ても讀書学問ても、それを教るものを云。臣下にても皆それが友なり。端的此をやぢなとを田舎より召されて講書仰付らるれは、恐ながらこれ亦友なり。友とは凡そ脩行する上でのことなり。天子諸侯の匹夫を友とするかここなり。○平天下と云は御前の学業成就して御祖父様のやうにならせられ、天下の政をも執らせらるるときの其下地でござりまするぞ。
【語釈】
・古者小学云云…小学序。「古者、小學敎人以灑掃應對進退之節、愛親敬長隆師親友之道、皆所以爲脩身齊家治國平天下之本。而必使其講而習之於幼穉之時、欲其習與智長化與心成、而無扞格不勝之患也。今其全書雖不可見、而雜出於傳記者亦多。讀者往往直以古今異宣而莫之行。殊不知其無古今之異者固未始不可行也。今頗蒐輯以爲此書授之童蒙資其講習。庶幾有補於風化之萬一云爾」。

○扞格不勝。御厩の奴に長上下着せて御殿へ出すやうなもの。たへられぬこと。幼穉からなれば御近習のものの君邉になれたやふなり。小鳥を御らんなされい。御椽端へ雀かまへる。障子をあける、はやにげるが、兒飼の萑は膝の上へあがり、人を逐ふてなしむ。雀に二つはなけれとも、野鳥と児飼とのちかいなり。小学は人を兒飼にすることなり。今の人は教なさに野鳥のやふにて、親の元も嫌ふやふになりますそ。○小学の書を鏡になさるるかよし。たとへは女が上下ともに鏡持たぬものなし。こなたの奧の女中ともも大勢あるへし。去れとも鏡もたぬ女は一人もなし。又、鏡持て鏡見ぬ女も一人もなし。皆鏡を見て鬢の毛一本そそけてもそれを撫で、或は粧をなをす。吾君も小学を鏡にあそはされ、御身の過あらば小学て直さるるがよい。この辨、無簾の中、御隱居方の在せばなり。

○先生又語文曰、講前これてなければなりませぬと目鏡取上けたれば、君侯も微笑せり。○御前の御身の御養生のことはふだん侍醫の尽すことなれとも、御心のことは侍醫の手に及ぶまじ。この御療治は外にはなく、只君の御一心にあり。それはどこと仰らるれば、御学問でなければならぬ。御学問して御心をすら々々滞りなきやうに遊はすべし。それで御身も脩り、御長壽を持つの道なり。さるによって吾黨短命の分で、山﨑先生か六十五なり。それより直方先生七十、先父迂齋七十七、先師石原の七右衛門七十九、三宅先生八十になられた。然れば御前にもそふ遊すと御学問上進、御長壽持たん。御目出度ことなり。今日の講談山﨑先生のことに因て云。先生毎年歳旦の詩を作られ、雪花大出梅花五、と。この詩か歳旦の仕舞、六十五のこと。よく知るる。外にも年を書た所ありき。
【語釈】
・山﨑先生…山崎闇斎。

○講後、料理賜ふ。○松倉主水曰、主人久五郎申付られ候。致方も有之べく処、時節柄を以て三十人扶持進入致し候とて書付を賜はる。先生决して請られす。因辞せる由し。○先生、文等及旧友に語て曰、松倉云、先生なぜ江戸が御きらいぢゃな、八甼堀なとは静なり。曰、当春の彼のはどふそ、と。一坐皆々笑へり。松倉氏酒を強ゆるゆへそふ云た。御手前様など御不調法あり。曰、何故あるや。曰、僑居へあのやうに美酒下さら子ば、かかる銘酒は又も飲まれぬと思ひ、倒れる迠も飲めども、宿へかへりて飲ふと思へばそふなしと云へは、主水殿笑へり。今日講釈の中もあの衆は笑ったりははあと云たり、大にのりが付けり。さて、太平に列國の交りは和がよい。左傳にも隣國の好みのことあり。大義や議論の時は格別のこと。そこを小市なとは理屈を云ていつもきぶい顔するが、根が先生ぶりたいなり。笑曰、某は講釈もよくし、酒も長く飲まず、料理もほめやうが上手。そふして三十人扶持をは受けぬ。あれを受けて三ヶ月も過て辞せは其間勝手にも先づよし。世間への名聞にもなること。けれども某は跡をくらまして辞して仕舞ふた。これ心術の大切なり。

○館林矦の使者某、近習頭。今日講書の労を謝す。○先生謂鈴木曰、下總矦拜謁固辞のこと、賢、手翰に及はば其文言に望あり。さて手翰は證拠になりてあしきもの。さてそれに付ては幸二郎が書物のことにこまる。鈴木曰、某此間の挨拶ながら参ふと思なり。曰、それもよし。某固辞のこと、賢杓んで云てやったならん。尚又今手紙にしては賢がこまることあるもの。賢、口上で云はば、黙斎へ申したれども、御目見のこと一切肯んせず。某察するに此方邸より重聘ゆへ此度出たなれとも、それさへ僅か二十日限りで延日も達て乞へとも合点せず。勿論外へ出ては館林矦へ言わけ立ぬとて、何方へも决して拜謁せぬ覚悟なり。又著述のこと御尋子そふなが、四書小学近思ある上は儒者の業に著述と申すことはなし。もし著述すれはなぐさみにて、それは詩文者のこと。黙斎詩文は出來ず。前々より年毎發明のことを録したることあり。これは幸二郎方にも少々あれは、これへ御尋子下さるべしと申し玉へ。彼藩の人士のもちたるものを其君にかくすは後ぐらし。

○先生謂長藏文七曰、互に益を得やうなら交がよいが、そふでなく、互に髙ぶりありて心では交ても益はないと思ふと見へる。たとへは妾をかかへても、子を生ませる了簡なくは入らぬことなり。友は益を得るため、妾は子を生むため。外に用はなし。文七、義絶では不自由ぢゃから交たいと思ふはわるい心いきなり。常々文義のきめがわるいゆへ心もきまらぬ。心で益にならぬと思はば交らぬがよし。吾学はするどでなければやくにたたぬ。長藏も文七も某に隨身なれども、其中わざ々々かかったは文七と徳十郎ぞ。ちとは精采もありそふなもの。改て此以後互に益を得やうなればよいが、中々そふではない。文七云、隨分益を得ることなり。曰、隨分と云ても請け取らぬ。江戸に居ながら官府のことも知るべし。挨拶わるくても官府に居て互に口をきかぬことなし。面白ひからくりなり。訂翁の云、俗を脱するでなくてはやくにたたぬ。只の学者、茄子のへたなり。そんなはいくらもある。こなたと長藏かことを家兄か苦労して居るが、やはり義絶がよい。さきも御前の講釈で親友を講したなれとも、こなたなどはあたまて不親の心入なり。すれば長藏も文七も交らずに居て、互につきこまれまいと自ら城を固めたら、それが却て益を得やう。女などは外むきあいそふもするが、今の見事な口上、それは女なり。又情なしにわたれは、市井髪結どこなどの出合なり。なんと心のそこから益になるとは思ふまい。文七曰、左様でもござらぬ。文義の上でも大ふ益になることなり。曰、左様でもの、も、からがきこへぬ。世間見事にするは黙齋流になし。小源太より長藏かまだよいやうなもの。小源太はそなたを馬鹿と見てすててをく。長藏はぐっと腹立つ。それだけがよいなり。五倫の内、朋友はあってもないもの。吾心入からこそ益あるそ。高須曰、わるい友はないのなり。曰、長藏も怒が手傳ふからわるいが、未だ形でしたこと。文七はさん々々なり。先日誾齋への文章に、舎弟の世話になりたのと人情を愛惜し、又か子々々作内様へかかへられるやうな相談あるそふな。いきたがるそふな。某し誾齋へ云ふ、貴様の弟子と云へばよし。それに何かそなたのこと悪るく云たそふな、と。誾、にが笑にて神道のことで有ふと云た。長藏は家内が貧ゆへ奉公に出た。鋤を持つことがならぬと云計りのことなり。文七は大身御うらやましいそ。それに江戸めくはとふぞ。文七云、只今仕官の志なく、外ても仕官はわるからふと云。殊に藝は未熟なり。曰、藝とは三味線か。某は德義がないと云ことか。曰、詩文もならず。曰、誾齋へ漢文の書翰は如何。某は奉行ぞ。心術の詮議そ。それを聞かふよい所へやった。茶の湯道具やるも同じこと。某又誾齋へあれが文は如何んと云へば、誾云、中々及はれぬと云て甚たあれがほめて、さて私方へは老人のことなれば見舞こそさるへきに、漢文のはつではないと腹立たは尤なり。黙齋が方へなればなをしてもやることあり、これは文をもかくとをどしたのなるべし。文七曰、高須日原などへも申したが、仕官の意なし。曰、無ければよい。又、向が合点なれば仕官してもよい。長藏もあれがこと人が問はば、私義絶存せぬと云はずに黙齋門人に相違ないと云がよい。迂齋やりばなしでよいは、大橋の学校でも知れた。菅野が直方の弟子と云た。石原先生は理屈云て腹立れたか、迂齋はそれをつかぬ。其後も一学者去る屋鋪へ仕官するに迂斎の弟子と云て出たものもあるが、某などかたから覚へぬに、向から問はれたとき、迂斎元と講釈にも來たものと云た。
【語釈】
・文七…高宮文七?
・徳十郎…
・誾齋…桜木誾斎。名は千之。清十郎。長崎聖堂教授となる。伴部安崇の感化で神道に傾く。享保10年(1725)~文化元年(1804)
・菅野…菅野兼山。名は直養、通称は彦兵衛。会輔堂を作る。江戸の人。1678~1747

○某皆がかへったゆへ云、今日三十人扶持有難とばかり云て辞した。をれも人欲は多けれとも、隱者に相違はあるまいな。如何さま土佐矦、尚翁へ七十口なり。國主の御高でさへ見よ。吾を上總へ置て三十口と云はさて々々大きなこと、厚いことなり。さて某誠なき身にて百虚二實あり。迂齋の子と云實と江戸のいやと云實と二あり。これはかり誠なり。名を好んで禄をうけぬではない。顧丹二曰、をれかうけたら手前が為にもよからふ。

十六日晴。五つ時より先生父母と曽祖の墓を展省し、溝口浩軒様奉問し、親類方を訪ひ、七つ時歸れり。曰、今日はむこい御馳走にあった。母方のいとこか処へ参ったに、いやどふもならぬ。祝言寺でも兼て咄かあったが、それほどにも思は子とも、行て見れば以の外のこと。居所なともすててかまはず、いやもふ禽獣のすみ家のやうな体にて目もあてられぬほどのこと。夫婦がのろりとして貧困言はふばかりなし。そふ々々にけて來た。いやはや々々々々こまりたやつなり。八藏が処へ行しに八藏は留主で、新婦か何か漉茶しなから勝手へ引こみめそ々々と啼てをる。姪孫か死を思ひ出してのことなり。又、病氣のをいも静になったゆへ猶心に痛み、某も涙にくれては用意の德利を轎より出し、冷酒でぐっ々々とのんだ。いやはやろくなことはない。某が墓所に買って置た墓所を見れば新しい石ありて、女姪と孫をいの墓が二つ並んである。いやもふ心を痛める計りなり。さて龍光寺はよき寺なり。もと迂齋、麻布の父母の墓所にしそふなものなれども、せまくてこまるかして龍光寺になりた。宗家にて神主を拜し、仕舞にすがも同屋敷、沖津が処へ行たが、あれがあれが父茶の湯好で、あれはせなんだが今はすると見へて竒麗てどふもいへぬ普請なり。あれが妻が母はやく死し、幼年のときより某そだてあげたきと云ほどに大ふ愛した女なり。然るに去年ふと死たと聞て大に愁傷したが、今日あれが挨拶に出たゆへびっくりしてはてなと思ふたが、向へも響いたらふ。これは墓所に茂右衛門妻とあるゆへ、人が間違で某へそふ告たと見へる。先茂右衛門が妻にてあれが母なり。ここて少し心を慰した。それよいり一ち仕舞、水戸のやしきのいとこが処へ参った。御庭やきの茶碗、とうもいへぬ。五十年にもなるやうに見ゆ。御庭焼にいとこなども手傳ふかして、これはあれが焼たと云き。其外水さしなどもよく出來た。ここにも不幸かありたが、某れも水府の臣、予か從姪女壻なり。学の志もありて某が今度出るを知て病中言くらして死たと云。又、いつも太兵衛が世話の寺へ、浅艸。行たが、石牌に山本重太夫と手紙の文字より細きやうに書て掘てあり、あのときの石は今なき石なり。性よさにあさやかなり。寛文時分てあの時の風からして曽祖母の墓には草書てあり、迂斎の祖父母、某か曽祖なり。これは尾州の山本兵庫か子にて土井矦へ出仕、それから子の代に暇出て南部につかふ。某か祖父は二男にて、麻布與力鈴木へ入婿にゆく。今の狂次郎が家なり。
【語釈】
・八藏…
・いとこ…小注に、「稲葉源太夫」とある。
・狂次郎…鈴木狂次郎。黙斎の従姪。

○今日龍光寺へ前約の通り仲遷も見へた。兼て望みの稽古館で講釈のこと、某さし合はかまはぬと云たをいかにもと答へり。いよ々々近日京極てよむが、あの学校などもよくない。さし合かまはすよまば興がつきるであらふほどにまづきいたはかりのこと。つまり梁武、寺を建立し、達磨に功德ありやと問へば、達磨功德なしと云。三左衛門長藏などは我に云分はないと思てをる。うっかとしたことなり。○夜九つ半、先生病めり。用意の藥などふり出し、これを腹して愈ゆ。實に今日悲痛。冷酒過飲の故なり。

十七日晴。今朝先生束髪卒り、謂文曰、賢はこれを未だ見まじとて示さる。

   示黙齋
一 講習一日も怠慢あるへからず。竒説を立、並に人をかろんしあなとるへからず。
一 應事接物礼節を守るへし。
一 深宴□□幷に朝寐無用の事。火の出念を入るべし。
右三條事尤卑近而所繋甚重矣。汝頂門之一針也。
  宝暦十年庚辰五月廿四日書  迂齋老人
【語釈】
・宝暦十年庚辰…1760年。

これをもと表具して掛物にしたが、又とって懐中す。この訓戒大ふ底のよきことなり。先生学話に載せてあれば冩すに及ばすと云へども、学話を讀むときはたやすく看過す。先生秘重せらるるに因てまたここへ写すものなり。○文集か通鑑で有たが、酒涙同傾と云。昨日などかそれなり。面白い字なれとも、後世の文なり。○一つ松甚四郎來り、茶など立て旧懐を語れり。栄藏か談に及ぶ。曰、德十郎は以の外のことなれども、所自來は栄藏からなり。栄藏、母が愛子で根がそれからぞ。徳が死後、あれが某が所へ來たが、これ迠のこと何もかも皆徳にかぶせて仕舞ふ意なり。死ではなにもないこと。それでは徳が一人ころびぞ。あれが方から某を絶ったが、家内ではまちなどの酒はかくしても贈るもの。皆そふした底なものするに、そふないは德一人のことてはなし。因て某か栄藏へ兄が三年の喪あけたら來いと云き。其間にはあれが行迹も知れ、村の思ひ付なども知るる。あれは利口ゆへ内藏や七藏が中も和げた。後はあれが一人て並呑する。身上も直すで有ふ。
【語釈】
・一つ松甚四郎…
・栄藏…
・所自來…自って來る所。
・まち…特定の日に人々が集会し、忌み籠って一夜を明かすこと?
・内藏…
・七藏…鵜沢七蔵?鵜沢由斎の子。清名幸谷の人。
・並呑…倂呑。

○五つ時、先生館林矦進講に出、日午反れり。○日原小源太來り、これ迠先生着府知らず、速に訪ふて快談聞かざることを悔ひ、十四年の旧情をのぶ。○板倉欽二來り、隱居も冝くと某に口陳扇子二を贈る。曰、これは御丁寧者は吾を非とみた。今日は入門か。○諸賢來り、訪ふもの先生昔よりは健と云に因て曰、皆か死の一字からぞ。達者でも病身でも死は同こと。達者とてそれもあてにはならぬ。某が病氣を知たら皆も膽を潰そふ。○先生謂欽二曰、学校は如何ぢゃ。曰、昔ほどにはなけれども、たへず集る。角右衛門は如何ぢゃ。浩軒様時代に隱居せり。治兵衛との如何。死だがよからふ。先の方は御代り、垩人も七十三なり。曰、洪範にも壽と云。曰、かたい々々々。寂滅為樂がよい。貴様も昔のやうに情がこわくはあるまいな。曰、然り。曰、それはわるくなりたのなり。
【語釈】
・板倉欽二…板倉行善。豊三郎、後に欽次と称す。板倉知崇の弟。新発田藩儒臣。寛政6年(1794)没。年46。
・角右衛門…
・治兵衛…

○幸田先生語録の序はよい近來の文なり。獨知たで、聰明によりて天の霊がたすけたなり。○續儀禮抄畧藏板の談に及び欽二云、八右衛門か世話で皆が点を付たか、大部ゆへ点例揃はぬ。某今儀礼の殘の点にかかる。曰、平兵衛殿の書例わるかった。御抄畧出來たと思ふたが未か。あれは本書の例で出すがわるい。周礼ともに何ともせず、五学とも学礼ともせずに出すがよい。大もとを出すに及はぬ。それゆへ繁多になる。欽二云、いかさま然り。あふ出すはわるし。曰、某などまだも不同心なことあれども、つまり御大名のなぐさみなり。先づ朱子の本書をぬくはわるいことなれとも、先輩のは訳有ってのこと。○會津矦の家訓に父母のことなし。御不審ありし。これわるけれとも御手前のことゆへかなり。婦人女子之言不可用、さて々々ひびく。
【語釈】
・八右衛門…佐藤八右衛門。名は尚志、号復斎、八右衛門と称す。寛延2年生れ、寛政3年8月3日没。藩儒、野田剛斎門。
・平兵衛…窪田平兵衛。
・婦人女子之言不可用…婦人女子の言用いる可からず。

○宮原文太來り訪ふ。去年上總滞留教誨のこと謝し、さて善藏へ御頼の山本氏系譜のこと、善藏尾州御帳面方へ申入れ願ふほどのことにて漸く穿鑿ありしが、御考の御手かかり為にもと書附けて置き、善藏この筋大坂へ發す。
【語釈】
・宮原文太…宮原龍山。名は斌。字は子德、樂大。文太、後に泰助と称す。松山藩儒。文化8年(1811)6月17日没。年52。

山本兵庫某忍新参衆一代断絶
君於武州忍被召出、賜八百石、為御勘定奉行。尋而奉仕于敬公、大坂之役従軍。凱旋之後命為寺尾左馬助同心。憤之退去。
【読み】
君、武州忍に召し出され、八百石を賜い、御勘定奉行と為る。尋いで敬公に仕え奉り、大坂の役に従軍す。凱旋の後寺尾左馬助同と為るを命ず。之に憤りて退去す。

先生曰、これは辱い、山本と云ひ、八百石と云ひ、これは合ている。然れは外に山本氏はあるまい。○謂文太曰、尚齋実記如此編みたが、あとでそちらで正されよ。○幸田語録さて々々面白いこと。去年以来手をはなさぬ。あれを見るに、あとのは皆俗儒なり。あの中に、事實などの違い計りで禅学などと云ことはない。あの議論を禅と見るは童観なり。あのやうなこと一生言て、あの人のぶらついてをるが禅なり。○幸田語録、八右衛門よく聞た。なんても八右衛門、栄二郎二人なり。但し栄はちと青雲の志もありたか、そちの八右衛門は苟もせぬ男と云もの。
【語釈】
・栄二郎…幸田永次郎。幸田栄次郎ともある。名は好珇。幸田誠之の次子。寛政2年(1790)没。

○今日の進講に蒙養端、さして悪人にもなるまいか、其人か成長して役人になるゆへ、たん々々こふじて浮靡の政になるで天下國家もべたとなる。浮靡は役にたたすのこと。日原の録くわし。○さて皆役に立ぬ。身代直すことさへならぬ。伊勢屋八兵衛よりをとる。それで経済、をかしきことぞ。○某始め墓参りと云た。然れは先つ墓へ行き、それから侯の御邸へも出るはづなれども、鬼神は欺かれぬ。たとひ墓へ先きへ行ても、今度は久五郎殿の御あまりかと云ふになる。なにほと人をはたましても、神はたまされぬ。久五郎様が主で墓参はヶ序なり。
【語釈】
・伊勢屋八兵衛…

○先生曰、壹與之斉終身不改は男の方から女へかけて云ことなり。先輩そふは云は子ども、故夫死不嫁と、故の字て見べし。蔡人の妻が云たを爰の文義にするは甲斐なし。文太曰、夫は再び聚らぬことか。曰、いやそふ云ことにあらず。女房を蕃椒を植へるやふに心得ぬこと。稽古篇のは女の口上なり。礼記の立言の根は知らぬはつなり。あの故の字か礼書の報復のやうなもの。夫の方が如此ゆへ再嫁せぬと云ことなり。
【語釈】
・壹與之斉終身不改…小学内篇明倫。「壹與之齊終身不改、故夫死不嫁」。出典は礼記郊特牲。
・稽古篇…明倫篇の誤り?

○大夫安藝次郎右衛門來り先生を慰労す。○春秋傳序、微辞奧旨、どの位に見ることか。皆がとふ取るや。某思ふに奧旨は微辞の中にあり。あまりほると胡傳なり。某筆記もあり、一字褒貶はない。なんのことなく、凶年には凶年と書す。そこで又旱魃に茶室造ると云、造るの字が奧旨でもない。凶年にはとほふもないこと。親の病氣も人参買ふと蝶に付れば尤ときこへ、二間茶屋へ行たと記せはとほふもないはしるる。趙盾弑君と書て、それをにくきやつ眞二つと書かぬこと。磔と書ずに、思へばはりつけなり。通鑑綱目もそふなり。莾太夫楊雄死と、あれぎりのこと。講釈には及ばぬ。通鑑の書例のこと、幸田語彔にも云てあるなり。あせらすに莾太夫楊雄死てよい。あとは平氣なり。こんなことはたまさかあることなり。朱子も外によい議論のしてかないから、まづは胡傳と云へどもいよ々々あたるかは知れぬ。館林矦、黙斎をよぶもそれ。まづ迂斎か子と云を取るならん。○平らかはよけれとも、俗になる弊へあり。偏はわるけれとも、俗には流れぬ。漢唐の俗を程門がふるひ、それからして高それになったを朱子が矯た。又今日はそろ々々勢が俗になる。謂文太曰、師家は温厚でよけれども、温厚和平は俗になる弊があるぞ。丹二が話に因て記す。○文太曰、岡田美藤の二子も相見を乞ふと、某を以て紹介す。同上。
【語釈】
・安藝次郎右衛門…
・春秋傳序…近思録致知61にある。中に、「惟其微辭隱義、時措從宜者、爲難知也」とある。
・趙盾弑君…春秋。宣公2年。「秋九月乙丑、趙盾弑其君夷皋」。夷皋は霊公(晋)。
・莾太夫楊雄死…楊雄は揚雄の誤り。
・岡田美藤…

○延平荅問を會讀す。考其事。事が大切、一つかまへ処。遷就。いやみ。心ゆきがわるい。遷就を献立にしてはわるいが、其時に至りて冷水ものませる。○因に云、孝子巧変を経傳通解にのせ小学にのせぬは、覇心にもなり、小利を見るにもなることゆへなり。養志も幹母蠱もこれでなければならぬ。○東坡云云。この段、王荊公か新法を云。神宗の母、をれが子のを改ると云はれた。○大段有害。直方、子どもの印籠なり。石へ打つけるときは引たくら子ばならぬことなり。○格法。御定りのと云こと。先王の法ても服忌令と云ことでもない。○孟武伯問孝云云。父子は天性也は仁なり。ここは理屈めかぬこと。堪当の子に鰒をくふななり。理屈なしに病を案んずる。仁の体段なり。義は入らぬ。○旧説は理路にわたる。又、後節を引もよい。病計りではぽかんとなる。○或る親が、旧とは呵ると泣たか、今は泣せます、と。○然学者云云。この咄きいて、やつきゃつと云て股引はいて出た故、どちへ行と云へば、どちへ行ふと云。はやこの頃は寐ている。○問子游云云。荀子が子游子の賎儒もこの語から出たものぞ。この語類に有ふ。因に顧欽二曰、幸田子、貴邸を食たをした。或る時鴨の上汁はよい實ばかり盛って來いと云。これは内ても云はぬもの。又、答問の孟子のことに因て云、孟子、仁のほか々々へ義の鎗が出る。幸田子、一生方角なしの仁で仕舞ふた。をかしきことは、或る時定右衛門へ云に、貴様は金持なれども吝いゆへ顔が貧相に見へる、と。某が云たらぬき打なり。諸君會讀より先生の快話面白さに、つい荅問を廃す。
【語釈】
・幹母蠱…易経蠱卦。「九二。幹母之蠱。不可貞。象曰、幹母之蠱、得中道也」。
・子游子の賎儒…荀子非十二子。「偸儒憚事、無廉恥而耆飲食、必曰君子固不用力、是子游氏之賤儒也」。
・定右衛門…

○日原云、先生服藥せらるるか。曰、どふして藥のもふ。藥をのむと死ぬさいそくになる。○天下を治るに治教録なり。太宰か無為易道と終りの篇目立たが、あれで經済はならぬ。彼が術ではあそこへ神道を出すがよい筈。あれが無為が老子ではない。一つ出すことが有ふが知らぬ。蠏佐衛門篇目多く立たがわるい。某拔いたらしゃっちりとなりた。○恭節曰、隼人、孟子の筆記を望む。曰、孟子はなし。曰、某先年席上の筆記あり。それはわるい。某正さぬは出さぬがよい。違が有らふ。小野﨑、こんな書は反古の素紙がよいそふなと説が、きまると面白ことなり。
【語釈】
・隼人…尾関当補。名は隼人、求馬。館林藩の家老となる。1779~1829

○八藏へ神主の並へやふ圖にしてやらふ。別に女どもへは持佛もたせて達磨でも日蓮でも置がよい。○八藏が麻布より養子も死たゆへ同姓を買ひ出そふと思へば、水戸の御邸の彼の弟も勘當したと云。親在るときにそふもせず、去年の暮に勘当したと云がよく々々のことならふが、これもつまらぬことなり。狂目も某致し方もあれど、これもきけばよくない。明日麻布へ行けば某量簡あるが、これも本家のひかへと云はん。子養子はあちでもこちても出來やう。歴々は仮り養子あり。某時某とどかぬ彼の遠の親類より近くの他人なり。遠くては急の用たりず。ああ狂の字にもこまる。異なるかな。君之名其子也。仲遷、某が手帖を狂二郎か方へは切りぬいてやったと云。文云、仲遷か話に、狂二郎返書に今度先生出られそふもないもの、と。これ、訳を知らぬからなり。あの赤子が死子ばもふ相談ないでもない。仕方あるなり。○たとひ某館林へ出るにもせよ、土井矦に引さらはれたらどふせふ。これ、出處の吟味なり。某がゆくには大名ては溝口がよい。迂斎の弟子であの学問なり。それゆへ予をかるくあしらふで、こちがらくなり。この頃久五郎殿で首の、俯仰をほくりして示す。これ々々で首筋が強りた。只主水殿一ち樂なやうじゃ。あの一つ人ゆへあたま少し髙くてもよい。とかくぽかんとしたことよし。老子大きな耳で保養、某も三月大根てもまく方がよい。江戸は草臥れるなり。
【語釈】
・某時某…其時其の誤り?
・君之名其子也…君は之れ其の子を名づけるなり。

十八日晴。先生朝膳後土井君の太夫山下氏を訪ひ、それより麻布宗家を訪ひ、京極矦の学校へ行。前日仲遷云、先生今度着府のこと公子兼々承て、弊藩へも御招き申し一席講談懇望す。公子怒はやけれは、好学論にて御療治蒙りたし。曰、御類焼後なれば御屋鋪へ召すこと然るへからす。足下経済にさしつかへることなり。曰、何分御出を待つ。然らば某学校へ参るべし。学校は吾末寺のことなれは、これは又格別のことなり。仲遷謂文曰、子も御出なされ。公子の為に好学論を講ず。仲遷、文に命して録せしむ筆記別にあり。講後公子謂先生曰、近日僑居を問ひ又一席懇望し、それより秋葉へ参り一献すすめたし。又謂文曰、先生若し予を避けて迯け玉はは、子隨身のことなればとどめくれよ、と。此日夜五つ僑居へ歸る。

○先生語文曰、昨日題辞の進講異言喧豗は地獄極樂のうそつくこと。釈迦は古今の迂詐の名人なり。然るに釈迦のうそは深いことにて早速容易に知れることにあらず。そこで數千年はげぬうそなり。鷺を烏と云ては人が合点せぬ。山王の櫻に猿が三千と云と人が何にと云。某にても今日亀井戸て藤の芲さかりとうそ申さふが、又一人出て、まだ藤はさかぬと申せばしきにうそあらはるなり。然に釈迦の迂詐は死たる後に極樂あり地獄ありと申す。たれも死んたるものなさに、あることかないことか、迂詐かあらはれぬ。さて々々迂詐の名人なり。御前にも先つ只釈迦は第一の迂詐つきと思召せ。矦えしゃくす。但し、其釋迦のうそも知者は合点せぬ。学問すれは中々欺かれぬ。そこが幸茲秉彛ぞ。人に是非之心と云ものあるゆへ、学問してそこをみかけはあの迂詐をまことにはせぬ。学問は人主の大宝なり。又或日語諸士曰、某君矦へ釈迦を大うそつきと思召と説たか、御幼年でもあんなことはのこるものなり。然れは益にもならふと思ふ。
【語釈】
・喧豗…喧も豗も、やかましい、うるさいの意。
・幸茲秉彛…

十九日雨ふる。○日原問、霍光無学無術。曰、霍光は伊尹のやうなことしたれとも、あれに覇心はない。そこで私はないだけなにもないとみへる。あの女房かあれほどのたくみしらず一向処置なし。それを無学無術と云ふ。言えば丸で学者の書ばかりの人の様なり。覇者のやうなはたらきはなし。出入禁闥不失尺寸と云は忠信なれども、あの処がすぐにぬけの本なり。誠ばかりではたらきなきを無術と云。温公夫誠かと云ても働はない。廣東人参のやうなもの。誠は誠なれともはたらかぬ。されども人が温公をほく々々した親父のやうに思ふは了簡違なり。通鑑でもあの手際。天若祐宋必无此事と云ことなどは孟子の言そふなこと。惣体でも伊川の上へ出そふな働あれども、大根の見処できまりがわるい。敬にも死敬がある。誠もそれで、霍光や温公の誠は死誠なり。孟子は不恭で誠ないやうなれとも、齊人吾王を敬ふに若くはなしと云。孟子の誠敬は活して滞帯がない。
【語釈】
・霍光無学無術…
・出入禁闥不失尺寸…小学外篇善行。「霍光出入禁闥二十餘年、小心謹愼未嘗有過。爲人沈靜詳審毎出入下殿門進止有常處。即僕射竊識視之不失尺寸」。
・温公夫誠か…小学外篇善行。「劉忠定公見溫公問盡心行己之要可以終身行之者。公曰、其誠乎。劉公問行之何先。公曰、自不妄語始。劉公初甚易之。及退而自檃栝日之所行與凡所言自相掣肘矛盾者多矣。力行七年而後成自此言行一致表裏相應遇事坦然常有餘裕」。
・天若祐宋必无此事…
・齊人吾王を敬ふに若くはなし…孟子公孫丑章句下2。「齊人莫如我敬王也」。

○經済これていくと思ふとならぬ。まあと云方がよい。肩をはるといかぬ。幸田子一生まあで仕舞ふた。管仲あれほとのことなれども、孔門の辱なさは、あれは取あげぬ。まあがない。其任に当るもの任ぜぬとをどけのやうになり、任じて臂をはると器局が小さくなる。或人経済の任に當り、若林へ、先生やがてごろふじませよと云たを、若林、あとであの、ませよ、が合点ゆかぬ、と。若林は任ずる人なれとも、あふ云はるるは知見なり。茶の湯などても口きりと云てふるふはいつもいかぬもの云云。松軒、土井茶道。誓願寺に吾平生の干葉汁に坐禅豆で振舞ふた、と。上手の藝は別なことなり。孔明有間暇と云。王佐之才なり。あの杖五十迠聞くは冢宰の塲ゆへなり。されども孟子ほど才がないゆへ短命と見へる。恭節云、三子者もませよなり。曰、然り。但し、ふりが違ふ。
【語釈】
・器局…才能と度量。器量。
・孔明有間暇…
・三子者…

○日原曰、美藤の正学、指掌まあよいやうなり。曰、某もてもやったが、あの題号はをかしい。あの文字は孔子の政を云たこと。学問は大学の八目、近思の十四篇に掌を指してあるにしてすむこと。孔子は政を祭て云はいかさまとひびくこと。けれども徂徠から出たにはよい書なり。日原、あの詩文の評を問。曰、あの評も語類から出たならん。語類の説たしかあの筋と覚へた。○幸藏はあぢな氣質ありて、色々なことで相塲のかわる男なり。善太はあの通り、黙齋はどふらく、いっそ漢儒がよいと云いきかたありた。それも道を任するからで有ふ。あの男は正いが器局は小い。小市ははばもあれど、うそがある。幸藏、どふかすると金火箸のやうになりて小さくかたまる。あぢな男ぞ。

○直方先生曰、なに上方儒者が足軽を士と思ている、と。○合田忠藏か某を用人に仰付らるるかよいと土井公へ申す。自愧始よなり。儒者役て三十口取て居たを使番格にして二百石に取立られたか、殿も用人と云にはこまられたで有ふ。迂斎もその時二百石になりた。其後合田か御暇の出たとき可笑しきは、小市が側坊主で共に逐はれた。文問、合田は何故なるや。曰、自愧始よて分を踰へたと云ふこと。惣体出すぎものゆへ仕くじりて罪になりた。ひっきゃう家老ともにくみたとみゆ。小市も合田か弟子ゆへなれども、坊主で合田とまきぞへになって逐はるると云も、あのときから大ていのものではない。○萬物具于我じゃ。とかく我身か相手になることなり。誠意人鬼關心のことなれども、身と平実に來るがよい。壹次以脩身為本も身の平實なり。幸田の、人の一身五倫備るを軽く云はわるい説なり。○今度幸田の墓へも尋たいが、それよりはこの語録がよからふ。これを浩軒様の方で一本写させ、あなたから佐太郎殿へやらせたいつもりなり。○謂松五郎曰、八右衛門殿残念なり。学問と云ひ、人品と云ひ、誠と云ひ、貴藩であんなものはもふ出來まい。
【語釈】
・自愧始よ…隗より始めよ。戦国策燕策。「今王誠欲致士、先從隗始。隗且見事、況賢於隗者乎。豈遠千里哉」。
・使番…江戸幕府の職名。若年寄に属し、戦陣では主命を伝え、平時には遠国役人の監察使・国目付・巡見使などを勤める。
・萬物具于我…孟子尽心章句上4。「孟子曰、萬物皆備於我矣。反身而誠、樂莫大焉。強恕而行、求仁莫近焉」。
・壹次以脩身為本…大学章句経1。「自天子以至於庶人、壹是皆以脩身爲本」。
・人の一身五倫備る…
・佐太郎…幸田佐太郎。
・松五郎…佐藤松五郎。

○或人、宗伯か大学のぎんみ云云。先輩を取らぬと云に因て先生曰、宗伯もとてもいかぬ。三宅の知止能得がわるいの、新疏もわるいの、直方もああでないのと、そのやうに違ふものでない。あれがからだ不相應な荷物也。判断計りもなるまい。或又曰、宗伯か三宅先生のは朱子初年の説と計り云。曰、それでもそふ々々ちがふものでない。朱子没三日前、誠意の註を直したとて、それまできまらぬではない。三日前直しても工夫に違はない。あれか語類の目録などで云ならん。定未定をそふさわぐことはない。学以至垩人之道と云に定未定はない。笑曰、言そこないよいもの。されども言そこないをほめるではない。小児は使の口上を言た通りに云もの。○漢唐に蔡虚齋程の者もあるまいが、直方先生全蒙択言軽んずるは、あなたの株で云ことなり。
【語釈】
・学以至垩人之道…近思録為学3。好学論の語。
・蔡虚齋…

○佐藤尚志先年一男出生のとき、子を持ては、はやよくせふと云人欲か出ると云て來た故、某それ計りでなく、外にも人欲有ふと荅へて軽んじたが、其子が去年十五才て死ぬに、死ぬ前麻上下とりよせて着、大ふ終りがよかったと聞く。尚志が初手云た通り、善く教たと聞へる。某も落涙して、其こと去年の文に載せてあり。八右衛門、栄二郎、二人なり。道は二人に殘ったと云ほどのことなれども、曽子子貢の一貫と云やうな違ありて、さえた段は、八右衛門は栄二郎殿程には至らぬ処ありたか、全体は栄は八に及ぬ。幸田の弟子二人の外は砂をはらってない。○人欲はなをるが氣習はなをらぬ。石原の大德と云へとも氣習ありた。とんと氣習のないは迂齋なり。

○松五郎、太極圖述の談に及び、太極を無極而と云は子は空になる、と。曰、陸子静に荅へたことなり。曰、動か静にのると云はれるが、静か動に乘るとは云はれぬ、と。曰、それに限らず、吾と違ったものでも力して、一つ向の身方になって説をつけて見ると太抵通ずるものなり。学者がえて小尻とがめするが、肝心な処をうっかと通す。まあ文義などの少し違はすてて置て、ゆるされぬ処でふっすと首を切る。学者が先軰を疑ひ、こせ々々小尻とがめするやつによい処見出すはない。某など成だけ向の贔屓しよくして置て、なんぞのとき種か嶋ほんと出る。某十歳計りのとき芝居をみて面白と思ふたは、熊坂が手下を連れ、我は松の木に登りて往来の旅人を待に、やがて一人来たを手下の者僅の金を奪て親方へ出すと、熊坂が、一両や二両何になる、免してやれと金を返した。又旅人の通るを剥ぐに、此二分は親が病氣で藥り買に行と云。手下の者言わけきかず、又奪て熊坂が前へ出す。熊坂、そんな金取るは不仁だ、返せと云。すると又飛脚か一人金五百両持て通る。熊坂、それと云。手下の者取まくに、何が其飛脚に大勢が取て投られる。処を熊坂上から長刀て切た。流石熊坂ぞ。釈迦ても神道ても大切の処になると打た子ばならぬ。兎角僅な小尻とかめは益にたたぬ。少し言やうか違ったとて、集註章句にさへ合へばよい。小過を免すと云か政の上計りてない。書の上もそれぞ。吾黨で違ったとて、集註と論語徴には違はぬ。一つ肝腎の処のことぞ云云。因云、十世可知の註見るべし。道を任ずるもの、時々を知ら子ばならぬ。
【語釈】
・陸子静…陸象山。1139~1192
・熊坂…熊坂長範。平安末期の大盗。
・十世可知…論語為政23。「子張問、十世可知也。子曰、殷因於夏禮、所損益、可知也。周因於殷禮、所損益、可知也。其或繼周者、雖百世、可知也」。
・註…論語為政23集註。「馬氏曰、所因、謂三綱五常。所損益、謂文質三統。愚按、三綱、謂君爲臣綱、父爲子綱、夫爲妻綱。五常、謂仁義禮智信。文質、謂夏尚忠、商尚質、周尚文。三統、謂夏正建寅爲人統、商正建丑爲地統、周正建子爲天統。三綱五常、禮之大體、三代相繼、皆因之而不能變。其所損益、不過文章制度小過不及之間。而其已然之跡、今皆可見。則自今以往、或有繼周而王者、雖百世之遠、所因所革、亦不過此。豈但十世而已乎。聖人所以知來者蓋如此。非若後世讖緯術數之學也。胡氏曰、子張之問、蓋欲知來。而聖人言其既往者以明之也。夫自修身以至於爲天下。不可一日而無禮。天敘天秩、人所共由、禮之本也。商不能改乎夏、周不能改乎商。所謂天地之常經也。若乃制度文爲、或太過則當損。或不足則當益。益之損之、與時宜之。而所因者不壞。是古今之通義也。因往推來、雖百世之遠、不過如此而已矣」。

○大学は制札なり。啓發集かよい。只迂斎一つ疑あり。予少年のとき云はるるに、直方は三宅のやうに箸を取てくくめるでない。直方の啓發集を講釈するはぬしの咄の題にされた、と。某そふ思ふて居たがそふでない。山﨑先生大学を得られたと云が、我ことを出さすに章句或問からあれへきめて来て、朱子で片付けられた。文會のあらいはそれ故ぞ。これで見れば、新疏などかよいやうでもここの一体が甲斐ない。又因て圖述の談に及ぶ。鳩巣のよいは系を五つにして土へかけたと不言之妙の句の絶やふなり。吾黨の先輩もあれは麁相なり。さて又黄勉斎を議して呵るでもあのやうに仕立て出す。大ていではないが、あれは文會の方がていかよい。されどもあれほどのことに後論に何もない。あの後論でなにも片付たことなれば、あそこて思入を云は子ばならぬことじゃに、いかふあらいぞ。なんぼでもあれで化をあらはした。あれが文章から来た学問ゆへなり。若い書生が講釈すむとさっさと歸る底なり。あとの咄にあんばいあるはしらぬ。
【語釈】
・黄勉斎…名は幹。字は直卿。1152~1221

○或曰、管仲不知大学之道。幸田子曰、法と云こと、と。曰、それが然らん。法の学の講釈もならぬこと。可笑しきことは、去年文太か來たとき、上總の書生に、中庸の首章天の字に註かない、どふしたこと、と。小源太、賢は如何ぞ。上總の書生が只あれが々々々と云て返事が出来ぬ。学者も小児が喧嘩なり。こちの町へ來ると犬けしかけると云やうなり。元來天の字に註は入らぬ筈なり。父母の字に註のないやうなもの。されども処によりては獲罪於天の註、天即理也と云は天の字の正面てないから註が入ぞ。あそこを只天がこはいとなりと、小児がくらやみこわかるやうゆへ即理也と云。
【語釈】
・獲罪於天…論語八佾13。「王孫賈問曰、與其媚於奧、寧媚於竈、何謂也。子曰、不然。獲罪於天、無所禱也」。この集註に「天即理也」とある。

○或曰、溝口の邸で、幸田先生墓誌よくないと云。○先生曰、三宅先生窂中諌の書をかいたとあるが、いつ迠諌をするものぞ。先生豫め御咎に合ふことは知て諌書はとうに焼すてて、夫から窂へ行かれた。あんなこと云は先生の德を煩すこと。某實紀へきっと断って置た。又某か雜記へ、屈原か離騒は君のこと、先生の血書は数のこと書て置れた。ここは学力と云もの。此段は屈原より上なり。文王の小いのなり。窂の中でも君を諌るなどと、そんなことでない。もふそこでは其段は仕舞て居る。彖かけ玉ふた。但し先生誠はあまりあれども知が足りぬ。

○福菴、京極の茶道。が所へも昨日訪ふたが、一昨年書中にて、むかし敏底不如鈍底七十老人迂齋書と云掛物を先年焼失す、某にこれを継て書けとあるを辞し、別の詩を書したる卒年の眞筆ををくる。昨日それをたまって掛て某か馳走と見へた。あれが先年のともなんとも云はぬ。すましたものぞ。いや、別なことなり。何にかに公子応接のこと仲遷へささやいたが、某がためによいことならん。あれが勝つ□なり。○昨日学校で文次に詩を作れと云たが作らぬ。文曰、公子詩はやめたと云玉ふゆへ作らず。先生諸子に、なにあれは即席には出來ぬなれば入ぬことなり。

○留主希齋か談に因て先生曰、去の文義の取り違がある。今孔子の時とは違ふ。暇願してそれて暇が出ずはよい。暇願が今は去なり。君からの制を待つか當然ぞ。惣体去が義理の当然ぢゃなどと云てさわけども、名を好むが手傳ふぞ。御家人などに决して去と云ことはない事体なり。小普請になって居る迠のこと。なんでも君の處するを待つがよい。身不肖でなどと云。不肖はとふに上で知ている。文、席上の杯を取んとす。先生因云、亭主が銚子を取ると、客がしからばもふ一杯飲めばよかったと思ふことあるもの。それならかまはずぐっと飲がよい。思せぶりはわるい。役人思せふりの役子がいあり、藤兵衛は氣味がよい。先年三四輩ためして見るに、役義願する者など、勤る氣てもあぢにす子ると見るとずっと役をゆるして仕舞ふ。後悔するものもあらふ。それが天地のなりでよい。天地あとさきは見ぬ。一昨年唐津の書生出立の朝用事あり、東金迠翌朝早ければ間に合はふと思ひ一丁を頼み、期した通り用事もすみ、日雇錢やらふと云に何分とらぬ。だたい東金迠雨のふるに手紙ととけたは必竟百文で興起したことに、取るまいと云ふ。にくくもないが氣味のわるい心根なり。この心根が役人にも学者にもある。たしなむへきことなり。謂日原曰、役義仰付らるるときはさだめて禮譲典故で辞冝もするで有ふ。長く辞するはよくない。迂齋二百石賜り物頭列に云付らるるとき、人か迂斎のは御請けの辞冝が定て長からふと見たに、迂齋なんのことなく有難ふ存するとて御請なりた、と。それでよいなり。偖、七十致事。勤てをると宋朝廉耻ないに云たが、役に立ぬものも上からは老をゆたかにするがよいが、眞西山、宰相はそふもないと云。皆これ訂翁の俗を脱せよ々々々と云処でなければならぬ。すれば七十隠居せぬとて廉耻知らぬでもなく、法にのみかかはらず、心にあること。道理に形はないなり。されども廉耻と云は一ち忘れぬがよい。そこでこれ学者の身がふりまはしにくひ。法を守て法ばかりでゆかぬ。さて、法にわるいは女の一代奉公などと云こと。女中の主人は氣に入ることなれども、人倫を絶つなり。板倉内膳公の奥の法は、廿五になれば暇下されたと云。尤なことなり。さふなければ紅粉をつけた出家をかかへて置やうなもの。女は子を生む計りが役で、外はなんの用に立ぬ。只口でもきいて邪魔になるのみなり。文母孟母と云へども宰相にはされぬ。
【語釈】
・留主希齋…留守希斎。名は友信。退蔵と称す。別号は括嚢子。本姓は佐久間氏。一関藩士。初め遊佐木齋に学び、養子となる。名は好實。武内と称す。明和2年(1765)4月27日没。年61。浅見絅斎門下。
・藤兵衛…
・眞西山…
・板倉内膳…

○日原、六先生の賛を問。曰、をれもすまぬか性理大全の註て見て、それからは我見取あるべし。伊川の賛、布帛之文、菽栗之味は面白こと。濂溪の賛、窓前の艸なと引て仁などと云ては面白ない。先年高須へ荅たとき、山北紀行、周子の像を拜した詩て發明した。水艸交翠か昔を今にして像を生かすこと。生た周子にふと云ものなり。詳日原録。○行藏、仁遠んやの説よし。○謂一士人曰、上下て來ても何も益はあるまい。そんなものは隱者はきらいだ。○戸田政二郎曰、山岡氏、下谷二丁目、山岡安兵衛。尚斎先生血書一枚秘藏す。某も拜見するの約あり。曰、窂中の血書誰に與ふとて書れたことてない。狼疐の文なり。釋されて後人へくれたが殘ってあるなり。東溪も持って某も見たなり。雅樂矦の中川氏へもやられたと云も別に書簡てなし。血筆、狼疐中のなり。山岡は東溪の妻を引とってをいたゆへ、東溪の藏書なり。昔年某も見たのなり。
【語釈】
・戸田政二郎…館林藩儒臣。稲葉黙斎門下。
・雅樂矦…
・中川氏…

○日原問、孫林父寧放弑、淺見先生の疑如何。曰、鈴木貞齋か説よいと覚ふ。訂翁のは幸田語録にわるいと云。因て又曰、遽伯玉出處合垩人之道と云ひ、晏子かこと儀礼臣礼に載せたもすめにくいことなり。日原、許魯斎は出処わるいと云。曰、あれは尤なり。さて日本は兎角死が好きなり。晏子臣礼に載せたは朱子深意あることと思ふ。垩賢いそがしいことはない。日原、日本は死が好きじゃと云に因て靖献遺言の談に及ぶ。先生曰、方孝孺、文天祥はあそこが二つに見へる。二人が学問もあれども、あの節義が学問から出たことには見へぬ。日原問、絅翁、方孝孺を道統と云は如何。曰、それは間違なり。直方先生の筆記にあるが、これももと筆者の誤なり。大学無と云ものがどふして道統になるものぞ。此夜丹二云、昼の御咄根からすまぬ。曰、事実知らぬゆへ、そこで猶すまぬ。
【語釈】
・孫林父寧□放弑…孫林父は衛の宰相。
・淺見先生…浅見絅斎。1652~1711
・遽伯玉…論語衛霊公6。「君子哉蘧伯玉。邦有道、則仕。邦無道、則可卷而懷之」。蘧伯玉は春秋時代の衛の賢大夫。
・許魯斎…
・方孝孺…明初の儒者。字は希直・希古。号は正学・遜志。浙江寧海の人。恵帝の侍講。燕王棣(後の成祖)に攻められて恵帝は自焚、孝孺も捕えられ、服従を迫られたが、「燕賊簒位」と大書し処刑。1357~1402

二十日晴。○鈴木五郎右衛門來先生曰、御老父、狂二郎がこと苦労して衰へたやうすなり。某異見云はふと思ふたが、狂二も又落付たやうに見へる。曰、老父も苦労す。曰、あちで用ひられるそふなが、それでは和になるもの。されとも出合かしらに持前が出るもの。どふぞ老人もあることゆへ一年に二度つつも出府させたきものなり。老人痰ぢゃと云があぶない底ぞ。さて某は館林矦へ出るか、文等と咄し、酒でものみ玉へ。某用談もあれば待てをるべし。今日は早く歸る。
【語釈】
・鈴木五郎右衛門…

○文問鈴木曰、狂君遠州何方に居らるるや。曰、鈴木源藏と云ものあり。六七年以前大坂在番の時遠州へ尋て漸々始て合へり。それ迠は互に知らず、音信もなかりき。それゆへ弟もあそこの世話になり、上へも申立て蒲の半塲村に居り、當時は松嶌村鈴木五郎右衛門宅に居る。笑曰、同じやうな姓名あるものなり。弟も内弟子のやうなものも六七人隨身し用ひられるそふなり。先達て清見寺邉に居るときも遠方の学者と論難し、幸に負けなんたと云を聞けり。水戸様の稲葉源太夫も手前から出たもの。遠州鈴木源藏、これも同しく手前の家もとなり。手前家は宗領は水戸様へ出、二男て麻布の本家立、三番目が迂齋で、すがもが一ち末なり。某方に系譜あり、先生にも寫ありと覚ゆ。某方より出たるもの、皆稲葉と云。今の八藏三十九ならふ。実子十一歳て不幸し、某が三男を養子に約したが、これも不幸す。たん々々氣の毒なことなり。此話、文由緒を問しゆへなり。文曰、公御男子今二人あるよし。曰、然り。曰、然らば先生厚き望に任せて然らん。曰、手前にもひかへ入れども、とど同姓のことなれば、某方より継より外なし。只外舅よりの訳あれども、然し他姓は継がせ難し。今二男は五才なり。曰、その思召ならば先生大に喜び玉はん。鈴木曰、彼邸の太夫、迂齋の恩を忘られず御役をも勤てをらるると云へば、末々八藏なとのこともいたしよし。又曰、某方も迂斎の御影で祭祀もなる。只殘念に存ずるは、これ迠段々祠堂有りしが、類火後某か時に當りて未だ普請ならず。某も是非心がけては居れとも、勝手もまはりか子て心のままに参らぬ。迂斎の父不休の時、祭の日にはいつも迂齋早く見へられた。こちても供へもの早く出來して待たなり。迂齋の後は只今すがもから誰も祭に参らぬが、今はあちにも神主ありて祭あるゆへなり。又曰、これ迠は祭も秋計りなれども、某当年より春秋ともに祭る積りなり。同苗へも談して、當家の先祖二月十八日ゆへ其日に祭る。文曰、祭は長く継ぐをよしときく。曰、某も家の記録へ今は二月十八日に祭れども、日限定むへからずと記し置けり。きっと定て其日に用事出来ると祭麁末になると存ず。さて某も無学なれども、たび々々のこと故祭もなれてする。○文問、野田先生の跡は如何なるや。曰、増山の家中野田門作と云ものあれども、血脉にてはなし。先生出しゆへ鈴木氏文と語る。傾盖一時故家の如し。実に親むへき人なり。共に酒肴なと把り、快飲して先生を待つ。
【語釈】
・稲葉源太夫…

○先生日午かへり謂麻布鈴木曰、兼ての二男のこと、今度あれ計りのことなり。相談决したし。鈴木曰、隨分八藏方へつかはす意なれども、手前にもへ入れはきっと定め難し。曰、八藏も若ければまだ子もあるべし。これも子か出來れは入らぬ。そなたもまだ外にも子が出來べし。然らば御二男を兩方のひかへものにして置て見合にすべし。曰、諾。同姓のことなれば、八藏方に子なければ某方より継の外なし。先生の命に従はん。先生曰、それなれば辱し。某しもはや世の中に思ひ置ことなし。今ころりとなっても遺恨はないとて大に喜べり。

○窪田平兵衛、板倉欽二來。○先生曰、幸聞集で行藏も高ぶり出たらふ。○因に云、南軒、朱子の書を賣を見て、外に生産有ふと云。朱子、そこにあるから賣る。外に生産はいやとなり。或問。○三宅先生、福井材菴に金借した話云云。幸田語類。因に欽二云。あの語録の中、直方先生、金をかし利をよこさぬとて腹立たことあり。あれは記者の誤りにてはあるまじや。あの先生が利を取らるると云は疑しきことなり。曰、やらふと云たゆへむむと云て取たも知らぬが、利の催促はすまい。又利が非義でも取てもよいが、かへさぬ者にあたまで借す先生でない。窪田云、直方先生にしては有そもないことなり。曰、其も尤なことなれども、石原先生も取れり。迂齋は石原に金を借り利をそへて返したが、迂齋や石原に肉はない。皆理斗りなり。某なと氣から計りぞ。金のことも、強て云たら會計のことにさしつかへにならふ。大名でも金を借りるではないか。賄賂は取るが非義じゃ、やるは非義で無とは云はれまい。すれば金を借るが非義でなくは、借すも非義とも云はれまい。朋友通財じゃ云云。詳、銀藏録。
【語釈】
・南軒…張南軒。名は栻。字は敬夫。1133~1180

○朱子答寥子晦書、伊川ならと云ふ。伊川さへなり。叔母にあふは快くないとなり。名教で云なり。東漢の名節のことも程子は道理知らぬと云は尤なことなれども、朱子の取らるると云は名教を重んして、當時あのざまゆへなり。蔡京か出て、天下金からどふならふも知れぬゆへのこと。道理からなればあれほどに云はずともすむ。欽二云、絅翁は日本の風で云ならん。文七云、靖献遺言衰世の意ならん。○平兵衛欽二共に疑て曰、幸田語録一貫のこと、あれぎりであがらぬとは合点ゆかぬことなり。垩賢といへとも猶窮格すればあの塲ぎりではあるまじ。上らぬとは云がたし。曰、それは見やふがわるい。其人で云こと。子貢あれぎりで上らぬと云ことなり。二人喜て曰、いかさま然り。某等見へぬことなり。
【語釈】
・蔡京…北宋末の宰相。徽宗に取り入り,奢侈をすすめて財政を窮迫させた。1047~1126

○某この間宗家へ参ったが、すかもで孫をい十一で死す。今存すれば十四なり。又末のをいは乱心、新婦はあの皃か三年も過たが、某参ったで又思ひ出したか、茶を出そふとして泣てをる。某もこまってくっ々々と飲んだ。薄情も習ふがよい。そふないと泣く。○出處はけいはくせぬが出處なり。書會の出合などでは太夫にも遠慮なけれども、どふしてもけいはくする。○或曰、旦那も幸田の御影で侍臣に何もかくさず申せと云。曰、それは迂詐なり。遠くを云て居るからのことなり。韓非、逆鱗と云。某などはそれにさわる。汲黯は黄老の学、陛下内多欲ときひしいやふに云ても一旦なこと。あれぎりなり。きめ所をえぐり山椒子ぢりにすると其坐の上へはむっ々々と云て置て、どこぞて大にたたりがくる。朝をやめるなどと云やうなちょっとのことではない。董仲舒を宰相にし、汲黯を監察御史と云ふ話あり、あれもそれぎりのこと。直諌めで引こむは老中の才でない。
【語釈】
・汲黯…漢代。武帝の時代初期の官僚。
・董仲舒…前漢の儒者。河北広川の人。前179頃~前104頃

○小市などはりきんで赤っつらなれども、内へ入れて政を執らせたらをとなしくならふが、それでは平生がうそなり。○溝口で小市が大きな声でりきんで講釈するを某面を見て笑い出したれば、小市大に腹を立、君前笑ふと云こと有ふや、某は帰ると云。矦もこまった底ゆへ、某が出て小市はあとに居たが、をさまったあとがわるいもの。○或る日小市が講釈を藤四郎が筆記の筆を置くと、眠くは内へ帰って寢よ、と。師家の嚴をかたて覚へたもの。○鳩巣、忌まるるはよいか、あなどられてはならぬ、と。合田も自隗始めよからあなどられた。或者上方聲色で有士不問さと云たと迂斎云き。某未生以前のことなり。又家中で或る者が迂齋と合田のことを評するに、某は無学で知らぬが迂斎の方がよいそふな、人が影で江戸の先生をは十左衛門殿々々々々々と云へども、合田をば忠藏々々と云、と。あらい論なれども尤なり。
【語釈】
・藤四郎…

○誠意は約束の違った意を誠にすることなり。致知格物で知た通りをしてゆくことなり。盃にむかへはかはる心かなは約束が違った。○欽二、曽点の章を挙て問。先生曰、曽点は氣質なれども、人欲盡処天理流行とは見た塲で云たもの。欽二云、尭舜の事業は曽点のには出來まじきことなり。曰、そふ論ずることに非ず。孔子も尭舜も同ことなれども、隱者を隱者で云ては面白ないゆへ、孔子と云はず尭舜と云。敢問、然らば尭舜の心に合せて云や。曰、尭舜之道孝悌而已と、どこても間断はない。曽点尭舜のやうな誠ではないが、そこを見たものなり。曽点はもうあれぎりで上らぬ。漆彫開は上かる。一文つつ段々もふける。○欽二云、何とぞ一席曽点の章御講談希ふ。先生曰、又そんな馬鹿をいふ。○さて講釈はよく説がよい。文義よくきめ、意旨よく吟味し、体認してよむと精彩あるもの。又、講釈下手でも道を任ずると底よきもの。○欽二云、とふぞ曽点の章承たきこと。皆御承知なくはせめて註計りも拜聽いたしたし。曰、いや又異なこと云。某十四年ぶりて出て人をさとそふとは、どふ世の中にそんな馬鹿なことにかかってをることあるものぞ。
【語釈】
・人欲盡処天理流行…論語先進25集註。「曾點之學、蓋有以見夫人欲盡處、天理流行、隨處充滿、無少欠闕」。
・尭舜之道孝悌而已…孟子告子章句下2。「堯舜之道、孝弟而已矣」。
・漆彫開…漆雕開の誤り。

○先生語文曰、今日の進講、古者婦人姙子を、まつあの天は夫なり。地は婦。そこで人も昏禮は万世の始、夫婦は人倫の大綱と云。さすれば天の相手に地、夫の相手に女房にて、女は子をうむより外に手柄はない。あとはなんのやくにたたぬもの、と。顧長藏曰、埀簾の中、御姫さまも在りや。曰、然らん。今日あそこを大きによんたが、上總などてやりはなしよむやうに、矦家卑陋なことは云はれぬ。天命性のことなど此間の元亨利貞のことぢゃなどと云て置た。どふして性道教のことよんだとてきこへるものぞ。あれはきこへる時のこと。小学はたたきこへるが第一。天命性も天地はものをうむものそ。佛者は昏礼をせぬ。さん々々なこと。子を妊むと云は垩人の道の目出度ことの第一とよみた。
【語釈】
・古者婦人姙子…小学立教。「列女傳曰、古者婦人妊子寢不側、坐不邊、立不蹕、不食邪味、割不正不食、席不正不坐、目不視邪色、耳不聽淫聲、夜則令瞽誦詩道正事。如此則生子形容端正才過人矣」。

二十一日晴。○五皷浩軒様より迎來る。○今朝豊田老人云、今度ふしぎな御縁でここへ御出あり。某など仕合で御目にかかれども、あまりもったいない。あなたは今日本で三人の中一番と承る。先生大にこまりて曰、いやそれは某が大酒を飲んで不埒を見ぬから、と。文、行德の宿にて問荅の言と同日の談ゆへ記す。○宗子八藏ほら二尾を贈る。○先生日午歸る。○韞藏録世話した設樂氏の処でわりなを簾のやうに干してありたを迂斎も笑へり。吝き男で、閏でこまると云き。天の方のことさへ難義に思ふ。御旗本なと會計の士だけ違ふ。はやり風の時、某をば風さへかまはぬと云。をかしき人なり。なれども古人は又よいことありて、韞藏録世話のとき、直きに筆紙など置て來て、こんなことには吝からず。○佐藤松五郎、魚數尾をくる。

○仲遷日原至。○伊藤外記來る。曰、今度先生御出府て一同心願叶ひ、又格別の御講書て久五郎為には大に御影を蒙る。末々あれて相應にもならせたきもの。偖、長藏なとのよむとは格別のことに存する。在所の宇右衛門も大慶いたす旨申來れり。某なとも亡父からの御縁あり。結草斎か掛物云云。曰、あれは讀書録の語と覚ゆ。○浩軒様も御編書のことが御好ぢゃ。十四年過ても氣質は互にもとのとをり。○伊藤に問へり。上村騒動の時分かに猿江五本松の御別荘あり。曰、今八町堀のやしきとかわりた。先代の御昏礼の時なり。
【語釈】
・伊藤外記…
・宇右衛門…永野退蔵?初め宇右衛門と称す。彦根藩の臣。佐藤直方門下。後に迂齋に学ぶ。
・結草斎…

○因云、山﨑先生学問があるゆへ神道が利口になりた。一言以蔽之なり。伊藤曰、山﨑先生から開けたならん。曰、垂加翁、中将様て開け過た。伊藤、垂加翁の神道を問ふ。曰、吉田の今佛のはやるは神道の様に歸したとなり。其外佛道を雜せる。それをのけたが垂加の唯一ぞ。曰、某親神道の傳授大かたすみ、ひもろきいわさかの傳は一子相傳と云をきき、それを受ては道にそむくとて傳授せぬとなり。○伊藤曰、結草齋、念佛云も娵をせせるよりよい、と。因て川本云、某など邸には佛信仰の者かないなり。先生曰、佛は武士道七分に儒道三分あるとたたぬ。夫へ神道とくるとあれは皆潰れて仕舞ふ。○風水艸、埀加翁一人て出來たが、風葉集は全く埀加てもない。若林の手を入れたなり。若林風葉集を得、これかをれが手に入るも神慮に叶ふたゆへと大に喜び、さてそれからがよい。そばへ酒を置き茶碗でぐっ々々と引かけ々々々裸になりて写したと云。風水管窺は玉木韋斎かこしらへ、正親町の思召に叶ひ、春原民部か跋した。さて神書も見がよい。学べてはないが、辨ずるによい。○土金の傳はをもたるから出た。長藏曰、土金の傳たわいないことときく。曰、たわいなければよいが、たわいがある。日原曰、全体敬で土しまると云こと、と。曰、とど鑿説なり。○神代巻、舎人親王の書れても、垩德太子か本となり。舊事記古事記を本に説た。○三輪善藏が説に、天照太神は男體なれとも、女体と云は推古天皇を立る為に設けて云た、と。刻剥の論なれとも、そふも有ふ。されども其も時に當り男体を女体じゃと唱へても、當時の民か服すまい。日原云、文會にも男体と云説あると覚へき。曰、あれは氏國と云ことの論なり。つきよみの尊を男とする。天照太神女体にせ子ば、神代巻、素尊の姊さまと云たがつまらぬ。
【語釈】
・ひもろきいわさか…神籬磐境。
・玉木韋斎…玉木葦齋。名は正英。兵庫と称す。別号は五鰭霊社。京都の人。神道を正親町公通及び春原民部に受ける。元文4年(1739)7月7日没。年68。浅見絅斎門下。
・春原民部…春原民部信直。
・をもたる…
・三輪善藏…三輪執斎。江戸中期の陽明学者。名は希賢。字は善蔵。京都の人。1669~1744
・姫氏國…
・素戔尊…素戔嗚尊。須佐之男命。

○寛仁大度と云こと、吏にはよくなし。寛仁大度は冢宰のこと。只軍令計りが違ふ。經済の上でもなんても吏かあれを出してはわるい。只我下役へはそれもなければならぬ。○鳩巣圖述よいがふりに氣習もある。直方のは碧巖見たやうで開ける。されとも書の吟味は實事かよい。焼飯二つかよい。杜若見るはよいが、芲で二里は行かれぬ。○顧或人曰、貴様も学様かないゆへ幸田やをらが言ことをとりちがへる。最一へんきけはよい。貴様もゆだんならぬ。○仲遷曰、幸田きょくばちも狐がついていると云。曰、なんぞ幸子善そんなこと云はん。郷黨の篇、孔子のふしきもあのやうなこと。又曰、きょくはちも啓蒙も熟なり。啓蒙ころ々々行やうなり。某上總て繋辞傳説たが、某數は熟せ子ども、朱子によればすめぬやうはないと思ふと跡は活する。人の大金懐中しても、落すまいと云で落つく。○新發田で神主出來、祠堂立たことなり。されとも祠堂もさん々々さしつかへるもの。顧仲遷曰、足下もあるな。本式の通り題名もしたならん。火事の時手はやき仕舞ようあり。あの時は権道なり。軍旅も同ことなり。○高須曰、尚斎先生曰、鬼神理でといてすめぬことなし、と。幸田先生曰、それでは氣の時になりてさばけぬ、と。
【語釈】
・寛仁大度…寛大でなさけ深く、度量の大きいこと。
・きょくばち…曲撥。曲打ちの太鼓のばちさばき、または曲弾きの三味線のばちさばき。

○仲遷云、公子、先生僑居を訪ひ、一席何んぞ短くも講説承り、それより先生伴ひ秋葉にて別宴催したきこと、兼て懇請す。先生願くは許容し玉へ。曰、决して御無用なり。舟中不虞あらば如何せん。猶又類焼の後、足下慮りあるべきことなり。曰、公子一月の中一両度はいつも舟興に出らるる。災後とてそれに遠慮もなし。曰、皆足下より出ることにて、公子は足下の意に任かす。必ずとどめ玉ふべし。舟などとは以の外なり。曰、舟のことは命を聞く。公子唯僑居迠訪ん。曰、これ又公子の體にあらず。况んやこの寓居四壁破れ溷厠言ふべからず。必ずすて玉へ。足下君子ゆへ色々責らるる。曰、然らば今一度学校へ狂駕を乞ふ。曰、今一席でどふ御教誨なるものぞ。曲けてやみ玉へ。仲遷強て乞てやまず。曰、足下のには旦那でそふ有ふが、某は八藏をさへ教へぬ。仲遷屈し、しばらくして徐に曰く、此間に又某も、と。先生曰、仲遷何か又計策あり。君子風ゆへなり。必す置き玉へ。前夜先生語文曰、仲遷などの思慮なきはどふそ。舟は一ち危きことなり。思慮なしと云へし。其上秋葉で遊興と云こと以の外なり。此間も長き酒盛。つまり藝者の取あつかい。それはかまは子とも、老人甚大儀なこと。倶無功德。文因思ふ、一雷、入梅あけぬ。

○先生云、今度某出たは館林の軍に負けたのなり。然るに館林の御とりあつかい尚々あついことなれども、これを小市などのやふに臂をはることてない。某なればこそせつないが、あの様に敬せらるるとそれに乘るものなり。迂斎などなれば道德耻ぬでよし。ただのものなんとしてならふ。小市なとりきむゆへ諸侯敬礼あると斯ふあるべきはづ、當然と思ふが、某など馬鹿でない。不德でどふして大名の師になることならふ。小市がやうにうけるとたわけになる。日原曰、常人がのらば影では舌を出そふ。曰、某生付の利口で乘らぬ。学知ではないそ。○某も性善ゆへ、歴々より何ぞ拜領物なと仕りても返禮申子は繋累になり隱者の保養に非す。

○先生謂恭節曰、目貫は立派にするが鬼神集説遺言などの紙はあまり麁末なり。儉約も殊による。○黙して徳を取るは日原じゃ。○精義の板は山本源藏で出來たもの。○火災のない前に用心すること。治をいまた乱れさるに保つなり。長交りかよいやうなもの。ただかたふ々々々とする、わるいくるみ実ぞ。山﨑先生、忠右衛門よい天氣と云ふを、天氣より不審きけと云はるる。これも又あんまりぞ。とかくにわからぬゆへよい儒者が出來ぬ。よく思へば今もこれほとのさわぎゆへ、もちとよいが出來そふなもの。○某六十三、こずみのかれたと館林邸でも云き。迂斎の縁と云御吉例ゆへ重くせらるる。德なければろくな議論もない筈。只六十三と迂斎でのことなり。然るにあちらで行とといての御取あつかいは易退録などの例を推すと見へる。
【語釈】
・山本源藏…山本復齋。名は信義。源蔵と称す。山本良貴の弟。別号は香山、守境霊社。享保15年(1730)11月12日没。年51。浅見絅斎門下。
・忠右衛門…楢崎正員。忠右衛門と称す。備後三原の薬商。元禄9年(1696)6月9日没。年77。山崎闇斎門下。
・こずみ…小炭。粉炭。濃墨。後炭。ここは後炭か?

○大名の師範には大学様がよし。浩軒様の御咄に、大学文集の編集前後ありと云はれしと聞く。市橋様もそふ云き。某をもふ、定めて荅書の前後で云ならん。我々ならはさのみ手柄になることてはないが、大名にはこまかなことなり。美藤子のよいは、垩堂の書生文集の會讀あると聞く。○文太をどこて聞てもよいと云。誾斎ももと半左衛門様へすすめた、と。○孫兵衛、小児を見へし。めたきと云ことあるに因て、顧恭節曰、賢も訂翁に謁し仕合じゃ。或曰、朱子の尹彦明を見られたも十二三の時なり。曰、某も三宅先生の迂斎を訪れしを見たも五つの時なり。先生の御顔は覚へ子ど、小さくちんまりとなって迂斎と話さるるは覚へた云云。あのとき兄は十四計りて先生より書狀を下されたか、此方から書を呈したゆへ返書ならんと今思はるる。當年五十九年になるならん。又、高橋理左衛門一行ものを先生みられたやふに覚てをる。
【語釈】
・市橋様…
・半左衛門様…
・孫兵衛…嵯峨謙山。名は義勝。字は吉卿。孫兵衛と称す。横山氏家宰。文化3年(1806)9月25日没。年56。服部栗斎門下。稲葉黙斎にも学ぶ。
・高橋理左衛門…高橋理右衛門。唐津藩の臣。稲葉迂斎門下。

○浩軒様若い時、小市が講釈朝の六から暮六つ迠聞れた、と。そふなくては大名であの学問にはなられまい。高須曰、大藏、賢は先達て書物の手あてのこと申したが、万一焼けると天命と存すると立派に有ったが、今類焼後はちと手當ちがふへし。先達てのやうでなく、氣象がわるくならふ。すれは最初某しか手段をきかは、あれほとは書も焼くまい。○今度十四年ぶりて仕舞って置た草履が役に立った。迂斎舊僕かくれた草履をつるしをき、このたび用ふ。嗚呼はや一つも理の咄はない。形以下のこと斗なり。
【語釈】
・大藏…

○謂登彌太曰、書を澤山見て不審をただすがよい。そふないと学問上らぬ。虚往実歸はそのこと。○興國寺の會と云て別に髙いことはない。さあと云て好話はないもの。梅などを見に出て、其ときふと髙いことあるもの。はやりものではないことなり。○文太は腹立顔なれども、学問は上らふと思ふ。某鬼神は太極に力あるのと云ふたを疑ふゆへ、師家にきけと云てやりた。功用は氣、妙用は理と見てのことなれども、必竟鬼神ても太極でもどふとも云はれる。されともあれがよいが聾じゃでも力らあり。
【語釈】
・興國寺の會…近思録聖賢20。「伯淳嘗與子厚在興國寺、講論終日。而曰、不知舊日、曾有甚人於此處講此事」。

○幸藏濱町へ來たとき理が器用なり。文太は不器用でうつりわるく跡でやふ々々笑が出る様なり。然れどもあれは隨分儒者役勤まる。あれは詩は下手であらふ。○文、今國て苗代水ないのにこまった天氣と云に因て、吾人水旱なく天下中よいがよしとは迂詐にて、我田のよいかよし。これ、不仁なり。天下中と云か西銘の意。先生曰、くみはかれは亦小さい西銘なり。天下と云はよさ過きる。なんてもべたとした意旨かよい。○俗人か人々の機嫌とるは隙の取れるもの。早く片づく把抦があるかしらぬ。○兎角為己の学がよい。学者出合より博奕打の名で、會津矦以來はあなたなり。

○或曰、訂翁曰、講三席宛せられた、と。先生曰、あの衆などが違ったことなり。某などならぬことなり。○先生曰、小市が溝口公長屋の講釈、土井の物見迠きこへた。それが中庸集略なり。靖献遺言なればまだきこへた。集略はかの尚翁の韓持國のよ々々々々々ともげたことをふっくりとよむへし。ひしはる書てはなし。或問も朱子の辨で道体なれば、何もりきむことはない。講釈は假名になをしてもろふのなり。○浩軒様へはさっそく出る筈のこと。あなたの先年の合力金のあまり、今も米二俵づつはとれる。二俵を粥にして食ふてみよ。吾々身ては大きなことなり。
【語釈】
・韓持國…韓維。雍丘の人。神宗の時翰林学士に進み、開封の知事となる。哲宗の時に門下侍郎になり、太子少傅で致仕。1017~1098

○大名の教授も經済も中々ならぬこと。余程よくてもあふではないと外から入札がつく。其入札は、多くは用人などが入れる。韓非が説難がそこなり。なんても若いときのこと。某など今は尻がくさって何も出來ぬ。凡そ向の為めは死身でなければならぬ。何事へも死身が出て一番鎗つく氣てなけれは役にはたたぬ。但しそれほとにははまられぬ。○唐﨑が迂齋を老子と云も尤なり。つんとかまはず一生をられた。某などは口が出したくなる。今日屋鋪で大工の圖を引を見たが、はや一つ手段を言たくなる。それゆへとかく直きに口をふさいでをるかよし。去れども任ずるときにはをれかのはよい。某が圖を引ふとも、大工の道知ら子ども、理はつらぬく。條理分派で見ること。一手もむだはない。役人も得て端しの歩をついているものなり。○工藤平助丈、此間先生の留主へ尋て、又再来りて曰、先生一夕招てなんぞ上たいが、例の面倒がりで御出もあるまいと思ふ。明後日遊佐を携て來らん。曰、いや前期するはわるし。曰、忰も謁見させたいが、此節善藏に従て保養ながら大坂へ参りて居る。文曰、御賢子さま詩をよく作らるる。工藤謂先生曰、あいつはよはくて中々生きることはならぬ。先生曰、強弱にはよらぬ。命數は別のことなり。曰、先生は一生出ぬか。栄名惜むべし。
【語釈】
・唐﨑…唐崎彦明。三宅尚斎門下。芸州竹原の人。黙斎の親友。彦明は伊勢長島藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せられたとき、黙斎はその救援に献身したという。なお竹原は頼山陽の出たところでもある。~1758。
・工藤平助丈…
・遊佐…遊佐確齋。名は好雄。字は眞卿。清左衛門と称す。遊佐毅齋の次子。仙台藩儒臣。文化10年(1813)11月9日没。年66。宇井黙斎門下。

○文太か談に及ふ。工藤云、あれは小意地わるいが服部で一ちよい。先生曰、去年某が方へも尋たが、あれは京大坂の諸儒よく知て咄し、めつらしきことともきき、某も二三枚書とめた。工藤曰、あれは初年は西依にも遊ひ拙斎へも出合た。これは備中かなり。偖、一昨年中井善太も下ったか、大家不承知なり。諸先生とも合はぬ。美藤も尋られた。あのときあれが出やふ、さっはとない。先生曰、足下茶の名器なにぞ。曰、惣領目が好んで有ったが、死後見るに忍びぬ故皆賣て仕まふた。さて先生先年より健なり。曰、さに非ず。さん々々なり。曰、藥上ってよからふ。よき方あり。曰、手を出しせせると死ぬ時うろたへる。足下か方と云は先達て松敬ものめと云た剤ならん。曰、然り。てりあか、さふらんなども入る。曰、某か病は何んで有ふ。曰、脉も見せずにとふ知るるものぞ。曰、然らば足下の藥のめと云は如何。工藤微笑す。先生曰、足下学問なさるや。曰、医者脩行さへせられぬ。曰、もと詩を作られたが今如何。曰、これも出來ず。曰、詩文は天授あり。つとめて作るは入らぬもの。よくは出来ぬ。あれも團十郎や冨十郎か藝のやうなもの。人を面白からするとて実は我も面白ひ。そこではり合がある。
【語釈】
・西依…西依成齋。名は周行。字は潭明。儀兵衛と称す。肥後玉名郡富丘の人。京都に住む。寛政9年(1797)7月4日没。年96。若林強斎門下。
・拙斎…西山拙斎?江戸中期の儒学者。名は正。備中の人。岡白駒・那波魯堂に学び、初め徂徠学を、のち朱子学を奉じ、柴野栗山に異学の禁を勧告。1735~1798
・中井善太…
・てりあか…獣類に咬まれた時の解毒に用いる膏薬。数種の薬剤を蜂蜜で練り合せて作る。

○工藤退く。先生曰、子の病身を死ぬと云が親の情なり。偖、遊佐とは別に咄すこともあり、工藤は興國寺のやふに咄すことと思はふが、なに咄すはない。さて某は工藤に耻づ。あれには先年だん々々物を貰ふた。その礼もせぬにあちからたつ子る。根が君子人なり。されども学に淵源なさに、何ぞのときは横そっ頰云。又先年も經済はなるものと云。とふしてなるものぞ。然し医門には大抵の精力ではなかった。若き時傷寒のこと運菴に問たが、運菴輕んして荅へす。其後運菴が手に餘った傷寒をなをしたれは、運菴か方から問たに、其時鸚鵡かへしにこたへす、運菴を耻しめた。少年からそふした英秀なり。當時に二人か火をすりた。
【語釈】
・運菴…
・火をすりた…火を摩る。内面はきわめて不和であることのたとえ。

○日原問、王裒がこと厚に過るとは朱子の未定の説と、如何。曰、某もすめぬが、厚きに過るやうにもなし。中には朱子にも落付ぬやうなこともある。先つあんなこと事実できめるがよい。歴史綱鑑見玉へ。あの説を抄略にのせてあるを見れば未定とせぬと見へる。○去年文太か咄しに、石井丈太夫、幸田の講釈文義の違ありと云と、幸田子に活論はないがあの静でよく吟味し、年來の熟で文義などには少も違はない。某などこそ出まかせゆへ、つい本文と違ふことも云。そんなことで善太をつくは、あの出合は幸田をつくと咄しが合ふと見へる。○幸田子は禅坊主の上下きたのなれど、又きついことをも云。宋朝の学を續だなり。服部か門が幸田を性行わるいと排謗そふなが、性行がわるいと云へば学問はよいに極まる。實に学ふならは性行をとらず学筋をきく筈。あの徒が呵るで幸田に無盡かけてやるになる。呵るほど幸田学識高くなる。必竟影でわるく云のは出合って太刀打がならぬゆへぞ。をらなども幸田と並ぶと小さくなる。あの衆は天下のれき々々と云は槩子人数なくなった。もふ恐るべきことなし。あの衆に合ふに胸がわるいと云はぬ。これは一事總体そふなり。○某などは講釈の熟がすくないゆへわるい。三左衛門も、武井氏。熟があり、迂齋は四書近思はそらだめ手前のものになった。
【語釈】
・王裒…晋書列伝58。王裒。「王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、爲文帝司馬。東關之役、帝問於衆曰、近日之事、誰任其咎。儀對曰、責在元帥。帝怒曰、司馬欲委罪於孤邪。遂引出斬之。裒少立操尚、行己以禮、身長八尺四寸、容貌絶異、音聲清亮、辭氣雅正、博學多能、痛父非命、未嘗西向而坐、示不臣朝廷也。於是隱居教授、三徵七辟皆不就。廬于墓側、旦夕常至墓所拜跪、攀柏悲號、涕淚著樹、樹爲之枯」。
・石井丈太夫…

○或人浸潤膚受のことを挙く。先生曰、迂齋も二分かたられたことあり。欺以其道なり。去るやしきの祐筆が迂斎へ急に來て云に、只今茶屋へ歴々と参てちとむつかしあり、つい二分なくてならぬ、と。きついやつで迂斎をかたりた。迂斎もちと左もあらんと心あてもありたゆへたまされた。迂斎も其後あれがかへさぬは知てなれども、催促したは向を戒める意もあらん。○平井龍藏、あちでの先生そふな。初めは官兵衛か弟子で行藏と並んた者なれども、行藏濱町へ來てからは行藏とはいかふ格段の違になりた。○日原曰、服部は全く東萊なり。曰、然るべし。世上ては東萊と云と朱子の友ゆへ一つことと思ひ、同じ朱子学と思ふが、そこが此方の吟味ぞ。あの、皆東萊なり。陸氏などになやうはない。
【語釈】
・浸潤膚受…論語顔淵6。「子張問明。子曰、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣。浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣」。
・欺以其道…欺くに其の道を以てす。
・平井龍藏…平井統平?新蔵、豐之助と称す。若狭の人。山宮雪樓門下。
・官兵衛…山宮雪樓。名は維深。字は仲淵。別号は翠猗。官兵衛と称す。江戸の人。羽後亀田藩岩城氏に仕え、後に館林藩に仕えるが去り、直ぐに殞命。年40。三宅尚斎門下。
・東萊…呂東莱。祖謙。南宋の儒者。字は伯恭。1137~1181

○小野﨑先生濱町へきて、官兵衛姫路て門人百人あると十左衛門様や七右衛門様は食はふが、この舎人は合点せぬ、と。諸老節要の會、野澤は小野嵜にいつも軽んじられた。一日小野﨑云、昨日ふるまはれて立松を見たと、野澤十九掌で鼻をくっとこきあけて云。野澤か理屈をのって云ときの癖なり。御手前様御家老職で芝居見ては御家の則になりますまい。曰、をれか立松を見たで二万石の家中が當暮餅がつかるると、十九左様かなと云へば、舎人云、いやそんなことは浪人儒者の知らないことだ。これが今云ふ茶にされたのなり。或る日又、十九殿、そなたは金もちてもこの舎人にかなはぬことがある。町奉行番所へ出ると浪人は火付や巾着切と幷んで砂利の上へに居るが、舎人などは椽側の上に居る、と。このときは十九も笑なから、はてな、それは迷惑なりと云。舎人云、それがいやなら悪るいことせぬがよい、と。或る時迂斎の會に十九か儀八をよびかけ、昨日深藏へいってぞんぶんを云た、と。これは朱子を疑はるることの議論なり。それをきいて舎人云、それはものもふの異見かと云。迂斎問へは、深藏殿ものもふが高声じゃ、と。にこの十九大に腹立つ、と。十九儀八二人、はて藥袋もないと云たれは、をれは物申の異見のことかと思ふた。小野﨑は諸老の中文字力もあり、さて大才なり。甚博識にて和漢のことに通せり。陳祥道か礼書と呂晩村か四書の説をたび々々云へり。傳十郎が古本の詩経説約を買ふたに、もとあの衆の藏書と見へて、書入もすこしあるが、学問一体力ありてきまったことなり。説約さだめて駿河在番の時、東溪と會せられての説と見へるなり。舎人曰、この頃は日も忌れる。今日は二日か三日かと云たれば、妻が四日と云ゆへそれで知った。野澤かの鼻をこき上け、御手前様其てよく御役が勤りますな。曰、いや、役に付たことは忘れぬ。觀水翁、ははあと云て手を打て感心して笑へり。石原先生來月は拙者方が當り番、皆様遠方御太義に存すると云を、觀水翁、源右衛門時分のこと、中老なり。泣やふな声で、拙者はさて々々殘念なから参り難し、と。石原先生、然らば某も舎人殿も暇ゆへ、幾日にも延べ申すべし。曰、それは千萬辱いが、やはり御かまい下さるな。來月は若旦那の奥方臨月なり、と。今の伊豆侯の御祖父ならん。十九云、御手前様に御同役のござらぬと云は近比あまりなことじゃ、と。小野﨑応声曰、いや源右衛殿は同役があると勤まらぬが、ないから勤るでござる。もしあれはとふに役を子かふ、と。野澤、はてなときもをつふした顔なり。觀水翁、ははあ人情に達せられた、辱い。御手前様仰せらるる通り、同役あれはつとまらぬてこさると再三感心せり。又、十九のまじ目が氣の毒になり、貴様の御咎めも御尤ぢゃと、觀水翁如此仁恕底の人なり。一日は野澤曰、昨日大工をさん々々としかる処を加藤殿の家老衆きて、さて々々はぢかいた、と。舎人云、大工をしかるはあることなり。こなたがはつし縄かふのを見られずに仕合でや。これ、吝を軽侮せり。石原先生は傍より埒もないと云やふに笑てなり。小野﨑或る日云、本家の家老が某が面を泥艸履でぶった。この舎人はもっとぶて々々とぶたせてをいたれば、あちから此暮はどふすると云た。そこて千両になった。これは壹岐公會計の手段のことなり。
【語釈】
・十九郎…野澤弘篤。
・深藏…中村蘭林?名は明遠。字は子晦。深蔵と称す。別号は盈進齋。江戸の人。幕府儒官。宝暦11年(1761)9月3日没。年65。稲葉迂斎門下。
・陳祥道…
・呂晩村…
・觀水翁…長谷川觀水。長谷川克明。源右衛門。

○先生曰、いかさま大智の人はあふなり。迂斎か舎人殿よく顕仁藏用のこと云はるると云ゆへ、或る日迂斎の留主にこざった故、某あのこと問た。小野﨑も某このとき初てあんなこと問たゆへ、さて々々繋辞傳の御不審きつひ上達なと云へり。折抦表を販夫漬梅を呼ふを指して云はれたが、辨は下手てありた。顕仁はあの表を呼あるく梅でや。あの中の核に用は藏れてをる、と。丸に語類にあることなれども、某が聞へまいと思ふてあふ云はれたか、某十六七計りの時と覚ゆ。あれは蒙引がよく見た。さて中庸云云。間断前後一つことなり。二人旅をするに、一人草鞋の緒をしめる中に一人は先きへゆく。これ、間断で先後出來る。首尾の看の前後の看になるもここなり。○先生謂日原曰、疑似の症、はやく藥のまぬがよい。のむと一旦は藥てをすもの。初めはよいやふに見へてもあとで害ある。傷寒など別してのことなり。某傷寒二度病ふた。今では人の知らぬが、我方のことは無為の化需てまつがよい。○日原云、訓門人、公が仙卿の人とよみたし。
【語釈】
・顕仁藏用…易経繋辞伝上5。「一陰一陽之謂道。繼之者善也、成之者性也。仁者見之謂之仁、知者見之謂之知、百姓日用而不知。故君子之道鮮矣。顯諸仁、藏諸用、鼓萬物而不與聖人同憂。盛德大業至矣哉」。
・間断前後…中庸章句26集註。「程子曰、天道不已、文王純於天道、亦不已。純則無二無雜、不已則無間斷先後」。

廿二日、遊佐氏文次來。仙臺侯の臣。氷豆腐油紙包みの鮭の切肉を贈る。懇に旧情を叔べ、禮卒り先生曰、足下官路升進のよし。曰、只今の役は学問の相手を兼て勤む、と。儀藏如何。曰、替ることなし。さて當時江戸も学問行はるる。先生曰、はやるそふなれども、行藏小市がよふなものなし。あれらは学問ふるふにはよい道具なり。されども役には立たぬさ。曰、先生昔よりも健なり。曰、そふもなし。髪も今斯ふなれども、然しうるさいとも思はぬ。程子傳燈録の説にも、あたままいて死て有ふとは尤なこと。遊佐曰、某も折々講釈するが英才も出來ぬ。曰、出來ると程朱がたたぬ。心づかいよりをふちゃくがよい。それがならぬものなり。曰、某など德不德は云てもなく、されども学德もないゆへとどかぬこと。心つかぬてはなし。先生曰、すてて置かよい。ををちゃくに見所あるもの。あまりひん々々てはゆかぬ。小市は足下の師なれども役に立ぬ。宗伯は正直ゆへまだそこはよい。小市一生さわがしい。なんのことなく実境なくて仕舞った。遊佐如何さまとて微笑して曰、宇井あれほどの学力なれども、少し和がなかった。曰、幸田があれを学校風と云てあり。誠正の隱微の処の工夫をするかは知らぬが、皆虚なり。されとも今幸藏は先きへ死ぬ。小市は某上總へ行年死んだ。とんともふ其後ない。某両人を仁王門と云た。立派なものなり。けれとも和尚にはなられぬ。村士が方の衰へは、もとか性急があふなりて、そこで善藏が平らかをする。あれが京へ出たとき、訂翁をはろくに見ずに山田清次を尋ぬ。これ、行藏にこりたなるべし。

○小市が死んたとき、訂翁から問はれたるや。曰、何もない。曰、それはあんまりなこと。あそこが川黨洛黨と云やうになりた。小市が妻は公家へみやつかいすると聞く。曰、然り。○小市か終焉に足下付け居たならん。曰、然り。曰く、日ごろの通りでありしや。又、何にも覚へぬや。曰、病革る迠何も覚へぬと云ことはなし。其節、前夜から急にわるくなり、ものが言にくいと云はれた。又、死ぬ前に言をきたいこともあれど、それを言ふと精神がさわいでわるいと云。内室などが泣たが、あれらをわきへやってくれよ、男子不死婦人之手、あれらが哀むをきくとこちも哀みを催してわるいと云はれ、只經傳通解の点のことを誰もするものがないが、後来点するものがあらば、をれがに付いてさせたいと、黄勉斎に附属したやうでありた。それから痰が催し、かっとてそれぎりになりぬ。五十七で死なれ、去年十三年忌でありた。先生曰、いかさまそふで有ったらふ。死ぬ迠眞似たなれども、あれが平生が存養になったものなり。ならぬことなり。遊佐曰、人を相手にするにもせよ、そこか実になりた。
【語釈】
・男子不死婦人之手…男子は婦人の手に死せず。

○遊佐云、井上兵馬、かわった男なり。曰、どこて合はれた。曰、京てのこと。曰、あれは訂翁へ出たか。曰、然り。○遊佐云、浩軒様隱居なされても、別にくづれたことはあるまい。兵二郎がよかった。曰、八右衛門が死ては、あれなり。兵二郎、事業で云へば訂翁へ隨身した故よいやうなれども、八右衛門が方が論の立やうでも人品でもよい。○先生曰、儀藏はをとろへたらふ。曰、然り。○遊佐云、幸田、外物をはかるいことなり。訂翁よりは幸田がかかはらぬ。○遊佐云、今は儒を以て業にするやうなり。曰、然り。兎角学者かいむやうて、医者のをれが療治塲と云やうな底なり。○遊佐云、幸田滞らず、氣象うまかった。曰、足下などのやうに小市で事業が出來、力が付て見ると感心する。あれも弊ありて、信せぬと小市が訂翁を疑ふやうになり、又、あまり信仰になると踊り子も曽点の氣象と云。曰、とふしても幸田が訂翁よりかかはらぬ所がよいやふなり。
【語釈】
・井上兵馬…井上行恒?平馬と称す。新発田藩儒臣。享和3年(1803)秋、江戸にて没。浅見東皐門下。

○遊佐曰、堀田矦、幸田へ直方に経済の書ありやと聞た、と。幸田云、大学が経済の書なれども、書きものにあるかなどと云ては経済はならぬ、答へし、と。偖て衍義補と云もほんのを知らぬ。先生曰、致知格物の間にあること。補傳なとのことは知らぬ。某も堀田公、直方の経済の書ありやと問れたと云こと、雅樂様の家中の一学者より聞たが、幸田もあとで直方経済の書は鞭策録排釋録鬼神集説なりと荅へるがよかりし、と。○遊佐学風のこと語るに因て曰、挙業のないが第一の幸なり。それが始るやうぢゃ。遊佐曰、ほんのは引こま子ばならぬ。曰、偽学の禁ぞ。迂齋曰、日本偽学の禁ないは行はれぬゆへ、と。遊佐曰、目があかぬ故なり。必竟宋学をきろふは山﨑先生をきろふ。眞剣勝負ゆへ其はづなり。程朱の眞脉、あの人のやうなはあるまい。日本では出來まい。ただの朱子なればきらひはせぬ。○先生曰、ちとすると陽明と云はれるか、その方はよい。それも格致をしてそふ云はれ子ばわるい。○遊佐云、大学を經済の書と言始めしは直方なるや。曰、そふ云はれたか承まはらぬ。直方にも迂斎にも平天下々々々と云れた。經済々々と云は太宰が經済録からなり。經済の下をして大学を經済の書と云へば、啓發集などを知らぬは明らかなり。
【語釈】
・堀田矦…

○先生問遊佐曰、小市か門に誰ぞあるか。曰、奥村太郎右衛門、近藤某なり。近藤は清水に居たかなり。○荻原番二か石牌は小二郎か弟子か書た。八十計で去年正月か死れた。先生曰、去年あれが弟子と云ものを夢に見たが、荻原が弟子がきたとき毛虫かをちたれは、某は子のけたを弟子か云、毛虫をこわかるは先生御放心と云ゆへ某云、氣の充ぬのじゃと云へばよし、そふあたりちかふては語類文集の見やうも違はふと云た。かはった夢を見るものなり。○足下の御先祖、中庸首章の説を未定と云て鳩巣へも相談したが、鳩巣も同心のやうにあり、足下あのこと如何考られた。曰、未其れは存せぬ。曰、克己復禮を中庸へ合せたではなく、又、冷す冷さぬのことでもない。克復のあれからてなければ行かぬ。山﨑先生、於此乎感ありと云て中和集説も出來た。御先祖のは、克復では道体てはない、力が付くと見てのことなり。
【語釈】
・奥村太郎右衛門…
・近藤…
・荻原番二…萩原恪齋。名は守道。伴次と称す。遠江掛川の人。小笠原氏に仕える。寛政5年(1793)1月18日、江戸にて没。年80。宇井黙斎門下。
・小二郎…小一郎?
・克己復禮…論語顔淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下帰仁焉」。

○詩經の序の話に因て遊佐云、宇井、詩書辨説の序をぬき、たん々々校合して三度目に綱領を定めた。森嶌三五が綱領をつけて宇井の意を末に出し点を改た。○先生曰、小市もよかった。曰、然り。曰、迂詐ばかりもない。大ふよい処ありた。終焉のことなどなるほど虚であふはならぬ。平生あふしたが存養になりたもの。○遊佐曰、某も御暇乞ん。曰、永訣ぞ。もふ御目にかかるまい。○遊佐退て出つ。文謂先生曰、遊佐は客氣なくよい底なり。師のことを云たら意にみたぬはつなり。曰、いや、先年某小市を大に呵ったはあのやうなことでない。なれども遊佐は小市がことも某をもよく知て居る。某上京のとき、小市へ某身持は先年の通りなれども御目にかかりたしと云てやったが、小市病氣と云て合はぬ。されども遊佐は其翌年江戸へ某を尋た。小市へ身持は先年の通りと云は、あのときいたづらなり。先年の通りの者が、なにそふ云てやるものぞ。此夜曰、遊佐の進物油紙眞卛甚よし。靣白ことなり。されとも書にはをこたりたとみへる。木斎首章の説のことをもをぼへず。又、今日では善藏を一人と云ふ。某もそふ思へとも、されとも小市ならばそふは云まい。これだけ一分のをこたりなり。
【語釈】
・森嶌三五…
・木斎…遊佐木齋。名は好生。養順、後に清左衛門、次郎左衛門と称す。号は季斎。仙台藩儒。享保19年(1734)10月17日没。年77。山崎闇斎門下。

○先生久五郎様進講に出つ。日午歸れり。○今日の進講、男唯女喩より七十致事まて讀たか、今日のは小児医ではないと云はん。文曰、七十になる小児もあるまじ。曰、そふ云ことにあらず。ただよみやふの主意なり。不可去るも四色にも説けは説るる。諌め云ふ身分で不可去ると云ても永の暇を願ふもある。又、役子がふもある。今は孔孟の時とは違ふ。沙汰なしに去れは出奔の罪にて叛罪そ。又暇願を出すも家中者のこと。御直参はあたまでならぬ。御役御免て小普請寄合にならるるか去るなり。勝手に退去はならぬ。又、御用に立つものは七十致事と云にもかかはらぬ。召公奭、八十迠勤られた。眞西山の説もある。又、暇出ぬとて出奔と云はさん々々な事なり。白萑録、尚翁出奔のこと云はるるは合点ゆかぬ。又、不可而去る心なき臣はいくら持ても役にたたぬ。君の過ちを諌めぬ臣大勢有ても、きれぬ刀多く持ったやうなもの。垩人の辞平らゆへ誰あてなしに七十致事と云。隱居すべき時に隱居せぬは日が暮ても戸を立てぬやうなもの。たとひ上から老を優になさるる思召にせよ、我を考てみて処置あるへきこと。謂恭節曰、主水殿感涙して聞かかるる底ぢゃが道理のことよりは經済が身分ゆへひびく。
【語釈】
・男唯女喩より七十致事…小学立教。「内則曰、凡生子擇於與諸母與可者、必求其寛裕慈惠溫良恭敬愼、而寡言者使爲子師。子能食食敎以右手能言男唯女兪。男鞶革女鞶絲。六年敎之數與方名、七年男女不同席不共食、八年出入門戸及即席飲食、必後長者始敎之讓。九年敎之數日。十年出就外傳居宿於外。學書計、衣不帛襦袴。禮帥初、朝夕學幼儀、請肆簡諒。十有三年學樂誦詩舞勺。成童舞象學射御。二十而冠始學禮、可以衣裘帛。舞大夏、惇行孝弟博學不敎内而不出。三十而有室始理男事、博學無方孫友視志。四十始仕方物出謀發慮、道合則服從、不可則去。五十命爲大夫服官政。七十致事」。
・不可去る…上記の小学立教。「道合則服從、不可則去」。
・召公奭…周初の宰相。奭は名。文王の子。武王・周公旦の弟と伝えるが、殷代、河南西部で勢力を揮った召族の出身。周に協力し、成王の即位後、太保となり、陝西を治めた。燕の始祖となる。

○伊川の無簾の時節のことを薛文靖の云はるるやうなもの。太夫は何ぞの時は又思慮あるべきこと。押さ子ばならぬことあるぞ。そふないと後々奥へ勢つく。某講釈を御家中一同に一日聞かせたいと云ことなり。某察するに、これらも無簾から出ることかと思ふ。先達て長藏へ御普請出來上り、家中舊の通りになるまでは講釈はせぬこと。これ、治而教るの次第ととくに云たれども、今亦善いことを拒まば、萬一わるい時のことにこまらふと思ふて小学君臣之義一席讀ふと申した。○今日蕎麦を賜へり。長藏が坊主に蕎麦の湯と云たゆへ某呵りた。御講書に参った。なぐさみには來ぬ。然れば格式でよし。蕎麥の湯出るなどは燕樂めきあしし。あちらから出るはづのものはよし。設ことはあし。瑣細なことにも目端きか子ば經濟はならぬ。○先年鳩公の又弟子か酒井公にて料理の焼物持かへる為めに宿から油紙用意して出た、と。乞食のていなり。あれは靣桶よりわるいなり。このこと三九郎咄した。迂詐はあるまい。門風のゆるい故、祖師にはぢをあたへるの一つなり。○日原高須では飲める。
【語釈】
・薛文靖…薛徳温、薛敬軒。
・燕樂…酒宴を開いて楽しむこと。心がやわらぎ楽しむこと。
・酒井公…
・靣桶…一人前ずつ飯を盛って配る曲物。後には、乞食(コジキ)の持つものをいう。

○長藏曰、今日の御講談、數は天理の合紋と云はるるは面白ことなり。曰、何に今日のもそんなことでもない。○長藏曰、不可去の処、あの声でなければ諸士へひびかぬ。○長藏問春秋と出師表、浩然之氣と文山歌、同じことと、如何ん。曰、それでなければ靖献遺言は出來ぬ。まだそれ迠はさしつかへぬが、それから孟子もらりこはいと云になってくるにはこまる。○若林、中庸では神道を云はぬ。道統の心法傳授の書へ唯一つ出しては学者から争の端を起すとてならん。そこは老功なるべし。○高須曰、退溪文集弊藩にあり、多く摩滅ありしを服部の本にて正して隨分よし。先生一覧は如何ん。曰く、李退溪、直方先生ほめられて、道統ぎりのこと。某今あれを見て療治する氣はない。○先生謂文曰、遊佐が今日小市が終焉の咄し云云。恭節曰、小市が談なること如何ん。先生曰、二度長きこと語りては面白からず。共に聞たもののこと。小市か平生のうそも存養になりたもの故死際がよい。永田養菴、巧言令色ないゆへ老耄したもしれぬ。老耄のことは幸田云へり。
【語釈】
・文山歌…
・らりこはい…乱離骨灰。羅利粉灰。

○先年唐津の学者へ前夜一盃機嫌で先輩の声色を使ふてきかさんと云たれは、敬吾が聲色と云こと知らず不審な顔で有た故、いや戯塲で雜戯のま子のことと語りた。其後あれ等が此の程は段々御高論承り大益を蒙りたが、何卒先輩の御音色拜聞致したしと両手つかれて大きにこまりた。昨夜も少し小野﨑がことなどつい言ふたか、所望されては出来ぬ。○恭節ひそかに謂文曰、殘樽あけてかへさるへし。又遣はさん。先生ちらとききつけて曰、それはわるいことなり。御勝手の帳に某れの日黙齋三升、某の日五升とあるもの。これ、道行はれさるの本なり。すへて節儉がよい。そふないと御臺所であなどられるものぞ。酒無ければ某此方で買ふ。必ずよしにすべし。
【語釈】
・敬吾…片峯敬吾。唐津藩士。

二十三日晴。○先生松見を訪ふ。○宮原文太、鈴木長藏來る。先生語長藏曰、名人のは違ったもの。松見か普請法にそむいて居るかよい。福菴よりは学筋かよい。ひる釘の打やうなどは違った。某などは茶の湯の文字訓詁なり。あの名人になるとああしたことあるもの。兎角古方家か後世家をそしるが、どちても其病人によるへきことなり。丹二録。○仲遷云、経傳餘志はかの先年の白木なり。先生曰、あれかなり。曰、あれがあぢな柏子で御城女中なとへも賣れ、ずっと五百部すり出したと云。あれからあとはもふいけぬ。伊勢源氏のやうに悪所へも行ったと云。曰、諺解のきのどくがそれにある。其内板が焼ればよい。先年あれがせっかく尋たれども咄もならず。あれが文をなをしてやったが、あれも道理のことでなく、某がはやいに感じき。さて今文章なし。詠物になりた。題を出し、それをかく。あさましや。我霊物を出すことはならず。傳習録、楊墨仁義を学んで違ふの筋なり。よい方へゆくと、あれにはたまるまい。○仲遷曰、幸田毎々日原を大に穪す。幸田の道を継だはあの男なり。先生曰、あれをば幸田も穪するはづなり。仲遷曰、日原がこれまで幸田の語録多く書てあり。曰、あれも幸田に習ふて、我書たものは出さぬ。○神谷松軒江戸に居て一生焼けぬ。轉居するとあとで火事があるやうなことで、幸なものがあるもの。
【語釈】
・松見…
・福菴…
・ひる釘…
・諺解…口語でする解釈。通俗語による解釈。
・神谷松軒…

○猪口伊太夫來り曰く、先日も申したか、先生今度御出のこと、亡父なども泉下にて喜はん。亡父は誠に御尊父様の御厚恩を蒙りた。曰、御亡父様不苟の人にて、某など兒輩のとき、よってもつかれぬことなり。中々小ともをかはいかるほどと云ふやふな人情つりたことはなし。曰、先々代老中の時、亡父は右馬之助のもりをし、其ころ小学を歌かるたにして取らせたことあり。因て右馬之助六つの時、あれを取らせたなり。某も十一から伽して覚へき。曰、御亡父様岡尾丹右衛門と組合て迂斎へ参られた。多田とは合はなんだ。其後岡尾は公用人になった。それでも迂斎へ参りた。世の中は左様でこざる御尤、しかと存ぜぬ御目出度ことと云狂歌を此砌、私ともはこのやふなていてまかりあると迂斎へ咄したことあり。さて明日御家中への講説、何もよむこともなし。曰、兼々主水始め一同相願ふなり。曰、某などの云こと何も益はない。朱子一にも當り不得と云ふ。竹帚を賣るも同じやうなり。達磨か梁武を功德無しと云たが、つまり益はないものなり。
【語釈】
・猪口伊太夫…
・岡尾丹右衛門…

○仲遷兄の喪の時は南郭に出合ひ、あの頃詩文よかった。碑銘など早く出來た。実事故なり。必竟長くかかるは季文子三思のるい。投け入れを二返直すはまだよい。又、すいとすることと云ふが、それもかたでする、ほんのことではない。朱子の没三日前迠誠意の章は又別なことなり。兄の祭文碑銘などか仲遷一ちよからふ。八右衛門がのよりはよい。詩も平仄の格あるて作りにくいやうなもの。碑銘も向にある事實からゆへ書にくひ。あの八右衛門が行状を先生々々と平次らか書たがききにくい。誰も世間ではしらぬことなり。伊川の明道を先生と書たは先生でよけれども、あれがのはわるい。先兄々々と書くがよい。兎角先生の字が今をかしい。むかしは某など迂斎の外は先生とは云はぬものと思ふた。其後は寢ぼけ先生じゃのと云ふ。これもそれより二十年ほど前に左官か艸履を落し、土こ子に先生頼むと足を出したと云ふ咄あり。をかしきことなり。○長藏も先生ぶるはわるい。知惠がないからぞ。ほんに向ふをやすくする者は慇懃をするもの。これ、いたつらものぞ。篤實者はつらが大いものなり。行藏より長藏までが向を敬ふになるそ。をれらは人を軽んする者ゆへ俗人をも重んずる。それでをれに何ぞにて呵られた者は各別、その外は誰にもにくまれぬ。○俗人は口は上手。こんひら儒者が來たと云ことなとある。用はれぬこととをもふへし。
【語釈】
・南郭…服部南郭。江戸中期の儒学者・詩人。名は元喬。京都の人。1683~1759
・季文子三思…論語公冶長20。「季文子三思而後行。子聞之曰、再、斯可矣」。

○この切りためももと冨貴の相なり。○唐本の和本のとばかり云て、六經註我は知らぬ。今陸王か來たらはやすくされるであらふ。○某人は昔の右近様時分の曲けなり。あのまげだけよくならふ。○小源太といへども、君の會計今日よくなる時來りたと云ふにがない。とかく幸田じこみ、事實に見取ないと見へる。○仲遷、外の馳走よりは、あの人足でここへ庭木うへてくれればよい。某兄が京に在番の時、同役ともは掘出し物でも見て買ふて江戸へもちかへる心なり。先兄は植木や石を買ふてすへた。ほんの茶人なり。横井助右衛門計り茶人ぞ。月がよいとて夜半により合て茶のんだ。これさへないに、学者が出來るものか。○今日館林矦より美酒重の物など夛く賜はる。先生曰、皆も賞味し栄とするがよし。
【語釈】
・切りため…切溜?木製長方形で、蓋のある、内外ともに薄漆塗りの料理箱。
・六經註我…
・横井助右衛門…

○伊藤長十郎來る。○廿五日に京極の公子ここへ見へ玉ふとは沙汰のかぎりなこと。必竟影でのことは見のがしするもの。ここで某見のかしは迷惑なり。これが經済者のきめぞ。土屋様、二本道具で山伏井戸迂齋を訪玉ふ。向の幸琢へも大名衆こさるか、それは微行のこと故どふてもよい。迂斎へは師を敬礼せらるる。きまったこと。迂斎も毛氈しき、新しき烟草盆、雪隱小用所も浄潔なり。この寓居、どふ貴人が入るものぞ。且つ仲遷か指導どちの方ぞ。としても幸琢になる。先々代の溝口矦、隱居後市中にて烟草盆灰吹不潔とて、ずっと立て唾を吐かれた、と。如何さま大名のありそふなことなり。其後は侍臣青竹にて新しき灰吹こしらへて持たせたとなり。某が上総の居は未た大名方の入りてもよい。あれでも大廈高堂に匹歒する。ここは文天祥が歌なり。どの途きっととめることなり。さて々々うるさいことなり。
【語釈】
・伊藤長十郎…
・幸琢…伊佐幸琢。茶人。
・大廈…大きい建物。大楼。

○某か舊疴長雄に見せると親切を云が、いやどふもならぬ。先年山脇君道作吾年を聞て、もはや三十年も過きてはならぬ。今ま動してもどふもならぬと云はれた。どふしても山脇や松井はよかった。材菴嘗云、今の医者が請合た病人か死ぬと赤面する。又、初め断り云た病人かよくなるとじまんするが、皆同罪じゃ。吾か見付ぬと云ものなり。○謂或人曰、足下郡奉行でなくてよい。皆かよくつとまる。曰、皆をしつけ居るのなり。曰、經済はならぬ。今迠の典故を守てすむ。太宰が無為易道はにげるのなり。日頃の覇者に似合はぬ。あそこを神道と出せばよいが、それもわるからふと思ふ。易道の字、可笑しきことなり。
【語釈】
・山脇君道作…

○席上時事の話に因て云、張乖崖、小児の首を切たがあとの風俗の為めと云。以の外なり。當理無私欲と云ことでなければならぬ。私心もあるまいが、あの首がはやってはたまらぬことなり。とかく周防様の手はよい。○幸田子、濱町石原兩先生旧宅の詩、さて々々親切なり。神道もこの塲なり。○仲遷が上總にて助炭へ置き土産とて、冷泉家の田家の月の歌に、いとまなく夜田かる賎も村雲のかかるには月をみるらんと記しをき今にある。此歌、月を賞するの意うすきやうなり。夜田かる賤は月はみぬか、村雲で手もとくらきゆへ月を見ると云ことなり。それよりは賤も折々には我をわすれて月を見ると云なればよいやうなり。此和歌は賤を労したなればよい。○徂徠か鵜の三平を此文に禍する者と云た、と。或人曰、熊耳たまって居る。曰、あれは嚴しいことも和したこともない。小源太が祖父へ何とも云はずに予が文を封してよこした。よい人物なり。南郭もたっとんだと云。
【語釈】
・張乖崖…
・周防様…
・助炭…枠に紙を張って火鉢などの上をおおい、火気を散らさず、火持をよくさせる具。
・鵜の三平…宇野三平。宇鼎。字は士新。小字は三平。号は明霞軒。平安の人。
・熊耳…餘承裕。字は綽子。大内氏。小字は忠太夫。号は熊耳。陸奥の人。唐津侯に仕える。

○仲遷曰、南郭が所へ六十六部か尋て参り、南郭障子明けて出たれば、六部珠數を出して南郭を拜んだと云。南郭何ぞ書てやらふかと云たれば、いやそれには及びませぬ、あなたのことをどの御寺へ参っても南郭様々々々と云ゆへ参った、と。先生曰、あの時分南郭は別なことでありた。近來まてあの処を先生小路とよんだ。そふ有りつらん。南郭あの通り樂易にてどこへも出ぬ。もと出羽矦かの家中で迂齋と同年なり。○竹田松軒、京極矦で迂斎講席の宿をした遽伯玉ゆへ名高い。書はよまぬか人柄よく、迂斎と並んでもよく見へたそふな。某は知人てなし。
【語釈】
・六十六部…
・竹田松軒…丸亀藩士。
・遽伯玉…孔子は衛にいる時、彼の家に居た。論語序説や論語集註にこの記載がある。

○浩軒様猟に出らるるが久しい人欲なり。こふらがへりても起っては危いことなり。大名てあの書物の御世話は會津矦以來なり。儒を家業にするものの通りなり。○実な者は私か出ず、そこて仕ををせる。才力あるものは私が出る。そこでじみ々々となる。つよく、私はよはい。○豊凶共に経済がわるい。必竟穀を金にするからなり。豊年でも奢りたをれ、金が無なると猶をごる。隂虚火動なり。○長藏も昨日酒はそふあるまいが、蕎麦では食指が動いたらふ。○或人云、先輩の取捨云云。曰、あたり馬鹿と見てそんなこと云ぞ。それを聞て來た者か耻なり。某などへ云と種が島なり。某などか前では云はぬ。とかく全いの害は俗になる。却てあらいのはもと々々になるもの。温厚和平な人は高く城府をかまへる。高ぶりの方で一つの異端なり。

○仲遷曰、伊豆侯より周防守へ、京兆尹のとき。何か仰せ遣はされ御差圖ありたれば、周防様、百里隔ては何もとどかぬこと。皆某へ御まかせ下さるべし、と。それで御上にも御安堵となり。○儒者役勤める者は羅山文集見がよし。多く典故を知る。されどももちと有りそふなこと。○會津矦二萬石つけて学校建やうと嘉先生へ議せられたに、先生が師かこざるまい、と。名馬の骨ではない様なれども、学は嚴なり。先生も其後に至り悔まれたと云。○水戸の播磨様領分の者云、ひたちの鮭て三老五更を養ふ、と。其前は鮭を禁して賣らぬとなり。八月ゆへ釋奠ならん。
【語釈】
・伊豆侯…
・名馬の骨…隗より始めよの中の話。戦国策燕策。「昭王曰、寡人將誰朝而可。郭隗先生曰、臣聞古之君人、有以千金求千里馬者。三年不能得。涓人言於君曰、請求之。君遣之。三月得千里馬、馬已死。買其首五百金、反以報君。君大怒曰、所求者生馬、安事死馬而捐五百金。涓人對曰、死馬且買之五百金、況生馬乎。天下必以王爲能市馬、馬今至矣。於是不能期年、千里之馬至者三。今王誠欲致士、先從隗始。隗且見事、況賢於隗者乎、豈遠千里哉」。
・三老五更…中国周代、天子が父兄の礼をもって養った経験豊かな有徳の長老。
・釋奠…孔子を祀る典礼。犠牲・蔬菜を供え、爵を薦めて祭る意。二月・八月の上の丁の日に行う。古代中国では先聖先師の祭礼の総称。

○或曰、足利の学校廃し寺にしたと云。つまらぬことなり。曰、そんなことはすててをくがよい。○加茂川邉もと禹王の像をしたを、今は閻魔とをもふ。此は間違そふなもの。仲遷曰、某上總田中村で赤人の像見たも閻魔なり。先生曰、東士が書に、赤人は上總の山部ではないと云。雪楼などか文、朝鮮人筆談の時分はよい。熊耳など我れを出してわるくなり、今は文明になりたと云から、手紙に近日参ると云ことも佶倔獒牙で達せぬやうに書くことか。はやる日本人、むつかしく書ことはなるがやすらかはならぬ。すらりとしたに妙がある。南郭がやうには誰しも書けぬ。熊耳を人の賞するも、南郭が文を直してくれよなどと云たゆへなり。とふして南郭に及ぶものぞ。
【語釈】
・東士…
・佶倔獒牙…文章が堅苦しく難解で、読みにくいこと。進学解(韓愈)。「沈浸醲郁、含英咀華、作爲文章、其書滿家。上規姚姒、渾渾無涯。周誥殷盤、佶屈聱牙。春秋謹嚴、左氏浮誇。易奇而法、詩正而葩。下逮莊騷、太史所錄。子雲・相如、同工異曲。先生之於文、可謂閎其中而肆其外矣」。

二十四日、五皷より大雨。○新島吉五郎來。先生曰、賢服氏に学ぶよし。曰、然り。始め逸平に学び江戸へ出、上よりも仰付られ服部に学ふなり。先生因て東溪が男窂に入られしこと、尚翁とは大きな違とて笑へり。新島、先生へなにぞ御著述はと問ふ。曰、某し著述なし。それは詩文家のこと。當年の雜記ここにありとて出し示す。開巻に、予今特開講於此詩の一録中小学は云云、大学則講究所以然。所謂行当然之道。更著光彩而已と云を新島難して曰、大学は只光彩を著くと云へば、皆小学ですみて大学は事業にかまはぬや。曰、小学七十而致事とありて一生事あれども、つやは大学にあり。大学事業にかまはぬと云こと、どふ有ふ。新島云、此御文章どふもすめか子る。曰、大抵文は大意を見ればあとは皆すむもの。此一録何もむつかしく商量することに非ず。新島云、そふ仰られてもすまぬ。曰、はてさて杞菊などのことも見玉へ。又特に考槃の詩をぬいて當年の開講にするは貴藩などでは別してすむことなり。文曰、經世地獄か隱者地獄かどちらへ落るの二つなり。新島曰、特開講於此詩と云に大意はあると覚ゆ。曰、然り。考槃を正月開講にするは某か意なり。
【語釈】
・新島吉五郎…新島礼夫。名は幹。治助、吉五郎と称す。浜田藩士。寛政12年(1800)11月8日没。年31。服部栗斎にも学ぶ。稲葉黙斎門下。
・逸平…
・予今特開講於此詩…予今特に講を此の詩に開く。
・大学則講究所以然。所謂行当然之道。更著光彩而已…大学は則ち然る所以を講究す。謂う所の当然を行うの道なり。更に光彩を著くるのみ。
・杞菊…
・考槃…詩経国風衛考槃。

○新島一文を出し棲蠖記と云、一覧を乞ふ。先生曰、某文章のことは知らぬ。賢は作文、文太と商量するや。曰、同門に文を書くものなし。誰に相談するものもなく、自家の適意にまかす。曰、服氏文のこと如何云はるる。曰、善藏一向文を書ず、經学のみ主とす。然し某など書て見すれば喜ばるる。先生曰、文太も文に流るる害はなし。あれで流れらるるものでなし。さて文太はよくなる。もふ段々開く所が見へる。文云、足下作文は何によらるる。曰、八大家の文など見たれども、何れによると云ことなく、又古文切ぬいてするもいやに思ふ。

○新島曰、どふか申しにくき異なことなれども、あの情欲など一ちこまりもの。どれほどの地位に至れば無くなるや。曰、情を断つことはならぬ。節することなり。女房持たせるがよい。田家なとでも見るに、同じ不埒ものどもが中に女房もったやつはまあさわがしくない。敢て問、顔子妻妾なき内は情欲なきや。曰、よい御不審なり。顔子とてもそれを断つとは云はれず。回也不改其樂と云は貧を安んずることなれども、あそこが獨り貧計りてもなく、好色でもその意思なり。凡人は食ものがなくなるとわるさする。これ亦好色とてもそれなり。東坡醜妻悪妾愈空房と云。あれは凡夫のこと。顔子貧ても好色ても胸は同じことなり。顔子には却て女などか戀慕したで有ふ。又なぜ戀慕したとて、つけ届けして呵りもすまい。因て云、何ににかある、むかし老媼か僧を舎し、ためしに女をやりた。彼の僧、枯木寄寒岩三冬無暖氣と云。それを聞て老婆が甘口な坊子ぢゃとて逐出した。顔子白髪の老人でなし。情欲ないと云はれぬが勿れのことなり。好学論、邪僻之心無自生矣と云は克己の験なり。学者も勿れ々々より外はない。誰もここは学はれるゆへ小学に載せり。直方の門、澤一と云目くらが大ふ工夫した。飯一盃もこれは天理、これからは人欲と云へども、根からこれも断つと云ことはない。七情断つと云は佛見。向へ美女が來たとて髑髏と見、冷すことでもない。若い男がたったと云へば善いやうに見へれども、それは入れかへの教がむつかしい。
【語釈】
・回也不改其樂…論語雍也9。「子曰、賢哉、囘也。一箪食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉、囘也」。
・醜妻悪妾愈空房…蘇軾。薄薄酒。「薄薄酒。勝茶湯。麄麄布。勝無裳。醜妻惡妾勝空房」。
・枯木寄寒岩三冬無暖氣…枯木寒岩に寄ること三冬、暖氣無し。
・勿れ…論語顔淵1。「子曰、非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動。顏淵曰、囘雖不敏、請事斯語矣」。近思録為学3好学論にもある。
・澤一…大神沢一。筑前黒田藩士。亡国人。直方門下。迂斎と親しい。貞享元年(1684)~享保10年(1725)

○新島退く。先生曰、善藏社中の振合もみへた。をれに始て逢ふに、大事ないことと思へはこそ、著述の文章のと云。俗学になりた方ぞ。平日そふした振合ゆへ、あの若者も巧言令色出す間がない。○先生、館林矦へ出。○賢姪八藏茶飯肴数品贈る。後先生云。あれは賢等への馳走なり。○浩軒公、矢野倉より編集の書數巻質正をたくせらる。○先生哺時歸る。曰、今日は屋鋪で大勢出たが、君臣之義將行公處より忠臣不仕二君迠讀んだ。よま子ばならぬ。然し、今日をれがのは説たでなく呵ったのぢゃ。○君矦へは、女子十年而不出迠よみた。女功之小者。縫はりなどすることなれども、御歴々の御身分では左様に思召さぬが、會津中將様、横田道益に詩經の講説仰付られ、葛覃の詩、文王の后洗濯なされたことに付き、をらが奧などは教がないとなり。たしか加賀様へか御縁談ありし。御姫様たはむれに縫はりのことなさせられたを、老女が縫はりは下々のすることと止めたを、この通りに教がないと會津様のををせられしなり。こなたにても順善様御碑銘に縫績有倫とある。このことを云た。
【語釈】
・哺時…晡時。申の刻。今の午後四時頃。
・君臣之義將行公處より忠臣不仕二君…小学内篇明倫の君臣之義の部。「禮記曰、將適公所宿齊戒居外寢沐浴。史進象笏書思對命。既服習容觀玉聲乃出」から「王蠋曰、忠臣不事二君、列女不更二夫」まで。
・横田道益…
・葛覃の詩…詩経国風周南葛覃。題辞に「葛覃、后妃之本也。后妃在父母家、則志在於女功之事。躬儉節用、服澣濯之衣、尊敬師傅、則可以歸安父母、化天下以婦道也」とある。葛覃。「葛之覃兮、施于中谷、維葉萋萋、黃鳥于飛、集于灌木、其鳴喈喈。葛之覃兮、施于中谷、維葉莫莫、是刈是濩、爲絺爲綌、服之無斁、言告師氏、言告言歸、薄汙我私、薄澣我衣、害澣害否、歸寧父母」。
・順善様…

○君臣之義の君祭先飯を、たとへば今日ても用人と隱者なとが連立て君門を通るに足軽が下坐をするを、連れの隱者は辞冝請けせぬことと云たが、主水はすむ底なり。此比は長藏などが兎角うっかとして總体うつらぬ。をれが処に隨身のときと違ふ。山林使人傲、朝市使人昏と、大名の館も山林も同ことなはづなれども、官となると志を奪はれると見へる。今日のたとへも先日じかにありたことなり。京極の門を仲遷とつれ立てとをる。門番下坐す。某はかまはぬ。
【語釈】
・君祭先飯…小学内篇明倫。「侍食於君、君祭先飯」。
・山林使人傲、朝市使人昏…

二十五日、瀧川君小右衛門使浅野輔助來。瀧川の手翰にて肴代を投じ三先生生卒を問はれ、一つ夕、太極圖説の講説を乞はる。即ち書してあたへり。
  淺見先生 正德辛亥十二月朔卒。年六十。
  剛齋先生 元禄三年正月五日生。宝暦戌子二月四日卒。年七十九。
  永井先生 元禄二年生。元文五年庚申七月二十八日卒。
先生謂淺野曰、このやうな親切なこと、これ迠人の問ふたことなし。御奇特千万なり。さて一夕講釋のことはとふもまいられぬ故、先年の講義あり。これを追て御覧に入へし。御目録は拜受致し難し。近年門人より謝禮の目録皆受け子ば其間もなく、某が規矩くづし難し。この訳冝しく反命し玉へ。先生顧文曰、今度の旅中古体なことは、この生卒の問と遊佐か油紙包みの肴と二つきりなり。曰、いかさま実につくことなり。
【語釈】
・瀧川君小右衛門…瀧川惟一。幸田誠之門下。
・正德辛亥…正徳元年。1711年。この年は辛亥ではなく、辛卯。
・元禄三年…1690年。
・宝暦戌子…1768年。宝暦ではなく、明和。明和5年。
・永井先生…永井隠求。三右衛門。1689~1740
・元禄二年…1689年。
・元文五年庚申…1740年

○淺野、浅見先生の事蹟を問ふ。曰、先生仕宦せられしことなし。事蹟のない処が即ち事蹟なり。又問、剛斎先生のこと如何。曰、先生の父を野田弥左衛門と申したか、御材木奉行勤められ、故ありて放逐せらる。そこで先生は浪人なり。御法事のたひ、度々上野へ願せられたは、先師のかなはぬことは知れども、父の命有りしゆへなり。晩年の子忠藏、田安様へ出仕し間なく早世す。先生の宅石□□田安の御物頭島村惣左衛門殿は先生借宅の地主なり。又問、永井先生の事如何。曰、今に二男無事なり。増山河内矦、櫻田の邸にあり。澄二郎と云。幼なる時は幸田子に居て、あのやしきの祐に出つ。今は元しめなり。又、石原先生の墓誌は即澄次郎が書けり。あれにて先生父祖の姓名も大凡そ知るる。

○瀧川公へ、幸田先生語録幸ここあり、此を御覧に入べし。この録返さるるとき、幸田の墓誌銘拜借下さるやうに傳致し玉へ。○淺野曰、先生重て御出府あるや。曰、館林の御とりあつかい丁寧、浪人の勝手にもよいが、いやもふ老人江戸はせつないにこまる。よしや是れ迠勤めても此年にはにげべきに、どふして歴々の応接は出來ぬ。あたま下ければ頸骨いたみ腰いたむにこまるなり。上總へ引込んではあたま下るは御鷹匠ばかりなり。それもめったに我々身にはあることでなし。又兼子てよりいつれへも家來には出ぬは前方からの意なり。仕宦などは中年より某合点せぬ。其中土井様は父母の國なり。きついこと云ても、あそこからたたられ捉へて直きに縛られるともあち次第、違背ならず。こわいものはかなた計なり。館林の邸ではとかく度々出よとのこと。來年など一寸又出まいものでもないとも申すものの、どふして如此をとろへて、もふ役にたたぬ。

○幸田佐太郎殿学問御きらいか。曰、然り。曰、とかく学者は累世つつかぬもの。今小普請ならん。曰、然り。どらけはなきか。曰、然り。曽てそれはなし。曰、水原摂津の守様は不幸せられたときく。御縁家つづきなれば、御あとも出合あるへし。さて、足下は学問せらるると見ゆ。曰、某生國は備中にて、家兄は西山柮斎に学ぶ。曰、某去年拙斎の芝彦君へ呈した一文を見たが、たくましい文で力ありと見ゆ。年來は如何ん。曰、五十七八才なり。某も折々講書を聞けり。曰、拙齋は誰に学ふや。近來は多く師を云はぬもの多し。拙斎はどふぞ。曰、魯堂先生に学べり。曰、然らば那波主膳かなり。あれは阿波へ出たときく。道圓が子孫にて惺窩の弟子筋なり。それとも足下の云はるる魯堂とは違ふならん。金溪語彔に出てある魯堂と云ふあり。朝鮮人などに筆談したが、筆談するものには多く見処はないものなり。曰、拙斎京へは年々出らるるなり。阿波矦より召さるるが出られぬ。又、外矦家よりも年々召さるるが、臭いもののやふに迯らるる。曰、今方々で文章が望みでも文者はない。拙斎は文がよい。それも有ふ。農家なるや。曰、備前領の人にてもと大戸なりしが、始め医を学ひ、それをすてて二十の時より專ら経学し、それで身帯なくしたれども、今は拙斎食さいすればよいと云て居らるる。芝美藤下地懇意ゆへいろ々々不審を正さるる。拙斎因て云、いらざる椽の下の力ら持で疝氣が起りた、と。先生笑曰、それは拙斎があの衆の出処を云た口上ぞ。さてあの文は大抵栗山がやうなもの。拙斎は總髪か。曰、然り。総髪て上下を着らるる。あの石介ゆへ、あの邉往来の役人も敬礼す。
【語釈】
・西山柮斎…西山拙斎。江戸中期の儒学者。名は正。備中の人。岡白駒・那波魯堂に学び、初め徂徠学を、のち朱子学を奉じ、柴野栗山に異学の禁を勧告。1735~1798
・芝彦…
・魯堂先生…那波魯堂。江戸中期の儒学者。活所の後裔。姫路の人。京都の岡白駒に漢魏の古学を学び、後に朱子学を信奉。晩年は徳島藩の儒官。1727~1789
・道圓…
・下地…
・栗山…柴野栗山。江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一。名は邦彦。高松の人。江戸で林氏に学び、昌平黌教官となり異学の禁を建議。1736~1807
・石介…

○拙齋か談に因て云、皆か出ても朱子のやうに理屈を云て去らるることと思はふが、別して今 公儀へ出て去ると云ことはない事体なり。ここに吟味のあることなり。○銀藏發明の一剳子を文に質す。先生曰、賢云へ、發明よいは讀書録自省録なり。居業録からはもふよくない。黙識録でもまていなことなり。それで思ふてみよ。銀藏か入らざる發明など書ふより、文義を丁寧に見よと告げよ。○浩軒様再び数十巻の御編書をつかはされ、中にはこれは御披見に及はず、こんなものもあると云のみ、と。先生略々電覧し批して返上す。因て云、唐の世にて君の微指を知ると云ことあり。こんあものもあると云玉ふとも、みれば君はよろこはるる。古今大抵そんなものなり。文曰、史に淳于髠色を見ると云ことあり。曰、似たことぞ。府仰をみると云こともあり、かしこいものは目端きくで加増にもなる。文曰、よい方にもなる。曰、なるほど親にもある。今日上野へ参じますと云に、親かあちに行て來いと云ときもあり、又歸りに香煎買て來いと云は機嫌よいときなり。
【語釈】
・淳于髠色を見る…

○荻田に云、御幼君、化け物咄こわかるや。曰、左にあらず。雷や地震にてもそふなし。先日羅漢寺へ出られた節など、茶店見ぐるしく上より虫や煤にても落そふな処て辨当いたされたれども、忌まるる底もなく、それより洲﨑邉水茶屋で休まれても左様なり。曰、それはよいことなり。御病なきとみゆ。○治て教と云。火事後などは講釈も遠慮あるべきこと。毎々云、經済はにくまるるはよいか、あなどられてははやそれて御仕舞なり。今日惣出仕の講談、無簾の中より望まるることに聞ゆれは、これ迠何もかも辞して又この挙迠も御断りならぬ故、大きな声て一と趣向説た。文問、如何説玉ふや。曰、三綱より説き起したが、今日のは某今度の講中一ちよい。敢問、あらましても其端し承りたきことなり。曰、皆忘れて仕舞ふた。長藏なとか筆記するやうすなれども、久しく筆を立ぬゆへ録し得まじ。これから又廿七日には註をぬいて立教迠讀仕舞つもりなり。註を主意あって讀まぬに非ず。一篇果さぬ故なり。

○仲遷鈴木狂次郎來。狂郎萬福を叙し、情話に及ひ、一昨年清見寺中に寓居せしと云に因て先生彼の地のことを問へり。曰、あの処に琉球人の墓などありて、麓より四町登りて山居す。仲遷云、山上獨居か。曰、然り。曰、當時こわくは思はれずや。曰、左もなし。先生曰、昨日も山林使人傲、朝市使人昏と云き。そなたの山林をごるは詩才からなり。仲遷因に云、朱子、薗雖好心即荒、と。先生曰、あの事実を人が多くとりちがへる。劉氏か南渡の時から忠を盡し續て忠臣なり。劉氏二子の中、葦斎が子羽に身帯かこと頼み、屏山に朱子の学問のこと托された。それゆへ朱子の親類のやうになり、後朱子の共甫平甫を世話された。あの薗好しと云は傳はりた屏山のやしきなり。平甫がぬるけて下屋鋪の庭にかかりていたとみへる。そふなくとも名高き庭てほめたゆへ、それで云たことなり。又、劉白水の娘を貰ふたは別なり。このやうなことまで知るが分外の味なり。朱子のことに付たことは、これまでを知るが殊勝なり。因曰、元政が身延で今宵はここに宿し、祖師の御歯もありいととうとし、と。あんなこと殊勝なことなり。
【語釈】
・薗雖好心即荒…薗好しと雖も心即ち荒る。
・共甫平甫…
・劉白水…
・元政…江戸前期の日蓮宗の学僧。石井氏。彦根藩主井伊直孝に仕え、致仕後、京都深草に隠棲、深草上人と称され、堅く律を守る。殊に国学に長じ、和歌・茶を好み、また、熊沢蕃山・陳元贇と親交があった。1623~1668

○狂郎今遠州松島に居るが、あちらに今老荘学と駿臺の学が行はれる。先生曰、專ら行はるるか。曰、はやると云ほどにはなし。曰、はやらずとても今それは珎しきことぞ。そなたの居る処松島とて名はよいが、何とこたへん言の葉もなしほとにはあるまい。○奥平幸二郎、桑名の歸りに狂郎逢はぬと云に因て、学者がよく友を問ふ。よいことなれども、朱子の南軒を問ふも益を得るからなり。それなくは無用なり。○京儒の髪は別で、あれがほんのこと。深藏殿、あたまがよく訂翁に似られき。

○或曰、金溪が尚翁ばけ物屋鋪のことをそしる。曰、あれは東崖を誉てのこと。翁は錢がなかったゆへなるべし。翁がりきまるるゆへ、鬼怪をも好むやうに人が思ふ。此方に招く所なきにも非ず。迂斎が松飾り立てぬことを圓斎しかる。某しなんのことなく、家君ふせふゆへ斯ふぢゃと云ふたれは笑ふた。○三宅先生、迂斎を携へ花見のとき、先生の氈の端しを町人がふと草履で蹈みたを先生大に怒り、屎草履を以て不届け千萬な、と。迂齋も傍で氣の毒に思ひしとなり。とふしても知惠はない方なり。又、先生馬士などをぶて々々と云はれた。理にそむいたから。一つに義氣か出る。如何さま馬士もわるからふが、天地の間、理にそむきだらけなり。楊墨からして打擲せ子ばならぬ。○幸田子云、絅斎は山﨑先生の皮肉を得、尚斎は皮膚を得、直方は骨髓を得た、と。あの徒腹を立そふなこと。論が出來やう。○四十六士の論も多田先生かいつも迂斎や石原の縁から。尚翁の説をふるふた沙汰なし。つまり江戸へ來てやりつけられたのなり。直方の説を多田呵もせす、只ほめて居る。館林に学者は出来ぬはつなり。
【語釈】
・金溪…
・東崖…伊藤東涯。江戸中期の儒学者。仁斎の長子。1670~1736

○日原云、先生四十六士のこと御雜記中に散在す。面白ことなり。詳、日原録。○仲遷曰、古今かはらぬものは淫奔なり。曰、夫婦之間人醜之者以淫欲也は五峯の語なり。某對句あり。君臣之間人醜之者以有俸禄也、と。昨日もこの筋を説きぬ。○仲遷云、狂叔が去年見せた詩など杜子美再來なり。文曰、詩も平灰や韻のあるて縛られ、律なども對で即興には出來ぬが、狂君は直きに出來るならん。曰、平灰はとなへると自然と音声にあり、對は興にあるそふにござる。先生曰、詩でも君子になられるが、其慇懃を云か役にたたぬ。そふにごさりますと云がわるい。をらは皆俗儒と思ふ。道理を云ふに慇懃は云はぬ。そふにごさるとは云す。そなたは皆を詩が下手と思ふて居ながら、そんなこと云がわるい。金を金と云ふに金そふなと云に及はぬ。はっきと云がよい。
【語釈】
・五峯…胡五峰。胡宏。宋の建寧祟安(福建省)の人。字は仁仲。胡安国の末子。五峰先生と称せられる。~1155
・平灰…平仄。

○孫兵衛酒肴を携へ一男を見へしむ。○孫兵衛殿も貴さま文字はなかった。やはり旧との所を樂むがよい。曰、先生のは前の説と違ふたやうなこともあり、今夕よる所もなければすめにくい。曰、十人が皆至當に歸すと云ことはないもの。朱子出會ふ者にそれ々々せらるる。○昨日久五郎殿にて表の講釈に君臣の義を説たが、をらなどはわるいなり。説くでなく呵るぢゃ。伊川の范純夫すすめたは尤なり。温公わるくきいて、いやの方て官路升進のすぢあると云れたが、伊川はそふでない。純夫温厚からなり。温厚でなければ人主開導ならぬと、そこで同役にしたいとなり。
【語釈】
・范純夫…范淳夫。名祖禹。程門高弟。

○孫兵衛そなたは親切なり。三左衛門病気の時鯉を食たかるを、をらなどが未だならぬ々々々と云ふたを、他人根性なれば某をはばかるへきに、いや大事あるまいと鯉ををくる。ここは實子の心なり。あの時某か参ったに、彼の鯉へ亀の子笊を冠せて某に隱した。あとてきけは黙斎とめるとやかましい、と。翌日見舞たれは三曰、鯉をくふたれは全快したと云た。貴様のかへりみぬ処は却て厚いことなり。嵯峨云、某がこの児に三左衛門様鎗を遺物に賜はれり。○三左衛門嘗言ふ、孫兵衛は厚きものぢゃ。先日茅塲町で合ふたとき、某に最一へん藥師の植木見よとてだまして樂庵へ連れて行た。某この咄をききいかふ感心して、いかさま老を養ふはそふじゃと、それからして印つぶるるほとの吝い某が貴様に感し、長藏に南鐐一片わたし三翁を凉に中津へやりたことあり。
【語釈】
・南鐐…銀の異称。江戸時代の貨幣で、二朱判銀のこと。

○髙須、宇津木氏を携へ來る。宇津木和平二、雅樂矦の臣。○先生因に云、活字板など益なし。段々経てみるに、つまり功德なきの筋そ。○先生曰、髙須よはりたやふなり。もと讀書かいないゆへなり。節要でわるくしたのそ。あんなものまつ見ぬもの。今は節要からが人ぞよめきぞ。髙須曰、兎角いそがしし。曰、事につくからぞ。○嵯峨退て後曰、三翁が鎗をやったはつまらぬ。知見ないからなり。三翁は迂斎の講釈を云ふ段には幸田ほどにもゆくが、あとが何もない。あのむすこにも書物ゆづればまだなり、鎗は何ことそ。昔し人親切の意からなり。むかしの者は馬鹿の筋ある。

○文七そう太のこと云云。史を暗記して云。先生曰、善太郎殿の再來、をほべはよい。○文七曰、在物為理處物為義、理を内、義も内にしてある。先生曰、惣体葉解わるいこと多くはないが、どこもさへぬ。山﨑先生ぬいたゆへ、然らばわるい処見出そふとする。そふではない。向ふのをわけをつけよいにして置て、何ぞの所で首を切る。文曰、葉解あの一條よし。文七見やうのわるいなり。○髙須太極圖解を挙て云云。先生曰、不雜は太極を主に云。不離は隂陽を主にして云。そふ分けてなけれどそふなり。○因に云、先輩文義聞たことなし。又不審をわざとこしらへることなし。○日原ををちゃくものなり。幸田が傳ぞ。其中貧が第一の道統なり。
【語釈】
・そう太后…
・善太郎…幸田誠之。晩に精義と改める。字は子善。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。寛政4年(1792)2月9日没。年73。私諡は穆靖。野田剛斎門下。
・在物為理處物為義…物に在るを理と為し、物を處すを義と為す?
・葉解…葉仲圭の近思録集解。

○或人孟子序の談に及ぶ。先生曰、仲尼只説一箇志は孟子の養氣から對して云ことなり。孔子は氣の帥を説たこと。志ぎりなり。孔子は志が主、孟子は體のみつると云ふ。養氣を発したが孔子の仰られぬ処を發したものぞ。○道春と南光房と殿中で争ひ、道春せいたと云。あれは好事者の偽作ならん。とちもそれ者なり。○道春が天教変而為異学と云へり。あの時ありたそふな。道之大原出于天の筋に云ふとみへた。羅山はそれに出合ふたこと、問答文集にあり。或曰、切支丹のこと五雜俎にあるが和本にはぬいたは、制禁でいむこと故ぬいたるや。○文七曰、五雜俎、化けもの。氣が主ゆへああなり。朱書抄略道体の鬼神なとも氣か主なり。曰、然り。神道もあの氣からなり。
【語釈】
・仲尼只説一箇志…孟子序説。「程子又曰、孟子有功於聖門、不可勝言。仲尼只說一箇仁字、孟子開口便說仁義。仲尼只說一箇志、孟子便說許多養氣出來。只此二字、其功甚多」。
・道春…林羅山。
・南光房…南光房天海和尚。諡号は慈眼大師。天台宗の僧。会津の人。1536~1643
・天教変而為異学…天教変じて異学と為す?
・道之大原出于天…漢書董仲舒伝。「道之大原出於天。天不變、道亦不變」。

○西村惣五郎來。保科矦の臣。先生曰、貴様も某が名を久しく聞たならん。名を聞たも御損、今日御出は猶御損なり。西村曰、某などどふぞ益になること承りたし。弓五郎も近日謁見いたしたしと願ふてをる。曰、弓五郎父は迂斎阿波公へ応接のかかりなり。○をらなとが言ことはわるい根かないから、定てこの鼻がとは出られぬ。されども考にもならふこともあらふ。○吉五郎が文のことに因て西村云、ずるい家風で世間のやうに文が一大事になる。林家のやうなり。曰、あれがよい。呵るはわるい。彼の藩でも文章の意ではあるまい。文章の力から文義もすむ。韓退之なり。文をやめさせるとあとはなにもないもの。大抵文のすきと云のも書けるからなり。○或曰、某れの学、丸に鳩巣なり。山﨑先生とは合はぬ。どふしたものぞ。曰、あれでよい。鳩巣わるいことないなり。吾黨を立るもよいやうで、なまなかではやくにたたぬ。
【語釈】
・西村惣五郎…
・弓五郎…集堂弓五郎。号は大嶼。阿波の人。

○西村云、どふぞ益になること承りたし。曰、語類に門人多く病を出してある。あれて我が手に療治するがよし。兎角書は熟でよい。茶湯もひたと往來するてあがる。あの講釈するで新意を來すもの。力らのない武井三左衛門でも熟がひどい。某など熟がない。幸田の学も熟なり。幸田語彔ここにもあるが、あの詩でも魂違ふ。某など豪傑ではなくどふらく。それで某に合ふでは、わざわいは取るとも益にはならぬ。さて上下きて敬礼し來訪すること昔からあること。貴様なども上下で益になるとは思ふまい。西村曰、何とそ某など心得になること承りたし。曰、心得は俗をはなれることなり。儒者役は文字訓詁もすまぬと言はけたたぬと云やうなことあり。それては俗は脱せられぬ。学と云は儒者役のことてはなし。但まあ何も大抵でよい。あせりてもゆかぬ。兎角名利之關ぬけ子ばいかぬ。あらき底の垩賢と云はないが、学者はそげものがよい。そげものと云ふ稽古はないが、いろ々々とせずにいけばそげものなり。手がこまずとよい。わるい料理がいろ々々六ヶしくする。剛毅木訥はそげもの。目の付処に大事があり、漆彫開は我む子のこと、他人の手にあらず。とかく不発憤ばなり。西村又云、某など一隅も開てかへすことならず。徇々を希ふ。曰、御とり立と云やうなことは学校のことなり。某講釈やめて居たが、去年桑名の学者が來たゆへ讀たは老婆親切。それから又よまぬ。當年は江戸へ出るほどの騒きゆへ、上総の老人どもへ云わけのため玉講附彔をよめども、朱説のそなわりたもの、何も發明もない。さて又某は直方の通りのこと。直方の書ですむ。善藏も行藏が弟子なれば、これも其通りならん。すれば某に聞くに及はぬ。それはをそいこと。やはり善藏に聞かよい。直方と三宅の門下諸先生方のをる内はりちぎなり。某も其法を以て教の目はかたい。迂斎の通りなり。人品はとうらくで先輩のを尊ぶは律義なり。なにことも先輩へ渡す。
【語釈】
・漆彫開…漆雕開の誤り。
・徇々…恂恂?謹んでの意?

○小松原十太郎來曰、親ども冝しく申上る。曰、大人に只った一度いづみ町で御目にかかった。大ふ御病身そふな。わるいことなり。足下はいくつになるや。曰、三十なり。宅は何方なるや。曰、日本橋青物甼に居る。足下文を書るるや。曰、文は軽視す。曰、それがよい。文も力あれは出來る。すっと出るが妙あるもの。小松原云、善藏も文は教へぬ。曰、それほどよいことはなし。社中にも御ふり合と云ふ筋あり。文は教へぬと云はるるが、学者たち、すればこそなり。足下は君子の忠厚の心からぢゃ、解嘲に及ばぬこと。古人のことさへ千載の後から知れば、今日のことは猶更なり。直方門下にはあたまで文なとと云ふことはなし。
【語釈】
・小松原十太郎…小松原十太夫?館林藩の臣。

○小市は人を呵るか、実心なは幸藏なり。あれは道をふるふの実心ありた。小市は又幸藏よりらいがあり、そこで幸藏は直きに腹を立たが小市はそふもない。行藏四十九で死だ。久く交りもせぬか、心底には親みあり、小一は一生をれをにくんだ。あれも今きくと違てよい人品なり。幸田が何にあいらがと云ても、兎角つまり小市と行藏と云。それたけの矩摸あるゆへなり。小市名利之關ぬけられぬと云た。利は名に付た利なり。されとも名利計りと云ことにあらず。とふしても我々以下は一味加へた。朱子、隱者も名を好むとて陶淵明がことを云はれた。訂翁、小市がりきむを笑へり。暈酒山門の類、たたかたでする。さて公冶長題下、古今人物賢否得失を論すと云。窮理ゆへなり。某は存の外平らなれども、幸田はのこらず何あれがと云てとらぬ方なり。朱子は皆そふをふにあしらはれた。唐彦明か人を論するに善悪分明と云へり。あそこを云ふが己が為めなり。ひいきしてはない筈。人の是非云はわるい。小市など客氣でも、道を任ずるゆへまだよし。某も今度言てなをすこともあれど、任ぜずに人を論するはわるい。地獄へ落るなり。○とかく人がない。孟子の時も世に人なし。とかく手前の掃除の上のこと。
【語釈】
・暈酒山門…「不許葷酒入山門」。禅寺の門の脇の戒壇石に刻まれる句。
・古今人物賢否得失を論す…論語公冶長題下。「此篇皆論古今人物賢否得失、蓋格物窮理之一端也」。

○小松原氏、先生雜記を拜借希ふと云。曰、隱しはせぬが、手前一箇の見取なり。幸田も我が書くことをわるく云はれた。よいことありて又出しても人がのらぬ。某が雜記當今のことははばかる。議論の端にはならぬ。自ら激発は平生のことなれとも、これは人のかまいにならぬこと。すててをくがよい。○我を是とするは女か鏡を出して諏てよいと思ふてをるやふなり。外からはそふは思ぬなり。巧言令色鮮矣仁は、聖人の詞不迫切と云へとも、意は迫切なり。あれは人の腹を拔く語できわどい。不迫切とは鮮の字のことなり。垩人丸くはない。無教則近禽獸は却てやはらかに云がよい。これは十露盤を置て云ことなり。三宅先生、木曽の人足を見て無教則近禽獸と云はれた。靣白ことなり。木曽の人足は東海道の人足よりは質朴にていかふよけれども教がない。ただのみくふばかりと云ふことなり。又、禽獣之行我豈為哉はここと語意が違ふ。あれはりきむ口上、これは道心のすくないが、さし引けば禽獣と云ことなり。
【語釈】
・巧言令色鮮矣仁…論語学而3。「子曰、巧言令色、鮮矣仁」。
・聖人の詞不迫切…論語学而3集註。「聖人辭不迫切、專言鮮、則絕無可知。學者所當深戒也」。
・無教則近禽獸…孟子滕文公章句上4。「人之有道也、飽食、煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸」。
・禽獣之行我豈為哉…

○謂小松原曰、大人御病身で銭ないそふな。学者は貧もよい。必ずそれを通すかよいなり。行藏か弟子、その筈のこと。某しか放蕩にて堺町などに居た。つまらなんだが、大人は不苟人と皆々か云ふか、どふしてか某いつみ町に居たとき大人が見へたが、あの時の雪駄のこと覚へて居らるるや。あんなことは却て忘れぬもの。大人かうや々々しく行藏申ますと口上云はるるゆへ、いや市井はとかくはきものかなくなる、左様な御あいさつよりまつ雪駄を仕まへと云内に、はや雪駄盗まれた。此雪駄の損、今にうまるまい。をかしき咄なり。

○迂斎文集與誰々と云文はまだよけれとも、其外の文はつまらぬ。岡田君、迂斎のは詩もわるし、手跡もわるいから掛物にされぬ、と。尤なり。石原先生は重左殿、手は大ふけたかいと云れた。○小松原問、鳩巣の学如何。曰、あの通りのことなり。曰、先生取らるるや。曰、議論には少しはある。小松原云、吾黨とは違ふやうなり。曰、あんなはああなものなり。惣体が朱子などのやうに備るはきれはなれがわるい。吾黨では尚斎先生が揃ふた。小松原曰、本尊が違ふやうなり。曰、そこは違へども、云立てはわるい。さて鳩巣など古風なこと。朱書をも語類文集の本書てはあまり見ぬときこへる。三大全の学なり。薛文靖もそれと見へる。鳩巣の書中、語類に曰くとも文集誰に荅る書に何々と云こともとんとない。多くは大全から引て云。圖述などかそれなり。惕斎が書、某姫かかみの外は見ぬが、四書の筆記なども國字ではあるまい。あれも道体性命などのやうな処はよいかなり。さて眞西山、大学衍義をして言わけに心經附註。丘瓊山、衍義補計りてはをさまらぬゆへ、これ亦学的と云説がるか、丘瓊山へは當れども、眞西山はそふもない。あの説は一時の矯激なり。唐嵜が論か唐﨑でなくは三宅文助ならん。丘瓊山学的とも出そふなこと。事ばかりで又所々をかしいこともあり、少しはあり内なり。精微々々と云ふか、見処ないと却て人に疵かつく。それからは朱子へも疑を云ふ。鳩巣の門人深藏殿か朱子迠疵を付けてそしる。
【語釈】
・惕斎…
・三宅文助…

○議論の上、人の非を云もこの方に私なくはよい。意趣があると非にはやけがつく。後藤松軒は埀加にと云はれたが腹立て、一生闇斎の書を手にとらぬと云。大髙坂が傳の中に老人とあるはこれなるへし。○因に云、朝鮮人と筆談したがり朝鮮人にほめられ喜しかるが、必竟朝鮮人に馬鹿にされる。○遊佐次郎右衛門か闇斎に見へんとするを米川義兵衛が合ふなと云もきこへぬ。たとひ闇斎大不德ても、一度見てわるくなるものでない。必竟忌むのなり。それで無学の者は闇斎をはにくまぬ。学者ばかりにくむ。訂翁や幸田をそしるもそれなり。○惣五郎曰、又御目にかかりたし。曰、あふて役にたたぬ。何ぞ書を讀むべし。某に逢ふて段々非を見る迠なり。
【語釈】
・後藤松軒…
・大髙坂…

○昨日の講釈無簾の中や水々とした御方へ疾言遽色も出されず、然し巧言令色もそふ々々は持もたぬ。それから御家中の諸士へはそこが出た。君臣之義大きな声てよみたがないたての講釈、人も感じそふなもの。恭節云、書院の外などに居るもの聞ものもあり、一同大に悚動して感じたるよし。笑曰、講釈上手と云藝なり。○迂斎が官兵衛に文をちと見てくれい迚直してもろふに、官兵衛へへへんと笑て少し直すとよくなった。唐﨑は詩も文もよいが、迂斎直してもらふに、段々添削して後は迂斎の文がなくなった。迂斎もあまりゆへ機嫌よくなかった。太兵衛が歳旦の詩を文次が直したに、これも段々直して太兵衛が詩は梅と云字ばかり殘りた。これ、正直のり。
【語釈】
・太兵衛…北田慶年。太兵衛、榮二と称す。東金市福俵の人。学思斎の主。

○日原云、王欽若が陛下は寇準が孤也。孤は一六ものと云ことなり。先生曰、それはよい弁なり。眞宗出しぬかれてあぶない処へやられた。あそこか一つ違ふと一大事なり。○覇者も一人と云になると退一歩なり。○榛檜英才ゆへ游氏も食ふた。蔡京など大悪人なり。○先生語小松原曰、大人は先年とれへ出られたるや。牧野矦へも出られたそふな。曰、あれへは行藏に従て出た計りなり。酒井矦なとへも仕へたことあり。曰、往く所の者あはずなるへし。実に行藏かかたを守りてくづさぬならん。重畳なり。邵子の孟子は易の用を得たと云ふ心は老荘のやうなれともそふてない。さて大人は語類に精密と奥平幸二郎語りき。曰、孤陋にて只行藏が学を守るのみ。又、このほど病氣にて書もとくと見ずに居る。曰、保養にかかること然るべし。氣につけども却てそれが高いは、それで精神を動かさぬ。いかさま大人の師学をくづさぬと云は十分の志なり。さて行藏が某にあへと云ふたも、某和泉町に居る時そろ々々放埓もやみたか、俗物も雜類も來り、只外にわるいことよりも酒盛に長した。それを見るに又外の評をもきき、行藏へ拙者は交るまいと云れた。尤なり。
【語釈】
・王欽若…北宋の政治家。字は定国、諡は文穆。962~1025
・寇準…北宋の宰相。字は平仲。諡は忠愍。華州下邽の人。961~1023
・一六…強盗?人質?
・眞宗…北宋の第三代皇帝。諱は徳昌。968~1022
・榛檜…
・游氏…
・蔡京…北宋の政治家。徽宗朝の宰相。1047~1126

○石原先生の墓へ行こと如何せふと思ふ。死でもこわいは先生なり。文曰、心に跡てのこる思召あらは行るるか然らん。曰、鬼神は行ても感せず行かぬとても來る。悲みは墓、誠敬は神主にあり。迂齋の筆跡元日などかけて見るにそふなり。○或曰、内海力らなし。幸田先生こまりた。克己の筆記疝氣の毒と云き。○某上京のとき訂翁て毎々のむを、肴もないによふ上られて辱、と。古風な口上なり。翁貧なれども樽を立て置れ、翁曰、又なくなると御がよこすてや、と。さて内海氏のりきむはよく桺下惠を學ふの筋。然し小市がうつたりたも知れぬ。訂翁葬の日、足下のそふして居らるるが小市に似たとたれやら云たを腹立しよし。去れとも似たから云たるべし。
【語釈】
・内海…内海自聵齋。名は邦佐。字は子保。木工と称す。丹後田辺藩士。天保1年(1830)8月没。年73。久米訂斎門下。

○某蠏には一度か合ふた。あの頃皆学者が黙斎をわるく云の外はなかったが、蠏ばかりは某そふ存ぜぬと云たと宗伯か語りき。藤兵衛なども某が放蕩する中、いやとととふらくにはならぬと思ふて居たそふな。知己の友なり。○先生謂狂二郎曰、とかく女房をもて。妾と云はばをごりの筋にならふ。某女房を早くもてと云は子が入用なり。其上又貴殿が今心を動すは好色であらふ。若し拙者それに心を動かさぬと云へば孔子がたたぬ。このこと父兄に相談なくともよし。子が出来て生計にこまらば某が処へ申し越すべし。よく計るべし。ちと女子にはこまるがとふともなるべし。さて田家は農工商ともに淫乱が多し。そこ計りが大切ぞ。まあ孔明が醜婦の心得の方もよからふ。○幸田君押入の棚へが這ふて出た。又、野田辰之助の書籍の中に芝居の番付のあるを石墨平二太雄辨にて、番付も書物なり。またよし。折々は猪口にひしをもあると嘲る。二人つまり老子風なり。
【語釈】
・藤兵衛…
・野田辰之助…
・石墨平二…石黒尚蔵。平次太と称す。唐津藩の臣。野田剛齋にも学ぶ。稲葉黙斎門下。

○小松原曰、親が上総へ参りたいと云。曰、それは决してあしし。小松原曰、行藏が跡をゆつられたが、只今は善藏とも合はぬ。因て筆記の正しうける処もなし。曰、行藏が道統そふな。苟も枉けぬと聞く。然らは却て某とも合ふまい。又大ふ貧でも門風を守らるるは強人意と云へし。偖、某交り淺く言深きの罪を犯せども、行藏門なれば某影で云ことを隱すはわるし。因て申ふが、大人は偏屈そふな。賓師でなければ出られぬと聞く。某などはよろしからずと思ふ。心さへ高尚ならば。事の上は高尚はわるい。此方から求めすに向からのことなり。御病身そふなが、向から賓師と云なら却て出ぬ方が然らん。賓師は入らぬこと。養のためかよからふ。出處は出たも道理、又行はれぬとて去も道理なり。されども行はれぬと云て去るも、出ぬ前から見へたこと。然れは知見ないに落る。そふないやうに始にぎんみすることなり。兎角にげる方は髙い。始めに賓師ときめるはあしし。孟子もそれで、君臣之義略定と或問にあるもそこなり。初手よく賓師と断って出て何をすることぞ。鳩巣のあなどられるかわるいと云が面白こと。わるくすると家中がさあ賓師殿御出やったなどと云。家中十人とはかたまって信せぬもの。其中五人は多舌を出す。賓師だぞ々々々々と云たがる。大名の家中のこと某よく知ている。絅斎の出ぬが髙いことぞ。尚翁も土佐をすっと去る。なせなれば、看取りもないのに二服盛るになるなり。その時に臨んでは殺すか活すか二つ。一つあしらいわるくてもると云ふかよい。そこは力らありてのことなり。中井善太が政事なら執ふか講官はせぬと云たと傳聞す。いよ々々ほんならは、これはをかしきことなり。講官は伊川もされた。三公の代りになるぞ。ここは妙なり。今新参の者が十万石の政でも執れは乱になる。直きに家老にしては人が服さぬ。されば後はならふ。そこが略定るなり。大人は王道を全ふせうとして苟もせぬ。尚翁より行藏まて苟もせず。それなれば賓師と云ふ覚悟はわるからふ。ただ禄士よし。これ迠は賓師、これからは御鼻ヶと云になるなり。けれども向からそふ云ふのを賓師ならいやと云ふのもわるい。

○先生労疲して云、なれた溝口のものかよい。廉破が趙人を使ふと云た。或曰、いかさま大勢の応接御面倒ならん。曰、上下で貴様などからしてそふせめかける。○傳心録へ引た答問の語は、李延平も朱子のを合点せぬとみへる。必有事の語、朱子のは器用な取りまはし。あとの句は入ぬと云なるへし。○某一六の會で多く口をきいて、後會迠客を絶ち無言なることこれまて三四度あり。二日ほど口きかぬことは月に多し。さて今出府、この大勢の出合、毒にも藥にもなるまい。仲遷云、年中多事も毒ならん。又、あまりひまもあしからん。○謂宗家八藏曰、先日のぼらも昏礼かなんぞのやうな進物てわるい。大根に胡麻味噌などてよい。昨日もいろ々々くれたが、あれよりきらずをいってよこせばよい。それではあの貧な生計ならぬ筈。○幸田が錢なくて、手をたたきこひよなとと溝口のやうに心得て、それで一生貧乏ぞ。彦明と某参ったとき初鮭を出したが、某は已矣哉と思ふた。唐﨑は知らずに珎しいと云て賞味したか、案の如く上下が典房へ飛んだ。○山口兵衛門先生へ詩を贈る。
【語釈】
・廉破が趙人を使ふ…十八史略。頃之三遺矢。「孝成王子悼襄王立。思復用廉頗爲將。時頗奔在魏。使人視頗。頗之仇郭開、与使者金令毀之。頗見使者。一飯斗米肉十斤、被甲上馬、以示可用。使者還曰、廉将軍尚善飯。然与臣坐頃之三遺矢矣。王以爲老、遂不召。楚人迎頗於魏。頗爲楚将無功。曰、我思用趙人。尋卒」。
・きらず…雪花菜。豆腐のしぼりかす。おから。うのはな。
・典房…
・山口兵衛門…内英

  櫻邸災後別業書院聞黙斎先生講書  内英
泗洙洪流根水通。文教不譲斉魯風。縫液先生千里至。羔裘卿相列坐同。
講書何須埀帷煩。聞道忽視夕可功。由來邦國多材木。不日經営為宮。
  晩春雨後賦寄東都二賢士兼奉呈先生二首  惟秀
雨晴東海挙明暉。光映櫻花隱翠微。借問梁園雙朋友。授翰誰有賦采薇。
隱々潅木雨如煙。無恙菖蒲水行邉。更撫孤松知日。獨占春色待君還。
  北嶌寓居贈花澤文  河本
車馬風塵大道隈。春光何処照蒼苔。荒園有菜花発。時自清香勧酒杯。
【読み】
  櫻邸災後、別業の書院に黙斎先生講書を聞く  内英
泗洙洪流根水通ず。文教譲らず斉魯の風。縫液先生千里至り。羔裘卿相列坐同じ。
講書何ぞ須ん埀帷の煩しきを。聞道忽ち視る夕可の功。由來邦國材木多し。日ならず經営宮を為す。
  晩春雨後賦して東都二賢士に寄せ兼て先生に呈し奉るの二首  惟秀
雨晴れて東海明暉を挙ぐ。光は櫻花に映じて翠微に隱たり。借問す梁園雙朋友。授翰誰れ有てか采薇を賦せん。
隱々たる潅木雨煙の如し。恙無きや、菖蒲水行の邉。更に孤松を撫す、知らぬの日ぞ。獨り春色を占めて君が還るを待つ。
  北嶌寓居花澤文に贈る  河本
車馬風塵大道の隈。春光何の処か蒼苔を照らす。荒園菜花の発く有り。時に自ら清香酒杯を勧む。

二十六日晴。○先生朝膳を急きて小石川善仁寺石原先生の墓へ出。○小松原語文曰、信古書院の額、去年引れて老父にゆづらんと云へども、病身ゆへ書生の導ならず。因て固辞す。文曰、何ゆへに額引かれしや。曰、善藏が意、同門の外、他門或は垩堂なとより續では行藏が意にそむくとてのことなり。さて某善藏とも合はぬ所あり、又、老先生の門にも合はぬことあり。されども自家を立るには非ず。○先生日午歸る。曰、石原先生は石になってもこわい。○山田長作至る。○先生曰、浩軒様孫女のことをかかれたを見せられた。なるほどすぐれたことなり。これも例あり、あなたの御実母様の行状も御存生の中某書たが、あれが本になりて後あの碑銘も出来た。存生の中書くは生祠の例なり。因に云、某隱者に似合はぬやうなれども、武家諸法度と服忌令懐中す。入國問禁のなり。この間も大夫主水に君矦二十にもならはこの講説せんものをと云たが、なににしても幼君なり。

○謂山田曰、今左傳の素讀せらるると云が、はや素讀の時から張本などのこときっかけしてをくへし。二度廻らぬやうに手をまはすべし。とくと左傳でもふけるは後のことなり。さて、左傳の讀やふ一つ傳授すべし。讀ながら人の名をちょこ々々々字號してをくべし。一人の名がいろ々々に出てあるぞ。先づそんなことでよい。さて俗学は經学も左傳も一つにする。粗でよい書あり、熟する書あり。經書は熟せ子ばならぬ。○昔庄内で家老の水埜氏は徂徠学なり。加藤氏は直方の門なり。そこで家中二つになりた。然れとも、どちもよいのも出來なんだ。あじなもので、史記左傳に熟ある人は經学はないものなり。

○新発田の執事溝口半兵衛講官金二來る。○欽二藩翰譜を持し來り。鳩巣の書なり。或人藩翰の二字を問。先生曰、詩經の文字と覚へき。先生家譜の考へ合せんとす。因て岡田子の話に及び、欽曰、岡田のはこの書を續ぐならん。弊藩などては世臣録として上へ出せり。○欽二曰、迂齋先生與鈴木書掛物にしてあるを冩せし、と。

  堅苦
此朱子臨終以此二字訓門人。学者如果堅苦勉厲、則終為君子人也。正令聰敏之資而不用堅苦之功、則終不能得矣。孟子所謂人之有德慧術知者恒存乎疢疾。冝深体察。
  宝暦九年己卯九月  迂斎識
【読み】
  堅苦
此れ朱子臨終に此の二字を以て門人を訓す。学者如し堅苦勉厲を果たせば、則ち終に君子人と為る。正令聰敏の資にして堅苦の功を用いざれば、則ち終に得る能わず。孟子謂う所の、人の德慧術知有る者は恒に疢疾に存す。冝しく深く体察すべし。
  宝暦九年己卯九月  迂斎識
【語釈】
・宝暦九年…1759年。己卯

○或曰、國老の中秀たがあると同役でも名がきこへぬもの。欽曰、刺刀二丁あれは一丁は切れぬもの。曰、貴様は雄弁ぞ。○松倉氏主水至る。因に云、黄門公朝鮮人弊の物の書例あしきとて返され、對馬矦中に立て大ふこまられたそふなれども、公甚た不恭とて、たふ々々書直させたと云。先生朝鮮のことに因て曰、山宮も筆談したが、文もよい方なり。或曰、希斎か朝鮮人にぎう々々云せたと云。曰、遠人をあはれむと云。そふするにも及ばぬ。金溪語録に朝鮮の太子酒のわざわいあり、一朝皆酒を廃したとある。よくとどいたことなり。○因に云、尚翁、憲廟薨御のこと窂中占では知れぬ。なれどもをれに吉占か出やふはづなし。大赦でも有ふ、と。それが胸へへったりと來ると見へる。そこで十七日は先君の月忌なれば、今日は御免があるとて褌など汚穢の物は皆雪隱へすて、朝膳を昼の糧にも殘し待したに、果して其日が赦免なり。忍を出、其間に一宿して日本橋書肆與八方へ至る。迂斎も早束かけつけた。文曰、去年奥平氏へ語りしが、窂中二度占はれたこと理會せられぬ。奥平曰、尚翁も少し退屈せられしや。文曰、めげる先生にあらず、と。先生曰、兎角胸にひびいたと見へる。又、天地の間そふしたこともあるへし。釋りることも有ふかと占ふたかも知れぬ。

○欽二云、幸田先生、退溪集七八冊出来た、筆工料きっとよこせと屋鋪へ云こされた。無欲よいもの。先生曰、市川の名主が腰弁當ではる々々來るに、今日も留主などと云。あれも涙ながして歸りたこと多し。松倉氏曰、幸田子櫻かさくと某邸へも増山へも土井へも皆断り云て見へられぬ。其節は両三輩携へ酒をもたせ、所々の芲を五六日の中は皆見てあるかるる。いかさまあの人の氣象なり。○松倉氏曰、幸田子家風日を掩はず障子も破れ雨ももり、たん々々疂をあげ、二疂ばかり主の席に設けてをられき。然れともなんとも思はれなんだ。

○三子傳心録の藤原子黙は作内さまの先祖の直筆なり。○松倉氏曰、節倹録、戸田庄藏が書て出板し其後焼たが、白川矦のをいゆへ、矦再板仰せ出された。○保建大紀の話に及び先生曰、神璽正統のこと三宅九十郎は儒の論、栗山は神道の論なり。太夫曰、栗山の論は粗のやふなり。曰、神道てはとこまても三種神璽を正統にとる。あの方にも傳國の玉璽と云ことあり、神璽を正統と云がよいになる。因て云、山﨑先生の理を云で神道をとろへた。だたい神道は嬰児のやうでよい。そこで又埀加翁、神道の會に論語の話が出ると不機嫌なり。なぜなれば、論吾が出ると知が出る。知が出ると神道にわるい。これ論吾の不機嫌の所なり。惣体佛でも盛になって來ると儒を加へる。それがはや佛の衰へなり。神道もそれなり。をろかながよいなり。山﨑先生大智でも神道から、烏すの声を聞てあぢな烏すのと云。日ごろに似合はぬが、それへ感ずると見へる。神道の秘書を見るといやはや々々々々。直方先生の夢になれ々々々々と云れた、尤なり。さて某方へかわったことで、十四年以前神書がふと手に入りた。或る者出奔し、医になり上總へ行き、神道者に合ひ内弟子になりて秘書を写し取り江戸にかへりた。あれかもと異人で、却て馬鹿な処か氣に入り、神道者も秘さぬと見へて其書の印にあれが号がある。それを元朔あつかりて某上總へ立つ時あれが贈たが、草々にして封も開かず上總へ來て見れば、數年望みの風水艸同管窺のるい、其外に極秘の書あり。管窺は風水草の拔き書て正親町の書なり。さてあまたの中二冊同しものがあるが、これはあれが人のを借りて写し返さぬとみへる。某返したふ思へども知れぬ。神道恐れをなし、齋戒沐浴で傳はることなれども、思はず手に入りた。某は信もなくして見る。これでは罸があたるはづ。當らぬは可笑きこと。神道を知るも又わるく云にもあの書がうまきものなり。さて埀加翁のは、あの馬鹿な処がりきみのとれたのぞ。傳授もきこへたこと。あなどるからぞ。こさかしきものに見すべからすと云、傳の中に五十以上でなければ傳へぬと云。こともあり、淫乱などにもならふと、親切な戒からなり。信ありても若いものなと吹き出すゆへ、そこで五十と云。風水とはこりのことなり。秡は即ち中臣のはらいなり。埀加霊社へをさめたは先達遺事にある通り四人なり。神道のあかりたとき見よとなり。それはむつかしいことてはなく、あさまにをもはふかとのことなるへし。某が手に入たが傳授事もない。儒書の文會筆録のやふなもの。風水草は中臣の秡のことなり。神道上れば却て有難いと云中へんでは妙はないと云へし。運庵が不換金の妙あるのなり。さてをかしきことは疱瘡の加持のこと迠ある。直方の夢になれもここなるへし。神道にはきついことなり。さて又極秘の圖迠もあり、御鏡の圖跡辺へ傳はる。宮内。直方門。あれを伊勢の御師が持て來て宮内に傳へた。友辺も其席へ出たのなり。伴晦翁あの時の観世太夫も其列なり。當日天氣もよし。跡部殿神慮に叶ふたと云ほとの誠なり。それから見れは清十郎などか様な神道はにくむべきこと。信心なきなり。今の儒者のまぜるは山師のやうなり。右の傳授の日、跡部友部詩なども出來た。儒て云へは皇天日旦及爾遊衍などと云域にてならぬことなり。儒者でも永井先生は神道者のやうなものなり。巨燵に居て御手紙拜見とは天の思召がそらをそろしいと云れた。迂斎石原なとには出ぬことなり。誠なり。松倉氏云、誹諧に、寐て居て見ても貴札拜見、と。先生曰、そこなり。友辺心法の修行はつまりた。迂斎のにも師のやうなもの。三宅と直方との間に出合ふた。迂斎も友辺を師のやうにしたが、神道で合はぬ。迂斎神道を辨した説、あれ計りか板に出て埀加文集の附録にあり、そこで後には友辺と迂齋は寒暑ぎりの交りなり。某生れぬ前のことなり。それでも暮には雉子をやりた。その返事ある。松倉氏云、雉子と云も古風なり。御年男をこま便りの子を上る。仙臺より二十九日頃來る。先生曰、道春豆まきのことを朝鮮人に問ふたれば大ふ軽んじたが、これは朝鮮人の心得違なり。道春あのやふなことに知らぬは豆まき計りのことゆへぞ。貴國ではどふちゃと初心そふなことなれとも、あの衆、典故のこと人に云ことはあれども人に聞くことはない。因て云、東金の者某に虫のこと問て、先生何も知らぬとそしりた、と。さて工藤か虫を取ることたひ々々なり。虫とても根か外邪なり。熱は虚、虫は実。実を去って虚を補ふべし。笑曰、なんと医者も上手ならふ。
【語釈】
・戸田庄藏…
・三宅九十郎…三宅觀瀾。名は緝明。字は用晦。九十郎と称す。京都の人。水戸藩に仕える。享保3年(1718)8月26日没。年45。浅見絅斎門下。
・こり…垢離。神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること。水垢離。
・中臣のはらい…中臣の祓。古来、六月と一二月の晦日に、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪穢を祓った神事。
・跡辺…跡部光海。名は良顕。宮内と称す。幕臣。享保14年(1729)1月27日没。年71。佐藤直方門下。浅見絅斎、三宅尚斎にも学ぶ。神道を渋川春海に学ぶ。
・友辺…伴部安崇。武右衛門と称す。号は八重垣翁。幕臣。元文5年(1740)7月14日没。年74。佐藤直方門下。
・伴晦翁…

○松倉氏曰、先々君を見て神尾若狹殿が温良恭倹譲と云し、と。先生曰、某も兼て傳聞致したが、儀八かが迂斎へ咄したことか、神尾と云ことは始て承る。會津矦の大廣間へ臺滅明と對句なり。松倉氏曰、或者又先々君へ下の奢りもよい。それで金銀融通する、と。曰、覇術で垩賢にないことなれども、考はありた説なり。これも叔段を自倒の筋、町人は潰れてもよいと云ふのなり。○席上老荘の談に及ぶ。先生因曰、朱子、老子か一ちにくひと云。荘子かどふらくは害が少い。松倉氏曰、老子か如愚の、又、居昏のと云は面白ことなり。曰、荘子も一つなり。皆つかまへ処は一なり。○或者貴邸も酒が流行と云に因て先生曰、酒が百のことにわるい。醉たから墓参に行ふとは云はぬ。江戸も書會のあとが酒になると云。諸老の會にないことなり。幸田から酒が御目見へ以上になりた。さて、迂斎臨終に某へ、酒は怠を生じ学問上らぬ。其上壽もならぬ、と。没後某やめられぬと自ら知るは明にて五十一日目に飲た。つまらぬことなり。○欽二出類拔萃を分けて問。先生曰、人類あるべかかりの中を孔子一人を出類と云ひ、天地萬物のあつまる中を垩人のぬけたを拔萃と云なるべし。これはまだ吟味せずに云こと。あの章一生に一度講釈したことあるゆへそんなぎんみ覚へぬ。大抵三宅先生の説であれにかぶせるがよい。直方先生のはよさ過きることあり。
【語釈】
・叔段を自倒…
・如愚の、又、居昏の…老子異俗。「我愚人之心、純純。俗人昭昭、我獨若昏」。

○此夜小松原十太郎來る。曰、老父もどふぞ謁見し御咄承りたいか、病中殘念と申て居る。さて昨日の戒命出ぬがよいと仰らるること、老父肺服す。曰、いやそれは足下傳致の誤りなり。出らるるがわるいと云ことでなし。義と與に従ふ。どふしてそふ云ことあらん。されども出ぬも然らん。大人禁好物夛いと承れば尻がつづくまい。笑て問ふ、彼の草履のことは覚て居らるるならん。○平井龍藏、雪樓では行藏と肩を並べたが、文藝やくにたたぬもの。行藏濱町へ來てからは大きに違ふた。○小松原因に云、宇津木和平二議論ある男なり。○先生謂小松原曰、足下御父子の志はよけれども生産にこまらふ。足下は出たがよからふ。君子になるは別のことなり。志操もげる、と。浪人すれば塩せんべい賣てもよい。大人あまり吟味づよときこへる。権八に迂詐をつき習へと云も非義はならぬからなり。大人も幸藏がうつりたものならん。
【語釈】
・義と與に従ふ…論語里仁10。「子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之於比」。

○某が方へ來るもの戯塲遊里へも行くことを許すと、これは某が事実を知らずに云こと。又、事実しらずとも人情て□□ても、誰でもどふらくなあとは必きっとするもの。そふなふてゆくものか。さて、どふらくに見へて訂翁幸田などはつんと律義なり。某も舊とのわるいを洗ひきるに、なんの為めに門人にとふらくを許ふぞ。某が家政はいかふきびしいことなり。今江戸などて逢ふたものは知るまい。十四年あとも交りた人は知る通りきびしいそ。某が門人に戯塲遊里を許すとは間違の風聞なれども、倂し今あの馬鹿などか行かも知れぬ。今日小松原、善藏とも黙斎門とも合はぬことあり、と。文問、何が合はぬや。曰、老先生門人戯塲青樓行も高いことにして行ものあり、と。文曰、今そんなものなし。奥平なども若ければ向は保たれ子ども、然し只今そんなことなし、と。因て有此話。

○小松原曰、某は師家とも合はぬことあり。師家文字上はこまかに吟味すれども、心法の処にきりつけてふみこむ処は如何に思ふ。曰、足下は家学を用るがよい。餘は師説に従ふべし。そこが知見ぢゃ。子をかへて教ゆと云こともあり、家学は家学、師は師なり。親父様に師を一味加へるで氣質変化にもなるべし。覇術のやうなれども、孝子は巧変すると云もある。又、脩行がつまりてほんとふのときは、親も師もあてにはならぬ。小松原又曰、某意に合はぬと云は俗儒めくや。先輩の規格破るる処にあり。先生曰、はやるときはあるもの。小松原曰、先生節要訓門人など專ら示さるるよし、某などひそかに慶助文太などと會してあれを讀なり。先生曰、親ても師ても取るは知なり。行ではあるまい。知はたとへは迂斎をよいとは云が、直方にはまだ如何なり。これでみよ。さて服氏も通書を任するよし。それを吟味すへし。一よいことなり。文曰、あの衆詩文はせられぬと見へる。小松原曰、筆記など書くことあり。二禮儀畧も拔文書れた。先生曰、師も一体か鳩巣などの体ならん。小松原曰、あのやうな体なれども簡古に書けり。書物はきびしふよく見らるる。先生曰、とかく力ら甲斐ないは義氣も役にたたぬ。行藏が任するのはよし。
【語釈】
・慶助…

○行藏義氣で若い時さわいてばかり居たが、晩年はそふもあるまい。今途中で歩むも、急いてあるくのが静になるもの。あれが終焉の時、大人が側に居たらふ。曰、然り。老父がかいほふせしが格別の工夫用たと見へて、臨終二た時ばかり前に眠る底なれども、どふしてか眼中が動き静ならず。老父が眼中さわかしきやうと云へば、それから動かさぬと云。老父も力らを用るものは斯ふぢゃと咄されき。曰、行藏何か胸中往來したならん。そふ声をかけられ耻しき意ありて、それから眼中動かぬか何にしても格別なことなり。某は行藏を腎虚と思ふたが、そふでもないと見へる。さてあれは跡はないか、妹があったが早世した。曰、血脉の者二人あり、一人は人に奪はれた。一人は大ふ俗物でどふもならぬ。今行藏か神主は外族の者奉祠する。曰、信古堂にありてよさそふなもの。そふして朔望など拜して然らんか。それもかたではまあ入らぬもの。されとも 公儀から教授仰付られたそふなれば、それもよからん。又行藏か書たもの、あれへ掛たらよからふとも思ふ。丈太夫などが書たときく。曰、それは如何なるや。文曰、某一昨年参りた信古書院の額新しく能筆でありた。曰、來彌太郎なり。望楠軒なとの書たもあり。
【語釈】
・來彌太郎…
・望楠軒…若林強斎。

○温厚和平と云に因て先生曰、中庸は道の證文ゆへ、程門をも淫老佛ときっと出す。今日の儒者がどふ程門へよりつかれるものぞ。朱子は学者か程門の號帯で通るから語類文集にをさへをかるる。必竟今日後人朱子を学ぶは、朱子大成なればこそま子られる。程門は眞似られぬ。今日言へば陸象山を贔屓するでなければ商量集もすまぬ。程門になるくらいでなければ知見は開けぬ。全いがよけれは鳩巣がよい。鳩巣何もわるいことはないに鳩巣を外にするはどふぞ。師家も鳩巣を全く信すればよいが、あそこはどふしたものぞ。詩ても文でも鳩巣かよい。南條迠が鳩巣を議するが可笑しい。鳩巣を軽んずるならば善太郎以上のがほんのなり。

○小松原云、善藏のこと誰やらが性命の疏と云き。これは門人どももよく品題したと評した。文曰、如何。曰、引立たことはないがこまかなり。又問、諸説を商量し折中するを云ふや。曰、いや書をとくときめて少も外からさしこまれぬやうに吟味する。先生試に文に問ふ、あれは過か不及か。文、荅へ不得。曰、はてさてすみそふなもの。ああはやすまぬか役にたたぬ。あれは髙のにて過の至極ぞ。一と通りの者か評せは不及と云べし。卑いと思はふが左にあらず。知見は活せずに高きなり。石王などそれなり。文曰、鳩巣の山嵜先生をも軽んするのか。先生曰、いやあれとはちがふなれとも、口上は慇懃に平らかなが、心の高ぶりからなり。鳩巣など高ぶりとは見へぬ人なり。あれが高ぶりぞ。ああ見へて心中先輩を軽んずる。小松原云、某師友に合はぬ処は胸へきりこまぬ処。文曰、岡田先生計校睹當なきやふなり。小松原曰、然り。岡田子理氣のことなととくとなし。議論のときそふかなどと云。先生曰、善藏は愛之理心之德と云やうに判鑑きめて言そこないなかるべし。言そこないならぬもの。某など講釈間違もあれども、半町とも行かぬ中に立かへる。どふも言そこなはれぬもの。言そこないももぬけた所からのこと。然しそれも只のは手柄でない。さて弓五郎がとふあらふか学筋合点かしらず、文太はどふてもよい。あれは山﨑先生でもせぐるせぐり手なり。隂症のやうなれどもよい。然し、太切のことにどふかぬけがある。去年二礼儀畧の棺椁出來れは即日ても大歛すると云ことにつき声をかけてやったが、其後返辞がない。今度來ても荅へぬ。すれば某又言ふべくもなし。さてあれがもと、某と行藏が護喪のことは大ふ手はやで、中々外の者の三日かかって出來ぬことを一日でする。そこで幸藏と某自負したこともあり、行藏か意か外の者の手ては棺椁急に出來ぬと見て、そこて儀畧の説もこれ本づく処あり。先年溝口矦でもあの説について某云たことあり。行藏周密のやうで麁相ものなり。我得手たゆへあのぬけがある。某母の時もあれが世話したか、棺椁黒部杦かよいと云からあれが赤杦でしたが、某も行藏か得手たことゆへあれにまかせた。されとも惣体經歴の処に至ては、あれも某に及はぬ。さて、棺椁も家礼親味の処も喪ひろめの筋なとにあることなり。三日と云が大切のこと。其間よく處置すべし。これは可笑しき咄なれども、行藏か始は經学某に及ばなんだ。どふしても某は迂斎の家で熟したものゆへなり。それから半年計りの中に行藏ぐっと進んて某か大にやっつけられた。それからはとふも及はなんだが、其中又某がよいこともありたゆへ、行藏も外ならずした。そこは某も忘れず。
【語釈】
・石王…石王塞軒。名は明誠。康助と称す。別号は黄裳、翼斎。近江水口の人。京都に住む。安永9年(1780)1月21日没。年80。三宅尚斎門下。

○此間君矦進講に笑の出たを某重疂と云き。知慧ぼとりと云ことあり。あそこが知の花なり。医書に客忤と云てきらいもあり。笑は知の開ける処。さるに因て泣も笑も知なり。馬鹿は泣こともなかす、笑こともわらはぬ。前日君矦、題辞の講釈より序が面白かったと云玉いしよし。善く聞得られしと先生も云き。○学者がえて出處の大義々々と云て、あしらいよければ喜び、わるけれは腹たてるか大方常なれども、善いとき其喜が大ぬけの本なり。又わるいときの底が大ふ氣の毒なり。出處が誠意ばかりでゆかぬ。知がないとあとの底がをさまらぬ。尤誠意正心でなければ出處高くはならぬ。そこのかけひきなり。勧善懲悪と云ことでも知のはたらきなければならぬ。書物藝は役にたたぬ。されども又書物からでなければ行かれぬ。文義は藥種のやうなもの。藥種知らぬと藥り取りちかへる。又藥り知たばかりては療治ならぬ。

○鳩巣圖述五百石と云ほどのことなり。あの出來たとき御加増とりたほとうれしいと云へり、と。それを石原先生かそれでもゆだんならぬとなり。○行藏はして取ったと云ことを幸田と咄すとただ一と口に云。○小松原曰、弓五郎行状甚よし。あんなもの江戸にもあるまいと思ふほどなり。嫂叔不通門の筋、固く守る。男女授け受の間きびしきこと。老婆が錢を出したに貫穿のさきを少しつまみ取りた。曰、嫂叔不通門とても、そふきゃうさんにせずともよし。何事も知れずによいがよし。
【語釈】
・嫂叔不通門…礼記曲礼上。「男女不雜坐、不同椸枷、不同巾櫛。不親授、嫂叔不通問」。

○小松原問、程門の蹈こみ、あれはどこより學んで然らん。曰、あれを眞似てはわるい。先つ文字訓詁から朱子を学がよい。狂二郎が狂と名をつくもをかし。狂は学ばれぬ。すれば垩次郎と云がよいやうなもの。垩は学ばれる。曽點は我持ったなりなり。今の人人欲だらけで直きにあそこへは行かれぬかとは云へ、狂は病の字なり。それを学ふ筈はない。顔子に習ふがよい。自然の塲には程門の域あり、あれはもふ朱子の後はないことなり。さて、程門一体根が違ふ。それでも末には及弟もする。こちには其ないが幸なり。なれどもそろ々々始るゆへ氣を付べし。曰、有難い御咄共なり。曰、今のやうなことではほんの処へ行かぬ。道学はとんと傳らぬ。まだ振ふと云が任なれども、出家多いと佛がをとろへ、学者がさわぐは道学の衰へぞ。これ君と一夜の話ぞ。学問も上手にとりまはすとすむもの。○本んの致知てないゆへ方角違ふ。そこでほんの処へやるか誠意なり。ほんの学者はいろ々々聞て見て道は行はれぬと云筈。陣皮一味たらずともよいと云はれぬ。それでもと云て藥もる氣になるゆへ俗心になる。これ不仁なり。又、任ずると云になりて、尚翁の幡然改曰道之將行之也と云ふは誠ゆへそ。されとも知惠はない方なり。
【語釈】
・陣皮…陳皮の誤り。

○小松原曰、老父もだん々々御懇意の御示を蒙るゆへ、此方よりも隔心なく存しより申すか、先生高きに過るの御省察然るべし、と。先生蹙然曰、某何ぞ過高のことあらん。某は事故經歴なり。過高なとと云は訂翁のこと。某物にとどく処は何か生れにさへあり、まあ覇者なり。事体からきめて平生のことこまかにして法をくづさぬものに過髙と云ことはない。又しわいは知見なり。我に是はないが、非をよく知る。これ世事上事經歴あるのなり。されどもけいはくする世味經歴には非ず。がっきり云てもそれはない。そこで某をそれほとにくむ者もなく、切ふと云ものもない。文曰、知者と見へて力行あり。力行者と見へて知者あり。それ者は見へ兼る。曰、隂中の陽、陽中の隂。以上十七條與小松原氏夜話也。以下昼日之話。措乱記于此。

○去年孝経刊誤講解の話に因て云、山嵜派ては孝經を讀まぬ、不孝してもよいかと難する者あり。先生曰、火の用心のことと孝行のこと云はれたらいつも畏ると云がよい。火の用心麁末にするは火付に近い。孝行のこともそれなり。さて又上總は孝行か半分でとどかぬ。身體髪膚不毀傷は子の方のこと。親か死ぬと檀那寺が來て是非くり々々坊子に刺る。是れ先つ親から先きへ髪膚へ疵を付る。せめて大きな望はないが、香刺は江戸の通りに上總もしたきものなり。江戸は死者の遺言あれば壇寺も刺らずに刺刀を當てる眞似してすむなり。どふそあふ有りたきものなり。さて丘瓊山孝經云云のことはすまぬ。眞は眞、偽は偽なり。淺見先生も文集に点かけぬは誤なり。
【語釈】
・身體髪膚不毀傷…孝経開宗明義。「身體髮膚、受之父母。不敢毀傷孝之始也」。

○小松原、青物町に居るが家賃存の外高い、と。先生曰、存の内なり。足下經済下手ならん。唐﨑放逐のとき元氣よかった。某に逢て君家の大人御在宿かとなんともない顔で、いや仕くじった迚笑などか大ふよかった。官爵をは惜まぬものなり。然るに國へ引込には母に氣の毒あり。唐﨑が始め神道をそしりて振ふたゆへ、國の親類ににくまれた。それゆへ母があれを立身させて國のみへにもと思ふたに、長島矦に仕官し、あの通り先つよかったが、今度放逐され故郷へ歸ては、母が人へ面目ないと云ことそふな。因て唐﨑國へ歸りにくき塩梅ゆへ某が世話して本荘に卜居させた。石原先生は腹立れ、江戸かまヰになり本荘に居るはきたない心じゃ、宅の向で事が出来たら町奉行のかかりにならふ、すれば江戸も同前、と。尤なことなり。このこと迂斎は何とも云はれなんだが、石原先生につかれて本荘にも居られず、國へ歸り明春病死せり。其節は某廿四で有たが、幸田宇井唐﨑よい會であった。諸子幸田に悦服したもこの時なり。幸田はきついことで唐﨑も大ふ感心し、三宅先生以来このやうな説きかぬ、と。以来とは云ものの、先生も云はれぬと云多し。文集の會ては某唐嵜にいかふあなとられた。又三か拔書など役に立ぬこと書くと笑はれ、どふも及ばなんだ。

○欽二辞して帰んとす。先生曰、もふ御出はあるまい、永訣ぞ。泣く塲なれどもなかぬ。○文太に節要會約借した、信ずるや。○幸二郎が為に明備彔よんだ。あれはよからふ。よいとて人も喜はせぬ。あれでもやくにたたぬ。まだよくない。むつかしいこととは見へて、あれほど説あり。○治教録面白い。火事がなければ今度館林邸でよむつもり。○神道の咄も主水子覚るならん。覚よし。○亀井矦の山口氏は文学者そふな。又、孫子の吟味よいと聞く。敬吾も咄ありたが、敬吾めったな者でなし。為己学なり。あれも大ふ感心してよこした。

○文七、賢は先達て服部氏へ謁するに束脩行ったか。曰、否。何も持て参らず。上下て謁したか。曰、否。曰、然らばどふして謁した。曰、人を頼んで謁見す。曰、それは知られたことで、雪隱借りるにも頼ま子ばならぬ。文二でも誰でも上總の者は百姓ゆへまあどふでもよい。もと股引なり。百姓は御鷹野先き御用も股引、御代官檢見の前へ出るに名主か股引すれば股引が禮服同前のもの。上総に居るなれば長者に謁するにひゃくえにて上総こんにゃくでもまあよい。况や直方先生は大月が扇子を、これより貝杓子がよいと云はるる。文曰、はらはら扇は貝杓子ほどの用なし。賢は今江戸住居大小をさして、江戸者になりて居らば上下で謁見すべきはづ。又、束脩行はぬと云は何事ぞ。そして賢は何ゆへに行たぞ。曰、まあ只参った。曰、それは猶つまらぬ。長者に只ほかんと逢ふと云ことなし。そふたい向て誰も賢らに逢たいものはない。善藏や幸田も上總ものは面白ない。某が親切と云てもいやなり。まだ向が親切なればそれもよい。黙齋茶筌髪前帯でさへ、善藏書をそへて文太が見へた。賢がは護國寺あたりへ行くやうなり。長者に見へるには益を得やうで行くを、只ぶらりと行と云ことはない。向が厚重な人ゆへ、それでもまあすまふが、そんな者が某が処へ來ると取てなげる。牛にひかれて善光寺と云ことさへつまらぬに、引れもせずに何ことぞ。もと何ゆへ隴畝を出た主意ぞ。それとも道を行ひに出たか。賢は只見物なるか。見物も京都に六日、日光二日ですむもの。三年江戸に居、不志于穀者すくなし。皆大木からうつりたこと。百両出しても帯刀したからふ。帯刀しても上總のは生り節なり。文七曰、白川矦の一士人某に親切に異見ありて、必す仕官などよくなし、と。某も仕官の意なし。曰、其人に異見うける、大耻なり。それより國元の異見が手近いこと。新しい人に異見うけるは何事ぞ。異見の顛倒錯置なり。これを要するに、あき畑けのわきがいやなり。言わけに及はず。江戸で哺啜するがよいからなるべし。○續無大焉。このからだをつぐこと。六十萬石もなくなるが、からたは子々孫々なくならぬ。荅或人孝経之問。○感興詩序晩唐作者不足算は口のすべりたのなり。始の主意はらりになる。つひ俗の詩評になる。
【語釈】
・ひゃくえ…白衣。白色の衣服。白小袖に指貫または袴だけをつけた下着。転じて、姿非礼。無礼。
・隴畝…田舎。
・不志于穀者…穀に志さざる者。
・生り節…三枚におろして蒸した鰹の肉を半乾しにした食品。
・續無大焉…孝経聖治。「續莫大焉」。

二十七日雨。○松倉勘解由來り、先生より與へし手蹟のことに因て絅衣のことを問へり。曰、中庸のぎり々々。短く云と学問為己のことなり。閔子騫たまって居るが言必有中と云。顔子の次へ出る人なれどもあふなり。あの合点なけれはほんの人になられぬ。奉公人もだまって居て上の為になる。我か方から出さはり口をきくやつは、多くはやくにたたぬもの。又問、牛肥のこと如何。曰、百里奚は家老を勤める人品なれども牛を畜せた。すれば只の人はけりゃうに思ふか、百里奚それを當然とした。直方先生、御老中の政執るも草履取の草履取も理に二つないと云。牛はかるいこととてすてはせぬ。曽點、鼻の先きのことを當然と見る。この録某二つ合せた計りのことで當年記した。何もふかいことはない。
【語釈】
・絅衣…中庸章句33。「詩曰、衣錦尚絅、惡其文之著也」。詩は詩経国風衛碩人。
・言必有中…論語先進13。「魯人爲長府。閔子騫曰、仍舊貫、如之何。何必改作。子曰、夫人不言、言必有中」。

○此日館林矦へ進講に出つ。矦親ら松芲堂布帒の掛物賜ふ。又、盃賜ふ。先生返盃恐ありとて直に盃をつつみ僑居に歸り宗子八藏に栄とし賜えり。○高木九兵衛、一平か兄なり。多田にて一二度合た。○川鰭氏源藏訪、講釈の談に及ぶ。先生曰、書物ひかへずに聞くと專一で耳へ入がよい。僧の談義も聽徒か書をひかへたらわるからふ。心からはどちてもよいが、御用の講釈そふはゆかぬ。○因に云、學者出來やうと云判は押されぬ。さわぐでは出来ぬは判を押す。○学校も開らけぬ内は、よい儒者でなければならぬ。開らけてからは誰でもよい。溝口のも權平八右衛門が本となり。彼の藩では学校から段々役人にする。八右衛門もあれから郡奉行になった。今欽二が学校の世話するが、あれか後役人になるへし。又下からたん々々学校へ出すならん。藤四郎も今では学校切りなり。初めて開く時とは違ふ。つとめよし。
【語釈】
・高木九兵衛…
・權平…

○與八極貧なるとき筆細工尤よし。学問の為にはわるいが活計にはなる。あの貧から公用人に云付られては心動したかも知れぬ。学問さへすれは動かぬと思はちと量簡違なり。却て學の沙汰なく、兄は迂斎の家の盛んから冨になれてをるゆへ心を動かさぬこともあらふ。○大徳寺諸目代へ殿付なり。誠に古風なことなり。○小市唐津を去り、某が部屋迠は來て迂斎には合はぬ。表立てはならぬことなり。土井矦寺社奉行のときに至り、首尾が直り召出れた。○三宅逸平、多田とともに佐竹の造士館に一処に居た。江戸から古いものは多田なり。そこて学頭なり。○鳩巣十三で京へ出た。山宮も十三で詩を作って親は醫者なり。二百石なり。○多田は厚重にて若者愛し、あまいかした。奧方もきつふ人を馳走する人なり。山岡が処て死去のよし。○山岡安兵衛、石原先生へ寄宿す。今の御役は御徒歩組頭からなり。
【語釈】
・與八…

○武井三左衛門、某が母の弟なり。易の講釈もしたが迂斎の筆記を神田旅籠町の火事の時焼て多田にて補ふた。あのとき予にもゆけと云たが、某は酒のみに計り行た。○五味権三郎、珎い老人なり。とかく講釈ききたがる。某秋葉に居るとき度々來て講釈など子だりて面倒なり。そこで某一計を出し、金を借せと云た。果して術中に落て再ぼ來られぬ。○稲葉八藏、園中の蓂加たけ贈る。先生曰、先君親筆の迂斎行実與八には借すへし。長藏は神主のやうにせよと大そふに云が、あれは迂斎の跡役なり。かすへし。又曰、彼人のこと母か生て居て見よ。さぞで有ふ。三十年前某通りて見たに、五月幟に彼か紋ありたゆへ、立よりすこし合力もした。八藏曰、今轡の紋の物あり。鍔にも秘藏してあり。曰、山本の紋なり。あの鍔は迂斎の祖父のつはなり。紋はじゃうだんなやふてやふて大切なり。稲葉の三の字の紋を筆勢にするも、越家三韓責の舟印て浪の模様となり。これもその姓をつくからは知るへきこと。

○或曰、白川矦御在所の御普請下より材木献し人足勤めたいと願ふ、と。○集堂氏弓五郎來。阿波矦儒臣。宮原文太紹介す。今日文太、書を丹二によせて紹介を乞ふ。○先生曰、足下の當大守様迂斎を招かれた。佐竹矦とは御いとこのつづきならん。曰、存せず。曰、さてこんなことやくにたたす。命はかりか春け逢哉なり。足下行藏にも逢はれたならん。曰、少の間のことなり。曰、行藏が虚弱な男、其傳が其元へもうつりたか。其もとも大ふ御よはい体なり。学問面白味あるか。曰、面白みと云ほどのこともなし。曰、御謙退はわるい。どんな処が御辺の心に面白い。某老人ゆへつつまず云なり。曰、程子の涵養須用敬、進学有致知、ここにありと思へども手に入らず。曰、この二つか揃へば道統の人なり。二つは揃はぬが、どちが得手があるもの。敬に覚ありや、知に覚あるや。どちか有らん。曰、致知の方は手を下しよいが、涵養が中々ならず。曰、足下致知の方を易いことと思へると見へる。曰、私し親は涵養の方を戒めり。どうぞ先生の御髙誨で心得になること承りたい。曰、足下そふは云へとも、あちらこちらで涵養底に覚へありて致知がならぬにあらずや。ただい致知が出来てそれから涵養なるでもない。又、致知が出来ると云ても本とふには出来ぬ。それが本とふなれば大きな事。そふはゆかぬ。致知にもあやあることなり。されども足下両方揃ふことと目がつくは一と通りのことでなし。全体学問は大学の八目、近思の十四篇、一篇一目かけてもならぬ。中庸博学審問愼思明辨篤行一を廃てはならぬ。されともそれは幇のままのこと。学者の精彩は吾か得手の方にあるもの。某議論せって云ではない。某が意はそこのこと。今日それぎりのことぞ。
【語釈】
・涵養須用敬、進学有致知…近思録為学58。「涵養須用敬、進學則在致知」。
・博学審問愼思明辨篤行…中庸章句20。「博學之、審問之、愼思之、明辨之、篤行之」。

○館林藩用人岩田氏來る。曰、先生いよ々々明後日は御出立なるや。曰、然り。御仕官も隱者も同ことなり。ををちゃくもつまるとををちゃくせぬもの。かへりの日を定るからは、晦日に歸らぬと麥畑が腹を立つ云云。さて某も今は先生々々と云はるるがをかしい。ごずみの枯れたのなり。こずみをそちらからよくあしらふて下さるのなり。役人もそれなり。太夫になるとよくみへる。黙斎がよいではない。先生役じゃの、あれは儒者じゃなど云。へ屎の皮一切経みて佛にならず。岩田、先生不遠して御待申すとて出つ。集堂曰、先生思召あるならん。文曰、儒者はへ屎のやふなものと云に因て集堂云ならん。曰、大そふらしく思召なとと云ことなり。さて君矦は小くても威嚴あるそふな。あの君の前では醉ふ。今日は大きに醉ふた。○昨日極樂水の寺へ行たが、石原先生鬼神になってもむつかしい。
【語釈】
・岩田…
・へち屎…

○集堂曰、某迂斎先生文集あり。曰、以の外のものなり。能い手で写せしや。曰、まあきまった手なり。曰、然らば原田源左衛門遺書ならん。あの文他所へは外聞わるい。道学信向なればよい。いっそあれも国字でかけばよし。集堂曰、某先生の先達遺事もあり。曰、あれを板行はさん々々なり。某が見も長くつづかぬ。あの書其後額に汗出る。某見所も五年目位にかはるか、かわるがよい。かはらずにいつ迠も同ことは初手から死んだのなり。○謂八藏曰、神主の置やういつの比から変するや、非なり。圖にしてやるべし。○集堂曰、野田先生如何。曰、某師匠なり。兄は隨身致し、某は父の膝下に学ひ、又師家の教育をも受く。兄のには全くの師なり。足下は安左衛門殿の晩年の子ならん。御実子だな。曰、然り。さて是迠うか々々暮した。先生は鳩巣に御逢なされしや。曰、どふして。鳩巣の死れた年に某生れた。迂斎はずいふん謁すへき時も居も近けれとも、見へぬ。謂日原云、某は寺社奉行御勤なされた。そちの旦那と同年ぢゃ。
【語釈】
・原田源左衛門…

○今日館林公の御前でこれから歸って畠をつくると云へは君矦微笑せり。さて又幼君への教には粗なことかよし。御前だん々々御成長遊すに隨いいろ々々な事も有るならふが、御家來ともの諌言よく用ひ玉ひ、さて其上はさら々々がよし。何にでも滞り玉ふはわるし。過ちはたれにもあるもの。迂斎曰、過は額に墨の付たやふなもの。ふいて取ればそれきりのこと。ふいた跡までくよ々々し玉ふはあしし、と。君侯少し御理會の底で笑はれたが、然し額の墨と云ので微笑か出たかも知れぬ。さて某さら々々かよいと云も心術のしこみなり。従諌如流と云もさら々々からなり。もと道体がすら々々なり。季文子三思がさら々々てない。とかく天理てないは滞りになりてさら々々せぬ。其次きは彼人欲なり。此が滞りの根。それから頑なり。絅翁、思量してよいよりはすっと出てわるいがよい、と。直方の云そふなことを淺見云へり。道学はそこのこと。あれが絅翁の学識なり。今の学者の得手方とは違ふ。直方など尚翁などの云異見直きに聞れて、何に丹二がとは云はれぬ。何んにと人をよけるが私意なり。孔子でも野郎が云ふことをも聞かるるは、理にとるからなり。雨ふりあがりこちらの道かよふござると云と、中けんの云こともきく。某なども人を何と云ふ意はない。陸象山か婦人女子の言をも取ると云ふ。それも一物なく、人を相手にせぬときはそふなり。そふ云ながら一物ある。

○集堂敦篤虚静を問ふ。文按、この問先生温顔なく嚴厲ゆへ敦篤と出たか。質厚の人そふもあるまいか、然し改て問を設けべき文字にも非ず。先生曰、いろ々々説あり。横渠は仁之本也と云。朱子は道體に云へとも、横渠の本位はそふでない。しかし書を出さ子ばとくと知れぬ。あれが理會なら受用にならふ。虚静は心中一物無いにとるが道体の虚静なり。横渠、氣と見て理を云。あの衆にいきづまったことはない。主静に何と云ことないやうなもの。どふと云てつかまへはせぬ。敬は動静を貫く。淺見先生手に入りたは、未發を扇子使ふやうなもの、と。一事のことを敬して別に敬はない。各具を統体とも見る。手に入るとないことをも云。鳩巣の説などもいつも違いはない。それではづみもない。直方なればある。淺見三宅の先生も折ふしはほかんとしたる処ある。見た所あるゆへなり。だたい鳩巣がよいと思へばあぶなげなし。今日謹厚拘滞の儒者があの衆をまだあふでないと云は本心にあらず。迂詐なり。迂齋門人か山﨑派ゆへ、もし鳩巣をよいと云はばいかが、と。身方を耻るといふふもの。與八などか鳩巣を他人にする筈はない。身とつり合ぬ。又、四十六士を忠臣と云を疑ふ筈もなし。人並に忠臣と云べし。たた直方の流はと云ことはない筈なり。さて学者か鳩巣を謙退遜順な人と思ふが氣の髙ぶりある人なり。謙退はない人。世に仲尼あらず、韓退之なり。辞は慇懃で心中は高ぶる。そこで師恩に木下を出さず垩恩と云。なああれ木下平三郎とは出ぬ。鳩巣文集を見ても、文字かないとこふ見て取ることならぬ。さて、貴様には行藏をよいと思ふや。曰、いかさま俊傑と思ふて居る。曰、行藏をよいと思ふては善藏がよくない筈。貴さまは数年來温厚和平な御人柄そふなが、そこに御目がつけはよい。そふないと郷愿になる。桺下惠をよく学ふのぞ。貴様などふだん渾厚底な咄を聞て、某か如此物語をは甚た粗厲と思はふが、斉人王を敬ふの筋ぞ。今日たれにても足下をば挌別にして胸中あけまい。あける人あるとも量簡ありて時節まつならん。集堂曰、先生如此御心底殘さず仰下さる、いかさま御咄面白ことなり。曰、如此申す、いかさま無礼に非す。謙退はいやみ、却て失礼。某は孟子の大へいなり。そふ御聞下されば辱い。足下道徳質厚餘りあると承る。善藏方ても貴様をは別にのけて恭敬してあるそふな。大名の下屋鋪なと御成門と云あり。君を敬するのなり。又御上り塲の類、これも君を敬するなり。されとも朋友の間に上り塲はなし。それと云も足下の御身持□謙遜ゆへならん。道学を得るためにはよふないことなり。足下は故へもあり、大人の御手紙、集堂安左衛門とあるを度々見た。迂斎阿波矦へ行く時のことなり。然れは貴様も旧知と同ことなり。大人は御用人なりや。曰、あれでは目附役と申し用役なり。曰、御手跡も見事でありき。誰なるや。曰、赤井得水なり。先生曰、ああだん々々先刻の醉が出る。集堂曰、先生江戸へ御出もあるまじ。追て不審など御正し蒙りたし。曰、それは决して御よしなされよ。さて久さ様御馳走あり、参りたいこともあるか、又と思立つことがいやなり。そこできめずに置くなり。某が貧な処へ反物など賜はり如此着てあたたかでよいが、道を任せぬ身はこれを當然とは思はぬゆへ、若しや進物好きになるはいやなり。田舎にてとふもならぬ。果は桺の枝へ首をくくるで有ふ。某などは此まて一尺ほどある灸すへてをる如し。貧苦も身に切ならず。集堂曰、某も略服ならば黄昏迠も御咄承りたいか、却て御窮屈にも思召ならん。御暇乞はん。曰、よい時御目にかかりた。大ふ御よはい底、御養生專一、死にますな。からだは太極の入れ物なり。摂養はかのさら々々かよい。必す死ますな。某今日か永訣ならん。此夜、文問、今日集堂への應接向きは温柔質厚の人なるに、先生粗厲遨情の御あしらい甚氣の毒に思ひき。されとも深き故へあらん。曰、惹起友其人、左丘明耻之。それを惹して交ると云ことはない。なんても学識合はぬものと見事つくするはあしし。先年迂斎上京のとき、尚翁と懇ゆへ、三宅石菴に迂斎も出合ふたことを直方先生大ふ呵られた。弓五郎は鳩巣学なり。鳩巣もわるいことはなく、又あの男も質實なればなにも異学を辨ずるやうな筋ではなけれども、直方と違ふものに見事するはづはない。道学標的もそこなり。此方の学に歸するなればあふ云には及は子ども、あの徒はそふでなし。あちに一つありてそれに合へはよいにする。鳩巣を本尊にし、又、よいこともあらはこちをも取るのなり。すればそれをかくして美しくすることなし。賢も知る通り、これ迠一時の激論はせぬ。されともあの類をばそふせ子ばならぬ。これは人へは言はぬが善藏も如來や。塚田の間にあふして交るは見事をするなり。○先生謂諸子曰、あの男のやうなは方々の癖になる。ことによると異端より害ぞ。あれでも氣に高ぶりが見へる。そこで種か嶌なり。されども余程□□いも食はせた。文曰、上下でなくは長く咄そふと云き。曰、向か上下なれはこちも上下て挨拶するはつなれとも、旅中隱者かそれに及は子ども、弓五郎も某惣体か不遜な挨拶と見てよろこふまいなり。
【語釈】
・敦篤虚静…近思録存養70。「敦篤虛靜者、仁之本」。
・木下…木下平三郎。
・赤井得水…
・惹起友其人、左丘明耻之…公冶長25。「子曰、巧言、令色、足恭、左丘明恥之、丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之」。
・三宅石菴…江戸中期の儒学者。名は正名。字は実父。号は万年。京都の人。観瀾の兄。懐徳堂の初代学主。朱子学に陸王の学を倂せた自由な学風を立て、鵺学問と評された。1665~1730
・塚田…

○善藏、訂翁へはあまり行かす、山田清二へ行く。あのくせがとふもならぬ。温厚和平素人はよし、学者はすまぬ。或曰、服氏、岡田氏を先生々々と云。曰、学友にないこと。○今日はあたまから先日咄しの熊坂なり。まだ一家きめ子はならぬが恐れあることあり。文太もあれをばむっとして居る。○或曰、集堂親によく孝と云。曰、さぞそふであらふ。よくなければ善藏もあけては通さぬ。此方は其ことてない。たとひかったいでも道を明かす学脉のことなり。教官にはちと氣がぬけているやふなり。謂恭節曰、容貌は上總の宇右衛門再來なり。九十三で死した。○重太郎、昨夜はうつりたが成佛はうけ合れぬ。皆文太が手柄なり。学者は師をかるく云ても、それも知見なり。それはよし。されとも師にをひつかれぬものそ。
【語釈】
・山田清二…山田静斎。名は清省。字は子野。精次郎と称す。伊予今治の人。京都に住む。寛政6(1794)年4月17日没。石王塞軒門下。
・かったい…乞丐。乞食。人をののしっていう語。ばか者。
・重太郎…

○或曰、西村惣五郎か、先日吉五郎が文章を以て初見したを呵ふとなり。曰、それは師を尊ぶ方からぞ。不器用なことして社中の飾りにならぬ。黙斎にあなどられやうと云からのことなるべし。されどもそれに及ぬこと。○こちの身分はかりがよい。川黨蜀黨はわるい。思入の咄がならぬ。○小松原の親子、善藏とも合はぬと云。又、善藏は小松原老人をは立るとは聞及へども、ほんに立はせまい。つまり都下の学者はやるとはやらぬあり。そこは人欲なれども、はやるのはゆっくりとかかる。某は善藏と振合か違ふゆへ、うけよいはづなり。○集堂今日かへりに上下の言やうはどふか。快活にない。某ならば今日は上下の着損をしたと云。平和なは滞になるものなり。
【語釈】
・川黨蜀黨…伊川による洛黨、蘇軾による蜀黨、劉摯による朔黨があった。

○或曰、服氏は先輩をのけて自家を立る。曰、道を任するとそふなる勢なり。我を立る段は小市もそふでもあったか、小市は又先軰を発揮した。○文問、集堂へ行藏よいと思へは善藏とは合はぬはつと云は如何。曰、善藏は行藏を一変し、あれが氣質変化でよいと思ふ。○幸藏や小市か人を呵る。議論のつっかかりを、をらがやうなことでなし。○原田源左衛門は君子人でありた。○或曰、岡田氏は服部よりわるい。曰、それ々々に取得あるへし。○或曰、明石は如何。先生曰、高須も行きたな。曰、然り。大学の講釈なり。農商醫卜にはならぬと云き。曰、あれは講釈は下手なり。某部屋で明石、幸藏、良仙豊之助、一六の日輪講せり。
【語釈】
・良仙…
・豊之助…

○上總の馳走は徹上徹下蕎麥がよい。黙斎がふるまいとても、あれにとどまる。某上総にをるが絶景と云ことても樂みと云ふことてもなく、居なれたのみて哺啜によいゆへぞ。然しそれもつつかずは、かけた椀でも持乞食に出る。文曰、同じくは居は堀上がよからん。曰、いや與五右衛門や重二郎がわるさでも見へてはわるい。曰、遠きは芲の香、重二郎いくぢがない。馬などにかたられる。曰、書物も文義かあの通り、どふもいくぢかなし。去秋月にかへると云ゆへ某か扚をして飲せたか、あれも氣の毒か大きに醉出し、やっと出るとそこらへ小便し泥のやうになって帰りき。こいつ筋は一ちよい。又、人の巣穴をつくは垩賢のやふに明なり。そこは悪德なれども知見なり。そふたい、すんだときはさへる。某もかなはぬ。玄朔がやうなり。よい日には與五右衛門も細屋鋪も及ばぬ。恭節曰、與五右衛門もまだいかぬ。文義もわるい。文曰、さにあらず。節要會などよくすむ。其段になると重二郎などどふも及ばぬ。先生曰、社中の者皆糟がある中々□□は出されぬ。
【語釈】
・重二郎…中田重次。十二。東金堀上の人。~1798
・細屋鋪…花澤文二。林潜斎。東金市堀上(細屋敷)の人。

○多田は御用の足りる処、学問の外に二十口でもよい。先年寺社奉行てすめぬ公事が右近様へ來たが、あのもめ二十年もかかりたらふ。それを片付たは多田の手抦なり。そふなくは今にすむまいと思ふほどのことなり。○幸藏が講釈、なまりがあった。白刄はやへば、白刄をふめばてい々々痛いことではないと云たれば、満坐笑出した。惣体今日知見ないと人に講釈もわらはるる。これがのってよむときのこと。のらずになまりはないものなり。○或人曰、なまりか岡田にはないやうなり。曰、静によむときはなまることないものなり。のりて我をわすれてのこと。○今日の大言わるい処へ來て、九郎兵衛殿こまりたらふと恭節に云へり。
【語釈】
・九郎兵衛…吉武九郎兵衛?唐津藩老臣。

○澤菴へ猷廟の重箱に麩茶入に挽茶入れて賜ひ、狂歌に、一ふくは引茶なりけり。此箱はふとおもひ付□□せにけり。澤菴返しに、世に合へは茶のよさよのよさよ挽手なる天の橋立。○□□□箱根に菴を結び学問にのりぬと云。□□□訪ていかさま風景と云ひ閑寂と云ひ、本意のことうらやましと云たれば、今日なる事とて追出したと云。この條、何本翁の話と覚ゆ。江戸にて補たし。○仲遷曰、白隱掘田矦の屏風へ龍田川の歌を書、又、かたいものはごとくてっきうと書たとなり。○日原曰、仲遷は伯隱に参禅したが、何か書てくれたと云。先生曰、いやそふでなし。伯隱人を馬鹿にした顔。むかし某し賀古権藏と連立ち鼻かけ地藏ての談義をききに行た。其顔かよかった。今の禅坊子はこんにゃくでこしらへた狹箱持のやうじゃ、ぐにゃ々々々すると云た。○丹波の湖月か死たれは火かきへたと云ふを、一僧曰、いやまた原の伯隱と云大たいまつかあると云ふ。○福井良助醫で儒をした。それは猶よからふと思ふ。某近年道体ても為学上でも譬諭に多く医を用るがさて々々親切なり。○初学はかたい心の外はない。一切を謹で是非せずはなるまいと云で学問上らふ。某なども仕そこなふた。今はさへも云はぬ。篤行でなくては隣のたから。
【語釈】
・ごとくてっきう…五徳鉄球。
・白隱…江戸中期の臨済宗の僧。名は慧鶴、号は鵠林。駿河の人。若くして各地で修行、京都妙心寺第一座となった後も諸国を遍歴教化、駿河の松蔭寺などを復興したほか多くの信者を集め、臨済宗中興の祖と称された。気魄ある禅画をよくした。諡号は神機独妙禅師・正宗国師。著「荊叢毒蘂」「息耕録」「槐安国語」「遠羅天釜」など。1685~1768
・賀古権藏…
・丹波の湖月…古月禅材。禅僧。1667~1751
・福井良助…

○或曰、李延平左傳云云。曰、そふ云ふ意てはなし。あの左傳にしくは思はれぬ。延平が左傳を愛すると云ふに精彩あり。川口三八とは違ふ。上達すると事より外はないもの。そこを李延平の樂んだて有ふ。あれでは胡氏傳は三文かものもない。さて揚亀山王荆公を上手に辨ずるは、全体が道体から來て事に通暁なり。揚亀山を人か閑散で只書物ばかり讀て居ると思ふがそふてないと朱子云へり。甚經済も手に入た人なり。淵源彔の上疏ても知るる。大安石が功業人敬之私とは事かち。皆大ふ下卑たことに思はれ、心法からでないゆへあの仕ざまと云のなり。させたら王荊公が半分にもなるまいが、又、ひびく処かちがふ。楊亀山はそふしなると云、せふとせず、當然をする。覇心覇術かたでないゆへ違ふ。我子を打て進出しても晩方にはかへるなり。鳶風巾のきれたはかへらぬ。そこで楊子、をれか方には心からすっと行く手短な仕方があるとて、王荆公が事為法度の末てさわくを笑ふ。そこを朱子、亀山會事と云なり。孟子の心上より説き來るを経済と思ふ。外邉用計用数假令立得功業ともと云は、後ろに王荊公をあてて云ふなり。楊亀山大きなこと。南軒も其通りなり。ををや幸田も衍義補をは假りぬ。さて経済は事師を呵らぬこと。直方先生の、をれに御代官仰付られると手代共に聞てすると云へり。儒者は吏にはならぬ。頭になりて吏が向にある。それをよつつかふはかり。吏も代官も功を立たかると民をいためる。此方にあることで、賄賂も一人手にやむ。既に今がそふなり。制するに及ばぬ。此間も滝川の問に、經済のことてなく、三先生の御命日はいつかと云てきた。さて々々感することなり。
【語釈】
・川口三八…
・揚亀山…伊川の門人楊時。字は中立。号は亀山。1053~1135
・王荆公…王安石。北宋の政治家。字は介甫、号は半山。江西臨川の人。1021~1086
・亀山會事…
・外邉用計用数假令立得功業とも…

○講釈も軍を出すも同こと。をらなどでも人があきる、すると短くしてやめる。易の道なり。そこで利害にもなる。利害にしても早くにげるはよい利害、出たがるはわるい利害なり。○家老用人衆へも云た。長藏を上総へつかはされるはわるい。長藏は江戸で字彙を引き吟味するがよい。上總を江嶌鎌倉にするはわるい。○謂恭節曰、との藩中ても夜る出ることはならぬもの。出るはあしし。來ても益なければくるに及はぬ。君命ても人を取立ることは大和尚てもならぬなれば、それはせふこともない。出来ぬことにして、東溪か後、鞭策録排釈彔始めた斗りが手柄なり。賢は力らなくて平居にくぶりな顔なり。それも生れつきならふから是非もなし。小源太貴様は学友なれば、長藏か耳へも某などの耳へも入らぬことか有ふ。そこを聞たら氣を付け玉へ。始め江戸へ出たときは長藏で奮起したことも有ふ。淺見其外の云ことを直方もきいた。学友そふしたことなり。長藏とかく日原へ行がよい。笑曰、とかく長藏は灯燈持なり。一旦は旦那も従ふ。

○善藏門に負けまいと云其俗情が大負なり。皆俗情の軍ゆへ麁相てもまあすむか、ほんの軍ならどふすむもの。とりかへしはならぬ。○本の主静はなく、色荘者のそしりあり。○會讀も似たか々々々の説はどふてもよいのに、前からして長藏など長く爭ふ。それゆへ次の章ても滞る。人情が皆その通り出ては見ぐるしい。それを長藏は義と心得へる。今は經筵官なれども、人が信せすは士卒かどふも動かぬ。ちとをどけでも云がよい。それとも下手なれば大害なり。かの権八ぞ。とかく目はしきくかよい。つとめにくくなるもの。これ迠と違って学問も味かぬけるとはや一句もあるまい。今度黙斎が講釈がひびくとて、それを笠にきてはわるい。太夫は知がある。何もかも合点なり。あのやうなもないもの。

○或問、豈唯兄弟父子也。曰、似ぬと云ことなり。東坡と子由が類なり。子由存養ないゆへ飯をくひか子た。心にきたないものなる。東坡一旦はあふでも旅上さっ々々と食った。程子へ歒當豪傑なり。因云、善藏か史記漢書のこと云たとて、それをいつ迠もひくいことと思ふことでない。文曰、仲遷恭節へ、服子史傳を見れは先輩の非か知るる、と。それから洛黨蜀黨か始りた。一言以蔽之なり。をれなれば用心するが、あれは君子人なり。思ふなりを云たもの。今ては善藏は忘れて居やうなり。一度そふ云ふたを幸のやふにして、とかく善を軽するは益をもとめる心のないのなり。をらが勝つはこそくり勝なり。多くは勝はをぞ。必竟今をらなどが言ふものはない。それが何しても御座へ出されぬ。源氏のともぐひなり。あの直方などても浅見と義絶、ほめたことでもなし。されとも先軰は理ばかりなり。氣の手傳はない。角力も取り手が二人よると立合がながい。をらはだまし手か早い。直きに取てしめる。十八九の時はむせふに学者を投けちらした。今は道を任ずるでもないゆへやめた。若い時はぐわんせなしになげた。殊の外よく切ちらしてこちに切れものもった。それもただてもなし。とかく直方先生を打つ者をつかまへて取てしめた。いかにもなげ上手なり。其時分からをらなどは長く言はせずにやっつけた。今日のははやく初手からきめぬ。なにやらはき々々ない。三つ子の魂六十迠なり。いかさまろくに知らずに直方を疑ふは腹も立つなり。○唐﨑幸田は氣にもたなんだ。行藏も坐つきわるくなし。小市宗伯はあまりしらける。某とかく長いはいやなり。短いことがすきなり。
【語釈】
・豈唯兄弟父子也…
・ぐわんせなし…頑是無い。幼くてまだ是非・善悪のわきまえがない。

二十八日晴。○瀧川君來訪。礼卒り、先生曰、先日は先輩生卒のことよふ御尋下された。これ迠人の問にあつからぬことなり。瀧川、先達遺事の話より墨水一滴のことに及び、先生外にも御著述有ん。曰、年々發明の書たもの、其外門人か録した講義の類、必竟これも有り過るなり。滝川氏、幸田先生語録のことに及ぶ。曰、幸田語録、佐藤八右衛門か録し、弟平二郎惣藏なとが詩を集めたを某附録にしたが、いかさまはや面白ことなり。曰、某も御急きと存し見殘せり。某方にも講後の学談も詩なとも書とめてあり。附録にも載せたきもの。曰、左太郎様には如何。曰、これは適孫承祖なれども、志もなく今二十も越す。性質温和の方なり。曰、なにぞ事を仕出さるへきや。曰、事は出さす。先生曰、それはよき方なり。志なきは是非もなきこと。君子之澤五世而絶ふ。なまなかのを学ぶよりはそれも然らん。某あの語録で感慨する詩は某ならぬゆへ、あれにすまぬこともあり、中にあなたのこともありき。曰、七月のことで、あのとき某贈荅せり。曰、御実父様御学力は甲斐なかりしが氣象よかりた。幸田にもいかふ合ふた。兎角あの詩集を見るに付てもなり。瀧川曰、先生御滞留長くは御講書希へども、どふぞ御一宿さるまじや。曰、先日慇懃に仰下されたれども、どちらへも出難し。太極圖説御懇望のことは講義上總より日原へ出し、それより御借し申すへし。滝川云、某八つの時養子に参り、をぢ深沢いかふ前事に手懲したことありて、某十八の時迠他の交りを禁しをしこめられ学問もならず、素讀は少々実父に句讀を授られ、それ迠に自身の力らにて五経迠すみ、其年病氣發し漸々他出するやうになり、妻もむかへ小普請になりたゆへ学問もなりた。其前には間に幼な心にせつなくて自滅せふと思ふたこと度々ありた程なことなり。其後評定所つとめになり、又、西丸表御祐筆になりて去年迠勤め、ふと御代官に仰付られ出羽村上五萬石支配す。江戸より九十五里あり。曰、酒井左衛門殿へ近かるへし。象瀉へかかるや。曰、立よら子はかかるまし。御用なくては一見もならず。曰、然らん。朱子も御役中は三年慮山へ登らず。御役御免の時あれへ遊んた。山北紀行も其時なり。滝川、幸田先生墓誌銘の艸稿を示す。先生曰、或人足下この御碑銘をそしりたが、鳶飛魚躍の字が出ればこれでよし。曰、謚のこと如何あらん。近江守など議して望めり。曰、私にと云はわるいがそれもまあ然らん。十分なればもと謚は上からのこと。私にはせぬ。温公も横渠のこと議論あり。去れとも林家にはあること。仁齋も古義先生とをくる。此例あれは上へ對した忌ことなければよい。許魯斎もそれなり。尤幸田の高見望あるまいと云はふが筆者の量簡なり。曰、一体幸田の量簡にはあたるまいが、近江是非にと議せり。
【語釈】
・平二郎…
・惣藏…佐藤重遠。一名は尚義。総蔵と称す。佐藤復斎の叔弟。新発田藩儒臣。天保年間に没。年76。幸田誠之門下。
・君子之澤五世而絶ふ…孟子離婁章句下22。「孟子曰、君子之澤、五世而斬。小人之澤、五世而斬。予未得爲孔子徒也。予私淑諸人也」。
・酒井左衛門…
・鳶飛魚躍…中庸章句12。「詩云、鳶飛戻天、魚躍于淵。言其上下察也」。詩は、詩経大雅旱麓。

○或藩の談に及ふ。曰、彼藩も幸田もとかく事にはぬけあり、あの節は以の外なり。滝川曰、学者で有なからと評もありしよし。曰、とかく見処甲斐ないと大はぬけて小を丁寧にするもの。とかく人君学をこのめはこのむに付てぬけもあるもの。○渋谷意斎來。先生曰、今度炉中十四年の火を消して來た。曰、それは殘念なり。曰、眞の好にもあらず。先年旱魃の時教のためやめやふとしたか、それも石原先生のしそふなことなり。形てするもをかしとそのままをく。意斎茶を袖中して贈り、自ら立て閑談してかへる。年七十九となり。歸後先生云、茶の立やふ、名人なり。利休と云へともあの外あるまじ。
【語釈】
・渋谷意斎…

○滝川云、今外にはなし。岡田に交る。折々御噂さなり。岡田は始め内山傳藏、村士川。に素讀し、それより村士へ参り学びしと云。又、今度はよら召出されたと云き。公義へは文学でなく經学で召出されたそうなり。某芝野美藤へもをふ。熊藏は至て才子、徂徠派て文章達者に書き、只今は純粹の朱子になったと云こと。○幸田語録秘すへし。さしつかへる。訂翁などもそれなり。幸田子城府を設けぬゆへ志ない人にも合ふて、それで無学はそしらぬ。却て学者には邪魔になるゆへ人々そしる。京儒でも誰でも子供あしらへゆへ、学者の方では思付わるい。滝川曰、没前は酒もやみ友もなく、ひたすら墨水上野など遊山に出られた。先生曰、石原の跡もたへたか。只今ての墓所へつっとどけするものもあるや。曰、野田幸藏と云者あり。曰、それは設樂七左衛門殿の御息たちかなり。
【語釈】
・内山傳藏…
・芝野美藤…
・熊藏…

○滝川曰、文を習ふこと如何。曰、詩と同こと。天授もあり、自然と出るかよいなり。習ふには初めはかなに書て見て、それを文にすればまあ用むきはすむ。徂徠か譯文なり。曰、東涯復文あり。垩堂でも書せて吟味したか皆違ったと云。某垩堂て岡田の論語首章を承り筆記したか面白こと。精密發達なり。行藏か弟子と見へる。自分は一家の志そうなり。宗伯ても力を得たと云き。○滝川曰、某榮次郎と連立て明石の白鹿洞掲示、大学、大学をよむときは威儀あり。勿論小学なとも承りたが、善太郎などとは一体違ふた風調。菅野勘平講釈も器用てよし。善師あらばよくなるべし。桺田曰、常四郎、一体英發なり。志立たとも云はれず、年若ゆへどふならふか。金は持たと見へる。○滝川曰、行藏明石に逢たいと云て、病氣付たを明石か方から尋子られ、行藏牀に居り肩衣置て逢ふたと云。明石も平生胸にないが出ると云き。曰、明石、任する男なり。それは実心と見て尋たもの。
【語釈】
・菅野勘平…菅野綸斎。字は子和。勘平と称す。寛政11年(1799)7月5日没。菅野兼山の子。三宅尚斎門下。
・常四郎…

○滝川曰、幸田某に狸を食へ々々と云き。或る時それを買はれ、既に煮やうとせしを、をばが春は毒ありと承ると指とめられ、食鏡出して見たに、なるほど春はあしきとあるゆへやめけり。或時など古き白鳥だまって食はせられたことあり。○滝川曰、善太郎晩年没前なとは大ふよく精義持敬久而誠なり。没前は酒もならなんだ。死の前日に某に酒を勧め、一休か書た物などをかかせられた。それを死後は叔母が霊前へをいたり。翌朝病革り、人参りたゆへ某かけ付たがもふ間に合はなんだ。其前に精神は正くて、折ふし明道先生に御目にかかるの、或は石黒平二太殿先へ御のりなされの、某にかまいなく飲がよい、遠慮はわるいの、又、御前などの御うわさなども申して、直きに又あとては正しかった。臨終の前歌を讀み、上の句計り出來て下の句はどふか出來ず。自筆にてかかれたが、文字も讀めかぬる。今これは叔母が所持せり。

○滝川曰、善太郎晩年の詩など佐太郎に書とめ置べしと云き。卒前一両年詩も餘程あるはづ。某集る積りなり。反古ども迠もをばに取あつめさせ一とくくりに仕まい、それと病中枕もとの書も一つにしてあり。土藏や書物箱の書どもも改て見たいが、佐太郎吝ひ男ゆへこまる。栄二郎もかし惜みなれども、佐太郎は甚しき方なり。嫌疑あるゆへをばへ申し、どふぞ追てしらべる積りなり。栄二郎三男は少し役に立つやうなり。當年十四歳になる。善太郎が学つけばよいか、素讀は器用なり。四書より詩書もすんで、長田三郎右衛門へあつけて毎日参る。佐太郎は至て質朴、女のやうな者で人の應對指をくはへる方なり。末の政之助は才發な生れなり。○某先年本間殿を戒めて、何もきゃうさんに云こともない。大害か小害と云ことあり。只今博奕すれば改易遠島、大害ぞ。さて、密夫のこと、鰒汁のこと、大害なり、つつしむへしと云たれば、先公の、それはあらい論だが、又三がの面白ひ。但し豚魚はすこしばかり、と。坐中大笑す。

○滝川曰、幸田、明石が髪長いとて、鋏を持て切ふと明石をつかまへてきりにかかり、とめてもきかぬ。明石もこまり、何分御免とやう々々わびしてすんだ。幸田、宗伯は髪にも人欲ありと云た。先生曰、明石は全体髭髪より爪迠も父母の遺体とて太切にした。愚ではあるが、又、めったにないことなり。最ふ一人外には明石は出來ぬなり。滝川曰、金ばかりためたがると幸田云き。曰、幸田類焼のとき某を急によびによこし、どふもならぬ、ちと世話をせよとある。予云、溝口より外はないが、これはそちてするへし。土井の方をせはせんか、多は出來まい。宗伯は錢百も出す者でないが、しかし某をにくぬ故ちとたしなませ、離れた者をやりせかせる積りにせんと、葛西の名主をやりた時に、きついやつなり、一文も出さぬ。

○西村惣五郎來。御示をと乞ふ。曰、貴様などは書を見るでよい。語類そらに覚へると、それ々々病がある。西村曰、仁は愛之理心之德と云へども、愛之理では今日工夫にならず。克己復礼や仁は人也の、敬恕の、恭寛信敏惠などより参らずはなるまいと存ず。曰、そふ並べるには及ばぬこと。敬恕も仁人也もそれ々々筋のあること。又、愛之理心之德は名義なり。愛之理は面目を見せたもの。固り功夫てはなし。但し人には惻隱がある。そこからなる。克己復礼は顔子のこと。功用の一日は成功の一日なり。外の者はならぬが四勿をするは小学てもする。なにも心にあり。百姓は日用不知ぢゃ。
【語釈】
・仁は人也…中庸章句20。「仁者人也。親親爲大」。
・敬恕…論語顔淵2集註。「愚按、克己復禮、乾道也。主敬行恕、坤道也。顏・冉之學、其高下淺深、於此可見。然學者誠能從事於敬恕之間而有得焉、亦將無己之可克矣」。
・恭寛信敏惠…論語陽貨6。「子張問仁於孔子。孔子曰、能行五者於天下、爲仁矣。請問之。曰、恭・寛・信・敏・惠。恭則不侮。寛則得衆。信則人任焉。敏則有功。惠則足以使人」。
・百姓は日用不知…孟子告子章句下2集註。「楊氏曰、堯舜之道大矣。而所以爲之、乃在夫行止疾徐之閒、非有甚高難行之事也。百姓蓋日用而不知耳」。易経繋辞伝上5。「一陰一陽之謂道。繼之者善也、成之者性也。仁者見之謂之仁、知者見之謂之知、百姓日用而不知。故君子之道鮮矣」。

○葛西吉左衛門來り咄の上へ曰、某艱難の時は必善太郎様とあなたのこと思ひ出す。○西村、節要を會讀せふと云。曰、それは親切、今日は学者たちに四角四面なこと云はれ、ああ大きに労した。小源太脊中もんで上けん、と。いや看病は入らぬ。をらもころりとがよい。それでも吼へもせぬ。幸田が死ぬときはそふでないもの、と。○松五郎問祭祀云云。曰、庻子は酒果を具て望拜す。神を分けると云ことでもない。酒果を供へるでこちの誠も立つ。紙牌もよらせぬやうにするが、それほとの目當てはせ子ばならぬ。五節句も國でせぬ。こちも神主ないゆへそれも苦しふあるまじ。○問もこまかになると一文乞食の筋になる。道中でも望拜するかと云へは、道中でも小便するかと云やうなもの。小便は立てするか居てするかに及はぬ。
【語釈】
・葛西吉左衛門…

○松五郎、今学ふ処ないと云。曰、書は何を見らるる。曰、温公通鑑を讀、今綱目を讀めり。どこになりた。曰、晋なり。曰、唐をよく見られよ。又、宋朝の續編が面白い。賢、小源太と学ぶがよし。あれも一方の儒者とは云はれぬが、組頭なり。請合て平らなものなり。奧平も段々よくならふが、若いから保たれぬ。○或人節要を讀んと云。曰、上総で櫻木誾斎が濱町のかたをくつしたゆへ、某が節要訓門人を第一と主張したが、賢等は又何ぞあるべし。あれはさきへよりてもよし。○恭節、何ぞ面白もの讀もふと云。曰、君矦と太夫の前でする講書の処をとくと吟味すべし。それを吟味するか即事君致其身の一つなり。小学の賞故など幼君に委曲申すに及されとも、すまして置て云はぬと、すまずによいかげんを云とは大に違ふ。すむと言はずに居ても精彩が違ふ。錢ない人のつかはぬと、錢ある人のつかはぬは格別なり。それと同しことなり。
【語釈】
・事君致其身…論語学而7。「子夏曰、賢賢易色、事父母、能竭其力、事君、能致其身。與朋友交、言而有信。雖曰未學、吾必謂之學矣」。小学立教にもある。

○或人曰、只今はとんと議論が出ぬ。曰、経歴利口になったのなり。然し、かわゆくはなった。某れの人も氣質変化なり。○謂松五郎曰、欽二があとは貴様へ廻る。今日の通りでは大そふなことはない。誰でもすむ。○因に云、あらかしめ設けるはわるい。致知格物のこと、有物有則と云こと。○先生曰、某し人に交らぬはいろ々々きこへてわるい。○溝口半兵衛曰、某心持の覚悟を承りたし。曰、平生のこと知ら子ば一言には言ひ難し。先つ外にはない。誠心なり。曰、いかさま幸田先生も某へ言忠信行篤敬と示されき。曰、それでなければ太夫の體でなし。言忠信行篤敬も誠と云も同ことなれども、只誠と云は大なこと。欽二曰、治教録に云云。曰、あれは同じなから事をするときのことを主にして云。
【語釈】
・有物有則…孟子告子章句上6。「詩曰、天生蒸民、有物有則。民之秉夷、好是懿德。孔子曰、爲此詩者、其知道乎。故有物必有則。民之秉夷也、故好是懿德」。詩は詩経大雅烝民。
・溝口半兵衛…溝口長裕。半兵衛と称す。新発田藩老職。稲葉黙斎門下。
・言忠信行篤敬…論語衛霊公5。「子張問行。子曰、言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣。言不忠信、行不篤敬、雖州里行乎哉」。

○謂恭節曰、酒はわるい。經筵官其舌ではならぬ。周公の殺すと云。あれも必殺しもすまいが、あれほどのことなり。○會津公言行記にある。家老の中酒はのめとも酒狂せぬと云ふを、あれらが身で酒狂すれは改易すると云へり。又、朝鮮人太子酒の災ありたれば、一朝皆飲まぬ。某も君侯の前てはあまりのまぬ。某が飲まぬとて役にも立まじ、飲んだとて矦も飲みもすまいが、幼主後々のためにはつつしむべきことなり。○溝口氏曰、某か家、実名に長の字を以て穪す。幸田先生に某か実名を乞ふ。先生直きに長雄と名け、此二字終身之要と書せり。曰、そんなことも幸田は器用なり。○河村順治來。束脩扇子を納る。
【語釈】
・河村順治…

○某上京のとき訂翁と議論はせぬ。議論したなら合ふまい。氣象はよかった。訂翁毎年下加茂で鴨を食はるると云ゆへ當年はと問たれば、食たとも々々々々と云はれた。某も、でもそふは有るまいと思ふたに、むく鳥のつけやきをぱっきりと噛まれた。うそはない。朱書抄畧のことで二階へ取に上られたか、すこやかさ若いもののやうであった。某を遊山に誘引はれたが、某足のやくにたたぬことを申したれは、なんとどうぢゃ、三本木迠は御出もならふと云はるるゆへ、それも参られませぬと云たら、はてさてとて嘆息せられた。○趙人がつかいよい。溝口矦の諸子を云なり。○小松原云、駿河様では三十口ほどなり。先生曰、某はもとから出ぬか名を好でもないか、とかくぶせうなり。行藏小市りきむ。廉介を賣ではない。任するなり。某は只うるさい。○小松原曰、秋月日向侯の大塚太市郎大坂へ勤学に出、たしか久米先生へも参り、幸田先生へも出たなり。○先生因に云、知がありて行のわるいは知に子しがない。○小松原云、少年のとき詩を作り岡田子に二三年親炙す。

○今日鈴木五郎右衛門、同狂次郎に宗家あとのことに付て、即八藏へ先生語らるるに、麻布の舅氏の方は狂二郎然るべし。舅氏、狂兄を愛してよく容るるとなり。萬一難渋言はば、某しこれ迠公所したことはないが、訟に及んでも此老人がそふせ子ば合点せぬ。○先生語文曰、皆か益を得たい々々々と云。昔から云ことなり。順二もそふ云ゆへ、賢は酒のあつかん好むそふなが、それを飲まぬがよいと云た。文曰、氣の教なれども端的ならん。河村氏酒査鼻の底に見ゆ。○此日館林公川鰭氏使者にて燕服二領銀十枚を贈り餞別とす。及ひ酒一樽取肴二箱味噌漬鯛一桶なり。

二十九日晴。日原小兵衛再び來り訪へり。○小松原十太郎、戸田政次郎、宇津木和平次、其外新古の諸君各々餞別す。○松倉氏主水書を投して餞別の贈ものあり。先生も行て昨日君侯の餞別の賜を拜す。松倉氏の家從、主人にかはり一書あり。
【語釈】
・宇津木和平次…宇津木縮斎。名は敬寛。和平次と称す。播磨の人。御牧直斎にも学ぶ。合田麗沢門下。

先生老君儼然辱而臨藩邸也。蒙之時至矣。而我不昊天、回禄為災、蝸居唯容膝。我郊労之不謹、職是之由。君子海量幸恕焉。先生不鄙我不腆、由哀以謹披瀝啓迪、勤々群臣亦與有餘栄焉。寡君敢懋先生之勤、敢嘉先生之勞矣。嗚呼命耶、天耶。無奈藩営未成何。亡幾先生告歸。我亦不能留焉。伏以先生中和之盛、見者則之、聞者傚之。冀藩営成之後幸為不遠千里。夫來学、禮也。往教、非禮也。雖然時与地異矣、以従冝為禮、先生之所固知也。而先生天民之先覚者也。無苟言獨耕尭舜之野、獨樂尭舜之道、使後生則而傚之乎。是亦為政也。固寡君之願也。先生老君少留意於興蜀。萬祈炤鍳。
  右謹啓上
大德業稲葉先生 座右
  于
寛政甲寅之春三月代主公
小臣 卜濟卿稽顙拜手盥漱書
【読み】
先生老君儼然として辱して藩邸に臨めり。蒙の時至れるかな。而して我れ昊天にまれず、回禄災を為し、蝸居唯々膝を容る。我郊労の不謹、職として是れ之れ由る。君子海量幸に恕せよ。先生我が不腆を鄙とせず、哀に由りて以て謹んで披瀝啓迪、勤々群臣も亦餘栄有るに與れり。寡君敢て先生の勤を懋み、敢て先生の勞を嘉みす。嗚呼命かな、天かな。藩営未だ成らざるを奈何ともすること無し。幾ばく亡くして先生歸を告ぐ。我も亦留むること能わず。伏して以てみれば先生中和の盛んなる、見る者之れに則り、聞く者之れに傚う。冀わくば藩営成るの後幸に為に千里を遠しとせざれ。夫れ來て学ぶは禮なり。往きて教うるは禮に非ず。然りと雖も時と地と異なり、冝に従うを以て禮と為すは、先生の固より知れる所なり。而して先生は天民の先覚なる者なり。苟しくも獨り尭舜の野に耕し、獨り尭舜の道を樂むと言うこと無くして、後生則って之に傚わしまんか。是れ亦政を為するなり。固に寡君の願なり。先生老君少しく意を興蜀に留めよ。萬祈炤鍳。
  右謹みて大德業稲葉先生の座右に啓上す
  于
寛政甲寅之春三月代主公
小臣 卜濟卿稽顙拜手盥漱書

○或曰、訂翁の、主静立人極を垩人は動静をか子るゆへ、ここは垩人を云ことでない、と。曰、主静はどふしても道体でなく工夫の字なり。道体と云へは異端がうれしがるになる。貞下の元と云やうなことも静を道体にするにはあらす。立人極の立も建皇極と云も此方のことにて道体ではないが、自ら又道体になるは、垩人は自然とそふしたなり。生知て立もあり、学知で立もある。○太極圖、幸田は上の丸が主と云。某は下の丸も同ことと云。道体は形ない。
【語釈】
・主静立人極…太極図説の語。
・建皇極…書経洪範。「五。皇極。皇建其有極。斂時五福。用敷錫厥庶民」。
・生知…中庸章句20。「或生而知之、或學而知之、或困而知之、及其知之、一也。或安而行之、或利而行之、或勉強而行之、及其成功、一也」。

○伊藤氏群八至り、迂齋先生の談に及ひ、親卯兵衛のときからのこと、先生此度のこと、外記も親存命ならは喜て有ん、と。それに付、実父のことも思出せり。曰、又三郎殿へも冝しくと書状のことも今に覚へき。此間も外記殿に先卯兵衛殿によく似られたと申しき。御亡父様より某亡兄か元服の時、嘉点の四書小学近思彔一箱下されて祝したが、あれは各別な進物、外にないことなり。迂斎もその箱に自ら書付置て、兄があの書へ書入なども致し、兄が家にあり。御亡父遺物とて、廣澤が一行ものの涵養性中天も、迂斎其比冬至や正月など学友の會に掛けり。南條與八方へ末への姪女をかたつけるとき、これも門人ゆへ此掛物をつかわさんと京にて思ひ出しさがせとも、江戸にあつけをき、みへざりき。久しき御由緒なり。通家のよしみと云ものなり。

○半八來り、仲遷も母か昨夜よりは此間の通りでなし。よって御暇乞に参らず。明日は見合せ御見舞申さふと傳致せり。曰、馬鹿を盡すと告け玉へ。此間さへ他出あるまじきはづなり。御老人程の知れぬことはないものを、大病と云ひ火事と云ひ、樂になる旅さへわるい。羅山の痰も火事にのぼせて没せり。直方先生も没年前に京めくり処々あるかれたがわるいと見へる。○先生曽太父山本十太夫正長縁巖宗居士幷に妣杉山氏長慶院などの位牌を新に作ることを圖にして吉野金三郎に託し、淺草祝言寺へ置かるることを託せり。顧文曰、南部の宗家かまはぬゆへ、某年に二度つつ彼の寺へつけとどけする。某ない後は兼て頼みの通りなり。文曰、この一条、先生新に位牌を作るもの。檀寺それに親しみ即今善く墳墓を守らんことを欲して然り。先生百年後のことは上総門人どもへ萬事遺命の一封兼て認ため置かる中に一條、墓田金など配りて墳墓の石除かざる長久の遺畧ありとなり。
【語釈】
・半八…

○嵯峨孫兵衛別を叙べ、朱子鳶飛魚躍の石摺一片を贈る。嵯峨退き先生曰、新安朱熹書の文字は偽筆なり。或曰、この語もと行藏か板にす。強き筆力なり。曰、朱子も悪弱筆と云へり。さて孫兵衛小児を見せたが、両方やくにたたぬ。あれは朴実なもの。孔子も可妻と云ふ。消息ある男。○因曰、餞する人々へ慇懃云へは見事にて貴いが、大へいは覇心なり。天窓に當然なく、これは々々々、首の俯仰を示して云。皆覇心。せわしいこと。王者之民は皥になり。今日家内のことも覇術や老荘も心へのる。佛はそれがない。昭々霊々底なり。思へは佛が高い。地獄沙汰は不断で一つ別にあり、謙開善か朱子のことを昭々霊々底をと云ふた。熹が我と云ことではない。行藏などもそふとりた。幸田死まで禅意なり。昭々霊々より上は手なことなり。禅もうばかかに云時の寂滅為樂はひくいなり。もそっとよい方のは昭々霊々なり。垩賢にならぬ中は儒者もそれ。経済しても三代の通りにはならぬ。なれども今も政せ子はならぬ。我をわるいと思へはまあ王者の心。よいと思ふ、髙ふり。はや役にたたぬ。禅も諸宗を蹴ている。朱子の学も程門よりは不器用な処よいなり。寥子晦連崇郷の二書両方あてて見べし。昭々は佛心。こちの明德と同こと。禅学者うれしかるが、あそこの位付が違ふ。料理も朝から潮煮とさわぐことでなし。ちと面白と、つれにのるにぬけがある。諸藝でもよいと云はゆかぬ。芹玄英はいたづらもの。玄朔か縁あるものに俗な男あり。茶をした。茶もわるい。或る時與二郎の釜をかふた。間なく玄英茶にゆく。待合にて相客に、今日は亭主か與二郎と声高に云で有ふと云たが、正客か御釜はと云はへば、あんの如く與二郎でえすと声高かりた。響の如くなり。昭々霊々も其筋ぞ。得手與二郎と云ふそ。幸田子の禅学を云ふは上は手なことなり。克己も己と云てあらいことばかりでない。與二郎と声の高い筋も人欲なり。萬事に多くあることなり。巧言令色は人欲らしくないが、言へば大酒淫欲よりも甚しい。巧言はよくみへる。そこで德賊なり。知でも鼻へかけるはかのふいご玉なり。落ると死ぬ。俗人みそをあげると云ふ。それがはやそれきりになる処。五六十年前にみそと云ことがはやりた。如水年八十計で何もみそと云こと云べきことがなく、上野で櫻がみそを上ると知らすに云たが文章の上ては面白い。なんでもけば々々しいはみそなり。人欲も君子風も同ことなり。皆みそなり。その内は昭々霊々なり。
【語釈】
・可妻…論語公冶長1。「子謂公冶長、可妻也。雖在縲絏之中、非其罪也。以其子妻之」。
・王者之民は皥…孟子尽心章句上13。「孟子曰、霸者之民、驩虞如也。王者之民、皞皞如也」。
・謙開善…

○大慧か話を頭脳ないと云。御邸の講釈も心つかいなり。平生のか出ると、主水殿でもなに云やらとをもはれん。御幼君は何を呵るやらと思召す。○恭節、韞藏録あれもあぶないことてやけのこりたと云。先生曰、某舊年より迂斎手沢の書を宗伯か藏へ入れ、それもあぶないゆへ巣鴨へやり、又、不自由ゆへ近所へ取寄せんとするに、火の用心こそ第一ゆへ近所第一の藏へあづけた。主人はふらちなり。迂斎を穢すやうなれども、道は道、火は火なり。この心配あれはめったにやかぬ。○淵源録野澤が吟味の本あり。竹原観水野澤むかし會をす。一昨年某正月一月かかり韻府や事物紀原て改たなれとも、まだとくとなし。あれを太兵衛にやり、太兵衛が新しき本にて一昨年某緊要な所の点を改め、障りなき所は板点で置き段落を分けたが、まあ大抵よし。某別に考もあるが、まだどふも知れぬことどもがある。さてあの点は天人地とした処あれば習合の徒の点かも知れぬ。
【語釈】
・大慧…大慧宗杲。正法眼蔵を編纂。宋代。
・竹原…唐崎彦明?
・事物紀原…中国の類書。宋の高丞撰。

○小松原椀を贈りて別を叙ぶ。先生曰、昨夜のやうな輕卒はわるい。某黙って聞たが、あれでは某と戦ふと敗軍する。小松原曰、此上段々御教授蒙りたし。曰、小源太と出會して然らん。かわりた所を見るもよし。然し学者のことなれば大人へ議すべし。○香川玄厚書に冨みて居る。吉祥寺御代拜の時偸胎奪蔭のことを訂すへし。或曰、幸田先生換骨奪體のことと云。○館林矦よりの銀子十枚を今日小松原に託して両替す。金七两と錢四文なり。先生因て曰、四文も太極の分派なり。數はあらはれて至て瑣細なれとも、理に大小はない。ここをさへすぎると作用是性になる。事の上をも同ことと思ふからなり。事の上では軽重ありて大に違ふ。運水般柴。楊亀山疾行ではさへすぎる。朱子のは大学も啓蒙も同ことなり。
【語釈】
・香川玄厚…
・偸胎奪蔭…
・作用是性…排釈録42(朱子語類126)が作用是性の条である。
・運水般柴…道元禅師。正法眼蔵神通。「運水搬柴、神通妙用」。ありふれた日常の行為を黙々と続けることに神通妙用がある。

○さて浩軒様へ出れは昔の一礼をのべ首尾相もよし。館林様は重くせらるる。これからはもふ饑饉食はれぬとき江戸へかけ椀を持ち乞食に出てもよい。日原因て曰、陶淵明乞食云云。冥加もあれからのこと。曰、訂翁も冥加の字目出と二字を書けり。某先年冥加と書てはよいが、今度など書けはよさ過る。さてこのこと日原計り會すると思ふ。曰、如何。曰、五斗米を辞したも乞食もやはり同しこと。皆名節になる。後漢の名節が晋の清談と同ことぞ。鳫門のこと、もはや清談に半分なりた。大久保彦左衛門殿もいろ々々滑稽も云たらふ。君さまにわかるひでも。あれ、豪傑がをどけるをどけはやはらか、名節でないやうなれども、やはり拔くことと同ことなり。
【語釈】
・陶淵明乞食…陶潜の詩「乞食」に、「冥報以相胎」とあるが…
・五斗米を辞した…晋書隠逸伝陶潜。「吾不能爲五斗米折腰」

□□□□高木甚平以上の見所なり。下手へも云云。幸田合番出合なり。大德でも云やうがわるい。をらなどは書生なり。○文數々樽を振って見る。先生曰、もはやそふするに及はぬ。知れてをる。因て曰、堀江九平次初手の在番のとき、矦曰、どふた九平二冨士を見たか。原吉原での事なり。曰、あれでござりますかと冨士へ指ざしたと云。某雜記にも書たが、よく石慶が馬をかぞへたに似たぞ。世説なり。又、或る時國で某の人か死だと皆驚嘆するに、九平次平氣で、先生、迂斎先生を指す。の手紙にない中はあてにならぬ、と。信のあつきもよきもので、始終盈科堂の儒者になりた。京極にも順齋よく似た。九平二も隱居して順斎と云。日原曰、尹彦明、程子にきかぬことはそふなり。曰、剛明経は母の為め、佛を拜したは君の為なり。あれは却て見所なり。
【語釈】
・高木甚平…高木毅斎。名は行法。別号は何久(可久)。甚平と称す。伊予宇和島の人。伊達氏に仕える。延享2年(1745)12月15日没。年73。淺見絅斎にも学ぶ。佐藤直方門下。
・堀江九平次…稲葉迂斎門下。
・石慶が馬をかぞへた…石慶数馬。石慶は天子から自分の乗り物の馬の数を聞かれ鞭で一々数えて答えた。
・順齋…中野順斎。迂斎の弟子。後、黙斎に師事する。丸亀藩士。
・尹彦明…尹和靖。名は焞。程伊川の高弟。紹興の初め祟政殿説書兼侍講。当時金との和議に反対し、学問は伊川の敬を継承して著しく主体的。1071~1142。

○世説に女は色を主とすは、女をたわけにしたこと。あれは色の外には何もないとなり。これは惑溺てはない。○謂半兵衛曰、臣礼を讀がよし。靖献遺言よりは臣礼を讀むべし。臣礼の篇もと無きを、朱子の有ってよいと起されたもの。貴公などは別して讀がよし。通解古注を用ひ、滋味は大学中庸はかりに章句を出せり。因て通解目録に大事あり。朱子の親を出したも面白い。文云、韋斎大中一致之看。あの目録か指南なり。通鑑凡例が緊要なり。浩軒様礼書の世話遊すが皮膚の所なれども、あなたのよいは大名で書生のやうな処が大抵のことでない。中将様以来なり。先日こんなものもありと云迠にて披見及はずと仰下されたは見るなで見よなり。某間もないゆへ電覧したが、余のものなればよほどの事業なり。又、浩軒様賜書に拙宅へも御出なとともの字を仰せらるるゆへ、参上仕子ば禽獣なりと奉復したが、言えは阿諛なり。去れとも舊と月俸をうけたからなり。さて学者には合ふては初手はほめ子ばならぬ。初手からわるく云と折ける。朱子ても一と通り誉めり。有德者のは礼、某などは覇者なり。さて又浩軒様知り過た丈會津様よりよくない。又、今あなたなとを書生にすればりっはな書生なり。あなたのやうな学者もない。

○先生曰、幸田子の顔よし。某がよふではよくなし。恭節曰、先生には毎常そふ仰せらるるが、丁ど唐彦明の、訂翁の顔の色は乞食のやふなと云はれしよし。晩年のを見れは甚上品なり。先生も亦然り。曰、何に馬鹿な。先年福菴かいたつらなにくきやつ。某が像を画いたが、某が面を見ては書き々々、其節をれが秋葉に居て江戸狹箱病ふたときなり。あの像、今志水が処にあり。その写し大に銚子かへたことことなし。きっとしたことで、そふして情話がありた。來會は某が方、遠方御苦労と辞冝合正しくなるほど久而敬すなり。京都ても訂翁がそれなり。今の會不埒なれども、それでも昔の井口がやふなものあると出来ることなり。仲遷が母が長藏をかはいがり酒など出すを、長藏も其時平生の情こわは云はぬ。うれしかりのむであらふ。因云、そんなことも氣運そふな。杜鵑なり。
【語釈】
・杜鵑…ホトトギス。

○若林、美味あれは家内のこらずくひ、酒あれは学友にのませる。これで氣象快活なり。今の武士はたくわへるそふなり。鄙陋なことと語録にあり。若林蕎麦が三斗ありて学友に振舞ふ。荘右衛門にもやくそくなり。それより五六日過て行き、先生蕎麦はと問へは、三斗の蕎麥どふいつ迠あるものかとなり。意氣慷慨の方から飲食まて氣味よし。俗人もうつる筈なり。○栄藏か方へ大豆谷の老人が何ぞ書を借せと云たそふなが、家礼をやったと云。無学ゆへ平生の利口は出ぬ。八十老人に家礼はあまりなことなり。其後靖献遺言をやった、と。これはああよいと云た。老人も某へ家礼歯がたたぬと云き。

○宇津木和平二曰、先師合田氏某引立なく歛退ゆへ訓戒の一語あり。先生これを聞。某亦これに至るの愚悃を示さんとて席上書して曰、

言論活々動作活々事為活々
右合田氏訓宇津木生十二字符、信今日聞之。即謂、是生切病之良藥。但更詳之。言論也、動作也、事為也、順理而已。不必尋活々處、正是活々眞境、是乃受用之實矣。
  甲寅暮春念九日  信
【読み】
言論活々動作活々事為活々
右、合田氏宇津木生に訓するの十二字の符、信今日之を聞く。即ち謂う、是れ生切病の良藥なり。但し更に之を詳さにせよ。言論や、動作や、事為や、理に順うのみ。必ずしも活々の處を尋ねざる、正に是れ活々の眞境、是れ乃ち受用の實なり。
  甲寅暮春念九日  信
【語釈】
・念…「廿」の字の代り。二十。

このやうなことを弟子に云ものはない。さてこの活々の塲へ合下には至られぬこと。某志水へも洒落齋の記勉強底、克己などのことを書て贈れり。足下もなんでも活々活々と心にもつと死活になる。鳥が枯木にやどり、あの未發の塲がやはり活で飛も同こと。活々を求めず、理に順ふ中に活々へ出る。それにつき理の字も直上直下なり。正理の理を引はわるい。順理則裕の理なり。さて、吾子の師合田は定めて忠藏が一家ならん。曰、忠藏か姪なり。曰、忠藏は氣象も心術もよかったそふな。先年をかしきことあり。合田学校へ杜律三体詩の目を書て掛けり。迂斎が責ても肯んぜず。迂斎も上手ゆへ、やかましく云よりはとて、三宅先生へ告げられた。先生腹立し。盈科堂の掛札へなんらのことにと云てやられて、それからやめたと云。
【語釈】
・順理則裕…近思録克己3。「順理則裕、從欲惟危」。

○戸田政二郎問、朝聞道は精義入神の塲なりや。曰、精義入神手間の取れること。ここは覚悟のことゆへそんなこと言ひこふなしがよい。心で地位を云と、聞と云字が立ぬ。戸田又問、老人の為めに設ると云説あり。曰、それも非なり。されともそふみせまいために云たもの。聞たとき精義入神にも一旦豁然にもなる。道理我ものになると安樂なこと。今日からは人間になると云やうなもの。致知力行究竟之門、別に老人と云ことではない。誰でもこちらの悟道のことなり。さて又道学標的は悟道の列になること。朝聞道、工夫も効もないやうなもの。聞が標的なり。そこで又工夫なしに悟ったと云はれぬ。終身ここを得ぬものがあるに、幸に聞たと云なり。朝聞道は性天道よりは粗らいやうなことで重いことと見へる。性天道は名義なり。重いことをのみこみて云たとて覚悟にはならぬ。某太極圖説の講義ありて、中にはよいことも活したこともあるが、成佛するでもなく覚悟にもない。さて、道体の名義を聞て、あれがすめば子貢にも負けまい。
【語釈】
・精義入神…易経繋辞伝下5。「精義入神、以致用也。利用安身、以崇德也。過此以往、未之或知也。窮神知化、德之盛也」。

晦日晴。○夜八皷に起き、轎夫を呼び、さて兼て朝膳は舟中で命する用意ゆへ、昨夜より火はたか子とも、豊田氏、旅館を摂管する伊十郎。を招て火の元屹と點検せしめ、これ迠の謝義を叙べ、先生別れ出つ。豊田老人周章して寢まきのまま帯もせず趨り出て門外迠送る。○亀嶌河岸より屋根舟二人り舩頭にて風の出ぬ内にと櫓を急かせて發す。文詩有り、下に載す。

  暁歸呈先生四首
鳳雛含光彩、老梧蕐幾時。月令季春、桐始蕐。大梁憐客切。別路奈衰遲。
城上連車馬、簪纓南北馳。今朝千載會、何詠考槃歸。
講官久長物。千載子雲難。夙志非軽暖。終與江水寒。
出少歸來速。浮舟發暁風。去留誰所命。統有一圓中。
【読み】
  暁歸、先生に呈す四首
鳳雛光彩を含み、老梧蕐さくこと幾時ぞ。月令季春、桐始めて蕐さく。大梁客を憐れむこと切なり。別路衰遲を奈ん。
城上車馬を連ね、簪纓南北に馳す。今朝千載の會、何ぞ考槃を詠じて歸る。
講官久しく長物。千載子雲難し。夙志軽暖に非ず。終に江水と寒し。
出ること少れにして歸來速し。舟を浮べて暁風に發す。去留誰ぞ命ずる所。統べて一圓の中に有らん。

○中川關にて夜いまたあけす。舩を繋て行燈の引けるを待つ。文曰、静坐の時なり。先生曰、行燈の引けぬ中ここへ來るやうでは眠くなる。さて其中に舩頭なと待か子鼾をかきて快寢す。平明に至れども行燈引けす。今朝東の方曇りたれども、日やかて出に及びなんかとをもはるる。行燈ひけす、先生もいつも斯くやと怪めり。文、中川關繋舩待旦の一絶を賦す。
【語釈】
・文、中川關繋舩待旦の一絶を賦す…文、中川關にて舩を繋き旦を待つの一絶を賦す。

關外繋舟暁漏遲。残燈影暗自凄其。舟中燈。昇平何学鶏鳴術。好是閑人静坐時。
【読み】
關外舟を繋ぎて暁漏遲し。残燈影暗くして自ら凄其。舟中燈。昇平何ぞ鶏鳴の術を学ばん。好し是れ閑人静坐の時。

○關をこへて炊を命じぬ。豆腐を煮て汁とす。先生かはらぬ政とて笑へり。逆旅中日々汁は豆腐を用ゆ。これ先生吾輩の煩を省かしむ。淮南王とは異なり。○挽舟翁を買ひ、先生引き舟の中て束髪せり。笑曰、これを崇谷が見ると圖にする。いかさま善らふ。○五皷前既に行徳に着んとす。先生何か思念ありし底にて謂文曰、今度館林公の□□なれとも、一つも向の為めになることなし。但俸を辞したるがせめての返になりた様なり。報賜以力とあるに、さて々々安心せぬことなり。
【語釈】
・崇谷…高崇谷。江戸中期の町絵師。名は一雄、屠竜翁と号す。

○八皷、曽我野に至り小河原氏に宿す。文、年来七郎兵衛及び彼か小児軰に習字句讀を授るを以て、去冬小河原云、先生の往復某御宿申し、轎夫など冝く所置すへし。先生へ乞はれよ、と。文曰、先生相識、又は由緒ありても人の忠を盡さず。十四年間門人の処へも一たびも行かれず。然れは足下の意厚けれとも、先生許容せずとて先生へも告けずしてやみぬ。小河原又七藏へ云云のこと傳致す。先生赦て肯せず。然るに先生旅中の夜具及び厠の不潔に痛くこまりしゆへ、文先生に議し、歸路小河原に一宿然るべし、と。先生曰、非義にはあら子ども私なり。なれどもいかさま某もこまりたゆへ、土産にても贈り一宿を乞ふべしと云。文因て小河原氏に書を投じ、饗應を断り、唯厠と飯のやわらかにて食前方丈に當ると云。きゃう々々々のさわぎにて一宿も定りしに、今日先生登戸に至りて曰、小河原何ぞさし合ありては向の難義になること。如何ん。文曰、萬一他の故あらば館に一宿せん。曰、それには日髙し。野田へ至り次郎左衛門故家ありと聞く。それにて投宿を議すへし。然らば文先つ小河原に至り、子細あらば野田へ越んとて急き小河原みしに、兼て待まふけしゆへ、一男を案内に出迎へしむ。因て先生小河原氏に一宿せり。

○小河原兼て名を聞き、今度幸に自身も小児輩も謁見を願ひぬ。大戸ゆへ栄望の底も見へけり。文曰、小子と云へども長者の容貌、辞氣覚へて居るもよし、と。因て小児共先生の給事することを爭へり。○先生浴し卒り、文厠を導く。主人兼て奧の厠を掃除してあり。先生曰、本陣の厠平生錠を下し他人を禁す。あれへ行くは非礼とて次の厠へ行れき。○先生謂文丹二曰、賢二人共に茶店にて脇差を取て事をするが、なぜ脇差をとるや。それではや人にあなどられる。丹二は行德茶店さきで四方を詠ながら帯をしめるが馬鹿な面に見へる。風景は帯をしめてから見るものぞ。○先生曰、もふはや旅も一日になりぬ。大快なり。○文曰、今度江戸に久しき内大勢議論もあり、不審なども大卒人のことや文字上の穿鑿のみにて、功夫底や心地一段のことなし。先生曰、上總のもほんのことではないが、まあよいやうなもの。○文曰、宇井の平生のりきみが存養になりて終焉のよいと、養庵の巧言令色ないゆへ老耄したと云は面白あやなり。曰、然り。○明日の轎夫や馬を雇ふに、轎夫等□□にて舁んと云。先生山路戒心すべし。三人にして賃を増し、皆均ふせよ、と。轎夫等大に喜ぶ。文歸後粟生飯髙氏にて、小河原の舅氏。語るものあり。先生は轎夫にも御仁愛深し、と。文曰、館林様の澤惠なり。

五月朔日晴。○平明曽我野を發す。文馬ゆへ九皷先つ孤松菴に歸る。諸子集り先生の歸るを待つ。○文語重二曰、今度小松原老人、先生高に過るの警戒然んか、と。これ小松原いまた先生の平素を知らぬゆへなれば尤なり。然るに先生自ら力行者に居る底なり。峻嚴確正毫釐ぬけなく、事の流行は知の力らと云へども、全体始より力行の分寸夛き底なり。重二いや々々と云て、そんなことではまた知らぬと云顔あり。文、後一友に語るに、重二あの行までを全体皆知として、それを存養せらるると見て居る。いかさま知の行のとそれもやかましいから一味に直方先生をついてすると云へは論はなし。文十年親炙の中、某などの眼には何にても先生に否と云こと見へず。唯五六年以前、柳橋翁へ、老人とて火鉢を出せしに翁固く辞す。先生強ゆ。翁性質偏屈ゆへ猶堅くうけず。先生遽色厲声にて、婢に火鉢引け、と。尤他日故旧門人の不埒を怒れども、親切に出て肉は少もなし。この日とてもそふなれども、老人しょげて面目なき底でありき。この時、文、老人へは如何と思た計りなり。これ、我等の佛尊ふと所と評しき。
【語釈】
・重二…中田重次。十二。東金堀上の人。~1798
・柳橋翁…大網白里町柳橋の大原要助。

○先生八皷歸る。旅中の労疲なく元氣よし。婢に戒て曰、今日迠とはもふ違ふ。兼ての法に従ふべし。依旧節倹にするぞ。さて曲突塗りなをしのこと、なぜ命を用いぬとて責む。婢に諉して曰、云云。それ看よ。はや損が出來る。それだけ當年の筭が違ふ。某留主の命にそむいては諉説たたぬと呵りき。○諸子に侯家拜領の酒及ひ菓子なと賜ふに、重二小児か土産にとて菓子を子だる。先生曰、皆のはなむけを断るも、受れは某又土産せ子はならぬ故のこと。すれば菓子はやられぬ。重二醉ふてそれでもと云。曰、賢、子をかわいがると其心はや死ぬぞ。以上文皆當日所記者也。

○先生旅中の留主、秘藏の書、愛器は火災に失誤なきやうに書置し。留主の費用冝をはかりて婢が父を召て菴を守らしむ。或人、其任に當らず、と。先生曰、渠れ清谷の産と同く五六十年この村に居宿し、村落の著姓と旧知多し。又、父子は天性也。婢も爺も同く愚といへとも、父子心を合することは他の及ざる所なり。○先生多く布にて褌を製す。これ、痔疾のゆへなり。一日曰、路死の者褌の絹と布との法律別ありと聞けとも、其惣体の底で又賢吏の検察あるべし。なれとも某典故知らぬことなり。○先生古るき燕服にて江都へ出つ。別になければなり。新製の服は君侯奉謁の日をまつ。繻絆にても褌にても皆新を用ゆ。これ、君侯を敬してなり。一日曰、尻のわるき者など貴人の前避べきことなり。○招命ありてより、酒の分量半減にし、正月より又殺げり。そふなけれは出られず。

○賜金此行の費用になれば少し帳面きへるやうなもの。因て命ず、賢等が嚢中一錢も儲へべからず。某が方と紛るる。旅中の出納皆賢等に任つ。□□にして簿に記すことなかれ。○帰後文一日先生を訪ひ、疂などの表替へ、惣体淨潔なりと云。曰、皆館林矦の餘澤なり。然れば大な顔などするは甚しきことなり。土佐矦ので尚翁も、訂翁へやった娘は支度せしと思ふ。あれは如何なり。○先生館林矦へ歸卿の別を告げ退くを、矦も起って出て送り玉ふを先生語人曰、幼主をいたいけなり。あなたがこの邉ならば、伯父様又まちにございと云やうな底でありし。文曰、まちと云は上總で九月里祠の祭。九日或は十九日二十九日なり。親族互に往来し、濁酒をかもし、餅或は赤飯をする。をまちと云。遠くの伯母さま伯父さまなど春の彼岸の佛参に来て、又、まちの約束などあることなり。此話先生心中再び矦にも御目にかかる期なく、御いとしほげにと思はるる親切と見へて、諸子に再應語られき。以上失當日之録者記于此。餘又收附録。
【語釈】
・以上失當日之録者記于此。餘又收附録。…以上當日の録を失する者、此に記す。餘は又附録に收む。

再旬紀行