清谷話錄巻之一  天明八戊甲正月以下  惟秀
【語釈】
・天明八戊甲・・・1788年。天明8年。
・惟秀・・・篠原惟秀。本姓は北田。字は秀甫。初名は安進。與五右衛門と称す。号は靜安。幼称は松次郎。東金市堀上の人。北田慶年の弟。文化9年(1812)2月15日没。年68。

無適而不中の程子の意は、地を方と云。これが天を圓と云理からおして云ひ、地も丸ひと見た説なり。地が圓ひから適として中ならざるなしじゃ。丁度鞠に墨でほち々々付けた様なもの。どふころがしても中はある。蝿のまとって居るもそれなり。どこへまとったも中なり。

迂斎の、渾然すきな者に鱠も平盛も一つにして喰はせると食傷すると云はれた。粲然がよいが、腹の中では渾然がよい。腹の中で粲然では又食傷なり。渾然粲然に理一分殊がついてまわるぞ。迂斎の土井侯からの皈り掛けに一寸々々と二三軒見舞ふに、一軒は御内儀風邪さふな、如何と云。又最ふ一軒では御出産御男子さふな、目出度と云。又一軒は、今日は御留守さふな、番所さふなと云。供の者が聞ては、をらが旦那は間に合ひて云人じゃと云様なが、それは粲然じゃ。出産と弔ひ、一つにはならぬ。直方先生の、理一分殊と云は手前のはいた唾のなめられぬ様なもの、と。神道の右り左りと云訓が、伊弉諾伊弉丹の二尊が天の浮橋の上に南西して立玉ふに、時は十五日のことなるに、日は段々と足ると云ことでひたりなり。月は西の下にあるから見きると云ことで右なり。唐の字へよく和訓はつけたものと、さっと心得るものはさふだが、さふではない。日本には文字がなく詞で有た。其言で唐の字へあてたもの。唐の字へ訓をつけたではなくて、みぎりひだりと云詞で、唐の左の字右の字へあてたと云いきぞ。程書抄畧講會。
【語釈】
・迂斎・・・稲葉迂齋。名は正義(正誼)。十左衛門(重左衛門)と称す。江戸の人。稲葉黙齋の父。宝暦10年(1760)11月10日没。年77。淺見絅齋、三宅尚齋にも学ぶ。
・土井侯・・・唐津藩主。
・直方先生・・・佐藤直方。五郎左衛門と称す。備後福山の人。江戸に住む。享保4年(1719)8月15日没。年70。
・伊弉諾・・・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。日本神話で、天つ神の命を受け伊弉冉尊と共に初めてわが国土や神を生み、山海・草木をつかさどった男神。天照大神・素戔嗚尊の父神。
・伊弉丹・・・伊弉冉尊(いざなみのみこと)。日本神話で、伊弉諾尊の配偶女神。火の神を生んだために死に、夫神と別れて黄泉国に住むようになる。

○喜怒哀樂悪欲。欲と云か惣名で、あとの六つを兼る。欲も偏言の欲、專言の欲あるぞ。あとの六つも欲すると云処から喜怒するぞ。
【語釈】
・哀・・・愛。

小源太幸子善の、学問は目に見へぬことを学じゃと云たればいこふ感心したと云が、それでは学問をそこなうで有ふ。そんなことを云て聞せるもよくない。太極の上の丸ひあれ計りなれば空理でつかまへられぬ。隂陽の交った巴の中の太極を説くで五倫がしゃんと立つ。頭の形は直くと云。肉についただけなものが直くと云理、そこが太極なり。釈迦浄飯王の頭へ足をかけたと云て手柄にするが、氣を離れた失じゃ。太兵は事できめるで餘力がある。そこで講席をかかぬ。十次が学問理からよくうつりて髙ひけれとも、事にぬけ目があるで講席をかく。これみよ、事と理と一貫ぞ。事に欠があると理が差つかへるぞ。云へば十次は太極上の丸ひよふなもの。よいことはよいじゃが、事がないで其失放蕩になる。太兵は巴の丸ひ様なもの。事できめてしっかりとしてよひけれとも、其失氣に別に引づりこまるる。
【語釈】
・小源太・・・手塚坦齋。初めは日原以道。小源太と称す。別号は困齋。土浦藩儒臣。手塚可貞の子。天保5年(1834)5月15日没。年73。
・幸子善・・・幸田誠之。晩に精義と改める。字は子善。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。寛政4年(1792)2月9日没。年73。私諡は穆靖。
・太兵・・・北田慶年。太兵衛、榮二と称す。東金市福俵の人。学思齋の主。
・十次・・・中田重次。十二郎と称す。東金市堀上の人。寛政10年(1798)11月没。

○心喪は思婦無夫孕む。忘れぬことじゃか、只のものはさふはゆかぬ。忘れて一盃呑むこともあるで有ふが、そこをどふで破れた、又呑ふと云はわるひ。過って一盃呑だが、そこらをやめてつとめるが心喪の心喪たることなり。

○鉄牛が仙臺公で馬から落てこのいきだと云たは告子が不動心なり。孟子は馬から落ぬ人じゃ。

○孟子が志をすててすることなれば、孔子や曽子が不調法になる。去るによって志動氣は什に九、氣から志を動すは什に一と云は前の可不可の処にあたる。孟子の孟子たる処は、志を本に立て、氣を乘せてゆくと云てよい。氣を発明したが孟子のかぶなり。

山﨑先生が、愛之理の愛の字は内へ向ひておる、喜怒哀樂未発之愛の字は外へ向ひておると云はれた。おれが考に、愛の理は愛の字で仁の顔を見せ、之理と云で性之体段を知らせたぞ。
【語釈】
・山﨑先生・・・山崎闇齋。名は嘉、柯。小字は長吉。字は敬義。号は垂加霊社。嘉右衛門と称す。京都の人。近江伊香立郡に生まれる。天和2年(1682)9月16日没。年65。

○克己復礼も克己復理と云へば廣くてよいが、礼と云細かなひろひものへ復ると云が面白ひ。理と云へば高ひことじゃが、空なことゆへ紛かしがある。禪がそれなり。程子朱子は欲がなくてこまかをする。いかさま孔子以後の一人なり。

○人欲亦藏頭底ぞ。あれがものを云はるると御坐にたまらるる儒者はないが、ものを云はぬが不調法じゃ。或儒者、をらなど二三年入房を愼むと云たれば、女房がへっついの前で舌を出したと云。いかさま心喪の至極をは女房が知ろふことじゃ。すれば直方の、をれにうてた皃があらば知らせよと奥方へたのまれたなどは大ぶ工夫の親切ぞ。
【語釈】
・へっつい・・・竃。

○未発已発は一條連綿なり。全体は未発で、おこる処で謹独じゃと小野寄翁云はれた。先生爲形曰、譬へば馬に乘るやふなもの。腰のすへやふ、手綱さばき、諸かくをふんでしゃんと馬に乘たときに、腰をすへたも手綱持たとも、あぶみを踏んだとも、心もつかずすら々々馬上でゆく。それが未発のなりぞ。平日の習でもふ心くばりはなしにはら々々乘てゆくときに、口取りが水があるの、道がわるいのと云ひ、橋の上などにははら々々踏かかりた処て手綱や腰に氣を付る。そこが已発慎独ぞ。
【語釈】
・小野寄翁・・・小野崎舍人。本姓は在原。名は師由。初め團六と称す。秋田藩支封老職。宝暦2年(1752)10月8日、江戸にて没。年68。直方没後、三宅尚齋に学ぶ。子は師德。

○見聞は耳目の理でみきくこと。体未発なり。坐頭つんぼも見る理聞く理ないことはない。理の看なり。視聽は氣の方で用じゃ。已発ぞ。形についたもの。坐頭聾は耳目の形がただくづれた。そこで見へずきこへぬなり。齊之日思居處思笑語。漢儒は齋の義を知らぬ。心にふれなことがあれば齋ではないと伊川の云た。それを朱門が、それでは齋の手がかりがないが如何と朱子へ問たに、漢儒のは定法、程子のは一等精しきことと答へた。それを三宅先生の、爰が心術の嚴と云た。齋がつまれば心にちりもはいもない。居処も笑語も思ひは発らぬと云処を知たのぞ。爰は程子にもまけぬ云ひ様ぞ。
【語釈】
・三宅先生・・・三宅尚齋。名は重固。丹治と称す。播磨明石に生まれる。京都に住む。寛保1年(1741)1月29日没。年80。

○訓門人に黒豆を私心にして白豆を善念にして工夫したとあるが、孔子はその白豆をなくなるやうにして陳恒が首をとりに出。禪では白豆もなくなりたぎりで息を引とる。事へ出ぬぞ。

陳安郷が詩経の不審を問たに、朱子が粗々底の聖人の氣象あり、書を讀、仁義をするの盗賊ありと答へた。陳安郷は口上を云かかりても、云ひ先きで直し々々する。心術がわるい。それをあてて朱子の云たに、ただ詩經の文義のことと計りした。一向氣がつかなんだで、それで学問が上らぬ。読法の爲今日之耳聞が大切のことぞ。
【語釈】
・陳安郷・・・陳安卿。

○死生人鬼二而一一而二。迂斎の、聖学の大事は而の字にあると云た。而の字はあがきじゃ、屏風のちゃふつがひじゃ、と。直方先生の、門人衆へ一而二二而一はをれが語じゃ、借さふか々々々々と仰せられた。この語は、道をさばくにこれでつかへることはない。

近思錄十四篇のとめに二程脱然を出したは朱子の思ひ込有てぞ。あれをそふ心得ずに見ては何の役に立ぬ。はてあの衆はちかつきたものなぞと聞てはらりにすることじゃ。親の歒討にゆく人と江嶋見物にゆく人は、品川の踏出しからが違ふぞ。二程ぢじ、垩人に追つめ子ば人間ではないと思ひこんだ。今の学者も二程の思込みがよいと知らぬではないが、心術がけたたぬゆへ、やっはりあれがすめぬのぞ。学者日蓮に及ぬと云。日蓮は佛になる氣ぞ。迂斎、脱然筆記に聖人にも成たら成られそふなものと云た。意味があるそ。今大概が尹彦明の云ふ侮聖言の徒が多ひ。孟子言性善言必称尭舜は成れると云証文なり。漢唐の儒者ともが其證文を落したりなくしたりした。そこを二程が証文を見出して、仁義礼智と云金子をとり返へさふと云はれた。徂徠などか、二程そんなら聖人に成たかと云は話の腰を折のじゃ。古今忠臣と云と豫讓を出すが、その豫讓がまんまと敵の首は取らぬ。学者も聖人に成ふと急度思ひ込むべきこと。成ふとするで工夫があるぞ。隨處充滿無少闕。大名の格と云様なきまったことではない。尭舜の様な天下取りの聖人も孔子の様な浪人もある。居り場々々々がある。其ときにちっともすきまはない。これで見れは曽点は居則不吾知と云まい。三人の衆はないものを喰はふじゃ。やがて家老に成たらの、やがて政をするときはなと、それでは用られぬときが欠闕になるぞ。曽点は天理流行、つかへがない。やがてと云了簡はない。今日はよい日和、花見にと云。今花はよい月じゃ、爰で一盃と云。今がすぐに流行じゃ。爰らで異端もひしげる。老子は一元氣の外は皆欠闕になる。佛者が面目みぬ内が皆欠闕ぞ。つめて見れば見ぬ上も欠闕ぞ。道中で川留に合ふて伸ひ欠ひて早く川をあけたい々々々々と云。欠闕ぞ。早く京へゆきたいの、富士を見たいと云はずに、旅篭の亭主とゆっくと話しておる。やっはりそれが流行ぞ。曽点も心にないことを拵へて、舞雩の冠者のと献立に云なら曽点の氣象ではない。直方先生の、花見に行きさへすれば曽点々々と云が、さふしたことではない。それは犬じゃ。道理がさへてくれは朋友の看病する迠が面白ふなる。そこが曽点の氣象と云はれた。家老や用人は政をするが曽点の氣象。右筆は状を書、料理人は肴を切るが曽点ぞ。あの集註の所居之位と云字が面白ひぞ。

○程門の髙それと云はあの衆の手柄じゃ。されとも地盤なしにはならぬ。二程と云上野の中堂の様なを見たからなり。日本には髙それと云用心は入らぬ。徂徠の徒の肴は唐の俗人、吾党の学者の一盃きげんでさわぐは俗人の酒のみ。孔子の三子でもやがてとさきをあてにするから所見少と云はるる。迂斎のことに及心ないことと思ふことが一つある。晩年今死病に取ついたら忰共がさぞ看病するで有ふが、たとへさふなふても此方の覚悟に何もかわることはないと云はれた。直方先生の説ほどはあるぞ。

曽点の章は道樂者のうれしがる様に思ひ、克己の章と云へば脇目もならぬ様に思が、中は一つことぞ。人欲をなくすることじゃ。欲がなくなるとのび々々となるぞ。ちっと辛抱するがよい。

○顧曰、今度の大学はすらりとよむつもりぞ。これから或問啓発とよむと、そのときすっはりとなる。

をらが見ては新疏がよいと思ふが、吾党の者も書は平かに読かよいとは云ふが、新疏を誉ぬはどふでも宗旨を立ると云様な心いきじゃ。堅く法花の心からあれをほめぬ。寛政三亥六月朔旦大学開講の前話。
【語釈】
・寛政三亥・・・寛政三年辛亥。1791年。

三綱領講後秀問。この明德の字は性を人の骸へ入れて心へ打込んだときのことを云なるや。さあればこそ本文は性のことで、注の虚灵不昧具云々而慮萬事は心のことなり。先生曰、性を心へ入れたときのこととみてもよし。

大学は読にくいもの。をれはきらいじゃ。学者が大学きらいと云ては立ぬことなれとも、読にくいと云だけ大学を知たぞ。大学知止能得の条。

今日令女を引て読だは、無学なものでも心にあることを知らせふとてじゃが、夫の方へ志定り向ふたのじゃ。

至善を聖人にあてる。尤さふなれとも、そふ計り云はれぬことがある。あのことに付てはあれが至善じゃと云ふがある。

○八条目から尻が来ると知止の条で云たか、あれがのがれられぬことと思へ。知止の条を知行にあてて読むものが多ひが、必あてぬことじゃ。知と云きりでよい。知たことの行に出ぬことはない。行は知の形貌。右五条六月六日。

虱を不断見て居たれば車輪程に見へたと列子にある。そふきくとはでに聞るが、尹彦明のことを弟子ともが丕哉垩謨六経之編、耳順心得如誦己言、ほめたも虱が車輪になりたのなり。ぢみなぶんのこと。

天地の氣の流れぬは道理と云いかだある故なり。そこで滲漏なしなり。闇斎にも神道の筋に落ぬことは抄略ものにはあれとも、蒙養啓発にはその意を入れず編れたことなり。これも学者の第一眼の付け処なり。爰もむかへて天人唯一に説き落すと見るは氣をまわしたになるなり。そふではない。蒙養集三巻末条の話。

非礼と云字に吟味の入ることじゃ。野澤の説に、この方の非礼のことで向の者の非礼にはかまわぬが、こちが非礼になる。通り町をよい女の通る。女が非礼と云ことではないが、こちの視やふで非礼になる。金子は非礼ではないが、賂につつめば非礼になると云れた。顔子の非礼と云ことは小学底ではない。こちの非礼計りのことじゃと柯先生云れた。定説なれとも、小野﨑は二つなから合せたことがよいと云。尤なこと。老人の悪所を通るは、あれは氣つかいはないと云ても非礼じゃ。
【語釈】
・野澤・・・野澤弘篤。十九郎と称す。江戸の人。初め菅野兼山に学ぶ。

博奕打には人がだまされぬ。郷愿には人がたまさるる。

若林強斎の、未発と云は氣なしに扇を動す様なもの、と。扇を動すと心づくは、はや已発なり。
【語釈】
・若林強斎・・・若林強齋。名は進居。新七と称す。一号は守中翁、晩年は寛齋、自牧。望南軒。京都の人。享保17年(1732)1月20日没。年54。

○眞実无妄と云に細にわけをつけるに、春九十日に又ない天氣、ああよい天氣と云。眞実そよともせぬと云は无妄ぞ。

天命之革与不革は親の死だを埋ると同しこと。孝子の心からはいつ迠も置たいが、さふはならぬ。見所て行燈ふっと消す。もふ昨日ではない。舜や曽子が親を埋たくはないが、埋めるが仁ぞ。

迂斎の喪の時、宗伯が粥を作らせ家内の者にも喰せた。をれは粥がきらいゆへ冷飯を喰ふたれば、じろりとした目でにらめたが、それで手前は粥に砂糖をそへて喰た。それでは冷飯よりわるい。又大詳の祭りに宗伯が活た雀を送りた。をれが思に、上戸でもない迂斎に雀の炙でもあるまいと云てつかわぬ。迂斎の生涯なら孫共にくれるで有ふと思ふて、子共がほしがるから二つやりた。殺すとも活すとも勝手にせよと云氣でやった。宗伯が知惠がないから大ふ腹を立た。形ですることはいやみぞ。それでは礼の糟粕になる。東萊は郷党の篇さへけつりたいと云た。世間の儒者が形で計りするぞ。
【語釈】
・宗伯・・・柳田求馬。名は義道。号は村松樵夫。初め明石宗伯。江戸の人。天明4年(1784)7月22日没。年47。
・大詳・・・大祥。

佛者が五倫を離る々々と云ても、泥亀の岡へ上りて甲を干しておる様なもの。どこぞで又水に入る。是水族而已じゃ。

浮圖が人間の夫婦と云は断ずるとも、禽獸の子を生みつるむ、制道することはならぬ。禪寺の庭の梅の木で雀が子を生む。

親の慈子の孝は一つ山の登り坂と下り坂じゃ。親の慈はしよいが子の孝はしにくい。右三条の話、秀聞惟恭
【語釈】
・惟恭・・・秋葉惟恭。松太郎と称す。東金市押堀の人。

○直方先生の、十左がをれを孟子じゃと云は、孟子からがとりそこなふたものと云へり。いかさまそれで孟子を氣質にするやふでよくあるまい。学談には色々のことを云。流義を立ると小学の善行になる。

直方先生、酒井公から廿六年百両宛の合力を得られたが何も益はみへぬ。三宅先生が辞退したらよかろふと云たれば、直方の、善をさするのじゃ、をれにくれ子ばをどり子にやると云はれた。
【語釈】
・酒井公・・・酒井忠擧。雅楽頭と称す。上野厩橋藩主。享保5年(1720)11月13日没。年73。

○京都の訂斎翁、文章を書ておれに直せと云から一両処贈倒を直して、これで如何あらんと云て出したれば、こなたのしたこと如左あるまいと云て手に取て見もせなんだ。ああ洒落底な人でありたぞ。其後溝口公から予が扶持を得ても、あなたの方で益もない、今隱者になりたからは猶々辞するがよかろふと訂斎へ問ひ合せたれば、いやなにさ々々々と云て一向ませぬ。此等も高調の一端ぞ。
【語釈】
・訂斎翁・・・久米訂齋。名は順利。斷次郎と称す。別号は簡兮。京都の人。天明4年(1784)10月7日没。年86。
・溝口公・・・溝口浩軒。名は直範、後に直養。新発田藩主。寛政9年(1797)7月26日没。年62。

聖賢只是理、更無靈。太極豈作社可祭哉。此は戊申雜記にあり。惟秀大極の不審のことについて先生にせられたり。神道へたたりたことなり。太極はこの方で國常立じゃ。
【語釈】
・國常立・・・国常立尊(くにのとこたちのみこと)。日本書紀の冒頭にしるされている、天地開闢と共に現れた神。国土形成の神で、高天原における天御中主神に対する。国底立尊。

善太良とをれで寺は持ておるが、行藏小一が死んで仁王門の燒けた様なもの。
【語釈】
・行藏・・・村士玉水。名は宗章。別号は一齋、素山。行蔵、幸蔵と称す。江戸の人。信古堂を営む。村士淡齋の子。初め山宮雪樓に学ぶ。安永5年(1776)1月4日没。年48。
・小一・・・宇井黙齋。初めの姓は丸子。名は弘篤。字は信卿。小一郎と称す。肥前唐津の人。天明1年(1781)11月22日、京都にて没。年57。

直方先生が、浅見子は處の字計りで出がないと云たれば、絅斎の、處のうちに出かあり、すわ出ると云ふときにも処の字がある。両方に出処はついておる。もふ四つ時になると云った、と。これはよい説ぞ。
【語釈】
・浅見子・・・淺見絅齋。名は安正。重次郎と称す。初めは高島順良と称す。近江高島郡新儀村字太田の人。京都に住む。正徳1年(1711)12月1日没。年60。

人倫をただすには井田が本となり。井田でなければ養子がやめにならぬ。

宗伯が、天子より外君臣と云へぬ、其外主從と云てすむと僻説を云。礼の吟味から礼を知らぬにをちるぞ。天子を君と云ゆへ、諸矦をば国の字をつけて国君と云、それから又別つために大夫君と云てある。

俠客に雄弁がある。をれが江戸に居たとき、俠客の親がびっこで杖にすがりて立て居て喧嘩を見て居たに、一人の俠客が、喧嘩そ、こなたの息子ではない、引込でござるがよい、浮雲何にこぼれ松葉をみるやふに杖をついてと云た。さへぬ処から雄弁は出るもの。

○姧蘭的、ぬけに。帶號。えふ。

當時狂歌がはやると云が、文字も興歌などと書ひて本歌にも紛るることじゃと云ことじゃが、大ふにくいことじゃ。記誦詞章が道の害になると云もこれじゃ。眞情てもない歌などよまふより、おまんかわいやの方がよい様なものじゃ。

或者が南郭が子の仲英に、拙者母死す、仏法に從ふも無念、既に林家も儒葬なれば葬埋のことどふしたらよかろふと相談したれば、仲英が答が出来ぬ。性理大全の文公家礼の部でも見たらよかろふと云ふた、と。大事の場、眞劔勝負はまぎらかしはならぬを見よ。

若林の盆前と歳暮に銀と秤と銭とをそこへ出して置て、自分は衝立の影に書をみて居て、掛取がくると、それ取てゆけ、そこで秤でとれと云はれた。きつふさへたことぞ。

荀子諸誠以誠為別。辰年雜記にあり。秀此義を問。先生曰、荀子が性を悪とみるから、心を誠にするには誠と云ものを借りて来て養ふ様に思ふなり。こちの誠と云は、本来の心が誠也。別でないものを別にしたぞ。精一則以一為精中之事。惟精は知、惟一は行のことなり。荀子精の至極を一とみたなり。しらば大切のことで、荀子が違へたから錄したぞ。尭舜も惟精計りでも惟一計りでも片ひらになるから惟精惟一と両方なり。

仝問遷就之義、学者にも丁度のよい処あるもの。伯老ひいきの、桺下惠ひいきのと云は吾方から遷就したのなり。向の人品の方は一定してをるに、こちからひいき々々々で色々に云ことじゃ。

○白石公、荒井筑後守文昭廟の時の人。初は筆耕などして河村隨軒の処に居られた。

○人のすきと云はさま々々なもの。呂東萊は蝉がすきとある。朱子の書簡にも蝉声で貴様を思ふと云ふてある。今日の様に鳴れては如何なるすきでもこまろふ。

我は人我とつづく。人と我と云こと、我身と云字もあるが、それがそれも人を相手とるときの詞で、兎角人へ對する詞で、向の方を主に立て云ふとき違ふ字ぞ。吾の字は吾師吾子吾人、こちからを主に云詞で、心切の親む意あるときの語意なり。その内吾人はをれもそなたもと云様なれとも、吾人と云てこち計りのときもある。兎角吾は吾身から主に立った詞ぞ。吾道吾党それぞ。我道と書た処は大方異学に對したときの詞ぞ。

本然と云は氣質や人欲のやだものを去たとき云ふ口上、相手とった上の名ぞ。それで尭舜孔子に本然と云ことは云はれぬ。本領とは心地一段のこと。本分は道体にあり、もとのままのこと。一向手つけなしによいから尭舜に云てもよい。

主好詳則百年荒。殿が隅から隅までせっかしく氣を付るから、下の者がふててせい出ぬ。雜記の話。

恭惟千載心。是理之者。孔子の精神が今もありはせぬ。理のみじゃ。尭舜からの道理が人に備ってあるから理の看じゃ。仏者が釈迦の心が今に残ってあると云は氣をつかまへた云分んぞ。

七右は牛すぎると直方先生の云はれた。あまり議論がをもすぎると云こと。人思如湧泉、浚之則愈新。程子の諸で鄒德久が錄にあり。右は拾遺韞藏錄の段々水に切りつける語の解の為の話なり。
【語釈】
・七右・・・野田剛齋。名は德勝。七右衛門と称す。江戸の人。本所石原に住む。石原先生。明和5年(1768)2月6日没。年79。三宅尚齋にも学ぶ。

享保の頃、或禪僧が臍を出して鎗の上手につかせたが、得つくことならなんだとなり。心法のすわりこわいものなり。

亭々當々直上直下之正理出則不是、と。南都の鮓屋が十五日の朝上り料と書とよこす。昼喰ふと不是ぞ。先生為形曰、指を一本疂へつけた様なもの。これをそっともわきへふれると已発なり。直方先生が百両で具足を拵へた。今清水三九良にある。そのころ武井先生は袴羽織で土用干のとき見に行きた。篤厚な人ぞ。幸田は、あれは英雄欺人じゃと云た。尤なこと。具足を拵へた意はどふもしれぬ。跡のものの賣喰にせよと云ことか。
【語釈】
・清水三九良・・・志水質義。三九郎と称す。
・武井先生・・・武井敬勝。下野古河藩儒。天明6年(1786)2月28日没。年78。稲葉迂齋の妻の弟。

つく々々と思へばやすき年の暮。迂斎。ほどき打て老の坂行大晦日。石原先生。詩も歌も出兼る程の歳暮哉。野沢十九良。まっすぐてよい。

をれが知た町人の冨豪が兄弟中が大ふよくて、悪処へも一処に連れ立てゆきた。それが後に義絶した。身上為にならぬゆへて有た。直方先生の、町人は性善の外と云た。それにをれが對句がある。博弈打はけたで免れたと云こと。性善の外と云もよい町人で云こと。身体大切と云日には、親でも麁末する。博弈打は、そちの母は病氣さふな、これで肴でも進ぜよと三百なげ出す。町人はさふ出さぬと云たれば、武井先生が手を打て悦ばれた。

花と花とは色を争ふと云前句に、河岸に藤山吹の咲連れてとは付た。下手のつけなり。直方の、この話は孟子の書に詩書を引たをみて趙岐が詩書に長ぜりと云たは下手の附句なり、岸の松ひとり春をや送らんとつけたは上手のつけなりと云は、知易者莫如於孟子と云たことぞ。つけ方の上手ぞ。

清見瀉影もさやけき浪の上に月の隈ある濱千鳥哉。直方先生の此歌を引くは、俗儒の記誦詞章を月のくまとみたことなり。立派だていよ々々わるいと云ことなり。茶人が名器のみを尊ぶ。八文茶碗で燒味噌でも茶に入ると云ことを知らず、名器をみたいと望たれば、利休が濱千鳥の茶入をころがしてやってみせたことあり。此意をほめた哥ぞ。

唐も大和も同じ夕顔の花の心を知る人ぞ知る。家内に夫妻子母の類ありても、それに活潑々地底の道理あることを知たものがないもの。茶人は羽織で茶はたてぬ。便服と云たなり。頭巾同前にしたことなり。

聖德太子十八憲法、日本の礼を書たもの。直方の、あれより上のことを知た者が日本にはないと云た。

坐頭の子目くらは生まぬと直方の云はれた。これが氣の変と同ことで、理の方でかまいないこと。太極の方では目あきと思ふておる。病氣で目つぶれたのぞ。人欲は病ぞ。天理の流行せぬは氣のわざなり。

或学者が直方先生の処へきて、羪子の御議論は今に前方の通りかと問た。せつなかった語意ぞ。

誠意の工夫は香車のききの様なもの。知たとおりをすっとゆくこと。顔子の克己復礼のあとと孟子の浩然の氣の成就したあとが一つ処じゃ。

渙然不逆於心。一知便了。妙契神會自別者。游定夫が西の銘を是中庸之理也と云たことぞ。可貴而不可学。眞似はならぬ。定夫のすくれた処じゃが、あの形をしたがるは悪ひ。投入れの水仙一寸入れてよいは名人藝じゃが、それをなをさぬをさへたことにしてをる意は悪ひ。利休が茶の湯のとき茶の迎に出たが、やっぱり水紋の石を直して居た。名人にも似合ぬこと、客も待久してわるいとば、利休が、いや茶の湯は心がかりなことがあっては出来ぬものと云た。辰年雜記。

競説俗事者足以卜其心之為俗也。喜聽淫声者可知以其心之多淫也。辰年雜記。

学者之過失督責之段止帰於不恭而已、則未見絶於聖門者耳。纔好名、愛官爵、纔貪財利、此三者豪末有之、垩賢投藥匕以為難医。可不思哉々々々々。辰年雜記。

読彖辞而思過半と云は、をれがとりつけの炭燒をやじが書付けてやったれば、無筆だけれとも、もふ炭がない時分じゃ、何表よこせと云ことか、これ見てくれと云た、と。

德行には顔淵閔子騫と云た。氣質変化々々々々と計りは云はれぬ。この塩梅を知らぬものは療治はならぬ。

学者は己が為とする。はや誠意に近ひ。それに人情で喰物にさへうそをする。汐煮より芋の煮ころばしと云日があるものじゃに、あたまから出た潮煮も誉て喰ふ。郷愿に落るしかけじゃ。

幸子善の廿人の御番衆仲ヶ間のつき合よい加減にする。宗伯病家のあつかひ。清十良は商ひをする。皆わるひことはない。をれが若ひときの放蕩は吉原や芝居の様なもの。御坐へは出されぬ。あらひ人欲はやめよいもの。三人の衆のは悪ひことはない。そこでいつもたぎらぬ。
【語釈】
・清十良・・・櫻木誾齋。名は千之。初め大木剛中、後に清十郎と称す。東金の人。長崎聖堂教授。文化1年(1804)5月1日没。年80。

○宗伯があの嚴厲で病家で小児の脉をみるに、それほん々々が出たと云った、と。業以不可不愼。

玄朔が一生の格言、道理は至極につめる、身上は小成に安んずることと云た。うつる男で有た。
【語釈】
・玄朔・・・若林玄朔。名は弘篤。江戸の人。天明4年(1784)5月16日没。年45。稲葉黙齋にも学ぶ。

○鳩巢先生の、江戸の火事はやいもいつも大火になるも、下に水道のある故と云れた。水道をやめたら火事も少くなろふと云れた。面白説ぞ。きびしゃふの下に水を入るるで火勢のよいを見よ。
【語釈】
・きびしゃふ・・・急焼。急須。

駒込わら店龍光寺、迂斎の墓所。十一月十日。直方先生の戒名一貫了道居士。麻布瑠璃光寺。八月十五日。

天明九年己酉二月、公儀より寺々へ施餓鬼供羪をつとめよとの御觸なり。これは奧州の飢饉、浅間の砂ふり、京都の火災で、死亡の人多き為めと或人云へり。先生曰、出家も只あそばせて置でもない。よい御政なり。儒者の方からも出家を頼みたいことがある。不善をするものを地獄へやってもらいたい。をれらは地獄のことは不案内じゃ。
【語釈】
・天明九年・・・1789年。

吝ひとあたしけないと云とはあたりが違ふ。直方先生の長嶋公へゆきたとき、大分松茸を処々からくれた。後には困ってさかせて干松茸にした。江戸へ皈て目錄や丹後嶋の餞別の返礼にやりた。これはあたじけないのぞ。幸田栄二良殿へ話したれば、大ぶうつりて悦んだ。吝ひものはあたりをよく返礼をするもの。直方しわいではない。諸大名からの目錄もそれなりにまとめて簞笥か何かに入て置て、用のとき仕ふたが、残りが大ひことありた。奧方があの目祿の残りを下されと云たれば、をいと云た。皆いただきませふと云たれば、どふともしろ、ああ欲の深ひと云た、と。
【語釈】
・幸田栄二良殿・・・幸田永次郎。幸田榮次郎ともある。名は好珇。幸田誠之の次子。寛政2年(1790)没。

観會通而行典礼。會は道理のさま々々あつまった処。其中からぬけたよいのが通なり。それを典礼に出すこと。會通から出た典礼は行れぬ。医者の病人見たとき、さま々々病症があるが、其中で此れが病氣の本とにしたは會通。そこで何藥と云方剤をあてる。典礼なり。

をれが此頃学話の賀古錄の中庸筆記を、賀古が国詞のすんならと云迠を直すが、涶涕はあらはさずの意ぞ。
【語釈】
・賀古・・・賀古利器?関宿藩士。

同羅事。訓門人にあり。と云は、をらが若ひときからす勘左ェ門、うぬが家はやける。早くいって水かけろと云、世話やきをやじを云ふたわる口ちがありた。一寸人の家へ來ても、それ外に盤がある、釜の下の火が大くべじゃのと入らざることを云もの。

徂徠がことをおれが、司馬遷に手を引れて荀卿地獄へ落たと書ひた。何んと品題で有ふ。

○畏壓溺不弔と礼記にある。山宮の災のとき、あの厚ひ迂斎ゆへ往ふと云たを某がとめた。舎人殿が、若ひがよい心つきと云った。
【語釈】
・山宮・・・山宮雪樓。名は維深。字は仲淵。別号は翠猗。官兵衛と称す。江戸の人。羽後亀田藩岩城氏に仕え、後に館林藩に仕えるが去り、直ぐに殞命。年40。

太子少長知好色。賈誼が好色の情の開けるときが学問さするによい時節と云た。色情さへ開けぬときにあぶせかけてもゆくものではない。この一言が聖賢も云はぬことのさてよい発明なり。開けるときは何もかもひらくもなり。

直方先生が滕小国也、長嶋じゃと云へり。蛙が小便しても水の出る処じゃ。それで国替望んだか、對馬殿は其孫なり。古河州公は、氣象じゃ、をれが学問も上らぬぞ、長嶋と云腐鼠があると云はれた。貝原が大疑の序を太宰が牛房程の尾をふって書たは、呂不韋が此竒貨なりと云た消息ぞ。

太宰が神道を訶ったは面白くない。あれに似合ぬことじゃ。権謀術数のたすけをするに神道ほどよいものはあるまいのに。

禮可継而令可傳。行はるる様にするがよい。迂斎の家の時祭を、某が今の八藏に八月四日にさせた。これが三日が土井矦の忌日ゆへ、二日は思ずも斎みをする。そこで四日にさせた。これを礼者に聞せると大たわけがと云が、をれが礼は活虵じゃ。礼者は死虵を弄してをる。

○吾黨の先輩にも器用と云は多はない。直方先生と迂斎と訂斎なり。其跡で器用が某と善太良殿じゃ。只五人じゃ。善太良殿が石原の先生に太極圖説を聞てもろふて、先師が筆記された。よく読だぞ。溝口公も読んたが、石原先生が跡で太極圖説を読と氣さんじになると云た。子りこんだ知からなり。器用で及れぬことじゃ。

○此間ふとしたことて昔のことを思ひ出した。道樂放蕩をする、わるひは知れたことで、さてあれも皆理の働きじゃ。髙尾に思ひつかるると云に、金を蒔た計りではゆかぬ。大名でも合点はせぬ。瞽瞍の底豫と云程な知の入ること。よいことをするもわるいことをするも理は一貫なもの。理が一ゆへ知が明なればなる。百姓は治よいが、高尾を服すことはならぬ。百姓は絜矩をするでいやと云ことはならぬ。わるひことは理でおされぬから百倍の功を用ひ子ばならぬ。それで顔子をどら者にしたらば云云。先生曰、顔子をすると、理の働き計りで氣の働きはなくなる。天下を治めさせるとわるものはなくなる。そこが巴鼻なしの処ぞ。何でも手に入た上は巴鼻なしになる。高尾に粹と云ものはどふしたものと問たれば、この曲輪へ来ぬ人が粹じゃと云た。手に入ると巴鼻なしじゃ。三宅先生が、聖人は道心計りで人心はないと云た。理の働きがつよいで氣くるめ理になる。孔子七十而從心所欲而不踰矩、文王色憂行不能正履。うき々々とせぬ底じゃ。浩然の氣とは云はれそもないが、三宅先生の、あれが浩然の氣じゃと云た。浩然の氣と色憂を一つに見たは大きな眼なり。それについてをれが発明に、婉娩聽從と云和らかが、令女が鼻をそぐになる。あれをつよひことをしたとみることでない。やわらかの至極があれになりたのぞ。
【語釈】
・髙尾・・・江戸吉原の三浦屋四郎左衛門抱えの遊女。

怨と云はへだてあるからの怨みぞ。怨は体のかはりた処からをこる。一視同仁と云へばへだてのないこと。一体と云に怨ることはない。足の麁相で頭まをすりこわしたに、足と頭が中かたがいせぬ。一体ゆへぞ。犬は無心で喰ひつくが、犬をば一生打つ氣になる。親子もそれぞ。足と頭の様に合点すれば不是の処を見ることはない。西の銘の合っ点もこの外はないぞ。

坊主になるな。肴を喰へ。地獄にゆきて鬼になけるな。大食をしてくらすとも念仏を云ふな。佛法はうそ。これが釈迦といふいたづらものが世に出て多くの人を迷はしそするの前書じゃ。一休、たまらぬ僧ぞ。

目を眠って思案したとて思ふ部にはいられぬ。思ふと云は知につくこと。尹彦明など、行に欠たことはないが知がない。あれほどても思がたらぬ。

依様畫胡蘆。昔からの手本で尚書省から告命を畫て出た。何のことはないと宋の太祖が陶縠に言たこと。竹に雀と書くことなり。しき写しに書たも同じこと。今江戸の儒者が小学を読と云がやはりこれで有ふ。鋪寫じゃ。こちで骨折れぬことは向へひびかぬものじゃ。身通六藝者七十二人。迂斎の、梅の花の下の匂のよい様なもの、と。

冬至を只冬至目出度と云は八專も同しこと。克己をすれば來復なり。秀が江戸へゆくに、河仲遷へ邵子や程子の冬至の詩を書てやっては面白くない。朱子の當年宝鑑の詩を書てやるぞ。仲遷に宝鑑の通り克己じゃ。宝鑑の仁のこと、冬至振舞は儒官の家にもあり、團十良にもある。料理は却て團十良がよいが、只喰ふは役に立ぬ。此の宝鑑の詩を持参して、江戸麻布河本氏の冬至の日、訓門人に秀會す。其発足前のことなり。
【語釈】
・八專・・・暦で、干支の十干と十二支の五行が合う日。壬子の日から癸亥の日までの一二日間のうち、丑・辰・午・戌を間日と称して除いた残りの八日をいい、一年に六回ある。降雨が多いという。法事・婚礼などの厄日。
・河仲遷・・・河本仲遷。名は善。三左衛門と称す。丸亀藩士。

千日寺に、五月雨に酒壱升と思ひしに終に此身の德利とぞなる。

禮書の吟味者が、鄭玄が斯ふ云てもこれではつかへると云て吟味する。尤なこと。力を省くではないが、鄭玄や孔頴達でやってゆかぬとき、三礼儀疏でやるとよく合ふげな。狂二良の師匠、大竹栄造、が雛形で吟味すると云。それで礼書の吟味はゆかぬ。嫂叔無服制のことを問にやったが、また何とも云て来ぬ。程子は先生の権じゃと云たが、一つ家に居て喪のないもつまらぬ。ありうちのことなり。
【語釈】
・狂二良・・・鈴木狂二郎。稲葉黙齋の従姪。江戸の人。

駱賔王が即天のことをしたたかわるく云た。即天の聞て、この様な者が埋もれておるからをれをわるく云。皆宰相共の咎じゃ。取立るがよいと云た。悪人は才力のあるもの。

寛政三年庚戌正月十一日。今朝不圖さふ思ふた。為己の学と云は雪隱で糞をたれる様なもの。只通ずるの外残念はない。通快なこともなる。是みよ、今おれがひるはと云ふ意はないが、雪隱をはなるるとはやみへが出る。

谷川澹斎が、此花咲や姫を此れ誰家の女ぞと云たを、あれが同姓か異姓かと糺したことじゃと取りた。それでは神道がみんなになる。あれは人目にもず、尻をとんとたたひたことじゃ。眞正直と云のぞ。儒者が理屈をつけるで神道がらりになりた。ありなりな正直なおぼこな処がよい。神代からの傳のよい道が有ふに、習合でわるくした。人間は人に耻て交合も人の目にはかけぬ。犬や雀のつるむは遠慮はない。遠慮あるだけが禽獸にまけたと思ふ程でなくては神道のうまみではない。
【語釈】
・谷川澹斎・・・谷川士清?谷川士逸?
・此花咲や姫・・・木花之開耶姫・木花之佐久夜毘売。日本神話で、大山祇神の女。天孫瓊瓊杵尊の妃。火闌降命・彦火火出見尊・火明命の母。
・取・・・耻?

継者善はかるい、性善の善は重ひと直方先生の云れた。継者善は今行はるる理のこと。天のかぶになる。性善の善は我株になるぞ。爰で禽獸と違ふ処。上の継善の処は一つ処じゃ。薛文靖が継善のかたまりたを人が受たと云たは器用な云様でもよくない。直方の重ひ軽ひと云たは不器用な云ひ様でもよい。小学で親に孝と習ふたがやはりよいもの。西の銘で孝を合点するは器用でよいけれとも、と云て天の精をするに及ぬからは。
【語釈】
・神・・・進?

黙斎と云へどあけたてしげければ、戸口の破損絶る間はなしと云はれたは、をれが病にあったなれとも、をれほど口をきくものもないが、公儀へあたって嶋へゆく様なことは云出さぬ。荀子を篤実なものと朱子も云。いかさま律義と云場がある。あれともきやり々々々としたことを云てある。孟子の戰国に居てあの大言でやみ討ちにも合はぬは知見なり。知見と云がこわいもの。從古聖賢為人不見殺也。

志士仁人殺身而有為仁。殺の字あるとて必しも靖献遺言めいたことに計り見てはすまぬ。かるくみるですむぞ。あの男は今年の飢饉で工夫をしあげたと云様なもの、殺身の分内ぞ。

貧子宝珠と云は乞食の両替町を通りたのぞ。貧のこと計りとは云へぬ。身にならぬことぞ。語類文集見て身にならぬがそれぞ。

先生一日腰疼甚時作呻吟声曰、人之為学如某腰疼方是。訓門人九、語類百廿一、三十五版そ。泳久而思之云云と書。これは胡泳が註のしそこないなり。久而思之、思そこないぞ。間断を警めたことにとりた。それは下の条のことなり。大方下の条の話を聞て、腰疼の話もあのことじゃなどと取たものなり。この条は、この疼みの様にうんと云様に学ふがよいと云たことなり。朱門がその坐で書たことそ。おれが日本に生れて二千里の遠き然も五百年さきのことを、これは胡泳が違ひじゃなどと云がきつひことと思へ。理で推すことはこわいもの。土井矦の所司代のとき、をれが京へゆきて今日菴を見た。皈ってから兄に、あの今日菴はちごふた、あれが本のなれば宗探は大の下手じゃと云た。兄も何そんなことが有ふと云た。今日菴を見て今日菴でないなどと云はとほふもないことて人が受なんだ。次の日よい茶人が來たから、覚々斎門人宗室。あの今日菴はきっとちがったで有ふ、あれが本ではつまらぬと云たれば、其茶人も、いやあれがそじゃが、あれが一と度絶へてたたんで置て、三代目の宗室のとき又建た。其とき宗室の物好きでされた処もある。そこが違ひで有ふと云た。これで漸々人が某が言を信じた。をれが今日菴は圖で見たから寸法も違はぬ。ああ痛ひ、うんと云処から出たことなり。間断などと重くして出た意ではない。

をれが泉町に居たとき、きけば堺町に五月のころかたみ贈りと云ことがある。なく藝者の曽我の祐信が役が上手でなくてはならぬ。一幕泣くでもつことゆへ、下手ではならぬ。百三十二文を泣て取る。それと云も人情はよくのるもの。跡で舞臺を見ればじと々々してあるげな。角力取が狂言猗語とは違ふと云が、なるほど角力は狂言ではない。狂言はいつも人情でするゆへよしわるし人へも感ずる。角力を見て涙を流す者はない。つまり角力は材木とりも同じこと。つよいものがとってほうる。人情でないから涙は出ぬ。狂言は人情を主にするから、傾城の貞女を立る狂言をもする。傾城の貞女も聞へぬが、其みた処では人情でつめるゆへ涙も出る。五郎十郎は親の歒討をする心がけの男に買るる。傾城ゆへまた貞女をも立さふなものなれとも、鳫金文七が買ふ。傾城迠を貞女にする。皆人情てつめたもの。
【語釈】
・鳫金文七・・・元禄年間大坂を横行した五人組の無頼漢の一人。

二仲の祭に、膳部に迠に及はれぬものはほうろくに赤飯を盛て一大盤で祭るがよい。酒肴や菜菓もそれなり。一所でもよい。とかく肉はやつされぬ。肉をあげたい計りの時祭ぞ。其外祭器はどふともなること。神主と肉はやつされぬが、先紙牌でなりとも祭をば始るがよい。こんなことを宗伯抔に聞せると大たわけと云が、をれは可継可傳のことをする。宗伯が礼のことは任してやかましく云たが、さすが礼文の末なり。迂斎の忌中に小豆粥に砂糖を入れて、扨々にきわしく喰ふたを、おれはいやと云て赤豆粥喰はぬ。冷飯を喰たぞ。粥は忌中のものじゃ、飯はよくないと訶りた。ははあ俗儒がと思ふた。こんなあやは礼文計りでは氣は付ぬもの。此話為重次時祭発す。

重次問礼の節文時祭の省畧何とぞ書付にて御示しを願ふ、と。先生曰、いやかかぬことじゃ。朱子は儀礼経傳通解に了簡は書ぬ。やっぱり鄭玄孔頴達へっぺり儒者の云たことを用ひた。書けば礼制したになる。通解に今按にと云処のあるは、古人の云たことはそれにして置て、氣に入らぬことをざっと云たことじゃ。

水戸の伯父、稲葉源太夫、迂斎先生の兄。は氣象なもので有た。迂斎の十五六のとき、大和小学の信玄が親信虎を追出したはめ処を高らかに読たれば、ずっと出て迂斎をしたたかに打た。嘉右ェ門は只の儒者じゃ、信玄は吾朝の弓矢の師じゃ。それを譏って悪く云。をらは稲葉一鉄斎の後じゃ。嘉右ェ門が何じゃとしたたか罵りた。それからめったに大和小学が読れなんだと云。斯ふした氣象な人なり。それで寸を得たら寸、尺を得たら尺、めったにはなさぬ人なり。山鹿流の軍学で余程よかりた。大の武はりなり。あれで学問をしたらよいものに成ふで有た。或るとき暑氣見舞に行たに、一僕を連れぬとて大に呵りた。某云、迂斎も兄も勤めるに家來一両人ゆへ、あいらも能それにつれては不便さにと云たれは、いやさ、ひょっとわる者に後から切られまいものでもない、其とき歒の類ひが知れぬと云れた。伯父貴も二十口で有たが、さても貧で坐鋪のしきり抔はよしをあんでをつけて、その上を拂ひ狀などて張て有た。それでも酒は大ぶすきで、いつも絶たことはない。客があるといつも酒肴をととのへてよくもてなした。さて云には御強ひは申さぬ、量だけまいれ、すぎてはよふない、辞義は無用とをくそこなかりた。それでもまちごふとぬく氣じゃ。置字から先きへ習ふて文章を書くを習ふは俎箸から持習ふと同じこと。つかみ料理も出来てから俎箸を使ひ習ふがよい。爰の助字はどふ置がよいと云ことをば文を書くときと引合せてみるがよい。語類も文集も朱子の学になることじゃが、其中にもふると云ことを合点せよ。道理を得たはあたりまへなり。語類ではよい話の種が出來、文集では文が書ける筈じゃ。そふゆかぬは甲斐ないことじゃ。

今日の三十章に或問、中庸講。がよくすま子ば読にくひ処あるぞ。仕止久速の律天時は聞へたが、用捨行藏の壟水土にあたるがとりにくい。それさへ合点すれば章句の兼内外談本末而言也がよく済むぞ。用捨行藏もやはり律天時のことの様なれとも、行藏用捨は地の方になると云は、あたる処でそれなりにしてをるから地なり。地がついに、蘭をばひいきして毒だみをば悪んだことはない。

中蕐の人が外國へ往たきらば、聾の姿なるべし。狂言をするにも坐頭の姿は見へぬ底ゆへ仕よい筈だが、聾の姿はしにくい筈ぞ。情の形にあらわるるものと云ことに某が前々取りた。聞へぬ心いきを形で見せ子ばならぬ。講釈を聞にも、きこへぬものは聾の姿なり。外からみへるぞ。

○事理・文勢・事証、文義の吟味はこの三つなり。人の目利は視・観・察なり。

太宰が徂徠のことを、をらが先生も朱子を隅から角迠残らず譏るからわるい。役者の声色を使ふにも、皆使ふとあらが出る。よく似た処をちっと使ふがよいと云た、と。

唐彦明が本所の横あみ三百店に居た。萱荒の家で外はじめ々々する様な処で有た。油上け一枚一文が醤油を買て、せり賣の杉の葉で燒て食た。彦八殿は火災後佐竹侯の假り長家に居たが、これもさむい底で有た。兎角学者は貧なものじゃ。ついひ昏礼もせず、それで死れた。それでも彦明よりちとよかりた。
【語釈】
・唐彦明・・・唐崎彦明。名は欽。金四郎と称す。安芸竹原の人。竹原先生。唐崎清繼の第四子。辛齋の弟。長嶋藩に仕える。宝暦6年(1756)4月24日没。年43。
・彦八殿・・・佐藤就正。彦八と称す。号は謙齋。佐藤直方の子。延享4年(1747)2月22日没。年39。迂齋にも学ぶ。

徽宗や欽宗の金で死れた。御いたわしやは知れたこと。それは捨て置て、あの衆はあまり埒がないからああした目にあふた、心がらじゃと云程に憤って歒討をするがよい。御いたましやは仁なり。されとも凡夫へはまわりどをい。無学な者や俗人を厲ますには義で云ふが朱子の趣向なり。節用時事會讀。

張南軒を莊重沈黙の氣象ないとは誰が目にもみへぬが、朱子の知でみれば子りこみが甲斐ないと見へるそふな。学識はこわいものなり。仝前。

王陽明は唖の利口な様なもの。格物がないからどの様なことも只胸からなり。そこで何ぞのとき埒もないことが出来る。前唖の弟が朋友と云ひ合せてうそに喧嘩をしたれば、唖が加勢に出てその相手をしたたか打た。何と云ても聞入れなんだ。困ったことがあるもの。

道春の学問抔を軽く思ふか、四書の点の柯先生に及なひぞと云もちっとなこと。あの儀礼周礼白文の和訓などがよいぞ。今の学者があれ程なことをすると立派に日東誰と書で有ふか、それもない。あの衆は君子ぞ。あの四書を見て生れてわるく云は無理ぞ。

湖南一派は仁を知覚て云て、獅子じゃと猛獣で云。過は仁でないが観過知仁、わるいと知て端的が仁じゃ。親の脊中をなでて居ては仁は知れぬ。悪処でふっと親のことをはっと思ふた。そこが仁じゃ、と。それではあらゆるわるさを仕尽さ子は仁者になられぬ。

仁説の末に知覚即智之事とある。出ものなり。あれが謝氏のうったことじゃ。上蔡の仁を知覚で説くは仁の歒某として一生訶りたが、謝氏の祭文には以生意仁と書て、それらを朱子抔の行き届ひたを見よ。浅見先生の仁の説と直方先生の仁説をみると浅見のがをちた様に見へるが、どっちも軍は牛角なり。直方の出やふがよいから柯先生の誉め詞も多ひが、落る処のじっしりとしたは浅見なり。仁者以天地万物為一体と云は心統性情と云様なものと云れた。この器用さをみよ。どっこいをれが性情をすべたと云心はない。仁者も一体だとも一体にせふとも思ふたことでない。この器用を世人は知らひて不器用な様に云ぞ。

○程子の繫辞傳に註のないと太極圖を滅多に人に授ぬと云か一つで有ふ。

東萊は事ずきゆへ粲然すぎで有そふなものを渾然すぎになりたは、だたい粲然がむつかしきことゆへぞ。

太極圖説の後論が小学家礼で出るでなければ本のことでない。をれが小紋のふとへものを見よ。わるい処は渾然ぞ。

衍義をばおれもはづして見た。面白かりたぞ。東萊博議を見るとひん々々としたやふ。范祖禹の唐鑑を見るとへろりとしたやふじゃ。かいてをいた。

佛者は西銘すきる。凡夫は西の銘知らず。仏、一を見すぎたもの。そこで空としてあれば跡がおさまらぬ。不生不滅と云て埒はない。

鳩巢圖述さてよい。李退溪は理はあれほど云へ様が、あれほどに述られまい。薛文靖はさへたことも出やふが、文があれほど連続してゆくまい。鳩巢の文は朱子に似た。

羑里操のことにつひて一轉語と云ことあり。文王が天王は聖明の心で窂にござりたもの。向った処ではわるひ王ともみゆべけれとも、天王は聖明と思ふ。舜の象喜べば舜亦悦ぶ。うそではない。そんなら実によいかと云に以の外のこと。聖人の上にさふしたことがある。孔子の佛肸よぶ。往ふと云た。又往ぬ。これも一轉語なり。窂に居た処で云でよい。

芝居も理があるから感ずる。清玄も初めは殊の外実底な僧にする。それからは又だらけて坊主でつくる底をする。その後五十日もすぎ、百日程で乱心ものの様にする。斯ふ手のこんだこと。あれをあたまから櫻姫に恋慕した底をするは下手の手段なり。よい役者はちらと見て香炉を落したり、又観念する底をしたり、それが上手の仕方なり。それもあれも本心になりてするで、後にはほんに泣げな。それで見る人もひびくと云ことじゃ。いかさま聖人が鄭声を放つと云はるる筈じゃ。人の心に入るはこわいことなり。

小児の喰ひ合せと云ことは、爰で饅頭を喰た憐でとほふもない者を喰ふからわるい。大人の松魚のさし味喰て五合飲んで寢たは喰ひ合せでないと思ふは心得違ひぞ。羪ひは五味がよい。五臟じゃからなり。これをさま々々のものを喰て食傷したと一つに思ふは間違なり。をらなどは辛ひものを喰ても又あまいものを少しなめる。これが偏でない。羪ひぞ。人は五常の德ゆへ、仁ぎり義ぎりと云はぬもこのことなり。

五服客隱と云ことが明律にある。立服のあるものと公事出入をするか、又は五服のあるもののわるさを上へ訴れば、理はよくても上で訴へたものを咎しめる。重次曰、父為子隱子為父隱すの廣まりた処か。曰、然り。

不審菴の手紙を掛物にしてあり。暫時望見る。先生曰、あの掛物ほどけちなのはないが、兎角何ことも実境と云はよいもの。鯛が同じくは鮭にいたしたく候とある。茶の客呼ふについての手帖なり。又茶人の腰張を反古でする。あの哥をと云と掛物の筋になる。有合の反故でする。

標的の書を燗の仕やふで斯ふ呑めると云こと。今の学者はいつもの論語いつもの大学と見るから、標的と云ふの主意がたたぬ。やっはり宇治茶でも煎じやふで違ふと云ことを知らぬ。寛政二庚戌十二月廿六日。筑前為敬吾主一講道学標的講後話也。
【語釈】
・敬吾主一・・・片峯敬吾と大谷主一。唐津藩の臣。

當理無私心。二つ揃ふこと。只仁と云ふときは、理にあたろふか當るまいか私心なしなり。伯夷は當理にはかまわぬ。私心なしでひょいとかけ出す。舜の負て海濱に遁るもそれなり。蒯聵と出公輙はそろばんだらけ。舜はそろばんなし。

謂重次曰、古人は祭田をのけてある。此間の祭の入用も知れてあろふ。あれだけの金は暮にのけて封じて置がよい。それが飢饉の備へにもあるぞ。妻子の寒ひ目をするやふな時も祭はせ子はならぬ。それだけの金子をのけておかぬと妻子の用具を買う銭で祭ることが出来る。さふすると女房や子共のきげんがわるくなる。それだけ感格を妨ける。金銭にもきれいなと云のがある。それをのけたがよい。某前々云、祭礼奉行は小役人や坊主がよい。家老を司とらせると、せわなくなると変革することがあるもの。孔子は一箇の仁の字を説く。孟子口を開けは仁義じゃ。祭は仁なれとも、さし水のして変改するは義のぬけなり。人のくっとも云はぬやふにするが義なり。事がきまらぬとやむものぞ。

祭りに肉を故舊へ送るは、孔子は拜而受とあるが、親切を辞すではない。鬼神のものゆへなり。肉を送るは祭るものの祭るの役目のうちぞ。深切と云ことなら蕎麦切よこすがよい。只そばを送は拜はせぬことなり。重次が祭肉のことについて書てやりた文に、其後重次が礼を云はぬは、あの文を歳暮の礼の屠蘇にしたのじゃ。五峯性のすまぬは、継者善と云ことのすまぬのなり。某が、孔子はあたまを云、孟子は尾を云たと云がよい説ぞ。継善はあたま、成性は尾の処ぞ。尾はすぐにあたまの来たのぞ。

文次曰、文章も書子ばならぬことがある。大学非孔氏遺書と難問の来たとき、假名で返事をしては、女を使にやったやふぞ。
【語釈】
・文次・・・林潛齋。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。

迂斎曰、知覚を仁と云と盗をしてもよいになるが、さきでこまるものがある。合力も心から出ぬはせぬと云へばこまったもの。仁でしても恕でしても、さきの為めになるは同じこと。貧なものにはくれるでよい。

釈氏を兩末の学と云か、釈氏にはも墨もある。惟恭謂、親をすてて雪山へかけ出すは為我、鳩に股肉をくわせるは兼愛。先生曰、然り。
【語釈】
・揚・・・楊。以下にも有り。

節要に蔡季通を身帯のことで訶りた処があるが、あれは季通も数の明な方からこまかであるが、其思通りにゆかぬと云て来たからのこと。数の明からは事の來ぬ前に知れる筈のものじゃ。其中理でおされぬと云こともある。今の下女か、をれが病氣に取付たら居て看病もしやふと云は理なり。それでなしとも、をれが死病にとり付たときは、外からも來て看病するものが必あるとをれは見ておる。それは数でおしたことなり。糞小便の世話をするものが必出来る。不断はこれほどやかましひが、死病になると、おれはよくなるぞ。やかましひはない筈ぞ。衰へは一句も出ぬもの。

をらなどは及ぬ々々と大躰人の云ことじゃが、及ぬ々々と云が謙退から出るは役に立ぬ。知見から及ぬ々々と云てなければ本のことでない。知見から出ると、筭盤ではぢいても知るるから本のことた。これを覚ると皆の一生の受用になることじゃ。

汲黯を黄老の学と云が、陛下内多欲而外施仁義と云た処の、これ程きついことはない。黄老らしくないことじゃが、あれが細にえぐらぬから、武帝も一旦不機嫌でも汲黯が戇なるやと跡では笑た。あれが眞向なものの云ることではない。をらなどは細にえぐるから人がいやがる。大間なことは人が何とも思はぬ。えぐるでなくては人の胸へひびかぬ。

家礼で肉を喰ふよりは寢に復るをさきにした。寢に復るは肴とは違ふ。今夫婦のことを肴よりわるひと思ふは溺れた心からじゃと唐彦明云へり。よい説ぞ。

この頃の講釈はすら々々讀む。治体治法迠は発明をも云たが、政事は塩梅なり。その上にさま々々云はわるいぞ。近思政事講後の話。

柯先生の点のよくない処である。子張のことを過髙(髙きに過ぎる)と点をしたが過髙(髙きに過ぎる)と云点は、曽点にはよいが子張にはわるい。子張には過髙(過ぎて髙し)と点するがよい。なぜと云に、見処の高すぎて高ひではない。出すぎの筈なり。

秀問、孔子の時の異端と云は部立ぬものは見へぬ、何なるや。曰、攻異端是害而已の或問に説あり。老子があのときあれとも、老子と派の立たは五千言が出てからのこと。生涯に老子とみへるなら老子ではない。あのときは異端ともなしともみへぬ。異端とも何ともみへぬ処が老子の老子たる処なり。

眞西山が大学衍義を作りて、あまり外へつくからとて経符註を著し、丘瓊山が衍義補を作りて跡で朱子学的を編だ。皆うめたものなり、と。これは唐彦明が説でかありた。

日月易得。節要會。重次云、日月易失と書さふなものを易得が面白ひ。云、斯ふして居ても日は立つ。先生曰、爰は逆数で云たもの。段々年がよると云は順数、年富むと云は逆数なり。さきから來るなり。

累騎と云は尻馬に乘ること。叔母の処の下女を阮咸が密通した。其家で宿へ下けたれは、人種不可失と云て馬に乘せて皈りた。其時が累騎而皈るとある。

雜説をよいとみると人情を周旋するも。

一轉話と云が文王の心根を知りて云たこと。うそか本んかと云様なもの。一つふりのかわりたことなり。云へば半分ほどひっくりかへす様なもの。まんざらの墨を白とみることではない。女房に、こなたの夫はよい男かわるい男かと云たとも、よい男と思ふておる。そんなら業平かと云に、いやと云。その塩梅に一轉語はすますことじゃ。

雖無私心不合正理者は妄也は、をれを招て汁粉餅をくわせる様なもの。わる心ではないが妄なり。それからみれば姑息の愛も妄なり。道春の文集に、父が縄の縁坐で子をつるして置た。それをそっと母がをろした。後大方になりて、母は姑息じゃ、父は有難ひと云た、と。女のせいが高く見へても、棚へ手を届かせるとき小男に及ぬもの。銀で乾坤の卦を鑄て見ると、坤の匁方は軽ひ。自然なものぞ。

文七問、先生の商量集の會に仰せらるる、異端でも陸象山でもまんざら新ひことはならぬ。皆大学を切り取りにしたもの、と。然れは陸子は誠意の切り取り、呂東萊は格物の切り取りなりや。曰、まあそんなもの。姫路の三九良が不審を云てよこした。奥平幸治良が幸子善の話を聞たに、明道に如何是道と問たれば、父子有親君臣有義と答た。伊川に如何是道と問たれば、行處是道と答た。これを禪機じゃと云た、と。三九良の、それでは伊川をやすくするになろふと云て來た。尤なことじゃが、あそこのたてを知らぬ。あれは記錄するものが禪錄めいて書たものぞ。
【語釈】
・文七・・・高宮文七。東金市押堀の人。
・奥平幸治良・・・奥平棲遅庵。名は定時。幸次郎と称す。江戸の人。神田小川坊に住む。小川先生。忍藩儒臣。致仕して玄甫。嘉永3年(1850)8月9日没。年82。

経済はいやなもの、ならぬものじゃ。若なれば役に立ずと垩賢計りじゃ。聖賢にならぬ内すれば、ちょっとよいことせふとすれば伯者の分内を出ることはならぬ。どふしてもすることが伯者より外のことはできぬ。こちに德のないうちはこれじゃ。そこで大学の明々德にならぬうち、新民はならぬことなり。それで伯者を弁するも事業で云てはわるい。朱子が一念の間と云てある。唐の太宗抔が聖人の政にも合やふな処がある。そこがやっはり利なり、伯心なり。町人の一日に三十両つこふて出入屋鋪の役人を振舞ふ。川市丸が利心なり。そこをしわいやつと見ることじゃ。

恭白大衆、生死事大無常迅速、各冝覚悟、謹勿放逸、喝、と云て一棒を加へる。禪花清規にある禪寺の法度なり。儒者の方にこのいきこみがない。

動靜相勝と云は動と靜が一度に出ぬもの。動が靜に勝つ。昼になれば夜がまける。夜は昼がまける。一つつつ勝てゆく。それでつづく。動のときは動計りなり。静に勝たのぞ。静のときも又やっはりそれなり。それきりかと云に、又動靜々々してゆくなり。

近思錄東萊の後序を講す。今日の講釈を與八、南条氏、古河士。や清十良が律義な心で聞たら乱心と云はふ。呂東萊の跋文で東萊をわるく云た。つまり呂東萊を吟味した様なもの。千歳の後も療治方は知るるもの。朱子の後序に周程張の書を出したとある。こなたは不断汁粉餅計り喰はるる。ちと胸のすくやふにとて生酢會[きすあい]を出したのなり。それなら近思の編集の相手にしたはどふしたことと云に、それにはよかろふ。呂東萊は南条與八なり。子塾の学問を頼んたはどふじゃと云に、それは科挙の為めじゃ。あれには奉公をさせるがよいとの思召なり。それにはよかろふが、をれも多田氏で益を得た。
【語釈】
・多田氏・・・多田蒙齋。名は維則。一名は篤靜。儀八郎と称す。別号は東溪。秋田佐竹氏及び館林松平氏に仕える。京都の人。明和1年(1764)8月26日没。年63。

一貫と云は一も貫も同しこと。後世銭のたとへからついに二つの様に、さしと銭との様になる。よふない。論語の主意は一も貫も一つこと。一なものを貫くなり。

姪が方から、稲葉八藏、土井公臣。倅れ嘉一郎不幸愁傷と云て來た。をれも泣く処たが、そこを存氣に返事をした。兎角御奉公を精出せよと云てやりた。この方も共々に泣くと云てやると先きが尚々痛む。不断でも継子にはよい地合のものを着せると云、いやみはわるい。をれが愁傷したと云てやりたとて何の役に立つ。

少婦嬉々たり。下女や娘の笑ひ声の高ひ内によい内はない。威如之吉と云てきびしいがよい。をらが古河公の舅婦などがそれでありた。進物に來た肴を、これはよい鯛だと云声などて、下女などがびっくりしたことあるぞ。

氣質人欲と云ものは学問で一ちわるいものたが、平人はあれでもちこたへておる。土井公の針医の勝井宗旦がをれが母の積を見て、さてよい御積を持れた、眞氣の氣は尽たが、此積の氣の張りで持こたへておると云た。やはりそのいきで、凡夫に人欲のはりがなくは、たよ々々してたわいがあるまい。天理も知らず、南無阿弥陀仏も云はずは、なをひょんなものであろふ。

医書に麺を喰ふの多きものを戒めてあるが、あまり大さふと思ふたが、あの麺がこくそになるから流行せぬ。鮑貝で物を煮るにうどんの粉で穴をふさぐ。あの饂飩を喰ふて豚や牛の脂があれにひっつくと關になって流行せぬ。事によっては蕎麥より饂飩はならぬと云位でなくては、人の腹合をよく知たではない。

実理をみると云ことが、をら位ではないことかと思へばあるぞ。嘉一良が死に力らを落したが、盆の迎火を見ては何ともない。只十二三の子ともが太皷をたたいてあるくと思ひ出す。

朱子が精義の板の出来たとき賣たれば、南軒が大ふ聞へがわるひと云てやった。朱子の、板行が出来たから賣る。喰ひ物がないゆへとなり。別に生産をこしらへた。ひょんなもので有ふ。をれが茶杓を賣たもそれなり。利の安ひ金をかりて油しほりを始めたら、皆がひょんなことに云はふ。何でも兎角心をつかわぬことをするがよい。

中庸の序の上古の聖神の神の字を神道者がうれしがるは見処のないなり。丁度飛沢町で己が紋所の古着を買ふたと同じこと。どこの馬の骨が着たも知れぬはいやなり。それにうれしがるはあほふなり。神は神でも意が違ふ。兎角神道は儒に合せたが髙見ぞ。

大木誾斎が学問は下卑た口上を云学問なり。望楠軒から仕着せをしてもらひ、手嶋から繻絆をもろふて着ておるぞ。

問、莫見乎隱莫顕乎微、同じ様なことの二た鼻あるは如何。先生曰、上の段に戒愼于其所不睹恐懼乎其不聞と二たはなにあるから爰も二た鼻でなくてはならぬものを、喰ふに舌と喉の様なもの。只それだけの違ひじゃ。道を遠く思ふと違ふ。身から肝の出るが道体なり。

遊佐木斎が鳩巢への問目に、朱子の首章の説を克己復礼で書たは呂氏の脩道而行ふの説に近ひと云てやったれば、鳩巢のさま々々云て、いかさま首章の説は未定で有ふと云た。これは功夫にかけて見ぬ説なり。すは一つ心法を脩すると云日は克己復礼でなくてはなるまい。吾胸へかけて合点してみるがよい。
【語釈】
・遊佐木斎・・・遊佐木齋。名は好生。養順、後に清左衛門、次郎左衛門と称す。号は季齋。仙台藩儒。享保19年(1734)10月17日没。年77。

太極圖説も中庸も同し道体なれとも、中庸の讀にくいと云は、中庸は心法のことゆへ吾に覚がないからなり。知らぬ名所の話されぬ様なもの。未発のことなどをばいくらよい弁でも、たとへてとかく已発に落るもの。口で云にくいものぞ。

太極と云と重ひが筈と云と軽ひ。中庸と云と六ヶ鋪ひが恰好と云と軽くなる。我々が巨燵蒲團を羽二重でと云と大不恰好なり。呉服屋も不恰好を知て炬燵ふとんには大織縞をと云て出す。女房の器量よいと云はよけれとも、あまり不恰好なもの。恰好はなんにもかにもある。終身用之不能尽者矣、手の舞ひ足の踏を知らずと云語勢ぞ。これが眼前のこと。皆中庸とみたことなり。茶人や藝者の上手、皆中庸なり。上手に至ると恰好ゆへ見にくいことはないものなり。

志氣は志とともに働く。血氣は理にはなれて働く氣。

迂斎が大名衆へ講釈に出て、内へ戻ってから下女や兄娵などへ對しても面白ひ話などして聞せられた。兎角機嫌よかりた。ぶつくさしたことのない人。

先代の彦根矦、直方先生のゆかれたときの君なり。あの頃給仕の下女が疂糸の切れたに足を踏込んでころんたと云。矦がこれを疂替すると下の者がいたむと云てみなんだ。御名代で京都へゆかれたに、紙煙屮入れで往来すんだと云。其頃の紙多葉粉入と云のがよく々々髙直で三十二銅くらいでありた筈。

忌服の忌の字はだたい暇なりと云て、ひまで何もせずにおること。服は喪服を着て、やはり勤めをすること。今日本の忌服と云は神社へ参らぬことを云。忌日の忌の字はこちから人を忌むこと。人に應接せぬはなぜなれば、祖禰を思ふの誠にかんをたてまいとのことぞ。

當然の當の字はやっはり道体ぞ。人能弘道、道不弘人の筋にみてはよくない。それでは今掛ることになる。當の字は今こちにある形を語りたこと。性道教の教迠が道体になると同じこと。

大全者が成己の己は内、成物の物は外なれとも、仁知は己が性能なれば内外を合せて一つじゃの説を三宅先生の、大全の説もよけれともせつないと云ひ様なと云れた。大全のは合する処のこと。さふ云に及ぬこと。仁は成己、知は成物。その仁知がどっちも性の德じゃ。成己の仁と成物の知が別で有ふ筈はない。大ぶりに云とき、物と云字が出る。大きく云のなり。

顕諸仁藏諸用。仁はあらわれたこと。やはり用と云たことなり。

洋々乎如在其上如在其左右の如の字は、なくてあるから如しぞ。不誠無物の章句の雖有所為亦如有無矣の如の字は、形は有ても実がないから如しなり。文字は地頭々々。

長藏が凡夫の未発は放心したときを云、と。よい弁ぞ。凡夫には馬鹿と云未発があるから、発したときが埒はない。迂斎の、凡夫の未発は瘧の間日、達者にみへても全体病人じゃ、と。
【語釈】
・長藏・・・鈴木恭節。字は子長。長藏と称す。大網白里町清名幸谷の人。鵜澤近義の第三子。館林藩儒臣。文政13年(1830)11月10日没。年55。

某に從て学ふもの共、もそっと精を出さ子ば狐にひかれて喬麥畠けなり。とほふにくれよふぞ。川かと思ふと、とんだ処へゆくぞ。

黄蘖が母と見てつきたをして迯けた。そこが父子の親の切ても切れぬ処ぞ。母と聞ときっくり胸へひびいたぞ。直方先生の、其夜はあれも泣くで有ふ、泣ぬならよく々々不届者と云はれた。異端の敎はけは々々しひもの。中庸はすなをなり。偏氣から発心もする。は子たことゆへなるは宿入りに奴が振る。張合あるからなり。中庸は張合なしぞ。

芭蕉が、水うてや蝉も雀もぬるるほどと云た。あれらは実境ゆへ聖賢の坐鋪へもひかるる。異端俗学は子た様でも虚なゆへ引れぬ。俗学より團十良や利休がよい。茶に一重洲と云がある。かこひの内へ竹を上から下迠通しに立て、棚をしたものぞ。細川三斎の、其棚へ香筥に茶釜の環をふたつかけて置た。至極よい景色ゆへ、それもたび々々それをした。或茶人がそれを譏りて、環より金槌がよいと云た。程門の中庸、輯畧に載せてあり。は金槌なり。いつも々々々は出されぬ。先日も云た、程門は多葉粉の煙を鼻から出すのぞ。朱子も鼻から出すこともあるが、それは一度ぎりのこと。度々はない。程門はいつも鼻からは、は子たことじゃ。人もやんやと云が、いつも々々々することではない。

仁はゆっくりとしたこと、たっふりとしたこと、意のないこと。悪ひことでなくても、促迫底なことや、斯ふせふああせふとする意あれば仁でない。皆が今話しておるが、やがて皈ろふと思ふ。それが非礼と云ことでもないが、そこで不仁と云たもの。此頃をれがこれを話すに誰もうつらぬ。

直方先生曰、性天道を聞は馬鹿を離れたこと、と。

知好樂の章は樂む迠が知じゃと直方の云れた。知りやふか深ひで好、好むの深ひが樂むになる。

絶糧三段ありて、あほふが絶つ、利口者絶ぬ、其上が孔子なり。

学問は只理々々と云へとも、人情を上客にする処がある。程子の象喜則舜亦喜の処へ人情天理於是乎為至。なぜ人情と云字が先きへ出た。兄弟のことゆへなり。頼朝は理を先きへ出すからむごい。

罌粟[けし]の花が兎角五月幟と一所に出来る。節にあまりかまわぬもの。すべて海の氣を受たものは節にかまわぬ。潮の滿朝抔がそれなり。滿汐はいつも朔日から朔旦十五日なり。十五日じゃ。芥子も海の氣を受たものとみゆ。云、濱風にそよきて芥子の盛哉とか発句もあり。曰、あれらも自然を知た様じゃが、自然は知ずとも自然の中に居ゆへ自然なことを云あてる。

婦人の経候などが血は隂へ地属しさふなものなれとも、あれがやっぱり天の働なり。腮も上は動ず下が動く。これ計りは地が主となって動く様じゃが、あれもやっぱり動かせるのなり。隂陽とっちもいつわりとよむが、むがて小判を出したは、陽引こませるは隂。

親の目に露が降ると云も誠、子を知こと不如親と云も誠、並行面不悖也。溝口公が、学者から云へば熊は家老もすべきものなれとも、家老にしても益もあるまいと云処へ三千石から貰ひに来た。家老衆へ評談のとき、八右ェ門計りよかろふと云た。そこで溝口公のやられた。学知なり。
【語釈】
・八右ェ門・・・佐藤復齋?名は尚志。八右衛門と称す。父は佐藤安澄。新発田藩儒臣。寛政3年(1791)8月3日没。年43。

今日の処は坊主にはわるい処じゃ。されともをれがあたまをかぼふと孝経にわりが入る。そこであたまを差出してよんだ。しかし弁口さわやか、わるこふを云たのるいぞ。爰らも身持へかけると云ひよいが、それでは正意でない。右小学父子之親講後。

享保二酉年十一月廿一日。跡部殿伴正山友部など招て伊勢の御鏡の圖を拜したに、この御鏡が手に入たれば天氣迠うららかなと云た、と。斯ふ云はまりでなくては、神道は心のうららかを知ることゆへならぬことぞ。倂それをこちでけそうには、一向宗の御香なぎの日だからよいと云はふぞ。
【語釈】
・享保二酉年・・・1717年丁酉。
・跡部殿・・・跡部光海。名は良顯。宮内と称す。幕臣。享保14年(1729)1月27日没。年71。淺見絅齋、三宅尚齋にも学ぶ。神道を澀川春海に学ぶ。
・伴正山・・・江戸の人。
・友部・・・伴部安崇。武右衛門と称す。号は八重垣翁。幕臣。元文5年(1740)7月14日没。年74。

神道は禪に夫婦の交りのあるやふで高ひことゆへ、柯先生の仏から儒になり、儒から又神道になりた。其ときは樂な聖賢になりたと云位になられたことなり。今朝烏啼の悪がったは、さてこそ近衞殿の死にやったと云れた、と。

小源太が親が律義なもので有た。をれが文章に周の穆天子が天下に轍跡の至らざることなき様に、傾城屋の二階に足跡至らざることないやふにせふと思ふたが、それがやんで道学になりたが、さて寢るには西の方は迂斎の墓のある方、北は土井公の方、東は石原先生の方、南は母の寺の方ゆへどふも寐ることがならず、三夜立て明かしたれば、次の日大きに瘠せたと書たれば、小源太が親が至ての愨実ゆへ、幾度とりにやってももそっと借せ々々と云てつひ返さぬ。氣の毒がりて燒たものぞ。

折戸の兵右ェ門が迂斎に潔静精微の文義を聞て、これはなんぼ息子でも知るまい、石原で聞てもきまらぬが先生できまりた。髪月代をしたことじゃと、きつく悦で、をれをもさとすほどに云た。鼻つまり声で声高な男でありた。いかさまあれを易の教と受用にすれば大ぶよい。
【語釈】
・折戸の兵右ェ門・・・鈴木兵右衛門。松尾町折戸の人。

自滿をするは却て高ひもの。幸七に公儀の法の様なことを書たものによさそふな書があるから是はよいものと云たれば、どふもうれしくてならぬ皃で、此のと云て二つ鼻を指した。勇者の氣象が斯ふした様なもの。子路などの氣象がこれ、こふしたもの。
【語釈】
・幸七・・・鵜澤近義。幸七郎と称す。鵜澤容齋の次子。大網白里町清名幸谷の人。

徂徠太宰はさらに見へても行ひ者なり。南郭計りが一品な人物と見へた。徂徠程な博識はないが、又あの門下ほど博識でないはない。君子不尽人之観。軽ひことの白ひこと、爰でよくすんだ。小学講後。
【語釈】
・髙・・・面?

儀礼に賔が左に盃を置き、右に盃を置くことあり。右に置くともふ飲まいと云ことなり。そこをもふ一盃と云とき飲ぬ。そこの注に鄭玄この語をのせてあり。

太閤の茶人になりたも面白ひ。あれも叓変じゃ。あのきつひことを仕舞てから茶と出る勢ぞ。町人の大尽が使ひすぎて身上をつぶして俳諧の宗匠鼠衣になると同し事躰じゃ。

○孔子の時には俗語はないが、俗語のやふなことはある。人焉廋哉と云語勢が諺に云よし々々と云たと同じこと。よしと云は俗語ではないが、よし々々と云たは俗語になる。人焉ぞ廋哉は俗語ではないが、重子たをみれば俗語になる。

直方先生の土井矦へ往れたとき、次で料理喰て居た処へ奥與太夫土井公の用人、四十六士のことについて奥氏問目あり。が出て、大炊頭申されます、今夜は夜寒にござりましてと云口才で頭を二つ振って、これは紋付ではござれともまだ着服せぬものゆへ、途中のふせぎに進ぜられますと云たれば、直方の、黒羽二重の羽織を取て着て、ほをこれはあたたかな々々々々々と云て頭を下けて冝くと云れた。躰が大ふ大きく見へたと迂斎の云へり。をらが様な人欲ある心で先づこれはよいものと云意がありては、斯ふ云はづみには出られぬ。先生のは見事なことと思へ。
【語釈】
・土井矦・・・土井利實。大炊頭と称す。肥前唐津藩主。元文1年(1736)11月26日没。年51。後に稲葉迂齋にも学ぶ。
・奥與太夫・・・唐津藩老臣。

集註章句は朱子の大学、太極通書の解は朱子の中庸、節要訓門人者朱子の論孟。

沢一は人の非を責るの心ではなくとも、己が胸にこれはと思ことには不審を云で人がこまりた。迂斎の弟子の潮田何某が講席から皆へゆるりと御咄なされ、汐于に参ると云て立たれば、其手を取て、君子凡有血氣之類身自不践と云語に合ひますかと問た。時田友右ェ門が側から早くござれ、それに埒が付と行れぬと云た。これが又さくい男なり。
【語釈】
・潮田・・・潮田四郎左衛門。唐津藩老臣。

月を見て一盃飲ふと云は、同じ人欲でもこしらへたことはない。陳同甫がのは宮殿樓閣そろへた樂みなり。亭を作りて飲だ。その亭を大風で吹倒したれば、朱子の天公似會事と云れた。幸なこととせられた語意ぞ。

沢一が鳥山半之助殿東都官士、直方門人。に一宿したときに、半之助殿が、直方先生の弟子と云てもはや々々とうかと云て、口ちすさみ云ことのくせな人。不仁哉梁惠王と云ことを度々吟した。沢一がそれを聞て、私は御暇申ますと云って立た。半之助殿が坐頭はなぜ夜中に皈ろふと云るるぞと云たれば、沢一が、人と申すものは凡そは我をよいと思ものにて候。然る処、ああ不仁哉梁惠王々々々々々々と再三仰せらるるは、よく々々御心中に不仁の覚がござるとみへます。然れば今宵失火あっても私を御たすけ下さるまじ。父母の遺体でござるによって、左様な処に中々以て一宿難成。鳥山殿も困り入て、いやはや我身にかへて御たすけ申す。氣つかいなしに一宿あられよとさま々々宥めて漸々止りぬ。この様なことが先きをつめるではないが、吾へ工夫をつっかけることのきびしいゆへのことなり。これじゃによって、をれが沢一は管仲が上へゆくと云ぞ。いかさまそふ云はるるぞ。
【語釈】
・鳥山半之助殿・・・崎門学脈系譜には「鳥井半之助」とある。

寛政元年酉六月十五日話。今年四月三日大雨以後至今日不雨。風雨不時と云ことを昔から大君執政の御政の欠けと云なすが、さふ計りは云はれぬ。今年から旱魃などはそんなあやではなし。此が朱子の文集にある人心虚傲物價沸騰と云ことに落る。秀敢問如何。曰、今百姓町人が何ても彼てもすました顔をして居る。旱魃、ほほをいやなもの、されとも死ぬことでもあるまいとすます。縮緬の羽織は小紋にしてもならぬとの御觸、ほほを嚴ひもの、羽織を仕廻っておけ、又そをもあるまいと高をくくる。皆世上の人が虚傲ですましておる。天の思召に戻れる処じゃ。物の直段のむせふに高ひもそれなり。何でも今年の旱りは下のものの高ぶりから出たことと思へ。京都も江都も大君様方摂政執政方も御若げな、なんにわるいことが有ふぞ。

蹇利西南。右從年之災至人之病、皆用斯語乃無大罪耳。

この書付は六月十五日、惟秀重次云、當年旱損ゆへ百姓共の水いさかいなきため、某等小前へ一人別に水引渡したるゆへ久しく面拜をかき候と申上る。先生曰、これ當然のこと。活溌々地。定めて辛労ならん。重次云、百姓多欲に水を盗むに怒ること多かりき。曰、悪不仁甚者乱也。殊に同役同志抔の手ひとく云ては跡のしまいのつかぬもの。此節は兎や角八ヶ間敷云はず、只當然をつとめるかよい。此卦の心得がよいぞとて、書して秀等にたまふ。

天は理也と云註も聞へた。天の尊ひは理の尊なり。氣迠を有難がることはない。雷や大風のとき恐れ入るも入らぬもの。大風洪水旱魃はちとたしなまっしゃれと声を掛てもよい。今年抔は結句人の方から化育を賛へ方が多ひ。天から礼を云はれてよい。

謝上蔡が胸中に滞るが悪るひと見込んだ。それが病になったぞ。どふしたことなれば、史書の成文のとき汗流淬脊。爰の一念の処から学問の仕上けをした故ぞ。そこで過者化すは忘れて仕舞ふこと。胸中一物ないゆへ跡が神になるとみたなり。この取違へが上蔡の病根なり。胸中一物ないがよい々々と云ながら、此説を不断もちたぞ。どの様なよいことでも胸にたくわへておると皆病ぞ。

彦八殿の直方先生に似た氣象のあるは、火災後にゆきたれば、とほふもない物に香の物を入れて置た。某に云、深厭煩隣里忍窮禁賖貸。こりゃこれ山谷が詩じゃ。

○興津太兵衛が、聖賢のことが此方底にどふなるものぞ、好色のことでも金銀のことでも、臆病と羪生でするより外ないと云た。よい説ぞ。たしなみでゆくことではない。

無信即不立と云は、譬ばそこに紙の袋が四つあるとき、から物では立ぬ。米を一盃づつ入れるで立つ。そこで紙の袋をとりて一々見たれば一袋は仁、又一袋は義、次の一袋は礼、その次の一袋は智なり。立ておる処は信なり。

直方先生の長崎へゆかるるとき、人馬が間違って六つ半の筈が五つ過きに成た。外ののなら待ふが、先生なんとも思はぬ。見送りに出た弟子衆とゆるりと学談をして居られた。大かたの者が駕に硯筥をば入るるが、何んにもなかった。石原の先生が御硯筥はと云たれば、なんに入ろふと云た、と。
【語釈】
・み・・・も?

東海寺和尚が迂斎と石原の先生が永井先生の墓参にゆきたとき出て、十左七右よふござった、三右ェ門がこと思ふて來たさふな、竒特なことじゃ、世間の儒者とは違ふと軽ひことでありた。石原先生がちっとしかける心で話の次手にとやかく申す内にはや死にますと云たれば、和尚が、いやそんなこと云はずに遠方じゃ、昼飯でもして皈らしゃれ、と。

鈎距の術と云が漢の趙廣がしたこと。顔師古が註に買馬者先問狗の價と云てあり。其叓とさして問はずにきっと其実を知ることなり。

神代巻に遘合のことをみとのまくばひと訓つけてあり。幸田の説に身と身との間ぐあいよしと云ことじゃ。

十一月の十日はをらが祖禰共の忌日じゃ。思へば近年雪抔も遲ひ。をれが十三のとき、迂斎が麻布の本家へ祭を助けにゆくに、前夜にをれがゆかでかなわぬと子だりた。暁七つに支度してゆきたが、そのとき大雪で有た。先君が達てやめろと云たに、こしゃくを云て祭叓を観んと云た。虎門迠往たれば、雪にむせて既にこける処で有た。それからは迂斎の僕に負して麻布にゆきたり。久しひことじゃ。

慮は心が道理なりにまわってくるで、ちっともそさふのないこと。そこが處事精詳なり。上手の射手が輪滿の処できっとひかへておるに、放さぬうちにもふ中る勢がみへておる。能得と云底が早みへておる。所當立之地。場と云ことをきも直さずよいことぞ。

唯一と云ことに三様あり。吾家天兒屋根之苗裔而独主神事、唯一家而已。吉田家説。天人惟一。柯先生。世之所得者對両部之唯一。
【語釈】
・天兒屋根・・・あまのこやね(のみこと)。日本神話で、興台産霊の子。天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神の出現を祈り、のち、天孫に従ってくだった五部神の一で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀をつかさどったという。中臣・藤原氏の祖神とする。

天理毎形於憂患之際。喜瀬川。人欲生易主乎安寧之地。腰越。

設樂勘左ェ門東都官士、迂斎居亭の地主なり。韞藏錄を集るとき、よく世話をした人なり。平生は質素ずりと云人て有たが、道理のことにはづみがありて、じきに紙など調へて世話されたなり。をれが生れた屋鋪なり。
【語釈】
・設樂勘左ェ門・・・設樂兵蔵。名は初め精賢、後に精義。鳥井半之助の弟。稲葉迂齋にも学ぶ。稲葉迂齋の地主。

霍光が昌邑王を立るとき、擇はずに立たはよくない。委寄を受ずにしたことゆへ廃したきりでこらしめの仁置をせぬはわるい。己が国を豫しておるに嫌をさけたもの。そこが仕にくかったとみへた。伊尹の桐に放ちたは仕置の為めじゃ。そこで放廃もこらしめもなるなり。

自反而忠矣、其横逆由是也、此亦妄人也己矣。孟子は妄人と云た。顔子の犯而不校は顔子だけ違ふ。薛文靖が千鐘の鐘を艾の葉で打と云た。顔子は一向に心にかけぬ。自反の吟味は入らぬ。これは高ひことで手本にはならぬ。平人から学者まで自反の吟味がよい。

中庸三十二章の講後に曰、三十一章は聖人を睿知で云。人を語るに睿知と云は理なり。此章は至誠を聖知と云て語る。聖知と云は人で云たもの。たがいちかひにしたもの。前章は菩提なりと云た様なもの。此章は菩薩と云た様なもの。菩薩は有情の覚、菩提は非情之覚。菩薩、をれがこの仏語を一つ覚へておるもおかしい。

重次良どの御用ひかと云は丁寧ないやみなり。酒をば呑ぬ々々と云て置てよくかりしたなど、はっさりと云てのけるがよい。

徂徠が政談のまつ初めに天下戸籍が大事じゃと云た、と。熊沢が、金幤が出来てからはどふも古に復されぬと云たはよい云やふなり。

史記に左右欲兵之。めったなことを書たと思ことではない。聖人はこっちも尤あっちも尤と二た道はない。紂王を伐つからは、其邪魔をするものは伯夷叔斎でも伐て捨ることじゃ。それがさふなくは、放伐はせぬがよい。太公が扶而去之は伯夷十分の首尾なり。

伯夷を命なりと云たは、あれ程の知ても放伐のなる迠になられぬ。そこが命なりじゃ。武王には放伐を云ひ付たが、伯夷には天から云ひ付ぬ。

今の学者は丸ひがすきじゃから一向知見がない。丸ひがすきとは云へ、丸ひのよい処の覚もない。又四角がよいと云見識もない。そこで替ったもので、そふした目ゆへ明道伊川を一つに見ることがならぬ。孔子は丸く孟子は八十迠圭角。されともこれが一つに落る。又老子は丸く、それからみれば莊子は四角なり。どふでも向きへ聞こませる様に折角に云ふとき、四角なものぞ。荘子が老子の道を折角に云たから自つと四角になりた。孔子の詞をあの戰国の聾共に聞込せるとて、思はず知らす疂をたたき立て云た。そこが圭角なり。すべて親切を云とき角はあるぞ。

問、聽の箴に聽から起ての害は云てなし。如何。曰、それは視聽の字などを俗に心えておるから、そふした不審を云ぞ。知誘物化などは聽くのことじゃ。視は目の毒と云うちに聽のこともあるぞ。

先生一日雜記を書生によませ、室先生の圖述を論じた文の処で曰、詞の慇勤なは心のいやみなり。この文をおれがをとなしく書たは、鳩巣の文のをとなしひて、ついこちもまじ目に書た。一生にない巻き舌をした。若ひときの仰山に人をわるく云た方がよい。おとなしく云と語意がいやみになる。

観天地生物之心。みよと云点なれば人に示す詞。みると云へば吾みること。されともとちしても見たは同じこと。吾見ずに人に見よとは云はれぬぞ。

文次云、誓ひと云ことは可笑ひことなり。鳩巢など以上になりては尤なことなり。柯先生が、風水草は学問が上ったら見よと云はれた。なぜなれば、あれを見ると不信向になるほどのこと。おらなども神道の奥義のことかと思ふたか、そふではない。学問が上ると信向があつくなる。そのときは見てもよいと云ことなり。下御靈にこめて有たを春原民部梨木祐之なり。
【語釈】
・春原民部・・・出雲路民部。姓は春原、板垣氏。名は信直。号は八鹽道翁。京都下御霊祠官。元禄16年(1703)3月20日没。年54。
・梨木祐之・・・梨木(鴨)桂齋。名は祐之。民部と称す。京都下加茂祠官。懸主。享保9年(1724)1月29日没。年65。

必有事に取やふが二つある。集義をしことにしたと云を敬と云た計りではない。程子は有事の上に二つあり。鳶飛魚躍は必有事なり。天地間のこと皆必有事ぞ。こちが敬をすれば必有事と云計りではない。こちが必有事の敬をすれば、天地の方のことがこちのありものになる。輯畧に活溌々地、大学のは人の方、細字のは道体ぞ。一氣頓不生一形頓不虧。五十年夢と云ても急に翌日にもならぬ。白髪が一日には生へぬ。必有事なり。

必有事焉が半句の上ですむことがある。茶をたてんとして柄杓をもちて云。この柄杓はこふもてと云。それきりのことぞ。さざいからの様な手つきに握ると握り拳になる。助長ぞ。柄杓落すは忘るるなり。だたい必有事の一句ですむ。跡のは其病を云たぞ。うつらぬ者へ説ひて聞せたやふなものぞ。

語類に慮是斫幾とある。幾を審とは云ぬ。それより上は手なこと。中庸は後ろから訶らるる様で、どふも読れぬ。

秀問、天命性と費隱のふりの変ると云ことは如何。曰、天命性の処は鯛と云様なもの。昨日の客には鯛のありなりで料理を出した。下の十章もやはり其鯛を吸物にしたり二の汁にしたりした。つまり皆鯛にみへておる。費隱からは其鯛をかまぼこにしたもの。其以下の八章は皆釜ぼこ料理ぞ。首章と費隱が其位のふりの変りぞ。廿章以下は誠とふりをかへた。これからさきは皆誠と云ことで通る。幸子善の、天命性は狐のやふなもの、其以下中庸中が狐の娵とりや何やかや狐の狂言なり、仕舞に誠と云た処が狐を縛って出した処じゃと云はれた。

張良が先祖が五代韓に相たりで、張良があれ程のことをした。張良はまた祿は得ず、それからみれば某抔も土井矦における耻ることありじゃ。然しをれには事がないゆへでもある。謂文次与秀曰、皆の学問にちとのりのついたも韞藏錄を見たゆへじゃ。幸子善の、黙斎入らぬことすると云様に云ひやったが、今思へばあの書は人を為す書じゃ。その代り、めったなものには見せられぬ。頑なものはわるくも云。めったにはうつらぬ書じゃ。こなた衆のはあれが為めになりた。其外には重次がかけがある。あれが胸をたたいて、爰に覚があると云た様ないきこみが人をはげます。それを大底な者は茶と思ふ。倂し文字のないで後に倦むことが有ふ。

誠自成也而道自道。どふでもこちの身からしての工夫がいる。下の自と云点にはならぬ。誠自成、道体。道自道、為学。こふ筋を付ると、あの章が読よいぞ。云、章句の本也用也のさばきか、この御説では手もなくとりよいやふなり。曰、然り。天命性は道体、率性の道は為学。大学で云へは三綱領は道体、格物致知は為学。

孟子の浩然の章に集義々と云が、やっはり克己のことで功夫じゃぞ。義与道配すの段に成ては天下皈仁のことぞ。

立志と立心とは違ふ。立志は、何分んいつぞ京都へは往ふと云。立心は、今旅立つ。今日聞たことを晩からすることぞ。

君子素其位而行不願乎其外。寛政元年戌三月朔旦、此節屋普請なり。をれも中庸をば皆よんで仕舞ひたひと云は天理のやふじゃが、待つことありぞ。屋根屋が埃だらけ中へ立て見ておるが、不願乎其外じゃ。飛鳥山へ支度してゆかずとも、庭の花をみることじゃ。需于酒食。またぬのまつなり。うまいもの喰ておるからまつことはない。いつ迠もここに居るでよいと云。君子居易俟命。

姦夫と云ものは、あの人でなくてはと云人にできること。御慶申入ますで密夫にはならぬ。

費隱の小者の三章の跡へ鬼神を出さ子ば中庸がくさびのない書になる。あれが前後三章のしまりをする。

某先年舅氏三左ェ門、迂斎先生の門人。へゆきたとき、肴が三切れやいて有た。三左ェ門が、昼じゃ、飯よ々々と云たが、をれが喰わぬ。をれが昼食したらこの肴が下女へまわるまいと思ふて、へった腹をこらへて喰はなんだ。これがいやみの様じゃが、もふそふ氣が付ては喰れぬ。おいらがには新七買餅餘分んが有てよいなと云てつっ喰ふ様には出られぬ。

聖賢の政と云は前廣なもの。中庸の九経、身に切り込むことの前置が長々と云てある。大和めぐりか、灸をすへる身が不達者で旅はならぬ。伯者は灸をすへずに旅をする。足にふみぬきが有て七在所をするぞ。

曰、昨日は肴忝ひ、そちから來た切肉の上に東士川から又平目が來た。この節新右ェ門が、清名幸治村の人。普請の世話するから東士川のをばが礼にやりた。よく々々考て見ればいやみなことじゃ。新右ェ門が病氣のとき丸藥もやらずに肴やったが何も悪ひことではないが、心術の吟味は爰らをいやみとつめることじゃ。云、世話にあふときは礼をやる、ならぬときはやらぬ。どちも當なるべし。曰、さふでもあれとも、よく考てみよ。世話になるとやりたくなると云がいやみぞ。酒を振舞れたれば、庭の杜若も普請も孫女の容儀も誉たくなる。凡夫魂じゃ。

謝肇制。五雜俎の作者。

京都で仕丁が二人通る路に女中が居てすくらをかった。こなたは杜鵑聞たかと云た。一人の仕丁が、をらが様なものは聞ぬと云た。一人は岩倉で聞たと云た。そこで彼の女中が、岩倉で聞たと云よりは、心なき身は聞ぬと云た方がにくいと云た、と。いらざることぞ。風雅ではない。好色ぞ。これなどは男女の別に引てよむべきことぞ。右家礼居家雜義講後話。

陳同甫が朱子へ、當時出てなぜ仕へぬ、出て用ひられよと度々すすめた。朱子の荅に、某間界之学門出られぬと云れた。をれが又学問は無用の長物と云ぞ。よく考てみよ。学者は、髙祖や大宗をばわるいと云てはないが文王はよいと云が、それでは當時へ合ふまい。すれば出られぬ。孟子もあの知惠で出て働ふならば、蘓秦張儀から上はまへをとる程のことをせふぞ。そこで出す、萬章か徒と詩書を叙たが孟子の孟子たる処じゃ。

今俗儒が日本にも喪を長くしたいの、服を製したらよかろふのと云。俗見じゃ。それより孫甥や何か身近ひものに忌服のないをあらせたいもの。服があれは不断も自らたしなむもの。右家礼講後、以下同。

二禮童覽。藤井蘭斎之作。

家礼に棺板の厚寸法なきは如何。孟子に棺七寸とあれば、あれを本とにしてなりたけ厚くすべし。周尺をこしらへ、あれにて古のことをつもるべし。譬ば古七寸とあれば七寸でさへあるものをと心付るは、それにつけて厚くなるなり。さて心喪の日数、人に話さぬがよし。これ心喪の心喪たる処なり。されとも学友に話しをけば、友に對してもあつくなることもあり。これ第二段の人の定規なり。

家礼に棺なし。されとも家礼のしかけ椁より六ヶし。依て棺を一と通り板にてさし、椁を厚板にて作り、松脂をかけて葬地へ先へやること良法なり。形を調ふこと第一の要領なり。家礼は本棺にて長きゆへ、死した形りにてよし。半臥棺や瓶にては、形を調ふのこと第一のことなり。棺なれば半臥棺でも坐棺でも形を調たなりにし、ゆっくりと入る様に造るなり。さて形の調ふこと、孝子の篤き心からは死者を屈ること忍びさるやふに覚ふべけれとも、古礼に綴足と云ことあり。これにて見よ。忍ばれぬことに非す。このこと續通解に出つ。目錄にて見るべし。礼記檀弓にもあり。

夫の從兄弟の妻に服なく、夫の從兄弟の子の妻に服あること不審なり。更可考。

嫁母出母の喪あること、聖人天下の変を尽されたもの。喪服あるによりて再嫁のあることも知るべし。さればとて、再嫁は聖人もゆるさるると異な処を主張するはをかしきなり。汪清時の書の伊川餓死事極小を一言の幤と評す。これは入らざる評なり。火消屋敷があればとて、火事も折々出す筈と思ふはあしし。火事はとんと出さぬことにきめて、有たときには火消の出すことなり。このこと惣体に掛けて合点あるべきことなり。

家礼を読ものは不作佛事の取扱ひ塩梅あるべし。今日佛事を礼するは官を敬するなり。旦那寺立て置るる故、背かぬことなり。背か子ば背ぬ程、佛事をなさぬことなり。皮毛外とふで有ふとよいとは、そこのことなり。

先輩より深衣幷に喪服のこと丁寧に読るるゆへ、迂斎の時分にも雛形あり圖あり、甚見よし。家礼本書吟味のときは重宝なり。これを無用なことと思へは礼の精彩なし。又それを礼の至極と思へば今日の用に遠し。この間の用捨肝要なり。

當時三礼義疏と云ものあるゆへ格別古礼も注疏よりよくすみ、至極の吟味につまりたるよし。夫より圖も澤山になりては又競馬香を見る様にて可笑からん。さふないのは太極隂陽の道体者、礼書をば朝鮮の地割をみるやふに心得る。一つは虚文、一つは空理、皆見識なきに落て受用にならず。朱子の張南軒の祭の記に、南軒出られてより事と理が一つに落たと云筋にほめられたは、さて々々わけあることなり。吾党この訳を知たるもの稀れなり。家礼棺板以下七条家礼抄畧講話、先生口授使秀錄也。

曰、來會からは近思錄じゃ。をれが読むには樂じゃ。さて又道樂な息子や世味経歴のものでも出て聞にはよい。家礼や小学はその様なものの耳に當る叓が多ひからいやで有ふが、道体は身にかからぬことと思ふゆへ聞よかろふぞ。

朱子の愛清隂之処と云はれた。あまりてら々々として庭のやわいたをみるは心よくないもの。そのことを目受て心悪之と云たで、をらなどが幼年から打晴れた処はすきじゃが、風がきらいじゃ。雨のときは大ぶ心よい。以下寛政二年戌六月六日より近思錄の講始。

伊川の嶋から皈られたを見れば白髪が黒くなりたとあり、吾党で訂斎など晩年髪が黒みたとある。白髪が黒く変したてはない。白髪がぬけて只黒ひ毛の残るで有ふ。それと云も重次が様な兀天窓ではならぬ。つまり精氣のつよみなり。をらなども此頃髪を立たが、髪をすくたび白髪のぬけるが多ひ。これで伊川のことが済できた。當年先生歳五十九。

をれに進物をするに悦んで皆がするが、されとも此頃重次・与五右ェ門・傳左三人して小袖をくれた様に云ひ合せてしたことはよくない。発言したものは同じ割に金子を出しても、どうでもいきるもの。中にはそふないのがある。そこがつめたい処なり。笑曰、三四人で伊丹一樽よこしたを飲んでみると、どふでもほっこりした処とつめたい処とがある様で心持がいやぞ。
【語釈】
・傳左・・・中田傳左衛門。東金市堀上の人。

まつりことと云訓は、祭と事とを合せた訓なり。祭を大切にする心で政をするならばよい筈じゃ。記少差。

上總の筆記学問上らぬが尤なり。講釈をしたいと云陋習があるから筆記をばするが、前々迂斎へ出たものにも話錄はない。をらなど文字さへすんだら講釈はなろふことと筆記はさっとしたが、学話や石原学談は一と切れで千両道具と云処はのがさぬ。そこで韞藏錄抔もできた。廿人前の道具にも安ひがある。茶碗一つで百両がある。そこを知ることがならぬ。

詅癡符。顔氏家訓。

聖人は物を替へものにせぬ。寢て居て読はよまぬには益しで有そふなものと云に、それはせぬ。

傷易則誕。德利の底に穴があると酒がぬける。うその穴から誠がぬける。

栗を取りて出て占ふと云を、おれが卜の学ですました。亀卜のことなり。栗を投ると雨暘燠寒もやふがみへてくる。手短なことなり。我國太占[ふとたま]の傳と云が手短なことなり。このいきなことなり。

直方先生、西の銘の筆記四編韞藏錄に載てあるも甚の髙妙なことなし。大抵な学者が十人に九人迠は疑ふで有ふ。疑ふに頓着はないが、わるくしたらば心得違してわるくなる者も有ふ。直方の西の銘を聞て孝行なる様ではをそひ知惠だ。西銘聞ては今迠の親が次に成たと云程になれば、却て合点したのじゃ。これが第一人の疑をなすこと。又、博奕打ふが傾城狂ひせふが、それに頓着する筋のことではないと云てあり。これらは第一人の間違ひになることなり。其間違ひになると云程なが云ひ上手なり。聞下手にきかされぬこと。四十六士論にもやる筈の賂をやらぬからはと書た。これ以眞顔には受られぬ。夫れで古人も有為と云ことのあるを合点すべし。とき々々を云ひぬくからはさふしたこと。それについて話がある。利休の孫の宗旦は利休まさりの名人なり。初めの炭は悪ひ程よいと云た。これは不功者な茶人が炭に見へをして、火のをこらぬことがある。悪くとも火のをこるがよいから云たこと。これ論ずるに足らぬことなれとも、藝者でも名人のすることはこの様な飛ぬけたことがある。今の役に立ぬ儒者ともが直方先生を疑ふは、地位の及ぬのぞ。そこで細字に地位と云字がある。大切なことぞ。つまり是れ以上のことはめたに合点ゆかぬとしるがよし。

西銘を読もの故事をそこ々々にするはあしし。故事をとっくりと吟味しつめ子ば西銘が済にくい。山崎先生文會に故事を並へたること尤なことなり。但し待烹のこと出史書と計りありて、何か知れぬ。外の例ならば其史書の語を引く筈なり。出史書と云て何の書とも云ぬは、史書に有ふと云ことなるべし。顚連の文字も論吾と易を合せて斯ふで有ふかと云れた。尤で有ふが、天地間の書廣ひことゆへ、顚連と云字の出処も有ふが知れぬ。あれと定め難し。其證拠は、長谷川観水松平伊豆侯臣、俗稱源右ェ門。の知られたことに朱子の知らぬことがあると云。このこと迂斎節要筆記に見へたり。去るに依てとき付られぬ。偖文章の上で論しても、當時の俗語用ひたることはあるべし。雅字を二つ一つにしたことはなし。二つとは易と論語のことなり。
【語釈】
・長谷川観水・・・長谷川克明。初めの名は遂明。号は觀水。源右衛門と称す。松平伊豆守信輝の臣。

周公旦の爻の辞を掛るも俗語らしきことあり。これ、あのときの俗語とみべし。論語孟子にも俗語あり。徂徠太宰が類一代程朱を譏るにひまなさに、こんなことは考へぬ。

語類に申生がこと吟味もちらとあり。いかさま先輩の説の通り、曽点が曽子を打つ時分に大杖は迯るがよいと孔子もをっしゃったからは申生も迯る方がよかろふが、西銘ではそれ迠論をすることでなく、あの形りをとった物を吟味しつめる段になれば、孟子も夫謂非其有而取之者盗なり、充類至義之尽也と云た。あまり吟味をつめると、呉の季札も国を讓りて跡が乱になりたから不調法になり、伯夷叔斎も親は乱命になる。それじゃに讓りたは、讓たが不調法と云論もかかるまいものでもない。然ればこんなことはよい加減に論ずるがよい。死なずと済む道のあるに、あれを死ふとする。さら々々うや々々しいと、恭の字にきっとあたったこと。申生が身分のつまりたより、やはり恭の字で西銘へ取てはよい。朝聞道の註、死生亦大也、死ぬ方へずら々々とすり足でゆくと云は申生は兎も角も、学者の上で大きなことなりとはどふなれば、靖献遺言風のことではなくて、從容就義のことじゃゆへなり。

亀山のこと、小書に出てあるは第一書なり。第二書と云が有て、揚亀山言体而不及用のことも合点されたれとも、それでも又すっはりとないそふで、伊川の未釈然と云た。この未釈然のことを山崎先生が評判し、揚亀山が、学者ともが最早疑ふものも有りますま井と云たで未釈然じゃと、柯先生が亀山の病を出して見せられた。これが只の者の評でなし。これが済んだらは、細字の体すると云字がすむべし。其後は合点されて本のものになられた。委細は朱子の後論にあり。
【語釈】
・揚・・・楊。下にも有り。

向き講釈のときも少し云ったが、游定夫が西の銘を中庸之理也と云た手柄よりは、同じものても渙然不逆於心と云たが格式の重ひことになる。中庸之理也と云ても孔子の密符也と云ても同じこと。なせなれば、それが訂頑と云はずと西銘と替へろと云はれたでみへる。以上六条、近思西銘講後話。

○東銘は戲言戲動過言過動をかりて云ったこととみることぞ。戲言戲動でおこしたもの。これで計り云と、やすい学者にも氣質により戲言戲動のないものがある。それで、をれには東銘の戒入らぬことと思は本より筭用違ひぞ。その上跡のことで戒になる。只の者の戲言戲動のないはあてにならぬことじゃ。心術が大事ぞと長傲且遂非でとめたもの。不耻下問と云へはそれはよいことと通すが、それにも心術の吟味が入る。なせなれば、下問も何とも思ぬ心術なものがある。それは却て髙ぶりの至極なり。松敬が不断自滿ずきじゃが、あのことは忰には及ぬと云た。やはり自滿の部じゃ。下問もそれじゃ。下問にとらぬを髙ひことにする。德十良が処の味噌をやめて、此節大で買て喰ふ。さてむまくない。なぜやめたと云に、あれが処でをれがやる味噌の代をあれが処でついむだつかいにして仕舞ふと、あの味噌只おれが取ったになる。文次曰、味噌を煮て置たらば如何。曰、煮て淸兵衛先生僑居の地主。の処へ置ばおかるるが、それでは清兵ェと中たがひしたとき躰がわるい。をれも江戸から來て後、草履を一足持てたしなんでよくすっと鶉立じゃ。どこへかすっとゆくぞ。今日の話は軽ひことじゃが、條理分派と云は斯ふわかるでなくてはならぬぞ。云、味噌は皆かく上たと云ても何程のこともなし。曰、いや々々茶や味噌は人から貰はぬもの。扶持人に成た様でわるひ。講釈するにも扶持は有てするからていがよい。諸生に喰はせらるるために講釈すると云様ではきたないことじゃ。下た乎にまわる。
【語釈】
・綱・・・網。
・淸兵衛・・・大原清甫。大網白里町清名幸谷の人

今の学者は公家衆の処に奉公しておる様なもの。歌のことも聞がしりて居る。哥心はなひ。聖賢の看板を着てにらしゃら歩行けとも、やっはり仲間じゃ。吾を忘れて人欲などはあるまいかと思ふ。浅見先生の所謂筭用違ひなり。

須寄寓有一箇形象。近思錄存養部。これはよくないは知れたが、これにも面白ひことがある。飯綱つかいのくわしんが鳴子瓜を盗んで喰たに、番人に縛られた。そこで鬼の氣に成て番人を睨めたれば、番人が恐れて迯げた。これはをれが顔が鬼に見へたそふなと、それから飯綱使ひになりた。この心から仕出したらならなられそふなものと思ふて不断心掛けたが、どふでもゆかなんだに、或時又鬼の心になりて下女を不圖呼ひたれば、下女があっと云て倒れた。それからは手に入て飯綱ができた。聖賢にも是非なろふと云心のものは後に自然と風菜がちがふ筈ぞ。無理なことさへなることがある。

立己と云には大間なことがわるい。聖人を学ふと云とまぎらかしが出来る。明道希久とは覚悟のよい処。行藏が信古堂を立たがなまけなり。周程張朱にも亦の字をつけた。その跡のものは間違ひになる。をらは倍臣じゃが、今の朱子学するものは皆御直参の氣が有ふが心元ない。をらはやっはり直方浅見諸先輩を眞似ておるぞ。講釈もあの衆の弁でするきりのことじゃ。

勝手へ誰か野菜をもてきてくれた。大方を坐の者で有ふ。礼を云はれたいでないゆへ披露せぬ。それは深切なことじゃ。をれが処へ進物をするが仁めいたことじゃ。此間土用見舞が済だからよいとは云はぬ。寒見舞にも何もよこさぬこともある。ありさへすれば幾度も持てくる故、数而合せはせぬ。こんなことで仁を合点せふこと。子供を愛するもそれなり。今日一日一度頬を撫た、もふよいと云はぬ。くる度び孫をだく。数で合せることに仁はない。そこを知ておるから、老子は礼者忠信之薄と出るぞ。

知誘物化。浅見の点は、知はこちの知、物化すは這入ったものが一つになりたこと。柯先生の点は、知はこちにもありて、物化すは向の物に化せらるること。

小市や行藏が、人にさへ逢へば兎角議論をした。一生鎗を出して人につっかかった。あふ云いきつまったことでは月のさへた夜に酒を呑ながら、ああ道学はうまいものと云を省悟することはならぬ。胸のすいた処に覚の出来ぬうち、点に與すの氣象のすむと云ことはない。
【読み】
・小市・・・宇井黙齋。初めの姓は丸子。名は弘篤。字は信卿。小一郎と称す。肥前唐津の人。天明1年(1781)11月22日、京都にて没。年57。

致知を久しくするも存羪克己を久しくするも、存養貫二者也。

栄次が今朝早く來て大学の序を読たか、究理正心の読様がよくなかった。大学の序で先にある八条目の字を出してはかしましひから、格物を究理とかへ、正心は誠意も正心もこめたもの。これが理の字と心の字をはり合せたもの。妙な文法なり。

坐頭は目は見へぬが、爰は堀、爰は川と、目あきほどにも知る。それと云も音で聞杖で撫る。それは格物の様なもの。それから考と云ことも出る。王陽明は只良知々々と云も済ず。その證拠には、馬が路に居たと目あきから告ると忝ひと云ぞ。入らざること。捨ておけ。支離破碎なとは云はぬぞ。

見送と云は、宋の奧宗が冠莱公を崇敬せられて、退出のとき見送りたことあり。それを見て或人が讒言した。陛下知博乎。銭輸將尽、取其餘尽出之、謂之孤注。陛下冠準之派注也。尚何を念える。さほど忠臣ではないと云た。あの方の者は讒言までが上手ぞ。

靜に點檢すれば、侈りと見へずほこりがある。そこで吟味すること。馬鹿と云へぬ馬鹿がある。考其帰則同じこと。

孔明が学問もせぬが出師表に論安言計動引聖人と書た。まぎらかし井やぶりたもの。よい学問なり。

今讀だ処で、近思錄出処の初条以下の上九まで。君臣は祿が主じゃと云たは、世説で女は好色の爲めと云たと同じこと。これは、男は道理をば知たが女にそれはない、只好色の為と云たこと。これがやはり天理なりなこと。それを惑溺の部に入れたは目のないこと。惣体あの世説が部立がわるい。田和禾將軍の子を行に載せたなども快活にない編集じゃ。
【語釈】
・疂・・・蠱

孟子所謂集義、只是一箇是字、孔子所謂思無邪、只是一箇正字。不是便非、不正便邪。聖賢教人只是求箇是底道理。只是と云は手もなくと云弁ぞ。孟子にも論語にもかまわず、これらは皆のよい受用と思へ。

郢書燕説。ものまちがひなことを云。郢の国で右筆に仰せ書をさせたに、蠟燭がくらくなりたから明を挙けよと云たれば、右筆がさふ書た。燕でそれがすめなんだ。其筈のことじゃ。色々評義して、これはどふしても国の賢者を用ひよと云ことならんと云た。そのことぞ。

八月十一日課會押堀文二不到。先生曰、今日は母の小祥忌なるべし。法事抔も御取越がよい。忌日の外でするは浮屠をさけて祭ると云計りてもなく、おれが斯ふして居て聞に、この国の法事は袴着振舞の様じゃ。あれでは祭主の誠のてることはならぬ。

松太郎が五錄の筆記を見たが、年少には珍しひ。どこへ出してもよい。倂し講釈にはもそっと出したいもの。秀云、詩文章の学には少年で器用なもあるもの。道理学に器用なは少ひもの。をしひことにはあれが家が冨豪だけ故障が多ひ。弟に身帶やる氣で学問すればよい。曰、それはよほどのこと。めったにはない。松はわるくするとすてるから、こちからもよ程世話をせ子はならぬ。今一両年来ればよいが。

論語徴に学而の首章に色々朱子をわるく云てあり。手前が弟子のふへるがすきゆへ説ぶ樂むと註したと朱子を譏りた。云、あまりとほふもないことゆへ、人の惑ひにもなるまじ。乾の卦の德で文言にも遯世而不見是而無悶と云に、弟子とりがすきとはあまりなこと。曰、然り。それで太宰が、おらが先生も朱子のことを隅から隅迠つぢつま揃へて残らず譏るはわるい、堺町の役者の声色も皆ま子ると、脇からあふではないと云。よく似る処を一つ二つ云がよいと宇佐美惠助弥右ェ門が云た。これは姦巧なことじゃが、師匠のことを弟子の云ただけ徴の云過がしかとしれるぞ。

○王祥自王祥、魚自魚。二つものでよい。別々なものなれとも、誠中より來る。伊川は魚の方には働きかなくて、只こちの誠と云。それでは魚の方、感はないになる。自々と云字ではなすことしゃが、物の感通と云は二つでなくてはならぬ。朱子思召は、魚の方は魚の誠、王祥が方は王詳の誠と云ことなり。別々に云た様なれとも、感応の理はこふしたもの。程子は内感計り云て外感をとらず。

密夫をする女が吾夫とを麁末にて密夫をば大切にする。わるいことからわるい方へ出た理なり。人間に外の者ははいから、理より外出すものはない。これが出し処の違ふたのなり。よい処へ出すと列女なり。爰らも悪亦不可不謂性が知るる。

以母之故は、壽昌が母に孝行ゆへ、王荆公が下た役に不孝者ありてそ子まれたこと。母故とは同役につかれたことなり。それは云に及はず、母の方へ近ひ処で役付ひたとよむがよい。

語類九十八、十七反。朱子曰、推親親之恩以示無我之公、因事親之誠以明事天之實。これは西銘一篇の統体を包括すとあり、伯竒や申生生た孝道が尽たと云て取るではない。天に事るがああある筈と形容したもの。天の方には正不正はない。人の方には人欲で正不正がある。天に事るには伯竒や申生が心を理へ推すと云こと。

西銘本是不説孝。只是説事天。因事親以事天耳。

筑前の敬吾問、道体之体如何。答云、無体の体なり。用処より見之。恭節重次一同に云、用処より見の字衍字なり。先生曰、水は道にあらず。流行不息昼夜昏旦とゆく、そこが道の体なり。一隂一陽謂之道。隂が道、陽が道と云ことに非ず。一たひ一たびとゆく処、道なり。そこをさして体と云。程子の天地生物の心を朱子無心の心と云へり。道体の体も無体の体なり。寛政三年辛亥三月六日話。此日筑前吉井村片峯敬吾、肥前唐津領滝川村大谷主一両人先生に暇乞して八日に立。

問、伊川言、象憂亦憂、象喜亦喜、與孔子微服過宋相類云云。語類九十七。十六反孔子は桓魋が殺すことはならぬと知ても赤合羽で過宋なり。舜は象の殺さふとするを知ては居たが、象喜亦喜なり。事は大違ひなれとも、道並行而不相悖なり。一々類比したことではない。相類すと云ことなり。

人理の常と云字をこみ入て五倫のことに云はわるい。庸平常也の意で、ありふれた人事にかけて云かよい。近思錄政事暌之象日講後。

伊川の作詩令朝夕歌之と云たは、古は詩に興ったが、今はをこらぬと云たぎりのこと。別に詩を作りはせぬ。眞向にとると手嶋が手まり哥になる。一とさあも可笑しひ。

禄俸が妾を置に足らぬと云たほどわるい云ひ様もないが、心にこれが願ひ欲する意のないて快恬にも聞へる。人も受取り尤つくめなくはいやみな。某毎々英雄豪傑のこともすてられぬと云がそこなり。大名の儒者が、講席の疂がきれた、大勢家中もくるから役人へ願って表替したいと云が、これほど尤なことはないが、これがいやなことなり。手本になることは定等なことでなくてはならぬ。活なことは手本にもならぬが、活でよいことはあるぞ。活はきれいな処から出るもの。

爰の小書の孟子説とあるでみよ。尚政事へのら子はならぬ。孟子の政のことを云たことなり。そこであの納約自牖の祭にも、政事のこともあそこへやって丁度よいぞ。敎学末条講話。

陶渕明乞食しても何とも思はぬ。食を呉れたれば冥加と云た、と。下されまいものを下されたに、この方でも冥加と云ぞ。くらきのますと云訓でよいぞ。神埀冥加[かみのしてくらきのます]と倭姫の世説にあり。

先達遺事の柯先生のことを、釈迦許火の虚誕を説くと云て笑ふたと書たなぞが、今思へばああではあるまい。あそこは善太郎殿の話で書たが違たろふと思ふ。云、柯先生の快活いかさまと私などは存じき。曰、さふでない。山崎先生は甚の信者と思はるる。信ぜぬ仏学のあり様に上る筈もない。絶藏主のとき、便の器に腰を掛て居て書を見たなぞが篤ひ信者な底なり。それからして儒道を聞て又篤く信したからあれ迠になり、其見処の上に神道へ入られた処迠も、やっはり仏者のときの信者な底がついてまわって又出たのなり。何にかけても篤く信ずるなり。斯ふみるがよい。秀云、此話先輩処未発。読者冝致思考。
【語釈】
・絶藏主・・・山崎闇斎の僧の時の号。

まろくともひとかどあれや人心あまり丸きはころひ安けん。この哥が柯先生神代證歌に引てあり。古ひ歌とみへた。

五雜俎に、尭舜は旦、湯武は浄と云ことあり。是が皆反語で狂言の役割をしたもの。旦は夜のこと。あしたの反語。女方のこと。浄はきよきの反語。悪方と云こと。天地乾坤一代の大戲場と云たは古今の大あたり、堺丁で云大入りと云こと。

寛政三年辛亥五月朔日話。廣瀬飛脚、俗名和助。此行江戸にて溺死す。とをれが永訣は昨日じゃ。梅原が処から来た新発田の塩鴨を届けて、彼は土産とて茄子を買て来たからおれが鯛を切てやったれば、あれが日比親を大事にする男ゆへ親に進めやふと思て、茄子上て、これは鰕で鯛とはこの叓と云て喜んだ皃がさて貞心な皃で有た。さて皈ったから、読かけの羅山文集を見たれば、一枚は子ると那波道圓が小爰の溺死の詩が有た。物の感と云はあじなもの。これを聖賢に用ひたときに殷王の傅説を夢みたと、一而二二而一なりと合点せふこと。をれでは底がわるいが、やはり感は斯ふしたもの。道体を読もをらがのがよい。為学は却てちとたしなむ覚のあるだけ読にくい。心にない方を云が却てよい。
【語釈】
・梅原・・・梅原致遠。求右衛門と称す。号は梅遜。新発田藩の臣。

卓袱[しっぽく]

問其説教如是則其心果如何。曰、教が心から出ぬことならば手でするか足するかと云に、さふは云はれまい。説教が空なら心も空じゃ。雲をつかむ様なとなり。弁異端講後。

実際理地不染一塵萬行叢中不捨一法。それはせぬが、そちはせよと云。をれは天を飛ぶが、そちだちは地をあるけと云様なもの。をれは忠孝のことはせぬが、そちはせよと云のぞ。これが遁辞じゃ。父母経を書た抔が無恩入無為に合はぬを見よ。仝前。

一有所為而後為之、皆人欲之私、而非天理之所存矣。董子の正明誼道の詔は仁人と云ただけ劣ると幸田の息子、俗稱栄二郎。が云た。よい説ぞ。南軒のは吾得ただけの道をすっと云た。そこで其常言に曰とあるぞ。如愚の圏外、愚聞之師。

孟子未及於礼樂と朱子の云はれた。五畝之宅樹之以桑の経済は、戰国の民を盗賊あしらいにしたこと。あいらも小銭ができたらよかろふと云たことなり。それか直に王道の下地なり。

○松井材菴がをれが少年のとき、口の利様がよいゆへ大ふ氣に入りで有った。よい医者は材菴より外ないから、末斯になると皆あれにかかりた。それでいかいこと迂斎の頼みても殺した。をれが又ござって御殺しなされと云たれば、又馬鹿を云とてにこ々々して居た。曹操のことを能攬英雄之心と云たもこんな筋のことなり。そちが様なたわけものは天下中にないと云へば却て悦ぶ。さふ云はるるで、をれにはよい処があると思ふ。客にゆきたとき、又いつもの通りか、何もろくな者は喰はすまいと云と主人が喜ぶもの。此とき英雄の心を皆呑込んだこと。

観聖賢で葉解引て読んでよい処が有たが、聞まちがひになろふと思て云はぬ。十八の時が好学編、二十が及第、廿三が定性書とかいて、跡へ遊山の詩皆好しと、あの次第の云様などはよいぞ。

爰で呂東莱をわるく云はよくない様じゃが、どふも云は子ばならぬ。神道悪く云ても罸もあたらぬから呂東莱悪く云てもよい。たとへ罸があたろふとも、をれもゆきかけの駄賃じゃ。云は子ばならぬ。

今度の大学はざっと読むつもりじゃ。大学は道中記じゃ。感心するに及はぬ。桑名の蛤ざっとくへと云ふたきりのこと。今度始て大学をあらく読がよいと云を合点した。ざっと読で或問啓発を読中に、丁度よくすむぞ。朱子の経文の注も足らぬと思ふ。そこは傳にもたせたもの。鳩巢の疏を作られたが尤なこと。どふても経文の章句計りの注ではたらぬことぞ。

一轉語と云は臨済錄に出た字ぞ。朱子の、天王聖明のことについて用ひられた。何のことはない、小児の痢病に其母のには臭くない様なもの。堂々乎張也と云は、五両の合力はするが茶づけくわせるは面倒じゃと云のぞ。それを執德不弘と云たもの。

節要開巻大意講後謂諸生曰、是前に耻ぬ程に筋を云たことなれとも、某などのこの様なことを云は、こちにないことを云のなり。をとなしひ人が云たらよかろふが、その代り、をとなしひ人はこの筋を知らぬ。道之不行也我知之矣、知者過之賢者過之也。をとなしきとて頼しはない。まして我々が身に覚のないことを口にして述るは耻べきこと。若林の諸生ともが尊敬心耻し、ちと滝津亭に往て独り居らんとは、学問の年のよらぬ処にて床しき消息ぞ。

礼義廉耻者國家之羅也。兄が公用人のとき、聊の送り物したにもやかましく云ってきめぬいた。それでなしとも奴ながよい。奴でなければ道理は磨れぬ。役人は廉深を賣ると云程ながよい。蕎麥粉一舛貰ふても取るとつなぎになる。まして御役家などては同家中からても物を貰はぬことじゃ。阿部豊州の鶉を放したは是竒貨なりの路を絶ったのぞ。つながれてなじみになるがわるい。それに長話したり、問ず語りをしてやはらをして取りたがるなどはいやみなことぞ。それでは商人より氣象がわるい。商人は平かなこと。結句氣象がよい。此間の米ではをかげがござらぬと云。きたない口上の様なれとも、をかけと云こともあるべきこと。天地なりじゃ。此臣礼と云が本と周の礼にないこと。朱子のあみ立てたもの。小学と並ぶこと。読ま子ばならぬ。是が燕礼の本とになる。儀礼経傳通解臣礼會読話。以下同。

臣節に死すと云部は復讐のもの共じゃ。その中へ死なぬ晏子を出したが朱子の思召あること。去年そちの問に臣礼を見よといふたが、思ひ過半の処ぞ。晏子の条の様に道理で吟味をつめるものでなくては節死はならぬ。復讎もならぬ。そこで四十六士のことなどが吟味がある。云、靖献遺言に陶渕明が撫孤松而盤桓すと肉をそがした文天詳が一つになると同しことなるべし。曰、臣礼に入公門鞠躬如たりなどが有て、跡に死ぬことがある。臣礼のはばと云がこふしたこと。朱子でなくて此編集の手際はならぬ。あたまをふれて死んだもあるに、食礼から云てある。爰からゆくことぞ。
【語釈】
・文天詳・・・文天祥。

節死と跡の復讎を一と続きに見ることぞ。復讐は節死すべきもの。残りたが復讎する。復讎なる節義があるから節死がなる。節死のなるものは復讐がなる。どちも一と続きぞ。

審は機発の処のつまびらか。そこで審一審と云。詳は細かにゆき届くこと。精詳の、安詳のと云ぞ。審は心のこまか、詳は事の細か。

神道の碑と云ことは日本ではなし。合じゃ。神道と云字がまぎるる。墓へ書くは碑と書くがよい。馬鬛封の処へ書を碑銘じゃ。本の墓へ書は碑銘と云なり。神道は神の道の碑と云こと。

灵公与夫人夜坐す。此夜坐の字が寢物語でないと云ことて書たもの。末の使人視之へ對したのぞ。云、この夫人只のでない。曰、好色も只顔の白ひ計りでは迷はぬもの。云に云へぬ利口が君を惑はせる。美しても馬鹿なやつは立派にない。どこにかたわけた処がある。云、使人視之果伯玉也、これも灵公の溺れる種なるべし。笑曰、そふも有ふ。捨て置けばよい。使人視之、入らぬことじゃ。

今年の豊年なぞが越中様の御札じゃ。越中様の豊年と云のじゃ。して見れば、あなた方の職の重ひ任底の意から祈りをしたらば、天地も感応するで有ふ。祈雨祈晴、きくことじゃ。近年村々で雨乞をするを見るに、誰でも誠心に降らせたいと任ずる底なものは一人もない。只酒を呑ふと云て出るのなり。程子の、民分之則愚、聚則神と云た。大勢よって百姓がぜひ雨をと一心に祈ればきくことじゃが、其一心はない。越中様では天地も息をふき返したと世間で云から、これはあちから豊年にされたのぞ。

直方先生の、眞実无妄はすぐに未発已発のことじゃと云はれた。

絜矩洩天機ことを長藏へ云てやったが、すんだか知らぬ。何とも云て来ぬ。問如何。曰、洩天機と云ことは尹彦明が元祖で、伊川が体用一源顕微無間と云たれば、それでは天機が洩れますと云た。朱子が大学の絜矩を見て、平天下の天機が洩れたと云た。柯先生の治教錄へ、観の程傳の天の神道を云たがそれと同じこと。神道と云は向のありものですること。神道と云たで政の天機が洩れた。向のありものて政をする。そこで天下平なり。

仁を生物と云はよいが、そふ計り云と氣に落る。仁は理で云がよい。麒麟は獅子なりはわるい。頭に肉角足生草を踏ず、ふっくりとやさひく云ことじゃに、それをまたるいとみていき々々した百獸を呑伏することを主に云。ひっくりかへしに云なり。記錄不精切。

知覚で計り道体を云と鯲と尭舜が一つになる。

論語巻頭講後曰、亦曰をば亦曰ふと読がよい。つまんで云へばこれじゃと云こと。又曰、志学の章では学之為言效也の意は、却て志すと云字の中にあるぞ。

又曰、悦ぶと云へば、五十三次行届ひて大津で悦ぶと云様に計り思ふては書物藝ぞ。一と泊り々々々々に悦ぶこともあり、又立場々々で悦ぶこともあり、これ書物藝の知らぬことなり。不慍と云へとも成德でなくて云。心掛ること。これがいつも慥なれば成德ぞ。却て不亦樂乎には六ヶしい心いきがある。これも天理人情同行異情の意で合点するがよい。又曰、積之基。この基の字を人知らず仕ためることなり。人不知不慍も其心を人知らずためすことなり。これらは當分は入らぬこと、山のあなたの様に思ふと生涯君子になられぬ。伊川学以至聖人之道也と云をも、まあああ云もののそふはならぬことと内心で算用をして置なれば、学問何ことも虚になる。さん々々な心術ぞ。すこしつつなられる心になるが基になるぞ。三井が店で袖口を賣るやふなが積德之基ぞ。聖人と云ひ聖德と云ふ、それにあぐまぬは膽の大、一日々々もと手をためる、心の小ぞ。虚大な見識を立ても心術が慥になくては論語廿篇皆虚になる。
【語釈】
・善・・・德。

敬斎箴講後顧太兵曰、こなたは公用そふな。これきり皈られよ。あとの行宮奏箚なにも云ことはない。奏箚など揃ふた朱子の文字、あれを只のべるですむ。発明は云はれぬ。月見に肴をやるには吸口揃へてやればよく氣が付たと誉られるが、白木臺に載せた臺に吸口を付るとおどけの様になる。行宮奏箚は白木臺、きっとして見ることなり。発明は吸口のるいぞ。それ々々にむきがある。

釈氏論講後曰、仏が莊列を盗んだ々々々と朱子度々言はるるが、それに及そもないことと思ふに、そこが朱子の知り手なり。大事の処は盗みものと云はるるで大ふ仏者の困ることとみへた。その上を佛の知りて、いやそふでもないと云は一脚を入るる筋ぞ。

詩経集傳、序巻頭。講後曰、小市が朱子の詩序辨説と詩の綱領を頭に置て、この序をばぬいて点を付替て改板したいと云た。これ書物藝の手段なり。この序に比賦興のことはなけれとも、集傳の各章にあれば序文では云はぬ。さればこの序残ることはない。詩序弁説は文中或問の例を以てつけたきものなり。顧市右ェ門曰、先年そちの役人に、鴨は大根をろして差味が一ちよいと云た。第一損なことだ。昔から煮たのはむまくて羪生喰ひにものなるに、兎角差味と云。この詩傳の序、これ程なむまい料理ぞ。それを除けと云は、小市も鴨の差味の方ぞ。兎角風味を知ることぞ。はゆたかるはわるいことなり。どふしても知見融通ないと、ちと見付た処あると、それを吹上げ主張するものなり。先生様になれば色々なこと出来るもの。入らざることなり。
【語釈】
・市右ェ門・・・小川省義。幼名は磯次郎、興十郎。後に市右衛門。東金市東士川の人。文化11年(1814)6月21日没。年81。後に稲葉黙齋に学ぶ。

訂翁長文の弁断ありて、て々老人へ苦労を掛たと云もの。

中庸舜を仁とするは、川端の茶屋で帆掛舟の繪を掛たやふなもの。こりゃこれ幸田子のよい弁じゃ。

三宅先生の培根達支、学堂の名。と云が本仕込みなことだが、あれでわるい。只格物致知心術と云がよい。三宅門にも奉公せぬものにはよいのがあるが、本仕込で仕官したものは皆ふれができた。

日本には科挙のないと官閹のないと、これ二つが吾邦の幸じゃ。科挙のないで名を下さずに果る学者がある。

鬼神集説読には文義計りよむがよいと思ふ。鞭策排釈は精彩のつくがよいが鬼神集説はそれに及ぬと云は、一体あの編集が長すぎるが、長ひに趣向がある。あの長ひうちを読でよくすんでくるから、そこで精彩が出てくることぞ。

六祖檀経はよひどよい。臨済などのよいと云が麻三斤の段と莊子は米の飯もあるもそのこと。

○上仁義之政行はるるとき、一つ行ひにくい処あり。人倫を正すには井田が本となり。井田なければ羪子がやめにならぬ。

此頃暇がなくて学問に怠りたと云より、此間畜生に成たと云がよい。斯ふ云語意を云ものが日本に直方と日蓮計りじゃ。

天子を君と云ゆへ諸侯を国君と云。それへ又別つために大夫君なり。稲田片倉吉川のるい。

韓非子が説難をば書たが疑難を書ぬ。えときのなることは難くはない。心中にこめてある疑を解くことはかたひもの。それを知らぬ。

朱子の編集の相手は油断はならぬ。近思錄にも東莱の折角と云はるるで入れた処もあるそふな。小学もあの董生行抔が子澄の思入れつろふ。ずるけたぞ。

山北紀行に朱子の詩がある。あれが女弟の喪の中なり。朱子にしてはいかがなこと。沢一ならば聞まいと思ふ。御役先きから帰らるるときゆへかまわぬかなり。女弟の喪は大功異居者可還とある。九十日も立ることゆへで有ふ。なれともその子の甥をつれてあるいたに、これは斎衰期なり。

云、先生の雜記は読書錄に似たり。曰、こなたはおれをやすくする。似ると見たか、文は薛文靖に劣ろふが、あの中に書た道理は程朱の後先輩の議論を聞ての発明じゃ。

事功の学も高それはないかと云にさふでない。法度の外とある。大久保彦左ェ門殿を直方の、行ひ者と云れた。東漢の名節が晋の清談になる。

問仁本是惻隱温厚底物事、却被他們説得擡虚打險瞠目弩眼之義如何。曰、あれらにそれにされたと云こと。早乙女は田植哥だに、あれらにめりやすにされたと云こと。玉講下講後。

或人及運氣の談曰、伊川運氣の論をとらぬと云が易を占に見ぬと同一揆なり。理云云からして氣をとらぬ。医者が運氣の説をとらぬは間違ぞ。医は氣を相手にするが主なり。

云、今年の風邪は兎角温からと云ことあり。其時この藥でなくては直らぬと云があるをみれば、運氣考ふべきことなり。小川氏云、運氣の説の通りではきまりで定りになる。いかがなり。曰、さふなれとも、彼運氣のこともうそか本かと云様なもの。鬼神集説に妖物一本足も先祖の鬼神も云てある。あのいきで運氣甚あてにならぬことの甚あてになることなり。

今日読だ処、玉錄下の三。は氣稟のことじゃが、をれも怒りばやいの工夫を骨折たが、未だ手に入らぬ。今朝も下女へ怒りたが、よく思へばちとあらいもよい。人欲のあるうち柔かも誉たことでもない。をらが先生いつもきげんよいと云はるるは、欲のある延平の様でわるひ。

曰、此間の家礼の大宗小宗の吟味を書てよこしたが、あれが諸侯で諸矦の分地はあの方にはない。魯国で云はふなら、三桓迠に及がよい。そこでをれが近思の天子建国諸侯奪宗と云ふ文義が、奪ふと云が僭上の文字にならぬと思へ。天子を本宗にはされぬ。そこで分地の中の伯を本家に立たもの。上をじきに本家にされぬから、こちで宗を奪ってする。そこで奪と云が謙退に向ふことなり。

弟子がうつらぬと朱子が不機嫌で腹立るると云が理のはづみなり。吾党先輩の喜怒が皆それなり。養菴が話で柯先生の蚊屋引やぶりて出られたと云ふ。朱子の如沈疴之去躰と云もそれなり。
【語釈】
・養菴・・・永田養庵。字は在明。備後福山藩儒臣。

重次良問百物之精義。曰、人に限らず之精がある。百物は萬物と云こと。人を百物にしたもの。云、人が百物之精と云ことか。曰、非なり。云、万物に精のないものはない。依て昭明焄蒿あると云ことにや。曰、然り。重次又問三月は不違仁の集注少有私欲則の私欲の字は如何。曰、顔子の私欲なり。仁に對して云のこと。云、その私欲のほどらいの知りにくいことなり。曰、あくびでも出ることで有ふ。云、顔子の過の私と云は、あの男をよくしてやりたいと一つ心づきのあることなどある。それが私欲ならん。曰、やがてごろうじませよ、其ませがわるいと云様なもの。又曰、樊遲や公西蕐抔が来てくだらぬことを云つろう。

問揚亀山仁義以不足尽天下之道とは如何。曰、亀山など道を大きく云方からのこと。大きひがすき故、仁義で計りはつかへることがあるとしたもの。

この頃をらが内の底を何んと思ふ。皆氣が付まい。この頃は薪をたかぬ。皆炭火ぞ。訂斎の、人欲を叶はせると若物つつく、と。をれはけむいとどふも恕も何もならぬ。心にもちとすきな目をさせるもよい。それに付ても克己はならぬもの。

滉漾不可致詰が麻三斤乾屎橛になりたことぞ。有物先天地無形而本寂寥の類はこちの太極めいてきまったこと。さふきまるがうるさいから、其徒の點者が滉漾不可致詰の語をかけたもの。我道は破れ衣に破れ袈裟喰ふや食はずて世を渡なり。それでしてゆくと又それがうるさくなって、我道は錦のしとね後の袈裟旦那次第て布施をとるなりと出る。兎角きまるとうるさしとする。禪者が拂子をあげて居たれば、そこへ弟子が這ひ寄って戴く底をしたれは、其弟子をしたたか打た。打れて今度はずっと行て取ふとした。又打たとなり。形のつくをいやとしたものなり。

錢之為言泉也。泉の字は、下は水の字ぞ。融通してない処はないと云こと。すれば銭いかいこと持たもので銭持と云はふより、銭もたぬ者の方で泉也と云が面白ひ。孟子道性善言必称尭舜と云たも、言必称悪人と云てもよい。悪人のわるいことしてかくすと云が、いよ々々性善のいちじるしひことになる。


清谷話錄巻之二  寛政四年子正月六日  惟秀錄

○旧冬傳左は歳暮に来て、寒ひにから腹で帰る。跡へ来た重次は吸物も肴も出来た処へ来て、あたたまって戻った。所遇不同じゃ。すぐに命じゃ。謝上蔡の、命は求於浅近之処と云た。軽ひ処でよくすむもの。それを某が晩に喰はふと思た肴を猫にとられたも、御役御免も同しことと文章に書て置た。

○萬正淳、吟味せぬ知ゆへさっはとせぬ。髙調と云は、じみなことをして上ったうへのこと。画も髙ひを学ぶと書きくづす。醉ふたときがよいなぞと云は、画でも手跡でも紛らかしぞ。律義に学ぶとそれでよい。嵩谷が、猫の毛一本残ったも画でないと云ふ。じみなことは。英雄豪傑のはやり出したが道の害と云も斯ふしたこと。氣象と云てまきらかすことは理はない。理は律義なもの。以下訓門人會話。

○寸鉄殺人。書物で云へは道学標的のことじゃ。

秀問、喜好適意底を已前の會得に道理のすんでうれしいも適意と云になれば、自私と云にしたり、如何。曰、遊山玩水のことに廣く読むがよい。文義がすんで嬉しひ迠を私と云ては吟味すぎやふ。

○天下何思何慮。これは思ひをやめよと云ことではない。よく思慮のすんだことぞ。未来を思ふことではない。寒ひから綿入れをきよふと思か何思何慮なり。季文子三思ことを迂斎の、二たひ処ではない、百でもよいが、定った上をも一つと云がわるいぞ。

○小戎の詩の注の歴錄然たりが医書ですむ。つふ立てつついたこと。病の瘰癧や縁頭のななこのやふなこと。歴々落々もそのあやなり。

○閑人客。友ならぬ友の訪ひ來て長居するはひとり居るよりわびしかりけり。

○訓門人に多可的人のこと、若林の考に、文選四十三稽叔夜與山巨源絶交書旁通多可。それでもこれでもよい々々と云こと。

○心術の嚴と云は段々ふへてゆくてなくてはならぬ。町人は利欲に嚴なり。そこでもふかったとき、それか太々講から悪所へゆき始めて、嚴がぬけて身上をすりきる。学者も嚴がぬけるから心にくさりがつく。

○記憶は魄のしわざなり。魄は隂物なり。柱暦を張つけたやなもの。只魄きりて並へ立て覚て居てももりかへされぬ。そこで魂かちらりさすで思ひ出す。もののわかりがつく。蠟燭のあかりで十月何日と云が知るるやふなものなり。夢をみるがそのあやと同じことなり。魄が昼のことをちゃんと認めて居る。そこへちらりと魂がらすすから夢になる。文集に魂交於魄為夢とあり、熟睡では夢はみぬもの。
【語釈】
・や・・・ふ?

○黃勉斉のことを鳩巢の圖述て紙られたは五行のことで云。あれより続通解に夢の祭の例を出した、あれなどがわるい。それに引ひた語の根もよくない。家語で宋の向魋が孔子を殺ふとして木を倒す時、先祖を夢みて祭りたことと、晋の献公の驪姫のこと引た。手本にはならぬことなり。程母などの学問のよいと云は、伊川にをれが親を今日一日祭ってくれよと云はれた。倒でないゆへなり。

○迂斎が、孟子が聖学をせずは荘子になる人と云った。迂斎らしくない云ひ様だが、学知からぞ。

○仁者以天地萬物為一体。これが人我の隔ないと云こと。吾も人もやれ結搆なと受取ることじゃが、其中に困ることが有ふ。俗人は人の悪るさは慰に聞ておるから只笑っておるが、以天地萬物為一体の心からは、隣で密夫されたときが吾妻を盗れた程に思ふ。ぬき打と云ふ。凡夫は却ていやかろふと思ったれば、をかしくてふき出した。今の者はめったに婆のやふなを喜ぶ。それで父はいやがって、婆々と云てかわひがる。さきのよひ悪ひにかまふでなく、こちが可愛がられたいのぞ。花見のときも伊川をいやがって明道の方へ皆弟子衆もつひたと云が、さきの方の德不德でなしに、こちのよく思はれたいのなり。ほんに明道を知ったではない。只呵らぬをよいとするのじゃ。明道は以天地万物為一体になりた人じゃ。以天地万物為一体と云に成たら人が困ろふと云は、人のわるさを吾ほどに思ふからぬき打と出る。程子の時分の人と云ても、只仁計りをうれしがって義をいやがるなり。それでは仁義と云ことはとくとすまぬになる。放伐も為一体の心からぞ。

○朱子の春秋の跡をつひで通鑑を作ったは発明はない。事にすることゆへをらもなるか、儀礼経傳通解が却て春秋の意なり。礼樂を制したそ。ひそかに天子のことをしたなり。と云て儀礼通解に別に朱子の思召てしたことはない。古注を用ひた。経傳通解の見様を諸子に示すの話。下同。

○士礼と云か士の礼と云計りでない。士より上へも用ること。士以下に礼の制はないがら尚用る。家礼もそのいきぞ。服などの処は天子でも用る処あるぞ。仝上。

○大学の処を常の大学と見ることではない。昏礼に昏義のある様なもの。大学義と云ことぞ。仝上。

○邦國燕礼が諸侯、王朝礼か天子なり。同上。

○感應と云ても六ヶ鋪ことはない。此頃茄子の肥へをしたれば、此二三日はよくなりたと云ものなり。瞽瞍底豫はこへのきいたのなり。

○児共の花を折るは人欲でない。後にはむしりもするが、むしるが何もこちの為にはせぬ。幸子善の大名から金を取るもこちの為にはせぬ。欲とは云はれぬが、若ひ学者の手本にはならぬ。江戸の学者のわるくなるも、よひ処からわるくなる。幸田の眞似をするからわるい。不同之同が眞同と云ことを知らぬ。

○聖人の道を経と云は五倫が天地の定経じゃと云計りでなく、軽ひこと迠が経になることなり。子張問政の惠而不費などがをれが家にも入ることじゃ。あの下女が給金をましてやりたより、給金を一度に渡さずに渡し様や何かに仕向けをよくしてやる。それが給金ましたより、あれが為めになる。そふして見たれば労而不怨もあるぞ。

○きれい好きと云病がある。王維が箒三十本と小便をしたと云たれば、腹を立て死だのが左傳にあった。

○渕源錄の邵康節の傳のあるは書物屋が入れたものぞ。これは言行錄にある人を渕源錄へぬいたもの。唐の書物屋は只の出雲寺ではない。言行錄には邵先生と計りあるを、それへ傳をつけてのせたぞ。そふなければ渕源錄が賣れぬ。易者は世間の人の知たもの。賣れるためぞ。

○尭夫非是愛吟詩。詩是尭夫。尭夫詩。日月星辰尭則了。江河准濟禹平之。皇王帝覇経褒貶、雪月風花未品題。豈非闕典。邵子の詩が人を馬鹿にしたもの。暦のことは尭舜の世話された、川のことは禹の御世話、雪月風花は未だ品題したものがない。をれがそれをやる。風月に御世話のないも政のかけじゃ、あれも政の一つじゃと、斯ふしたことを云ものが孟子より後ないことじゃ。あとへ孟子を出したも面白ひ。性善養氣が前聖未発じゃとほめられて、あの衆も雪月風花は品題しのことしたとなり。

○清凉散の散は傘と通音なり。日がさのこと。五雜俎が立身かせぎをするものをそしりて清凉散と云た。

○寒山が詩に、羊公鶴氃氋とある。すまなんだが、をれが茶碗の中へ茶巾をつく子てをいたですんだ。それを茶人の方でふくだめと云ぞ。氃氋もふくだめと云こと。羊公が秘藏の鶴を出して客の前で舞はせたれば、ふくして居て舞はぬと云こと。今の学者が大切の処でふくして居ると云たこと。鷄の牝鷄などはら立てふくだめと云躰をするもの。あのことじゃ。

○三宅先生は屈原より上じゃ。文王は羑里で彖の辞が出来た。聖人はその筈。屈原は離騒計りじゃ。をとるぞ。狼疐錄に洪範のことが出て居る。喉ぶへを突ふかとも云たけれとも、跡がゆるやかじゃ。

○鳩巢は范淳夫組じゃ。あれ組はあるものじゃが、澤一がないもの。迂斎と石原と連れ立て谷中へ往くとき、内をまわって櫻見ながらと云たに、澤一が、それでは直方先生の心喪がやぶれますと云た。斯ふ工夫のつまるはないもの。二左衛門は范淳夫組じゃ。よく人は受取る。長藏がきくつく尹彦明組じゃ。上蔡はめったにはない。先輩の内でも天木でも有ふ。
【語釈】
・天木・・・天木時中。善六と称す。尾張知多郡須佐の人。元文1年(1736)9月16日没。年40。初め佐藤直方に学ぶ。

○温公の弟子に奴のあるが手柄なこと。あの奴な劉元城に温公の其誠乎を仕込んだもの。よい筈ぞ。

○皆が豆腐屋学問と云ことを知ってか知るまい。をれが泉町へ引越すに、豆腐やに念頃が有てそれを頼みに引越した。偖豆腐買にやったれば、どふもかたくて喰れぬ。なせたと云たれば、此頃大名へ上るが、その殿様が堅い豆腐を好るるゆへ堅したと云。散々なことで有た。此頃文次が江戸で出合った学者が出入る大名で皆眞西山の衍義を用る故、をれも此頃衍義の會をすると云た、と。そこが豆腐屋の処じゃ。また衍義で仕合せ。其大名が放蕩をすかるるなら、それをもするで有ふ。若さへて云はふなら、是迠衍義は一寸見たぎりてさしてとも思はぬが、今人々のすかるるで読んで見れば思の外よいと云なら見処なり。兎にも角にも自がよい。人倚靠する底、いやなことぞ。

○此頃江戸で学問がはやると云が、朱子学々々々と云ても朱子学と云はあるまい。皆東莱派と云ものじゃ。

○議論をし、文義など爭ふはむまみのないもの。精出すのが条ゆへ呵られもせぬが、ほめたことではない。をらなどは爭ふたことはない。

○幸子善は行狀も嫌じゃから書ぬが、をれがたった二行あの人のことを云た。あの衆学者の疑のかかることじゃ。或問、あなたに謹守る確乎不可秡かあるかとなり。曰、直方迂斎二先生の道を守り時好に投せず、この二つが確乎不可秡じゃ。二行のこと、壬子雜記にあり。

○朱子のことを黄勉斎祭文に夫子知は生知行安行と書た。あの圭角英氣で天地へぬけるほど究格した朱子を從容とした聖人の様に生知安行とは云ひにくい人なり。されとも弟子へ異見を云でも人を呵るでも、唐仲友を劾すことでも、茶漬を喰ふ様に出る。跡をふりかへる様なことは朱子一生にもないことなり。上戸の酒呑むやふな底ぞ。

○精彩と云ことが異学の徒の知らぬこと。これが吾党の傳授ことじゃ。することは一つでも精彩のあるないが違ふ。師匠と同じ文義を云ても精彩が違ふ。合力をするにも義理に縛られてすることは精彩はない。酒を呑でみよ。上戸のは精彩がある。精彩は心にそれだけのつやの出来た処から出る。封を切て云へば皆誠中より来る。

○闇斎が、をれが排釈錄を読を聞て、衣通姫を繪で見る様じゃ、佛語を知らぬからと云た、と。よいそしりだが、五峯弁仏入隻足と云弊もあるぞ。迹上の断のよいと云も爰ぞ。語類で見れば排釈錄にもまた入れたいもあるが、実しりとした計りを入れた。あれを直方の正大と見ることぞ。あちのことをあまり知ると引こまるるもの。

○役人は天下の萬事からより下情を知たがよいが、知てあまり出さぬことじゃ。余り下情を云過ると、こはだの鮓に花が三本とて公事人がやすく云。天窓は上らぬが下が服せぬもの。この差引は何ことにも入ることじゃ。

○人之多言亦可畏也と詩経にあるが、をらなどでも下女と差向ひのときと弟子に對したときのことは違ふもの。少しは巧言令色もある。一々板行にをこす様なよいこと計りはないもの。学者に心術と云ことがないと埒はない。をらなどが夢であいそがつきる。此間も屋根舟で小妓三味線引た処を見たが、今では糞坪へでも落た様に思ひそふなものじゃが、さてそふなかった。

○養子不知教、何如都亭鼠。こりゃ寒山が詩ぞ。

○どこのか屋鋪の儒官が、人は何分性悪じゃ、それをためる為に聖人の教は立たと云げな。其男に腹一杯性悪の説を云ひぬかせるがよい。並べ立させて置て、それ今貴様のそふ云のがすぐに氣質じゃと一言につめるがよい。太宰が経済錄に、眞德秀陸秀夫が宋の亡るとき船中で大学章句を読で居たと譏って、程朱の学にあいそをつかさせるつもりなり。それを折角云はせて置て、ををさ其大学章句の学に從ぬものがあの通り亡ると云がよい。

○知のあるは姦に見へるもの。鳩巢の、学者も憎るるはまだよいが、侮れてはたまらぬ、と。よい弁ぞ。

○傳左ェ門、斎家と云にはちとは費なものも買てやら子ばならぬ。娘に笄子だられたとき、古釘でもよいとは云はれぬ。人の心はふくれのつくもの。心と云にはちっとは勝手のよい様にもしてやら子ば敬が死敬になる。こりゃ人欲に助太刀せよと云ことじゃない。

○朱子の、学は日用常行の処にありと門人に云はるる。軽く聞ひて入らせるのじゃ。思へば重ひことぞ。朝目が覚めたら直くに起る。親を見る、孝、兄を見る、敬と云こと。これがなりにくいことでなくてやりかたいことぞ。九思四箴なり。

○詩に作るときは墨田川を墨水とも目黒を驪山とも勝手にするがよいが、そこで吾親の死んたとき、行や碑銘に驪山の墨水のと書くとをどけらしくて悪ひ。後世事実が知れぬ様にも成ふ。息子の俳名をよんで親が笑はれたと云話がある。雅字を好むの弊がある。柯先生、會津公のことを書たに、左文字の刀拜領の御盃頂戴と書れた。国家の典故はあたる様に書くがよい。跡で分ってよい。鳩巢などはよくあたる様に書るる。南郭は雅字を好むで當らぬが多ひ。誌銘など當る様に書くことじゃ。

○亀山が西銘を見て未釈然は、すみすきたからなり。疲癃残疾、をらがみては兄弟とは思はんが、あの衆はそふなるそふな。すれば兼愛になろふとなり。淵源錄會読話。下同。

○祭礼のときに三両つこふて娘を躍りに出す。をれが見て、はっ々々と思ふ。與之愛情すると云文義がそふぞ。あああれでは其夜親文が煩っても、朝鮮でよいのを廣東にするで有ふ。時候病にかびたふり出しや茶調散ですますであろふとはら々することじゃ。
【語釈】
・親文・・・親父

○亀山の市易務のことをさま々々跡の者が云訳けしてあるが、あれは上から云ひ付だ。御役じゃ、外聞にはならぬ。却て文定のほめた桺下惠がいやなもの。あれらは終り初物と云ものぞ。終り初物が二度有てはいやなこと。似たと云ことがいやなもの。似たと云は本んのものでない詞。

○扁鵲が在斎則為婦人医、と。こちは何医をなす。小児を大事がる土地では小児医をした。これは賣る方の手段なり。それかこちの嫌をさけるにも処々で手段が入る。上總ではをれが金を借して利金は取ふとも、歳暮は取らぬがよい。二百疋顔をはる。いやなこと。仕舞には内寺にされる。

○善藏が通書を受読すると聞く。直方迂斎以来のつやをぬく為めとみへた。いかさま敷衍弁説講釈の立派も手柄にもないと云心で有ふ。周茂叔の様に要言不煩、はらりと云て漢唐へかへすつもりの手段と思ふ。

○道学は医者の療治の為めにはなるが、孫子呉子を見て療治の助けにはならぬ。五臟六腑は神農黄帝の時のままじゃ。道体形りじゃ。謀ではゆかぬ。

○説書非古意。よふ合点せふこと。石原の先生よりをれが講釈のよくきこへると云が咎じゃ。内に人欲のあればよく読ぬ筈のもの。松見が茶の湯をはづしたれば一番弟子が、先生今朝夫婦喧嘩でもしたも知れぬと云た。人知らぬ喜怒哀樂が外からみへるもの。

○隱者は伯夷の様ながよい。桺下惠をして、跡てはれてはたまらぬ。それが小遣ひ金を受取に印判をす隱者には入らぬことの様じゃが、印判をすだけ跡が樂じゃ。前にかたきったことは跡が樂なものぞ。

○陽虎が為仁則不冨冨者心不仁と云語は、陽虎が方では、仁をするは冨の邪魔と云が主意で利から云たこと。仁の功夫には利が邪魔と云が主意ではないと見る。夫れが尤なすじなれとも、又一つ語の根を合点せふこと。あれが世間の役に立ずがよいこともしたかり、又富もしたがりする。それで一生役に立ぬ。どちへでも片付るがよいと、中人を役に立ずと呵ったことなり。冨と仁とを二はなに筋を付たこと。をれが冨と仁との筋を付て見せふが斯ふしたことじゃと云意なり。斯ふしたことが英雄豪傑の上にあること。晋の石勒が大丈夫之為事磊々落々當如青天白日と云た。あれなども曹操が後家や幼主をだまし、そちこちして居た役に立ずと見て呵りたこと。桓温も大丈夫不能遺美於後世則敷悪於天下と云た。両手にむまいものを持たがると役に立ぬと云見識から云たもの。陽貨も孔子のことを貴様好從事而亟失時、出る氣で居ながら肝心の処ではったり々々々々と幾會を失ふ、あれが両手に物を持たがるからじゃ、世の中そふはゆかぬもの、知惠なし男めと嘲ったことと、斯ふ根を一つつめてみる見様もある。なんと重次斯ふみることがなるか。

○出処の吟味も理屈ばって云こともない。しぶ々々出ると云がはやよい。出るがうれしいと云ときは鼻もちはならぬ。しぶ々々出ますと云ながら心がうれしければ、引込む方が勝手と云意はない。

○眞西山が衍義を作りてもどふも落付ぬ様じゃ。余り外へつくから心経附註を作り、丘溪山が衍義補を作って、跡で朱子学的を作った。徂徠がさま々々な浮説を云て落付ぬから、老莊の魂にする。役人などか理屈を云て見ても取れぬから、そこて下屋鋪で大酒と出る。酒迠用に立る。酒は只飲むでよいに。

○道体が簡易で為学が簡易。そのさきの功夫が細かなり。それから又效が簡易になる。何ことも效は簡易なもの。書判なとが吾は簡易で人は簡易でない。眞似るゆへ手間とる。そこで出来たもの。

○尹彦明観音を拜したと云。同列皆出るからなり。出て見れば、うそには拜はならぬ。拜は辞義なり。辞義をするにうそと云ことは君子にはあるまいことなり。けっく髙ひことなり。朱子の尹彦明の光明経読たは呵らぬが、なぜ又母を道にさとさぬと云た。

○朱子の晩年弟子衆へ全靠某不得と云たかゆっくとしたこと。訂斎の八十の時某への手紙、吾百年の後と云て来た。これもゆっくとした。をらなとも死生は何とも思はぬとは云が、ゆっくとはないもの。

○冨貴在天はいそかぬこと。啇賣をかへぬこと。善藏などが今江戸へ行れて尾州様から出入扶持を下さると、さぞ冨でも有ふ。それと云も年末商賣をかへぬて、今朱子学の行はるるときに出合ふた。富貴在天と云はこちから急かれぬこと。文七などは急く底ぞ。

○伊川の経筵官勤られたとき、何を講じても戒にをとす。或時顔樂の章を讀たに、聞居た者かこれ計りは天子の御為になる様に読方はあるまいと思ふたに、季氏魯国之蠧也、然冨於周公。顔子はあの大賢で簟食瓢飲。魯之用人如此。国勢も張らぬ筈じゃとよみた。舎人殿が、十左ェ門様の講釈は浮雲ひ様な処があるが、聞て居れば丁度に落すと云た。

○幸子善の、渕源錄は程子の息がかかれば鉢坊主の様な迠出ると云たを、訂斎の、それはあらひことじゃ、涪陵紀善錄から書たものゆへと云たが、されとも鉢坊主でも出ると云様にもあるさ。

○祭はして見たらば次第々々にこれはならぬこと々々々々々と思で有ふ。をらなどは次男でかまわぬ。仕合なこと。三宅先生が、祭もさて々々ゆかぬ々々々と云はれた、と。よく々々思へばどふも誠が引たりまい。文定の祭必哀むがあつひことぞ。さあよい飲めと云氣になるもの。重次などそふで有ふ。直方さへ、今日は祭た、飲たと云はれたが勝手のあるやふに聞へる。迂斎などが呑ぬ人ゆへ、今日は福酒でほろ醉たが似合ふかも知れぬ。

○学者が癘病などをいやがるがおかしい。瘡毒や癩病できたない皃になりても、まだ心ほどにはあるまい。心のなりをよく考て見よなり。

○氣習と云に弁を付れば根性と云様なもの。しみつきがいやなもの。幸田の何ぞと云と上へ様のと云ことを云立るは旗本根性。あれで学が振はぬ。剛中が町人根性。宗伯が町医者根性。あらいことを思ふな。行藏はまたよくひ子る男じゃ。武士根性。小市は坐頭根性。す子る男じゃ。
【語釈】
・剛中・・・櫻木誾齋。名は千之。初め大木剛中、後に清十郎と称す。東金の人。長崎聖堂教授。文化1年(1804)5月1日没。年80。

○をらも替ったことで、学問にあきた、會もやめやふ。渕源錄ぎりで来ぬがよい。をれには替った癖がありて、あの茶釜の湯をがふと酌んで、ひとりこと々々茶を立てて折々飲む。つんと心よい。氣がすんでよい。書物の上で彼是理屈を云も望にない。

○今日三綱不正はすめたが義理不分の説が云ひにくいと思ふた。朱子の胸には義利の弁がよくすんだから、さきのうけがわるかろうと思ふたもの。延平の意は敵討をせぬは義でないと、あらくかたをつけたことなり。

○程大中のいとこの娘を再嫁させたはきざしを見たもの。役者の紋のついた笄をさして居つろふ。

○蘇秦張儀は巾着切じゃ。さかり場すきじゃ。明道は掬水去不能。子共の水あそひする様なことぞ。

○玄ちんと云が彫師の宗珉が一番弟子じゃ。近来迠残りた。師の宗珉すくれたからなり。宗珉は又別段なことなり。色々の遺事あり。狩野祐清の弟の放埓が、をれが泉町に居たとき大ふ心安かった。をれが馬鹿だから、二階の隩に百馬百鹿を画ひてもらいたいと云たれば、うんとは云たが扨々久しく書なんだ。或時羽織を質に置て鴨と三舛樽をくれた。なぜたと云たれば、いやどふもあの繪が書れぬ、ゆるしてくれと云た。をれと中たがひしては酒が呑れぬから困って云ひ訳けをするに進物じゃ。これで必催促するなと云ふ。今の学者が蒙求を読で礼をとりたがるとは大ひ違ひじゃ。三疂鋪へどふも書れぬことそふな。さてよい氣象じゃ。門風を嚴にしたもの。繪は上手とも見へなんだが、名を惜みたのじゃ。

會津の中將様は、柯先生に出合ぬ前に知藏之無迹の発明のありた御方ぞ。文義にはちとふれるが、書を読かかりて樂で居ても、人が逢ひたいと云へば直きに出て逢れた、と。俗人が来てうかぬ話をするが、よみかけの書に心にひかるるとあしらいがざっとなる。其時が心が二つになる。わるいとてをいのへと云て出合れたとなり。それを家来が誉たれば、それが知藏無迹じゃ、と。これが文義に合ぬが、さき書のとき樂んた心が俗人に逢てへりもせぬ。又俗人に逢ふたゆへ、書の意がわるくもならぬと云こと。これほど心の工夫した歴々は稀なことじゃ。
【語釈】
・會津の中將様・・・保科中將。名は正之。号は土津霊社。会津藩主。近衛中将。肥後守。寛文12年(1672)12月18日没。年62。

○今朝よりは竜田の桜色そこき夕日や花の時雨成らん。竜田も紅葉の外に櫻もあるなれとも、櫻でも秋ならば時雨じゃと紅葉にかけたもの。朱子の通書の註がそれなり。皆周子の詞で注をしたもの。これが脇からもて来ては、たとへ取合はよしとも腹に合ぬと云ことがあるものぞ。

○天理人欲の强弱と云は分厘を爭ふと云こと。箱のふたの眞平なは中がひくくみへるもの。そこて利休が筥のふたに肉をきと云ことがある。一と銫すぎるとみしんなになる。

○いつわりと思ひながらもほめぬればほめぬ誠にまさりこそすれ。利休の哥ぞ。人の知へ。茶にゆくに、いつも氣に入らぬがどふも誉るは人心の自然、見事なるものとなり。

○聖人以神道設教而天下服すは良知良能に似たこと。この方の神道と云に似たことで、有のありものですること。幸子善の、柯先生が本との禪にかへりたと云がよくみたことなり。

○今学を振はふなら、教もなしによくもわるくもならぬ、ちと手入をしたらばよくなるで有ふと云と人へひびく。無教則近乎禽獸と出すと人がよりつかぬ。

○昨日は早く起きたが、十一月廿一日課會話。先つ氷を打破りて手水を使ふた。これは恐れ多ひが権現様にも似て、迂斎も先年迠水で手水した。さて早ひから夜着で起て居て明けを待た。これは朱子に似た。これ迠は相塲がよかったが、又思ふには、今朝は糟汁で鰯をやいて喰はふと注文した。これはきたない朱子じゃ。誰にもない人欲じゃ。をれに多ひ。しかしよいことを一つもをけぬ。繫辭傳の仁者見之謂之仁、知者見之謂之知。あれが文義はちとふれるが、斯ふ思ふた。仁者の方へは仁と見へてくる、知者の方へは知に見へてくると云ことじゃ。仁知共に知仁合一でたっふりとあまるほどある。仁者が知をかりるのなんのと云ことでなく、とんと仁きりですむから何もかも仁に見へる。知者もそれなり。荘子が盗跖は水飴を見て戸のくろろにぬりて盗をするによいと云、伯夷は老人を養ふによいものと見た。それの様にあの語がどふでも君子喩義小人喩利のことの様なれとも、それは得手にひかるること。其得手迠やらずに仁に見へてくる、知に見へてくると云て、こちにたっふりあるが知れたぞ。さて又あの百姓日用不知と云が中庸ては知ることになる。夫婦之愚可與知、あれが不知の分野で日用而不知のことを可與知と云たもの。繫辭のは日用ても根をば知らぬと云こと。中庸では道の費なことを云から與り知るとは云た。実は知らぬのなり。

○有所不樂と云字は心面白くないと云弁がよい。これが出処の心術じゃ。口で利屈を云て出処の吟味するは帳面で合せたのじゃ。ああ心面白くないと云が心術からのきそぞ。人は何とも思はぬ処のことじゃ。

○大隱隱於市朝。をれは隱者だと云意があれは、もふ隱者ではない。

○渕源錄をなら、王魯斎になったら巨燵であくらをかいてよんでもよい。秀云、詩経の云様のわるいゆへか。曰、そんな処ではない。魯斎似せものぞ。あれを尊ふには朱子の章句を直さ子ばならぬ。
【語釈】
・続・・・読?

○前瞻既無始後際何者終。既の字でよくすむぞ。既に始なし。すれば後際何有終と云こと。大そふにとるはわるい。前に始がないを見れは終りも尽ることはないと云こと。すると曽点の氣象の今今と云がよいになる。仏は未来がよいの何のと云。曽点が曽子を瓜のつるのことでしたたか打た。をれが子は只のではない、孔子の跡つきになると云ては曽点でない。憎ひやつと云て打が曽点の氣象なり。若あのとき打殺したら泣くで有ふ。それは又泣くときの曽点、打つときは打ときの曽点、どちも思慮はないこと。困った人なり。のると禪になる。

○近思錄のしまいに辨異端のあるは、首引する様なことではない。始の道体とあちのをくらべてみたれば、どふも弁せ子ばをかれぬ底なことなり。斯ふみるがよい。

○近思の教学は上の政の為めと云ことではない。政のたすけになる学問は治法の篇の学制を看詳するの上にある。しまいの教学の篇は浪人儒者の道の為にすることでおもにことなり。秀云、舌耕でないことなるべし。曰、明德新民が学問全体なれとも、教学は明々德の方の匁方多し。

○七賢寄合て酒を呑む処へ王戎が往ったれば、俗物来敗人意と七賢が云た。王戎が卿軰何可敗、貴様立の様な皮のこわいものの人意は敗れぬと云った。やさ々々としたものなら人意も敗れふがと云こと。よい挨拶なり。

○をれが茶を飲むを聞て東金のものが御風雅じゃとほめると云が、をれがこの茶が髙尾薄雲と思ふておるに。

○近思錄に熟したら周程張の様な人が出来る筈なれとも、そふゆかぬもの。そこで渕源錄で人で見て、人からゆくでよい。某が先軰のことを書がそのいきなり。人からゆくで実知になる。

○をれが館林公で紂為象箸箕子歎曰は、異見を云へき程のことでないと云ことと読た。これが雄弁じゃと思へ。もふこふ云物好が出てはつのるものじゃと云こと。をれが印傳の巾着ほしいとも思ぬが、大名は目貫も金で鮫も極品、それに準じ万事よくしたくなる。つのるものじゃ。其時の講釈を吉五郎が聞て大ぶほめて、あれと云もあそこの文章のよいからじゃと云たげな。そふ誉ては司馬遷もうれしがるまい。

○神道に大占[ふとまに]の傳と云がある。占をせずに占になること。やはり辻占じゃ。迂斎の手へ付る祠堂金の付け様を武人の近付きの留役衆に聞て貰ふたが、どふするがよいやら不易になる仕方が知れぬと云て来た。これがにくんで云ことではない。非冦婚媾せんとすなり。あれですじ合のつくことが知れやふ。

○謂重次良曰、此間は福酒忝ひ、さて餘肉は肴のないて鰹節、をれがにはよい。これもつまり衰へじゃ。鰹節すてろと云ひさふなをれが、今は鰹節がよいと云。戒在於得が大事なことと思へ。直方先生などの学の文字訓話でないと云が知るる。年がよれば何でもないものをほしがる。孫が紙を持て徒らにすると、ぢいにも一枚くれろと云て手を出すもの、と。あの弁なとか只出るものではない。感心したことぞ。又迂斎に或人が、医は賤役なりと云ことを、形而下計りをさへて形而上の理を知らぬことかと問たれば、いやそれ迠やることでない。夜が夜中もさわぐことじゃと云た。秀云、医をするものの自ら賤役と知て、をらはやすい藝じゃとさふ云弁も出もせふが、他からそふ云弁は出すことなり。曰、さて祭の時いつも肴はないことも有ふ。鮓を拵へて置くがよい。鮓は鬼神に縁がある。京都の今宮の御旅でもどこでも皆家々が鮓じゃ。酒を造ると云ことは江戸などでは二千石でもならぬが、田舎はいつなんときもなる。そふすると祭につかへはない。肴のとんとないと云こともない。

○謂市良曰、近日江戸へゆかるると云がすぐに江戸で学問するつもりがよかろふ。上總に長くはをらぬ相談にするがよい。闇斎へ来たものにをれが差圖も入らぬことじゃが、君の禄で学問すると云は重ひことで、江戸でも国でも君辺に勤るものは追つかわるる。それをやめ、又父母の膝下を離れて遊学するものが、一年の学が論語一巻なとと云ことでは事業の上かすまぬ。此節闇斎論吾を講。君子になるならぬの沙汰はさておき、君から命ぜられた学は事業のきまるでなくてはならぬ。古へ君父師は在る処て死を致すと云は兵農のわからぬときのこと。召出されて事へるものは父母を離れて君に事る。遊学のものは君父の定省を矌ふして師に事る。そこで所在致死が今日本の制度は忝ひことで、君へ事るものが在番と云ても一年位のこと。君に事へたり親の背中をさすることもなる。これ程けっこふなことはない。それをやめて上總へ来たらそれだけの事業なくてはならぬ。誰も咎めもせまいが、学ふものもその心得なくてはならぬ。又教るものは尚々のことじゃ。大抵せつないことではない。闇斎などはよく請合が、をらなどは受取らぬ。何しても貴様などはをらとはつんとそりが合ぬ。九紋位の足じゃに、をれが十一紋じゃ。貴様の師には十紋半位のがよかろふ。

○上み方は大尽迠が此辺と違ふて大きひ。此辺の者はちとよくなると入らざる奢をして早くつぶれる。中にも上總などは子ともじゃ。早くたんのふする。学問もそのいきで、初はうつりもするが跡がない。上み方ものや西国辺のものは初不器用に見へても跡ばりにゆく。根じめがよい。それと云が風土によることそ。土地の厚薄からぞ。此話を聞てもうつるものはないが、善太郎殿計りじゃ。

○さまでもないやふなれとも、蒙羪集講解する筈の書なり。兎角手のまわらぬゆへ爰へ届かぬ。迂斎もこの三巻めの十四反う與程子所言自不同の下に張紙ありて、卯十二月廿日設樂とあり、没前年なり。これきりとみへる。翌正月六日病氣つき、二月六日火災にあひ、中間快氣し講釈もしたれとも、由比氏の村松町の屋敷へ轉宅し、十一月易簀すれば、この十二月廿日きりとみゆ。手沢の藏本をよみ、追感することなり。蒙養集講後話。

○主靜と云が聖人も空手左り團扇でない。聖罔念為狂と云ふ。

○太極圖説講後餘論。講後。今日読た三荅の中、文言傳に拠て辞は少しかへられたはその筈なり。文言傳は利者義之和也とあるを、爰は義を説くことゆへ義者と出して利之冝と改められたは、利を義の和と孔子のうけられても、利の字からは和とはうけにくいから冝とされた。冝と義とは一つことゆへ、孔子は義の和也と云へり。後論は利は天德之利也。その天の利は人の方の義ぞ。されとも義者と書き出たゆへ義と云は一つになるから冝きなりとされたことなり。又文言には貞者事之幹也とあるを正者貞之体也と改めるもきこへたは、幹は体骨なれば幹も体も同じ。されとも其行之也中にとありて、七荅にも中之為用以無過不及者言之とあれば、その行はるる用のもとなれば、正を貞之幹改んよりはじかに貞の体と体の字を出すで、正の体から中の用に体立て用行はるるをみせる為めなり。又先達て略云ふ処の黄勉斎の疑と云も大全に載る黄説の中に、後ち請問したれば晦菴先生曰、舊也如此看只是水而木木而火以下は畢竟是説行之序這畢竟是説生之序と云はれた迠なれとも、つい疑不解して畢竟是可疑と、この五字が勉斎なり。このこと文會十巻の一版にてとくとすむことなり。二版以下はそのことを委曲に説けり。同十巻三十四版、勉斎大條云云、細かに説あり。これ闇斎格致の精到にして仁者の氣象なり。中庸は子思の任なり。圖説は周子の任なり。このことかかる処大なり。但勉斎未解に疑あれとも、朱子の学をばつがれたれば、この疑は一辞一義のことなり。朱子の彼是と委曲に明弁なされぬも、経理にこと會する時節には融通するものにて、言語の喩すべきにあらざればなり。荅劉叔文書中にも如此虚心に理會し不得時却守取舊来所見亦未為脱耳不必守此膠漆之盆狂費心力也などにて見るべし。甚なげやりな様なれとも、朱子の手段は又別段なことなり。兎角勉斎などもはぜぬ処あるからをこりたなり。これがすぐに道を得らるるは、以魯得之の曽子にて見べし。勉斎への荅書にも所喩先天太極之義覚得大段局促如此狹隘拘追却恐不能得展拓とあるにても見べし。朱子の一々に示されぬは聞へたことなり。鳩巢先生などは志の大なる御方ゆへ、闇斎以下吾黨の諸老をば取るにも足らず弁論なされぬけれとも、勉斎は朱門の高弟にて如此事があるべからす、朱門の高弟たるゆへに段々と極口弁論なされて、一々尤なることともなり。されとも今日学者が鳩巢の仰られたるよりして黄勉斎をたわいもないものの様に心得ては冝しかるましきことなり。程子は易の本義を得られたけれとも、道統の傳に害はなし。これにて合点すべきことなり。闇斎をば彼党より自負太過煩朱子と呵りぬれとも、文會にて勉斎の取扱ひ大ふ丁寧なることにて、一口に呵りはされず。これは見処なり。心にらいがあると云ものにて、らいがあれば仁の氣象あるものなり。されとも書の吟味は法家の申告なるか如きをよしとすと朱子も仰られたなれば、学者ぎり々々につめるがよし。右見太極圖説寛政辛亥筆記。言長意精而門人不能錄。先生自書以賜秀輩。

○金に二聖のこさるにも朱子が兎角恢復々々と云。つまり宋朝をつぶす氣じゃ。この歒討をせぬでは生ても甲斐はないと理で断じたもの。するどひ見処なり。恢復せぬ位ならばつふれてもよいと云意なり。朱子行狀講後話。

○朱子も景色ずきで徜徉泉石間と云てある。景色のすきと云て内のやわらかか知るる。迂斎なども土屋候へゆく約束日には兄嫂が袷上下をそこへ出して置く。その処へあちからやめ手紙でもくると返事をやる。又一本手紙が出やふそと云内、やがて武井三左ェ門へ、今日小川町延引ゆへひまになり、今日遠方は遲く候はは近処へ可被越候と書て出す。やがて連れ立て出ることにてありき。

○謙開善に朱子が若ひとき、狗子有佛性のことをどふじゃと問たれば、そんなことを人に聞てすむか、一刀両断に見よと云たことあり。

○韓侂冑を押し叙した男が後又勢をふった時に口上はこわいもの。此寧宗の太子が国繪圖の様なものを見て嶋へ指をさして、おれが代になったらあれを爰の処へとか云様なことを云た。それを彼侂冑を押殺した男が知て、太子を押篭て理宗にされた。其理宗だに、眞西山が出たとて浅見先生がわるく云。出処の吟味にこれ程微細なはない。道学は段々禁好物がふへる。秀云、先生の御代になを呂東莱の学は朱子学に似て、そてない。今の朱学々々と云ものが皆東莱派と云てよいと仰せらるる。又一つ毒だちがふへた。曰、このことはをれが新説と云ことでもない。語類文集で見て云こと。それに直方の東莱不あい口じゃと云れたは定った説ぞ。しかしあんまり云とあたりになることも有ふ。愼むことじゃ。

○虚無と云も寂滅と云もあまり筋の違はぬこと。佛には心もならす身もならず、ならぬものこそ佛なりけり。これがつまり寂滅を知らせた歌なれとも、この哥を受用すると虚無と云にまわることぞ。

○無極而太極は鼻を見せぬがよい。鼻を見せると鬼神なり。

○旨酒を悪むは義なり。醉ふは酒の理なり。酒に醉て赤きは鬼神なり。

○今年の発明に、近思の外にふやさぬと云。どこでも大学でないことなく、近思てないことなし。以上三條鬼神集説講後話。見文錄。

○靜坐集説講後幸次郎曰、奥平氏、桑名藩の士。初学者と有ば成さふなことなれとも、難ひことなり。どの様な塩梅かとくと伺れず。曰、直方の人家にゆき、亭主の出ぬ前がよき静坐の処と云がそこなり。因に曰、直方先生の晩年享保三年の秋京都へ立るるとき、迂斎は唐津の在番なり。石原永井の両先生始弟子衆大勢見送りの為集る。今志水三九良居る屋敷なり。その朝に至り人馬間違ひ、如何してか六つ立と云人馬五つ頃に成ても来す。酒井公屋敷の懇な衆初め何れもどふしてかと色々とあせるを、先生自若として弟子衆と常の通り学談してありしとなり。これらも思ひよらざる処、存羪がみへる。さて程なく人馬来り立つとき、弟子衆色々の世話をし荷物出すに、先生駕の中に何もなさに先師の御硯筥は如何と云たれは、何しに硯が入ることかと云はれしと先師話せり。これを靜坐の意思にあることなり。笑て顧吾輩曰、後世非所能及と云は大小学のない治教を云。今日吾々の学問の德と云にならぬは爰らが非所能及ぞ。爰らのあやがすめば静坐のしるし、分外の趣なることが知るる。それが塩梅と云ものなり。

○今は皆が大中論孟を聞たから鞭策錄も初めての對面と云様でもあるまいが、本んに聞ぬうちは鞭策にはならぬ。今日某が心と云と志と云字を分けて説たが、穿鑿にもおちるか爭の端にも成ふかは知らぬが、志と云は豫讓があの通り大名を歒に持て子ろふた。それが討ををせぬなれば志は達せぬと云ものなり。されとも其心は最初よりまぎらかしのない実心ぞ。心は今それになることゆへ目ざす。志にうそのない端的を立心と云なり。立志と云たら寐たものがは子起き、眠氣もさめると云でなければ志でないが、心が立ぬと志が届ぬは、浩然の氣のないのでほんのことでない。斯ふ鞭策してゆくでなければ聖賢になることはならぬ。これ程に道義をはりつめるでなくては行届られぬ。つまり志も云ひ立になる様な病あるもぞ。そこをきめるが鞭策ぞ。

○汰哉之譏。檀弓にをこれる哉と云こと。日本は礼がないから、学者が礼を以義起しても汰哉にはならぬ。服忌令にないことを学者のするは皆汰哉じゃけれとも、よいことも汰哉になる。

寛政七年乙卯四月十六日易講後。先生顧曰、易はよくすめてよい。前々上總では易は傳授ことの様に覚へて居た。片貝の弥右ェ門が迂斎へ、某も久しく御出入り申上るから何とぞ易の風味を知りたいと云た。石原聞れて賞玩して、弥右ェ門が易の風味と云たそよとて笑へり。

問六二鳴謙与上六鳴謙同異。先生曰、文義に何も違ふことはない。又問、語類に一説二と上六鳴謙ちごふ様に云てあるは如何。曰、あれは今本義の定らぬ前の説かなり。謙を鳴すと云様に見たかなり。豫の鳴豫と云文義は別なり。廉潔をうるの筋は鳴すなり。恭をすごすもいやなり。謙卦講後話、本義筆記載之。以下倣之。

○重次昨朝揚亀山の人欲者非性の語を発明した。これ迠あの語の云様はよくない。あれはあの人の語で解すがよい。人の性上不可添一物。なんとこれでよいで有ふ。さっはりとすんだ。

○又曰、順老丸亀藩士、迂斎門人。五月六日侍す。講釈は先年の様に面白みはよめず、講釈は下手に成たが、されとも学問は上りたろと覚ゆ。今日は又舌の痛むでよいことが出ぬて、いよ々々舌も痛む。
【語釈】
・順老・・・中野順齋。名は敬之。讃岐丸亀藩の臣。

○学者も講釈をするは駕舁に落たやふなもの。駕舁足の痛むにかくはやれこはいじゃ。三宅觀瀾が近世学士庶に下ると云ことあるが、をれも駕舁にをちた。今日も舌痛にこまる。

吉五郎、賢は、館林藩学士。五月廿六日始侍。今日始てゆへ断るが、彖象を此跡へよむと云は吾党きびしひ法度じゃ。禁物だ。易を乱りたも爰からだ。柯先生以来とんとせぬこと。されとも又あれを別に読む日には皆が卦爻のことは忘れて仕舞ふ。直くに読で大ふ力は省くことじゃ。剥卦講後。
【語釈】
・吉五郎・・・新島禮夫。名は幹。治助、吉五郎と称す。浜田藩士。寛政12年(1800)11月8日没。年31。服部栗齋にも学ぶ。

○今朝からみれば舌の痛がちとよくなりた。駕舁が二里あるひたれば足がよくなったと云、それと同こと。黙斎が舌、駕舁の足、其揆一也だ。この舌の痛み出しが、保羪の氣の痛む最中に、去年江戸の宗家不身帯從母弟が乱心の躰で来た。とんと面白くないことのみ。それで痛み出し、その跡へ酒が手傳ふ。

○謂儀惣太曰、館林藩士、二村氏侍す。江戸の学者には門人の籍と云ことが聞へるが、すれば門人の帳でもあるか。某には帳はないが閻魔の帳がある。今度も十年前にああ心得ぬと帳につひたことが、近来或る人の来たで帳に合ふたことを覚ゆ。孔子も帳はなかったそふな。盖三千とある。帳があらは盖ではない筈。閻魔の帳はをそろしきことと思ふべし。鼻のさきに懇にして居ても此帳をばはづす。これを心術の帳と云。
【語釈】
・儀惣太・・・二村恭剛。儀惣太と称す。館林藩儒臣。

○新嶋氏問曰、脩道之謂教、脩るは人為になきことあたわず。然るに道体たること如何。曰、脩るは全く人為脩行だが、其脩行の目立ぬ処は道体からぞ。王陽明うるさく思て雨露霜雪莫非教の筋に云。それでは脩性之道になるぞ。品節の教ではないぞ。首章説を遊佐清左ェ門が疑ったについて、鳩巢も未定に属されたは甲斐ない見識ぞ。埀加にはあそこに感ありて中和集説にかかりた。それをよくは見られたと直方の感服なり。とかく功夫へ片足入れた様な処からでなくてはすまぬことだ。困知勉行も筋をたせば脩道の教からぞ。汗をかくほどな脩行もやっはり道体からぞ。道体からでなければ無理な功夫をするになるぞ。

○道学と云字を全く衰亡の意じゃと長藏が説ひたそふな。これは以の外さしつかへな説き様ぞ。道学の字を衰世の意と云と、公儀へ對してもよくない。道学館へも差合たわるひよみたしだ。秀云、秦漢以上に道学とつづひた文字がなければ衰世の意と先軰も云たにてはなきや。迂斎も傳を失ふと云につひてそふ云ひ、行藏なども云たが、をれが思にそれはよくない。憂道学之失其傳而作也。異端邪説がはびこって道学の傳を失はふと憂るは衰亡の意じゃが、中庸で失はぬなれば、道学と云字は目出度とよんだがよい。殊に道学の文字は道体の道の字と為学の学の字だ。をらが前から云、釈迦が寂滅を道と立るから、為学を人倫を絶つとする。老子が混沌未分の一元氣を道と立るから、無為自然が為学じゃ。中庸天命性が道体で戒愼謹独と云為学、誠者天之道、誠之人之道也。道学の字は目出度ことぞ。彼藩学校出来て道学と名付け、それを全く衰世とは扨々苦々舗説き様ぞ。

○困卦講後曰、朱紱赤紱は程傳の通り君臣の服にあててよし。本義とささわらず。赤紱无所用は臣が君の用に立ぬこと。九五からは上下とも臣なり。朱子も程傳へあづけて朱赤の註はなしと見ゆ。

○謙卦象傳講後、問裒多益寡之文義。曰、裒ると云が今裒[あつま]ると云ことでない。だたい山は多きをあつめてある。そのあつめ多きの山をへらしてひくい方へやることじゃ。

○顧吉五郎曰、昨日傳心錄よみしや。曰、然り。因及道統之談先生曰、溝口侯の佐藤八右ェ門よく聞男だ。幸田子の道統はちっとの処にも引かるるものぞと云話を錄してあり。あれが彼三子などて云ことじゃ。亀山も延平も未発の処のあんばいが違ふてもあるゆへ、朱子も不観の観ととりなしてもある。されとも三子が分銅のつかまへ処はつかまへた。そこであの傳心錄の傳心の字が孔門傳授の心法を程子から朱子へ傳る迠の中つぎぞ。
【語釈】
・佐藤八右ェ門・・・佐藤復齋。名は尚志。八右衛門と称す。父は佐藤安澄。新発田藩儒臣。寛政3年(1791)8月3日没。年43。

問、道統は甲斐ないものでも時によりてよい。人の死んだ跡などでひっかりと云位にも道統の任あたることありや。曰、さふ云ては禪坊主でも受取らぬぞ。道統と云は聖人で云が定法だか、さふなくても心が道統の指になりたのでも云。そこで明道のことに付て眞儒と云文字あるぞ。聖人より後は眞儒が道統ぞ。眞儒ともが道統の精彩ぞ。さてこそ周程張朱ぞ。吉子又問、心が道統の胸になればと云ては禪に似るの疑あらんか。曰、似たと云に斟酌は入らぬ。傾城の親切も貞女の親切も深切に違ひはないが、大ふ違ふことじゃ。似たに頓着はない。似たものを嫌ってそれをせぬと、つかまへ処をつかまへそこなふ。賢も傳心錄を読んで面白みのつくときが学問の上りたと思ふがよし。あれから皆講じられよ。

○幸田子の渕源錄には鉢坊主の様な迠が載てあると云たが、あれは程子の息がかかれば出したと云こと。道統の筋ではない。周恭叔迠載てある。訂翁はそしられたが、一と筋ある思わくぞ。韓退之程でも張り子の虎と永田が云はそこなり。尹彦明は印子だけ蚤でも道統ぞ。沢一が心は管仲より上と某毎々云ふ。

○吉五郎云、東莱博議科挙の為めの手本になる文と承る。曰、然り。問、文集の七十四に朱子の策問と云が三十二条あり、あれは朱子の時文もこの様な経書の吟味で書くかよいと云ことなるべし。好学論の様な科挙の文はめったにはない。あまり春秋も掘りかへしたと云た処もあるゆへ、これを手本にと云はれたこととみへる。あれを題に文章を書たらよからんや。曰、時文と云ことがあの方では免れぬことで、程子も弊を云れぬが、どふもならぬ。経書で時文を書てもさふもゆかぬものだ。昔古本屋のこんやくものが下手談義と云草紙を作り、風俗の衰へを歎て書たれば、又雜長持と云かへしを作り、上留理太夫の文字大夫をよんで論語に節を付て歌はせよと云た。時文に馳せぬと云も其人々々でなくてはゆかぬこと。今日本で政の上に幸なことには、官々のないと科挙のないが幸ひだ。道理で時文を書ても、利を得る心いきのぬけると云ことはない。今教へやふなら武藝を專一にはげましてと云教がよい。弓馬も試みて出世の種にもなるが、武藝を磨く心の專一から道理にも入ることぞ。いくら道理々々と云ても、科挙めくと実義はすくなくなる。

○儀惣太どの御在所でも葬埋に瀝青のこと行はるるで有ふ。曰、然り。曰、此節藩中でも三日死者おくことに差支はあるまい。曰、然り。曰、されとも奉公人のことは、届け塩梅などには心つかいの入ろふことぞ。扨て棺は瓶でよい。殷人用瓦。さっはり礼に合はぬと云ことでもない。先生作状、念頃に棺上の松脂の仕方より蓋のこと迠に及び、扨家礼の脉処と云が松脂のことと三日置くことじゃ。三日も三十六時にするがよい。礼は木札で塩梅がない様だが、礼の出るときはいつでも仁の方をふりかへりてみるがよい。仁の塩梅がないと礼が露氣なしになる。三日過れば生きぬとて三日で蓋をする。そのとき仁と礼が一つに落ち合ふことぞ。

○又曰、死者へ厚ひ心からは家の有無も計らぬ筈のことと云へとも、さふ計り云はれぬ。護喪になりたらば、家の有無とそろばんを離さぬ様に世話をせふことじゃ。當時儒葬と云がとんと格式にかからぬことだ。家老の棺と小役人などの棺が似るほどでもよい。なぜと云に、つまり瓶か箱かと松脂する迠のこと。公儀つひた格式はないからぞ。却てそこは樂じゃ。

○坤彖傳講後弓削德助大洲藩士。西南の隂、東北の陽、如何。曰、先天後天圖流行對待を見べし。又玉講附錄上之二答袁機仲書郷飲酒義の言より坤之東北之為陽西南の為隂云云とあり。あれでもすむことなり。本義筆記坤彖文錄。
【語釈】
・弓削德助・・・弓削德介。伊予大洲藩の臣。

○説卦傳講後顧文二曰、今日は漢儒から日傭に雇はれた様な心持ぞ。不断をらなども荀九家や蒙引にその様に屈む者でもないが、爰でこんなことを律義に読ぬと詩経で名物をなぐる様なもの。多識鳥獸屮木之名とある。荇莱も雎鳩もなんでもよいとは云はれぬ。秀云、今日は一字ひろいの御講釈で、さぞ御つかれあらん。曰、いや又この様にほつ々々読にいやと云はれぬ面白象のあるでさふもない。面白ひことぞ。

○年内どふしても終へ易をとふ々々よみしまふぞ。例の課日でよめば二月迠かかるを読しまふことじゃ。今日の二席を秀が筆記すれば、跡は某が自錄しても高が知れた。今度の易の読み様は、壯年のとき上京の皈りに土井侯の大目付と同道して道中追ぬいたと同ことじゃ。あのとき宮様の御泊りの場など夜中追ぬいて小田原へつひた。大目付が今夜はゆるりと泊ろふと思ひつろふに、某が又人足を觸れて酒勾を越へた。目付が道中中せつながったが、跡で聞ば同日に京を立た者が十四日遲く江戸へついた。二度川留にあふたと云。今度の易も春迠のばしてをれが残して死でもよくない。ああ来年からこんなことは受合ぬぞ。甫田勿田惟莠桀々莫懷遠人憂心怛々。四五席の小冊ものをひかへたと六十四卦とは違ふ。あの聽徒の硯筥共がをれが為には疱瘡餘毒じゃ。あれを燒き捨て来年からはさっぱりとせふぞ。况んや他国の遊学を許さんや。十二月十四日。
【語釈】
・る・・・ぬ?

○市郎問、梁惠王の見牛而不見羊の処、外に一路の見やふもあるや。曰、只あの文義でほつ々々すますことぞ。あれが牛と羊とかへたことも、百姓の愛だと云も、尤なことと二つながら始めて氣が付たと云こと。是誠に何之心乎は氣の付ぬ処。その氣の付ぬが甚よい処。伯者などは一から十迄一々氣が付たらけ。そこが仁に遠々鋪処ぞ。

○大壯卦講後曰、大壯と云卦が出ても皆大壯をせぬ占法ぞ。金子はつこふ為だが息子には使はせられぬと云のぞ。

○前日館林侯へ上りた書き物の中に、非知之難行是難と云を行の難ひは知が眞に至らぬ故ぞ、本に知れば行は難くはないと云意を云た。斯ふ云は子ばあの語が行の難き計りになる。秀云、語類に論先後則知為先、論軽重行為重とあれば、行ひは相手をとるだけ重きと云ことで難きと云意あるにてはなきや。曰、いや相手と云はふより肉と云がよい。肉にさへられて行が差支へる。肉にさへられ子ば行は難ひことはない。その肉も眞知のひらけたものはさへられぬ。

○明夷象傳講後曰、わるく見ると初登于天照四国也、天子の身分で初は天に在りて四国を照したが、後にはわるくなりたと云様に見る、さふ云文義ではない。初登于天照四国程の身分だから天下中の明をも夷りたが、後には手前の明を夷りたと云文義ぞ。紂王の禍は全く酒から起りた。禹悪旨酒。夏の代ではきつい酒法度で天下に酒はない程のこと。夏の末から胤侯や五子之歌ものんだとみへる。それから湯王になり、嚴き法度とみへて太甲も酒は呑ぬ。殷の世に酒の禍なかりたが、何にきついことはないと云て飲み初た。これに計りは天下の民が興起してさぞ喜んだで有ふ。それも照四国身分放天下の明を夷りたのぞ。其ひきつづきて周の世で無正に飲んだから、周公の酒誥を作りた。首を切れと云てあるはあんまりの様じゃが、そふもなくてはどふもならなんださふな。

○先生顧曰、今日重次見へぬな。秀云、麥蒔と帶解にていそがし。曰、児共の可愛がり様も食禁抔のことは帶解ほどに手當がない。あれが子の可愛がり様がわるい。平日柿やだ菓子でそだちて居るに、江戸菓子をやりたがる。あれでは腹に合ぬ。佐左ェ門がをれに、銀茸は毒はないが、これ迠まいらぬものは腹に合はぬ。喰ひつけた初茸はよいと云た。あれが一生の明断ぞ。第一痘などはやるときは食傷させぬ様にすべし。たとへば昨日女房の衣類かりて質にやると、今日の夫婦喧嘩に口の引けると云様な底がある。今日のは質のことではなくてもそれが出る。疱瘡流行のとき、外の手當はなし。食傷させぬ様にするがよひ。食傷の処へ痘を受るとどふでも前日の質物が出る。重次も疱瘡の順でもわるくはどふもなるまい。全ひ氣質のものはたぎった処なくてよくないが、その代りに哀樂もさほどにないもの。重次があの人事の不調法に文字の甲斐ないに、それで道理とよくうつるものだけ喜怒哀樂も偏に出る筈。わるくすると二代目の五郎兵エ、清名幸谷、喪子過哀者。になる男だ。それに小児の手當にぬけあるは、格致の足らぬのなり。

○孔明曹操にまける筈はないがなぜと思ふぞ。諸子不答。孔明儒者の氣象とある。あれで負けになる。なぜなれば、よいと云ても聖人には及はぬ。曹操が手くろわるいの巧者は至善へつめた。歒されぬ筈。

○太三郎、東金の人、誾斎の二男。沍寒動息を伺ひ辞し皈る。曰、太三はよい男になりた。誾斎のさぞ不便がるで有ふ。兄の傳十がきまりたより、あれがをむくなのが不便に思はふ。秀云、親の身も理からの愛では利口な児が可愛ひ筈なれとも、氣の方からは柔和なをむくなのが可愛がりてあるかとなり。曰、いやそふも云はれぬ。をれをば迂斎の大ぶ可愛がりた。ばさらな様でも、どこぞでは道の任のたのみあるは可愛ひこととみへた。そこは俗情とは別なり。

○若林の脇差を拂ひに出すと云たれば、或人が、御拂ひものならば私へ下され、近年兼て懇望と云たれば、強斎の、をれが秘藏すると思ふて兼て懇望を今迠包んて居たか、ああきたない心じゃ、それと云て投け出した、と。ああ又違ったものじゃ。

語って云、村落に痘瘡小児五歳計りなるあり。隣家老婆、これは日数をくへばよいと云たれば、あとで小児が子だり出した。やれ其日数を買て来ひ、喰はふ々々々と云た、と。曰、それらが世に痘瘡を神と云場じゃ。邪氣と相手になり、内に受るものあるから難題を云たのじゃ。秀云、そこの処は妖怪一本足の話と同じきか。曰、然り。邪氣も段々あり、極邪は人心を動すなり。感冒も邪氣なれとも、大熱傷寒は狂の如し。それを受て言語する。やはり鬼の人に附語すると同日の談なり。されとも右の語は正氣にて、只菓子などのことと思ふたかなり。東涯がかけまかふの筋かなり。

○夬卦象傳講後の談に姤の九三と上九が類し。又九五の象の志不舍命也と萃の象の上六未安上也が相似て文意六ヶ敷なり。時節じゃと命に片付けず、天命をすておかず、回復するを志と云もの。そこが不舍命なり。萃の齎咨涕洟も、上六の場はこの筈のことと安ぜぬ。その安んせぬがよし。此孔子未安上也から朱子而後可以咎とされたなり。

○文問、卦爻の辞はなぞの如く、當時のことも用れば俗語もあらん。繫辞傳には俗語用ゆまじきや、如何。曰、経にも俗語らしきことあり、書にも詩にもある。掻首と云ても吹き出の痒きをかくでないにてみるべし。

○訂翁の内室の者病をして死後に、をれも看病つかれがあると見へて兎角草臥る、看病も氣か手傳ふゆへつかれもあると云れた。

○丹治が手習の師匠をするなら師の心得になる壁書を書てやろふと思ふたがやめた。をれが手を師匠のだと思ふと手習子の親がよこさぬ。朱子などかあれ程さま々々のことをしたが一生麁相はない。あの麁相のない処を黄勉斎が祭文に、夫子の知は生知、行は安行と書た。どふでもあの麁相のないと云処に生知がある。其外にしても名を好むものには麁相がない。文章家でもこの様な詩文は出されまいと思てやめるから、そこで麁相をせぬ。朱子抔に未定の説があるとても、あれほどの語類文集の内にちっとなこと。程門の衆など名を好ずずっ々々ときれて出るから、輯畧のちっとの内にいかひこと麁相がある。

○謂二村氏曰、聖人の謙德と云た処あるが、謙退は調法なものと云てするとどふもならぬことじゃ。誠からの謙でなければならぬ。それが德の字ぞ。謙はどこでもはつれはない。仕あてると云てすると胡廣が中庸や郷愿と云になる。易で謙卦計り凶无咎の字がない。謙はよいと云てすると伯者假仁義になる。いくら結構なものでも假ると云ことではわるい。謙の字を使ひ覚て調法なよいことにすると心術の大害になることなり。

○新嶋氏問、究神知化の化を服部氏繫辞傳にて行のことに申た、如何。曰、繫辞の註覚へぬが、服部氏の吟味でよいで有ふ。顧重次郎曰、明道の詩、道通天地有形外、窮神のこと。想入風雲変態中、知化にあててみることじゃ。化は天地のはたらき得た方から行と云ふとも、知るの字究むの字は知のことぞ。
【語釈】
・服部氏・・・服部栗齋。名は保命。字は祐甫。善蔵と称す。別号は旗峯。服部梅圃の子。摂津豊島郡浜村の人。江戸に住む。麹溪書院を建てる。寛政12年(1800)5月11日没。年65。

○謂市良曰、賢誾斎をすすめて江戸へ往たらよかろふ。幸普請も出来たさふな。此節誾斎江戸に学舍を建つ。あの娘の大病のことも、少し快方なら離れてゆくが誾老のためによく、娘難治の症、それに大老の身で、側について居てまのあたり愛子の難治をみるより、江戸ではたとへ死を聞たとも同じものでも悼みが薄ひものぞ。見ると聞くとの違ひと云こともある。この喪のことは大勢の兄弟共ついて居る。ぬけめはない。市良云、中々病勢離れかたき底とみへました。勝間竜水と云手習の師は佐文山と池永道運が弟子なり。七十才の年に娘大病にて息の絶るをみて、弟子に廿計りのあほふなるやつあり、それを召ひ何やら云とやがて草鞋二足買てくる。師弟二人草鞋をはく。何するかと思へば家内を召び、行德あたりへ往き二三日逗留すると云て出た。これは老莊の見なり。老莊だけ保養にはよいことなり。これらのこと、外から老人を養ふには心得の一つなり。

○花澤文問、鞭策錄跋文、開巻便有与聖賢不相似處、あそこの文章ひょっと出ものの様にていかか、又あそこの聖賢の字はわってある塩梅もあるや、又只廣く指すことか、如何。曰、聖賢の字は廣く云こと。扨あの段では巻を開けば聖賢と似ぬぞよ、鞭策せよと云れた、其二字の意をつよく云。それを此書の名とした證拠なり。だたいあの鞭策錄の編集なぞと云は大ぶすごいことじゃ。そこであの浅見先生の序文でからが、直方の滿足と云てすへたことではない。既以自為誦而又為吾丈誦之、又為讀此篇者誦之。大ふ立派なぞ。惣体あの序が弁もよいか文章もよい。髙明疏敏云云の一節などは大ふよいことじゃ。甚だ学者の受用になるよい序じゃが、文章の立派が鞭策の序にはちとめかぬことじゃ。立派では塵がつくと云程のこと。奥方の中老の容色のよい様なもの。老女や中老の美しひでよいと云ことにはゆかぬ。却て容色のよいが見くるしい。中老めかぬ。利休が茶湯に盃と云ことはない。今利休形の盃と云は皆うそじゃ。茶會は茶のこと。酒を飲むものに飲せぬも不興。そこで飲む衆は一抔と云て德利で出す。それを有合の汁椀の盖で呑したもの。利休のは德利酒ぞ。鞭策錄の序も德利酒がよい。文章の害と云もその様なもので、吉五郎など大ぶよい。あれでは道学が進むまい。あれで專一に道学すればいよ々々よい、全才とも云はふが、さふゆかぬものじゃ。作文害道の処で淫声美色をさけるやふに云てあるが、好色などはさきに相手もあり、晩年には相手がなくなる。文章は我作らすには主張せぬもの。我に文才ある故のことぞ。そこでやま。丁ど美女が、をれはめったにない器量じゃと思ふて化粧が出来ては鏡を見、湯から上る、又鏡をみると云様な、をれはよいと思ふことなどが一生やまぬものぞ。そこが文害道のぞ。あの条を吉五郎に講せよと云はその為めぞ。するに吉五郎がこれを講し、あとで今日日本では又文を作ら子ば聖人の書の文もよくすめぬと云たを誰も訂さぬそふな。それでは組頭役は勤らぬぞ。昔年高倉屋鋪であの章をぐにゃ々々々と講じた、と。其筈のことぞ。文者が近思をよむからぞ。
【語釈】
・編・・・徧。
・を・・・ぬ?

○道学標的講後謂市良曰、某抔今日この書を読と云が先輩からの宗旨を守るのみのことじゃ。館林の若ひ学者に俄に標的を読でも今早速の受用になるの、為めになるのと云ことでもないが、これを読が宗旨じゃ。髙ぶることは却てよくない。只じり々々と直方派の宗旨を云てをるが、その中に自ら髙ひこともあるもの。

○同前講後謂長作曰、今度上總へ来てのあかりには、学問に目鼻をついて皈るがよい。さふ云日には何となく一とふりかわりたと云体になるもの。まあそけものと云様ながよい。心地一段と掛る心になると体が変るもの。与五右ェ門、をれがこの頃の発明に心術のことはあらくするもよいと思ふ。細か々々と云がよい様で、細かがゆかぬとき粗ひこと迠それなりにをくもの。手つよに粗くと云がよい。羽箒迠用意して竹箒も使はぬ様になるものぞ。竹箒をつよく使ふで羽箒は入らぬと云様な筋もある。それから又入るになる。
【語釈】
・長作・・・山田華陽齋。名は記思。長作と称す。号は黒水。館林藩儒臣。天保3年(1832)9月25日没。年60。

問、朝聞道の註、知而信ずるの信の字は、信者知之実也と云解でよく合様なり、如何。曰、然り。あの信の字が易では正固の固なり。孟子では知而不去じゃ。小児は金子と知ても信でない。そこで落す。大人は金子と知て信する。いかなこと落さぬ。そのいきぞ。

○德助殿、大洲には今日の様なたての講釈はあるまい。これがよいと云ことでもないが、三百里來ての益と云様なもの。ふりの替ったことを聞が益になるものぞ。道学標的講後話。

○をれが神道のことは不案内だけれとも、経済には兎角云たくなるが、これが孟子の心だ。都鄙問答とか云書に、仏道でも神道でも得れば一つになると云は非なり。それは違ふ。予は神道と云処で一つ引上ることを覚へて云。先師も、神道道明かならは佛はつぶるると云へり。似てもあたりの違ふことあり。直方先生のことを迂斎が初心なとき先生は孟子だと云たれば、そりゃ孟子ぐるみ知らぬだと云れた。後に考るに世人が直方を禪学に似たと云たれば、ちと有ふかも知れぬと云た。禪に似たと云程でなければさへぬことなり。をら抔をも幸田子が覇者が々々々と云て嘲られたが、それでも腹の立れぬことがあるは、をら抔が若ひときから人事にかけては人の使ひ抔も手が廻るから、さふ見へることも有ふも知れぬ。そこがやはり下軰な処なり。但し孟子の心だと云は、戰国の巾着切の様なものへも心へきりこんで云はるるが孟子の心ぞ。時計の師がさびを落す様に心を云は子ば時計くるふなり。恕も絜矩も心がくるふてはならぬ。孟子はその要道を心から直してかかるなり。これ孟子の心なり。兎にも角にも吾方がゆか子ば、やたけにはやりてもゆかぬ。小利口に立廻りてはなんのことでなし。まけるが勝じゃなどと云下手あるを覇心と云。舅のもので連袂[あいむこ]と云様に立廻る。覇心で人動すことはならぬ筈なり。学者もたしなむべきことだは、韓信が胯をくくりた様なことを、つい出来たことの様に心にのりがつくものぞ。それが伯心と云ものの芽なり。史記左傳めったにみると、知惠なき児に知惠をつけるになる。然れば学者居敬の意少しも離れては、面も貌もはやみられぬ。居とはじっしりとそこへをとしつけのある氣味、その浅見子の伊川のことを根府川石の様にと云はるる居の意なり。ふは々々すれば人によりてうつり、或は時めくの筋もある。めくと云こと、皆居の字の意のないのなり。めくと云はよくないことなり。武士めく、はやなんぞと云とそりを打つ様になり、好色めく、はや密通する。隱者めく、はや髙をくくる。経済めく、はや手を出したがる。根がすわり志が定り向ふと、めくと云筋はない筈なり。思不出其位と云も中へこみ入て見れば居敬の居の字からなり。爰に居敬の話するも斎戒神明其德の功夫を云なり。治教錄の頭を示さんとするゆへ、今日は治体の分数の多く示したれとも、此書にある治法のこととも扨々我邦にひしと親切なことともなり。一々吟味すべきことなり。治教錄講後話、下同。

○この書は経済の書なれとも、序文に董子退子の性と天道に未た々々と云を示して道体を見付ぬことにつつまりて、開巻に觀天之神道と説く。扨々面白きあやなり。道体の見なくては経済のならぬと云は天なりの人故、人を脩るには天からなり。孔子の春秋と繫辞傳も一理なこともみへるなり。人者一箇小天地、道体経済二致なきことなり。

問、通解の臣礼に荀息がこと、あれは乱命じゃに諫めぬ。荀息を出したは如何。曰、適庻と云も君から立てのことぞ。今この方で嫡子願ひと云ことがある。惣領でからが嫡子願のすまぬものは嫡子には立す、諫るはよいことなれとも、父や君を諫るも内則のことなり。表向へ出たときは君命どこ迠も返されぬ。そこで文王も羑里にのほんと居て、天王は聖明と云はるる。

○湖南の見処の髙さ、仁は過はない筈、過は仁のさし合、観過知仁と云から、それでは麒麟が獅子じゃと云こと、過を獅子にしたもの。獅子は百獸をののきをそる悪なり。其悪て麒麟の仁を知ると云こと。うらて知ること。仁へ遠ひものを出して仁じゃと云て麒麟は獅子なり。

○中庸は達磨の女房を持た様なものと或老人に云たれば、左様仰られては猶々すみ兼ると云てうつらなんだ。

○丹二が様な柔和な律義なうちばな者でも、学問すると悪くなると云があることぞ。格致で手のこんだことを聞から、いつとなく玉しいへ入る。柯先生、髙木末白を、そちはたわけだ、儒者にはならぬ、神道になれと云たが、只やすく云たではない。あの人男の資質か手入らず、はや神道によいのぞ。格致するとづんとわるく見へるもの。神道は律義な正直の頭でよい。人欲は有ふとも、吾もそれも知らずに只正直と云が神道の処じゃ。誰家女とは同姓異姓の吟味をしたことじゃなど云は馬鹿なことなり。吾学ふ神道の意も知らぬ。

○行藏が信古堂、村士氏学堂名。と云たは仁斎が古義堂の古に近ひ。仁斎などかうかと聖人になりたと云様に云が、これが髙ひ者にある癖じゃ。所願学於孔子と云は悪ひことではないが親切にない。程朱をと云より退溪をと云がよいとをれが云は、学の親切を示たもの。先年溝口矦の学校を道学堂と書た。不器用な名であれとも、此下で中原復逐鹿れぬ。程朱が道学で禁じられたから道学と云名が動ぬ名ぞ。名、調法なもの。

○精彩のあるなひと云は実心のあるないからなり。病氣のときは医心のあるものが容躰云ふが頼母敷筈じゃに、母が抱て居て、夕部何時此児がかち々々と歯をならして、それからふるへたと云。母が可愛ひ親切から精彩がある。医者がそれを聞て療治をする。今日の鞭策錄で立心の字の読み様は精彩の根を語りたことぞ。

○心與理と云は、凡天下の学と云が心、凡天下之物と云が理、それきりのことじゃが、心与理會ひと云段はほっかりとしたこと。学而時習、学と云は心なり。理と云は時に習ふ。段々こちへ入る。亦不説乎。それそこへほっこりと落たこと。

○太極を天で計り云と悪ひ。天も一物じゃ。只一物の大きひと云計りじゃ。

○をらが様に道德のない者の講釈は人がとり立ぬ。任底の意がないからなり。講書はをれが先輩にも讓らぬが、德でせぬから人へひびかぬ。聽徒はなりたけすくないがよい。講書は今をれが任じゃと云様な心いきにどふもならぬ。訂斎など横着ものじゃけれとも古人じゃから、講釈のあとで一度々々に先今日も無恙つとめたと云た、と。石原の先生が老体で御苦労と云て聞くことをききさすと、をれに當然をさせぬと云て腹を立てた。それ程の任底がをれにはない。をれが講釈は鱣屋の鱣をさく、つかまへ様を覚へたのぞ。つかまへ様は上手じゃ。この語先生諸子を顧て云へり。

きけ、律義な者と一づなものの出合に面白ひことがある。此間清兵エがかつみの親類へ行たれば、其人が清十郎は長崎へ行たと云が、なぜ先生をば誰も上へすすめぬといきって云た、と。清兵衛が挨拶が、誰も迎ひに来ぬから出られぬと云た、と。をろかは面白ひもの。

○清十郎やがて皈るで有ふが、こちへ来ては何某内誰と云て具足持せはすまい。やはり百姓じゃ。その様な出處はないことじゃ。團十良が樂屋へ引込んだとき工藤左エ門でない様なもの。長崎では丹をぬってにらめたが、今は置頭巾と云のだ。
【語釈】
・壝・・・鑓?

○長藏が、論語では愛之理心之德、孟子の註では心之德愛之理と、どふしたさばきぞと問て来た。よい不審ぞ。この捌きが論吾で愛之理心之德と云たは、本文が專言じゃから愛之理と仁の用からみせて、心之德と跡で云て、本文の專言へ落した。孟子は仁義と出たから心之德愛之理と心の体から云て、偏言の仁義へ落した。兎角本文へ落すが注じゃ。註は兎角しめになることは跡へ云たがよいもの。前々から説は、孟子は千言万語心上より説き来る。そこで心の德から先きへ云ひ、孔子は仁々と仰せらるるから愛から云たと云が、註をするにそんな意はない。証拠もないことじゃ。今度註は本文へ落すことと云たに間違の有ふ筈はない、定説だろう。

○道理心事四者は道体の自然、もと一貫底のことなり。語明説言四者は学者講究の條緒なり。道体一貫もそれ々々に名目わかるる。理の分派なり。講究の條緒も心に神會するは自家の貫通なり。其把柄は心与理而已の一言に皈着するなり。是大綱なり。されとも物の字から目鼻を付てゆか子ば自家一心之段着に落ず。これ物の字の精彩なり。當然実跡も物に即か子ば、父へする当然が君へ合ず、妻へする当然が兄へ合ず。これ君父妻兄と云物からでなければ実跡が違ふ。すました顔をしても格物から来ぬと、當然実跡ががくそくとしてふっくとゆかぬ。君を敬すると云へは君を愛する汁氣なくなり、親を愛むに親を熟諫する敬心がはきとなく、當然実跡へかけてくるととっくとせぬ。丁度声がよいとて謡をうとふても、節のわるさに笛太皷に合ぬ。大学は初は凡即天下之物ゆへほそ々々とした様なれとも、一旦豁然貫通で左右源に逢ふなり。物の字の精彩知らぬと、最初は髙をくくり悟ったやふで、あとの貫通の時分になると、當然実跡が脇差の後家鞘と云様にしゅくりとない。そこでこれはと二つになり、ひしとせぬ。我流手前細工は髙上な様に見へ疎通な様に見へても、跡がしっくりとない。藝者が理にくらわされるなと弟子を戒るがそこぞ。事の上から修行すると跡が衆理が皆活する。理て髙をくくりたがると弓馬も劔術もそれきりになるぞ。道理心事の時はどふかこふか押かぶせるが當然実跡と二つになる。若ひ医者傷寒論の會のときの様には療治はならぬは、當然実跡のはきとないゆへぞ。それで大言は役に立ぬぞ。虚理泛論のときは相応にゆく。これ畠の上への水練なり。上文の語明説言と虚理泛論は二つことに非す。只云ときへ善悪取舍をあてるとはやわからぬなり。たとへは平居易卦爻の講釈はすれとも、一事ありてその卦爻を得て辞を以是非取舍するときはむりに動ぬものなり。これ訓話の俗習議論の空見て、當然実跡取舍得失が日頃課日の講釈の様にはゆかぬ。牴悟矛盾するなれば、講習討論も無用の費へになる。これと云も物上からきめず高をくくるからぞ。訓話の俗流は物の徇とも、物は道の実形と見る眼なさに心に照らず、見識の空言は理でくくりたがり事物をすてるゆへ実事がない。髙ひも卑ひも皆格物のしこじらかしと心得べし。大学物説講後話。

○同浴而議裸程。韓文答張籍之語也。見文會筆錄。

○大学の章句知猶識也が六ヶ鋪、すみにくいことぞ。これをそっと孟子の行之而不著の註に、著者知之明、察者識之精と云てある。これらでも知猶識が畧相発することぞ。知の明はすわった処。識之精はすわらぬ。精義入神も精の字すわらず入神はすわるぞ。

○誠意から平天下と云ことに明道の関雎麟趾を引く。さふないと天下の典章文物がうそになる。そこで明道の語をば誠を立に引くなり。亀山すべて整頓の下手な人ゆへはきとない。惣体その筋のこと、朱子の或問に弁じてあるぞ。

○重次云、鱣の蒲燒になるが鱣の本分を尽して安便になると云も比干が胸と同ことなり。曰、賢等が聞き様が器用ぞ。先達て某が求馬が方より西銘以孝明仁云云のことに付て、孝子之有深愛者必有和氣、顔子春生也、戰陳無勇非孝、孟子有泰山巖々之氣象と云。さて々々卓絶ぞ。斯ふ云はれては某抔の云ことがなくなる。先生謂文曰、戰陳無勇非孝、孟子有泰山巖々之氣象を未瑩と云てやりたが、予が答あしし。あれでやはりよいぞ。云へばあそこへ放伐抔を出したがよい様なもの。文云、あそこへ浩然の氣を出したら戰陳無勇へ舍點抔のことも對して然らん。曰、人の発明ずっと出たなりでよい。跡で彼れ是れ云ふはわるいぞ。以上二条傳心錄講後話、見文錄。

○傳心々々と云ても朔から今日迠の會に三十牧よみた。傳心の早飛脚じゃ。倂しをとなしく目を眠って存養めいて読んだと云ても傳心はのこらすじゃ。外につくことでなし。

○春秋と中庸、一つになりそもないものが一つになる、皆何と思ふ。これが丁度朱子の吾一生之精力在大学啓蒙と云た様なもの。太兵問、傳心錄編集のとめは吾道南すの條きりですみさふなもの、文定の条の出たは如何。曰、予も本さふ思ふたがさふでない。吾道南は空な様なぞ。その南の実事は中庸と云書を領落した。そこでこの条できめるが実事じゃ。

○重次云、不念舊悪清者之量と云がすまなんだに、今日の無恩怨の詩てはよくすむ様なり。曰、然り。をらなど無性に人を悪く云がこちの病なり。たび々々云て云ひやみたとき、さきがよくなりたと云ことではなく、多く向はかわらぬもの。皆こちかたまりじゃは、譬へば弟子を勘當し、同門が十度詫言したから十度目には許したと云ことあるもの。これもよく思へばつまらぬこと。わび言一度目から九度目迠は改らぬが十度目に改った故許したならきこへたが、さふでなく、一度から十度迠同ことぞ。向が改ったと云ことではなく、此方の腹立の残りたのなり。空水にないからなり。

問、存養至此侭有地位。この有地位の字が未発の処を体認して求中の彼の序文の弊の処なりや。曰、求中は呂与叔じゃが、延平は体認すと云った。場を見付たと云様でわるい様に聞へるが、体認したものは地位はあるもの。朱子の恍然得要領のときは地位があると云もの。をらなどその塩梅は知たれとも体認せぬ故地位がない。これらも出則不是と云のは、思へば已発と云と一つことなり。はや未発の場でないと云こと。求るも求るものがはや已発になり、体認するものがはや已発になると云て、未発の場を示すこと。されとも戒謹恐懼がすぐに体認の地位になるなり。

問、菩提菩薩之辨。曰、近思錄は菩提、渕源錄は菩薩。菩提は覚非情、菩薩は覚有情と云ふ。よくあたるぞ。されども聞くるしい。此方と云もの先軰はついに云はれぬ。

○重次云、今日始て延平の看と云ことすみたる様に覚るなり。曰、延平の看と云は隂陽でも氣化でも形化でも只是理としたこと。直方先生の、隂陽圖説ではない、太極圖説じゃと云もこれと一つに落る。圖説隂陽の上計り云た処が、あれで太極じゃ。秀禀云、太極只是一箇実理と朱子も云れたが、されともあれで語るときに理々と計り云てもすます、氣を貸て云より外理の語り様はないことなり。曰、それに付て云ことじゃ。されとも太極只是一箇之氣と云。語類三の説なり。太極只是一箇氣と云て氣で句をきるはわるい。一箇氣迤邐分做両箇。氣へ連るなり。氣の字を句にするはわるい。あれはあとの云々と云はふために出たこと。下へかけてよむことじゃ。あそこを先師も読みそこなふた。あの条の注意も、氣の段々さふなるが太極とみることなり。

○幸子善の大名衆へゆきて大酒長喰ひしたり無心を云たりする。それも欲心でないゆへぞ。唐彦明が本庄の茅屋で某と三人會をしたとき、をれは弁當もてゆきたが子善には弁當もなく一日何もくわれず、唐崎があのきたない家で四五日前に炊ひたほろ々々した飯喰ふを見ながら脇でやっはり学説してをらるる。その時何ともない底でありた。固より酒もない。何ぞ出す処の沙汰ではない。湯を沸すにも松葉や杉葉でいぶし立る。やっはり其湯を飲んでおるじゃが、子善も煙るには困っていぶい々々々とは云たが、さても躰のよいことで有た。その氣で大名衆は出来ることゆへ、金くれたがよいと思ふてなり。今以江戸の学者譏るそふなが尤なり。されともそしる者の心よりは善太のはきれいなり。只不恭なりとこそ評すべし。

○今日読た処の延平の致師のことで思ふ。大学の経文の章句致は推致[きわ]むなり。中庸は致推而極之也とある。これに心得やふことじゃ。致知は、あの男が姫嶋の庄内と知ると跡戻りはせぬ。一度知るともふぬけぬ。そこが致知じゃ。致中和は人心へついたことゆへ、肉を相手にするで跡戻りがする。そこで推而致むとある。喜怒哀楽未発、そこが中じゃ、をい合点と云てすてておくと跡戻りがする。致中和は知ることを今日も翌日もまだか々々々とじりり々々々とゆくでよい。而の字あるで縄によりをかける様なでよいぞ。
【語釈】
・庄内・・・鈴木養齋。名は直二。莊内と称す。別号は空水。鈴木養察の孫。医者。成東町姫島の人。天保8年(1837)7月11日没。年74。

○加藤公の心畵の跋あるに、をれが傳心錄の読みやふは譟急忙迫じゃ。走り馬の放屎ぞ。をれらは傳心錄の譯者[つうじ]ぞ。

○某坊主天窓のとき、行藏が死の前年かなり。水府の同姓へゆき行藏が近処を通るから一寸見舞たに、家内はさひ々々とひそまっておる底なり。行藏出て、今日をれが貴様に逢ふは大抵親切なことではないと云からなぜと云たれば、いや忰が死んでたった今出棺した。親族にさへ逢たくない日じゃが、余り久しぶりの貴様のこと故逢ふぞ。予、それは存じもよらぬ、さぞ愁傷と云たれば、子の死ぬは天命じゃが、先祖の血脉がたへる、これが何ともと云た。そこで愁中でもをれがゆるさぬ。それは貴様いかい心得違ひじゃ。子共の死だ、ああ不便と哀ですんだこと。其中へ取り交て先祖の血脉が絶るが哀しひと云に及ぬと云たれば、其日もをれにちと云まけで有た。それから玄関へ送て出て、そこが行藏が至誠の心から久し振りではあり、をれが坊主のことを一番諫たい氣で有つろふが、愁傷でそれも出なんだと見へて、ああ頭が寒かろふと云から、これをかぶれば何ともないと云て懐から頭巾を出してかぶりて皈りた。ああ思へば親切な男ではありた。それに付て云ことじゃが、顔渕死すの章の其死可惜哭之宜慟非他人之比也は、あれは慟から立ての注ぞ。御前泣きすきましたと外から氣を付られて、さてはさふか、あれには泣かひではと云たから、其あやを語りたものぞ。哭而慟すの処には哀の過也又哀傷の至りと計りあり、あれを顔子ゆへ孔子も道の傳らぬゆへと云様にみるはわるい。無心で出たこと。そこで胡氏の圏外で痛惜之至施當其可皆情性之正也とは云たぞ。哀みは哀みきりのことぞ。噫天喪予云云とよまいことを云て泣るるときは、悼道無傳とわけを云は子ばならぬそ。聖人の心ににかたはないぞ。これらも傳心の一つぞ。色々なことをこ子まぜると心が二つになる。心は一而不二ものなり。そこで功夫も主一無適なり。その主一無適のなりが心の本体ぞ。

○朱学と陽明学の弁の一言ですむことがある。朱子は暗ひ夜に烑燈かりて皈る。王陽明は物をかりぬなれば、烑燈なしに皈る。そこでどぶへはまるぞ。烑灯は物なれとも、それをたのむでこちが明になる。元来こちが明なれとも、こちばかりではどふにをちる。

○王陽明の姦巧と云は、晩年定論のことじゃ。朱子の云たことで、己が陽明を賣ふと云のじゃ。

○漢唐を俗学と云は訓詁じゃ。其後に周茂叔が不傳之学を継遺経。これでぐっと髙く引上けたで二程ができた。其弊を程門髙ぶれて仏に流れたから、朱子が門人に綿密に説ひて其弊をためた。其跡へ大全者流蒙引など細かに並べたてて又俗にした。それを日本で山崎先生が又引上けたで直方浅見のやふな先生が出来た。其衆に十分にないことあるを行藏が憤り、古を信ずるのと云、幼学楷などと云平実からやる。其弊から又大全者のやふにぐじ々々ひくくなる。古今学変と云が斯ふしたもの。三代忠質文の尚、爰が自然とさふなる勢なり。陸象山そこを知らぬから、朱子の不信人間有古今、詩をやられても合点せぬ。直方浅見の髙峻から今又学者がひくくなりて来た。今秋をれが拘幽操から物説明德説を読のが吾友の天窓をはるのじゃ。これが目がさめぬかと云のぞ。

○をれが兼て物の説は朱子後の一人の文章、明德説は呂東莱後の一人の文章と云たが、今度それをやめにして読た。明德説が明の字づくしを云たゆへ物の説よりひくくはみへるが、何も博議のやふな竒説は一つもない。皆道理的実から云たことじゃ。やはりこれも朱子後一人の文章とみることじゃ。

○松敬大病さふな。老人の腫氣覚束なし。秀云、胸痞痰氣中氣不和食不進と承る。脾腎のいたみなるべし。曰、あの老医が若ひ者ともとはり合て呑むさふな。其元氣から入房も有ふ。秀云、小石は小石の重み、大石は大石だけの重みあり、長壽の人には氣魄のあつひ処ありて腎氣も滿ち、晩年迠淫情もある筈なり。学者も氣魄の薄ひ者は人欲もすくなく道理もうつるが、それと云が薄ひ生質ゆへのもあり、小石では事をなさぬ。持ちこたへがない。揚亀山の出處抔吟味の上から悪ひとこそ云へ、あの大難治の症と云様な処へのろりと出た。あれが只のものの眞似てならぬこと。腕に力を覚へてじゃからなり。孔子の公山弗擾や佛肸へ往ふと仰せらるる。亀山はその小ひものなり。曰、然り。その様な大きな出處迠やらずとも大木誾斎でからが七十有餘で長崎迠往くと云はつよひ処を持たもの。下手医者殺したことない、手柄にならぬ。上手はいかすことを知ただけしそこないもする。迂斎抔ついに進物の辞義したことはない。呉れ次第じゃ。よ井わるいも云はぬ。只とりた。人欲のないにがかいの大ひ方からぞ。こせ々々辞義するは小石の方じゃ。直方先生の親が、福山侯からつり臺でいかひことかつぎこんだれば肝をつぶしたと云。をらなどが直方抔のやふに、善をさするのじゃと云て取て居る程の氣分がない。折々館林侯から物を貰ふに、それたけに御礼がしたくなる。下卑た方ぞ。

○文二問、山崎先生の墓を留主希斎が總裁の役になり脩補し、そのとき学者の金子出したものの名を石に錄したとあるはいかがしきことなり。曰、それもそふじゃが、何れも顔子でないものの金子出したこと故止むことを得ず書たことで有ふ。あの又希斎抔がすることが人のひびくことで、進めもせぬに、をれも出さふ々々々と学問ないものまで出しつろふ。朱子の納粟人へ褒美を々々々と云た。だたいひやなことじゃが、一時救荒のやふな急なとき、やむことを得ぬことあるもの。江戸抔で学勢の振はなんだも、迂斎が盃を初て善太良殿で治た。何もかも益もあにことじゃ、止めろ々々々と云ことにしたものぞ。石原の先生は周密で、何ぞのことももちと考へろ々々々と云たでふるわぬ。惣体知見のある人のすることは人が進ぬもの。先師は実知なれともいこふ周密じゃ。吟味つよい人が寄ることがならぬ。秦の始皇が水銀で遺骸をつめ、後世朱でつめるなぞと云が、死者は腐るが當然じゃに、腐るものを腐らせぬ、そふしたことはなひことじゃ。そんなら松脂をぬるにどふしたと云に、斯ふすれば腐る者が腐るとき迠持って腐ると云はれた。細かな吟味じゃ。
【語釈】
・留主希斎・・・留守希齋。名は友信。退蔵と称す。別号は括嚢子。本姓は佐久間氏。一関藩士。初め遊佐木齋に学び、養子となる。名は好實。武内と称す。明和2年(1765)4月27日没。年61。
・いひ・・・ひい?

○燕居偶筆、あれたけ位では経済はならぬもの。経済もしすれば直方先生と善太良殿じゃ。なぜと云に、この衆は事をせぬからなるじゃ。聖賢の政のなりを只の学者がすれば、平生の役人にちっとのましをとりなもの。知見のあるもののすることが事をせぬからなる。せふと云てすればならぬもの。舎人殿が、三宅殿はやかましく云ても人が請ぬ、こちの直方は云はぬけれとも人が受とると云た。かかってせふと云てもならぬもの。せふとせずにすればなるものぞ。何事もこの塩梅があるぞ。

問、晋の荀息が奚斎を立てたは末々の子なれとも、嫡庻の詮義なきは献公の遺命ゆへなるべし。しかも朱子の臣礼に載せられたり。管仲の論語では嫡庻の論か大切ゆへ、程子の小白兄也子糾弟也できめてある。襄公死後のことゆへ兄と云字に大義の論をかけて、先君死後には兄の字で君と云字に見る意なりや。曰、然り。そのこと先年雜記へ書て置た。兎角君の命と云ことを主にしたもの。遺命なき時は兄が跡をつぐ筈ぞ。云、其意に此間皆へ申たれば、それでは伯夷叔斎の仁が聞へぬことになると申すから、又が申たには、伯夷叔斎の仁は跡の立つ立ぬの詮義にはかまわず、一人は父の命を云ひ、一人は天倫を云ひ立てて、自分々々が国を取らぬと云が一心なり。此の処を欲仁而得仁亦何怨んと云たと申しき。曰、その通りのことじゃ。四十六士論などにあの大先生が浅見三宅の見そこなふたと云も、君を主とした論ぞ。あのときの君の残念をと跡から思ひやる処でつひ見そこなふたもの。只は見そこなわぬ。重次云、浅見先生の靖献遺言の意もそれなるべし。東漢の名節より来たものなりや。曰、東漢の名節は只死ぬがすきと云ことじゃが、どふても絅斎のあそこの心に徹する処あるそ。遺言もいかさま君を々々と云一心からのことで有ふ。とても角ても小学君臣の義の附錄とみることじゃ。云、あの遺言が只死にたい々々々々と云者計り並へたでなく、陶渕明の孤枩を撫て盤桓す、引こみずきを入れた処が浅見先生の編集で有そふなこと。いこふ面白みある様なり。曰、さふぞ。あれが浅見先生の手でなくては出来ぬことぞ。あれに渕明がなければ只武者繪のやふになる。白徒の書になる。

○世には器用者もある。館林の求馬が伯夷叔斎の章の注の安便の字を不審云ふてきたから、伯夷兄弟は国をとらぬが安便、国をとらせられては不安便じゃと云てやりたれば、此間の返事に、顔子過於人欲則挙動不能と解して来た。まだ十八九さふなが器用なことぞ。

○上總の学者は稲毛の鳥居は越させられぬとをれが毎々云ふが名言と思へ。重次抔を講官にしたら袴を横ぶるに着て、吸物をうまいをつけじゃと云て飲むだろふ。それはまだよいが、今迠学友だに、はや様の字をわるく書く。これはよくない。

○論語の論難の語と先輩から云て論選のことは云はぬが、をれがこの頃不圖み出したが論選の書と云がよい。先軰の論難と計り云のは、藝文志の論撰と云たをばのけてのことぞ。論撰のよいと云証拠は外ではない、学而の題下ぞ。是為書之首篇所記多務本之意とある。あれが論撰ゆへ云たもの。その外論吾に並へ方の序のあるなとでもみよ。論撰と云てよい。論語を論撰にすれば家語が論撰でないになる。いよ々々よい。あれはあり形りを記したもの。俗に家語には繪のあるでも見よ。理の精微は画には書けぬ。終日不違如愚は顔子の天窓を下けた処でも書ふが、一以貫之唯と云処は画には書けぬ。大兵云、画に入るは氣以下ゆへなるべし。曰、それよ。廿四孝に竹子や双鯉躍出は書るが孟宗王祥が孝心の処は画にはかけぬ。

○重次郎もよはいでこまったもの。この頃の躰が、学問が只のほんと成たと云様じゃ。偖々又皆がうっそりにこまる。長藏へ殿の読書の仕方のことで云てやったことがあると、今度その返事がない。只りきんで計り居るで有ふ。あのいきな者が後には健忘するものじゃ。長作が狀をよこすにも、をれへ直きに云越してよいことを福苞迠よこす。それから又届ける。彼れ是れ世話ぞ。太兵へ云て、をれに返事に及はせぬ。面倒かけまいの心配りで有ふが、をれも返事はせ子ばならぬ。それたけ却て面倒じゃ。とやかく云うち奥平に皆さらわるる。手紙の書き様迠がよい。書の読み様がよくて才力がある。云、この間皆へ申た、日原氏を黄勉斎にすれば奥平氏が季通にあたる。日原氏には御つつきもあり、應接の日も久しひ。奥平氏の度々先生へ出合子ど、信向する迠がよく季通に似たと申して笑ひき。曰、あれが君と学流の合ぬで今迠芽を出さぬが、今又講官になりて聽徒の百人もあると云なれば、聽徒からも講釈は誰よりよいと云て有ふ。こちでもこなた衆三人じゃが、中では重次が一ち筋がよいが、いかにしても文字のない故学問がのほんとなりた。氣のぬけた人参の様ぞ。云、あれが氣魄の薄ひ生れゆへ耐累而読書と云ことがならぬなり。曰、この国が初手が清十郎を聖人と覚て柳橋の要助を道統の傳と思ておる位の氣習ゆへ、をらが云こと抔を聞てはとほふにくれるさふな。云、私や重次抔のはづみのぬけたも必竟はあぐみたと申様なもの。初無方別にかかりたとき、三五年程の内は一度々々に上る様に覚て、これではよくなられそふなものと存しました。其以後とこかつかへて一向上りませぬ。只喰ひ付て居て癈学なり。曰、またちとも文義でも済むたけ喰付て居る。文次もそれぞ。云、奥平子のよい処と存ずるには、一度きめたことは二度きめ直さぬと云底がある。書も一度きめればすっ々々とさきへ行るるなれば学問上ろふことなり。何か様あれが書の見様はよい。皆が膝元の者であれが下坐に屈むも手柄でもあるまい。貴様だちは才の筋わるい。世間へは出されぬ。
【語釈】
・福苞・・・福俵(地名)。北田慶年(太兵)が住んでいた。

○日本に尸はないが、若し有たら、神主を拜するに口の内でさま々々のことを云たら尸が笑ひ出さふ。云たとて云はぬとて向が鬼神のことじゃ。只唱喏するでよい。

○今日輪講ならん。栄次抔今何を読ぞ。秀云、中庸なり。あの二章目が読にくかりたさふでよくなかりしなり。朱子の低行書の処に二章にうつるあやを云てあることを呑込たゆへ、二章の題下の游定夫の中庸中和の説などはきとなかりしなり。曰、何にあれが読にくいことが有ふ。首章が性道教から致中和天地位焉萬物育焉迠に中庸の極功を云ひつめてはあれとも、とどあれは未発已発のことが主で、中節の和を語りたも未発についてのことから云たこと。二章目から序ひらきて、中庸に反したものや中庸なものを出したもの。菅相丞は中庸役、時平はそむいたと役者の顔をみせたもの。云、二章目の君子の字は中庸を語ろふとて何にもせ、君子と云たものと存するに、館林衆抔があの君子の字を聖人にすれば功夫があり、只の学者にすれば中庸を体認した様に註があり、さしつかへる様なと詰問せり。曰、我身となけく心なりけりじゃ。服部氏の、首章の天の字に註のないはどふしたことじゃなどと云ふげな。館林の者はあの君子にこまると云。こまるならあの君子の字はない心でよんだがよい。

○館林の御守りから、をれが下血を苦労にして鹿参丸と云藥を贈りた。則君への忠臣あついことじゃ。然し上手な医者にかかりたらよかろふと云てきたが、をれが返事に、江戸を去て田舎へ参るからは上手な医者はないと思て参りたが、田舍にもたしかな医と云はある。それを三四人集めて藥を剤をすれば上手な医に向ふ。其元各々方も御役蒙られても皐陶伊傅周召ほどにはゆくまいが、御同役三四軰でよく仰合されて相談でなされたら、皐陶伊傅周召の思召にたかわぬ様には成ふと云てやりたが、其後この事の返事は何とも云てこぬ。是を返事をつけたらやかましかろふと思ふたさふな。泣寢入になりた。

○謂庄内曰、学思斎へ講釈のこと云てやりた。やがてよむが貴様の手先きの小童も出たがるなら遠慮はない。ばた々々と讀んで仕舞ふ。長くはない。黙斎が講釈と女曲馬は久しくはない。
【語釈】
・学思斎・・・北田慶年の私塾。

○講釈の藝と云ことが知るる。石原の先生抔はあの不弁で孟子を読に、兄を殺さふとする弟を々々々々々々々々々々とくり返し々々々々云て何とも弁はなかったが、それでも人へひびいて感賞する。をらなどは先軰にもまけぬ読みやふじゃが、誠がないで人へひびかぬ。芝居にけいこと語りと云があるが、をれはそれじゃ。やんやと云はるるぎりのことじゃ。されともそのやんやも云人はない。

云、前日申上ました下血の御藥召上られましたか。曰、いや、呑まぬ。わるくなってもをれはこまることがない。なぜと云に死たい々々々と云功夫じゃ。死ぬがよいと思へば何も苦労はない。されともをれにわるいことがある。酒を止ればよいは知れて居て飲む。これがわるい。

○小児の生質は紙の様なものと思ふ。紙ゆへ外邪も余りうけぬが、さて痢病泄瀉抔にはこまる。湿からの病ゆへぞ。紙はぬらしてはたまらぬ。そこでへったりとなる。語類に童男童女云云。これに似た説がありた。又大人は布の様なもので、外邪はうけるが泄瀉抔には余りこまらぬもの。偖思ふに憂喜も一度きりと云がよい。この村でこの春疱瘡を仕舞ふてやれうれしいと云て、又死んたら泣がよい。物毎そのいきで、憂喜は猶更一度々々と云がよい。

○五郎兵衛が講釈に出ぬををれが考に、若しや女房も懐妊そふな。あの家がもとは大の仏者で親は信者じゃ。二度目の児が死んたとき、坊主が経を書て罪を滅せよと云てやりたと云。講釈に出ぬは少しは仏への遠慮でも有ふか、又女房や家内の方は出さぬがきけんよいである筈。とかくすすめぬことじゃ。

○寛政八年辰の十二月歳暮、二百疋を呈す。曰、近年歳暮の目錄も断り云てとらぬが、今年は患難のことにつひて物入多とて太兵がよこした。朋友財を通するの義じゃから受た。そちのも兼て受る心でいた。重次いそがしかろふ。歳暮に来るは無用。正月は六日に白鹿洞よむつもりじゃ。年礼にも来ぬがよい。六日にと云がよい。云、参らぬ様には申ませふが、重次が昏礼で物入り有ふとも、肴代は御受け下さるやふにと兼て申ました。曰、そちのも受けたからは受る意ぞ。