節要開巻大意序
去歳己酉之春、先生有言曰、嘉靖三十七年李退溪齢五十八、叙朱書節要、二百三十八年于此。曰、滉年薄桑楡、抱病窮山、悼前時之失學、慨餘韻之難理。然區々發端、以俟後來於無窮。享保元年佐藤子作冬至文、七十四年于今。曰、朝鮮李退溪之後、欲負荷此道者、吾未聞其人。二三子有志聖學無耶。信犬馬齢今實五十八、元旦為川塲佐生改修訓門人旁点、誦節要開巻、為之悵然。今春又因同志同賀履端之慶、開示節要開巻之大意。而髙宮文七録之為詳盡。雖此一時為吾軰發之、蓋亦有待、而然也繕寫已成。仍取諸老先生會約、冠于其首、又表章迂齋先生之文與榎並正固之書、以附其後、與同志相供警策云。
  寛政二年庚戌正月十六日
                    篠原惟秀謹識

【読み】
去る歳己酉の春、先生言える有りて曰く、嘉靖三十七年李退溪齢五十八、朱書節要に叙して、此に二百三十八年。曰く、滉の年桑楡に薄 [せま]り、病を窮山に抱き、前時の失學を悼み、餘韻の理め難きを慨く。然るに區々端を發し、以て後來を無窮に俟つ、と。享保元年佐藤子冬至文を作り、今に七十四年。曰く、朝鮮の李退溪の後、此の道を負荷せんと欲する者、吾れ未だ其の人を聞かず。二三子聖學に志すこと有りや無きや、と。信、犬馬の齢にて今實に五十八、元旦、川塲佐生の為に訓門人の傍点を改修し、節要開巻を誦し、之が為に悵然とす。今春又同志同じく履端の慶を賀するに因りて、節要開巻の大意を開示せし。而して髙宮文七之を録すこと詳盡為り。此れ一時吾輩の為に之を發すと雖も、蓋し亦待つこと有りて、然るに繕寫已に成る。仍りて諸老先生の會約に取りて、其の首に冠し、又迂齋先生の文と榎並正固の書とを表章し、以て其の後に附し、同志と相供に警策すと云う。
  寛政二年庚戌正月十六日
                    篠原惟秀謹しみて識す
【語釈】
・己酉…寛政元年(1789)。
・嘉靖三十七年…1559年
・享保元年…1716年。
・信…稲葉黙斎。
川塲佐生…
・榎並正固…唐津眼医。稲葉迂斎門下。
・篠原惟秀…本姓は北田。字は秀甫。初名は安進。與五右衛門と称す。号は靜安。幼称は松次郎。東金市堀上の人。北田慶年の弟。文化9年(1812)2月15日没。年68。稲葉黙斎門下。


節要開巻大意題言
  諸老先生朱書節要課會之規
一、 會日毎月両度相極事。
一、 先輩一人可為會正事。
一、 集會之面々四つ時相集り七つ時可罷帰事。
但、用事有人は此限にあらす。
一、 少々の用事は随分相延可罷出。若無據用事あらは會主に其断可申達事。
但、病氣無據用事の外に不参三度に及候人は、會主に申立、連衆を可除事。
一、 食事は各可致持参。幷に酒を不可出事。
一、 會に入候人は節要毎日致熟讀、
或は一條、或は一枚。會の節右熟讀の時、不審有し所致講習討論、其以後は他書の不審を申談候とも、書を讀候とも、學談致し候とも、静座いたし候とも、勝手次第にいたすへし。とかく朋友講會の間、德性を薫陶する意專一に候。無益の雜談堅く禁止すへし。帰り候刻、會主差図次第に、不残座に連り會主に一礼を申可帰事。
一、 毎日早朝に起、手水、髪を結、几案を掃除し、危坐して可對節要事。
一、 序文並に巻末書翰を以て節要を讀の規矩に立、為己之意不可忘。新奇異説を以て解し、人の耳目を悦すの意、嚴に可断絶事。
一、 朔望には袴を着し、節要可讀事。
附り。此両日は序文並に答李仲久書を一遍可兼讀。
一、 會の連衆は相互に無伏蔵可規諌。小事は書付を以可諭。大事は可面責事。
但、責め三度に及ひ不悛人は、會主へ申立、可除連衆事。
右、此會に連り候人、実に聖學を勤め虚偽利名断絶し、天地孔孟程朱の為に何卒此道を明させんと思ふへし。若不行跡の事有之、假令人不知共、此會に連り何の面目有て連衆の諸賢に對せんや。若し人其不行跡を知らは、孔孟を學人、如此なれは程朱の學も無益の事なりと申立候わん。甚だ道の害にして、実に天地孔孟程朱の罪人、此會に連る諸賢の為にも亦罪人にして、諸賢も亦甚無面目事なり。此意能々可相守。此會に連る人、此意を能々合点あり、心に如在なきとても、嫌疑の間此連衆の為にも可相慎也。
  享保庚子七月十七日    鈴木十左衛門
                            野田七右衛門
                            永井玄厚
                                沢一
                            酒井竹右衛門
                            天木善六
                            竹内三郎右衛門
      甲辰七月入會     佐藤彦八
      丙午十一月入會    長谷川源右衛門
        以上。
此後入會之諸老如左。
                            小野﨑舎人
                            長野宇右衛門
                            多田儀八郎
                            野沢十九郎
【読み】
諸老先生朱書節要課會の規
一、 會日は毎月両度に相極る事。
一、 先輩一人を會正と為す可き事。
一、 集會の面々、四つ時に相集まり、七つ時に罷り帰る可き事。
但し、用事有る人は此の限にあらず。
一、 少々の用事は随分相延ばし罷り出る可し。若し據無き用事あらば會主に其の断り申し達す可き事。
但し、病氣據無き用事の外に不参三度に及び候人は、會主に申し立て、連れ衆を除く可き事。
一、 食事は各々持参致す可し。幷びに酒を出す可からざる事。
一、 會に入り候人は節要を毎日熟讀致し、或は一條、或は一枚。會の節右熟讀の時、審らかならざる有りし所を講習討論致し、其れ以後は他書の審らかならざるを申し談じ候とも、書を讀み候とも、學談致し候とも、静座いたし候とも、勝手次第に致すべし。とかく朋友講會の間、德性を薫陶する意專一に候。無益の雜談堅く禁止すべし。帰り候刻、會主の差図次第に、残らず座に連なり會主に一礼を申し帰る可き事。
一、 毎日早朝に起き、手水して、髪を結い、几案を掃除し、危坐して節要に對す可き事。
一、 序文並びに巻末の書翰を以て節要を讀むの規矩に立て、己が為の意を忘る可からず。新奇異説を以て解し、人の耳目を悦ばすの意、嚴に断絶す可き事。
一、 朔望には袴を着し、節要を讀む可き事。
附け足り。此の両日は序文並びに李仲久に答うる書を一遍兼ね讀む可し。
一、 會の連れ衆は相互に腹蔵無く規諌す可し。小事は書付を以て諭す可し。大事は面責す可き事。
但し、責め三度に及び悛[あらた]めざる人は、會主へ申し立て、連れ衆を除く可き事。
右、此の會に連なり候人、実に聖學を勤め虚偽利名を断絶し、天地孔孟程朱の為に何卒此の道を明かにさせんと思うべし。若し不行跡の事之れ有れば、假令人知らざるとも、此の會に連なり何の面目有りて連れ衆の諸賢に對せんや。若し人其の不行跡を知らば、孔孟を學ぶ人、此の如くなれば程朱の學も無益の事なりと申し立て候わん。甚だ道の害にして、実に天地孔孟程朱の罪人、此の會に連なる諸賢の為にも亦罪人にして、諸賢も亦甚だ面目無き事なり。此の意能々相守る可し。此の會に連なる人、此の意を能々合点あり、心に如在なきとても、嫌疑の間此の連れ衆の為にも相慎む可し。
  享保庚子七月十七日    鈴木十左衛門
                            野田七右衛門
                            永井玄厚
                                沢一
                            酒井竹右衛門
                            天木善六
                            竹内三郎右衛門
      甲辰七月入會     佐藤彦八
      丙午十一月入會    長谷川源右衛門
        以上。此の後會に入る諸老左の如し。
                            小野﨑舎人
                            長野宇右衛門
                            多田儀八郎
                            野沢十九郎
【語釈】
・享保庚子七月十七日…享保5年(1720)7月17日。
・鈴木十左衛門…稲葉迂斎。
・野田七右衛門…野田剛斎。名は德勝。七右衛門と称す。江戸の人。本所石原に住む。石原先生。明和5年(1768)2月6日没。年79。佐藤直方門下。三宅尚斎にも学ぶ。
・永井玄厚…永井行達。号は淳庵。隱求、三右衛門と称す。江戸の人。元文5年(1740)7月28日没。年52。一名は誠之。佐藤直方門下。
・沢一…大神澤一。筑前早良郡原の人。瞽者。享保10年(1725)12月1日没。年42。佐藤直方門下。
・酒井竹右衛門…酒井脩敬。一名は義武。竹右衛門、後に九郎右衛門、左平治(左平次)と称す。長島藩の臣。元文年間に没。佐藤直方門下。後に稲葉迂齋に学ぶ。
・天木善六…天木時中。善六と称す。尾張知多郡須佐の人。元文1年(1736)9月16日没。年40。三宅尚斎門下。初め佐藤直方に学ぶ。
・竹内三郎右衛門…松坂の人。山崎闇斎門下。
・甲辰…享保9年(1724)。
・佐藤彦八…佐藤就正。彦八と称す。号は謙齋。佐藤直方の子。延享4年(1747)2月22日没。年39。佐藤直方門下。迂齋にも学ぶ。
・丙午…享保11年(1726)。
・長谷川源右衛門…長谷川克明。初めの名は遂明。号は觀水。源右衛門と称す。松平伊豆守信輝の臣。佐藤直方門下。
・小野﨑舎人…本姓は在原。名は師由。初め團六と称す。秋田藩支封老職。宝暦2年(1752)10月8日、江戸にて没。年68。直方没後、三宅尚斎に学ぶ。子は師德。
・長野宇右衛門…永野退蔵。初め宇右衛門と称す。彦根藩の臣。佐藤直方門下。後に迂斎に学ぶ。
・多田儀八郎…多田蒙斎。名は維則。一名は篤靜。儀八郎と称す。別号は東溪。秋田佐竹氏及び館林松平氏に仕える。京都の人。明和1年(1764)8月26日没。年63。三宅尚斎門下。
・野沢十九郎…野澤弘篤。十九郎と称す。江戸の人。初め菅野兼山に学ぶ。佐藤直方門下。


朱子書節要序
晦菴朱夫子挺亞聖之資、承河洛之統、道巍而德尊、業廣而功崇。其發揮經傳之旨、以幸敎天下後世者、既皆質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑矣。夫子既沒、二王氏及余氏裒稡夫子平日所著詩文之類爲一書。名之曰朱子大全。總若干巻、而其中所與公卿・大夫・門人・知舊往還書札、多至四十有八巻。然此書之行於東方絶無而僅有。故士之得見者蓋寡。嘉靖癸卯中、我_中宗大王命書館印出頒行。臣滉於是始知有是書、而求得之、猶未知其爲何等書也。因病罷官、載歸溪上、得日閉門靜居而讀之。自是漸覺其言之有味、其義之無窮。而於書札也尤有所感焉。蓋就其全書而論之、如地負海涵、雖無所不有、而求之難得其要。至於書札、則各隨其人材稟之高下、學問之淺深、審證而用藥石、應物而施鑪錘。或抑或揚、或導或救、或激而進之、或斥而警之。心術隱微之閒、無所容其纖惡、義理窮索之際、獨先照於毫差。規模廣大、心法嚴密、戰兢臨履、無時或息、懲窒遷改、如恐不及。剛健篤實、輝光日新其德。其所以勉勉循循而不已者、無閒於人與己。故其告人也、能使人感發而興起焉。不獨於當時及門之士爲然、雖百世之遠、苟得聞敎者、無異於提耳而囘命也。嗚呼至矣。顧其篇帙浩穰、未易究觀。兼所載弟子之問、或不免有得有失。滉之愚竊不自揆。就求其尤關於學問、而切於受用者、表而出之。不拘篇章、惟務得要。乃屬諸友之善書者、及子姪輩、分巻寫訖、凡得十四巻爲七册。蓋視其本書、所減者殆三之二。僭妄之罪無所逃焉。雖然嘗見宋學士集、有記魯齋王先生以其所選朱子書、求訂於北山何先生云、則古人曾已作此事矣。其選其訂宜精密而可傳。然當時宋公猶歎其不得見。況今生於海東數百載之後、又安可蘄見於彼、而不爲之損加撤約、以爲用工之地也哉。或曰、聖經賢傳、誰非實學。又今集註・諸説、家傳而人誦者、皆至敎也。子獨拳拳於夫子之書札。抑何所尚之偏而不弘耶。曰、子之言似矣。而猶未也。夫人之爲學、必有所以發端興起之處、乃可因是而進也。且天下之英才、不爲不多、讀聖賢之書、誦夫子之説、不爲不勤。而卒無有用力於此學者無它。未有以發其端、作其心也。今夫書札之言、其一時師友之閒講明旨訣、責勉工程、非同於泛論如彼。何莫非發人意、而作人心也。昔聖人之敎、詩書禮樂皆在。而程朱稱述、乃以論語爲最切於學問者。其意亦猶是也。嗚呼論語一書、既足以入道矣。今人之於此亦但務誦説、而不以求道爲心者、爲利所誘奪也。此書有論語之旨、而無誘奪之害。然則將使學者感發興起、而從事於眞知實踐者、舍是書何以哉。夫子之言曰、學者之不進、由無入處而不知其味之可嗜。其無入處、由不肯虚心遜志、耐煩理會。使今之讀是書者、苟能虚心遜志、耐煩理會如夫子之訓、則自然知其入處。得其入處、然後知其味之可嗜、不啻如芻豢之悦口、而所謂大規模嚴心法者、庶可以用力矣。由是而旁通直上、則泝伊洛而達洙泗、無往而不可、向之所云聖經賢傳、果皆爲吾之學矣。豈偏尚此一書云乎哉。滉年薄桑楡、抱病窮山、悼前時之失學、慨餘韻之難理。然而區區發端、實有頼於此書。故不敢以人之指目而自隱、樂以告同志。且以俟後來於無窮云。
  嘉靖戊午夏四月日 後學眞城李滉謹序
【読み】
晦菴朱夫子、亞聖の資挺[ぬきん]でて、河洛の統を承け、道巍[たか]くして德尊く、業廣くして功崇し。其の經傳の旨を發揮して、以て幸に天下後世を敎うる者は、既に皆諸を鬼神に質して疑い無く、百世以て聖人を俟ちて惑わざるなり。夫子既に沒し、二王氏及び余氏、夫子の平日著わす所の詩文の類を裒 [あつ]め稡[あつ]めて一書と爲す。之を名づけて朱子大全と曰う。總て若干の巻にして、其の中、公卿・大夫・門人・知舊と往還する所の書札、多くして四十有八巻に至る。然るに此の書の東方に行なわるること絶えて無くして僅かに有り。故に士の見るを得る者蓋し寡し。嘉靖癸卯中に、我が中宗大王、書館に命じて印出し頒行す。臣滉、是に於て始めて是の書有るを知り、之を求め得るも、猶未だ其の何等の書爲るかを知らざるなり。病に因りて官を罷め、載 [すなわ]ち溪上に歸り、日に門を閉じ靜居して之を讀むことを得たり。是より漸く其の言の味有り、其の義の窮まり無きを覺ゆ。而して書札に於てや尤も感ずる所有り。蓋し其の全書に就きて之を論ずれば、地負い海涵 [ひた]すが如く、有らざる所無しと雖も、之を求むれば其の要を得ること難し。書札に至りては、則ち各々其の人の材稟の高下、學問の淺深に隨いて、證を審らかにして藥石を用い、物に應じて鑪錘を施す。或は抑え或は揚げ、或は導き或は救い、或は激して之を進め、或は斥けて之を警む。心術隱微の閒、其の纖惡を容るる所無く、義理窮索の際、獨り先ず毫差を照す。規模廣大にして、心法嚴密、戰兢臨履、時として或は息むこと無く、懲窒遷改、及ばざるを恐るるが如し。剛健篤實、輝光日に其の德を新たにす。其の勉勉循循として已まざる所以の者は、人と己とを閒 [へだ]つること無し。故に其の人に告ぐるや、能く人をして感發して興起せしむ。獨り當時門に及ぶの士に於て然りと爲すのみならず、百世の遠きと雖も、苟くも敎えを聞くことを得る者は、耳を提げて而して命ぜらるるに異なること無きなり。嗚呼至れり。顧 [おも]うに其の篇帙[へんちつ]浩穰[こうじょう]にして、未だ究觀すること易からず。兼ねて載する所の弟子の問は、或は得る有り失有ることを免れず。滉の愚なる、竊に自らを揆 [はか]らず。就きて其の尤も學問に關わりて、受用に切なる者を求め、表して之を出だす。篇章に拘わらず、惟だ要を得んことを務む。乃ち諸友の書を善くする者、及び子姪の輩に屬し、巻を分ちて寫し訖 [おわ]り、凡て十四巻を得て七册と爲す。蓋し其の本書に視[くら]ぶれば、減ずる所の者殆ど三の二。僭妄の罪、逃がるる所無し。然りと雖も嘗て宋學士集を見るに、魯齋王先生の其の選ぶ所の朱子の書を以て、訂さんことを北山何先生に求むと云う、と記すこと有らば、則ち古人も曾 [かつ]て已に此の事を作[な]せり。其の選び其の訂すこと宜しく精密なるべくして傳う可し。然るに當時宋公すら猶其の見るを得ざるを歎ず。況んや今海東數百載の後に生れ、又安 [いずく]んぞ彼を見んことを蘄[もと]めて、之が爲に損加撤約し、以て用工の地と爲さざるべけんや。或るひと曰く、聖經賢傳、誰か實學に非ざる。又今集註・諸説の、家ごとに傳えて人ごとに誦する者は、皆至敎なり。子獨り夫子の書札に拳拳たり。抑々 [そもそも]何ぞ尚ぶ所の偏にして弘からざるや、と。曰く、子の言似たり。而して猶未だし。夫れ人の學を爲[おさ]むるや、必ず端を發して興起する所以の處有りて、乃ち是に因りて進む可きなり。且つ天下の英才、多からずと爲さず、聖賢の書を讀み、夫子の説を誦すること、勤めずと爲さず。而るに卒に力を此の學に用うる者有る無きは它 [ほか]無し。未だ以て其の端を發し、其の心を作[おこ]すことあらざればなり。今夫れ書札の言は、其の一時師友の閒の旨訣を講明し、工程を責勉すること、泛論に同じきに非ざること彼の如し。何ぞ人の意を發して、人の心を作すに非ざること莫けんや。昔、聖人の敎え、詩書禮樂皆在り。而るに程朱の稱述は、乃ち論語を以て最も學問に切なる者と爲す。其の意も亦猶是のごときなり。嗚呼論語の一書、既に以て道に入るに足れり。今の人の此に於るも亦但 [ただ]誦説を務むるのみにして、道を求むるを以て心と爲さざる者は、利する所の爲に誘い奪わるるなり。此の書、論語の旨有りて、誘い奪うの害無し。然れば則ち將 [は]た學ぶ者をして感發興起して、眞知實踐に從事せしむる者は、是の書を舍[お]きて何を以てせんや。夫子の言に曰く、學ぶ者の進まざるは、入處無くして其の味の嗜む可きを知らざるに由る。其の入處無きは、肯て心を虚しくし志を遜し、煩いに耐えて理會せざるに由る、と。使 [も]し今の是の書を讀む者、苟くも能く心を虚しくし志を遜し、煩いに耐えて理會すること夫子の訓の如くならば、則ち自然に其の入處を知らん。其の入處を得て、然る後に其の味の嗜む可きを知らば、啻 [ただ]に芻豢[すうけん]の口を悦ばしむるが如くのみならず、而して所謂規模を大にし心法を嚴にする者、以て力を用う可きに庶し。是に由りて旁[あまね]く通じ直ちに上らば、則ち伊洛に泝 [さかの]ぼりて洙泗に達し、往くとして可ならざること無く、向[さき]の云う所の聖經賢傳、果して皆吾の學と爲る。豈偏[ひとえ]に此の一書を尚ぶと云うならんや。滉の年桑楡に薄 [せま]り、病を窮山に抱き、前時の失學を悼み、餘韻の理め難きを慨く。然して區區端を發すること、實に此の書に頼ること有り。故に敢て人の指目を以て自ら隱さず、樂しみて以て同志に告ぐ。且つ以て後來を無窮に俟つと云う。
  嘉靖戊午夏四月の日 後學眞城の李滉謹みて序す
【語釈】
・嘉靖癸卯…嘉靖22年(1543)。
・洙泗…孔子。
・嘉靖戊午…嘉靖37年(1559)。


節要開巻大意   押堀村文七録
【語釈】
・文七…高宮文七。

吾黨の学問のつかまへ処は大學の八條目、近思録の十四篇なり。時にその上へに最ふ一つここからと云つかまへとがなふてはあがらぬ。端的で云へば、直方先生のあの高上な見識てこふとふな李退溪をとられた。あれが直方先生のをもむきなり。それゆへ吾學はあそこに大ぶ趣向のあることぞ。今日ここへ来て學問をするものも、あの趣を把持 [つかまえ]処と理會[がてん]するがよい。某嘗謂、孔子を學ぶと云ふより朱子を學ふと云がよい。朱子の學は孔子の學ゆへ、孔子を學ふと云がよさそふなものなれども、朱子を學ぶと云て學問に把持処ができてくる。そこが見所なり。すは朱子學よ、朱子を學ぶぞと云ならば、李退溪の引導でと云が把持処になるなり。ここが某今日の発明ぞ。頓とこの様なだんになると、外から聞ては、何にか役に立ぬ、濟まぬことを云と云はふが、是れがこちに趣向のあることで、甚た秘藏することなり。あの李退溪を直方先生の見出さしったと云が大抵な眼の高ひことではない。高上な人は高上な人を見出すものぞ。それに、あの高上な直方先生がこふとふな李退溪を見出されたと云ふが、よく々々理會せられたものなり。ここを殊の外吾黨諸賢秘藏せらるべきことぞ。

さて、學問のことになりては氣質変化と云ふこと第一なれとも、先づそれ処ではない。氣質変化は修行してなることで、千難萬苦功夫のあることぞ。訓門人開巻の通りにして氣質変化せ子ば垩賢になられぬゆへ、あれはぎり々々のことなれとも、先づそれよりさきに學問の上へには氣質と云沙汰はとんと通用のないことと云を合点すべし。氣質はたとへば銀の金の錢のと云ふ様なもの。學問は米の代を払ふ様なものなり。金だから賣の、錢だから賣られぬのと云ことはない。銀を持て行ふとも米の相塲だけ取て、何でも苦しふござらぬ、御拂ひ遊ばされいと米屋が云ふ。丁どその様なものなり。學問のことになりては金の銀のと云気質はなしは根からない。垩賢の相塲の通りのことなり。直方先生などの様な高ひ人の李退溪を信ずるなどと云が、気質ではなふて學問上の吟味なり。気質で云へば、李退溪などはさほどに思わぬ筈の御方なり。學上で論するに気質と云ことは頓とないことぞ。學問の旨訣と云処をつかまへることにて、気質の善悪、德の熟否を沙汰するでなく、學脉をこそ云へ、人を論ずることはなし。退溪を信するも、このをもむきを知ら子ばそふも思はれまい。それは余義もないことぞ。

某先年母の病氣のとき井上交泰院の御出ありて、迂齋への御咄に、いやはや昔から朝鮮にろくな學者は一人もないと仰せありしがいかにも尤なことぞ。自餘のものが李退溪を見つけ様筈はない。兎角に學問をかさで覺へたもので趣をしらぬ。かさで覺れは、李退溪などはよくは思れぬ筈。學問と云ものはそふしたものではない。舉世大抵この様なことであるゆへ、余程學が有と云ふても、學問に取しまりがなふて役に立ぬ。學問と云ものはかさでないことと知れば、よほど目のあいて來たのなり。鳩巣先生ほどな御方でも、遊佐次郎左ェ門が山﨑先生を朱子以來の一人と云たれば、いやそれは螢火を日月に比べ、ちょろ々々々水を江河にくらべる様なものと云はれたが、是らも學問をかさで見たものなり。かさで云だんになると、山﨑先生の様な人でも朱子にくらべては螢火を日月に比べ、ちょろ々々々水を江河に較る様に違ふとも云へきことも有んか、つまりかさで論してをもむきを知らぬ。學脉のことにはそれは役に立ぬことなり。
【語釈】
井上交泰院…
・遊佐次郎左ェ門…遊佐木斎。名は好生。養順、後に清左衛門、次郎左衛門と称す。号は季斎。仙台藩儒。享保19年(1734)10月17日没。年77。山崎闇斎門下。

程子が周茂叔のことをさび々々とした禪坊主の様しゃと仰られ、朱子が李延平のことを田舎翁の様しゃと仰られたぞ。あの程子や朱子の御れき々々の口から、吾師のことを如究禅客の、如田舎翁のと云がかさで見ぬ処ぞ。かさでみると學問が道具立になる。毎々云ふ、沢一は管仲が上みに立ったと云も魂から云ぞ。管仲は孔子も若其仁哉若其仁哉と仰られて天下を胴がへしにした大才な人て、覇王の業を起された。それを沢一がその上に立つとはかさで見ぬことぞ。沢一かあの心術は天へ通ずるなり。わづかすががきでも彈て居る座頭坊がそれなり。管仲は天下を胴がへしにする大才な者てあれとも天心へ通ぜぬ。これはかさで云と云に付ての咄しぞ。此様なことを云が吾黨の学問の趣向なり。直方先生のたかひものをと目を御付けやらず、こふとふな李退溪をと仰らるるがかさで見ぬ趣向なり。是が先つ道學の頭項の処。
【語釈】
・沢一…大神澤一。筑前早良郡原の人。瞽者。享保10年(1725)12月1日没。年42。佐藤直方門下。
・若其仁哉若其仁哉…論語憲問17。「子路曰、桓公殺公子糾、召忽死之。管仲不死。曰、未仁乎。子曰、桓公九合諸侯、不以兵車。管仲之力也。如其仁。如其仁」。
・すががき…清掻。菅掻。菅垣。三味線で、箏の清掻の態を移したもの。歌なしに弾く。

さて、淵源録の続録に朱子よりのれき々々をいかいこと舉てあるが、あの中で道統へは、張南軒計りすこしよりた人なり。朱子の御弟子衆もをびただしく載てあるが、あれはただ載たものぞ。朱子の御弟子の中でも這裏 [あのうち]、ふんどうを得られたものは黄勉齋・蔡九峯計りなり。自宋而下元明の間、叢生[をびただし]く儒者はありたれども、朱子の淵源を見付られた人は薛文靖と李退溪計りぞ。外に道統の傳を得られたものは頓とない。扨、是れを云ふて、これから李退溪にかける処が大事の傳授事じゃ。薛文靖も李退溪もどちも朱子の學は善ふ得られたが、薛文靖は見識の高ひ人。李退溪はなんのこともない學問なれとも、ここが李退溪の道を得られたは平実な処に妙処ありて、ここの塲になりては薛文靖より李退溪の格式が上なり。今読んで見よ。読書録は靣白く自省録はさへぬ様なが、そこに看どころあることなり。惣体世間の學者を論するにも、飛ひ付く様なさてもと云ふこと有ふとも、それはふいてふせぬことぞ。惣じてほんのものは目につかぬもの。尊円親王の、をれが筆を人のほめる中は本のことではないと仰られた筋ぞ。あのかいなく見へる李退溪を馳走して云がつかまへ処。
【語釈】
・ふんどう…分銅。

直方先生の或るとき迂齋への咄に、薛文靖は婆々の茶を立る様なもの、李退溪は娘の茶を立る様なものと仰られし、と。頓と是等は折紙傳授ぞ。この語これまですまなんたが、某もこのごろ此語すんだぞ。茶を立る立ぬに用向はない。只婆々と娘と云こと。薛文靖はあれほど見識は高けれどもゆきつまりた。隨分學問はよけれとも、あれぎりなり。李退溪は學問がさきへ々々々とすすむなり。學問と云ものは垩人を學ぶことゆへ、垩人にならぬ中は道中最中。早く先生かぶになるは役に立ぬ。李退溪は朱子を標的にして生涯股引で駈てあるかれた人ゆへ學問に年がよらぬ。是れなれば死た朱子が活きて働ひてをる様なもの。是を孔門に引て云へば、薛文靖は曽点の様なもの。李退溪は顔子の様なものなり。顔子は孔子に追ひつきはされぬが、孔子に追付きかかりて死なれた。顔子は三十二で死なれ、退溪は八十で死なれたが、腰をかけぬ処はどちも同しことなり。ここへもちと辨をつけて云はふならば、李退溪は歩行ながら死なれ、薛文靖は居 [すわ]りて死なれた様なもの。すわりた者を目當てにするより起て居る者を目當にするがよい。

此の傳手[ついで]に云はふが、學問は道体為學の二つ。道体のぎり々々は物をはなれぬことぞ。そこで老荘仏氏もここでつぶれる。為學は歩行ながら死ぬ様なもの。ちっとよいと思ふとくつ入がして役に立ぬ。李退溪なともあれが知見のかたまりて、行ひ気はない。退溪固より篤行なれども、あれはあの衆の身についたことで、學問のことにはそれを出すことでなし。惣体行と云ふことはその人一箇で云こと。人柄はよいかなどと云は何兵衛、何右衛門をつかまへて云こと。學問は大學の八條目、近思録十四篇、あれが學業ぞ。あれを明かにするは知見なり。李退溪などの學問を荷負 [になわる]るが知見ばかりなり。そふたい吾はこふ云人柄の、誰はこふ云人柄のと云は内證のこと。學脉のときは小學善行めくことは云わず、兎角朱子を見て追かけてゆく。

冬至文にも迂齋や石原の先生、永井先生へかいてつかわさるるに、朝鮮李退溪之後任此道者幾人と云はれた。あれが心にのれは受用になる。必こふ思へと云ふことではない。もそっと外にはないかと云ふに、直方先生の朱子學を得て仕覺へたところで云はれたもの。商人のあきないに仕をぼへたあきないと云があるぞ。町人が商をするに、見た処がわるいゆへ、その仲間がその許は商賣をかへたらよからふと云。見た処はさむしい様なれども、全たいが仕覺へた商ゆへ、金のもふけ様がある。店つきがにぎやかでも、仕覺へぬことは役に立ぬ。覺た処から金をもふける。學者もをぼへた見処なくては道が得られぬ。道の見様が不案内ゆへ、李退溪などをさほどに思はぬ。それではもふけられぬぞ。その端的が學問の趣きを知らず、且つ把持処を知らぬに帰着することなり。

晦菴朱夫子云云。さてこの李退溪の譽め様が、甚たなことを云はれたなり。であれとも、是がみな見とりありて云たこと。わか仏尊としと云はわけはない。神道者の吾國の道と云はわけなしに信ずるなり。あれは信仰計りで知見がない。李退溪の是程なことを出して朱子を譽められたが知見から云はれたもの。朱子はあの様に大ふ學問に骨を折られたが、それを夫子の知は生知、夫子の行は安行とも云んことなり。あのやふに骨を折たを懐手をした様には云れそふもないものなれとも、手のとどいた処を生知安行とも云ふ。脩行をして得てもわかものになれは生知安行とも云ふことぞ。爰へ微塵も気質をまぜると學問のことではない。朱子を垩人につぐと云はれた。十方もないことを云ふと嘲る人もあろふ。信ずるものはいかさまとも云はふが、知る処を知ら子ばよい加减に名を付たになる。さっきから云ふ通り、是等も氣質に付たことではない。兎角気質のよいをよりとりにしたがるが俗儒の僻なり。明道を々々々と人が有り難がる。気質を尊ふことゆへ、明道を尊ぶ人は必温公をも有難と云。學問の説話ではない。是等のたぐいは皆學問をのけて気質で論じたものなり。
【語釈】
・生知安行…中庸章句20。「或生而知之、或學而知之、或困而知之、及其知之、一也。或安而行之、或利而行之、或勉強而行之、及其成功、一也」。
・僻…別の写本には「癖」とある。

明道はあの通り温和、伊川は殊の外やかましい御方なれども、御手前の口から、予が事を知らふと思はば先つ兄の行状を見やと云はれた。気質のことではないは、明道と伊川の連れ立て遊山に出られたとき、弟子衆が皆明道についてあるき、伊川は只一人あるかれたと云。それほど違ふが、それは気質の違ひぞ。明道は垩人の様なふっくりとした人。伊川は鎗で突く様なり。それに、をれがことを知ふと思はば兄の行状を見ろなどと云か、伊川も御手前か丸ひに似たとは思召ぬが、學問が合てをる。伊川と云と好まず、明道と云と有り難かるは気質を馳走するの見識。朱子四書の注をするに最初明道を伯子と云ひ、伊川を叔子と云はれたが、気質に違ふた処はありても學問に違ったことはないとて、最後に両説混して程子曰とかかれた。皆其見取ぞ。これが大切なことと云はどふなれは、孟子巻末に眞儒と云文字を出してある。明道のことを垩德とても云ひそふなものなれとも、眞儒と云字あるはとふなれば、垩德と云ことは上へもないことではあるけれども、その人一人ぎりなこと。德は至極懇望なれとも一箇のこと。學問は萬世へあづかるなり。是れが道の道統を語り、道學の正傳から眞儒と語る根を云こと。朱子の御德がどふの斯ふのと云ことのなく、道をついだがこれなり。
【語釈】
・眞儒…孟子尽心章句下38集註。「周公歿、聖人之道不行。孟軻死、聖人之學不傳。道不行、百世無善治。學不傳、千載無眞儒。無善治、士猶得以明夫善治之道、以淑諸人、以傳諸後。無眞儒、則天下貿貿焉莫知所之、人欲肆而天理滅矣」。

河口三八、斯文源流を作って闇齋の謙退遜順のないが上み朱子を累はすと云ふた。ををへいをして不德でがな有ふが、なにそれが朱子に關[あずか]ろふ筈はない。議論の上に微塵も悖戻 [もとり]たことがあれば上朱子を累はすても有んが、議論に少しも朱子にもとりたことはない。謙退の意ないとて朱子の不調法にはならず。若し云はふならば、百世以俟垩人而不惑の吟味から神道はいかがと學術で云ふ筈ぞ。議論は大切なものぞ。とかく気質の好尚が手傳ゆへ、無間然者中江氏と云ふ筋になる。中江は王陽明學なり。王陽明なれば朱子へ弓を引くものをつかまへて無間然と云が、ちと朱子を百世俟垩人と云にはづれて居る。気の毒ぞ。山﨑先生の學問は朱子の通りなれども、神道に惑ふたが上朱子を累すなり。山﨑先生の學問は神道になられた処がわるひ。或人直方へ、嘉右衞門は學問はよいが人柄がわるいと云たれば、いや人柄はよいが學問がわるいと云はれたなり。心のそこにちっとてもさっはりとない処があると、道統を得たと云てもさし水がしてをる。是れにはづれれば手本にならぬ。李退溪は、朱子を知た見処がここの処へ行たで手本になる。道の証文中庸の文字で朱子を證したことなり。
【語釈】
・河口三八…河口静斎。名は光遠。字は子深。江戸の人。室鳩巣門下。川越藩に仕える。宝暦4年(1754)11月6日没。年52。
・無間然者中江氏…間然無き者は中江氏

さて、閉門静居云云。閉門と云ふ字に大切に朱を入れて見様ことそ。是れらにつんとふかいあやがあるなり。論ずるに足らぬことなれとも、謝肇淛が五雜俎についに見ぬ。山水を見、ついに見ぬ書をみれば一段の竒快と云ふた。これはたたの寸法と合点するかよい。この類は俗學も云ことぞ。退溪の朱書へのかかり様は土臺かちごう。閉門などと云が、一と所を反覆したあんばい見へるぞ。是れが書を読むの大切なあやなり。朝夕に見れはこそなれ住吉のと云が大切なことぞ。冨士を見し人に見せばやと云ふもそれ。始めて見たはあさはかなもの。朝夕見る処にだん々々旨味がついて来る。兎角漸でなければならぬ。また見ぬ奧の花をたつねては致知、格物をするには今日到一件明日到一件でよいが、熟読玩味には見たところをたつ子々々々すると云蹴出しでなふては得られぬ。是が向ふまて行ふと云たことではない。さても々々々と感心したと云はれたもの。ここが朱子の學を得られた所。審證と云が親切の療治で、退溪の朱子の書札にはかりかかりた処がここぞ。前もなんのかの時云た。一六に講釈を立て、皆の來るも御通りがけの御目見への様なもの。審證でない。それゆへ講釈をきいても學問があがらぬ。親子ならんで五十になるものも十四五になるものも同席して聞。それでは功夫にならぬことぞ。それ々々の證があることなり。朱子の大勢の御弟子衆の脉を見て療治をなされたぞ。そこでよい。
【語釈】
・朝夕に見れはこそなれ住吉の…仮名手本忠臣蔵。「朝夕に見ればこそあれ住吉の岸の向ひの淡路島山」。元は津守国冬の歌。「朝夕に見ればこそ有れ住吉の浦よりをちの淡路しまやま」。
冨士を見し人に見せばや
・また見ぬ奧の花をたつねて…西行。「よしの山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねん」。
・今日到一件明日到一件…近思録致知9。「須是今日格一件、明日又格一件。積習既多、然後脱然自有貫通處」。

或抑或揚て朱子の療治方がそろふてをるなり。人にてん々々に得手かたがある。さて、上總の學問の起りは義丹なり。義丹なともよいが、兎角弟子を抑へるが癖てあった。療治の下手なり。抑揚が自然ゆへ、をさへたりあげたりせ子ば學問があがらぬ。導はこちへ々々々と引き入れ、救はころびそふな処を手をひく様なもの。わきへよりそふな所をちょっと手をそへるとよい方へ行く。又、この激と云手段か第一義なり。激することがないと人の胸へきいやりとくることがない。通する処の大ふ端的に行くものぞ。斥は激と似た様で違ふ。ちょっと見ては似た様な療治のしゅだんなり。激はゆるみや怠を激する。斥はそれをさしのけることなり。學者の療治方も医者の療治方も病をなをす処は同じこと。二つはない。病人に腹を立せてなをすがある。こちの激なり。名医の見宜が病家へ行き、病人へ、そなたの様なものはとても生きたとても役には立つまいと云たれは、それを腹を立て打果そふとて食に喰ひ付たと云。これは謀計なり。これとはちがへとも、向へあたる処がなければ學問も上らぬ。激するとすすむものぞ。
【語釈】
・義丹…和田儀丹。下総酒々井の人。医者。成東町に卜居。寛保4年(1744)1月5日没。稲葉迂斎門下。
・見宜…古林見宜。名は正温、字は桂菴、播磨の人。大坂に医塾を開く。1579~1657

心術云云。學問には心術の吟味が大切なり。よいことにも鼻もちならぬことがありては、事はよくても心術にたたると御坐にたまられまい。是れが吾黨の學でなふては気のつかぬこと。善ならよさそふなものなれとも、それが只そのぶんでとをされぬ。他人をたのまれぬことで、向ふの心ゆへ知れぬことて有りそふなものなれとも、なにがあの朱子ゆへ、その巣穴を知てやだものの胸に逗留せぬ様にしてやられた。かくすものを押し入れに入れて置く。學者もわるいことを押入に入てをく。朱子のちらり々々々と書簡にかいてやらるることが、向ふの心術の知れまい処にあたる。此言か文集書札の中にいかいことあるが、今まあ云へば節要十七荅杜仁仲書でもこれか知れる。杜仁仲がさま々々吾病所を舉げてよこいたれば親切と譽めそふなことを、朱子の呵られた。自家のわるいことを人に知らせて何にする。名外取名不但無益而已と仰られた。この一端ても心術にたたることを見よ。
【語釈】
・名外取名不但無益而已…名外に名を取るは但益無きのみならず?

扨、人にものをかくす人がありてかくせども、又功が入ると自家わるいことをまけだす人もあるが、よいやうで却てわるいのぞ。直方先生の、手前が出て留主をつかふのじゃと云はれた。気の付たと云様な顔で、実はせぬ気なり。朱子がそこを見て取って云はれたもの。身はしわくはござらぬと云ものはよくなるが、我等はしわいと名のって出る人はよくならぬ。なせなれば、そふ云て己がしわいを通す気になる。心術のことになると気味のわるいことがいかいことある。いろ々々とつくらふと気味わるく、然るにつくろはぬと気味よい様なれども、それも手かあれば心術の害なり。朱子が皆そこへ針をうたっしゃるなり。纖悪毫差。對して云。朱子の差引で、學者の方でここがちがったなと気のつく様になる。是が學者の方でのことなれども、皆朱子の方でかけひきするて、こうなることと見ることぞ。

規模廣大心法嚴密とかけて来て、上たん々々云通り、気質なとを出すことではない。大學の八條目、近思録の十四篇を手本にしてこふなることぞ。毎々士以弘毅の章を気質を帯ぬことと云もここなり。爰らはああだのこふだのと云ふ染そこないを出すことではない。生れつきてはない。學問のはばなり。心の内へすこしもやだものを入れぬこと。是れは手前で功夫したものでなければ知れぬ。某これを云ふがをかしいことで迂詐をつく様なことなれども、我が持ちまへの本のことを出すと學筋にならぬ。ここでは迂詐をつこふことぞ。八條目の講釈も我にないことなれども、あの通りに云ことなり。あることで云へば王陽明になる。今日學者とさへ云へば孟子などをよんで伯者のすることをわるい々々々と云が、吾が下女や下男使ふときははや伯者を出す。訶るべきことありてもまづだまして使ふ。これ覇心なり。ちょっとしたこと、片時の間ても、今日はまあこふと云ことはない筈。この処へ苟且 [かり]にもそれにならぬ様に心術を嚴密にするなり。密は蟻のはい出る穴も塞ぐなり。心法の大事と云ふが是れで、人の為になることをするすらわるいがある。よく々々なことなり。
【語釈】
・士以弘毅の章…論語泰伯7。「曾子曰、士、不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」。

董仲舒の正其誼不謀其利で、道義を明かにするより外に胸中に毛筋ほども外のことはをかぬことぞ。家内を治めるもそれ。上に云ふ通り、家来を呵らぬも、めぐむ気で呵らぬは君子の意なれとも、呵るとふてて勝手の為めにわるいと思ふて呵らぬは心術のわるいなり。家来や妻子をこいよとよぶにも心術のよいとわるいがある。それでも人はだまさ様とも、垩賢の塲に行くにはををきく掘りきれが出来て逗留する。學者間断のできるも心術嚴密でないからなり。垩人は心術嚴密ゆへ、親の背中をなでるから湯武の放伐までずっと一と串ぬきて、餘のものの這入ることはない。石のからふとの中でも衣紋をそろへるが文王の気象と云が是れなり。まあと云ふ、はやそこへわるいものが入る。事業の上へに心のある人を見れば學者々々と云ふが、皆伯者のすることをして居るなり。戰兢と頓とここを敬に説きをとしたもの。上みの規模廣大心法嚴密は全体で云。戰兢無時或息は存羪と見、ここの懲窒遷改は克己と説きをとしたもの。
【語釈】
・正其誼不謀其利…小学嘉言56。「董仲舒曰、仁人者正其誼、不謀其利。明其道、不計其功」。

剛健云云。全体の仕あげの処を云たもの。最初の規模廣大心法嚴密から段々説ひて、とどめの出來あがりは剛健篤實輝光なり。功夫を損益の大象の辞を用ひ、とどの処へ大蓄の彖傳でとめたなり。當時及門者云云。ここが学者のかたじけない処なり。及門は本望なことなれども、はておらなどは殘念なと云ふは了簡ちがい。幸田子の、訓門人をよめば朱子の直弟子になる様なものと云はれたがここぞ。朱子の直き弟子になりたらよからんなどと云もただ云ことぞ。意趣を知らずに云ことゆへ、ただ云たばかりで頓と役に立ぬことなり。先年唐津落合與七が、行藏どのが無事で居られたらよからんと頻りに嘆息して云たが、成程親切なことではあれども、意趣なしに云ふことゆへ、役に立ぬことをなげいて居るのなり。役に立ぬことをなげく了簡では、たとひ行藏か生ていたとて何の役に立つことではない。親炙を一大事に云と人が力を落してしまふ。萬代の後でも興起すると云がよい。去るに因て、孟子の垩人百世之師なりと云て、あとで然况於親炙之者乎と云はれた。朱子の後に生れたとてその様にくよ々々と云ふことはない。李退溪の如此云はれたで元気を付けやふこと。嗚呼至矣。この四字、朱子でしまふこと。これがよのものではならぬ。この通りに學問の教やうのしかたがよい。その仕方よいは何處なれば、或抑或揚の手段の書札を節要にされたなり。受用と云字を大切に見るべきことぞ。譬へは病人が藥種屋に腰をかけてをる様なもの。をれが病気には是れと云が五味か六味ある。ただ藥種屋を見てをるばかりでは受用にならぬ。的中なもののあるが節要の節要たる処ぞ。
【語釈】
・功夫を損益の大象の辞を用ひ…懲窒遷改のこと。易経損卦。「象曰、山下有澤損。君子以懲忿窒欲」。易経益卦。「象曰、風雷益。君子以見善則遷、有過則改」。
・大蓄の彖傳でとめた…易経大畜。「彖曰、大畜、剛健篤實輝光、日新其德」。
落合與七…崎門学脈系譜には長島藩儒臣で落合與吉が載っているが…。また、別の写本では、ここは「舩大工」となっている。
・行藏…村士玉水。名は宗章。別号は一斎、素山。行蔵、幸蔵と称す。江戸の人。信古堂を営む。村士淡斎の子。稲葉迂斎門下。初め山宮雪樓に学ぶ。安永5年(1776)1月4日没。年48。
・垩人百世之師なり…孟子尽心章句下15。「孟子曰、聖人百世之師也。伯夷・柳下惠是也。故聞伯夷之風者、頑夫廉、懦夫有立志。聞柳下惠之風者、薄夫敦、鄙夫寛。奮乎百世之上、百世之下、聞者莫不興起也。非聖人而能若是乎。而況於親炙之者乎」。

或曰垩經賢傳云云。是も李退溪の自問自答也。朱子の全書に付て見るに、書簡にかぎらず戒めになることあるに、なせ書札ばかりとなり。曰子之言云云。ここか先刻云仕をぼへたあきないの処ぞ。是れをよま子ば叶はぬ。兎角節要を読む筈のと法て云ことてはない。李退溪がして覺へたことがある。學問は病人の容体を云て療治をする様なもの。ここの処がわるいぞと云ふ。そこをなをすことなり。李退溪の書札が、きつくをれが薬になるとなり。どこにかぎらず文集をよんで進処はあるが、書札の部が興起すると手前へかけたもの。端が大事なり。つかまへとをつかまへるとちっとな処からいるもの。藥のきくも端の処できく。発端からすすむこと。端は全体に對した字なり。全体と云へば至極よいことなれども、端を知らぬと受用にならぬ。仁義礼智は全体なれとも、孟子の四端と云ことを発明いたされた。あの四端の端からいることぞ。端を知らぬと毎日々々四書をくりてをってもなか々々學問はあがらぬ。

宋の大慧が、車に一と車ほど兵器が積んであっても役に立ぬ、寸銕可殺人と云が、発其端作其心也。これは手前に覺へなくてはならぬことぞ。無理に喩しては頓とゆかぬことぞ。この覺へのない人を記誦詞章の學と云。それはただ書をよんだと云ばかりなり。人を相手にせぬことを泛論と云。第一を云へば、大學之道在明明德と云ひ、學而時習之と云様なは全体の學問道理の頭項を云ふたもの。固よりこの外はなく、其外論語孟子も皆全体をかたるときは泛論なり。書札には気の短ひと云ことがあると、はてそれがこちにもあると發人意なり。気の短ひ人になをせと云はそれきり一端なれとも、明明德と云よりは吾病に的中する。明明德と云へばどふでもはづれのないことで、あれさへもってゆくとどこてもよいが、よさすぎて藥がきかぬ。泛論は火の用心と云様なもの。書札は、茅のをき処わるいほどに火事を出そふぞと云ふなり。夙興は泛論。そなたは兎角に朝起をしやれと云ふがあたり有って云ふゆへ、大ふこちへひびくことなり。
【語釈】
・大學之道在明明德…大學章句経1の語。
・學而時習之…論語学而1の語。
・病…別の写本には「胸」とある。

論語は孔子の弟子を相手にしたこと。詩書禮樂は垩賢の傳なり。道に入るは論語が主になる。論語ほどよいものはないが、人の通用するものはかわりたもので、どこても論語でなければならぬと云に用心の入ること。堂上方ても論語のことを圓珠經と称したことありときく。いかさまどこへ行ても論語と云ふことは通用するゆへ、論語をしりたと云、字でつひ人欲の媒にもなる。論語がすんだと云へば學者一疋すむゆへ、それからして仕官して禄を得るもと手になる。よいことにも害は從ふものぞ。親孝行ほどよいことはないが、隣村に孝行者があって褒美をもらふたと云て、それから親孝行をすると褒美に目がつく。褒美に目がつくと孝行が利誘の手引きにもなる。吾黨の學と云ふはこれほどにたたることなり。頓と利の根を切て葉を枯らすでなけれはならぬことなり。利にちっとも目がつく、はやよこさまなり。ここも李退溪の實心から云はれたもの。中々ただのものの云はるることに非す。

論語は玉のやふな書。朱子の書はあたりのきびしいことありても旨が論語と同じことなり。その上にとりえかあるは、朱書では頓と利誘にならぬ。今日本では又李退溪を知た人もない。吾學筋不案内の儒者などは節要と云と子ともの重宝の字引かと思ふ。先生微笑して云ふ。その上朝鮮と云ひ李退溪と云ひ、かろく見て貴ふ人もない。そこで為利所誘奪の害がない。ここが成仏の手段、學者の魂、大事の処。どふしても學問にもみへがあるが、頓と節要に計りはそれがない。今朝忽然と思ふに、節要をよむはどふさん湯を飲む様なもの。こっくりとした身の養生なり。人の方へ知れぬ羪生と云ものぞ。八味丸と云ともふ人へ知れる。兎角學問はは子たと云がわるい。は子ぬ學問でなければ得られぬ。
【語釈】
・どふさん湯…薬味を味噌に混ぜ、お湯をさして飲むもの。

ここで李退溪豈欺我哉と見ることなり。舎此書何以哉と、それほどには思はれぬ。中々そふは思はれぬことなれども、ここは李退溪がとっくりと服薬してみられたものなり。覺のある人でなければこの様なつよいことは頓と云はれぬことなり。是れをきいて吾方へかけてみると、からだに針をたてる様にひびくことぞ。此様な処も兎角見なれるがよい。だん々々見ると親切になる。東士川の市右衛門か韞藏録を見て、鞭策録よりはもっと腹へ切り付らるると云たが見取った云ひぶんなり。入所を見ると吾知らずに精を出す気になるもそこなり。今釣好なとと云があるが、あれも釣の入処を知ったものゆへ好きぞ。入処を知らぬと面白ない。それより綱て一うちにと思ふは釣のあんばいを知らぬのなり。道落に流れるも入処がある。あれはわるいことなれとも、わるいもののわるくなるも、よいもののよくなるも、うまみをくひをぼへぬ内は知らぬ。あつい灸をするは大人でもよくはないが、きくと云ことを知てをるゆへ灸好きと云がある。入所を知れば中々をこたらぬ。ここぞと云処を知らぬ内は胸に入ぬ。
【語釈】
・東士川の市右衛門…小川省義。幼名は磯次郎、興十郎。後に市右衛門。東金市東士川の人。文化11年(1814)6月21日没。年81。稲葉迂斎門下。後に稲葉黙齋に学ぶ。

さて虚心と云が學問の本になる。是れでなければゆかぬ。我気質に贔屓が付てをるゆへ、古書を見るにああではないなとと思ふ。謙退遜順な學者が有ても、虚心と云學者はまれなり。吾に一物あるゆへ、はや先輩を疑ふ。辞はいんぎんでも心に不虚と云一物があるなり。気質を尊も、とふしても垩人の気質の様でないと云て議するなればまだゆるさふことなれども、兎角我気質を主張する気がある。吾とちがった人を見るとわるいと云ひ、吾と似るとよいと云。やっはり漢髙の趙王如意に天下をやりたいと云意そ。學問上にはない筈のことなり。そこで吾方のよいと思からしてほんとうにすますことがならぬ。又、器用ものは吾器用な処からして、書をとっくとすますことがならぬ。煩に耐ることがならぬ。入処と云ものは、教てくれよとたのまれても此の傳授はならぬ。苟能虚心遜志耐煩。李退溪はこれをした人ぞ。これにすこしもたかふたことはない。そこで、入処知れてくる。
【語釈】
・漢髙の趙王如意に天下をやりたい…趙王の如意は漢の高祖劉邦と戚姫の間の子で、劉邦の死後、戚姫も如意も呂后によって殺される。

知其味云云。味と云段になりては外から云はれぬことぞ。上戸が酒を呑めは、下戸がなにかうまい々々々と云ふ。なぜうまひと云はれてはあいさつはされぬ筈ぞ。芻豢は、五尺の体を持ったほどのものにむまがらぬものはないが、道理をがてんして道理のむまみを知るとそれところではない。芻豢は、何程むまかろふとも、ああ咁ひなと云たぎりできへてしまふものなり。道理を甘んずるだんになると、なか々々その様なことではない。顔子は一簞一瓢で食ふこともならぬとき樂んでをられた。道理を合点すると芻豢どころではないなり。外に至貴至冨なものがある。さてこふなりて見たとき、大規模嚴心法庻可以用力也。まへには規模廣大心法嚴密と上からづっとまっすぐにかいてある。朱子の方のことにして云ゆへなり。ここは功夫て云て、學者の方へかけるゆへ、大規模嚴心法と云。朱子の書簡を見たならば、庻可以用力也。さふもなふて、直方先生のあの髙妙な言をききなれた迂齋や石原の先生、永井先生の三人衆がひっくりかへし々々々々々々々毎年々々此序をよめと定めをかれ様筈はない。直方先生かもと彼の退溪の仕をぼへた処を得て、かの町人の云ふ、商賣を仕覚へたのなり。
【語釈】
・一簞一瓢…論語雍也9。「子曰、賢哉回也。一簞食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其樂。賢哉回也」。

由是而旁通云云。ここの処が學者の元気のつく処。節要を受取た処のはたらきなり。是でなければ節要をよむも世説をよむも同じことになる。うっかとよむならをくがよい。由是と云字が大事なり。由でなければならぬ。由ると云は、丁ど石かけへちょっと足を蹈止るとそれから屏へものぼられる。朱子の節要があるとその上へだん々々のぼられるなり。どこまても李退溪の引導で朱子の処までまっすぐに行がよい。先年中村深藏殿か山嵜派の學者は朱子にかたんすると云たれば、行藏が廿計の頃であった、臂を張ってかたんすがよい、朱子にかたんせずに誰にかたんせんと大議論あったことなり。かの野沢などの深藏殿へぞんぶんを云たと云も、この筋を云たことなり。これも餘筆と學山との間のことなり。かたんすると云はよくない様なれとも、朱子に計りはかたんするがよい。荷擔をするでなければ得られぬ。やっはり劉子澄が避主張程子之嫌と云た筋ぞ。見処なければ異なことを云ものぞ。
【語釈】
・中村深藏…中村蘭林。名は明遠。字は子晦。深蔵と称す。別号は盈進斎。江戸の人。幕府儒官。宝暦11年(1761)9月3日没。年65。稲葉迂斎門下。
・避主張程子之嫌…朱子文集三十五。程子を主張するの嫌を避く。

さて、李退溪のここの処をえられたを知らぬと、あの學問をつたないことに思ふ。朝鮮は圖をすることはやり、退溪の圖をしたなどでもなをまへかたに見へる。某なども実は若ひときは輕んじたが、近年溝口公で垩學十圖と云書を借てみたとき、とっくと読んでみたればづんとよいなり。圖のあとさきに奉聞などもあるがいこうはばのあることで、朱子の通りなり。退溪は八十計りで死なれ、節要の出來たは五十八年なり。ああ今迠は學ひ様がわるふあったと云はれた。是が死んだ子の年をかぞへる様にくよ々々と思ふことではない。療治をするにをやぢになりてをそいとは思はふが、よのことはいらぬ、此書簡さへあれはよいと思れた。これが今日の學者へひびくことぞ。節要をよんで格別に益あると思へば、李退溪から盃を受たのなり。孔子の道と云より朱子と云がよい。朱子と云より李退溪の傳と云が親切と某が云を、この後来の字へひびかせよ。俟後来於無窮と云が、今日の學者まで李退溪の遺物をよこされたことなり。直方先生より迂齋や石原先生、これをよまれたもかの俟の字なり。今日某のよむも皆の衆のきかるるも俟のうちなり。受取たと云ふ返辞はならぬことなれども、李退溪の発端作心たやうに、今日これをよむ人も發端作心がよい。ここで思を引たって入どころを知れば朱子の學は得らるべきことぞ。それが今日節要をよむの端を発し作心と云ものぞ。つまり知見のことなり。退溪の全体を知見に見ることなり。かふした筋合趣向のことゆへ、諸先生の會規に行迹のことを云はれたは慮あることと知るべし。
【語釈】
・溝口公…溝口浩軒。名は直範、後に直養。新発田藩主。寛政9年(1797)7月26日没。年62。稲葉迂斎門下。

講後先生謂予曰、是れ前賢に耻ぬほとに筋を云たことなれども、某などのこの様なことを云ふはこちにないことを云のなり。をとなしい人が云たらよからふが、そのかはりをとなしい人はこの筋をしらぬ。道之不行也我知之矣。知者過之、賢者過之なり。をとなしきとて頼みはなきことなり。ましてわれ々々が身に覺なきことを口にて述るは耻へきこと。若林の諸生ともが尊仰心耻し、ちと瀧津亭に往て獨り居らんとは學問の年のよらぬ処にて、床しき消息ぞ。
寛政二年正月四日所聞
【語釈】
・道之不行也我知之矣。知者過之、賢者過之…中庸章句4。「子曰、道之不行也、我知之矣。知者過之、愚者不及也。道之不明也、我知之矣。賢者過之、不肖者不及也」。
・仰…別の写本には「敬」とある。
・若林…若林強斎。名は進居。新七と称す。一号は守中翁、晩年は寛斎、自牧。望南軒。京都の人。享保17年(1732)1月20日没。年54。浅見絅斎門下。


節要開巻大意附録
迂齋先生與或人談之説曰、一學友來問予。入學以來大凡二十年矣。於書非懈、於意非忘、爾來求師取友講窮辨析、且省於身之所爲、亦幾似無爲人所詈、爲人所笑之事。人亦稱、爲學者。然間嘗自夷考平日所爲所思之趣、大抵文飾。盖蔽實、則利己徇外、陽似君子而陰不免小人。誠如此、則雖日不釋巻、而何日何時有復開明之期乎。因自念之、茫然不知所措身。予聞之慨然歎曰、吾子反約窮源之切、所謂群疑並興、寢食倶廃者、乃驟進之時也。然又所可慮者有一焉。悔悟親切力窮探索如吾子者、則又特闕優柔饜飫寛快條暢之意、終不免急迫助長之病。吾恐曰、後屡生偏倚不平之意、正背下學上達之明訓、其流苟不騖老荘釋氏之見、又或坐於氣質纏繞之窠窟、而終安世俗之陋焉耳。若夫如此也、累年講窮果何事耶。所謂不徒無益、而害之者又不俟他矣。然則如何。曰、立志爲本矣。既有眞求道之志、則只依舊求師以廣其志、取友以輔其仁、日事孝悌忠信、日看聖賢之書、於彼世利紛蕐無用雜事、断然絶意、吉凶禍福一任所遇。今日如此、明日如此、今年如此、明年如此、不厭不倦、一從聖門時習之教、則義理自浸灌、德行自純熟、前日之疑惑渙然氷釋、自造於高明正大之域、皆不期然而然者、孰爲疑乎。予意、吾子博文彊識固挺於尋常。但涵養自得之功、不知其成否焉耳。吾佐藤先生嘗言、去人欲雖難、而一旦奮發或可能。唯變化氣質、則全在存養積久之熟也。譬之人之浴身。去一時之泥土、乃盥水尚可能。其欲去全身舊染之垢、則非舒入浴室中、而疏瀹澡雪之久、則不能也。
  元文戊午十月 稲葉正義識 此文先生全集漏之。
【読み】
迂齋先生、或る人と之を談ずるの説に曰く、一學友來りて予に問う。學に入りて以來、大凡二十年なり。書に於て懈るに非ず、意に於て忘るるに非ず、爾來師を求め友を取りて講窮辨析し、且つ身の爲す所を省るに、亦幾んど人の爲に詈る所、人の爲に笑う所の事無きに似たり。人も亦稱す、學者爲り、と。然るに間々嘗て自ら平日爲す所、思う所の趣を夷考するに、大抵文飾なり。盖し實を蔽えば、則ち己を利し外に徇い、陽は君子に似て陰は小人を免れず。誠に此の如くなれば、則ち日々に巻を釋かずと雖も、而して何れの日、何れの時に復た開明の期有らんや。因りて自ら之を念じ、茫然として身を措く所を知らず、と。予、之を聞きて慨然として歎じて曰く、吾子の約に反り源を窮むるの切なる、所謂群疑並びに興り、寢食倶に廃する者にして、乃ち驟々進むの時なり。然るに又慮る可き所の者、一有り。悔悟親切力窮探索吾子の如き者は、則ち又特に優柔饜飫寛快條暢の意を闕き、終に急迫助長の病を免れず、と。吾恐らくは曰う、後屡々偏倚不平の意を生じ、正に下學上達の明訓に背きて、其の流苟くも老荘釋氏の見に騖せざれば、又或は氣質纏繞の窠窟に坐して、終に世俗の陋に安んぜんのみ。若し夫れ此の如くなれば、累年の講窮果して何事ぞ。所謂徒に益無きのみならずして、之を害する者も又他を俟たず。然れば則ち如何、と。曰く、志を立つるを本と爲す。既に眞に道を求むるの志有れば、則ち只舊に依りて師を求め以て其の志を廣め、友を取りて以て其の仁を輔け、日に孝悌忠信を事とし、日に聖賢の書を看て、彼の世利紛蕐、無用の雜事に於るは、断然として意を絶ち、吉凶禍福、遇う所に一任す。今日此の如く、明日此の如く、今年此の如く、明年此の如くして、厭わず倦まず、一に聖門時習の教に從わば、則ち義理自ら浸灌し、德行自ら純熟し、前日の疑惑渙然と氷釋して、自ら高明正大の域に造 [いた]ること、皆然りと期せずして然る者、孰か疑を爲さんや。予意[おも]う、吾子の博文彊識は固より尋常を挺ず。但し涵養自得の功、其の成否を知らざるのみ。吾が佐藤先生嘗て言う、人欲を去ること難しと雖も、而して一旦の奮發或は能くす可し。唯り氣質を變化するは、則ち全く存養積久の熟に在るなり、と。之を人の身を浴すに譬う。一時の泥土を去るは、乃ち盥水すら尚能くす可し。其れ全身の舊染の垢を去らんと欲すれば、則ち舒に浴室中に入りて、而して疏瀹澡雪の久しきに非ざれば、則ち能わざるなり、と。
  元文戊午十月 稲葉正義識す 此の文、先生全集に之を漏らす。
【語釈】
・元文戊午…元文3年(1738)。


○榎並正固學思筆記曰、學思の二字か學者用心の當然。この二端より外はなし。寢ても寤ても、晝夜學ふか思ふか。この二の間に心を用れば自然と間断はなき筈なり。この外に世間の利害得喪にちょっとでも心がつくと、そこがすぐに間断の処で、用心の端的をぬかしたと云ものなり。扨、この二端は隂陽屈伸の理で互に相因てつり合て居るものなり。まつ學は入方なり。読書講究し、師友に聞見し、物理を博く吟味し、疑ひをば問ふて審にするが學なれば、これは道理を外から内へ入るると云ものなり。思は出方なり。その講究窮聞見したものを思慮功夫して、これは斯ふとはきと明に辨へ、知新來新意、引動得清者出来か思ふなれば、これは道理を内から外へ取出すと云ものなり。偖、如此講究すること久ければ、漸々に道理がほどけて伸て來る。そこでは又學は進む方になる。その進むのも内にぢり々々と引しめて子りこんで功夫をする、しまった処から伸て出れは、ここでは又思は反る方になる。こふ、一出一入一進一反両方から持合てゆく処がすぐに天地自然のなりて、學思の二つがそろは子ば道を得られぬと云ことが知れたり。學者一息の間断なく、この二端の内に心を用ひて外馳のうすくなる様に心得へきことなり。
【語釈】
・學思…近思録致知6に、「學原於思」とある。

扨、何ほど思慮功夫しても學ぶと云ものがなければ皆よそことなり。學而の集註、既學の既の字が時習の時の字にはり合て見ゆるぞ。又何に程學んでも思と云もなければ、隣の子のもりをするので一生我身にそはぬぞ。學原於思とは親切な語なり。さて學と云がなけれは天地もつぶれ、人間の破滅と云ものなり。垩賢でもこの學と云一字で持たものなり。気質ではいかなことうごきはとれぬ。すれば學者先吾身一分の愚蒙をはきと合点するが第一なり。親のうみつけの侭では目鼻の動くばかりぞ。頂より踵すに至る迠全体丸めての大凡俗、せめてよきことは芥子ほともない。二た目と見られぬ淺間しき人間ぞ。ここを中夜なとの心の物に接らぬときつら々々思て見よ。口惜くて泪のこぼるることぞ。ここらさへ眞に知れば、この五尺のからだになんのをしげはないと、頓と蹈み破って捨て、師友に隨順して學ぶより外はない。舜の大知も自耕稼陶漁以至為帝、無非取於人者なれば、とかく我を見かきり捨て、師友の一善一行をま子てかかるでなけれは道は决して得られまいことと見へたり。
【語釈】
・學而の集註…論語学而1集註。「既學而又時時習之、則所學者熟、而中心喜説。其進自不能已矣」。
・舜の大知…中庸章句6。「子曰、舜其大知也與。舜好問而好察邇言、隱惡而揚善。執其兩端、用其中於民。其斯以爲舜乎」。
・自耕稼陶漁以至為帝、無非取於人者…孟子公孫丑章句上8。「孟子曰、子路、人告之以有過、則喜。禹聞善言、則拜。大舜有大焉。善與人同、舍己從人、樂取於人以爲善。自耕稼陶漁以至爲帝、無非取於人者。取諸人以爲善、是與人爲善者也。故君子莫大乎與人爲善」。

程子人有身便有自私之理と、この身はもとかはゆきものの骨長なれば、どふしても我はと云。この肉身はすてがたきものなり。正義先生、我知らずに気の方に流れて居る、常々省察せよと來諭せられたはさて々々親切なる戒め。學者終身佩服の語ぞ。気質と云ものは影も形もなく不知不覺の内を子らふものなれば、いつの間にかぬっくりと気質に休息して居ることをさら々々覺へず、怖しき油断のならぬものなり。語類に不離得旧氣質、爭離得旧窩窟、と。ここで見れば我気質をたのむ内は日進はないに究りたり。扨、學ふと云ふは、とふぞあたまから垩賢にのぞみをかけることなり。それは大きな叓と云へどもそふてない。上みに云通り、學と云があって、人間破滅せず、性善の血脉がつづいて居るからは希 [のぞ]みのとけぬことはあるまじ。垩人と云が人間の本体なれば、人が人の本体になるが珍らしきことに非ず。語類、孟子道性善、言必称尭舜。此是眞実道理と云もそこを云ふたものなり。垩人與我同類なれば、中を飛へとも鼠をとれとも云ことてはなし。我がもちまへの本体になりかへる迠なれは、人々ここに所望をせぬこそ却てだいそれたことなれ、學と云からはつまりは垩人になるのなり。それで論語の首章、學の一字をあたまに出して學の極致が君子と云ものじゃと、末節を君子の二字でくくって二十篇の軒口にひしと看板を打たものなり。垩人の御印證如此なれば、ちくとも疑議猶豫することはなきことなり。
【語釈】
・程子人有身便有自私之理…近思録克己22。「伊川先生曰、大抵人有身、便有自私之理。宜其與道難一」。
・語類に不離得旧氣質、爭離得旧窩窟…朱子語類巻113の朱子10。「大雅云、從前但覺寸進、不見特然之效。曰、正爲此、便不曾離得舊窟、何縁變化得舊氣質」。
・語類、孟子道性善、言必称尭舜。此是眞実道理…朱子語類巻8の学2の語。

何程垩人の語でも、我等分上か垩賢に希みをかくるは合点ゆかぬと云はをとなしき云ひぶんなれとも、垩人を疑ふ大不歒ものなれば、これらは垩門の徒の同席する類に非す。すへて疑と云ことは天理に沙汰のなきことなり。疑はみな二つなり。天理はいつでもふっとわき目ふらずに出る。人欲はちっとあとへゆるむ。そのゆるみが幾らにも破て疑ひと云ものになる。淀みに虫のわくがそれなり。乾坤の二卦でよく可考。陽剛はずふ々々とゆとりはない。隂柔は二つになって惡にとることなり。男女の心でも剛柔の善惡がよく見ゆることなり。常人はどふでも疑がちなものなり。疑からすべてさきの効をみぬことはせぬものなり。そこで十露盤から先へ出す。人間の本体はあたる処の端的をしてゆくまでのことなれば、その垩賢になるならぬは取り越し筭用で學者の勘定に入れぬことなり。そこへ意がつくと、はやそこが彼気質の出た処て、それからさきへ伸ることはならぬ。さる程に、學者ずっと立た志をゆるまぬ様にしめたてて、勉強の二字をはちまきにして前後を不顧、どこ迠も垩人の印證を旗にたててゆくべきことなり。そこが持志と云べきぞ。

さあ此肉身を蹈み破ると云からは、からだは碎け耳目は破ってのこふとそれは棄てをいて、息さへ通ははもとの本体に立ち帰らずはやむまじと、きっと腰骨をすへべきことなり。一息猶存此志不可少懈とはさて々々すさまじき胴ぶるへのする語なり。ここらを眞に知て我をすて人に従ひ、一善も大切に學思すべきことなり。顔子得一善、拳々服膺とあれば芥子ほどの善も天地に弥満したる廣大なものなり。継之者善なれば、天地と善とは同一体なものぞ。劉備の後主への遺言にはもそっと結構な語であるべきことなるに、善雖小無不為とはさすが劉備、死に臨んで気のまじらぬ格言なり。その一善を集めつんでゆくが格物とも集義とも云たものなり。こふした學なれば、めったな思ひはなきはづなれば、第一に學と云ものを知て思慮も功夫もせふことなり。學の筋がわるければ、何程親切に思慮しても骨折る甲斐なきぞ。仏氏も思索は親切に勇力もあれとも、學と云ものがなさに一己の私意の内を穿鑿して同し輪内を牛の杬をめくる様に廻て居る。丁度亀が千年生きるかとて、盤の中にをよがせて朝夕詠めて居る様なものぞ。こふしたことなれば、學と云合点が大切なことなり。學の合点があれば、思は自然とついて居る。
【語釈】
・一息猶存此志不可少懈…論語泰伯7集註。「一息尚存、此志不容少懈、可謂遠矣」。
・顔子得一善、拳々服膺…中庸章句8。「子曰、囘之爲人也、擇乎中庸、得一善、則拳拳服膺、而弗失之矣」。
・継之者善…易経繋辞伝上5。「一陰一陽之謂道。繼之者善也。成之者性也」。
・善雖小無不為…小学嘉言7。「漢昭烈將終。敕後主曰、勿以惡小而爲之、勿以善小而不爲」。

扨、垩學はうじつくことはない。活た処からはっし々々々と端的々々とゆくことなり。朱子活看せよと云もそのことなり。今日の學者も思慮はすれとも間雜の二字をはなれぬ。俗習をのし切てつったつ氣象がなさに活して理を見ることなく、胸中つ子にむざ々々として、さへきった天理の流行を味ふことならず。語類、須是開豁胸次令磊落明快、恁地憂愁作甚底。ここが垩賢と常人とのちがい。明快と憂愁とで天理人欲のわかれが見へたり。生理のびち々々する処に眼のつかぬ内はどふしても憂愁のたへまはなきはづなり。あたまから垩賢に希をかくるものは、つら玉しいが惣体常人の肌と格別な処があるべきことなり。學者道に專一ならば、世間の毀譽得失一点も目にかかることはなき筈なり。眞に道理が大切ならば、首は世間へ渡してをき、からだはそれなりにすててをいて、一文字に道理へ目をかけ專一に學思すべきことぞ。そふ云て異端の喪身失命のすぢではない。ここはあやのあることなり。たた道に身を擲て一毫も他念餘念なく、眼をあけは道の一字、足を舉れば道の一字、起居動静道より外なく、這心をうかとせぬ様にきっと引きしめて、義理一すぢを奉持せは、胸中いつとなく義理か親みてほつ子んと融通し、熟すべきことなり。その熟は今此発端學思の二つにある。二葉がすくに合把なれば、今此學思の身がすぐに垩人になる身ぞ。すれは學思の二端は至て大切なことなり。可畏々々。
享保戊戌二月上旬、感慨して後竊に記す。榎並正固
【語釈】
・語類、須是開豁胸次令磊落明快、恁地憂愁作甚底…朱子語類巻115の朱子12の語。
・享保戊戌…享保3年(1718)。

此書附、當春朋友共議論之為に認申候。立志之事は今更ふるめかしき儀に御座候得とも、立候而もくつれ々々々仕候は、志に無御座候間、認見申候て、自警に仕候。私共所存此通心得罷在候。拙者存違共、逐一御吟味被遊可被下候。去年より一分に合点仕候而、定てヶ様の筋には有間敷かと無心許奉存候。以上。


三宅先生 凡下
所論立志激發之意、甚快遠懐。以是自省、以是惕勵其心矣。以是説與人、以是奮激其志矣。見得到於此、尤難矣。願吾子之不忘而已矣。
此間與學生講磨研究無休日。然無見其効。其日日立志責之、月月以勿懈警之、而無立志之人、無不懈之人。因謂、無若責讀書。讀書二三年所見、自然洞徹貫通、立志惕勵在其中矣。此是不得已而論到于此也爾。
○志不立、則學之不成也固矣。然何以立志。只有朋苦口激論而已。以苦口説與之、則志激焉。我亦耻而不懈。
読書二三十年自見其効矣。今不逮之質而二三年間欲見其効、所謂欲坐於二千九百九十九人之上者矣。
志先不立、則書亦不可讀。然讀書是事。事則可爲。不問志之立不立。只責之以讀書、歴二三十年、而後義理涵泳於心、生駸々然不可已之意。方是立志、方是力行。
右、以今之所見呈之。所疑則更論及爲是。戊戌八月六日、尚齋識。
右二書之趣皆退溪所謂發其端作其心者、而至二先生審證用藥石、應物施鑪錘之意、亦可以窺見焉。先年予講冬至文、又成附録一巻。此二書當收入録中、而不暇及。因今春爲諸生示節要大意、以此與之。庚戌正月望日、黙齋識

【読み】
論ずる所の立志激發の意、甚だ懐を快遠す。是を以て自ら省み、是を以て其の心を惕勵す。是を以て人に説與し、是を以て其の志を奮激す。見得て此に到ること、尤も難し。願わくば吾子の忘れざらんことのみ。
此の間學生と講磨研究して休日無し。然るに其の効見ること無し。其れ日日に志を立てて之を責め、月月に懈ること勿きを以て之を警むるも、而して志を立つる人無く、懈らざる人無し。因りて謂う、書を讀むを責むるに若くは無し、と。書を讀みて二三年にして見る所、自然と洞徹貫通し、志を立て惕勵するも其の中に在り。此れは是れ、已むを得ずして論此に到るのみ。
○志立たざるは、則ち學の成らざるや固よりなり。然れば何を以て志を立てん。只朋に苦口激論すること有るのみ。苦口して之を説與するを以てすれば、則ち志激す。我も亦耻じて懈らず。
書を読みて二三十年、自ら其の効を見ん。今不逮の質にして二三年の間に其の効を見んと欲するは、所謂二千九百九十九人の上に坐せんと欲する者なり。
志先ず立たざれば、則ち書も亦讀む可からず。然るに書を讀むは是れ事。事は則ち爲す可し。志の立つと立たざるとを問わず。只之を責むるに書を讀むを以て、二三十年を歴て、而る後に義理心に涵泳し、駸々然として已む可からざるの意を生ず。方に是れ志を立て、方に是れ力めて行うなり。
右、今の見る所を以て之を呈す。疑う所は則ち更に論及するを是と爲す。戊戌八月六日、尚斎識す。
右二書の趣、皆退溪謂う所の其の端を發し其の心を作す者にして、二先生の證を審らかにして藥石を用い、物に應じて鑪錘を施すの意に至るも、亦以て窺い見る可し。先年予冬至文を講ずるに、又附録一巻を成す。此の二書當に録中に收め入るべくして、及ぶに暇あらず。今春諸生の爲に節要の大意を示すに因りて、此を以て之を與う。庚戌正月望日、黙齋識す
【語釈】
・庚戌正月望日…寛政2年(1790)1月15日。


節要開巻大意跋
自朱子文集行以來、讀之講之者、盖鮮矣。其或能讀之講之、而其實尊之信之者、亦無聞。而雖稍尊之信之、而無眩惑汎濫之中、悟入要約之處者也。三百年之後朝鮮退溪李氏出、而接朱子之傳者、蓋有節要篇之存焉。然其篇亦虚行而熄者既已二百年矣。唯佐藤子左袒退溪、而實尊信此篇。所謂俟後來於無窮者非耶。可謂此道東也。諸老先生繼其餘韻從事於節要者、盖亦有以哉。頃日我_黙齋先生講授其大意、且採諸老先生之遺訓而附之、以爲佐藤子之門法也。幸微_先生、則其法倶廢。今日復是長傳後來者、不亦佐藤子之忠臣哉。竊以爲、先生誘導諸友、其嚴心法、峻門風者、一依諸老先生之規。講授小學・家禮・近思・四子、至吾曹講習切磋、則以訓門人與節要、終而復始。盖針炳學業怠惰之蠱毒、蕩滌心術隱微之汚濁、以要薫陶德性、涵泳問學、去有己之氣、順在天之理、而無間斷也。故迂齋先生有不知不覺流於氣之戒者、爲之也。然則連此會者、脱去舊習之纏繞、凡近之卑陋、開剥投俗之眉目、馳外之文飾、而先定規於近思十四篇大學八目、而日日時時對節要、則彼此互相發。一動一靜亦必於此、一語一黙亦必於此。乃研精探微、質之師友而久久成熟、則群疑氷釋、理致怡順。以遊心胸洞徹之間、以近高明正大之域、則聖賢夫可庶幾也。敢合舊聞之緒論、而爲之跋爾。
  寛政庚戌春正月二十五日   花澤謹書
【読み】
朱子文集の行われてより以來、之を讀み之を講ずる者、盖し鮮きかな。其れ或は能く之を讀み之を講じて、其の實に之を尊び之を信ずる者も、亦聞くこと無し。而して稍々之を尊び之を信ずると雖も、而れども汎濫の中に眩惑して、要約の處に悟入する者無し。三百年の後、朝鮮退溪李氏出でて、朱子の傳を接ぐ者、蓋し節要篇の存するに有り。然るに其の篇も亦虚行して熄 [や]む者既已に二百年なり。唯々佐藤子退溪に左袒して、實に此の篇を尊信す。所謂後來を無窮に俟つ者に非ずや。此れ道東すと謂う可し。諸老先生、其の餘韻を繼ぎ節要に從事する者は、盖し亦以え有るかな。頃日我が黙齋先生、其の大意を講授し、且つ諸老先生の遺訓を採りて之に附し、以て佐藤子の門法と爲すなり。幸に先生微 [なか]りせば、則ち其の法も倶に廢れん。今日復た是れ長えに後來に傳うる者も、亦佐藤子の忠臣にあらずや。竊に以爲らく、先生、諸友を誘導し、其れ心法を嚴にし、門風を峻くする者は、一に諸老先生の規に依る。小學・家禮・近思・四子を講授し、吾が曹を講習切磋するに至りては、則ち訓門人と節要とを以てし、終わりて復た始むる。盖し學業怠惰の蠱毒を針炳し、心術隱微の汚濁を蕩滌し、以て德性を薫陶し、問學を涵泳し、己に有る氣を去り、天に在る理に順いて、間斷無きことを要す。故に迂齋先生の、知らず覺えず氣に流るるの戒め有るは、之が爲なり。然れば則ち此の會に連なる者は、舊習の纏繞、凡近の卑陋を脱去し、俗に投ずるの眉目、外に馳するの文飾を開剥して、先ず規を近思十四篇大學八目に定め、而して日日時時節要に對すれば、則ち彼此互いに相發す。一動一靜も亦必ず此に於てし、一語一黙も亦必ず此に於てす。乃ち精を研ぎ微を探り、之を師友に質して久久に成熟せば、則ち群疑氷釋し、理致怡順す。以て心胸洞徹の間に遊び、以て高明正大の域に近づかば、則ち聖賢も夫れ庶幾す可し。敢て舊聞の緒論を合わせて、之を跋と爲すのみ。
寛政庚戌春正月二十五日   花澤謹みて書す
【語釈】
・文…林潜斎。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。稲葉黙斎門下。