再旬紀行附録

從江記   大木丹二録
【語釈】
・大木丹二…東金北幸谷の人。名は忠篤。晩年は権右衛門と称す。1765~1827

義氣と智者と知巧の士あり。幸田君なとは知者、村司宇井なとは義氣の士なり。幸田いかにも物にかまはぬ。某なとは知巧で細に行れれいてあまり過る。迂斎などのあの簡易で物はきまら子とも、そこに妙あり。○恭節云、とふも自慢云はれぬにこまる。文二曰、自慢を云ほとになればよい。曰、自慢を云ても素人と五十歩百歩なり。先生曰、其白いと云か氣に入らぬ。賢も根からの白なり。人を白いと云は玄 [くろ]くなって云ことなり。楊子の解嘲と云ことあるが知るまい。曰、然り。曰、楊子か大玄を人か白いと云た故、解嘲なり。そんなことでどふ白ふ人なとと云はるるものぞ。羅山京に十年餘居て、書を見るかいそがしさに祇園の祭一度も見ぬ、と。あの祭見ぬと云はるるが博識自慢になるなり。吾黨は書を見ぬを自慢にする。いくら前に史記左傳が有ても見ぬと云。これは見るがよい。祇園の祭とは違ふ。長藏なとも兎角人を呵る者ぢゃが、善藏なれは呵るべきものではない。三左衛門などは一ち善藏と子んころにすべきもの。両方か温厚の君子なり。それに出合はぬと云は、三左衛門でもあぢに人をあなどる氣がある。善藏か史記漢書を見れば先輩の非が知れると云た一言からして、三左衛門と善藏か殊の外わるく思ふて一生ぬけぬもわるい。あのことはわるいが、そのやうにわるい所はない男とをらは思ふ。されとも譏之無譏ではないか、どふも三左衛門がわるく云ことはないことなり。そふ云へは郷愿ではないかと云。それは各別。○恭節云、詩経を叶韻て讀ふと思へば大義じゃ。先生曰、叶韻でよむことはない。小学の跬歩不忘孝計りでよい。以上十二日。
【語釈】
・幸田…幸田子善。迂斎門下。1720~1792
・村司…村士玉水。名は宗章。行蔵、後に幸蔵。別号は一斎。信古堂を営む。江戸の人。1729~1776
・宇井…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・迂斎…黙斎の父。
・恭節…鈴木長藏。鈴木(鵜沢)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・文二…花澤文二。林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1817
・羅山…林羅山。
・善藏…服部栗斎。名は保命。字は祐甫。善蔵と称す。別号は旗峯。服部梅圃の子。摂津豊島郡浜村の人。江戸に住む。麹溪書院を建てる。寛政12年(1800)5月11日没。年65。村士玉水門下。
・三左衛門…河本仲遷。名は善。通称三左衛門。丸亀藩士。
・跬歩不忘孝…小学内篇稽古。「吾聞諸曾子、曾子聞諸夫子。曰、天之所生地之所養無人爲大。父母全而生之全而歸之可謂孝矣。不虧其體不辱其身可謂全矣。故君子頃歩而不敢忘孝也」。小注に、「頃當爲跬。一舉足爲跬。再舉足爲歩」とある。

○孝子巧変を小学へ引ぬは、小学は子ども仕込む書ゆへ、あの筋は心術かわるくなる。そこて經傳通解へ引けり。○小市が師匠をわるく云を訂翁の腹を立られた。弟子が師匠をわるく云やうになればよい。腹を立つは甲斐ないやふなれども、訂翁のはあとはない。只あふにくいやつと云たのみなり。赤子之心を失はずなり。小市そばに付て居て師匠の心を知らぬからは、三千年あとの垩人の心は知られまい。却て料理人の方にはよく主人の腹合を知たかあるなり。○恭節曰、板倉欽二、朱子を賢者とは云はれぬ。陸象山への荅書に、爾為爾我為我と云は、賢者にあのやうに腹を立ことはないはづ。どふも合点ゆかぬ、と。先生曰、それはとほふもない評なり。あれは義絶のことなり。そふ云ふは武王を垩人でないと云ふと同じ。○先生謂冨八曰、足下かくらいては功夫もなる。先つ書をよむに初は点付でよみ、それから又無点でよみ、その上に無点がある。これはと思ふ処を拔書してむ子へのせるがよい。夛くはない。そふすると学問があかる。以上十四日。
【語釈】
・孝子巧変…大戴礼記曾子事父母第53。「孝子無私樂、父母所憂憂之、父母所樂樂之。孝子唯巧變、故父母安之。若夫坐如尸、立如齊、弗訊不言、言必齊色、此成人之善者也。未得爲人子之道也」。
・訂翁…久米訂斎。
・赤子之心…孟子離婁章句下12。「孟子曰、大人者、不先其赤子之心者也」。
・板倉欽二…板倉行善。豊三郎、後に欽次と称す。板倉知崇の弟。新発田藩儒臣。寛政6年(1794)没。年46。幸田誠之門下。
・陸象山…南宋の大儒。名は九淵。字は子静。象山・存斎と号す。江西金渓の人。1139~1192
・爾為爾我為我…
・冨八…高須順正。丸亀藩士。

○先生謂欽二曰、行藏小市は二王門。あれらがにらんで居たで、あの中はよい。欽二曰、小市は惣体がきまったやうに思はるる。博覧の人なり。曰、それは胡澹菴が朱子を詩で上へ申立たやうなもの。芝野彦助殿が行藏を博覧と云はれたもをかし。行藏や小市はどふも外に一つ飛ひぬけた所がある。博覧とはあたらぬ。幸田先生はほんの博覧ぞ。芝野公の行藏をああ云はれたは一時の文字なり。されども行藏か生きて居たら 公儀でもすてて置れまい。召出されるでも有ふが、出たならば經歴もしよふが、よいことはあるまい。死んだが仕合せなり。○欽二殿、そなたは前は旦那のきらいな宗伯が方へばかり行った。欽曰、段々入魂になりた。惣たいがよい人品なり。
【語釈】
・胡澹菴…
・芝野彦助…
・宗伯…明石宗伯。柳田求馬。村松樵夫。名は義道。江戸の人。~1784

○先生謂文太曰、先達ての不審のこと如何。曰、先輩を議したことで决してなく、丸て信じも致さ子ども、どふかあの処が疑はしきゆへのこと。先達ての御返書でとくと疑もはれ、御返書の趣では議した筋になりて甚失礼なり。先生曰、失礼と云ことではないが、をれが荅へも周子から二程、そこて程門かあの通りなりたから朱子又あの通りなり。とかく快活と詳細となり。先輩もそれと同じ。只漢文假名筆記ては格がをちるやふに思ふゆへ、たれも假名ものは會はせぬか、假名ものむつかしい。されとも又、直方のあの快活の論をききて又まぎらかすものがある。それから行藏があの通り吟味がつまって居れども、小尻とがめをする。そこで又、今はそちの先生は平らかで又害がある。平かに害はないやふなれども、俗になる。
【語釈】
・文太…宮原龍山。名は斌。字は子德、樂大。文太、後に泰助と称す。松山藩儒。文化8年(1811)6月17日没。年52。服部栗斎門下。

○服部の方に隨身の者大勢居るや。文太曰、三人あり。中に谷丹三郎の孫か参りてをる。○延平荅問の會、初丁の洒落を文二重くして見ることでないと云。文七曰、やはり脱然と同じ。先生曰、洒落と云は延平のかぶなり。大事小事皆洒落がつく。欽二曰、欲がなければ洒落、欲あれば不洒落なり。先生曰、欲がなければ洒落と云へども、それでは洒落がどの位のこと知れぬ。垩賢の外では氣質で云がよい。氣質には洒落の塲があるもの。○孝子巧変の談に因て欽二云、性理のさばきにもそれなり。先生曰、それ々々今日の話にそれが一ちよい。○父母疾是憂。恭節曰、會津御家中の者、山﨑先生へ旧説の方が面白い、と。先生なぜにと云はれたに、朱子も御子七人持て御覚へあるからと云しとなり。曰、旧説も面白いから載せた。病身の子をは大ふ苦労するもの。達者と云は安堵なり。先年一大工か云ふ。忰むかしは泣きましたが、此頃は私をなかせますと云た。大火事の時、親のもふけた金をさらって使って仕舞て、ぬっくと内へかへりた。疾のみ憂へしむと云説も載せ子ばならぬ。
【語釈】
・服部…服部栗斎。
・谷丹三郎…谷秦山。名は重遠。丹三郎と称す。土佐の人。享保3年(1718)6月30日没。年56。山崎闇斎門下。淺見絅齋にも学ぶ。
・父母疾是憂…論語為政6。「孟武伯問孝。子曰、父母唯其疾之憂」。
・山﨑先生…山崎闇斎。

○恭節曰、先年先生恍然得要領を、未發は恍然でなくてはをぼへられぬ、と。面白ことなり。曰、某覚へぬ。如何。曰、恍然はつかまへ処がない。先生、それ々々そう見ればよい。○先年武井三、中庸首章の講釈のとき、武井三か今日講しやふ、如何そと云はれた故、教の字をもそっと冷してよむがよからふと云たれば、三翁感心なり。今をもへば冷してよむにも及はぬ。汗かくほどな功夫もするものは、功夫それか道体なりなり。中庸首章説、遊佐か鳩巣へ克己復礼でとめたは未定の説と云てやりた。それを山﨑先生は於此乎有感とて、中和集説か出来た。これは今日功夫へ片足入れ子は知れぬ。こふした筋、たれが知ふぞ。さて斯ふさま々々なこと云ても朝市はいそがしく心にのるまい。学者もしはらく山林へても引込て居がよい。そふないと大事のことすまぬそ。そわ々々すると経学はあからぬ。そふ言と行藏や小市が道を任する為と云が、なにそれも垩賢の外は迂詐ぢゃ。されどもあれらは中々今はない。吾黨の二王門と云がよい。宗伯きっとした愚底なれども、どふもよい処あり、皆氣概ばかり。事はあづけられぬ。善太郎殿か又なる材量なれとも、すてる病あり。心喪はならぬとをもふ。心喪々々と云と小市や宗伯がやうになるとなり。文云、心喪固善矣。幸田君深悪偽心喪者云爾。○恭節云、俗人の了簡は大方司馬遷か先祖なり。孔子を尊ぶなら云云。そふなくは列傳へ載せそふなものを世家へのせた。俗人もさま々々知惠を振ふても、自家の了簡をつける。以上十七日。
【語釈】
・武井三…武井三左衛門。敬勝。迂斎の妻の弟。唐津藩士後に古河藩の儒臣。1709~1786
・遊佐…遊佐木斎。名は好生。養順、後に清左衛門、次郎左衛門と称す。号は季齋。仙台藩儒。享保19年(1734)10月17日没。年77。山崎闇斎門下。
・鳩巣…室鳩巣。
・克己復礼…論語顔淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮、爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由仁乎哉」。
・善太郎…幸田誠之。晩に精義と改める。字は子善。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。寛政4年(1792)2月9日没。年73。私諡は穆靖。野田剛斎門下。
・文云、心喪固善矣。幸田君深悪偽心喪者云爾…文云う、心喪固より善し。幸田君、心喪を偽る者を深く悪み爾か云う。

○先生謂松倉又三郎曰、太夫の子は人が敬ふもの。父の勢で其敬いを喜ぶくらいでは學問はならぬ。却て人かやすくしたとき、酒を買はふと云ほどでなければよくはなられぬ。親もそれなり。某なども迂斎を笠に着ては地獄へ落る。それで迂斎が影では大名衆にも中々見みへぬ。土屋様などは腹を立られたほとのこと。それで見へると、此方が小さくなりてやくにたたぬことなり。さて人かあそこへ行は主水殿の御二男と云て小僧とは云はぬもの。御二男と云ても心では小僧と見て居る。そこを此方から一つ敬まはれるものを建立しやうとするがよい。をれは太夫の子と喜ぶやうではわるい。太夫の子に生れたが不仕合ぢゃと思ふ位でなくては役にたたぬ。
【語釈】
・松倉又三郎…松倉主水(勘解由)の二男。
・主水殿…松倉主水。勘解由。館林藩家老。名は正達、号は卜山。1777~1833

○先生曰、昨日京極の学校へまいりた。小源太曰、蔀様うつられしや。曰、一日の酒てこまり切た。どふでも長藏などか行てあとて酒宴をしたと見へる。あれも浩軒様ならよけれども、また御年若ゆへ、こちを師あしらいになさるるゆへ面倒ぢゃ。大名の学問を夜着を着て角力と云が、夜着はなかったか、酒にとふもならぬ。大名方は軽るい者は入れぬがよい。むつかしくするによいことあり。主膳様も兎角手軽であった。幸田殿も黙斎小市も行くと、それでも石原権平が方で有た。日原云、権平力ありしや。曰、力はなかったが忠臣なり。誠はある男。霍光と云底なり。因て日原、霍光無学無術を問。先生曰、霍光覇術ない云云。温公其誠乎と云ても孟子を疑ふ。霍光、あの忠誠て妻の乱をしらぬ。孟子に誠はないやふで、皆誠なり。温公の誠は筋かたたぬ。孟子と合はぬ。孟子を疑ふ。此条詳文録。
【語釈】
・小源太…日原以道。手塚担斎。土浦藩士。通称は小源太。別号は困斎。1762~1834
・主膳様…
・権平…
・霍光…前漢の政治家。字は子孟。霍去病の異母弟。~前68
・霍光無学無術…
・其誠乎…小学外篇善行。「劉忠定公見溫公問盡心行己之要可以終身行之者。公曰、其誠乎。劉公問行之何先。公曰、自不妄語始。劉公初甚易之。及退而自檃栝日之所行與凡所言自相掣肘矛盾者多矣。力行七年而後成自此言行一致表裏相應遇事坦然常有餘裕」。

○日原曰、村士の弟子のした幼学階云云。先生曰、あれは文字のきめ迠もよい。日原云、あれは行藏か言付てさせたそふなり。曰、そふも有ふし手もそへたらふ。さて行藏はらいのない。どふもまろい。小市はらいはあれどつくる塲あり、あれが江戸へ來たとき彦明が増山矦を逐はれ、本荘に居りた。小市は又土井矦のわけあるゆへ迂斎が前へは出られぬが、某が部屋迠は來た。日原曰、小市が事実如何。曰、土井矦の側坊子て合田と一處に逐はれた。儒者を逐はれたに坊子も逐はるるは似合はぬ様しゃか、その時英秀なるを知るへし。合田かことは迂斎行実にもある。利延君の時、かの自隗始よで、用人にはせぬか二百石になりた。あの時に金澤修軒が、の為に爵を驅るものは鷹也、先生の為に二百石賜ふ者は合田忠藏也と云たが、迂斎にもともに二百石賜ふた。文二問、小市はなぜ逐はれしや。曰、坊子で殿の素讀の御相手になりて居たが、合田が弟子ゆへなり。それはかりでなく、英物なり。合田か先づ二百石になりた。その時千賀作衛門と云者曰、合田が二百石になりてはこちの木戸番が合点せぬと云た、と。合田が儒者で政に手を出し位を出たと云て逐はれたが、なるほど古今そふ云ものそ。されとも講官は重いもの。じきに言ふよりは見臺で云か工面がよい。
【語釈】
・彦明…唐崎彦明。三宅尚斎門下。芸州竹原の人。黙斎の親友。彦明は伊勢長島藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せられたとき、黙斎はその救援に献身したという。尚、竹原は頼山陽の出たところでもある。~1758。
・合田…合田忠藏。唐津藩主土井利実に採用される。
・自隗始よ…隗より始めよ。戦国策燕策。「今王誠欲致士、先從隗始。隗且見事、況賢於隗者乎。豈遠千里哉」。
・金澤修軒…
・千賀作衛門…

○大名方が慇懃すれば喜び、ををへいにすれば怒る。そふ七情が動けば学問はならぬ。○謂松五郎曰、幸田語録何でも心に逆ふことなし。君の御抄畧の類、このやうなことを見るは面倒なれども、今てはそれをも見るはをとなしくなりたか衰へか。偖、何か兎角人が我より甲斐ない先軰のことを主張するものなり。我同軰の者に益あるものよりは、甲斐ない者を喜ぶ。其心不可入尭舜之道なり。幸田語録を出し示して曰、事実なとの違もあるか、某窓書きにして改た外わるいことはないか、只一つ、山﨑先生の人之一身五倫備るのことがわるい。あれは人倫を此身の相手にして云たこと。それをあのやふに云はるるゆへ、某か此説非也として置た。さて又曽子の一貫しても云云の条、又、子貢が方が孔子の氣に入たと誰も云はぬこと、某も同心で面白説なれども、をかしなもの。とふかこの間になにぞ一句あればよい。
【語釈】
・松五郎…佐藤松五郎。
・其心不可入尭舜之道…近思録出処24。「先生曰、汝之是心、已不可入於堯舜之道矣」。
・曽子の一貫…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。
・子貢が方…論語衛霊公2。「子曰、賜也、女以予爲多學而識之者與。對曰、然。非與。曰、非也。予一以貫之」。

○謂松五郎曰、この書、幸田先生語録。文二が書なり。彼に借るべし。顧文二曰、これからは某がかかりでなし。焼けても二人のかかり。此老はかまはぬそ。曰、あちに類本あり。先生、ああそふ言はぬもの。有てもないと云がよい。権八に迂詐を習へもそこのことぢゃ。りちきぞ。文曰、あちらの類本には窓書や批点なし。○八右衛門、新発田よりの書に云云。見文禄。あの皃の氣質よいても有ふが、敎の然らしむるなり。當時、栄二郎殿尚志二人なり。外に砂をはらってない。栄二郎殿はあの器用なれとも軽薄な塲があり、尚志は栄二郎殿より器用はなかったか、一体かよい。○石原先生笑ながら、ほんほ大名ても雪隱は三尺四方てすむと云はれしが、あれも雪隱のことなれども、政をとるとあれが出る。直方先生の弟子なり。
【語釈】
・八右衛門…佐藤八右衛門。名は尚志、号復斎、八右衛門と称す。寛延二年生れ、寛政三年八月三日没。藩儒、野田剛斎門。
・栄二郎…幸田永次郎。幸田栄次郎ともある。名は好珇。幸田誠之の次子。寛政2年(1790)没。

○大学新疏、あれもよくないことがあると云ふ人あれとも、さて某なと学問が役で大学不案内と云は一分の立ぬことなれども、非がどふも見へぬ。宗伯などは如何言しや。松五郎曰、宗伯は新疏惣体取られぬと云云なり。先生曰、それは某などか云こと。宗伯か新疏も皆とらぬの、三宅先生とは直方淺見の先生も又合ぬのと、そのやふに合はぬものでない。一つか二つかのものなり。松曰、宗伯筆記借そふ々々々と云て、つい参らぬ。曰、宗伯も、そふ皆違ったと云ては判断がつかぬで有ふ。松曰、三宅先生は兎角朱子の初年の説を取らるると云。曰、初年と晩年とは違ふ。誠意の章も没前に三字とりかへられた。取かへたとて功夫に違はな。兎角精微々々と云が大学は次第を云こと。そのやうに精微つめるに及ばぬ。道中記なり。山﨑先生の学問と云ははばの違ったもの。啓発集、すぐれたことなり。迂齋曰、啓発集を直方の講じられたとき、あれは咄のだいにされた、と。某も始めはそふ思って居たがそふでない。某四年以前によんだが、文會も啓發集にあつけてをくゆへ粗い。さて、鳩巣の圖述も文會の十巻にある。それなら圖述入らぬやうなれとも、又鳩巣は細かに云はれた。それから見ては後論があらい。あれであの衆の学問も本相 [ばけ]をあらはした。

○先生謂政二郎曰、山岡安兵衛殿は相識か。曰、同苗と同役なり。山岡に三宅先生の血書あり、と。某にも見せんと云。曰、血書は翁の窂から出て後に、狼疐録の血稿一枚づつを中川平助にやろの、甚藏にやろのとて、あちこちへ與へられたもの。東溪の所持のを某も見たなり。其後東溪のあとが館林侯でつぶれ、内方が山岡の方へ行て世話になりたゆへ、血書をも持て行かれたもの。これは某推察の通りなるべし。行状の文靣ては窂中から血書にて書簡をあたへたやふなり。さん々々な書き様ぞ。○白雀録、三宅先生訂翁へ他見無用、かくせ々々々、と。某先年訂翁に借る時も、翁より戒めらる。然るに浩軒様のよい説があるゆへ、某尚斎先生実記へも某説を載せた。外の者が言へばなれども、大名の口から云へば、いかふ大名衆の戒にもなることなり。臣たる者の身分で云へば不是の処をあらはすになるも戒むべきことなり。
【語釈】
・政二郎…戸田政二郎?
・山岡安兵衛…
・同苗…同族。
・中川平助…
・甚藏…
・東溪…多田東溪。儀八。

○恭節曰、蔀様は何もわるいことはない。婦人くるいもなし。只酒ばかりなり。馬は御好ぢゃ。先生曰、御上手なら上手からは自負もあらふ。一ち好きことなり。馬はよいと云ふは武は固り、第二には保養になるぞ。却て学問を數にそなへてするは保養にならぬ。又、自慢も保養になるは自得のことゆへぞ。先年土井矦の長藏か知たうすびんの目付の父を川田源左衛門と云。迂斎と子んころでも力なく、金沢や久米貞固石黒尚藏が迂斎の前で学談するを、そこへ出てはをれとも何もきこへぬ。目を眞赤にして居る。修軒いたつら者にて、目をさまさせんとて、そこで先年上野の火事の時はと云たれば、はや乘りか付て、その節こなた様の御防きでござってと、もう火事塲のことを咄すと笑ふた。これ本來の処なり。恭節、仲遷弟のことに及ふ。日原曰、学問如何。先生曰、学問のないが無声無臭そ。すこしありたとてとふ上の為めになるものぞ。
【語釈】
・金沢…金澤循軒?稲葉迂斎門下。
・久米貞固…唐津の人。稲葉迂斎門下。
・石黒尚藏…平次太と称す。唐津藩の臣。野田剛齋にも学ぶ。稲葉黙斎門下。
・修軒…

○君臣之義、今去ると云は暇願を出すことなり。御家人なとは 公方様を去ると云ことはない。引込は格別のことなり。惣体臣下は君からの處置をまつことなり。山﨑派の学者もとかく去ると云がみへなり。多田などの佐竹を去るのもす子たのぞ。兎角検約の方からちうげんにくれるやうなことをするゆへ、す子て引こむ者がある。されども人臣の心術にす子ると云はさん々々なことなり。山下氏、藤兵衛。へそれを出すと直きに役を免るす。をらが知ても五人ほど有た。却てやくにたたぬものにはす子ると云ことはない。役に立つものにあるもの。とふしてか人の心には氣味のわるいことをもち合てあるものそ。先年唐津の書生か大木から明日立と云に、其夕方江戸便りに服部の方から唐津の書状来る。遠國のこと何やらとをもふに、其夜折節大雨で届けられず、明日夜あけたれとも雨ゆへ諸生も出立すまいとをもひ、近所の半七を頼みに下女を遣はし、百文て往てくれよとて雇ふた。たちまち往て歸り百文を取るまいと云。根か百文と云で往て、さてとるまいと云ふ。にくくもないが氣味がわるい。彼等に論はないか、これが学者にもありて、出處のことなとにある。さて々々天地のなりにないこと、む子わるいことなり。

○日原曰、知の字のこと、唐津の敬吾などへの答書の説がよいと存ず。曰、あれもろくにすまずに云たが、どふもむつかしいこと。あれでもまあ太抵よかろふ。知も仁義禮智の智の外はない。知は理、知覚は氣なり。知覚は氣なれども、又明々覚々として居るは智なり。理なり。これはこふと知るは知識にて、理なり。こちの量簡の出るは知で理、寒温餓渇を知るは知覚で氣なり。とど知が仁義礼智の智の外はないが、知で仁義禮智の智を合点すること。丁ど明德の明の字のやうなものなり。文曰、與日原録可通看。○朱子の説さへなくは、言ても心づかいせぬがよい。其位のことはゆるすかよし。今宗伯位の学者も出来ぬもの。人のことをわるく云ことはよい。善太郎殿なとの古い着物で居る処が大ふ底がよい。そふなくてよくはなられぬ。あの衆は溝口様へ行かぬ前はたれもかまはぬ。
【語釈】
・敬吾…片峯敬吾。唐津藩士。

○竹中曰、迂斎先生学話の、人皆以尭舜となるへしの説云云。曰、学者はなんでも道理なりにして往けば、それが垩賢の実ばへなり。小児洒掃應對から仕込んで、かたの上からきめてあれれからゆくことなり。それから大学へ行くと、上へあがったかと云にそふでない。今までの根ずみとつやとなり。とかく理なりをするとそれから行くゆへよけれども、肉身が出る。格致に誠正はそこなり。○恭節曰、吉左衛門が意氣慷慨なもの。小源太か処へ植木を片棒にして來たかならぬことなり。曰、それは誉ることでも毀ることでもない。あれが善太郎殿の前へ出るといそ々々嬉しがるが、なるほどどふも面白い。○日原云恭節曰、朱子天下を有たは舜の通りなるべし。舜邇言を察すと云。朱子集註に諸説を取るもそれなり。
【語釈】
・竹中…竹中致道。
・吉左衛門…葛西吉左衛門。
・舜邇言を察す…中庸章句6。「子曰、舜其大知也與。舜好問而好察邇言、隱惡而揚善、執其兩端、用其中於民。其斯以爲舜乎」。

○訂翁の踊り子をつれて出たは小市を打ったものなり。あれをよいと云ことてはない。わるいことは呵るがよい。あれを贔屓して、色情のあるはのけて、そのない児共ばかりぢゃと云へども、下手な取成しやうなり。なんぢゃとて同じこと。某がここへ藝者を連れて來たとて黙齋戀慕したとは誰も言まい。知た者は桺下惠ぢゃと云はふが、それがわるい。恭節曰、何ゆへに小市をそふ打たれしや。曰、小市酒を生來すきて、京へゆき止めたも克己ではあるまい。又、小市か天道性命より日用常行迠皆師とは違った、と。どふそのやうに違ふものぞ。どうしても職人の職かたきと云塲があるは、弟子取りするからぞ。三宅先生と若林か義絶も洪範の數からのことと若林語録にはあれとも、このあや別に記してあると尚斎語彔にはあり。○先生恭節に問ふ。小源太は錢があるまい。曰、左様でもなし。曰、いや々々家内ても、兒共などに買てやりたいものなど心のままになるまい。すれば黙斎へ隅田川は家内ではよろこぶまい。以上十九日。

○昨日、小源太が隅田川は太義で有たらふ。あれが学力はあのやうでも経済は行きとどかぬ。あの代物も婆々が寺詣りに巾着から賽錢を投け出すやふなもの。あれが其筈で、幸田子に計り出合て居た。文二曰、日原何もわるいことせず。そふしてあの才力では御家中も服して居るならん。曰、そふで有ふ。知惠を鼻へ出しはせず、人の服す顔ぢゃ。文二曰、あれでは経済もなるはづ。曰、そふなれどもまだ行くまい。馴れたら一はしやらふなり。○欽二曰、覇者は心はいかふ忙かしからふ。先生曰、覇者でも手に入ればそふでない。欽云、されども假りもの。曰、桓公太宗などの心は忙いと云ことはない。○政二郎問、性存天下之有云云、如何。曰、有は易有太極の有で、性はあるとしたもの。無は無極而太極の無と見たもの。性は道之形體と同じ。○欽二曰、私は表役にはかまはぬ。呵られると、私申すことでなく唐のことを申すと云。曰、貴様は家の子なればきわどひ出處もなし。只けいはくをせぬかよい。それが出處なり。
【語釈】
・性存天下之有…
・易有太極…易経繋辞伝上11。「易有太極。是生兩儀。兩儀生四象、四象生八卦。八卦定吉凶、吉凶生大業」。

○欽二曰、幸田子ほどきびしいことを云ものはないが、つい某矦などの腹を立たことはない。曰、迂詐ゆへなり。遠くを云て逆鱗にさわらぬからなり。汲黯ほとても根が老黄之学で、陛下内多欲と云てからがあれぎりのこと。戇ですむ。諌察御史ぎりで外のことはさせられぬ。をらなどはえこぢわるく、さんしょ子ぢりにするゆへ、其塲は向ふもうん々々と云ても、あとで大事なり云云。與文録可通看。芝居の赤っつらがこわくないもの。だまっているがこはい。小市抔は赤っつらなり。欽二曰、小市様のやうな思ひ切て云ものはない。○欽二曰、曽点の章一席拜聽蒙りたしと強て懇望す。曰、講釈よくしたとて手柄にならす、はずしたとて耻にもならぬか、よくよむがよい。吟味がつまれは向が聞こむ。不吟味ても身に体すると向へひびく。先軰は任してする。某すっとの皮。人に望まれたとてどふ讀ふ。○欽二曰、北山に逢ふたが才力あるもの。作文某れと云ふ書があるが、徂徠をきつくそしった。先生曰、それがわるい。徂徠をほめるがよい。平兵衛曰、先日も筆道のことで云しが、師匠ほどにはゆかぬもの。それで又一家を立る。先生曰、それが尭舜の道に入べからすぢゃ。以上二十日。
【語釈】
・汲黯…漢代。武帝の時代初期の官僚。
・陛下内多欲…漢書列伝張馮汲鄭伝。「太后弟武安侯田蚡爲丞相、中二千石拜謁、蚡弗爲禮。黯見蚡、未嘗拜、揖之。上方招文學儒者、上曰吾欲云云。黯對曰、陛下内多欲而外施仁義、奈何欲效唐虞之治乎。上怒、變色而罷朝。公卿皆爲黯懼。上退、謂人曰、甚矣、汲黯之戇也。群臣或數黯。黯曰、天子置公卿輔弼之臣、寧令從諛承意、陷主於不誼虖。且已在其位、縱愛身、奈辱朝廷何」。
・北山…
・平兵衛…窪田平兵衛。

○銀藏問予曰、古霊陳註來遜去、如何。曰、詳解には、去遜來と書かへてあり。先生曰、去らふと云ものはそこに長く労して居たゆへはやく去らせる。今来るものは新らたに元氣の勢がよい故その手段にする。銀藏曰、河村もそふ云き。○先生謂恭節曰、燕居偶筆若し焼けたら、文太に借りて写しはやく返すへし。跋文は隨分出来る。某あの時の趣向覚ている。さて大槩経済するものは覇術か出るものなれども、あれには决してそれがない。それはどうでも淺見の門たる所を失はぬ。あれは為めにすることありてしたと見へる。文太、いかさま然らん。曰、凡そ経済の書は土井侯やそちの御屋鋪、指館林藩。溝口矦にもよい。阿波矦なとにはあしからん。却てそれ者者になるべし。
【語釈】
・來遜去…古霊陳註

○出るとそこに玉子屋と云が有た。あれがむかし玉子婆々で有ふ。專要なことをは忘れて、やくにたたぬことを覚て居る。むかし先嫂か臨産のとき、夜中迎に來たことあり。文太曰、何のこともないこと記してをるものなり。曰、それは魄のつよいなり。伊藤長十郎云、さわかしいものにも隨分記憶のよいものある。益道などそそくさ々々々々とした男なれども、甚た記性あり。白鸞なとも記憶よく、どふしてそふぢゃと云へば、覚へやうとはせぬか、ふい々々と出ると云はれた。○昨日遊佐と暫く咄したが、小市が末期のこと、どふしても業にして任じたゆへなり。遊佐などは訂翁へ往けは益をとる者なれとも、小市へ遠慮してのことなり。文太曰、古人は任底の意思あり。あれでも振はぬやうなり。曰、任底にて振るふことをすればよい。恭節云、幸田語彔會津矦の人才くせ馬のこと如何。曰、人も直きにをふ々々とて出るは役にたたぬ。伊川もそふ云へり。不哭底孩児何者不抱得と云へり。此と同じ趣向なり。○或曰、私などは役はなし。隙が出來そふなものに、そこがいかぬ。曰、君と親がゆるしたら言訳にするがよい。一人てゆくのは分なことなり。兎角学問をするやうに々々々々々と上ても御世話やかるるそふなが、よいことなれども人才は出来ぬもの。柯先生、牛房大根のやふには出来ぬと云はるる。
【語釈】
・伊藤長十郎…
・益道…
・白鸞…

○或因に云、先生茶を御好みありますか。曰、好むと云と茶人か笑ふ。呑みます。○文太幸田語彔を見て序の談に及ぶ。先生曰、世間文をよく書くものいくらもある。これは佐藤平次郎と云もの。斯ふ書くのが宋朝の学ぢゃ。斯ふ云ふ道具だてに書れぬ。よふかいたそ。末に一つ故事を引たが善太郎殿めかぬゆへ、直して改めてやりた。文太曰、この詩など甚面白い。宇源二など作るか中々及ばぬ。先生曰、それとは違ふ筈。さて宇源二もよい氣象なり。文太曰、さま々々なことを云て参る。曰、不審を質すか。曰、不審でなしともいや下問を耻ぬ底なり。曰、遊佐もそれなり。文太曰、仙臺の儒官某氏力あり。一人て有ふと人々評す。曰、天下をしならしてか。曰、然り。曰、どこで学んだ。曰、全体仙臺で学び、それから京などどこと云こともなし。遊佐などとはきつい違で、遊佐をばあの御やしきでは大ふ軽く思ふ。○先生曰、行藏は性の急迫な男。深藏殿、友兵衛なとをは口に云もいやに思ふた。それからして後には迂斎をも心面白くないやうになりたも、皆腹を立ったからなり。文太曰、一さい雅言と云があり、これは獨見になったからのことなり。曰、あれは私意はあるが私欲などはない男なり。以上廿三日。
【語釈】
・佐藤平次郎…名は誠明、称は平次郎、後に名を熙明、杢右衛門と称す。幸田子善門。1750~1827
・宇源二…箕浦迂叔?名は直彜。右源次と称す。別号は江南、立斎。箕浦秦泉の次弟。土佐藩儒。文化13年(1816)8月27日没。年87。西依成斎にも学ぶ。戸部愿山門下。
・深藏…中村蘭林?名は明遠。字は子晦。深蔵と称す。別号は盈進齋。江戸の人。幕府儒官。宝暦11年(1761)9月3日没。年65。稲葉迂斎門下。
・友兵衛…

○恭節茶を乞ふ。先生曰、もふ茶などは入らぬによこす。よこすなら呑まぬかよい。○先生曰、吉五郎が文は文太よりよいやうなり。文次曰、然り。恭節曰、経学はそふ往かぬ。文次曰、吉五郎が小学は當然、大学は所以然で當然に光彩の着と云を、それでは大学に事業はないかと疑ふ。あまり知らぬ問なり。恭節曰、いかさま然り。先生曰、長藏などそれがわるい。文章か善と云はは善い方を聞がよい。悪るいと云をのって聞く。それがもふ学問の上らぬ根にて、其心尭舜之道に入へからず。○恭節、吉五郎が棲蠖記の文を誦す。先生曰、蠖哉々々が二た処あるな。孟子の法かなり。後は蠖乎蠖乎とするがよい。先生低声に曰、こんなことだまってをれ。山嵜派が学者に文のこと教へるは宗旨にないこと。得手にほと云ことあり。教へるに及ぬなり。さて、吾黨の社中から某が方へ始て来るものなどはかくすはづなり。然るに文を持てくると云は善藏門風も俗学になりきったとみへる。あの後生もよいことと思てをるから巧言令色出す間がない。文などを持て來るはづはないが、どふも見せたくてならぬなり。あれでは見せてもよい文になる。文者ぢゃ。これから見れば與五右衛門などは文辞か不器用ぢゃ。されども幸田語彔の序のやうなは中々あちでは書けぬ。
【語釈】
・吉五郎…新島礼夫。名は幹。治助、吉五郎と称す。浜田藩士。寛政12年(1800)11月8日没。年31。服部栗斎にも学ぶ。稲葉黙斎門下。
・與五右衛門…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

○大名へ出れば浪人のときより馬鹿になるもの。長藏も隨身のときとは大に違ふ。山林使人傲朝市使人昏。朝廷へ出るものを日本橋に居る人と同挌と云たら腹を立ふが、心の俗になる段はやはり同ことなり。○欽二鳩巣の藩翰譜持し來り、私方などても舊臣のことともかいた。先生曰、それはよいことなり。先君子などもたひ々々咄す。土井矦の古ひ者ともよほと咄になるものある。某幼き時ゆへ覚へぬが、淺香半六と云もの、何も働も功もないものなれども、意氣慷慨の士にて、さまてもないことをみめにして咄したと云ことあり。鳥羽侯のとき、上野朝参の時か急に天氣が曇り、横町見へぬ程で有た。そこで挌をはづして向へ行て跪き敬して居った。する時に殿が半六そこにかと云はれるとはっと云たが膽にめいじた、と。又後隱居して隱居所へ鑓一本かけをき、はや登城することはないか、二つほとは心中にあると云ふ。迂斎其宅にゆきたとき、傍軰その二つを先生へ申せとすすめるか、とふしても云はぬ。達てせめたれば、鎗の方へきっと眼をやりて曰、私隱居致したとて今にも若殿様御誕生と聞と、格にかまはずあの鎗を杖て御祝儀に出ると云た。最ふ一つはと尋たれば、又中々云はぬ。そこて又さま々々せめたれば、やう々々曰ふ、吾か殿様御身に一大事のときはこの鎗を持ってとはかり云てあとは云まい。かふ一鉄なていなり、と。学様もこの様でなくてはやくにたたぬ。欽二曰、私屋鋪にも角太夫と云ものあり。或時、殿の古へは義経の臣忠信嗣信と云ものあり。今はあのやうな忠義な者はあるまいと云たれば、次より立て、私が居るからは古の忠信嗣信とても劣りは致さぬ、と。いかさま今の学者はぐにゃ々々々をやって居る。○古今の役人知惠のないと云ことはないが、とかく一人すくれると外の方はけされる。欽二曰、刺刀も二挺あると一挺は切れぬ。曰、名辨譬喩十分ぞ。以上廿六日。
【語釈】
・山林使人傲朝市使人昏…
・忠信嗣信…佐藤三郎兵衛嗣信と佐藤四郎忠信の兄弟。義経の家来。元は奥州の藤原秀衡の家来。
・名辨譬喩十分…

○川鰭氏源藏餞別の使者として厚賜あり。慇懃に君命を告ぐ。先生曰、去年中段々重ひ御使者を以て厚き御音物品々拜領し、隱者の身分に餘り過たる御顧問ゆへ、此度御礼にまかり出て、又々かやふに重き賜もの、なんとも申すへきやうなく、あまり過る様なり。川鰭曰、今日のは此間中度々御出下された御礼なり。何そ致方もあるへきことなれども、此節柄ゆへ麁末の至り、何分御請下さるべし。先生曰、此間の儀をも辞し、ここてかれこれ申すは却て無禮、辞退は御承知も下されまじ。直に御請申すべし。顧諸子曰、何と皆も如何思はるるや。あまり厚にすぎる。なんと長藏。恭節えしゃくす。長藏も今では亭主ぶりをするが、ちと客になって言ふがよい。先つ々々御請申す。さて外に私が方に何もござらぬが、守隨が秤を持てをる。某が学德と御あしらいを、彼の秤りてかけて見ればどうもつり合はぬ。川鰭曰、いざそれへ御平服になられ下さるべし。曰、いやここに御出の内は。川鰭、いやはてさてこれからは私の御咄申すへし。先生にもとちらへも御出はあるまじ。曰、然り。もはや明日ぎりなり。
【語釈】
・川鰭氏源藏…名は景命。源太郎と称す。後に七郎左衛門と改める。館林藩士。~1814。年67歳。
・守隨…秤製造の老舗。武田信玄の頃から始まる。

○顧吉左衛門曰、先日石原先生の墓へ行たが、只の石なれどもはてこわい。曰、石原先生はいかふこわい御様子なり。先生又曰、こちに咎が有たからと、墓でそれを思ふやうなことはないが、何となくこわい。先生吉左衛門をつく々々顧て、さてこれから見ればよっほど白い。恭節曰、石原先生に始て見へたは老兄には二十かの時。吉左曰、然り。恭節曰、今の先生の方からの紹介か。先生曰、なにさをれが坊子になってからのこと。をれさへ行れぬやうて、をれか言たとてなに合点するものぞ。某も其後どふかして往く工面をしたが、得ゆかれぬ。安井半十郎、予か秋葉の庵に泊れとも、石原先生へはそれと云はず、堀留の煙草屋に逗留とまぎらした。石原先生が、黙斎坊子になったそふなが乱心の沙汰ぢゃと云はれしと云。あれが叱ったではなく、いかふ患へられたのなり。
【語釈】
・安井半十郎…安井記齋。名は利恒。字は子久。半十郎と称す。成東町小松の人。享和2年(1802)4月21日没。年78。稲葉迂斎門下。

○先生曰、ああ又御礼に往ずはなるまい。恭節云、源藏もそれに及ぬと云ふ。いやそふ云へは猶々出子はならぬ。明朝出やう。迂斎などは上品なことで、れき々々頂戴ものする、直に礼にゆく。慾がないからよかった。引而髙と俯而就くとなり。迂斎の時は家内のことか軽いことで、右近様から狂か祖端斎死たとき推茸が来た。その箱を譜代のはばかくちなしで塗て講席の茶盆にした。其後迂斎上京の餞に羽織を賜はり、其も箱に入れてきた。まだその節は椎茸の文字がよめず羽織の字もよめず、菓子と思ひ、先生の出あとてあるへいても食ふ氣じゃ。迂齋は其推茸でもやはり上下で礼に行れた。某などそれには似ぬ。迂斎、筑前様七つから十一二迠素讀敎へり。其後本家へ養子に行かれた。其時、家中の者とふぞ年始にこられよ、そふなくては我々手が出されぬと云へとも迂斎ゆかず。晩年に佐竹求馬公も本家をつかれた。其時箕作武七、後茂左衛門と云ふ、迂斎にたのむに、私屋鋪甚むづかしい、私とも手がつけられぬ、何とぞ先生來春御出下され、と。そのときは往たが、あとで果して招きあり。今の侯、幼君のときも迂斎ゆきしなり。これか皆理で氣はない。○仁愛之理心之德と、あれはあたたかに云たがよいと思ふたが、訂翁はあたためずともよいと云。以上廿七日。
【語釈】
・引而髙…論語子罕7集註。「賢人之言、則引而自高」。
・俯而就く…論語述而23集註。「聖人之敎、常俯而就之如此」。
・あるへい…有平。砂糖菓子の意。
・仁愛之理心之德…論語学而2集註。「仁者愛之理、心之徳也」。

○西村惣五郎曰、昨日の御咄、伯夷桺下惠のこと氣質の上なるや。曰、垩人をも氣質の上て云ことあり。西村曰、伯夷桺下惠氣質なれは、氣質変化は如何。曰、どふしてあの人方は氣質変化は知るまい。右廿九日。
【語釈】
・西村惣五郎…

○日原老人、小兵衛。閑談し、祭のことに及び、先生曰、御屋鋪などはあまり重いこと云てはあとの續かぬもの。初献亞献などをするには及はぬ。齋戒などはかたではならぬこと。其人の心にある。畢竟そちの咎ぢゃ。溝口侯の葬埋のとき、虞の祭を一度にしたれば、宗伯が私方へ参て大鳴りなり。されどもあれがは礼の當然なれば感服した底でかまはぬ。かまふかと尚あらくなる。畢竟知惠がない。かたで計り覚へている。予が礼と云は古礼のかたがあればよい、かたからやめたら呵るがよいが、三度を一度にしたとてそれを咎るでもあるまい、礼は時の冝に従ふと云たれば、又腹を立て、をれさへ三度したに大名のならぬと云ことがあるものか、と。これか根からしらぬ。大名じゃからならぬ。必竟あれが浪人ぢゃからなる。あれは餞のことと思ふたもの。

○先年溝口の家中、某か方にくれば浩軒さま御耳に入り、そちも黙齋方へ往くそふなが、往くはよいか用心せよ、幸田や宗伯とは違ふ。あれが処へ行けは胷中を見さがされるぞ。これが喜ひで云はるるなれとも、とかく見さがすと云は人のいやがることなり。そこで某をば君臣ともに幸田ほどに信仰はない。○日原老人曰、今権門のやんだて屋鋪方の大きな仕合せなり。曰、けっかうなことなり。行燈をかきたてた。日原曰、町家などそのときは恨んだやうなことも有ったそふなが今は服したと云。曰、何でも初手から服すと云ことはないもの。寐た処を起ては、吸物を食はせやうと云てもあまり喜ばぬもの。

○某上總へ参ったとき、長藏か伯父七十計りでちと老耄のやうで有たが、某が行とまだ飯もくはぬ底であったが直に出て、先つ社倉を建てくれよ、さて髪を立よ、と。これは某への異見なり。さて婚禮をせよ、昏礼せ子ば子孫が出来ぬ、と。それはよいが、あとにをかしなことも有ったがこれは咄されぬこと。百姓ても社倉などのこと、如此云。めつらしきことなり。○先生謂日原老人曰、館林様段々厚いこと。昨日も重い音物てあり、この小袖なとも平生の服にとてつむきを賜ふたが、これは甚た心を用ひられたこと。これと香の物こまかに切り、蚫も柔らかでありし。同じ對句の養老なり。始めは敬礼の羽二重、終は愛情のつむぎなり。○政二郎曰、訂斎先生の、神發知を知を發すがよい、と。先生にも御同心なりや。曰、きっと定たことはないが、あの知が知覚でもなく、知ると云がこちに具ったもの。されども神がなくては知がはたらかれぬ。以上二十九日。
【語釈】
・神發知…太極図説。「形既生矣、神發知矣」。

○文二曰、江戸の学者文字や人の方はよく論するが、心法や功夫底の話はかたからない。存養静座の筋でも問たなら、先生の御咄し面白からん。曰、こちの者もほんのにはないが、功夫はすることと思ふて居る。右晦日。

甲寅春先生一出為報館林侯重聘三月十一日発行、十二日税駕假館北島豊田氏荘中。以道侍凾丈漫録其所聞如左
【読み】
甲寅の春、先生一出、館林侯の重聘を報ずるが為に三月十一日発行し、十二日税駕して北島豊田氏の荘中に假館す。以道凾丈に侍り漫に其の聞く所を録すこと左の如し。

三月十七日、先生に謁し、旧來の情を叙て畢り、先生曰、御屋鋪もとかく困乏そふな。なをらぬと云こともありそもなきものぢゃが、どふしたことぞ。以道因て其然るゆへんを述ぶ。曰、これまで役人も段々かはりたらふが、其役人の今迠せぬことによいことがあろふ。考て見るへし。去々年改革ありて御下屋鋪のものをは殘らず勤をやめさせたそふぢゃが、此らはどこにもなきことなり。そのどこにもなきことをする時分、御家中にて何とも云はず承知した位なら、どのやうなことても成るはづぢゃ。そこをよく考て見たがよい。○北宮黝孟施舎を引たは借りもので、こちらのはこふと本のを出したと云ことではない。勿論この方のは集義からすることゆへあのやうなことは入らぬけれども、氣の摸様を云ときはあれらもこちに違ひはないと云ことそ。気の摸様はこふしたものと見せたのぞ。
【語釈】
・北宮黝孟施舎…孟子公孫丑章句上2で、浩然の気を説明する中でこの二人が出て来る。

○板倉欽二に謂て曰、直方の浩然の章て、膾は酢でもて男は氣でもてと云へるを議したそふぢゃか、まだそふでもあるまい。あれを議せばどれほど益になることぞ。○今日館林侯の御前で小学を讀んだ。蒙養弗端の人が成人して役人になるから、長して益浮靡とて役に立すになると云た。浮靡を役に立ずと云てよし。侯は御幼年、御合点もゆくまいけれども、役人なとも居るゆへ云たぞ。○目は視が德なれども、くら闇には見へぬ。見へぬとて目てないとは云はれぬ。悪亦不可不謂性もすむ。○訂翁も小一がことを云はるる時は殊の外不平な様子なり。それと云も任して居らるるからぞ。○小一が詩経の序を朱子の未定と云ふも朱子の外孫が云たことぢゃが、朱子も自滿で、問者唯々として退くとまで書てをかれた。それ故去年の講釈にもそふ云た。此序で詩の大意がよくすむが、又これを未定と云へばどれほど学者の益になることぞ。訂翁も腹を立て、文章を書て長々と弁せられたが、小一やくにもたたぬことを云て御老人に腹を立たせたと云た。これらも某が馬鹿にしたやうな云方なれども、その通りぢゃ。
【語釈】
・悪亦不可不謂性…

○三年無改父之道は直方の説か面白い。小児が大事の印篭を持て遊ぶ。今取ると泣き出すからまああつけてをく。なれとも其印篭を石に打付て破ふとする。そこで直に引たくることちゃ、と。譬喩十分なり。何待三年のことに付て云へり。○文云、可通見文録。○伊川の春秋のことに微辞奧旨とある。奧旨は微辞の内にあるから奧旨なり。同上。○議論の平なと云はよいことなれとも、後には俗人になることあるぞ。偏なはよくないが、俗に流れる氣遣はない。象山と東萊で見へてをる。○漢唐文字訓詁を学ふゆへ、二程の出て義理を高上に云はれた。それから又程門めったに高ぞれゆへ、朱子のそこを矯て呵りてをかれたもの。皆時によって矯めたものなり。そこで今日の学者が朱子々々と云てめったに平らなこと計り云はふと、するとつい俗儒になりて仕舞ふ。漢唐から段々の勢を考て見ると、今度は吾黨の学者が俗儒になる番に當て來たぞ。ここでは一つ其合点ではっきりと学ぶがよい。
【語釈】
・三年無改父之道…論語学而11。里仁20。「三年無改於父之道、可謂孝矣」。

○文二曰、迂斎先生の御講釈は段々と御咄が多くなりて、後には本文の所を忘れるやふなことありと仲遷の云き。曰、それが仲遷が知らぬのぞ。迂斎の講釈の上手と云は、そこが丁どにつじつま合ふたゆへのことぞ。小野嵜舎人殿の云はるるがよい。十左ェ門様の講釈は、ああ云ては後にはをさまるまいと思ふに、丁度の処にゆくと云はれた。仲遷は幼年のときのこと。そこらはうっかりとした筈ぞ。○我が先輩のことを議するに乍憚と云口上は入らぬ。乍憚と云は隔心からのことぞ。先軰を信してさへをれば議してもかまはいはない。信せぬからして乍憚と言てわるく云。予など程先輩を議するものはないが、一体が信してをるぞ。文曰、銀藏録中、先輩を信ずるものは信じすぎ、軽んずるものは軽んじ過る、と。盖此時の話ならん。
【語釈】
・小野嵜舎人…本姓は在原。名は師由。初め團六と称す。秋田藩支封老職。宝暦2年(1752)10月8日、江戸にて没。年68。直方没後、三宅尚斎に学ぶ。子は師德。
・乍憚…憚り乍ら。

○幸田語録さてよい。讀てみるに誠に不能手と云のぞ。予がことをもあの坊子がなどとて軽易にあしらふてあるが、少しもこの方の心にさかはぬ。不同心なことはない。なんぼよく云はれても不同心なことがあるものじゃが、幸田に於ては、論は予と違たことがありても不同心なことはない。さて々々大きな学問なり。○一二の朋友延平荅問をよむ。先生曰、予は文義訓詁のことは一つも云はぬが、なんとにぎやかな會ではないか。○春秋一字の襃貶と云はないこと。そふなぞ。なるほど凶年の時は凶年と書す。その時普請をする。そこで、その凶年の次へ普請をすると書けば、それで直きにわるいと云ことは知れる。褒貶にかまはずに是非は見へてをる。胡文定のやふに云は穿鑿すぎる。因て問、通鑑の書法も非なりや。曰、これもよくないと幸田語彔にある。
【語釈】
・胡文定…胡安国。宋、崇安の人。字は康侯。号は武夷先生。1074~1138

○幸藏と小市は我黨の仁王門ぢゃ。あの二人が左右に手をひろげてをるで大抵なことはすむ。與丹二録可昭看。○行藏は伎倆がなくて正直なり。小市はらいがあれども心術に偽あり。宗伯は正直一と通りなり。○小市はもと土井侯の小僧でありた。其時合田忠藏儒官で有りたが放逐された。其相伴に小市も逐れた。それゆへ麹町に舌耕して居た時分も土井侯のことについて迂齋へは來らず、予が部屋へ斗り來た。心術にあぢな所のあると云は、江戸に居るとき迂斎のことをわるく云たそふぢゃが、京都へ行ては訂翁をそしり、迂斎をは又ほめたそふな。これらがをかしなことぞ。
【語釈】
・舌耕…講義・講演・演説・講談など弁舌によって生計を立てること。

○土井侯利延幼年にて家督をとられた。其比朝倉某と云家老か甚た威勢がありた。忠藏侯へ用られた時分に侯かそれを役を取けた。其時の外の家老もよい氣味と思ふたかしてそれに同心した。それから忠藏段々存寄を云た。其時先つ私を用人に仰付らるるがよいと云たそふな。それらが重りて放逐に合へり。小一あれに素讀などを習た。君の側坊主にて相伴に放逐されたと云も、これにて小一が其頃から人にすぐれたも見へてをる。又、儒者を逐出す相伴に小僧を逐出すと云も、その比の政のをかしき知るる。

○三月十九日、或る者か役人になりて若林の所へ来て云に、私此度役義仰付られましたか、先生やがてころふしませよと云ふ。若林あとであれが一はいする氣で云たが、あのませよが合点ゆかぬ、と。面白ことぞ。そふ肩をいからし肘を張ると、いつでも仕そこなふ。若林任ずる人でああ云はれた。誠に知と云ものぞ。学の功と見へる。孔明などあれほど任しても有閑暇と云てある。彼のごろふじませよではない。茶の湯なども、今日は口切りとふるってする料理はいつてもよくないもの。すらり々々々とした所によい料理もある。土井矦の松見か浅艸の誓願寺を呼ぶ約束して、ついそれを忘れて支度もなにもせずに居た所へ誓願寺が立派にして來た。それでこれはと云て通したが、何も食はせるものかないゆへ出来合の我食ふ干菜汁に坐禅豆で振舞った。此方は仕方なしにしたことなれども、さきてはさて面白ことと言て喜んで食ふた。上手の藝は皆そふしたことぞ。
【語釈】
・有閑暇…

以道問、霍光を無学無術と云はどのやふなことぞ。曰、昌邑王を廃したほどの位な手際なれども、白徒で居ながら覇道がないと見へる。甲斐ない処ある。術と云は皆あの時分のは伯者のことなり。誠な意はかりて伯道がないゆへ無術となる云云。詳見文録。○或人問、王裒かことを朱子厚に過ると云は如何。曰、厚に過はせぬやうにも見へるが合点ゆかぬ。朱子のにも落付ぬこともある。あのやうなことは論がつけにくい。されども神道では湯武迠もやかましく云程で居ながら、これを抄畧に載てあるを見れば未定ともしにくし。我方のことになると丁どよい位に了簡も出るものぞ。
【語釈】
・無学無術…
・昌邑王…劉賀。昭帝の死後、霍光らは昌邑王劉賀を皇帝に擁立するつもりだったが、劉賀が淫乱だったので、劉詢を皇帝に立てた。
・王裒…晋書列伝58。王裒。「王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、爲文帝司馬。東關之役、帝問於衆曰、近日之事、誰任其咎。儀對曰、責在元帥。帝怒曰、司馬欲委罪於孤邪。遂引出斬之。裒少立操尚、行己以禮、身長八尺四寸、容貌絶異、音聲清亮、辭氣雅正、博學多能、痛父非命、未嘗西向而坐、示不臣朝廷也。於是隱居教授、三徵七辟皆不就。廬于墓側、旦夕常至墓所拜跪、攀柏悲號、涕淚著樹、樹爲之枯」。

○吾黨でない人の云たことをこの方の量簡て見ると殊の外わるいやうに見へても、又あちになりて考へて見ると丁どに言訳けのなることか多いものぞ。学者か兎角かれこれと小尻とがめをしたがるが、やくにたたぬ。それゆへ肝心な処をうっかりとする。大抵な処はそれですまして置て、いでと云処ではばったりと取てをとすがよい。政の上なとは猶更なり。赦小過と云てあるぞ。文義なとの少しの違は大事ない。予幼年のとき戯塲を見たに、子供の時ゆへ何の狂言かは知らぬが、熊坂か松の木の上に登りて居る云云。詳見文録、故畧。これが面白ことぞ。盗人も熊坂となれば格別なり。俗儒のは盗人なれば、一二分の金に目をかけるから彼の五百両を取りそこなふ。
【語釈】
・いでと…いざとの誤り?
・熊坂…熊坂長範。平安末期の大盗。

○鳩巣の圖述なにも言分はない。就中手柄と云は五行の系を土へもかけたが尤なことぞ。あれほどよいが、後論に何も云てない。あれがなんぼでも化をあらはした方ぞ。○先生謂以道曰、四十六士の論、三宅先生の黙識録に云てあるがどふぢゃ、合点がいったか。荅曰、未し。曰、どふも予も論がつけられぬ。以道曰、先生の雜記中、今日に在てもあの筋のことは我家内でも施されぬことと云へる筋の説所々に見へたり。曰、さればさ、よく考て見るに、四十六士をよいと云心いきて家事をさばきては、一日もすまぬことがある。今日の上にもこの六ヶしはこれから起たと云ことがあるものぢゃが、その時四十六士をよいと立る氣ではさばかれぬ。直方の言へる、鰹に中って死だと云て、鰹賣を親の歒とは云はれぬと云処ぞ。○直方先生の四十六士の論のわるいと云は、あれらを心の上まで云はるるがわるいぞ。それからしては山鹿が弟子ぢゃのなんのと云こと迠を云やうになる。そふしたことではない。兎角事の上からしてきめてゆくことぞ。

○諸子六先生の談に及ぶ。先生曰、六先生の賛は、文義は性理大全の註で合点して、それからさきは面々分量次第に見ることぞ。濂溪の賛で仁なとと云ことを云はわるい。先達で冨八方からも云て來たとき、予は山北紀行の朱子の周子の像を拜された詩で發明したぞ。圖不盡言云云も大極が圖が十分にないと云ことではない。像を相手にして云た賛ゆへ、直きに周子に對面した上で云から、圖どこではない、しきに周子にをふた心地なり。この像で周子の昔を思ひ出して云たもの。○智知の別、智は全体で云。知と云ても智の内に入ることなれども、知猶識と云へば全く理のことになる。知覚は氣の上のこと。ちょっとあたった所で云たもの。鈴木貞斎が、禽獣には知覚はあるが知識かないと云たが、禽獣にもある。上総ても近処の若者か犬を見て棒をふり上るとにげるが、予か杖を揚げては何とも思はぬ。あの老人は打ちはせぬとをもふてをちつく。あれは知識なり。致知の或問に心与理而已とあるにても、知の全く理は知れる。智は性で理なれども、知覚もその内にあるゆへ氣もあるぞ。知の字でに従ふの智を明にすることなり。
【語釈】
・鈴木貞斎…初め鳥羽金次郎と称す。名は重光。金七と称す。土佐の人。伊勢、後に大坂に住む。元文5年(1740)8月3日没。年66。浅見絅斎門下。

○勝成問、石牌は何れを上とするや。曰、ほんの臥棺で云ふに、凡そ沐浴する前に親類の内がそこへゆきて拜をするものぞ。あそこが丁どよい。仁斎のは馬鬛封がありて、その前の方の中の処に立てある。○問、淺見先生孫林甫寧の疑、如何。曰、此は鈴木貞斎が説がよいと覚へた。訂翁のは幸田語彔にもわるいとある。惣体あのやうなことも垩賢のはいそがしくないことと見へる。○服部善藏か弟子が幸次郎に、幸田は性行のわるい人じゃになぜ御出なさると云たそふぢゃが、性行がわるいと云へば学問はよいと云ことが知れる。学問さへよければそれを学ぶ。性行は学びはせぬから向のわるいにはかまはぬ。幸田を性行がわるいなどと云は悪るく云氣なれども、性行かわるいと云へば其外道体の筋はよいと云ことがをのづと知れるぞ。それは悪るく云て、幸田に無盡をしてやったぢゃ。
【語釈】
・勝成…
・孫林甫寧残の疑…
・幸次郎…奥平棲遅庵。名は定時。通称は幸次郎、晩年は玄甫。武蔵忍藩士。明和6年(1769)~嘉永3年(1850)

○新發田侯よりの合力、上総に往てから度々断りを云たが承知なく、一年ほどそれなりにしてをいたれとも、程なく翌秋すみ、それから目録賜はる。すると代がかわりたゆへ亀次郎殿に御目見もせぬに目録を取りては如何かと思ふて断りたれば、これは亀二郎からではござらぬ、やはり浩軒から進ぜますと云て來た。されども、一体が浩軒様から來たではないを知てをるから又断った。あちではきつふ不機嫌で有ったそふな。右の訳ゆへ昨日行たときも浩軒様があぢなことを云はるる。何ぞ進ぜたいが、進ぜたら又何の彼のと氣にも入るまいと思ふて何も進ぜぬ。されど相應の用はそれから仰られとあるゆへ、いやなにもなしと云ふ。彼れこれ申ますではなけれども、我が方にも性善が存すからは恭敬の心が發りて物を頂戴致しても御礼致さ子は繋累になりて安んせず、上總に参りて御礼の致しやうかないゆへ、何もかも御断り申すなり。

○以道曰、服部は朱子学でなし。全く東萊なり。曰、然り。東萊と云へば朱子の友ゆへ朱子と一つことと思ふて余り腹も立つまいが、そこを吟味するが此方なり。○諸先生の席に侍するに坐を譲るを見て云、学者ほど席を譲るものはないが、さて心は譲らぬもの。○新發田の佐藤八右衛門か男子の生れた時知らせてこして云には、子が生るれば又これを善い人にせふと思ふ人欲が出ると云た故、予が、そふ云へば、ふだん余の人欲はないやうぢゃが、外にも色々人欲が有ふと云やりたが、去年か其子か痢病にて十四歳で死せり。死ぬ前にもふたまらぬと云て上下とりよせて着たと云ことぢゃが、それで見れば八右衛門か最初言てよこしたに違ひもなく、よく教へたと見へる。其子も又格別なことと思ふた。其時落涙した。○因に云、留主竒齋は仙臺を出奔せり。
【語釈】
・留主竒齋…留守希斎。名は友信。退蔵と称す。別号は括嚢子。本姓は佐久間氏。一関藩士。初め遊佐木齋に学び、養子となる。名は好實。武内と称す。明和2年(1765)4月27日没。年61。浅見絅斎門下。

○節要訓門人は我黨の立て物ゆへよいが、今日若い者かそれ計りの會では年が寄てすることがあるまい。ちと力のつくものをするがよからふ。以道問、何れの書善からん。曰、賢か力でするなら張書抄畧など然らん。さりながら、さて六ヶしい。直方の、力と云は大きなことぞ、中々すまぬことだらけ。周張全書や性理大全ですますがよい。両方共によい説とわるい説かある。闇斎は直方にあれを言付てさする時に百日と思ふて居られたに三十日で出来された。闇斎きつい喜びで有為之才と云て穪美された、と。闇斎人をほめぬ御方で、直方もほめられたは其時計りなり。○謂金三郎曰、精を出すはよいが、あまり方々へゆくはよくあるまい。一と所で脩行するがよからん。尾藤殿然るべし。○孟子不可磯とは、ちょっともさわらぬと云こと。
【語釈】
・金三郎…
・尾藤…尾藤二洲?名は孝肇。字は志尹。良佐と称す。別号は約山。伊予宇摩郡川之江の人。昌平黌儒官。文化10年(1813)12月4日没。年67。西依成齋門下。蟹養斎にも学ぶ。
・不可磯…孟子告子章句下3。「凱風、親之過小者也。小弁、親之過大者也。親之過大而不怨、是愈疏也。親之過小而怨、是不可磯也。愈疏、不孝也。不可磯、亦不孝也。孔子曰、舜其至孝矣、五十而慕」。凱風は詩経邶風、小弁は詩経小雅。

○宗伯が、大学三宅先生の説もよくなし、絅翁のもよくない、新疏もよくないと云そふなが、それては自分計りがよいと云もの。大学に義理精微は無い。制札のやうなもの。制札に精微か有ふはづはない。六ヶしいと云は工夫する上でのこと。○大髙坂清介、伊豫松山の儒官千石ほどで力ありたそふなり。因て以道与文治言ふ、芝山會稿の中、書物や器財の焼た數を書て置たは惜む心からと見へたり。先生曰、名を好めばそのやうなことはかかぬ。實情からして書たものなり。道春も火事に遇ふて書物藏を焼て、それで氣を打て病根になりて死なれたと云ことで、子の春斎の書て置れた。これらもそれぢゃ。少も嫌をさけぬ。又これがわるいと云てからが、これ式のことでびくとするやうな道春ではない。春齋のそれをかまはずかかれたも面白こと。羅山文集の古本の誰やらが書入れにも、其あとにそれを叱た説が二つある。却て卑く見へる。
【語釈】
・道春…林羅山。1583~1657

○惺窩は陽明で信じられた。○惺窩の頭には少しまわりに髪の殘りた所かありた。人々あれはなぜと云て影では云たが、それを直きに問ふことは威嚴にをそれてならなんだ。そこで大久保彦左衛門殿が、をれが聞て見せふと云て自満して惺窩の前へ出て、ずっと出は出たが、顔を見てさても今日はよい天氣でござりますと云てしまった、と。あのいたづらの名代な人でもどふもそれを聞ずに仕舞れた。○惺窩、權現様へも度々出られたれど、とふしても大坂陣もあらんと左様な勢を見て、其時からとんと引れた。これはちとをかしきことぞ。大坂を正統と見てのことと思はるるが、これは麁相な方なり。
【語釈】
・惺窩…藤原惺窩。1561~1619

○松永昌三は惺窩の門人にて松永弾正の子孫と云こと。土井矦の峯藤太か京師にて昌三の後へ往て学んで聞た咄あり。此は外にはなににもないが、實説に相違はない。惺窩の髙弟五人ありた時、關東より御使が來て一人召抱たいと云たれば、四人の門人は皆御使者を後にして壁を向てすわりて居た。そふすると道春は、又三郎と云た比なりしが、私を召抱られて下されと云て、自分から出られた。それで道春を御抱えなり。これらもよほど珎しいことて、今時の風とはちかいなり。これが実説な証拠は、羅山文集を見るに其時からちと惺窩の方が不首尾と見へ、惺窩へをくる文章に度々賜温顔なとと云ことを云はれた。○或人曰、道春は南光房をたぬき目が々々々々々と云れし、と。曰、それはどふか知らぬが、仕官は又和らかなり。文集の中にも上野の御法事の事について、一部猶然况千部乎などと書れたことがある。
【語釈】
・松永弾正…松永久秀。山城守。三好家を横領し、足利将軍義輝を殺し、奈良の東大寺を焼いた。
・南光房…南光房天海和尚。諡号は慈眼大師。天台宗の僧。会津の人。1536~1643

○三宅先生心喪の仕方は又別なこと。五十日は定式で引込で、忌明にて出勤する処を病氣にして又五十日引てをり、それで百日家にをられた。これが百日は卒哭としたものなり。それから出勤なされての衣服がよい。裏へは皆麻をつけられた。今時はみな木綿を着る故表へ麻を付てもよいが、その比はそふならぬゆへ、裏へ計り付られたがよい御趣向なり。

○今度は館林公御丁寧の御取あつかいゆへ道中も逗留中も倹約なく、小遣帳など付るなと二書生へ云付た。それでもつかいををせられぬ。○上総を発足するとき、どふしてか馬がをそく来た。軍などてはああ云ことはもふ首を切ら子ばならぬ。軍令と云ものは嚴しくなくてはとどかぬ。道中も軍の心もちがよい。三尺手拭も外に入ることもなけれども、あれへ合羽をつけて、降り出すとじきに着ると云やうながよい。そふないと手廻しわるし。○恭節に謂て曰く、三河後風土記のやうなものをも見て、此方のことを知るがよい、某羅山文集を讀で大に典故を覚へた。

○尚翁獄中で血で諌書を書れたと云は大きなあやまりなり。そのやふなにへきらぬことはない筈。又、どふして諌書か上けらるるものぞ。獄ては月々半紙が二状づつわたる。それをたまかにしてをいて狼疐録の字號を書れた。詳文録、下同。○山岡安兵衛殿に血書が一枚あるはづ。これは東溪の奥方がしばらくあそこにかかってをられたゆへ、それが傳りたもの。因問、血書は棺に納しに非すや。曰、それもあるが出窂後一枚ほどつつ人々が貰ったものなり。それがのこってあったのじゃ。○三宅先生、窂中毎日々々物頭か廻りに來るに、ずんと懇に云もあり、又、番人などにしめりを氣を付ろの、油断をするなのと云付た物頭も有た。そのとき先生、へちくそめ、火附盗賊と同様にすると云て怒られた。○三宅先生が重左殿頼むことがあると云はれたゆへ、何にでこさりますと尋たれば、いや外でござらぬ、妻が死後四年になるが、あれが艱難を共々に忍んだを思ひ出せばどふもたへられぬゆへ、今迠一度も墓参りを致さぬ。御自分と同道してゆけば又それほどにもないゆへ、一所に往て下されと云はれた。どふも格別なことなり。三宅先生先妻は子なくて死せり。後妻に子あり。その死後の時のことなり。

○巧言令色鮮矣仁。垩人の詞不迫切。言やうは迫切でなけれども、意は迫切なり。垩人の詞とて丸るいこと計りでもない。あの章など云廣めると拔か子ばならぬと云ほどのこと。近禽獣と云はそふりきんて云ことてはない。三宅先生、木曽の人足を見て近禽獣と云はれた。某はこれで發明した。木曽の人足などは東海道からみれば山家で格別律義でよい。それを近禽獣と云はれたか面白い。それほど律義でも、只教がなければ禽獣に近いと云ことなり。そこでこれは筭盤を合せて云ことなり。人も食に飽てをれば禽獣も食い物にはあきて居る。人も寒ひ目をせ子ば禽獸も毛があるから寒くもない。人か内にをれば禽獣も木にゆう々々として居り、掘のもとに居たりして迷惑にもない。ここは人も禽獣もさし引はないが、只人には教と云ものがありて、これで大きに違ふことぢゃが、その教がなければ筭用が禽獣と少しも違ふことなく合ていると云たものなり。禽獣之行我豈為哉と云語意とは違ふ。與文録可昭看。
【語釈】
・巧言令色鮮矣仁…論語学而3。「子曰、巧言令色、鮮矣仁」。
・垩人の詞不迫切…論語学而3集註。「聖人辭不迫切、專言鮮、則絕無可知。學者所當深戒也」。
・近禽獣…孟子滕文公章句上4。「人之有道也、飽食、煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸」。
・禽獣之行我豈為哉…

○謂小松原氏曰、御親父は幸藏が学を守て苟もせぬと云ことを聞たが、師匠の道を守って変ぜぬと云はれたそふぢゃか、此も出處は正くてよいが、知見を論ずる時は却て卑いことにもなるならん。賔師でなくては出ぬ。出ても我が意に合ぬから去る。これで出處に云分はないが、さて知見と云ものはそうしたことでもあるまじ。とても賔師と云ことならぬこと。すれば出ぬも然らん。又、出る位ならそんなことに御かまいなく出るがましならん。この咄は交り淺くて言深きの罪を犯せども、行藏が弟子とあれば外のやふには思はず、影で云ことを隱すも如何ゆへ云ことなり。詳文録可昭看。館林矦今度某を賔師のあしらいなれとも、この方でそこをばにげるまじ。目にうけると仕そこなふなり。
【語釈】
・小松原…小松原十太夫?館林藩の臣。

○直方先生も初めは講釈はなし。後に講習と云もの始りて、門人に誦ませて先生はううと云てその義をとけり。小学のとき、石原先生が王凝常居栗如也、子弟非公服不見と誦み上げると、あんまりじゃと、さあ々々次きへやられよとそれぎりなり。○淺見先生の講釈は先達遺事にも書て置た通り、舜臣五人、此五人と云か多と云てもなく、すくないと云てもなく、ありなり五人しゃ、皆そふ思へと云はれた。そこで聴徒がはっと頭らを下げる。一度々々にそふぢゃ。○羅山文集の内に南光房のことも云てあるが、殿中ての議論は後人の拵たことぢゃもしれぬ。どちらも手者だもの、どふしてあのやうな角付合があるものか。
【語釈】
・王凝常居栗如也、子弟非公服不見…小学外篇善行。「王凝常居慄如也。子弟非公服不見閨門之内若朝廷焉」。
・舜臣五人…論語泰伯20。「舜有臣五人、而天下治。武王曰、予有亂臣十人」。

○山宮など文章を直すか上手てあった。迂斎が時々直してもらふた。今度のははれだからなどと云てたのむと、むむ々々と云て三つ四つ字を直すとそれで文がよくなった。唐嵜なとは全体は詩文ともに山宮よりはよかりたが、直してもらふに大半自分の文にしてしまふた。迂斎と云へども其時はあまり喜はぬ様子なり。この春太兵衛が歳旦の詩を文次が直したを見たが、段々直して梅と云字計りのこりた。○三宅先生の弟子の云たことそふなが、眞西山が大学衍義を書て、それで落付ぬから心経附註でそれを埋め、丘瓊山が大学衍義補を書て、それで落付ぬから学的と来ると云た。某も若い時分よい云やうと思たが、そふでもあるまい。衍義補は全く事が主ぢゃが衍義はそふも見へぬ。致知格物からして云てある。此話も唐嵜が云たが、やはり唐﨑云出したことかとも見へる。
【語釈】
・山宮…山宮雪樓。名は維深。字は仲淵。別号は翠猗。官兵衛と称す。江戸の人。羽後亀田藩岩城氏に仕え、後に館林藩に仕えるが去り、直ぐに殞命。年40。三宅尚斎門下。
・太兵衛…北田慶年。太兵衛、榮二と称す。東金市福俵の人。学思斎の主。
・眞西山…
・丘瓊山…明の瓊山の人。丘濬。字は仲深。号は深菴。

○石原先生の墓小石川善仁寺にあり。今度迠拜せぬが明日行ふと思ふ。石原学談の跋に書て置た通りぢゃ。先師から來るなとは云はれ子ど、どふも此方から往きにくくなって往かなんだが、今度往ずに歸るも心のこり。さてどふせふかと思ふ。偖てそれに付き鬼神と云ものは調法なもの。こちから墓へ行きても向ふであはぬこともあり、又、この方からゆかずどもあちから来ることもある。○神主か一ち大切なれども、こちへ哀痛の心の発るは墓なり。されども又、迂斎の書入の書を出して見ると一ちひびく。此は又別なり。鬼と神とを合せたやふなり。○中庸の二十五章目は直方と絅翁廿幾度と云。七會ですんだ。外の処はあらく見られたかと云に中々そふ云先生ではないが、それほどにせずとよいと見へた。○あまりかれこれやかましく云と理屈斗りで道理の合点はゆくまい。

○今日館林候へもそふ申した。御前にも段々御成長遊はさるるに付、御家来衆が御諌言申上ることも有ん。それを御用なさるるは固りよいことなれども、兎角御心に持たれぬやうにさら々々遊すがよい。文云、詳文録。さら々々遊すと御学問にも御保養にもなります、と。粗ひやうなれどもよい説なり。因曰、兎角胸にこだはりの有るがわるし。季文子三思と云もさら々々でない。道体にこだはると云ことはとんとない。降りそふな天氣、此日天曇りき。がふらずにをるは、人の方から見れば天のこだわってをるやうなれども、天の方ではそこが自然、すら々々なり。淺見先生の云はるるに、かれこれ思慮計挍してよいよりは、思慮せずにずっと出た過ちがよい、と。これらも面白こと。此話も直方などの云はるるならば珎しくもないが、絅翁はとんとそふ云ことは云はぬ氣質の人でそふ云はるるが学識と云ものぞ。ああ云ふ器用めかぬ威重な人でも学問には氣質はとんと交らぬぞ。
【語釈】
・季文子三思…論語公冶長20。「季文子三思而後行。子聞之曰、再、斯可矣」。

○長藏など某が讀んだあとて講釈をするも心得あることなり。黙斎が講釈で聴徒にのりが来たゆへ讀よいと云心なればよいが、黙斎があとでそれを假りて外靣て押し付やうと思ふと仕そこなふ。○長藏など講釈にも文義をほつ々々と云がよひ。某が講釈を聴つけて、其味を合点してをるゆへにさえたことを云たがる。そこで一二ヶ処さえが有て、惣体とつり合はぬから直に見てとられる。○今日仲遷も來る筈なり。いや、仲遷とあがり兠は昔から雨ぶりには出ぬぞ。○羅山先生、十不能と云ことを出して詩に作り、あの衆の得せぬことが十色あると、茶の湯などのやうなこともこれに入てあるが、某は十二不能としたい。詩と文をも其中へ入れたい。羅山自分が詩文さるるゆへ、我なることで云ては如何と思ふて書れまい。これは篤実な方からそふなれども、人の為に云ことは我することでもせぬと云で教になれば、そふ云てもよい。

○迂斎も増山候の若殿の為めに初て孝経をよまれた。此は唐﨑を使者で、旦那申す、嫡子御師範を御頼存ずる、御講釈は孝経と云て來た。唐嵜君命をのべてあとで次の間て予兄弟を顧て、旦那も孝行がされたさで有ふ、と。迂斎曰、今迠孝經は讀んたことがこさらぬが、それなら刊誤がよからふとて、初て刊誤を買って讀んだ。今某が藏本の孝経は迂斎その當てでれに買たのなり。○仁不可以為衆註、難為兄難為弟と引れたは、為衆と讀ませふ為めぞ。衆がありても衆とはされぬと云こと。衆をとよめば大勢集りて歒する方になる。そふではなく、大勢がありても大勢とはされぬこと。その語意が難為兄云云によく合てをるゆへ引れたもの。荅或問。
【語釈】
・刊誤…孝経刊誤。朱子撰。
・仁不可以為衆註、難為兄難為弟…孟子離婁章句上7。「孔子曰、仁不可爲衆也」。同集註。「不可爲衆、猶所謂難爲兄難爲弟云爾」。

○彦明、長嶌候を去て横網に居る時に、某年廿一かなり。それより彼に會集して書を讀む。幸田小一などみな至る。三年ほどが間かくの如し。ことの外益を得た。彦明も幸田には感心した。三宅先生以後このやうな咄はきかぬと云た。以後とは云たものの、三宅先生もされぬと云ことが知れたぞ。○横網に彦明の居たを、石原先生以の外の怒りなり。さてきたない心ぢゃなどと云はれた。これも尤なことなれども、ちと仰山な方ではありた。彦明も金四郎を改め竹原八左衛門と云た。今にも八左衛門が家の前になぞ有ったら町奉行へ出されるで有ふ。町奉行へよひ出される処が江戸であるまいやうはない。それを居るとはすまぬと云へり。されども江戸をかまはれたものが夛くは川をこへれば皆居るぞ。それほどに君の悪しみあったことなれば、首を切られるぞ。○彦明用人で居て先君の前で存念を云た。それが殊の外強く云たゆへ、影で聞たものが病氣を出して死たぞ。反て其君のときは別異なく、嗣君のとき放逐された。

○山宮に迂斎文集の跋を下た書を頼んだら、願くは家大人冨著述と云ことを書た。某胸がわるくなりてならぬから用ひずに仕舞ふた。その比は血氣にはやり、左様な句をはけがらはしく、雪駄なをしの様に思ふた。冨とはなにことそ。金をためるやうな書き様ぢゃ。○延平の春秋と云ことは各別のとりさばきなり。あのやうに道理に爛熟しては、胡文定の註も三文にもならぬことぞ。道理が自由になりた上は、見るものは事の上計りぞ。そこて左傳を好まれたことと見へる。○一儒官書生を教へる方法ありやと問。先生曰、なにもふやさぬことなり。先軰に従てをればこの方も安らかなことなり。それをこちですると云になれば煩はしいことぞ。以上。


見北島旅舍   竹中致道録
【語釈】
・竹中致道…館林藩の臣。稲葉黙斎門下。

小源太、貴様は隙もなければ錢もない。無極而太極じゃな。兎角無極の無の字ぢゃ。○恭節云、蔀様はなんにもわるいことはない。馬が御好きなり。其外女色くるいなともない。曰、それがよい。それも無声無臭なり。○尚斎先生獄中諌書を血て書たと云ふが、そふしたことでない。あれは狼疐録の艸稿を半紙でちっとつつ書れたなり。其後窂を出られてからそれを人に與へられたもある。諌書を書たなどと云は先生を煩すの甚と云もの。いつ迠諌て居るものぞ。文云、先生嘗曰、尚翁窂中で始め自殺せんと思ひ、釘に竹の柄を居へて其用意出来たれども、一日先生自ら思ふに、古より垩賢自殺せしことなし。君命を待んとて、それより生を養ひ洪範の数或は祭祀のことなど發明し、狼疐録を血を取て草稿せられたが、あそこが先生の大きなことにて、最早君を諌ることは止めて仕舞ふて狼疐録發明された。あの塲が学問だけ屈原が及ばぬ所にて、屈原はいつ迠も離騒を書て汨羅へ身を投けりと重二郎、予に語りき。又渠れ云、窂となっては諌君の任は尽る所なれば、君を諌る塲ではないはづなり、と。
【語釈】
・小源太…日原以道。手塚担斎。土浦藩士。通称は小源太。別号は困斎。1762~1834
・無極而太極…太極図説の語。
・恭節…鈴木(鵜沢)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・無声無臭…中庸章句33。「詩云、予懷明德、不大聲以色。子曰、聲色之於以化民、末也。詩云、德輶如毛。毛猶有倫。上天之載、無聲無臭。至矣」。詩は、詩経大雅文王。
・尚斎先生…三宅尚斎。
・重二郎…浅見絅斎?

○先生曰、幸田の墓所をたづ子たいが、行く間もなし。八右衛門が書た幸田語彔を世話やいて持て来たか、一日浩軒様にも御目見して、この録を一部継子佐太郎秘藏さするやふに御頼み申す積りなり。それが墓参より然らん。をれが幸田より先きへ死んたらはとて、幸田なに墓参せふそ。黙斎もやらかしたと何もかまはれまい。○幸田先生も旗本めくばあり。侍か用人共がと云へは、そふ云べき筈のやふにみへた。油雜巾を見るやふな袴着たやつも用人とも云はせるは御旗本の氣習なり。○小源太、貴様のはばさまの假札の墓碑ををれが婦人と書たれば、大内良助が孺人と直したが、あれが家老を太夫と見、用人を亜太夫と見たゆへなり。然し、こはだの酢の世話をやくはば様を孺人と書もをかし。○臥棺と云は仰むけに寢かして頰の片々の方へ墓を立て、拜禮石は横に置く。丁ど病人の脉をとるやうに向て拜をするなり。
【語釈】
・八右衛門…佐藤八右衛門。名は尚志、号復斎、八右衛門と称す。寛延二年生れ、寛政三年八月三日没。藩儒、野田剛斎門。

○何事もあまり急にきめるはわるい。あとからさしつかへが出来てくる。○仙臺の儒者が宗伯が内弟子になりてあれをわるく云は学力の甲斐ないと云処ではない。そこは見つけられることではないが、仙臺で一尺計り鯛を十八文て買つけている心で、宗伯がたまさか鯛でも買てあまりたは後に食はふと云。そこて吝いとて見限る。弟子もなれ々々しくしてあらを見出されぬやうに、遠くからよぶがよい。幸田子をばその裏はらゆへ彼か善く云たが、これも幸田の学力をほんとふに知て信ずるてはない。○兵次郎は訂翁を一ち向きに信ずる。小市の御影も蒙りたで有ふ。○訂翁が酒をのむとき、ここを小市が見たら呵るで有ふと云はれた。訂翁もせきが來たと見へた。小市もわるいそ。翁の相手になったがよい。老を養ふでない。
【語釈】
・宗伯…明石宗伯。柳田求馬。村松樵夫。名は義道。江戸の人。~1784
・兵次郎…板倉兵次郎。名は弘毅、号は震斎、兵次郎と称す。新発田藩儒者。久米訂斎門下。1746~1816
・小市…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・訂翁…久米訂斎。

○板倉公召仕の女中を廿五になると暇を出す。片つけさせる積りなり。女は子を生むばかりの能事なり。子を生むこと、年よりになるとならぬなり。さて女はやくにたたぬのみでなく、又害になる。程子の母ほどな賢女ても、御老中にはされぬ。○老人を皆がよふ尋て下さるが、念が出されず仕方がない。○山岡安兵衛が処に尚翁の血書か一枚有ふと思ふ。政二郎曰、然り。某も拜見致す約束あり。曰、そふで有ふ。あれは多田氏のなり。をれが推量も違はぬ。○直方先生謂迂斎先生曰、天下第一の人欲あり、知てか、と。荅曰、未し。曰、我をよいと思ふか天下一の人欲ぞとなり。○をらが立派に講釈しても、それを武井三翁などがまだ享保やらふじゃと云へり。其時分享保やらふと云辞がはやり、そのとき皆少年なり。なるほと享保生れによいものはない。をらがやうな者計りなり。其中幸田は享保五年に生れてすぐれものなり。
【語釈】
・山岡安兵衛…
・政二郎…戸田政二郎?
・多田…多田東溪。名は儀。字は維則。号は東溪。通称は儀八郎。平安の人。館林侯に仕える。1702~1764
・武井三翁…武井三左衛門。敬勝。迂斎の妻の弟。唐津藩士後に古河藩の儒臣。1709~1786
・幸田…幸田子善。迂斎門下。1720~1792

○致道問、養菴が犬と申すは如何。先生曰、先年三九郎に承ったが、外の犬は吠へるに、養菴の犬はだまってすっと行て食い付たと云ことなり。○問、迂斎学話に人皆以可為尭舜。程子朱子もなられぬとは仰られぬ。百万石の歒は討れはせまいなれとも、ならぬとは云はれぬとあるゆへ、なられる理で程朱も仰せられば我々もなられぬことではない。先生曰、肉をつむことでない。今日道理なりにしてゆくと、いつか一度は垩賢に至る。○松五郎曰、先生此度は早束御歸りなされて又御出府あるや。曰、松脂を買て歸る。今度が江戸の出をさめなり。○闇齋、直方先生に張書抄畧を仰付られ、百日かからふと柯先生も思召されたそふなが、直方先生三十日で出かされたれば、あの人をほめぬ柯先生も有為之才じゃと云て喜はれたとなり。○鳩巣の説なぞも味方になって見ると隨分よい。其中からあらが見へてくる。只めったにわるく云ことではない。大全蒙引なぞも直方のやくにたたぬと云はれたれども、ああも云はれるものではない。あの中にもよいこともある。以上十九日。
【語釈】
・養菴…永田養菴。山崎闇斎門下。佐藤直方は初め永田養庵に学び、彼を介して山崎闇斎の弟子となる。
・三九郎…志水質義?稲葉迂斎門下。
・松五郎…佐藤松五郎。
・鳩巣…室鳩巣。

○主水殿咄たが、幸田子醉ふて駕篭の中寢て歸るに两國て目がさめ、夜發[よたか]蕎麦ををれも食ふから各々も食はれよ、と。なれども幸田の食はふは迂詐だらふ。駕篭わきに御徒歩なぞつけられたゆへ、氣の毒になりたゆへ買て食はせたらふ。よく錢がありた。供の者に銭を拂はせたも知れぬ。面白ひ咄なり。○先年行人坂の焼た時京へ行たが、その時分ある儒者が五百石なら仕宦せふ、儒者一さんまいのことにぬけはないと云た。天下歸仁儒者なら五百石てはやすいものなり。○今日なぞ幸田子なら盃がまはりてよからふが、をれがささずに居たゆへ、学者ぼしなり。○明日は先君の忌日とあることゆへ、京極公子の坐て犬がみをしこむ咄しのやうに酒をふんとして飲ませずにをいた。
【語釈】
・主水…松倉主水。勘解由。館林藩家老。名は正達、号は卜山。1777~1833
・天下歸仁…論語顔淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮、爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由仁乎哉」。

○若林も中庸では神道を云はぬ。易や存養には云はふとも、中庸の孔門傳授の心法ゆへ云はぬ処が若林の若林たる所なり。中庸で云と争の端ををこす。合一に云と為めにならぬ。○長藏云、細屋鋪あの德利をそちらの樽へあけて德利は返されよ。先生曰、それを返すと又よこすから留て置たがよい。何日にいくらと酒の量がありてはわるい。來るものに飲ませるからわるい。それでは法事をも序てに御頼み申ふと云やうなものなり。○文二、賢ほどをれが内をよく知て居るものはない。なんぼても遠いゆへ折々泊るから何かを知て居るが、をれがまだ雪隱は見まい。木具はよくないが竒麗なり。指でさわっても微垢ても付ぬほとなり。今度見せやふ。これも氣のやしないの一つなり。
【語釈】
・若林…若林強斎。
・細屋鋪…花澤文二。林潜斎。東金市堀上(細屋敷)の人。

○恭節飯を炊くに煩労と云。先生曰、これにたへられぬと云はわるい。飯はたけぬこととして僕ををくがよい。恭節曰、どふも暇がなくて置くまがない。曰、身にしみて置くがよい。役に立ぬ僕ををいて、文王の殷の紂王をあしらふやうに使ふがよい。○武士と云ものはいやなものなり。町人は飯をたいて食て出ても飯をたいた顔なり。商をして又歸てたいて食ふ。武士に飯たくときと上下て出たなりはいかふ相違なり。皮の袴でも着ていればよいに、旦那の紋付を着て、旦那と同じやふに首をふってありくはをかし。○羅整菴が、妙合は下戸の大盃と幸田先生の云はるる、如何。曰、ただあらく云ふことなり。理氣持あつかふゆへ下戸に大盃なり。上戸なれば飲んで下にをくが、下戸は置ことも持って居ることもならぬ。○文次、先生に見へる者の姓名を記す。先生曰、萬姓統譜が出来やう。○致道問、好好色悪悪臭と對してよい色と云ことで、その中女色は猶更と云ことなるや。曰、よい色と云ことも、あれが牡丹の芲かよいと云ことでない。切に見るがよい。格致の上への誠意ゆへ、女色に歸して云べし。致知格物も受用になるやうに見るがよい。以上廿二日。
【語釈】
・羅整菴…
・好好色悪悪臭…大学章句6。「所謂誠其意者、毋自欺也。如惡惡臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必愼其獨也」。


先生客舎    作田銀藏録
【語釈】
・作田銀藏…九十九里町作田の人。稲葉黙斎門下。

行藏などかあぢな氣質あり。色々なことで相塲のかはる男なり。善太郎もあの通り。黙斎もどふらく。文云、先生自ら昔しどふらくと云こと毎々話頭に云へども、今日少年の戯塲遊里を云ことに非ず。荘子が廣唐晋人の縱恣底を云。世人この間違の傳聞にて、先年先生上京の時、或る学者先生に合はせやうとて三絃の話しせしを、黙斎音樂は未だ学びずと云き、と。銀藏なども間違ありては如何ゆへ、文並せてここに記す。いっそ漢儒の方もよいと云やうなじれる心かあるぞ。それが道を任ずるからなり。道は任じやうが器局は小い。鉄火箸のやうにひん々々する。小一にはすこしらいがあり、そこは貴いけれども迂詐がありた。文曰、先生嘗曰、石原先生、行藏にはあぢな所があると云はれき。これ後信古堂の萠蘖先師、暗に其機を見玉ふものなり。仁斎徂徠、程朱を排して古義古学と唱へる類ととど同日の意見なり。あれか迂齋へ來てから山宮門と云はるることを大ふ耻き。後は又迂斎にも充たぬ。皆らいのない所からなり。兎角俗儒が古々と云が、孔子より程朱と云がよく、吾人は又程朱と云より吾黨の先軰と云がよし、と。又、先生毎に李退溪論吾より朱書を貴ぶことを賞嘆せられ、これらの話知る者なしと云へり。文、一夜日原氏と二禮儀畧の談に及ひ文曰、あの跋に、先生始学山官後師迂斎先生。猶不足而退求諸六経と服部子書けり。日原今夜始て眉をひそめ苦き顔して、さて々々そふ書れしや。村士をとんと明道先生にせり。文曰、吾黨程朱の後六経と云ものなし。今六経と云も古るき趣向にて、仁斎徂徠が糟粕を子ぶるも耻べしや。若吾黨にて新しく書かば、不足迂斎先生而退求於濂洛と云が然らんか。なににしてもぜぬ方からは格別なれども忌憚なきにや。文又嘗て村士服部の二先生程朱の学と聞けば、史傳や六経とて主張あるまじきこと、又、あの書が村士の傳や行状もあらず。山宮、迂斎の先生を不足として六経に求ると云ことあつからぬことと思ひ先生に語りしに、先生先君のことなど少しも意とせず、徐曰、行藏と云こと誰も知る者なし。因て由來を書たものなり、と。文退て思ふに、程子の周子を不足として六経に求るともなし。朱子延平に於るも然り。又、子貢愈於仲尼と思ふは其人にあること。人の耳目学の邪正は掩はれぬことなれば、公共の論定るべし。先生ヶ様のこと取上げて論なきは尤然るべき筈なり。
【語釈】
・行藏…村士玉水。名は宗章。行蔵、後に幸蔵。別号は一斎。信古堂を営む。江戸の人。1729~1776
・善太郎…幸田誠之。晩に精義と改める。字は子善。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。寛政4年(1792)2月9日没。年73。私諡は穆靖。野田剛斎門下。
・文…花澤文二。林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1817
・荘子が廣唐晋人の縱恣…
・小一…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・萠蘖先師…
・山宮…山宮雪樓。名は維深。字は仲淵。別号は翠猗。官兵衛と称す。江戸の人。羽後亀田藩岩城氏に仕え、後に館林藩に仕えるが去り、直ぐに殞命。年40。三宅尚斎門下。
・日原…日原以道。手塚担斎。土浦藩士。通称は小源太。別号は困斎。1762~1834
・先生始学山官後師迂斎先生。猶不足而退求諸六経…先生始め山官に学び、後、迂斎先生を師とす。猶足らずして退きて諸を六経に求む。
・服部…服部栗斎。名は保命。字は祐甫。善蔵と称す。別号は旗峯。服部梅圃の子。摂津豊島郡浜村の人。江戸に住む。麹溪書院を建てる。寛政12年(1800)5月11日没。年65。村士玉水門下。
・不足迂斎先生而退求於濂洛…迂斎先生に足らずして退きて濂洛に求む。
・子貢愈於仲尼…論語子張23。「叔孫武叔語大夫於朝曰、子貢賢於仲尼」。

○日原正学指掌の談に因て先生曰云云。詩文章の論なと徂徠をぬけぬと思はふが、語類にもあの筋あり。此通りと見せたものなり。○合田忠藏位を出たことあるゆへ放逐されたと云に因て云云。そんな者も用人にするはよいやうなれども、そんな國は得てやぶるる。家老用人は勲舊の家を立て置いて、学者はちょっ々々々と行燈かき立てるやうなもの。それでよい。されとも学者只講釈ばかりして居るがいやなり。をかしいことぞ。何事も見臺で云がらくでよい。伊川經筵官を不足とはされぬ。○兎角同格なもののよいこと有を取らず、甲斐ないものを取もの。其心不可入尭舜之道。○人欲は直しよいが、氣習は直しにくひ。石原先生さへ氣習があり、迂斎斗りがとんとない。
【語釈】
・合田忠藏…合田玄瑞の子。唐津藩主土井利実に採用される。
・其心不可入尭舜之道…近思録出処24。「先生曰、汝之是心、已不可入於堯舜之道矣」。

○日原問、山嵜先生塵の付と云ことを云はるるか何の處にか塵埃をつけんと云ことからならん。曰、あれは禅家から起りて皆一とうに云が、又、塵に染と云ことあり、これからならん。○鳩巣圖述の談により先生曰、あまり違はあるまい。惣体吾黨でなくとも身方にして合力して説をつけると大抵通するもの。先輩をにせ々々終をし、小尻とがめするものは大切の処を見出すことはならぬ。向をよくして置て、学術の大事になりては何ぞの時種が嶌をほんとうつことなり。少し文義の違ひなどはすてて置がよい。意が集註章句に合へはよい。小過を免すと云が政の上ばかりてない。なんぼ違ふとても集註と論語徴ほどには違ふまい。

○孔孟の後、漢唐訓詁に流れて俗に落たを程子が洗いぬいて一新し、それから又あまり程門の髙それを朱子か矯て天窓ををさへたれば、そろ々々又元明以来訓詁はかり。大全者が眞赤な俗学になりて、今日か其勢いなり。学者魂を入べきことなり。此勢は十世可知也の精義に伊川の説あり。斯ふなるものぢゃなり。道を任ずるには時を知ら子ばならぬ。日原録と通看すへし。○幸田子曰、埀加のはあらいからよい、と。こまかは俗儒。あらいからこまかで本のものなり。○幸田子曰、道理の筋を聞は辻番に聞やうながよい。鼻かけてもどんなやつに聞てもよい。○漢唐の学者蔡虚齋に及ふものは有まい。然るに直方先生軽くせらるる。今日は直方の號帯で云ふ。
【語釈】
・十世可知也…論語為政23。「子張問、十世可知也。子曰、殷因於夏禮、所損益、可知也。周因於殷禮、所損益、可知也。其或繼周者、雖百世、可知也」。
・蔡虚齋…

○三宅先生の獄中諌書を書れたと云は麁相なり。少のことで先生を煩はす。文王は紂を諌て羑里へ行き、はや君のことはのけて易の彖の辞を繋け、尚斎は窂へやらるることを知て諌書を焼きすて、それから窂へ入て狼疐録書れた。文王の小さいやうなもの。獄中でも君を諌ると云は親切なやうなことで、そんなことではない。あの時は君をは忘れて居らるる様なが、天を樂むのなり。されとも尚翁も誠あまりあれども、知が足りぬ。○弟子を取立るには、始めは師匠が巧言令色せ子ばならぬ。それなしによいのは本んのものなり。○平其心易其氣を迂斎の讀まれて、徂徠などがここで別に徂徠はないと云へり。天下一の人欲と云も我をよいと思ふ。それで上らぬ。議論を定めたがるも我をよいと思ふからなり。
【語釈】
・平其心易其氣…読論語孟子法。「句句而求之、晝誦而味之、中夜而思之、平其心、易其氣、闕其疑、則聖人之意可見矣」。

○日原知智の別を問。先生曰、知識は氣に付たことてはない。全く理なり。知覚は理で有ふと氣で有ふと理へも氣へもあたることなり。智猶識はどこ迠も理で云ことなり。禽獣は知識ないと云説は尤なれとも、又、そふでもない。國でも村のわっはが棒を持て出ると犬がにげるが、をれが杖で出てはにげぬは、あれが方に了簡がある。氣に付たことはかりのやうで、あれも相応に理の方に付たことなり。なんても知識は理、知覚はあたる所で云ふ。理へも氣へもひびく。それを知覚も知識も引くるめて惣体の知る処か智なり。智は明德の明の字のやうなもの。たたいそなはる。○朱子の説のあるに、いらざるあちこち云はもとるのなり。今小一行藏をのけて宗伯位いの者も出来ぬ。観世が舞そこない、衆人の目にめったに知れそもないやうなものなれども、今日のはと皆が知る。そこが知なり。氣をもむことではない。○吾が学問もはやるとわるくなる。相手多さにいろ々々にもなる。善太郎殿なとのはやったは晩年のこと。あのはやらぬ内がよかった。以上十九日。
【語釈】
・智猶識…
・宗伯…明石宗伯。柳田求馬。村松樵夫。名は義道。江戸の人。~1784

○小市などは一生銭をほしがらぬ顔をして居たてよくない。善太郎殿のはほしかる程無欲なり。○惣体知があると手がまはる。手がまはると身帯はよい。身代よいとはぬ。○或人尾藤子の談に及ぶ。曰、餘程よい感心したこともある。徂徠が礼樂を云が覇者仁義を假るの心と云はるる抔はよい見やうなり。吾黨の学者は、他学をみると何にあの衆がとけるのがくせなり。それなら何ぞ云て見たがよい。又、云ことはならぬ。○因て笑曰、館林候から必竟前銭をくたされたればこそ隱者も出た。されとも銭さへ出せばどふともなるなれば、儒者も乞食だ。さて、せまらばと云ことわるいことではない。よい方にもある。孟子にある通りなり。のっ引ならぬことあり。
【語釈】
・ 尾藤子…尾藤二洲?名は孝肇。字は志尹。良佐と称す。別号は約山。伊予宇摩郡川之江の人。昌平黌儒官。文化10年(1813)12月4日没。年67。西依成齋門下。蟹養斎にも学ぶ。

○善太郎殿が覇者のことはと咄しかかり、ををここに一人と云た。指先生。あちは又王者のいくぢなし、経済はならぬはさ。長か酒計り飲て供の者のこまるにかまはぬなれは、百姓のことになりてもそれか出ては御代官にもならぬ。○欽二曰、唐の太宗などさぞ心がいそかしからん。曰、いやあれでも手に入て居るゆへ樂であらん。欽曰、なれども假ものゆへいそかしいこと有ふと思はるる。曰、尤心つかいは有ふが、それぐるみに手に入たら暇にならふ。○或曰、胡氏はをかしいやうなり。曰、つまる処、胡氏一派の学問のさへてもかいないのなり。一入胡致堂の方が別なやふなり。○政二郎問、性存天下之有情順天下之動云云。曰、胡氏も太極の人に具ったと云は知た人。性を云ときはわるいことが少とある。髙く云たがるからなり。丹二録云、有は易有太極之有、無は無極而太極の無云云。可通看。○直方が妾をかかへるにはよく吟味したかよい、どんなやつが唾を吐かけたも知れぬ、と。をかしいやうなが面白い。以上二十日。
【語釈】
・欽二…板倉行善。豊三郎、後に欽次と称す。板倉知崇の弟。新発田藩儒臣。寛政6年(1794)没。年46。幸田誠之門下。
・胡氏…胡五峰?
・胡致堂…
・政二郎…戸田政二郎?
・性存天下之有情順天下之動…
・易有太極…易経繋辞伝上11。「易有太極。是生兩儀。兩儀生四象、四象生八卦。八卦定吉凶、吉凶生大業」。
・無極而太極…太極図説の語。

○京で碑の銘を假名で書たと云咄あり。善太郎殿なと一向文章下手ゆへそれもましぢゃとも云はふが、夫れがよいでもない。○日原曰、舎人親王よほとよいそうに見ゆ。曰、佛法の迷もあるが余程よい。神代巻は舎人親王て出來たと云。舎人親王よいと云も多くは神代の巻でほめる。○恭節惺窩のことを問に因て曰、惺窩純一の王陽明ではなけれとも、まあ王陽明の方なり。恭節云、柯先生、羅山子を陽儒隂佛と云たことあり。曰、柯先生陽儒隂佛と云たことはない。又、其上 公儀の御儒者にどんなことか有ふとも、そしりて板行にはならぬ。大方藤欽夫と有ふが、あれは惺窩のことなり。○そふたい神道の御説々々と云たは、夛くは二条公なり。根の國を地獄也の書やうがさへたこと。出雲の國を根の國と云ふは不案内なやふなり。それては首尾よいやふなり。京都より北ゆへ云ならん。人知らぬ國、地の下の國なり。つまりさすらひなり。○ひもろきの傳は天子の宝祚を継て天下を治ると云ことゆへ秘す。○某など神道を弁ずる氣はない。某藏書あれとも、をらなど迷はふといくら信仰して見ても迷はれぬ。五文字の傳、疱瘡の加持などと來てはあいそが尽きる。玉籖集の内多く埀加の自筆を以て是を冩すと云ときに、たらり々々々と額に汗が出る。長藏などのせきばやいものは見ることはならぬ。
【語釈】
・舎人親王…天武天皇の皇子。676~735

○横渠の偶とも命とも云。小源太、賢は偶をどふ取るや。曰、重刑て死するものなど偶と云か。曰、学問のことで云たもの。輯畧にある、あのさばきなり。○恭節曰、命と云へば大事、偶と云へば小事。曰、そふてなし。○大名方へ尻のくさいものかがせる筈はない。病を以て去と云も理の自然なり。○兵二郎が訂翁に二年程隨身して歸たときに、君候の一坐聞ふと云へり。時に椽側近くへ見臺を置た。兵次も不機嫌で訂翁へ云てやりたと見へた。そこで訂翁の、をれが所へ云てよこされた書翰、書やうもよかりた。なんとやらの例もあれは、御同席にまひ□□□と有た。其書翰を其ままやりた。そこて浩軒様も訂翁に云はれてはと思有てか、其後出たときはなんのことなく改りたとやらきく。兵二も喜んだそふな。これ、学者かたきと云ものなり。大にたわけなことなり。形で仕たり理屈で呵らずとも、向から感心し御同席になるやうがある。今の土井公こられたとうさ、君候御しと子の上に在りしを武井翁がなにか理屈を云た。某などは不同心なり。此方の講釈がよいと、あなたからすりより々々々々つい同席になるやうもあり、又、私などの講釈てはと云て置て、やがて御しと子を下ろすやうもある。呵るやうなことはない。以上廿二日。
【語釈】
・兵二郎…板倉兵次郎。名は弘毅、号は震斎、兵次郎と称す。新発田藩儒者。久米訂斎門下。1746~1816
・武井翁…武井三左衛門。敬勝。迂斎の妻の弟。唐津藩士後に古河藩の儒臣。1709~1786

右四子之録間有異同、故同者収一人之録、又少異者各載之、以為参考。
【読み】
右四子の録間々異同有り、故に同じき者は一人の録を収め、又少しく異なる者は各々之を載せて、以て参考と為す。

龍光寺て某仲遷に差合ひ食はずと云たが、さし合にも多少般の數あり。あの学校で好学論を望むが、一つ云たきことあり。梁武寺を建立し功德有りやと問ふを、達磨無功徳と云た。学校もせきふさぎ、銭費の類あるものなり。宗家と墓参、序でに駕篭賃計りの益なり。並謂訪麻布鈴木氏也。仲遷老人で君子なれば、ただ目出度くうつくしく讀が然らん。されども好学論、そんなうつくしだてに讀はせんもないこと。されども外に何にもない。以下文失當日之記者載于此。
【語釈】
・多少般の數あり…近思録致知8。「知有多少般數、煞有深淺」。
・並謂訪麻布鈴木氏也…並びに麻布鈴木氏を訪うを謂うなり。
・以下文失當日之記者載于此…以下、文、當日の記を失う者、此に載す。

○迂齋石原と連れ立て東海寺へ隱求の墓参に行くに、任叔和尚は紫衣なり。をふへいなり。十左も七右もよふきてじゃなとと云。話の序に石原一と趣向云はふとして、若くても年よりても間もない、やがてと云はるれば、和尚、いやそんなこと云はずとひだるくないやふに酒でも飲んで歸へらしゃれと云はれ、つひ引こんたれは、石原の、ああ負けた、今度は幸田を連れて來て、あの和尚醉ころばてやらふと云へり。○丹三郎が孫丹内が弟、三都の学者を尋て、どれも役に立ぬと思ふ。行藏に合ひ、仁遠哉のことを問たそふなが、行藏がを聞き大に感服し、外にないと云たとなり。行藏廿三四歳てあの章の説を作り、これ夫子の頓門なりと云た。丹内か弟は王陽明じゃと文太か云ふ。陽明でもあるまいが、心地のことを云ものをはとかく陽明と云かはやる。仁遠乎章は天下歸仁とは語意は違ふて、顔子も学者も克己なり。孔子は何ゆへに云たと見べし。
【語釈】
・隱求…永井隠求。行達。三右衛門。1689~1740
・丹三郎…谷重遠。谷秦山。姓は大神、幼字は小三郎。通称は丹三郎。寛文3年3月11日生れ。17歳で上京、浅見絅斎、山崎闇斎に学ぶ。土佐郡秦泉寺村に移居。その後また上洛して浅見絅斎、佐藤直方に学び、渋川春海に就いて神道を学ぶ。
・仁遠哉…論語述而29。「子曰、仁遠乎哉。我欲仁、斯仁至矣」。
・天下歸仁…論語顔淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮、爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由仁乎哉」。

○訂翁曰、そなたへ小市が合はぬそふな。小市今は酒をも飲まぬ。飲だがよからふといかふ氣に入ぬていに咄されたが、某が首尾のよいも小市とのことも有ふかと思はるる。小市道を任ずるからで有ふが、老人の養は知らぬ。酒の相手にもなるがよい。○先生謂日原曰、賢が先年中和の筆記よく見られた。四書五経などのこと、あそこが鷄三足や藏三耳の筋。藏頭底になりて不生不滅も一つことになるが、そこをあさく見ることなり。なれども未発の頃むつかしい。一旦豁然とはちかふあやなり。未発の中は工夫へ片た足入れ子ばすまぬ。朱子恍然として要領を得るは塲處を見付たことて軽いことなれども、必竟朱子のはふだんが存養ゆへ違ふ。々はあるなと見た計りなり。さて、豁然は明るみへ出る。恍然はくらい方へ入る。そこにあやがある。中和工夫からでなければすまぬ。戒愼恐懼するとあそこの道體みへてくる。
【語釈】
・鷄三足…
・藏三耳…

○某去年明備録を讀たが、静以上の説、諸老先生ともちがい語類とも違へども、よからふと思ふが如何ならん。文曰、講義の大意、蓋し生之謂性。人生而静以上不容説云云。禀受の前性なし。因て發端告子を假て勇猛直前に云。この一節再ひ擡起して告子を云もの学記へうつる為めと見ゆ。勇猛に告子の異端計りに非ず。平和な学記に古垩賢の遺言ありとて、性は禀受の名なることを證す。これ告子と学記の二つをこの性論の幹とす。毎常の説は静をれ天にある命を云て、性とは云はれぬと云こと。論性説は人生而静の其塲を以上と云て、未發の前と云に同じ。禀受の上、天の性は未発ゆへ説かれぬと云ことなり。先生の新意は中庸首章戒懼の功夫に未発の塲あれば説かれそふなものなれども、天の性をとく□□情に下だる。これ太極不言の妙と同じ峻絶に云にはあら子ども、何とか形容すると未發の中に非ず。明道の性論一株に部立てあれども、実は中庸首章の談にて天の性を語り、未發の中に歸着す。因て静以上は未發の中の話なり。故に其證、中庸集畧がこの章のほんの居り塲なり。文曰、講義別にあり。ここに大畧を抄出す。委きことは本書て見べし。又序の大学拂人之性謂氣禀也と五行之性剛柔之性氣禀也とを先輩わるいと云。なるほどわるいが、わるいぐるみ柯先生如何した思召と云ことあり内なり。某あれも説を付れば通すると云た。説講義に詳なり。伊尹の習性のつつきゆへ大学のこともまあよし。先輩の誤あるとも筋なくてはならず。ただ感興詩の序、晩唐作者不足筭はいらぬことなり。口のすへりた筋なり。先生口拍子に云はれたものなり。又因に曰、昔武井三左衛門か中庸の首章をよむに某云、教の字道体なれば、これは冷すかよいと云たが、今をもへは甲斐ない云分なり。汗をかいてする克復の功夫もやはり道体なり。遊佐文二が先祖の次郎左衛門、首章の説を疑ひ、未定とて鳩巣にも相談せり。柯先生、あの克己復礼でとめられたを於此乎有感と云。大切なこと、眼を付べし。
【語釈】
・生之謂性。人生而静以上不容説…近思録道体21。明道先生性論。「蓋生之謂性。人生而靜以上不容說。才說性時、便已不是性也」。
・遊佐文二…遊佐確斎?
・次郎左衛門…遊佐木斎。名は好生。養順、後に清左衛門、次郎左衛門と称す。号は季斎。仙台藩儒。享保19年(1734)10月17日没。年77。山崎闇斎門下。

先生四月朔日歸宅せり。館林公、先生出府の報礼として鈴木恭節を以て使者とし、同八日恭節江戸より至り君命を述べ、濃茶三品沙糖漬一壷を賜へり。先生語文云、さて々々御丁寧にて何とも迷惑するなり。文云、最初よりの御とりあつかいにては左様もこさらふと存しらる。又、五月朔日、玉録講にて諸生集る時に東士川市翁江戸よりかへり、豊田氏より長尾龍と云姓名の書簡をととけ來る。後會先生示諸生曰、長尾なる人某を責め、此一書來る。某を儒中の禽獣乱臣賊子と詆る。因笑云、館林公はあまり御慇懃すきる。此書生一□り横平すぎる。差し付て贈る文章に禽獣乱賊とかきたるは未曽有の文体□□□。さて孟子達尊三と云へり。然にここに虚實の弁あり。爵と齒は至て實なり。德は虚なるものなり。去るに因て大名を大名とするはぬきさしなき実なり。又某六十三歳なるを、六十三の老人とするも亦ぬきさしなき実なり。德は虚なるものにて、館林公のやふに御尊仰あるに、又、如此禽獣とも指し付て詆るなれは虚なるものなり。去れともまことの德かなきことたしかなるゆへ、如此詆を請るなり。これは学友たち世間へかくすことにてはなし。六十老人の如此そしらるるは何れにも不德なるにはきはまりた。諸友必弁論などは入ぬことなり。文、其書を受け、因て左方に録す。
【語釈】
・東士川市翁…小川省義。幼名は磯次郎、興十郎。市右衛門。東士川村(東金市)の人。~1811。年81。
・孟子達尊三…孟子公孫丑章句下2。「天下有達尊三。爵一、齒一、德一」。

三月念八日、東都長尾龍謹寓書上總隱士黙斎老君足下。龍也往月仗策而遊方於常總、舩於濘江而下數十百里、以極海東日出地。於是拜神鹿島、観濤銚港。葢三旬而畢焉。是行也、訪季札於延陵、求魯連於海隅、遊有暇、俾東夷知寒暑眉目渾沌也。其始東也、投宿於下總大田驛。館人郷之豪傑頗知文字。多不符於古言。僻郷而優焉。時有醫氏押隆元者、來談論數番莫逆於彼此、傾葢猶舊相識也。明日臨別把余臂曰、僕郷隣有一儒士、甲冑仁義、干櫓禮樂、道統以傳、性理以辨、舟子車夫過其門而不化其德、則猶己推焉塡溝壑。田奴傭人行事不臻於尭舜、則撻辱於市朝。其自任以垩人之道教。有如此者、號曰黙斎。郷黨丘民尊敬恭事之、譬諸浄門源空法蕐日蓮也。僕也咫尺於蘭室以糊口於奔走、不暇啓居、未得入于門而窺其富美。然嘗與聞其辨雅言、上則憲章趙宋諸子、下則取法於垂加翁而已矣。他蔑視漢唐諸子、不啻草芥。歸都便路、先醒豈無意於以僕為東道之主、訪彼以発鯨音於雷皷耶。龍曰、諾。遂分手而東焉。既而遊歴良倦。馬首向西中道、而忽然探索彼一大事因縁於心服腎膓、乃還轅改轍執輿、長驅向上總武射郡而南焉。斯間道路遼遠林壑競媚、渡於山梁則嘆雌雉色挙、観花斯開則悟萬物皆備於我。裏足擔糧十舎而得押隆元於成東邑。翼日癸己挾筴操贄將存問足下於貴郷、忽焉觸於寒疾抱采薪之憂。褥食四日、幸頼司命而起焉。屈指則濡滞既久、白駒過隙歸心殖々焉如湧。是以單身匹馬望都而馳焉。便道而過足下於上游、入於境壤而察土凮焉。長幼讓畔者往々而在焉。龍謂馭曰、里有君子。風移俗化不其然乎、熟察馭面孔、褒若充耳。既已踵門執刺而通焉。将命者曰、夫子不見無紹介之人也。君将以誰。龍答曰、余也都人之遊於東方而問國風以移化民族者也。會聞有大儒君子避世而在於斯郷、不遠千里勞來求謁。僻遠海國蕞爾總土固無一人可控因者矣。昔在、孔子難於互郷、猶與志而進焉。康成之学於南郡也、以能而達焉。古哲猶然。夫子何責介有。足下出延龍於堂上面目不満軽蔑他。求仁義之人質請益。顧而言他請詩以呈於座下。則曰、噫無為也。老父固不好詩賦文章。以其害於世教也。於是龍也不侫恫疑懾伏衋然、傷心不敢動揺、垂頭而踞焉。私心以為、古穪、礼人而不禮則反於其敬。退而三省其私其始升堂至於凾丈、躩歩傴僂不失容於左右。然而横逆不遜猶尚如是、則夫子豈不儒中禽獸哉。挙頭而熟視其為人白眼亂髪放行自恣、一類於異端曲士無求於世者也。竊以醫氏押隆元之所極口以穪而比量焉、仁義無有禮樂無有道統性理亦復無有。至若其謂猶己推焉而塡諸溝壑、謂猶撻辱於市朝、虚中之虚妄之又妄。若是而丘民尊敬恭事之猶源空日蓮也、則邪媚侫巧誣岡郷人、無乃漢五斗米道乎。不然則村学窮彊作達磨面孔、而掩其固陋者而已矣。古所謂長沮傑溺豈斯人乎。大失前望鞅々然而去矣。歸于都則欲速發一介行李以質之於左右、多故異物以貽伊阻。比聞、足下奉命於高門、懸箔來於輦穀之下、今也、僑居於城東、弘道於公卿太夫。龍也私竊以為、彼人是耶、横逆不遜。彼人非耶、弘道於公卿太夫、疑似難辨無斯過焉。將走於下風敢以討論。又恐以前緩頰而對焉、黙而止乎。非能言而拒楊墨也、則得罪於孟軻子。可翹足而待矣。是以敢致尺一質疑於座下。請速垂教矣。
問足下冠玉儒名、儼然而木鐸於四方。然而白眼亂髪放行自恣横逆不遜、弁髦禮義、其謂之何哉。食其食、衣其衣、違戻其律而立於天地間、其為亂臣賊子莫大焉。龍也惑焉。敢請其説問。論語曰、有鄙夫、問我空々如也。我叩其两端而竭焉。又曰、学而不厭、教而不倦。龍嘗察足下為人、似不類於斯者也。夫弟子受教於師遐棄其説、猶若子而不孝於親、臣而不忠於君也。五尺童猶能畏懼焉。博物君子而有若行事何也。請、明辨焉。
問、前日過足下於上總、龍也請詩以呈於座下、則曰、老夫固不好之。以其害於世教也。詩賦文章害於世教也、出於何典記。我孔夫子埀法於素王、非六経則不能焉。易書礼樂春秋非所謂文者耶。詩非所謂詩者耶。且夫子不曰乎、人而不学周南召南、其猶牆面而立焉。又曰、詩可以興、可以群。邇之事於父、遠之事於君。垩人以詩而脩人情也。其如此、夫苟思無邪、則今之詩猶若古之詩也。且也程朱垂加豈非足下之天哉。斯諸君猶能脩辞賦詩争光日月。而足下曰、老夫不好之、以其害於世教也。豈不亦戻哉。索隱職競之由、若其有説則龍也請與聞焉。他有疑於足下、葢以海而数焉。伏察足下遠出於草莾客居而出入於朱門、事故鞅掌是日不足、是以今也獨挙斯三物而直焉。他不敢請也。仰願、老君足下速発雷声於渕黙、使龍惑志氷釋疑事水通、若披青雲而覩向日也、則賚德賜道蔑以加於斯矣。不悉
致          長尾龍拜上
上総隱士黙斎老君座下
三月念八日
【読み】
三月念八日、東都長尾龍謹んで書を上總隱士黙斎老君足下に寓す。龍や往月策に仗りて方を常總に遊び、濘江に舩して而下數十百里、以て海東日出ずるの地に極まる。是に於て神を鹿島に拜し、濤を銚港に観る。葢し三旬にして畢れり。是の行や、季札の延陵に訪い、魯連の海隅に求む、遊ぶに暇有るの日、東夷をして寒暑を知り渾沌に眉目せしむなり。其の始め東は、宿を下總大田驛に投ず。館人は郷の豪傑、頗る文字を知る。多くは古言に符せず。僻郷にして優れり。時に醫氏押隆元なる者有り、來り談論數番彼此逆うこと莫く、葢を傾けること猶舊相識のごとし。明日別れに臨み余の臂を把みて曰く、僕の郷隣に一儒士有り、仁義を甲冑し、禮樂を干櫓とし、道統を以て傳え、性理を以て辨じ、舟子車夫、其の門を過りて其の德に化せざれば、則ち猶己を推すこと溝壑に塡ずるがごとし。田奴傭人も行事の尭舜に臻 [いた]らざれば、則ち市朝に撻辱するがごとし。其の自ら任ずるは垩人の道教を以てす。此の如き者有り、號して黙斎と曰う。郷黨丘民の之を尊敬恭事すること、諸れ浄門の源空、法蕐の日蓮に譬うるなり。僕や蘭室に咫尺し、以て奔走に糊口して、啓居するに暇あらず、未だ門に入りて其の富美を窺うを得ず。然して嘗て其の辨の雅に言える、上は則ち趙宋の諸子を憲章し、下は則ち法を垂加翁に取るを與に聞くのみ。他は漢唐の諸子を蔑視すること、啻々草芥のみならず。歸都便路、先醒豈僕を以て東道の主と為し、彼を訪い以て鯨音を雷皷に発する意無からんや。龍曰く、諾。遂に手を分ちて東す。既にして遊歴良く倦む。馬首を西へ向かせること中道にして、忽然として彼の一大事因縁を心服腎膓に探索し、乃ち轅を還し轍を改め輿を執り、長驅、上總武射郡に向きて南す。斯の間道路遼遠林壑競媚、山梁を渡れば則ち雌雉色挙を嘆じ、花の斯く開くを観れば則ち萬物皆我に備わるを悟る。足を裏し糧を擔い十舎にして押隆元を成東邑に得る。翼日癸己、筴を挾み贄を操り將に足下を貴郷に存問せんとするや、忽焉として寒疾に觸れ采薪の憂いを抱く。褥食四日、幸いに司命に頼りて起きる。指を屈すれば則ち濡滞既に久しく、白駒隙を過ぎ、歸心殖々として湧くが如し。是れ以て單身匹馬都を望みて馳す。便道して足下を上游に過り、境壤に入りて土凮を察す。長幼畔を讓る者往々として在り。龍、馭に謂いて曰く、里に君子有りや。風移俗化其れ然らざらんや。熟々と馭の面孔を察するに、褒として充耳の若し。既已、門に踵き刺を執りて通る。命を将つ者曰く、夫子は紹介無きの人に見えず。君は将に以て誰たる。龍答えて曰く、余や都人の東方に遊びて國風を問い以て民族を移化する者なり。會々大儒君子の世を避けて斯の郷に在る有りと聞き、千里を遠しとせずして勞來し謁を求む。僻遠の海國、蕞爾の總土固より一人として控因す可き者無し。昔在り、孔子互郷を難とす、猶志を潔くして進むに與するがごとし。康成の南郡に学ぶや、能を以て達す。古哲も猶然り。夫子何ぞ介を責ること有ん。足下出で龍を堂上に延き、面目満たざれば他を軽蔑せよ。仁義を求むるの人は□を質し益を請う。顧みて他を言い、詩を以て座下に呈せんと請う。則ち曰く、噫為ること無し。老父は固より詩賦文章を好まず。其の世教を害すを以てなり。是に於て龍や不侫恫疑懾伏衋然、心を傷め敢て動揺せず、頭を垂れて踞る。私心以為らく、古穪す、人を礼して禮せずんば則ち其の敬に反せ、と。退いて其の私を三省せんと其の始堂に升り凾丈に至りて、躩歩傴僂、容を左右に失わず。然るに横逆不遜猶尚是の如ければ、則ち夫子豈儒中の禽獸ならざらんや。頭を挙げて其の人と為りを熟視すれば白眼亂髪放行自恣、一に異端曲士の世を求むる無き者に類す。竊に醫氏押隆元の口を極め以て穪する所を以て比量するに、仁義有る無く禮樂有る無く道統性理亦復有る無し。其の猶己推して諸を溝壑に塡するがごとしと謂い、猶市朝に撻辱されるがごとしと謂うが若きに至りては、虚中の虚妄の又妄なり。是の若くして丘民の之を尊敬恭事すること猶源空日蓮のごとしとは、則ち邪媚侫巧、郷人を誣岡すること、乃漢の五斗米道には無きや。然らずんば則ち村学窮彊で達磨面孔を作りて、其の固陋を掩う者のみ。古謂う所の長沮傑溺は豈斯の人ならんや。大いに前望を失い鞅々然として去る。都に歸れば則ち速やかに一介の行李を發し以て之を左右に質さんと欲し、多故異物以て伊の阻に詒す。比ごろ聞く、足下高門を奉命し、懸箔、輦穀の下に來、今や、城東に僑居し、道を公卿太夫に弘む、と。龍や私竊に以為らく、彼の人是れなるや、横逆不遜。彼の人非ずや、道を公卿太夫に弘むるは、疑似難辨斯れより過ぎること無き、と。將に下風に走りて敢て以て討論せんとす。又恐れながら前の緩頰を以て對すか、黙して止まんか。能く言いて楊墨を拒むに非ざれば、則ち罪を孟軻子に得ん。足を翹げて待つ可し。是れ以て敢えて尺一を致し疑を座下に質す。請う速かに教えを垂れよ。
問う、足下儒名を冠玉し、儼然として四方に木鐸す。然して白眼亂髪放行自恣横逆不遜、禮義を弁髦する、其れ之を何と謂わんや。其の食を食べ、其の衣を衣し、其の律に違戻して天地の間に立つ、其の亂臣賊子為るに大なるは莫し。龍や惑う。敢えて其の説を請いて問う。論語に曰く、鄙夫有り、我に問うに空々如たり。我れ其の两端を叩いて竭くす。又曰く、学びて厭わず、誨えて倦まず。龍嘗て足下の人と為りを察するに、斯れに類さざるに似る者なり。夫の弟子の教えを師に受け其の説を遐棄すること、猶子にして親に孝ならず、臣にして君に忠ならざるが若し。五尺の童も猶能く畏懼せん。博物の君子にして若き行事有るは何ぞや。請う、明辨せよ。
問う、前日足下に上總に過り、龍や詩を以て座下に呈せんと請えば、則ち曰く、老夫固より之を好まず。其の世教を害するを以てなり、と。詩賦文章の世教を害するや、何の典記に出ずや。我が孔夫子の法を素王に埀れるに、六経に非ざれば則ち能わず、と。易書礼樂春秋は謂う所の文なる者に非ざるや。詩は謂う所の詩なる者に非ざるや。且つ夫子曰わざるや、人にして周南召南を為 [まな]ばざれば、其れ猶牆に面して立つがごとし、と。又曰く、詩は以て興す可く、以て群す可し。邇くは父に事え、遠くは君に事う。垩人は詩を以て人情を脩む。其れ此の如く、夫れ苟も思い邪無ければ、則ち今の詩も猶古の詩の若し。且つ程朱垂加は豈足下の天に非ざるや。斯の諸君猶能く辞を脩め詩を賦し光を日月と争う。而して足下曰く、老夫之れを好まず、其の世教を害するを以てなり、と。豈亦戻らざるや。隱を索す職競の由、若し其れ説有れば則ち龍や請う、與り聞かん。他に足下に疑有り、葢し海を以て数う。足下の草莾を遠出し客居して朱門に出入し、事故鞅掌是日足らざると伏察し、是れ以て今や獨り斯の三物を挙げて直す。他は敢えて請わず。仰願す、老君足下速やかに雷声を渕黙に発し、龍が惑志の氷釋、疑事の水通、青雲を披き向日を覩るが若くしめよ。則ち賚德賜道以て斯れに加うて蔑す。不悉
致          長尾龍拜上
上総隱士黙斎老君座下
                三月念八日
【語釈】
・念八日…二十八日。
・押隆元…
・咫尺…接近すること。貴人にお目にかかること。
・孔子難於互郷…論語述而28。「互鄕難與言。童子見。門人惑。子曰、與其進也。不與其退也。唯何甚。人潔己以進、與其潔也。不保其往也」。
・康成…
・礼人而不禮則反於其敬…孟子離婁章句上4。「孟子曰、愛人不親、反其仁。治人不治、反其智。禮人不答、反其敬。行有不得者、皆反求諸己。其身正、而天下歸之。詩云、永言配命、自求多福」。詩は大雅文王。
・長沮傑溺…論語微子6に出て来る隠者。
・貽伊阻…詩経国風邶雄雉。「雄雉于飛、泄泄其羽。我之懷矣、自詒伊阻」。
・能言而拒楊墨…孟子滕文公章句下9。「能言距楊墨者、聖人之徒也」。
・有鄙夫、問我空々如也。我叩其两端而竭焉…論語子罕7。「子曰、吾有知乎哉。無知也。有鄙夫問於我、空空如也。我叩其兩端而竭焉」。
・学而不厭、教而不倦…論語述而2。「子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉」。
・人而不学周南召南、其猶牆面而立焉…論語陽貨10。「子謂伯魚曰、女爲周南召南矣乎。人而不爲周南召南、其猶正牆面而立也與」。
・詩可以興、可以群。邇之事於父、遠之事於君…論語陽貨9。「子曰、小子、何莫學夫詩。詩、可以興、可以觀、可以羣、可以怨。邇之事父、遠之事君。多識於鳥獸草木之名」。
・思無邪…論語為政2。「子曰、詩三百、一言以蔽之、曰、思無邪」。

文云、先生十四年前此地に卜居し、他郷より学業にて來り訪ふもの有ん。若し急病又は不虞のことありては村落伍保の厄介も謀り難しと、里正へ告けて共に議するに、保正等も紹介なくては新知の人に逢はざること、然るべしとなり。これ、先生是迠隣村の者といへども紹介なくて相見を許ざる所なり。文聞く、三月九日一儒生來り、紹介も固よりなく、執刺而通などと云ことも偽りなれども、文章の虚飾ならん。婢出て何れより御出候や、主人これ迠中人なくては御目にかかること御断りに及ぶと挨拶せしに、此人只江戸より來た々々と云。声は戸内へ聴へ、又、東金誾斎は江戸にて識る人ゆへ今日立寄たれども、別荘へ出て逢はずと云し、と。先生思ふに彼れは馬にて送られ來る人なれは、一寸と合て挨拶するは別条もあるまじとて對面せり。彼の人席に即くと間もなく、途中の作御目にかくべしとて懐中を探るゆへ先生云、詩は存ぜぬこと、御無用になされ候へと云へば、此人先生には詩文御嫌なるやと云ゆへ先生云、いや嫌と云こともないはづなれとも、某詩文は一向不調法ゆへをのづと嫌なり、と。先生、足下はいづれにて学ひたるやと問へは、林家に学ふと申され、又此人よりは、先生朱学ならば服部善藏御存あるべしと申すゆへ、存じたりと先生挨拶せし計りのことにて、外に何も問荅に及ひしこともなく、此人初めより風呂鋪にて細き包みたるもの頸にかけたるゆへ先生横笛と思ひ、別れ去るときそれは何にて候やと尋たれば、垩像なりと荅へて歸り、又此間一霎時のことにて馬僕烟草三服吸ふたるよし、文又聞く。此日門人惟秀も其席に侍し、其後惟秀云云のこと語るも然り。この事實を以て是非するは公共のこと。然るに長尾氏隂でも云はんなら格別なれども、端的其人へ書を投するに如此は何事なるぞ。不好詩文以其害世教也とは先生の常言なれとも、詩を嗜む其人へ對して席上直きに爭の端を起すやうな不調法なることは初心な人も云ぬことなり。先生ははやく客の去れかしとは思はれたるゆへ、白眼なとはありたるへし。乱髪放行とて呵れども、先生日々束髪せぬことなし。隱者のことゆへ茶筌に結てわげせぬを云ならん。文思ふに、大抵客の詩は懇望しても見べきこと。况んや一見せんと乞ふに、詩を知らぬと辞し蔑視のあしらいにて、其上はる々々尋子來たりしに、ちとは温顔に快談もありて遠人をあはれむべきに、憤激せしならん。偖この一翰を見る人、彼か文章の上にて是非は其嘲を解かずして自ら明なことなれども、儒中の禽獸乱臣賊子と書たれば、黙斎も不恭有んと其責あるべし。されども詩を見ぬと快談せぬとて斯くあれば、如何なる人の心やはかり難きことなり。先生も吾輩へ語るに、横逆不遜儒中之禽獸と云はただ礼なきと云ことなるへし。乱臣賊子とはあまりな合点まいらぬ文句なれども、それもそれぎりのこと。諸君これを開くには及ばず。それに付き道義の啇量すべきこと。学問成就せふと思ふはらは、何茂血氣俗情の怒あるべからすとなり。又思ふ、此人問國風移化民俗者也と云ひ、途中馬上の人を下りよ々々々と声かけられし由し咄したるものもあり。左すれば公用を以て國俗を尋子らるる人にや。それならば、長尾氏憤りのあまり咎めありては隱者も迷惑することと先生も云へり。先生又云、若し相識の中に彼人と通問する人あらは、何分老人のこと御用捨あるやうに一傳申入れ玉へ。答書せぬことは、禽獸と呼るるからは、それで差引すみたるなるへしと門人へ告げり。又聞、渠は白衣にて頭へ物をかけ、草鞋かけのまま坐鋪へ通りたとなり。然ればいづれか不恭不礼なるや。されども此人も旅さきのことなれば、先生向のことは度外に置て、隱者のことゆへかまはぬことなり。但し兼て紹介なき人を見ざるのわけは、素姓をしらす、郷里をもしら子ば、君父にそむいた欠落者盗賊の類、これ所謂乱臣賊子たるも謀られ子ば、紹介なく何ぞ新知の人に知らぬ詩を見たり、和して快談せんや。早く退けかしにあしらふは獨り長尾氏に限ることにあらず。これ、先生当日の事実なり。又、八年以前西山と云儒者法花の宮谷檀塲より幸便に稲葉又三郎と三十年前の宛名にて一書を寄せたれども、先生傳致の人に、これは宛名も違ひ又紹介なく、新知の人へは應接御断り申すとて、其書直きに席上封のままにて返せり。其後何方にて封し目あしくなりしや、西山方にて、黙斎開封し見ぬ底にて返したりと憤るたるよし、後わけありて文此事の風説を聞ぬ。或る時其門人、西山か題壁文を持ち来り、文に一閲させ如何なるやと云ゆへ、門人の聚るを得天寵と書きたるを、愚見には會し得ることあたはすと云しを、彼門人西山へ告けしと見へて、西山往きの書翰のことと題壁文のこと合て大に憤りしと見へて、西山又解嘲の文を書き、予か方へ参りしゆへ、これを見るに、不可穪黙也、可名雀斎の、黔驢芋濫之先生、苧姑子之経生、效顰娼疾之德賊のと詆るゆへ、予荅書をしたため先生に語れは、先生叱して曰、始め他門の文章を是非するか甚非なり。賢か方より蒔た公事にて、それに又荅書するとは何事ぞ。必ずやむへし。重て西山に逢はば罪を諉すへしと云はれき。上段々のこと、皆先生求めずして非謗を得。西山長尾事実の相違あれば、それより傳聞する者罪を先生に負はするもはかり難し。因て予長尾氏の一文と先生事実を挙て、是非得失は公共の論に附する而已。
【語釈】
・誾斎…桜木誾斎。名は千之。長崎聖堂教授となる。友部安崇の感化で神道に傾く。享保10年(1725)~文化元年(1804)
・服部善藏…服部栗斎。名は保命。字は祐甫。善蔵と称す。別号は旗峯。服部梅圃の子。摂津豊島郡浜村の人。江戸に住む。麹溪書院を建てる。寛政12年(1800)5月11日没。年65。村士玉水門下。
・霎時…しばらくの間。暫時。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812
・不可穪黙也、可名雀斎…黙と穪す可からず、雀斎と名づく可し。

再旬紀行附録 畢


書再旬紀行編後

斯篇記今春先生在江都與賢士太夫知舊門人應接之語為詳。而其描摸先生意象口調、平時傃隱之氣貌、宛然如在一堂矣。論語曰、巧言令色鮮矣仁。又曰、剛毅木訥近於仁。是虚実之辨也。先以審之為基者、是吾学之宗旨乎。但氣質之偏蔽与窮格之不致、徒飾外貌做唯阿、日趨小人之歸不自知者、是吾輩所深憂也。今此編写先生酬酢之実境、深激懦衰。愚也於此竊有所感発焉。夫人苟有其実而存、則見者感之聞者聳容。倘無其実之存、則従容温厚諄々勉々於人復何益邪。今先生與知舊門人相處、訶責之嚴親愛之寛两在焉。其嚴其寛所人自取、而先生心地還復自若焉。故虚心好問之士接之則更裕、蔽盖自用之士聴之則愈小焉。先生一時席上之談雖有不緊要者、都會得自実境中而來者、其益豈淺々哉。所謂作非歇後看、則非歇後者不可謂誣矣。愉婉接人、謹厚為德、備文塞責、以此為学者之交者、非所能與知也。讀者當識此意也矣。因書巻末以質諸同志。
寛政甲寅夏五月
          篠原惟秀謹稿
【読み】
斯の篇、今春先生の江都に在りて賢士太夫知舊門人との應接の語を記すこと詳らか為り。而して其れ先生の意象口調、平時傃隱の氣貌を描摸すること、宛然として一堂に在るが如し。論語に曰く、巧言令色鮮きかな仁。又曰く、剛毅木訥仁に近し。是れ虚実の辨なり。先ず之を審らかにするを以て基と為すは、是れ吾が学の宗旨か。但、氣質の偏蔽と窮格の致きざる、徒に外貌を飾り唯阿を做し、日々小人の歸に趨り自ら知らざるは、是れ吾輩の深く憂うる所なり。今此の編、先生酬酢の実境を写し、深く懦の衰えを激す。愚や此に於て竊かに感発する所有り。夫の人苟も其の実有りて存すれば、則ち見る者之に感じ聞く者容を聳ず。倘 [も]し其の実の存ずる無ければ、則ち従容温厚諄々勉々たるも人に於て復何の益ぞや。今先生知舊門人と相處る、訶責の嚴、親愛の寛两つながら在り。其の嚴其の寛、人の自ら取る所にして、先生の心地も還復自若たり。故に虚心問うを好むの士之に接せば則ち更に裕に、蔽盖自用の士之を聴けば則ち愈々小たり。先生一時席上の談、緊要ならざる者有りと雖も、都て実境の中より來るを會得すれば、其の益豈淺々なるかな。謂う所の歇後に非ずと作して看れば、則ち歇後に非ざるは、誣と謂う可からず。愉婉と人に接し、謹厚を德と為し、文に備え責を塞ぎ、此を以て学者の交りと為すは、能く與り知る所に非ざるなり。讀む者當に此の意を識すべし。因りて巻末に書して以て諸を同志に質す。
寛政甲寅夏五月
          篠原惟秀謹稿
【語釈】
・巧言令色鮮矣仁…論語学而3。「子曰、巧言令色、鮮矣仁」。
・剛毅木訥近於仁…論語子路27。「子曰、剛毅木訥、近仁」。
・寛政甲寅…寛政6年。1794年。