竹川話録

寛政十年戊午三月廿三日為舘林侯侍講先生發軔。惟秀・丹二從焉。廿四日到于行德岸。舍舘未宛。依而旅寓於北八街渠野村長雄宅。是以先生之故人而舘林藩之侍醫也。廿七日竹川街僑居成焉。移居玆。凡再旬。因曰竹川話録。
【語釈】
・寛政十年戊午・・・1798年。
・發軔…歯止めを取りのけて車を動かし始めること。旅に立つこと。
・惟秀・・・篠原惟秀。本姓は北田。字は秀甫。初名は安進。與五右衛門と称す。号は靜安。幼称は松次郎。東金市堀上の人。北田慶年の弟。文化9年(1812)2月15日没。年68。
・丹二・・・大木丹二。名は忠篤。東金市北幸谷の人。文政10年(1827)12月17日没。年63。

廿三日
前年雜記にも書てをいたが、薛文靖か先天の圖を見て浩然の気爰にありと云た。あれか只はすめぬ。艮かとめてをくて貞下の元がしまりかよい。しまりた処からすら々々あとかゆく。そこを浩然の気爰にありとしたことぞ。邵子の三十六宮都是春も、耳目聰明男子の身も、熟看萬物皆有生意もすら々々ゆくことそ。惟秀録。以下同。
【語釈】
・薛文靖・・・薛徳温、薛敬軒。
・邵子・・・邵康節。北宋の学者。宋学の提唱者。名は雍、字は尭夫。康節は諡。河北范陽の人。易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤の理気学に対して象数論を開いた。1011~1077。
・三十六宮都是春・・・邵康節觀物吟其一。「耳目聰明男子身、洪鈞賦與不爲貧。因探月窟方知物、未躡天根豈識人。乾遇巽時觀月窟、地逢雷處看天根。天根月窟閑來往、三十六宮都是春」。

○謂曰、をらに気の滯るなとと云ことも有そもないことしゃか、此脱血も滯気か本と思ふ。気行則血行、気滯則血滯る。病人かこともさしてくよ々々と云ことてもないか、平日気にかかると云ことか心のそこにあるのぞ。思へばいやなものぞ。

廿四日
野村壽菴、長雄男。行德河岸兼子[かねこ]屋迠迎に来る。舘林藩よりなり。鈴木長藏・萩田百助来慰旅労、且擬議舍舘之事。午時先生到長雄宅。舘林尾關求馬・日高権藏・新嶋吉五郎其他諸子継て到。
【語釈】
・鈴木長藏・・・鈴木恭節。字は子長。長藏と称す。大網白里町清名幸谷の人。鵜澤近義の第三子。館林藩儒臣。文政13年(1830)11月10日没。年55。
・尾關求馬・・・尾關當補。求馬、隼人と称す。館林藩上大夫。尾關當官の子。文政12年(1829)7月27日没。年51。
・新嶋吉五郎・・・新島禮夫。名は幹。治助、吉五郎と称す。浜田藩士。寛政12年(1800)11月8日没。年31。服部栗齋にも学ぶ。

○尾關氏問、程門の老佛に淫するなどがあせりたゆへなるべし。曰、あれも俗儒をためるのこふじたのぞ。靜坐黙然の処に合ふと云のでのりが来てたまらなんだとみへる。程門の淫老佛は言語文字の上のことではない。さふたいが禅じゃ。

廿五日
清談と云か、いざ清談をせふと云と清談ではない。只こふしてをることじゃか、其うち面白ひ、をかしひことを云のぞ。

○神通と云は手短なことて、あの大占の傳なと云もそれぞ。十八変揲るを大義がるは不敬なり。されどもぐち々々するより易の書をつかまへて、指のあたる処をあけて見るかよいと云いきぞ。三種の神器などてからか、つまり手短なことぞ。
【語釈】
・揲る…とる。かぞえる。

○勘辨と云か俗語ても官府文字でもない。佛から来た俗語ぞ。臨済録の中に勘弁と云篇がある。さてとふもすまぬことじゃ。その篇の中には思ひの外な取りやふどもかある。手引きなくてはすまぬ。

○文字訓詁をよくきめる学者か思ひの外俗になるもの。佛者なども学問をせずに気ずいをしたら面白ひことに成ふ。日蓮など、手前不学などそこを知て、其上吾は天台義学から出たものゆへ学をさせる。只題目か大事ぞと示たらは己が学問にもとし、卓越のものも出る筈。学ではどふてゆかぬとの識鍳かないとみへた。天台も義学て佛にはなられぬ筈。吾黨も三宅の揃て教へこむて俗になる。三宅門によいのかないもそのいきぞ。訂翁などの出来たは、あれはまぐれものぞ。
【語釈】
・三宅・・・三宅尚齋。名は重固。丹治と称す。播磨明石に生まれる。京都に住む。寛保1年(1741)1月29日没。年80。
・訂翁・・・久米訂齋。名は順利。斷次郎と称す。別号は簡兮。京都の人。天明4年(1784)10月7日没。年86。

○何ても動くと云ことで、主静なけれは書生もたのみはない。貞下の元と云も元計りを見たかるか、貞下か主そ。張儀か舌は有りやと云たは、あれは舌か貞下ぞ。されともあれは録者の詞て有ふ。張儀か自ら女房に向て舌は有りやと云ては大事なことをもらしたになる。

○尾關氏問、鶴林玉露を仁斎の愛されたと。それはきこへたれとも、易傳のすきと云は如何。曰、あれも朱子の占に見るを破るのぞ。其上理屈もあふ云ふたてに云たは邪魔にならぬと思ふてのことなるべし。又問、何ゆへに占に見るかきらいなるや。曰、論孟は役に立つか大中は無用と見ると一消息ぞ。

○嵯峨孫兵衛か、清水三九郎か横平をする、学者にあるまいことと云たれは、長藏か、いや志水氏づんどさふない人。拙者は百姓てさへ丁寧なり。其元様にどふしてと云たれば、孫兵衛もいかさまと云たけなが、これかみたものも聞たものも意を知らぬぞ。長藏をば百姓だから慇懃をする。孫兵衛は旗本の家来。我は大名の家来として横平をしたて有ふ。求馬曰、これ明断なるべし。秀云、大名の屋鋪へも官医ても町医ても駕て乘り込むこともある。旗本衆は乘り込まぬ。そのいきかたなことなり。先生曰、迂斎へ土井公から初めは稲葉十左衛門殿と書て玉はったか、後には稲葉十左ェ門江とかかれた。これか却て格式にしたので、君臣の間の嚴と云ことぞ。初め殿づけにしたはをどけの筋になる。迂斎を家老のやふにするは、ただ江戸から役人か我をも雨中駕でのりこめと云は女にしたのぞ。大名は七十になっても他の屋鋪門へは乘りこまぬ。もそっとやすく云へは、役者がのりこむ。これらは俗談じゃが、こんなこと迠が太極の條理分派と見れは面白ひことになる。脇ざしの柄糸などに、同じやふに見へていこふよいとわるひのかあるもの。
【語釈】
・嵯峨孫兵衛・・・嵯峨謙山。名は義勝。字は吉卿。孫兵衛と称す。横山氏家宰。文化3年(1806)9月25日没。年56。服部栗齋門下。
・清水三九郎・・・志水質義。稲葉迂齋門下。
・迂斎・・・稲葉迂齋。名は正義(正誼)。十左衛門(重左衛門)と称す。江戸の人。稲葉黙齋の父。宝暦10年(1760)11月10日没。年77。佐藤直方門下。淺見絅齋、三宅尚齋にも学ぶ。
・土井公・・・土井利延?唐津藩主。

○孟子の文章のよいと云も理か立てをるからのことそ。韓退之をは吾黨て軽んずるか、原道・原性、理か立てをるからあれほとにも云れるか、只では云ことかなくなる。道具なとてもそれぞ。功者なものは一度々々に上手になる。
【語釈】
・韓退之・・・韓愈。唐の文章家・詩人。唐宋八家の一。字は退之。号は昌黎。儒教を尊び、特に孟子の功を激賞。柳宗元とともに古文の復興を唱え、韓柳と並称される。諡は文公。768~824。

○不道同則相與不謀。あれは正を守る語じゃか、窮屈て有さふなものしゃか、よく々々思へはあれか楽なことじゃ。坊主と出合てかれこれ云たとき、こちかよけれは取り合になる。わるけれは気のもめになるよふなことじゃ。学者か克己復礼の外なことに骨折るは大きな損じゃ。
【語釈】
・不道同則相與不謀・・・論語衛靈公39。「子曰、道不同、不相爲謀」。

○顧秀曰、とかくふら々々する。臨事而気盈つ。旅中では元気がよくなるはつじゃにさふない。

○一疋の鶯かよく啼くと、あとのが啼つぶさるるもの。拔茅茹もわけなしについて出るのぞ。文王の興るを聞て起て曰と云てもたった二人じゃ。一両人かよいものぞ。
【語釈】
・拔茅茹・・・易の語。「茅を拔きて茹たり」。
・文王の興るを聞て起て曰・・・孟子離婁章句上13。「孟子曰、伯夷辟紂、居北海之濱、聞文王作、興曰、盍歸乎來。吾聞西伯善養老者。太公辟紂、居東海之濱、聞文王作、興曰、盍歸乎來。吾聞西伯善養老者」。

○初め拜領物の多ひで皆着て出子はならぬから羽二重ずくめに出たが、今度のやふに暖か過てはいこふ仕にくひ。長藏か御物見へをいて人を二人付るてあらふと云たか、一ちをれがきらひなことじゃ。そげるが得手物じゃが、そげては幼君の御為にならぬ。全ひことをしてをら子ばならぬ。不断黙斎てないことをしてをるに、それをたしなむ日にはいこふせつないことぞ。

○敎人不見意趣則不願学じゃに、今はたったもの督責計りじゃ。酒井勘解由殿かあまり世話をやきやるて、家中か猫根性になりたものじゃと直方の云れた。家中ではあの五郎左か又来たと云つろふ。あれも古ひ嘲語じゃ。死身になってさわいたとてきくものてはない。
【語釈】
・教人不見意趣則不願学・・・近思録敎學8。「敎人未見意趣、必不樂學」。
・酒井勘解由・・・酒井忠擧。雅楽頭と称す。上野厩橋藩主。享保5年(1720)11月13日没。年73。佐藤直方門下。
・直方・・・佐藤直方。五郎左衛門と称す。備後福山の人。江戸に住む。享保4年(1719) 8月15日没。年70。

○溝口の道学堂て靖献遺言か掛札に入たれは、八右ェ門かぬかふと云た。なぜと云たとき、前年京師て吟味にかかりたことあるゆへと云た。一意あることなり。をれは舘林へ遺言を掛札に入れた。吟味事ありたは其時ぎりのこと。何かまうことはないか、氏族弁正は入れぬ。あれをかけてはさわがしひ。さま々々さしつかへる。先つ此席からが貴様も登弥太も与五右ェ門も羪子しゃ。その外歴々にあることじゃ。あれをかけては無用心じゃ。つい学校のやむ基ひにも成ろふ。三宅の門人などからなせあれをぬいたと咎めると、うすいものでつい忘れたと云はふぞ。
【語釈】
・溝口・・・溝口浩軒。名は直範、後に直養。新発田藩主。稲葉迂齋門下。寛政9年(1797)7月26日没。年62。
・八右ェ門・・・佐藤復齋。名は尚志。八右衛門と称す。父は佐藤安澄。新発田藩儒臣。寛政3年(1791)8月3日没。年43。
・登弥太・・・平野登彌太。号は道長。館林藩の臣。
・与五右ェ門・・・篠原惟秀。

○人には敏鈍もあるか不器用は猶更のこと。器用ても、精出さ子は上りやふはない。足は達者ても、あるか子は行きやふはない。学問でをどけの云るるほどになればもふ段々精の出るもの。一つづつもすむからぞ。一兩句を得説ふか好学論の若ばへと直方の云れた。
【語釈】
・一兩句を得説ふ・・・論語集註序説。「程子曰、讀論語、有讀了全然無事者。有讀了後、其中得一兩句喜者。有讀了後、知好之者。有讀了後、直有不知手之舞之、足之蹈之者」。
・好学論…近思録爲學3を指す。

○市川三伍来。桑名家臣。伊東郡治・荒井多門・松倉又三郎来。
【語釈】
・市川三伍・・・桑名藩の臣。黙斎門下。服部栗齋にも学ぶ。
・伊東郡治・・・館林藩の臣。
・荒井多門・・・館林藩の臣。
・松倉又三郎・・・松倉卜山。名は正達。主水と称す。館林藩上大夫。安永6年(1777)7月21日没。年57。

○程子や朱子の文字も位付けか知れにくひもの。直方先生、死たい々々々と云様なもの、そふ思ふかよいと云れたは譬喩のやふなもの。番に腹を切り鼻緒疵薬付ふとはせぬ。覚悟かきまれば大ふ事を省く。朱子の四十以後非讀書之時もあまり早ひ云やふじゃ。されどもあれが吾にあることが出たもの。手前に何もかも仕溜てあるからついさう云ふたものぞ。其金鍔をれにくれよと云やふなも、かまぼこ一つとをもふてをるからのこと。

○市川三伍束脩を行ふ。先生曰、不思議な機會で御目にかかる。三伍云、年来之本望、生涯之大幸。語声嚠喨、篤厚感人。因記。

○假名書の會をするほどてなくては道学のむまみはない。世間て史傳の會をするかをかしひ。あれは独りても見らるることじゃ。李延平の左傳を讀むなどはさぞよい塩梅を見取りたで有ふ。それてなしとも史傳に見る塩梅かある。あの高祖か戚夫人と寢て居た時、周昌かふすまをあけてひょいと出た。そこて高祖もにげたか、それてもあとか納らぬから取てかへして昌を取て投けて、我は何等の天子ぞと云た。ここが高祖のてれた処じゃ。その時昌か桀紂々々と云た。されとも鱗に逆はぬ。史傳にも塩梅のあることぞ。異学の徒か會をばすれとも、斯ふみこなすことも有るかないかなり。

○をらが年では書は入らぬ筈、もう心中開く処あれは箚記する計りな筈しゃにさふゆかぬ。不熟ぞ。

○市川氏曰、御眩暈の証と承て昨夕御容躰伺んと書狀を認めたれとも、御出府と承ってやめたり。とくと御快きや。曰、いや拙者は土から掘出した銭のやふで、それも沢山もなく二銭か三銭残ってぼろ々々するのぞ。俗人は南無阿弥と出る処しゃか、儒者だけそれもなし。死生有命もふるし。何とも云やふもなし。学者は張り合ひないものなり。
【語釈】
・死生有命・・・論語顏淵5。「死生有命、富貴在天」。

○顧求馬曰、御屋鋪のかげて旦那寺か狀の文言迠丁寧じゃ。あれが欲からと云ことてもないが、あれが禅の本意じゃ。欲はない皃をするのが却て悟りをひらかぬものぞ。祖庭事苑などても布施のよいものを上み坐へをく。これが却て高ひ。
【語釈】
・祖庭事宛苑・・・宋の睦庵の編。雲門録以下の禅宗の語録中から二千四百余の語句を選び、その出典を示し、注釈を加えた一種の禅宗辞典。

○いにしへのよよのかしこき人たにも、ほろふるものは酒にそありける。萬葉にあるぞ。そこに酒瓶あれは呑たくなる。たれか貨色へ出ては狗と盗人しゃけれとも、以啣杯為高致と云ことのあるてみよ。人情で何となくまぎらをしてをるのぞ。
【語釈】
・以啣杯為高致・・・小學嘉言9。「杯を衘[ふく]むを以て高致と爲す」。

○貴藩で書経をよむつもりじゃが、直方の六経は論語よりかいないと云れたか、書経などは人君へはひひかふことしゃ。何とありても皆君の任することともじゃ。

○百姓が復姓々々と云てさわぐもをかしい。もと苗字の名乘られぬ身じゃ。それも三年の喪が手高になるならゆるすか、復姓より前にまだ吟味することが有ふも、それをば御尋子なされまじや。

廿六日
舘林藩迎人来。○日原小源太来。
【語釈】
・日原小源太・・・手塚坦齋。初めは日原以道。小源太と称す。別号は困齋。土浦藩儒臣。手塚可貞の子。天保5年(1834)5月15日没。年73。

○朱子の十年浮海一身軽の詩を自警と題した。あれほどになりては外に題しやふも有さうなものか自警とされたがうそで有ふ筈もない。をらは気遣はないと云れたことは、顔子にさへ四句を告けた。外の衆は日月至る。もそっと長くも有さふなものを、餘りむごひと云やうなことじゃ。一寸々々とならては仁の息つかひはない。人欲に逢ふ度ひ毎と胸がとみたもの。丁ど路のすべるやふなもの。すべるまい々々々々々と思ふてもすべる。其のすべらぬ時か日月至焉じゃ。
【語釈】
・十年浮海一身軽の詩・・・「十年浮海一身輕、歸對梨渦卻有情。世上無如人欲險、幾人到此誤平生」。
・四句・・・論語顏淵1。「子曰、非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動」。
・日月至・・・論語雍也3。「子曰、囘也、其心三月不違仁。其餘則日月至焉而已矣」。

○賈誼が太子知妃色時学問の上る時じゃと云た。時雨の化と云ことそ。瘡毒の薬も呑み時を知らぬときかぬもの。むせふに呑てはきかぬ。
【語釈】
・賈誼…前漢の学者。洛陽の人。文帝に仕え諸制を改革、長沙王および梁の懐王の太傅となった。前200~前168。

○日原氏問、今度は書経よみ玉ふよし。禹貢などいかかよみてよからん。曰、とてもあそこ迠はよまぬが、あれは学者同士でもよくよみやふはない。見取りて一つ二つ云と跡は云はれぬ。同じことしゃ。あれは政の経絡じゃ。又問、今日の処の寅て賔出日なとはいかが。曰、いや注をよまぬで大ふ楽じゃ。此様に天文の世話のさるるも敬て授民時の為しゃ。民を牧ふと云になっては大事のことじゃ。前日主水殿の上総の麥はどふしゃと問はるるも、領内のことか不断胸にあるからじゃ。任底の意からはあるべきことなり。人君は尚以てのことと云た。
【語釈】
・寅て賔出日・・・書經虞書堯典。「寅賓出日、平秩東作」。
・敬て授民時・・・書經虞書堯典。「乃命羲・和、欽若昊天、曆象日月星辰、敬授人時」。

○乘りのつかぬ処へ活論を云と及はぬことと思ふ。それて又ひかへると子むくなる。兎角倡導は仕にくひもの。笑曰、いかひ御世話じゃ。講釈入らぬものじゃ。

○日原氏問、三宅先生の大学筆記作新民説は大人の字を王公大人と計り云たる様なり。いかが。曰、あの先生の周密と云へとも、事業ををもとするゆへ取違ひたもの。そふ云ふと徂徠の説になる。あそこが三宅の違ふたに、こちて直方先生の皆自明の説か大学とふれた。どちとも云はれぬ。あの自新も序て云へば本之人君躬行心得之餘、不待求之民生日用彜倫之外のこと。八条目では古之欲明明德於天下者はとあれは、面々自分てすること。せぬものはせふことはない。佛者て云へは縁なき衆生は度し難しのことじゃ。たた明々德から新民へゆくまてなり。自の字に精彩を付ることてない。
【語釈】
・本之人君躬行心得之餘、不待求之民生日用彜倫之外…大學章句序。「夫以學校之設、其廣如此、敎之之術、其次第節目之詳又如此、而其所以爲敎、則又皆本之人君躬行心得之餘、不待求之民生日用彝倫之外」。
・古之欲明明德於天下者…大學經1。「古之欲明明德於天下者、先治其國」。

秀云、直方先生の、第五倫は無学ゆへ筋を知らぬ。子と姪とはちごう筈のものと云れた。曰、いや、をれか此頃の説はそふてない。直方の様に云ては程子の説にも合ぬ。程子のあの論が吾が胸を敘たこと。垩人にしての論ぞ。いかさま孔子か南容には兄のむすめ、公冶長には吾か娘と云ても、心にへたては有まいことぞ。
【語釈】
・第五倫…小學善行54に話がある。
・孔子か南容には兄のむすめ、公冶長には吾か娘…論語公冶長1。「子謂公冶長、可妻也。雖在縲絏之中、非其罪也、以其子妻之。子謂南容、邦有道不廢。邦無道免於刑戮、以其兄之子妻之」。

○信を篤ふすると心中から知か生する。小市や行藏かそむいたも信の篤くない処からぞ。一ち先輩をも譏りそふな幸子善のそしらぬは信の篤ひ処からぞ。
【語釈】
・小市…宇井黙齋。初めの姓は丸子。名は弘篤。字は信卿。小一郎と称す。肥前唐津の人。久米訂齋門下。天明1年(1781)11月22日、京都にて没。年57。
・行藏…村士玉水。名は宗章。別号は一齋、素山。行蔵、幸蔵と称す。江戸の人。信古堂を営む。村士淡齋の子。稲葉迂齋門下。初め山宮雪樓に学ぶ。安永5年(1776)1月4日没。年48。
・幸子善…幸田誠之。晩に精義と改める。字は子善。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。野田剛齋門下。寛政4年(1792)2月9日没。年73。私諡は穆靖。

廿七日
舘林藩迎人来。長雄宅より新橋竹川町新道の僑居に移る。○新発田藩中村助右衛門・村林宇内来る。
【語釈】
・中村助右衛門…中村逸齋。名は守正。助右衛門と称す。新発田藩の臣。
・村林宇内…村田宇内?初め定次郎と称す。新発田藩の臣。

○堯舜の子がなぜ不肖じゃ々々々々々々と、狂次郎など学問精出す時度々云た。求馬曰、王祥か孝感二度はないと御雜記にあるにてすむべし。又稟曰、子を生か夫婦計りの相對つくのことてなし。朱子のあいを大烘爐の中より来ると云へり。
【語釈】
・狂次郎…鈴木狂二郎。稲葉黙齋の従姪。江戸の人。
・王祥か孝感…小學善行11に話がある。

○尾關氏問あり云々。曰、幸子善てもをれても、人に問はれて早速答の出たは皆まきらかししゃ。幸田はよく々々横着もの。或人か集註にもまちがいかあると云たれは、ほほうさうかな、をれは気か付なんたと。

廿八日
隣家の少年人に對して理屈を云に、詞のきれめにはそれ々々と云。先生曰、あの其れと云詞が、昔は物を思ひ出す時に、あの正月の幾日にそれと云たこと。今はさふでなく、理屈を一つ押す時に云ぞ。あいつと中がわるいから其れしゃ、くったものじゃと云語勢ぞ。それを歴々の云も似合ぬ。笑曰、禅録を見子は語類もすまぬと幸子善の云るるもここの処て有ふ。

○恭節云、此頃鶴林玉露を見しにさして面白ふなし。されとも序などではきつう面白ひやふに書てある。曰、あれか花見の時醉て謡ふやふなもの。外から聞くものは面白ことはないか、我は面白ひ。

○此の日、秀、誠幾德の章ををよむ。先生曰、題号のよみやふかわるひ。誠の上は太極、誠の下は垩人。誠幾德は垩凡こめてひろく人を云。幾善悪は、善は垩人、悪は凡夫。その凡夫のうちにも善悪はある。德愛以下は名義じゃ。
【語釈】
・誠幾德の章…通書第3。「誠無爲。幾善惡。德、愛曰仁、宜曰義、理曰禮、通曰智、守曰信。性焉安焉之謂聖、復焉執焉之謂賢。發微不可見、充周不可窮之謂神」。近思録道体2にもある。

○恭節謂云、中庸廿章の誠の註は真実无妄、周子書の誠の上には至実而无妄と注してあり。如何。秀云、地頭々々に合せてなるべし。通書は誠を太極にあてるゆへ至実而无妄。中庸は本文の不可揜にあてて真実无妄。かくされぬものと云ことならん。先生曰、さふてもない。通書てもどこても誠の判鑑を云時は真実无妄ぞ。誠の上の至実と云は、本文の垩人と云字を云た意で、さて至善の至の字を含んて至実而と云たものならん。中庸のは誠の本体ゆへ真実无妄。まむしのくひつく迠真実と云そ。あれか誠の字註の正面ぞ。此条皆不精當。
【語釈】
・中庸廿章の誠の註は真実无妄…中庸章句20集註。「誠者、眞實無妄之謂、天理之本然也」。
・不可揜…中庸章句16。「詩曰、神之格思、不可度思。矧可射思。夫微之顯、誠之不可揜、如此夫」。

秀云、毎日あれほど来る学者か心術にかかる問がない。こちから盃が出るか々々々と待つ底なもある。先生曰、求馬か日原てなくては芝居か始らぬ。参伍もああ又よいぞ。幼君の侍講なとにはよい。秀又稟云、朱門はぐす々々と心術のことを問たれともやっはりひくく、程門はせっくろしく心術の工夫は問ぬかやっはり高調なり。曰、然り。これ竒論と云べし。秀又按に、その上か孔門なり。顔曾をのけても游夏か輩不能賛一辞が易のすんたのなり。
【語釈】
・不能賛一辞…近思録致知61。「先儒之傳曰、游・夏不能贊一辭」。

○一士、戸田氏政二郎。曰、先日酒井修理大夫殿屋鋪へ参り山口幸八に出合ひ候ひきが、白雪樓の姪か安藤對馬守殿内に青木伴右ェ門と申者あり、あれに尚斎の筆記あり、直筆もあり。曰、あれか雪樓の前妻の姪しゃ。後妻は朽木の家中から来た。その時か一乱時分じゃ。一士又曰、八朝紀聞などはよい手で書てあり。
【語釈】
・雪樓…山宮雪樓。名は維深。字は仲淵。別号は翠猗。官兵衛と称す。江戸の人。羽後亀田藩岩城氏に仕え、後に館林藩に仕えるが去り、直ぐに殞命。年40。

○三宅翁の意気慷慨を談するに因て曰、羪子願と云は我一世ては君恩か報じ尽きぬ。依て跡を立てて君の御用に立るの意じゃか、大名の儒者などは、あれには羪子願はさせられまいと云やふにするがよい。それは平生にあること。

○今日の講釈で吁は温顔を賜へと云と同こととよみた。家老や用人か出た時、温顔てなければ言を尽さぬ。言を尽さするの元祖は書経の吁ぞとよみた。又曰、在璿璣玉衡なども注てよまぬで大ふよい。吾黨て法度なことじゃか、されどもあとを長々とよまれて、幼君たまるものてはない。三宅翁などの下手と云もそこらなり。をれは此の璿璣玉衡は堯の暦象の道具じゃ、舜の時はやはりそれなりてよい。それを玉細工結構にした。そこてみそなはす計りてすむ。それゆへ堯暦とは云か堯舜暦とは云ぬと、斯ふかたをつけた。
【語釈】
・在璿璣玉衡…書經虞書舜典。「在璿璣玉衡、以齊七政」。
・みそなはす…「在璿璣玉衡」の「在」を「みそなわす」と読んだ。

○清十郎かちっと書物よむものを見ると無性に敎たがる。やれ御奇特と此方から迎に出る。それから見れは、あのやりはなしがと訶りはするか、幸子善の横着なと云も吾道の光をなすことのぞ。
【語釈】
・清十郎…櫻木誾齋。名は千之。初め大木剛中、後に清十郎と称す。東金の人。長崎聖堂教授。文化1年(1804)5月1日没。年80。

○講釈塲かせまいから、茶坐鋪の壁をぬいて坐席をひろめたかよいと云ものかありたから大に訶りた。茶を非義としてやめるならやめる。好きな茶を仕なから講釈塲を廣げると云なぞが、いこふいやなことぞ。あれか又得英才而敎育之と云ことでもない。英才もない。それをのけても長くつづくものてはない。やかてやめると云たか、今見よ、皆来るものがなくなったぞ。
【語釈】
・得英才而敎育之…孟子盡心章句上20の語。

○謡に面白ふくるふと云詞かあるが、あるまい詞じゃか、今をらなともので折節し笑ひ出すことがある。

○樂天命と云字が、程大仲か明道を殺しても命に安堵したと云やふなもの。これほとに見子ば本のてない。秀云、顔路の顔子を云ても同ことが。曰く然り。秀退。按云、堯の丹朱か不肖て舜へ天下を禅りてさぞ安堵なるべし。

○夕陽、蕐沢文欲去。先生曰、河仲遷病後に見へられた。同道したらよかろふ。文云、然らば傳左旅宿迠参り書啓を託して又爰に来らん。日原曰、予は皈路なり。託すべし。文云、それは辱ひ。先生曰、こんなこと迠都合よくゆくか舜臣有五人而天下治るしゃ。
【語釈】
・蕐澤文…林潛齋。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。
・河仲遷…河本仲遷。名は善。三左衛門と称す。丸亀藩士。稲葉迂齋門下。
・舜臣有五人而天下治…論語泰伯20。「舜有臣五人而天下治」。

○戸田氏云、或侯の韞藏録を見て、徂徠を攻たと申す。曰、夫然焉。豈其然哉。うけ合れぬ。たたいあの徒かくよ々々せぬ処に高ひ塲かある。然し辨道弁名と云とよく覺へ、譯文筌蹄と云とやすく思ふ。つまり同しことしゃに、直方、肴をばよく洗ふが料理はならぬと。

○小市か道体性命から日用常行迠師匠とは違ふと云たか、さふちかわれるものではない。日原曰、なせ左云ひなはるや。曰、商賣人しゃ。かいない弟子ををとすのじゃ。

○伊東氏、俗称軍八、舘林藩要なり。来慰旅労。先生行酒杯。辞云、如此大盃何。曰、足下もと留守居を勤められた。難風にあふた酒じゃ。その位は手高になる。

○晡時後、秀云、今日程大仲の明道を殺して安堵しゃと思ふ程てなくては楽天命の字のほんにすんたてはないと仰らるる。此間ての明説なり。曰、あれかよい方へ計り云ことてもない。手あまりの難病、やむをへぬ乱心などかころりとやった時、皆々安堵するもの。さふ云筋からも云こと。そこは同ことなり。
【語釈】
・晡時…申の刻。今の午後四時頃。また、午後三時頃から五時頃のあいだの時刻。くれがた。

○夜四つ時、秋葉松太郎上總より来。
【語釈】
・秋葉松太郎・・・秋葉惟恭。松太郎と称す。東金市押堀の人。

廿九日
尾關氏問、南軒と薛文靖の風彩は異也や。曰、大抵似たもの。以下秋葉松録。

○舜典の璿璣玉衡は道具とのけ、三百有六旬成歳とすますは曾点漆彫開見大意なり。暦みの方のことなとは邊豆之事有司存す。
【語釈】
・曾点漆彫開見大意・・・論語先進25集註。「曾點・漆雕開、已見大意」。
・邊豆之事有司存・・・論語泰伯4。「籩豆之事、則有司存」。

○道理は湧くもの。同しやうなことても皆それ々々に趣きある。俳諧は同しことそ。毎年々々歳旦をする。根於理生者浩然無究。

○戸田氏曰、孟子還可謂垩人やと云を服部の説にまはりまわって見れは、垩人と云ことと。如何。曰、だたい或人の問か、問はぬ前に垩人と思はぬからなり。子貢賢仲尼の、夫子は垩者乎のと云は、わるいぐるみ垩人とみたもの。
【語釈】
・孟子還可謂垩人や・・・孟子序説。「或問於程子曰、孟子還可謂聖人否。程子曰、未敢便道他是聖人。然學已到至處」。
・服部・・・服部栗齋。名は保命。字は祐甫。善蔵と称す。別号は旗峯。服部梅圃の子。摂津豊島郡浜村の人。江戸に住む。麹溪書院を建てる。寛政12年(1800)5月11日没。年65。
・子貢賢仲尼・・・論語子張23。「叔孫武叔語大夫於朝曰、子貢賢於仲尼」。
・夫子は垩者乎・・・論語子罕6。「大宰問於子貢曰、夫子聖者與。何其多能也。子貢曰、固天縱之、將聖。又多能也」。

○戸田氏問、與道爲體。與の字、ためと読は如何。曰、そう読ても同しことなり。されともためと云と合力するやうに聞へる。それては水が、をれが無くはこまらうと云様になる。
【語釈】
・與道爲體・・・論語子罕16集註の語。

○有物先天地生と云も、勿使惹塵埃と云も、手もなく明明德の注なり。吉五郎か弁説よし。されともまだ云ひ足らぬことは、そう云ては儒者と同ことになると云て佛ていやしむ処を知ぬ。傳燈にならぬそ。看よ、上総の一学者か、老子の語はこちの通りじゃ。それたけ佛より卑ひぞ。
【語釈】
・有物先天地生・・・老子道經25。「有物混成、先天地生」。
・勿使惹塵埃・・・仏の語。「身是菩提樹、心如明鏡台。時時勤拂拭、勿使惹塵埃」。

○初憂婆羅密之多、後憂婆羅密之少とみたは功夫の手に入りたゆへなり。

○某も灸や薬が嫌ひてもなけれとも、めんとうてならぬ故せぬ。押付死する身て彼れ是とさはくも異なもの。九月頃に蚊屋を買ふ様なもの。

○三宅子の門人、文章の出来るものは多くは鳩巣なり。山宮は始而多田は終り。
【語釈】
・多田・・・多田蒙齋。名は維則。一名は篤靜。儀八郎と称す。別号は東溪。秋田佐竹氏及び館林松平氏に仕える。京都の人。明和1年(1764)8月26日没。年63。

晦日
石原先生臘季安分之句
つく々々と思へは安き歳暮かな
【語釈】
・石原先生・・・野田剛齋。名は德勝。七右衛門と称す。江戸の人。本所石原に住む。石原先生。明和5年(1768)2月6日没。年79。佐藤直方門下。三宅尚齋にも学ぶ。

○迂斎先生身屈德伸之句
身は屈み德は伸けり今朝の春

○今日君侯の畜鳥を見たか、珎らしき鳥にて声美し。何やら殿にも喜ひの躰てありし。若しも呵られやうかと思ふ処を、思の外そうないゆへ喜ばれたそ。これも開導の手段なり。

○巧言令色鮮矣仁は論語の悪魔拂の、垩人にも似合ぬひどひ意にて、喫緊為人する親切の訓なれとも、辞不迫切処か垩人の語の妙ぞ。
【語釈】
・巧言令色鮮矣仁・・・論語學而3の語。
・辞不迫切・・・論語學而3集註。「聖人辭不迫切」。

○学問も気質から推たてて行子は埒はあかぬ。賢希垩、士希賢は御定り。それはさうきめて置て、扨、浅見先生なとても看よ。あの片意地はりな処から推たてて、あれほとの学問にはなられたぞ。気質の甲斐ないものは兎角役に立ぬ。日蓮があの気概を看よ。あの様子ては宗旨ももそっと善い筈ぞ。日蓮か檀所を建たも本と手前の学問を足らぬと見てしたものそ。をれも余程の者しゃか、いかにしても学問は甲斐ないと思てのこと。今の檀所の躰は日蓮の本意てはなきなり。
【語釈】
・浅見先生・・・淺見絅齋。名は安正。重次郎と称す。初めは高島順良と称す。近江高島郡新儀村字太田の人。京都に住む。正徳1年(1711)12月1日没。年60。

○大名衆を仕込には別段に仕方のあることなり。まして幼君なとは、是非講釈を被成と書生の様に取扱ふは下手な手段なり。夫故今日君前て云たには、歴々の御大名講をなさせらるるにも及ぬ御身分なれとも、それをするのて身にしみて眼目の入れようか違ふて来るものと云たそ。

○三十有室かきこへたこと。廿四五はなを々々盛と云ことてはない。三十より前はまだ壁か生まかわきしゃ。六十閉房、七十開房と云は、七十しゃ、もうよい、房へ入ると云ことてはないか、七十の時は堅りたものぞ。気つかひないのなり。武王の成王を生たも七十余。これは別なことぞ。惟秀録。下同。
【語釈】
・三十有室・・・小學立敎2。「三十而有室、始理男事。博學無方、孫友視志」。

○乾の卦、言竜者男子之受用也と雜記に書た。誰ても竜ぞ。仲間か雨ふりに笠持て来たも竜そ。秀云、初から六迠竜を一人て云ては、三百六十四件の事なるべし。曰、然り。

○小源太、あの不聾不癡不為家翁と云語は、夫婦喧嘩の時云つろう。さうたい尚公主と云ことなどか結構にないこと。日原曰、然り。あれか郭子儀か子か、をらか親父か天子になれば成らるるのじゃか、好まぬからならぬと云たことなり。それを公主か天子へ告け口をしたと云ことなり。曰、それは散々なことを云たものじゃ。されとも公主も嫉妬の心あてても有てのことであろうさ。
【語釈】
・不聾不癡不為家翁・・・資治通鑑卷224。「郭曖嘗與昇平公主爭言。曖曰、汝倚乃父為天子邪。我父薄天子不爲。公主恚、奔車奏之。上曰、此非汝所知。彼誠如是。使彼欲爲天子、天下豈汝家所有邪。慰諭令歸。子儀聞之、囚曖入待罪。上曰、鄙諺有之、不癡不聾、不作家翁。兒女子閨房之言、何足聽也。子儀歸、杖曖數十」。
・尚公主・・・臣下が公主を娶ること。

○迂斎の門人て大名の内ては学問は溝口公、器量は阿波公じゃ。阿波公か迂斎の某を愛すと云ことを聞かれて、垩賢に愛子と云はないことと云たけな。それををれか又云ひかへした。垩賢にも愛子と云ことがある筈。理のよくうつるものを愛する筈と云た。秀云、垩賢の愛子は多く二男しゃ。呉の李札てもそれなり。然に伯夷兄弟はめりかりはない叔斉をは愛したと見へる。語類にも父の乱命と云た処あり。曰、あれは親か甲斐ない。孔子の叔梁紇はまたちから持て名もあるか、孤竹の君はさたなしじゃ。にしんなり。数の子の親しゃ。子で晴をする。
【語釈】
・阿波公・・・蜂須賀重喜。阿波守と称す。阿波藩主。享和1年(1801)10月20日没。年64。

○命定有生之初と云ことか何とも云へぬ。今斯ふときめることはならぬ。さう云へは、こなたの今さう云うち命がぶらつきものになると云か、今乳を呑てをるに、あいつ四十て死ぬとは云はれぬことじゃ。
【語釈】
・命定有生之初…命は有生の初めを定む。

○恭節問、明道行狀の盡性至命必本於孝悌、窮神知化由通於礼楽。神化性命の形ない理て孝悌礼楽と云形あるものを本たてにして知たることなるべし。曰、然り。礼楽と云ことか日用行事迠のこと。中庸か對異端作と云ても、不断あちとつめひらきはせぬ。仁義孝弟でつめたもの。こちは斯ふと見せつけるのなり。あの文なとか伊川の手より外かけぬ。それで、をれを知たくは先兄の行狀てみよと云はれた。
【語釈】
・盡性至命必本於孝悌、窮神知化由通於礼楽…近思録聖賢17にもこの語がある。

四月朔日
吾黨の癖て意気慷慨底なことを手柄にする。不首尾にてもなると眉目[みめ]なことに思ふそ。その手ていくものてはない。それを又浪人儒者かはやしたてる。三宅先生てからが出奔と云ことを大事ないことに思ふてじゃ。今の去は里中の叛罪じゃ。治世も同罪。軍中ではすぐに歒にくみす。軍中はかりわるいと云ことも有まいことじゃ。

○日原問、三宅先生は舍人殿にも去れと云れたてはなきや。曰、いや、さう眞向にも云はぬか、舍人殿か京都の三宅翁のやかましく云るると云か、此舍人は壹岐守殿の家老で子も十一人あれは、昌姓を改めるには欠落するより外ないと云れたと。それを迂斎の京都で先生に話したれは、舍人さう云たか、欠落するかよいと云れよと。其時か三宅先生の七十九て有た。いかさまよい気槩てはあるさ。
【語釈】
・舍人殿…小野崎舍人。本姓は在原。名は師由。初め團六と称す。秋田藩支封老職。宝暦2年(1752)10月8日、江戸にて没。年68。直方没後、三宅尚齋に学ぶ。子は師德。

○たた気質て禄をすてるか、そのやふに手柄てもないが、義理に成たらすてると云玉しひかなけれは去るも迂詐しゃ。鼎鑊甘如飴。前につら子た刑器が飴ほどむまい。あれか丸くなると仁の気象じゃ。いかさま凡夫からは遠ひことてはある。
【語釈】
・鼎鑊甘如飴…正気歌の語。「鼎鑊甘如飴、求之不可得」。

○屈原と三宅先生をくらべたら、誰ても屈原を丈夫によいと云ふて有ふか、屈原は君臣の義の事斗り。先生のよいと云は、学問の有難さには狼疐録の中に君臣々々と云字かない。只道体のこと計り、易象のこと計り書て三年窂に居た。そこは文王に似た。よい者に似たぞ。

○去るの日、其田里を收む。何ぞ舊君の為に服せんと孟子云たか、今の律てはそれ処てはない。欠落は叛罪しゃ。公義ては遠嶋しゃ。大名はそれかならぬ。永窂な筈そ。をらは奉公人請狀とは違ふと云ふか、あまり違はぬことしゃ。
【語釈】
・去るの日、其田里を收む。何ぞ舊君の為に服せん…孟子離婁章句下3にある話。

○山田九郎兵衛扇子箱を納る。初て謁す。桑名侯大夫。上月弥三郎来る。同藩士。

○山田氏目日原云々。先生曰、兼て知人なりや。日原曰、會讀にて知己也。曰、列国の大夫か小源太処へ枉駕して會をするなれは、両方ともよほとよいことじゃか、つまり役に立ぬことしゃ。役人はそれより何そ一つ振りの替たことを考へてをくと人の為めになる。学問するからは、挾貴の心ないは知れた。それかありては学問か上らぬ。されとも又あまり度々家老が平士とともに會に出るも自軽するになる。何と百助、こんなこときいては受用になるまい。道楽儒者のかたまったか此位なものじゃ。

○浩軒様の去年は死なるるゆへか、よい詞か出た。大名の編集わるいかよいか、誰か手傳たと思てわるいと云れたと。然しあなたか會津公ならは、をれを阿黙々々と云て手傳にさるるて有ふ。四傳抄畧はよいか礼書はとうか、とくとも見たか、をれを相手にせぬは礼に不案内と見てのこと。たたい礼書を講する者より礼を蹴るものか編集の相手にはよいことかある。そこをば思召さぬのそ。偖、沙汰はならぬことの皆賣た。たたい賣すきな処へあの書を下された。じきに賣たそ。人買の処へよい娘の来たやふなもの。
【語釈】
・浩軒様…溝口浩軒。
・會津公…保科正之。号は土津霊社。会津藩主。近衛中将。肥後守。寛文12年(1672)12月18日没。年62。

○一士曰、喧嘩両成敗と云はざっとしたつかみ合て云こと。一と鼻立たことには理非の差別なくてはならぬ。曰、あれも漢の高祖の約三章から出たものて有ふ。殺人者死がすくにあのことなり。一と通りのことは不息者を鞭つとある類。温公の云へり。
【語釈】
・温公…司馬光。北宋の人。1019~1086。

二日
問、動而常止静而常覚と動中有静静中有動とはちごうと三宅先生云へり。如何。求馬曰、寂感のこと、さう云てあり。先生曰、心のことて云ても同こと。動中有静静中有動は有り々々と一つ々々に云たことて、働きかない。ぶつ切れなり。あれか隂陽各藏其宅のことで、一つは隂、一つは陽と云たやふないきで、一句々々なり。動而常止静而常覺しては、両方もち合て一つになることなり。二句て一句になるやふなもの。
【語釈】
・寂感・・・例えば周易繋辞傳上に「易无思也、无爲也。寂然不動、感而遂通天下之故。非天下之至神、其孰能與於此」とある。

○又問、訓門人に張南軒の、李先生は黙坐澄心を非とさるるとあり、主張しさうな人なり。如何。曰、南軒は高ひ人ゆへ手前ても用心をされた。敬夫之慮と云こともあり。黙座澄心は禅に似る。何のそれに及はぬこと。戒慎乎不睹恐懼乎不聞。これて済たこととせられたもの。南軒一体高ひに心法を主とする処から、禅に似るを嫌ふたもの。手前の用心そ。
【語釈】
・敬夫・・・張南軒のこと。
・戒慎乎不睹恐懼乎不聞・・・中庸章句1。「道也者、不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞」。

○恭節問、通書誠の上には至実而无妄、中庸の注には真実无妄とあり、文字のかはりた上に而の字有るとないのなり。別に意思もあることなるや。曰、文字もかへたには朱子の思召有ふことしゃ。其やふなことはをれかには得答へられぬ。服部なとに聞たらさぞよくわけることて有ふ。それしゃにあそこへは行ぬなとと云ふが、いかひ心得違ひしゃ。顧秀曰、江戸に年始には行くがと云出合かある。をかしひものぞ。

○求馬曰、語録かちかへは其人の語になると程子云へり。一髭髮不似便是別人と同意なりや。曰、然り。

○約束はしたか、翌日の仲遷処へゆくかいやになった。どふした拍子でとこうするうち、ついやめられた。替たことかあるもの。浸潤之譖膚受之愬と云やうなもの。又あとからことはりを云てやるほとなことてもない。
【語釈】
・浸潤之譖膚受之愬・・・論語顏淵6。「子張問明。子曰、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣。浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣」。

○大学の至善の吟味か細密にないから、新民と云へは民ともか堯舜の通になることと思ふ。それか究格の足らぬのそ。吾明德を明にした上て民の方か相応にいくなれは、上たる人の新民か至善につまりたと云もの。兎角上て云ことなり。去年中、右の趣を云たに、上方の学者か呑込す、大学の至善を左様に云てはいかがなりとて得會せぬぞ。此屋可封と云たとて、萬民か太極圖説の道理迠すむと思ふは眼のたきらぬのぞ。松録。下同。
【語釈】
・此屋可封・・・文選。「尚書大傳曰、周民可比屋而封」。
・太極圖説・・・周濂溪著。近思録道体1にある。

○幸田は一生上の蛇の目の丸でまきらかして仕舞ふた。條理分派のことはめったに云はぬ人なり。世間萬事は皆下の巴の丸そ。下の丸はやかましひことたらけゆへ、上の丸で仕舞ふたもの。理へ懸空に説かぬものじゃ、其様に上の丸て計り云てはつかまへ処かないとつめかけると、只何とも云はずに舌を出して、ほう、よい合点しゃなどと云てまぎらかす。やっはりそれて勝を取るなり。

○直方先生、土井侯にて敬鬼神而遠之の章を講じ、大名の伊勢へ代参を立るは非礼しゃと論弁、尤痛快、乍ち侯の坐に病に罹り、翌日終焉そ。それを大神宮の罰か當たと云さうなが、神明の御罰て死たと云より、大名の罰か當たと云方かよい。なせなれは、大名の伊勢代参は非礼しゃと云ては神明の思召には叶ふても、大名か腹を立筈なり。すれは大名の罰ぞ。此説は初めてじゃ。諸生達書てをけ。如此ことを云はかりか某も直方の通りじゃ。
【語釈】
・敬鬼神而遠之・・・論語雍也20。「樊遲問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。問仁。曰、仁者先難而後獲。可謂仁矣」。

○逐人之面上説一般之話と云か、やはり心の外へ馳ることなり。話しの外へ移りて段々俗談に投ずるもそのきみなり。有処為而言ふ。
【語釈】
・逐人之面上説一般之話・・・近思録警戒30。「又多逐人面上説一般話。明道責之」。

○晋の代、太子に五つ六つで英才ありた。それを天子の御吹聽で、天か近ひか長安か近ひかと問たれは、長安か近ひと云た。なぜにと問たれは、見自長安来者、未見自天来者と云へり。又或人か出たゆへ、天か近ひか長安か近ひかと問たれは、今度は天か近ひと云た。そこで天子の、どうても子共しゃと笑止に思なから、どうした訳そと問たれば、仰首見天、不見長安と答へり。子共にさへこうした英才ある。古今七才未滿の者は服忌なし。當歳や二つ三つて死たも六つ七つて死たも同し取扱ひなり。これらてはそうはあるまい様なり。これでは予が三日斂も行れぬ勢と思はるる。

○觀水翁、馬の病気は気鬱しゃと云へり。
【語釈】
・觀水翁・・・長谷川克明。初めの名は遂明。号は觀水。源右衛門と称す。松平伊豆守信輝の臣。佐藤直方門下。

○當理無私心と云てなけれは本のことてはない。四十六士を忠臣と云もをかしいことぞ。私心かなくても理に當ら子は承知はならぬことなり。直方先生の、至誠惻怛と云狼藉ものか出てはたまらぬと云もそこぞ。あらひ様な論なれとも、公法のさはきかよい。此上四十六士の様なか幾度有ふとも、やはりあの通にさばくことなり。

○四十六士はどちとうしても襲ひ殺すのぞ。実に主の歒きなれば、公義へ訴へてから討つ筈ぞ。訴れは討れぬから、あの通にしたもの。

○懸けて置から掲示と云。それか朱子の白鹿書院にあるゆへ学規になると云こと。それを掲示と云はわるい、学規と云かよいと云から爭ひの端を起す。

○君侯の會なともちと不形儀に仕込かよい活法なり。大名はあまり形儀がよすきるて知か開けぬ。三宅先生なとも不知惠な方ぞ。君のことを今日はどうしゃ今日はどうしゃと尋る。狼疐にある。それでいくものでなし。でも誠は屈原にも劣らぬ。

○溝口侯云、白雀録は君之過小なる者しゃと。一生の名言なり。君の悪を著すにはならぬ。
【語釈】
・白雀録…三宅尚齋著。

○長藏酒を息めても、また呑たひて有ふ。舘藩の一士人嘗云ふ、長藏か酒を息めたは諛ひしゃと云ものあり。某か云には、成程さふ有ふと思て居た。諛と見へても大夫の勢を恐るるかよい。居其國大夫の賢者に仕るのぞ。とても克己復礼はならぬから、大夫の命を用ひ守るほとよいことはないと云たれは、彼一士人我を折て、私も今晩から禁酒せふと云ひしか、間もなく二三日過るとこたへられぬとて始めた。いかひたわけしゃ。舘藩にも馬鹿か多ひ。

○敬かぬけると、人と応對するも太義になる。石原先生、応接いかふ礼儀を重られた。迂斎には頓とそれかない。すら々々したことなり。今の学者、諸家の大夫が枉駕して先匹夫とて、さても竒特なことと思ふて本望がる。をらなとは、益ないことに只馬鹿なことしゃと思ふ。それても来れば、それ相応にあしらは子はならぬ。上方儒者か兎角元気はりて、大夫に烟草の火を取らせたなとと云ことを主張する。そふしたことは理にをいてないこと。

○戲言は出於思と云まてもなく、をとけも前方なものか云と、をどけかをとけにならぬことあり。譬へは金を借せと云ても、それか本のをとけなれは、あの人はああ云ても中々借る人てはない取る。下手にをとけを云と、あの男はをどけの様に云ても、実は借たひさうなと取る。
【語釈】
・戲言は出於思…近思録爲學東銘。「又作砭愚曰、戲言出於思也。戲動作於謀也」。

○尾関氏問、吾黨諸先輩を淵源録のやうに言行を集めやうと思ふて、兼て幸次郎と約す。此事如何。曰、まづ先達遺事や迂斎の書たものを題にするかよい。久之曰、これも半分で止みさうなことじゃ。先輩も全ひ人てもないから、載せにくひことあるべし。第一直方先生の、女の洗って居る盥の中て足を洗ふた類も載せるのか載せぬのか。その様なことは載せられぬと云へは、先輩を彼是差引するになる。いよ々々書くならは、言行録に習てするがよい。
【語釈】
・幸次郎…奥平棲遲庵。名は定時。幸次郎と称す。江戸の人。神田小川坊に住む。小川先生。忍藩儒臣。致仕して玄甫。嘉永3年(1850)8月9日没。年82。

○一生家内なしに暮した身の、今家内を引請ては大学の斉家底のこと出来て、我必在于汶上と云ほと嫌ひなことも、鼻を蔽って居る。こふしたことゆへ目も悪くなる筈ぞ。しかし此頃は大分よい。
【語釈】
・我必在于汶上…論語雍也7。「季氏使閔子騫爲費宰。閔子騫曰、善爲我辭焉。如有復我者、則吾必在汶上矣」。

○天機と云は、天が吾が身になりて自然の働きを云。

○因天之靈常有目前はつつしみの字なり。役人かまわらぬと巾着切か我れまはと出る。人か居ぬと猫か肴を取ると云やふなもの。もっと上て云ををなら、聴於無声視於無形と云も在目前なり。
【語釈】
・因天之靈常有目前…李延平の語。「頼天之靈常在目前」。
・聴於無声視於無形…小學明倫7。「聽於無聲、視於無形」。禮記曲禮の語。

○尾関氏曰、迂斎先生はどうしても講釈かすきなり。講釈のすきなか人欲と云ほとしゃとあり。曰、何も深ひ訳はない。只気の滞らぬまでのこと。やはり朱子の使某一月之中不見客殆生病と云たやふなもの。すら々々したことぞ。

○尾関氏、知理気肉四字の義を録し来て先生に質す。先生曰、直方の知理気肉のことを云はるるは、これかをれか掛りしゃと云よふなもの。此より外に相手にするものはないほとに、堯舜の政を取るも此事なり。

○医者も衆議するてよい。舜臣有五人天下治も衆議なり。

○去冬以来家内心風にて夜二時と心よく寢られず、毎朝風呂に入て心持よく、それから炬燵に入て、つい子む気か付て寢た。是れ養生にをいてはわるいことの、寢の足ぬ闕を補ふ為なれは、家内てもそれなりにしてをいたもの。全くそれ故に眼か悪くなったと見へる。

三日
先生應河仲遷君之招到其宅。侍行、求馬・文司・長藏侍坐。文、爐に向て茶を點す。先生曰、禹入垩域而不優と云手もとしゃ。秀録。下同。
【語釈】
・禹入垩域而不優…朱子語類138。「禹入聖域而不優」。

○床上儀礼通解、正・続、唐本あり。一閲曰、今をらなとか是れを見やうとするは、歯のないものか蚫のかたい処を子ぶるやふなもの。

○仲遷曰、此間、三宅先生の誠は屈原にまけぬが、ちらと文王に似た処あるとの話、面白きことなり。曰、学脉と云ふかいやと云はれぬもの。三宅翁は天命を安じてじっと居らるる。屈原があの天對・天問篇のあたりなとは、物に狂ふたと云ふやふなぞ。

○主人曰、畸人傳と云もの、小説ものなり。それに三宅先生を孝行のことかなとに載てあり。求馬曰、畸人傳に載ると云やうなことが、直方先生なとにはとんとないことなり。

○求馬問、遺事の做人底様子と云を何とよみ違ふたるや。曰、人のそこのとちの實をなすとよみたるなり。

○主人香合を出し、これも床上の書机も君の遺物なると示す。曰、君の遺物と云も分器と云てよい。顧求馬曰、貴藩の輪こけも遺物とは云れぬ。分器と云てよい。斉魯晋楚皆有分器しゃ。

○羅山文集七十五巻、前年見しなり。道春の七十五て死なれたから、春斎の七十五巻にされたと云こと。求馬曰、然らは顔子に書あらは三十二巻にすべし。先生笑曰、顔子は形あるものを形のない勿れ々々て打つぶして、とふ々々手前も形ないものになりた。貧はいやなもの。持薬の呑たひ年も有りつろう。
【語釈】
・勿れ々々…論語顏淵1。「子曰、非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動」。

○恭節何のか地理圖か求めたひと云。先生曰、小松原子ともすりもののこと。仲間奉公・釣り臺かつき、一ち気さんしなもの。高ひは非義と云ことてもないか、賔師々々と云たには似合ぬ。すべてあの徒はさう云ことを云。伊沢圓次か賔師てなふては出ぬと云た。此方から貧て頼は々々と云て出て、賔師々々もつまらぬ。賔之為言貧也じゃ。
【語釈】
・小松原…小松原十太夫。館林藩の臣。

○今度をらが病気て出て来たなどか、官渝学校の鼻のひくめなること。されともひくくても高てもかまはぬ。

○此夜暁七つ時過き、芝田町邉失火あり。先生早く起き曰、三人か来て、をれが力になるつもりだろうか、をれは力にはせぬ。却て三人来たてああ邪魔になる。どのやふなことでもをれ一人は燒死はせぬが、そちらが苦労になる。必荷物なと持て出るに及はぬ。併し近火になれは、櫻田屋鋪から多くの人が来る。しきに渡してやらるるやふにして置ふことじゃ。

○小心文・放誕文と云ことなどか一つに行るることしゃ。利休が畳のへりから一つ二つ三つとかそへて釜の蓋置をすへ、後には構はぬ。小心文・放誕文とわけて受用にするは、文の下手なのぞ。
【語釈】
・小心文…漢文で、字句に注意し、修辞を洗練し、筆法を婉曲にした文。
・放誕文…放胆文。漢文で、思った通りを自由・大胆に述べる文。畏縮しないで文章を書くために学ぶべきものとされる。

○土井侯て迂斎を用人になさるべきことと云たとき、千賀作右ェ門か、それはをれはならぬことと云たと。なぜと云たれば、貳朱判吉兵衛が来たときかつまらぬと云た。
【語釈】
・貳朱判吉兵衛…歌舞伎の役者の異名。

四日
花沢文問尾関氏曰、君侯も折々は学談ありや。尾氏未答に、先生忽ち勵声曰、なにあらふぞ。夫よりそちや長藏・与五右などか寄合て学談ありさふなもの。それも無いてはなきや。但し互に相軽にしてのことか、つまり云ことがないとみへる。以下松録。

○尾関氏問、禹入垩域不優と云は、どふ云ふ塩梅の処て云ことなるや。曰、孔子の禹吾無間然矣云々から卑宮室尽力乎溝洫迠のことかとふも垩人の模様てない。孔子のほめやふも垩人をほめるやふなほめ様てもない。舜なとの躰とはいこふちこう。悪旨酒の類ても看よ。舜のはあの通り、悪ひ親にでも逢は子は小学に載せるやふなことはない。求馬曰、舜の孝行は不幸じゃと。面白きことなり。曰、是迠あの不至于姦と云ことか済なんだか、ざっとしたことであろふ。鯉の刺身を兄か来ぬ間に食へ。あいつに鼻をあかせてやろふと云ひつろふぞ。それゆへ孟子の文章にてもあろふか、琴は吾れ、弓は吾云々と云やふな、らちもないことぞ。大い悪をするやふなことはあるまい。
【語釈】
・禹吾無間然矣云々から卑宮室尽力乎溝洫…論語泰伯21。「子曰、禹吾無閒然矣。菲飮食、而致孝乎鬼神、惡衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、而盡力乎溝洫。禹吾無閒然矣」。
・悪旨酒…孟子離婁章句下20。「孟子曰、禹惡旨酒、而好善言」。
・不至于姦…書經虞書堯典。「岳曰、瞽子。父頑、母嚚、象傲。克諧以孝、烝烝乂不格姦」。
・琴は吾れ、弓は吾…孟子萬章章句上2。「象曰、謨蓋都君咸我績。牛羊父母、倉廩父母、干戈朕、琴朕、弤朕、二嫂使治朕棲」。

○迂斎は和した人なれとも、ちと話にござれなどと云やふな人情めいたことは云はぬ。却て石原先生には有たかなり。

五日
○天垢地垢は神代巻の字。とと気質のことなり。火々出見尊の龍宮へ行たとき、天に似たら天の垢かあろふ。地に似たら地の垢かあらう。それもないとて天津彦と云ふ。
【語釈】
・天垢…「あまのかわ」と読む。
・地垢…「ちのかわ」と読む。
・火々出見尊…「ほほでみのみこと」と読む。
・天津彦…「あまつひこ」と読む。

○訂翁の門、落合瀬平、予かことを全体さへた処、議論趣きと元気のつり合ては酒を呑さうなものと思ふか、あの酒を呑か本のつり合てない。天受の気か薄くすくないから気をつかひ切てしまふゆへ、酒の元気を假じゃと云たは尤なることなり。土井侯の一医人云ふ、味噌汁を喰ふは世間一般よいことと云ひ、扨、其人は丈夫なものと云か、却てさふでないもの。産をした婦人に味噌汁を吸はせるよふなもので、味噌の気を假りて腹中を和するのじゃと云ひしと同じ筋なり。

○尾關氏曰、敬は心之貞也と云は、先生の天之申生也と云たと同きや。曰、然り。
【語釈】
・敬は心之貞也・・・朱子文集巻4の斎居感興五言詩凡廿首の一。「恭惟千載之心。敬者是心之貞。聖人專是道心。秋月照寒水」。弧松全稿68録絶筆の語にもある。
・申生・・・晉の太子。

○事業て云へば、堯舜典も太虚中一點の浮雲ぞ。道理て云へば、あれて尽てある。
【語釈】
・事業で云へは、堯舜典も太虚中一點の浮雲ぞ・・・程明道の語。「雖堯舜事業亦如太虛中一點浮雲過目」。

○純一てないは天理人欲のたたかひなり。人に金を貰たり得貰わぬなとと云か客気そ。松を始め上総の諸生ともか金をくれるが、あまりうれしくもない。垩賢は却て大きに喜はうぞ。貰へき筋なれは活底な筈ぞ。さふなくて何やら引かかりた様なは流行せぬのなり。君侯の賜もの、どふやら余り喰すきて腹かはったと云やふなぞ。迂斎なとは頓とそんなことはない。ぐら々々したことなり。

○阿波侯より迂斎へ金二十枚つつ年々遣り来た処か、それか十枚に成たとき、迂斎の、これは禮皃の衰か、何そ訳あることかと云た。其訳を聞けは、藩中一同半減に成たさうな。それをあの役人か公義のことなぞのやふに、迂斎もまふ知ててあろふと思ふたもの。

○某なと上総に在て人に軽んじられそふなものなれとも、茶碗や石燈籠のあるで安くせぬとみへる。孟子のあの戦ひ最中に軽しめられぬは後車數十乘ゆへぞ。
【語釈】
・後車數十乘…孟子滕文公章句下4。「彭更問曰、後車數十乘、從者數百人、以傳食於諸侯。不以泰乎」。

○今は横平な士はない。それか風俗に成て来たもの。これも時を知り勢を知るのそ。小松原なとか屋敷へ駕籠て乘込底のことを、浪人には珎しひ取あつかひと思ふ。やっはり菊の蒸と一つ取りあつかひぞ。大名が大名の処へ行に足か痛はとて乘込れもせす、乘込がよいと云あいさつも云はれぬ。すれは菊の蒸と一つ取扱ぞ。
【語釈】
・菊の蒸…菊の丞。役者。

六日
此日先生講大禹謨。
○君侯からの御取あつかひ、推重にあづかることは喜にもない。只飲食の遺りものか一ちよい。其上予が安堵する尊恭の仕方がある。國元ても丹二や松にも云はぬ。云ふとついほかに江戸へ知るるものゆへ云はぬ。もしこれを云はせふと思ふなら、外に責めやふも有まいから、鰻の十串も持て来て喰へと云かよい。先生、うなききらい。さもなけれは云はぬ。

四日
戸田氏問、克己復礼の章の三功夫と云ことは仁説問答でも知るると云説あり。何れの処なるや。曰、とふ云ことか知らぬか、あの為仁と云のも問合ひのある処て云で有ふ。克己復礼しても、さあ仁と云ことてもない。引け米かすんだ、もふ身代は直りたとも云はれぬもの。されとも為仁と云て別に工夫はない。惟秀録。

○河仲遷問、執中の執、垩人と凡人とは違ふと云か、固より垩凡の違はあれとも、執ると云は同しことのやふなり。曰、執ると云か敬恕の工夫をするやふなものなり。丹二録。
【語釈】
・執中…書經大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。

○海國兵談のことに因て曰、何を云にも致知格物かなく、小僧ゆへ役に立ぬ。学問は心與理耳と云より外はない。その心へ致知をすることなり。それゆへ堯舜之知不徧於物急於先務と云へり。格物がかいなくては、事は出来ぬ。よみやふわるければ知愈多而心愈塞るになるぞ。仝上。
【語釈】
・学問は心與理耳…朱子の語。
・堯舜之知不徧於物急於先務…孟子盡心章句上46。「堯舜之知而不徧物、急先務也。堯舜之仁不徧愛人、急親賢也」。

○謂曰、今日竜光寺でよい菴を見立て来た。今にも大病になりたら死んだと云てかつき込むかよい。さて死たとは申たか、今さしかかりてをると云て、四五日をいても火事のあぶなげもなくよい処ぞ。爰に居て病むと藩中の衆から同志のものの世話になってわるひ。さわがしひことがいやぞ。必今云た通りに計らひくれよ。これは戲言とはちこふ。秀録。

六日
文問、恭節時祭あるよし。神主を作れるか。曰、いや、紙牌で有ふ。又問、支子は不祭とあれとも、よきや。曰、あの身分になりては宗を奪ふてもよい。その上本家に祭はないゆへそ。程子と朱子て祭のことか違ふた。抄畧類通考すべし。公義晴したことは、究格のことていかやふにもせよ。だたひ祭は法度にするか、又は祭らぬものには咎めを云付るかの二つなるべき筈ぞ。又問、忌日は如何。曰、まあ上総で膳を具へる、あれてもすむやふなもの。両方で膳は備へられぬ。尾関氏曰、恭節のも神主を作れり。曰、いや、たとひ神主の通りに作りても、陥中に題名さへせ子ば神位なり。紙牌も同前ぞ。秀録。下同。

○顧求馬曰、貴藩の講釈も人君と近習計りかよかろふと思ふ。大夫方歴々并んてをるて雄弁が出されぬ。出すまい底な処へ雄弁を出すと戲言になる。

○坐中及軍法談。先生曰、人之為学心与理耳と云語のうちには、天の時、地の利のこともある。軍と云て別段にすると云ことてもない。軍のこと迠にかけやふと思へば、人之為学心与理耳の格物の仕やふかちごふことぞ。五日の部、丹録のあとへかくべきことなり。

○皐陶謨講後曰、三公坐而談道と云ことが古へあると云がをしひことしゃ。傳わらぬと云ことてはない。書経かそれじゃ。人去り暮定て、顧曰、今日のよみやふは何ときいたぞ。かうとうなことて有ふ。秀曰、諾。二典三謨で雄弁をふるふと、つんと三代めかす。

○丹二曰、跡部氏の厄に逢たとき、駿河の神主に聞た功夫をしたれは心か落付たと。曰、ふるへると云もうろたへぞ。生死の理か明になれば、何もさはくことはない。飯を喰て腹のはるやふなもの。殺さるるも疾んて死も理は一つしゃ。松録。下同。

○終日の應接にて、夜になると殊の外くたびれる。直方先生か今そこへ来て講釈をすると云ても聞く気はない。寢る方かました。

七日
此日、先生講益稷後曰、文者か永哉々々の、竒哉々々のと云をつつけてかくが、今日の康哉良哉の文は隣哉臣哉々々々々なとからみれば、あれらがのは文章の声色つかひじゃ。惟秀録。下同。
【語釈】
・康哉良哉…書經虞書益稷。「乃賡載歌曰、元首明哉、股肱良哉、庶事康哉」。
・隣哉臣哉…書經虞書益稷。「帝曰、吁臣哉鄰哉、鄰哉臣哉」。

問、今日の講なとにて承れば、宋の神宗なとか叢脞哉の部にてはなきや。曰、叢脞の部には入るか、全体か叢脞な人てはないか、王荊公か法から叢脞にしたのぞ。
【語釈】
・叢脞哉…書經虞書益稷。「又歌曰、元首叢脞哉、股肱惰哉、萬事墮哉」。
・王荊公…王安石。

○河仲遷曰、今日の講にて承れは論語と書経か一つになりますが、只見てはふりの違ふたもの。曰、ちとはふりもかはることなれとも、論語と書経か一つになら子は学問と政とが二たはなになる。

○道体がすきになると周茂叔から邵康節迠のことが面白ひが、書経は麻上下と思う。書経から係辞傳迠のことかよくすむと、程子なとも手柄はないやふに思ふ。どふ云ふことを云ても二典三謨を発明したことと思ふ。

○書経よむには、理は懸空底な物にあらずとことはるに及ぬ。求馬曰、五典五惇ひて孝経が尊ばれぬとの弁、面白きことなり。孝の忠のと云と一つ一つになる。曰、児共がよい着る物たと云やふなもの。貴はぬことそ。求馬云、是中庸之理也か貴ひことなり。
【語釈】
・五典五惇…書經虞書大禹謨。「天敍有典。勑我五典、五惇哉」。

○八つ時、上月弥三郎來。紀府臣。屬仕桑名侯。

○昔年、某侯、土屋侯の学を軽んし候。迂齋をま子きたる日を伺ひ、某侯わざと来り迂斎に逢んとある侯因て見へれは、某侯迂斎を詰りて云、朱子学者は知々と云へとも、行さへよければ人はすむことなりと。迂斎はき々々せぬ挨拶をし、御年若なれとも学問の御志ありて恐悦なととばかり云ふを、土屋侯の諸臣次の間に聞て甚慍り、こちの先生は何んとした挨拶ぞ。いよ々々吾黨を軽んせらるであらんと云。後日、諸臣そのことを某に語り、もし足下ならは何と答へらるると問ゆへ、某云、某ならば、かく御前の仰せらるるは知か行か。知は入ぬ、行さへよけれはよいと云ふか行てはなし。すくに知なりと。
【語釈】
・土屋侯…土屋篤直。能登守と称す。常陸土浦藩主。安永5年(1776)5月20日没。年45。

八日
伊川先生、哲宗の病気のことを彼是云はれたを、宰相は腹を立たことあり。をらなとか君侯の病を苦労にするも、時に君病亦五日。今日五日になるのに何病ひで何の薬を上ると云ことも知れぬ。思へば歴々の疾ひの取あつかひもあらひものじゃ。とふことやら病狀かはきと知れぬから、とんと安堵ならぬ。今日なぞ御側勤めの者ともなどか爰へ来るもつまらぬ。君有疾而飲薬臣先嘗之と云のに、講釈を聞て居るてもあるまい。某も御様子を窺ひ出たひけれとも、近習勤の衆も爰へ来て居るのに出ては、事を大そふにするやふにもあり、とふやら御病気をせく様にも当れは行まいぞ。求馬殿御序でに冝く申上られよ。しかと御気遣ひになるほとのことてもあるまいか、筋か知れぬから気遣しひそ。松録。下同。
【語釈】
・君有疾而飲薬臣先嘗之…小學明倫25。「君有疾飮藥、臣先嘗之。親有疾飮藥、子先嘗之。醫不三世不服其藥」。禮記曲禮下の語。

○文章も働きかなけれは書けぬ。かしこい小僧は盗み食をしても見付られぬ。文章を書きかかりて、故事などにこまるやふてはいかぬ。吉五郎か退之の文に習ふて孟軻と書た。孟子と書けはよいのに孟軻と書のは、さふないと文章かそこてがっくりとなるやふに思たもの。

○君侯風邪がよくなり玉はは、一席読で仕舞はれもせまい。詩経を読み、其次は易乾坤の卦ても読ふ。朝四暮三の術のやふなれとも、これも手段なり。角からすみ迠でも、あまり益にもならぬもの。一席つつ読ので、耳へ入ることあるもの。

○人を弁すると云も六け鋪ひもの。宗伯か幸田のことを彼是云て辨するから、予か是倦於談処と云た。
【語釈】
・宗伯…柳田求馬。名は義道。号は村松樵夫。初め明石宗伯。江戸の人。稲葉迂齋門下。天明4年(1784)7月22日没。年47。

○竹中殿、そこもとなとも予とたま々々出合ふから珎しく思ふてあらふが、どふもならぬ。わる劫の入たと云は、をらなどかことなり。しかし、冨豪なものの上方へ行に、上下の者をつれるやふなもの。そこはをらなどに出合た益と云ものだ。
【語釈】
・竹中殿…竹中致道。館林藩の臣。

九日
○松倉氏曰、先生の思召あることゆへ、三日斂のこと何分藩中に行はんと存するか、いまた思ふほと参らぬなり。曰、三日斂てないものは上から咎めると云やふになりてもいかかなり。それては非天子而議礼楽になる。あれなとは手前の寸志て、それがそろ々々かたまりたのでなくてはゆかぬことなり。己れ々々か志か三日斂をは是非すると云いきか人々にあるやふになったてなければ、三日斂か治国の本になるとも云はれぬことなり。先日、書経ても申た、象以典刑の象の字が、こふ云ことをすれはこふ云刑罪になると云こと。上のことがはっきりと知れたことなり。其外のことは、さしかはりてすること。それては覇心のやふなれとも、機事不密則不成と云こともある。又郷の八刑のことなどてもそれじゃ。不孝をした、それ刑罪と云やふてもすまぬもの。三日斂も、人のすることか浦山しくなってくるあんばいがよいなり。せぬとき上から咎るやふては、其についてこれはさしつかへると云ことや弊のありたとき、ばったりと破れることになる。それから又今度は斯ふ云しむけと云やふに觸なをした時か、とふもゆかぬものなり。惟秀録。下同。
【語釈】
・非天子而議礼楽…中庸章句28。「非天子不議禮、不制度、不考文」。
・象以典刑…書經虞書舜典の語。
・機事不密則不成…前漢孝成皇帝紀卷第27に「機事不密則害成矣」とある。
・郷の八刑…周礼地官司徒。「以郷八刑糾萬民。一曰不孝之刑、二曰不睦之刑、三曰不姻之刑、四曰不弟之刑、五曰不任之刑、六曰不恤之刑、七曰造言之刑、八曰亂民之刑」。

○孔子の春秋かありなりを書ひても、あれてさふたいか知るると云かあんなことで、山崎先生などのこともちら々々あるから知れぬか、中には訶ってよいこともある。あの時は江戸へは出られまいかと思ふ時のことじゃに、老親あるからか、つまり金をもらひに出たことかある。あんなことを柯先生は何とも思はなんだと見へた。浅見の方から直方を訶るもそのことで、喪中に仕へたなとと云がさうでもないか、実はかせきに出たのじゃ。かせぎに出たにしては豪傑しゃ。何にももたずに来た。それに又、大名衆を横平に云れたなどか豪傑じゃ。されとも、直方の大炊殿と云はまだしもよいか、柯先生、中将殿も念ごろしゃなどと云れたか、つまり似合ぬことしゃ。迂斎などの吟味足らぬは有難ひと云ことを一生云ぬ。忝ひと計り云はれた。直方先生の、有難ひと云は乞食の詞じゃと云はれたを、中かをあけてみぬのじゃ。直方は天下の處士じゃからまだじゃか、迂斎は土井の家中て御老中や阿州へ辱となり。あふ云ては似合ぬことなり。
【語釈】
・大炊殿…土井利實。大炊頭と称す。肥前唐津藩主。元文1年(1736)11月26日没。年51。後に稲葉迂齋にも学ぶ。
・中将殿…保科正之。

問、直方先生、守屋助次郎君宅にて講釈してをられしとき、不圖増山侯の来られ、先生に逢れたきと仰られしに、守屋君にて俄に上下を借り、あわてたやふな様子でありしと韞藏録にあり。見所貴者則斉漱の消息なりや。曰、然り。此話、人去斜日のころのことなれとも、前話と相表裏することゆへ、因みに記す。
【語釈】
・守屋助次郎…大官。
・増山侯…増山正任。河内守と称す。伊勢長島藩主。延享1年(1744)7月3日没。年66。

○古法は殿と云字じゃ。様と云字はかいない字じゃ。様と云こと、さきの人をさすに様と云てはぬるけたぞ。

○松倉氏云、先生御眩暈にて服薬は如何。曰、いや、丹円の類を一寸々々なめる計り。煎薬呑まぬゆへ、日原小源太や與五右衛門が機嫌かわるひでござれとも、本の君子は全ひものなれとも、本のにならぬうちは偏かよい。死にたい々々々々と申てをります。存吾順事没吾寧は講釈するうち計り。仕舞へはもとの黙斎なり。
【語釈】
・存吾順事没吾寧…近思録爲學西銘。「存吾順事、沒吾寧也」。

○書経講後、市川氏来謁す。存せぬゆへ遲参、さて々々残り多き義と演ふ。曰、三伍殿もあまり講釈を聞たがらぬかよい。文章も、文を書たがらぬが文かあかるもの。程門て一ち文のよいか范淳夫て、一ち道学がかいない。道楽も、三味線なとよく引くのがかいない。道楽なものぞ。
【語釈】
・范淳夫…名祖禹。程門高弟。

○桑名の上月氏、折たく芝と云書を持参せり。これ白石の書なり。某なと白石君に滿ぬ処あると云は、あの衆、王荊公に似たか。何と云ても、中蕐は政事のことも代々の役人かいじりつけたもの。日本はさふはゆかぬ。若もあの衆の思通り、礼楽は変革したにしたときか、武気をとろへにも成まいことてもない。俄に振り袖着たやふて、いかかで有ふかなり。

○三宅翁の直方先生を信ずるなどが、学問より事業を信じたもの。そこは又、私心かないから感心したもの。浅見先生は五郎左ェ門も前とはちごふなどと云るる。京都に居て道をふるふなどには浅見かよい。浅見先生の門人などか云議論がみなよい。三宅門など、直方の活論を聞ては為になりそもないもの。いこふ風のちごふたことじゃ。

○律義に聞くものによくなるかないもの。手前て見てくれるはわるひかよいのは、掘出しものと云のぞ。程門て云へは張思叔じゃ。後には尹彦明とす子をしする様になりたか、あれはもと柳原物しゃ。
【語釈】
・張思叔…張繹。伊川の門人で、高識をもって称せられた。
・尹彦明…名は焞。号は和靖。伊川門人。
・柳原物…柳原は、東京都千代田区の万世橋から神田川に沿って浅草橋に至る街路。昔は古着屋が立ち並んだ。

○格物を折角しても、物きりて致知のないははかがゆかぬ。人之為学心与理耳。心はこちの心、理は事物の理のことになるて貫通の漸になる。

○上月氏云、折たく芝の書名は新古今の、おもひいつる折たく芝の夕煙むせふもうれしわすれかたみにと申す哥からなり。曰、折たく芝の哥も、をらなとは十分にないと思ふ。懐旧の悼哥なれとも、事業か主になる。君の恩遇に感してするてはなく、只あの君の御存生なら此事か成ふものと事業からゆへ、親切を云てもげひかある。屈原はあれほどむごくおれてもそれかない。松録。下同。
【語釈】
・おもひいつる折たく芝の夕煙むせふもうれしわすれかたみに…後鳥羽天皇の歌。「おもひ出づる折たく柴の夕煙むせぶもうれし忘れがたみに」。

○王荊公か濂溪の処へ三度迠行たに逢れぬは、うるさく思はれたもの。吉五郎云とても薬すべからずと思てのことか。曰、いや、そんな訳はない。只うるさいからのことなり。

○若林玄朔は力はかいないか、よい処か有たぞ。吾門の羪菴しゃと書てをいた。小源太云、碑の銘にも先生の家計安小成学問期大器のことを書てあり。
【語釈】
・若林玄朔…若林玄朔。名は弘篤。江戸の人。幸田誠之門下。天明4年(1784)5月16日没。年45。稲葉黙齋にも学ぶ。
・羪菴…永田養庵。字は在明。備後福山藩儒臣。

○悪まれて長生きをすると云も、生于憂患死于安楽と云にちと似たことなり。
【語釈】
・生于憂患死于安楽…孟子告子章句下15。「人恒過、然後能改。困於心、衡於慮、而後作。徴於色、發於聲、而後喩。入則無法家拂士、出則無敵國外患者、國恒亡。然後知、生於憂患而死於安樂也」。

○瘡毒も傳染計りてもなく、わづかの腫物ても其治しやふかわるひと、それが滯りて便毒になる。そこへ何ぞ又うけて来ると黴瘡になる。これ某真知実践、ためしあることなり。

○宗伯か、溝口公て仲間の死たを新発田へ皈葬するかよいと云たは、とほうもないことそ。必世而後仁と云やふに成ても、下々まてさふするやふには成らぬ。師之子は即君と云とあるに、鉄か亦がと云た。云ひ処こそ有ふに、迂斎の家へ来て云たはつまらぬ。それも隠逸的の人なれはまたもよいか、それて経済を任するから可笑ひ。あのやふな不才て中々経済かなるものてなし。予か舅の武井氏云ふ、あれはとふても馬鹿じゃと。
【語釈】
・必世而後仁…論語子路12。「子曰、如有王者、必世而後仁」。
・鉄…稲葉廓齋。名は正直。鐵次郎と称す。稲葉迂齋の長子。安永7年(1778)10月17日没。年55。
・亦…稲葉黙齋。名は正信。又三郎と称す。
・武井氏…武井敬勝。下野古河藩儒。天明6年(1786)2月28日没。年78。稲葉迂齋の妻の弟。

○永井證次郎、妻を迎へんとする砌り、迂斎先生終焉したれば、外のことに託して婚礼を一年ほとのべた。親切なれども、却て礼にはうと井ぞ。父とは違ふ。くるしくないことぞ。
【語釈】
・永井證次郎…大江求達。澄次郎と称す。増山氏に仕える。永井行達の子。野田剛齋門下。

○市川氏・鈴木氏共に記臆なきことを歎す。先生曰、覚のかいないと云ことはない。彼の陳烈先生の工夫をすれは覚は出来るものなれとも、それは精神のかいないのなり。本とうに覚へたことは忘れられぬものなり。ちらりとこちへ来るとこちへうける。文義のすんたことは忘れるものてはない。江戸てあれは何と云大名と聞ては忘れるものなれとも、これは仙臺公しゃと云と、もふ一生忘れるものてはない。丹二録。下同。
【語釈】
・陳烈先生の工夫…朱子讀書法。「昔陳烈先生苦無記性。一日讀孟子學問之道無他、求其放心而已矣。忽悟曰、我心不曾收得、如何記得書。遂閉門靜坐、不讀書百餘日、以收放心。卻去讀書、遂一覽無遺」。

○謝上蔡か記誦博識を以て程子に見へた。それを玩物喪志と云れた。記誦博識を鼻にかけるは不調法なり。伊川に声をかけられて胸をさろふたゆへに、もふ一生忘れることではない。横渠先生を木札をかむか如しと云たは、田舎ものゆへ不調法なことか有ふ。礼は和するものに、木札と云ことはない筈。礼をわるく云たてはない。横渠の礼は木札をかむか如しと云たこと。
【語釈】
・玩物喪志と云れた…近思録爲學27集註にこの話がある。

○市川氏講釈望むに因て曰、口惜ひことには、今をらか小学からつついて地道によんてゆきたらよいことか出やふ。それから人に文義をつきこまれると、それについてよい話か出て、人の益になることか有ふ。

○夜定り燈花を點ず。秀云、今日、上月氏持参せられし折たく芝、珍書と承る。今夕一閲を願ふ。曰、いや、あれは先刻じきに的した。ちっとも精神にささわるものはおかぬ。秀録。
【語釈】
・的…撤。

十日
王学弁集會讀。求馬・惟秀・丹二。○文二・長藏・弥三郎後到、午後松他出より皈る。

○王陽明似禅而非禅とは、胸をたたく処は禅に似たか、本の禅てもないゆへ寂滅をは云はぬ。非禅と云こと。不專主静と云は、寂滅の見てないからむせふにさはぐ。大の事師しゃ。主静底て有そふな男かさふてなく、不專主静と云ことなり。秀録。下同。

○因て曰、全体こちの主静と云字なども、あぶみふんばりて主静々々と云意てはない。あそこの処かと云こと。時計のてんびんぎちり々々々と鳴る。その鳴らぬ処。あそこが主じゃと云こと。佛者の様に静の塲の多ひと云ことてはない。

○王学弁集の編次か初めか退溪、其次か鵝峯と云ても道春の攅眉なり。其次か柯先生なり。皆人て出したなり。浅見の条なと大学と出すて陽明に歒薬ぞと、こふ云うちに三宅の条か粲然明白。あれて弁はつきたぞ。
【語釈】
・攅眉…眉を寄せること。

○事を執れは伯者になる。心術の工夫する段には王陽明になる。陽明の捷径を求めるこそわるけれ、あらひなをすとよいことぞ。

○王陽明、心の妙を知て理の精微を知らす。理の精微を知らぬて又心の妙をも知らぬになる。

○求馬云、王陽明に道体の見はあるましきや。曰、道体の見のかうしたのぞ。良知て足ると云。それて脩道之教も気に入らぬ。雨露霜雪莫非教と出る。さふ云段になると、はや道体を知らぬになる。考其歸則愚也じゃ。
【語釈】
・脩道之教…中庸章句1。「天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂敎」。
・考其歸則愚也…論語陽貨3集註。「聖人以其自絶於善、謂之下愚。然考其歸、則誠愚也」。

○以礼性之。礼で身になると云こと。知礼成性とひとつことなり。
【語釈】
・以礼性之…近思録爲學86。「知崇、天也、形而上也。通晝夜而知、其知崇矣。知及之、而不以禮性之、非己有也。故知禮成性而道義出。如天地位易行」。

○予か雜記に、三宅先生の狼疐録筆力ありと先年書たか、黙識録から諸筆記は気か充て来てぬるくなったそ。さふたい先生かぶになると文はわるくなるもの。あじなものぞ。

○有鬼而使ふと云ことか、やはりあの六祖か石上に釈迦の衣鉢を置て迯けたとき、跡から追かけし大衆か取ふとしたに、上らなんだと云やふなこと。爰に一つ不審かある。目連が母か地獄に落たと云て盂蘭盆か始りたと云ふ。その地獄からは誰か知らせて来たか、それか不審もの。秀云、洞の岩屋の日藏文明の世ならば磔にするものと、直方先生仰られしことなり。

○唐津の舩大工與吉か服部へ来て居たとき、をらが初對面てくっ蹴てやったき■■。貴様は江戸に三年居なから浅草の観音へゆかぬと云か、それにしては懐中の漢書は何事じゃ。道学の旨訣と云ふはさふしたことではない。なぜ観音へはゆかれぬそ。服氏て漢書の會をするかと云はれてくっとこまりた。

○幸子善の経書の孰と云は格別なこと。をらなとはとんと孰と云ことかない。松録。下同。

○因仁義之偏者伯者之事也と云は、仁義の片端てちっと計りなり。やはり直方先生の、人無遠慮則必有近憂と云を俗人もつかひ覚て居ると云やふなもの。
【語釈】
・人無遠慮則必有近憂…論語衛靈公11。「子曰、人無遠慮、必有近憂」。

○命定有生之始の語かとくとすみにくひこと。さてこれがすまぬとて何も差つかへもない。畢竟うろたへ子はよい。

○垩人もきつひ知りぞ。驕且吝は、語も外に云ひやふも有さうなもので、驕と吝とで云が面白ひ。清十郎なとても吝はあれとも驕の方は先つはない。たとひ心中にあるにもせよ、人へ對してはない。それか两方有てはわるいにはきはまりた。されとも根は相因るなり。
【語釈】
・驕且吝…論語泰伯11。「子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已」。

○訂翁は狂の方。石王孝助は狷の方、蟹氏は子路て礼をするを、さふ云ては大ふよい様なか、やっはり役に立ぬ。
【語釈】
・石王孝助…石王塞軒。名は明誠。康助と称す。別号は黄裳、翼齋。近江水口の人。京都に住む。三宅尚齋門下。安永9年(1780)1月21日没。年80。
・蟹氏…蟹養齋。名は維安。字は子定。佐左衛門と称す。別号は東溟。安芸の人。三宅尚齋門下。尾張藩に仕え、後辞して伊勢へ往く。安永7年(1778)7月14日、伊勢にて没。年74。

○某以前は直方に的して浅見三宅二先生をもわるく云たか、中ころ三人を一致に説き、此頃は又尚翁のことなとは折々わるく云。どふした訳なれは、云は子ばならぬ時節じゃ。尚翁の学風は何もかも備ひやふとする処にわるひ処あり、培根達支のことどもいかがしきことなり。浪人儒者に似合はぬ。日本は唐の事体とは違ふ。その中、達支はまだしもよい。英才を育ふなり。培根か気に入らぬ。なぜなれば、どふして町人や大名の家中の子共なとを小学に仕入る。それでいくものぞ。あれも家かせまいから廣ける。それにしては弟子も来るから書斎に名を付ると云なれば尤とも思はるる。その位のことてよいそ。大名のすることを浪人かするはつまらぬ。
【語釈】
・培根達支…三宅尚齋の学堂。

○近思の敎学は孔子や孟子て云こと。公義の学校て云ことではない。出處の字も仕れは出、引込で居れは處。出れば治体・治法・政事、處なれば敎学。論語の朋自遠方来、孟子の得英才教育之か教学ぞ。学校の筋てはない。
【語釈】
・朋自遠方来…論語學而1。「有朋自遠方來、不亦樂乎」。
・得英才教育之…孟子盡心章句上20。「得天下英才而敎育之。三樂也」。

○王陽明がわるひもちっとのこと。もそっとよくなるへき学問か格物をせぬゆへ上らぬ迠のこと。格物を嫌ふても、覚へず知らす、格物をはして居る。

○知止在定は一旦豁然貫通の前にあることなり。一旦豁然と云もちょこ々々々あることと合点すべし。本んの知ること至ると云でなくても、止りを知ると云塲かある。そこが学問の尊ひ処。それ々々に一旦豁然がある。諸先輩も程朱には及ぬけれとも、面々に一旦豁然ぞ。
【語釈】
・知止在定…大學經1。「知止而后有定」。
・一旦豁然貫通…大學傳5。「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗無不到、而吾心之全體大用無不明矣。此謂物格、此謂知之至也」。

十一日
直方先生も無理なことを云やるか、それに面白ひことがある。三輪善藏か子共が多ひ。たはけしゃと云はれた。秀云、老人にうい々々しい子の多ひも見にくひもの。曰、いや、その筋てはない。日ころ良知をかたるのするどいに似合ぬと云こと。秀録。下同。
【語釈】
・三輪善藏…三輪執齋。名は希賢。善蔵と称す。佐藤直方に学ぶが後に王学に進む。延享1年(1744)1月25日没。年76。

○午鼓前、先生點茶喫菓子。曰、少のことにも格物の足らぬと云ことがわるひもの。此求肥飴に粉のかけやふの足らぬでわからぬ。染がよくて上繪をよくかか子はならぬ。軍の時斯ふ云兵粮の来たを喰ふうちには、一の谷の逆落にあふぞ。

○すべて幼名などをよぶは横柄にあたる。行藏か死ぬ時、をれか処へ又三郎と書て知らせの狀をもて来た。其男なとも今思へは弓五郎などかやふなものて、をれを大ふ非に見た底て、内へも入るまいと云やふな見識て有った。そこがにくひから、をれか内とをし、我等一寸出て支度をいたしたい、暫くそれへと云て、外へ出て大ふ待たせた。これか孺悲じゃ。孔子は内に居て留守をつかふ。をれは外へ出て留守させた。孔子にこじり咎めと云様なことはないが、たった一つある。時無而陽虎へゆきた。顧求馬曰、無きを時してと云ことをとう思はるる。未答。曰、あれか、本道が道のわるさに新道をゆくやふなもの。あちが留守に来たからこちも留主にゆきた、相称ふを欲すと見るとわるひ。さふでなく、今日は新道をゆくと云のぞ。一生に一つこぢり咎めをされたのぞ。
【語釈】
・孺悲…論語陽貨20。「孺悲欲見孔子。孔子辭以疾。將命者出戶、取瑟而歌、使之聞之」。
・時無而陽虎へゆきた…論語陽貨1。「陽貨欲見孔子。孔子不見。歸孔子豚。孔子時其亡也、而往拜之」。
・相称ふを欲す…論語陽貨1集註。「陽貨之欲見孔子、雖其善意、然不過欲使助己爲亂耳。故孔子不見者、義也。其往拜者、禮也。必時其亡而往者、欲其稱也」。

○補傳はかけて仕合しゃ。曾子の時、ああは出来ぬ。格物致知を疑ふものも云ひそこなうこともない。知れたこととするなり。補傳さへよくよめは、王学弁も入らぬ。

○尾関氏云、程子の詞は俗儒も眞似らるるが、朱子の詞はま子られぬと云説あり。曰、善藏か通書を説く様なもの。あれは俗儒もなる。朱子のこまかは却てならぬ。

○野沢十九郎などか前漢より後漢に人物かあると云が知らぬ口上ぞ。高祖は三尺の剣で天下を切り開ひたゆへ、儒者をば役に立ずと見てをる。あらひ人なり。その風て、前漢の人物が大まかなり。斉は太公の風がのこり、魯は周公の風と云ふやうに、國初の君の風かつたわるもの。或人か光武のことを馬援に聞た。高祖とくらべて人物はどふしゃと云ふたとき、馬援が、高祖は大あらめてこまかなことはない、学問もきらひ、酒も參ったか、當主は大きにいけぬ人しゃ、こせ々々気かついて礼楽すきて、其上酒も呑まぬ散々な人と云ふたれは、其或人か根か謀叛する気で問たことじゃか、それをきいてやめにした。それではゆかぬことと見たもの。馬伏傳之論光武と云かこのことなり。譏りたかほめたになる。明道をは人かほめる。伊川をは憎む。それか手のつけられぬ方からのことじゃ。
【語釈】
・野沢十九郎…野澤弘篤。十九郎と称す。江戸の人。佐藤直方門下。初め菅野兼山に学ぶ。

○係辞傳、道義之門の門の字計り内から出ることじゃ。乾坤其易之門乎は入るの意じゃ。
【語釈】
・道義之門…周易繫辭傳上7。「天地設位、而易行乎其中矣。成性存存、道義之門」。
・乾坤其易之門乎…周易繫辭傳下6。「子曰、乾坤其易之門邪」。

○英雄豪傑もなし。心術の正しひものもなし。兎角降りかけた花見て暮す春そすくなき。松録。下同。

○三宅先生の妖物屋敷に居たことを矯激の振舞じゃと云が、あれも中へ這入て見た云ひやうぞ。好んて往く筈はない。貧困ゆへ家賃の安ひ処へ行きをろふぞ。妖物屋敷、どりゃ行ふと云ふて往れたではなし。

○小一は仁を好ますに不仁を悪む男じゃと傍輩の者か云ひし。

○尾関氏門、渾然粲然は理一分殊から來たことなるや。曰、すくに理一分殊のことぞ。致知は渾然、格物は粲然。又問、心は渾然、理は粲然か。曰、然り。

○をらなとか云ことは跡て見さめのするやふなことある。迂斎なとのはとんとさふ云ことかない。学話でも見よ。さうぞ。某かのは筆録かよい。これは又迂斎と云へども及ばぬ。

○予か鳩巣のことを婦人女子の学と云たと唐津の者か云ふさうなが、話の聞きそこないそ。土井公家中の者が山田氏に就て学んて、小市も参りて承りたひと云ふたれは、決してそれはならぬ、そんならこちへ来るなと云たとなり。それを、婦人女子の心たと云ふたを覚へてをる。いやなことを云そ。そうしたことは学者にはあるまいことぞ。

○與五右か、鼻紙袋に紐をつけて首へかけるは盗賊の心をひらく。をれが内艱剳記に、石碑に祠堂金のことを書くかよいと云ふたは、予が若ひ時、小僧の知惠なり。あれがもふ墓を発く本になる。三年計り以前の雜記に論してをいた。なぜわるひなれは、祠堂金附すと有ても、其金はとうにつかふて仕舞ふゆへ、金はなくて附すとある。忌ま々々しいと云ふてあばく心を起させる。やはり附すとない方がよい。趙子直か汝殺人之子人亦殺汝之子と書たは、人に気を附るやふなものでわるいと朱子論してをかれた。水滸傳なともそれじゃ。娘かやれ人殺と云たから、もふさふ云はれてはならぬと云てつい殺すなり。浄留理などの仕組か皆このたてなもの。團七九郎兵衛と云も、本は舅を殺す気てもなけれとも、舅に人殺しと云はれてははやと云て殺したもの。

○主静々々と云てあまり主張することでない。あそこか主静の場じゃと知らせること。あそこを余りをもく云と佛になる。時計のてんびんのはち々々するあの音のない処か主静なり。

○幸子善の、大名の料理に鰯のぬたあへとはと云た計りて、料理人か遠慮した。これらもあまり長酒を呑たゆへのこと。御旗本や浪人儒者の大名へ出るはをどけの様なことゆへ、それても済んたもの。それか経済の方へ出るとつかへる。酒かつまりわるし。

○長藏なともをどけめいて居ればよいか、あまりしゃんとした方ゆへよくない。花沢文はつじつまの揃はぬたけ朴実でよい。堂々たる哉長哉。えり上下つきかよすぎる。尾関氏云、長藏は其堂々を、草葉から起ても百姓らしくないとて自負の意なり。先生曰、いかひたはけ。程子とはちがはふ。
【語釈】
・堂々たる哉長哉…論語子張16。「曾子曰、堂堂乎張也、難與竝爲仁矣」。

○どのやうな馬鹿ても、夢は見ませぬの筋は云はぬか盲癈なり。不卑筋は得手云ふもの。兎角尤らしいことかよくない。舌はあるかと云ふ方か、却て活溌々地なり。

○柯先生の志于小学と云たは謙退なれとも、跡から見れは格致の丈夫なか知るる。根のあることて見るべし。

十二日
秀云、此の間の王学弁集で見れは、陽明の心即理也と延平の黙坐澄心体認天理、事ゆかぬ時には心をすませはよくゆくと云ふは大む子似たことなり。只格物のあるとないと計りなり。曰、どちも弊ぞ。一人は大学のあたまで引っかく。一人は中庸へもち出してしたなり。同じ弊でも、未發の処の工夫をあまりこみ入りすきたものじゃ。秀録。下同。

○松問、孔子の食不語寢不言、敬のもやうなるべし。曰、もやうと云ふことはない。すくに敬のことじゃ。これも脇から云へば敬の事じゃと云ふものの、孔子に敬と云はふことでもない。顧秀曰、あそこを羪生のことに説たか面白ひこと。医者て云で、不撤薑食の注のしむけと一つになりてよい。あそこもなせか生姜か御すきと云てもよい。通神明去穢悪。かるく云ことしゃ。生姜をたのみに胸のさふじすると云ことではない。仝上。松録亦同。故畧之。
【語釈】
・食不語寢不言…論語郷黨8の語。
・不撤薑食…論語郷黨8の語。
・通神明去穢悪…論語郷黨8集註。「薑、通神明、去穢惡。故不撤」。

○四つ時、葛西笹ヶ﨑須原吉左衛門来る。此日舘林藩侍講。依て先生の皈宅を待つ。
【語釈】
・須原吉左衛門…須原敬之。字は吉甫。葛西笹崎の農民。寛政11年(1799)2月27日没。年56。

○或人云、死者をつかむ火車と云もの子共をどしと思いたれば、歴然あるよし。先生曰、惣体学者は学問上で話もするがよい。其様なことを俗人の云て、まじ々々として聞ふより、気の変からはとの様なことも有ふ。されともだたい正理と云ことでらするかよい。若亦そんなことて云はふなら、鬼神集説の講釈て云はふことじゃ。
【語釈】
・鬼神集説…佐藤直方篇。

○山田玄春が死ぬとき水を望んだに、看病人が毒でござると云たれは、医者です々々々々と云た。たぎりた男なり。それを石原先生かきかれて、及はぬことしゃ、をらはうろたへやふと云て感心されたなり。此玄春が坐客か緊要ならぬことを話すと、なか々々なか々々と云た。茶にしたものなり。

○今日、舘林公て舜典の終りをよみて、あとて關雎をよみた。秀云、其間すこし休息し玉へるや。曰、いや、休まぬ。埀簾ひ聞かるることゆへ、陟方乃死せりを神はあからせ玉ひけりとよんても目出度からぬとめゆへ、それに又やがて御昏儀もあることゆへ、舜の萬機のかやふに行ととくも、釐降二女于嬀汭嬪于虞からい内に刑るを見るが本とになる。此の又詩経の關雎、文王の御夫婦中の正ひか、周八百年の基になると引っつけてよみた。何とよいうつりて有ふ。又曰、此の次に乾坤の二卦をよむのじゃか、その時乾坤も天地の夫婦とよめばいよ々々よいやふじゃが、さふはよむまい。それては又俳諧になる。俳偕と云こと、前日先生話あり。三斎の雪の夜の茶のとき香をたいたれは、一人の茶人か雪茶湯のことなれば、此の香は月と申さふと云たれば、利休か、それでは俳偕になると云たとなり。へったりと引っ付くことを下卑としたことなり。
【語釈】
・關雎…詩經周南關雎。
・陟方乃死せり…書經虞書舜典。「舜生三十徵庸、三十在位、五十載陟方乃死」。
・釐降二女于嬀汭嬪于虞…書經虞書堯典。「女于時、觀厥刑于二女。釐降二女于嬀汭、嬪于虞」。

○浩然の章は気計り云てよいけれとも、理できめぬと儒者の行義かくつるる。そこてしまいの処へ程子の志動気者什に九、気動志者什に一と云語の理てきめたもの。
【語釈】
・浩然の章…孟子公孫丑章句上2。
・志動気者什に九、気動志者什に一…孟子公孫丑章句上2集註。「程子曰、志動氣者什九、氣動志者什一」。

○兵詭道也を軍者かさま々々に云ふは、あれはどふなりとして勝ふのことしゃ。軍計りは外のこととは違ふ。まけてはならぬゆへぞ。
【語釈】
・兵詭道也…孫子。「兵者、詭道也」。

○時其無は、本道か悪いから新道を行ふと云ふのなり。以下松録。

○善藏が、前後漢書て諸先輩の誤が知るると云て長藏に云たで、じきに某が方へしれた。わるいものへ云た。二漢て先輩の非か知るると云を頣欲改之。漢書をよめは文章かしるる。文章かしれて来ると、朱子の文かよくすめる。朱子の文がよく済めると、先輩の誤もしれべし。
【語釈】
・頣欲改之…「頣[しん]して之を改めんと欲す」。頣は、眉を上げて人を見ること。

○致知格物は、鷺は鷺、烏は烏と知ること。こちの方にある鳥は何か知れぬ。鳥屋か来たら聞ふと云迠につめること。しれぬをしれぬときめるが、やはり格致なり。不知を不知とするが知になるやふなもの。

○蹶者走者気也は軽いことを示す。君の道具て大切々々と思て持て行ても、つまついてたほれると落す。落せは是迠の志をらりにする。気を養へは兼て心掛た親の忌日に墓参りに大雷甚雨か降ても行く。気の養かないと雨で■■みがくる。

○集義は浩然の章の路銀しゃ。路銀がなけれは、あたまで気かつまらぬものになる。

○品節は教なれとも、此方て手を入ぬとも道体に品節あるゆへ、冬瓜やかぼちゃかいつもあの位より大きくはならぬ。

○浩然の気も性道敎から出たと云ふても誤りにはならぬ。其人々々の見とりそ。孟子其中より去てと云かそこそ。理か本になっての気じゃ。伏羲の先天もこのあんばいぞ。
【語釈】
・性道敎…中庸章句1。「天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂敎」。
・孟子其中より去て…近思録道体19。「忠信所以進德、終日乾乾。君子當終日對越在天也。蓋上天之載、無聲無臭。其體則謂之易、其理則謂之道、其用則謂之神。其命於人則謂之性、率性則謂之道、脩道則謂之敎。孟子去其中、又發揮出浩然之氣。可謂盡矣」。

○今日詩経を読たか、皆かよく済たていて有りた。これか詩の德。文王の奥方は洗沢さへする。これから見れは、此方大名衆の召し上らるるものの御手の付ぬものなと、又はこれは食はぬと云ので、いくらの難義になることかしれぬ。其外呉服屋なとに引けものと云かありて、下々の手には入るやふなものではなけれとも、わづか鹿の子が一つ違ふたと云て納らぬ。そこて直段て下けて賣るゆへ、下々の手に入る。鹿の子が一つ違へは、どれほどのことかあるそ。

○学者か師のことを、晩年になって德かこなれたと云も知ぬ口上ぞ。柯先生と云へとも、晩年のやわらかは衰へじゃ。朱子の論に東莱の嚴子陵かことを取り成てよくかいた。あれでは子陵ではないと云へり。子陵の子陵たる処は足をあげた処か子陵ぞ。柯先生のも德のこなれなれは、あの人物てはもっと早くこなれる筈そ。やっはりをとろへなり。幸田なともおとろへの方かある。
【語釈】
・子陵の子陵たる処は足をあげた処が子陵ぞ…「光以足加帝腹上」。

○講釈も経済と同こと。目はしかきか子はならぬ。詩経を読に注を去て読と云ふことはないことなれとも、君は幼君、其上埀簾、其外家老用人も無学。それに三宅子のやふに長々と読でいくものでなし。

○長作が、上総てはかふじゃとて精義或問を分々に読そふな。それを丈太夫ををし付る。此等はどふしたことぞ。某が精出して云たことじゃ。精義を一条読たならば、すくに或問へかかるがよい。必竟上総の学者共の仕方のわるいを見てのこと。予か云ことを用ひぬは何としたことぞ。
【語釈】
・長作…山田華陽齋。名は記思。長作と称す。号は黒水。館林藩儒臣。天保3年(1832)9月25日没。年60。

○感物動性之欲也を司馬遷か性之頌也としたは働きなり。性かすくに欲になったと云ことぞ。
【語釈】
・感物動性之欲也…禮記樂記。「人生而靜、天之性也。感於物而動、性之欲也」。

○人之神曰鬼は、人を鬼て云こと。鬼の字は、死た上て云こと。

○古いことを思ひ出した。迂斎生而百二十年于今。迂斎の六つ計りとき、家僕に懐かれて目黒へ行し時、豆腐の田楽にて飯を喰はせるとて、此豆腐は古くはなきやと問たれば、茶屋の婆答て云、若しあたりたらは、其子を産で反さふと云たと。迂斎の度々咄せしなり。此のやふなことを主張して咄すは分外のことなり。文義のことなどは、書さへよく読めは、いつぞの間には済ことなり。

○天下閙者無如禪客と云ふは、隱者を好と云やふなもの。

○佛は、目をねむりて鼻はないと云やふなもの。五倫を捨ても、やっはりあることをしらぬ。

○此方に経済權度かないから、あの人はたくさん金を持て居らふと思ふ。それも半分は惠みを思ふからのこと。何そふ云ても、それほとはないと知ることかならぬ。

十三日
易の吟味をするには朱易衍義か一ち初になくてならぬ。

○祭祀来格説も鬼神集説より卑い。髙くは云はれぬこと。

○三宅先生の、五十日の忌明けて後、又五十日病気を云ひ立て引込れた。此等は情の厚ひ処なれとも、反て礼には疏ひ方そ。百日過ても、心喪はせ子はならぬ。心喪をするからは、公法の五十日からでも同しこと。病気を云ひ立たは君を欺くになる。三宅子と云へとも、三伍や吉左衛門らて大儒にしたのじゃ。意気慷慨の方■■■もになる。

○国へ早く歸りたひと云は外のことてはない。今爰てたほれると、医者共尤あしらひにされるかいやさにぞ。寢て居る処へ来て、手をはれよと云やふに見られる。いやなことなり。

○長思江南三日の詩は何もないこと。やはり柳は緑り花は紅なり。

○見取か大事しゃ。次なども御殿医の弟子になってよいと心得て居やふが、彼の湯豆腐の方かよい。或者がきたない茶屋へよるから、連れか、なぜよい茶屋へはよらずにきたない方へよるそ、敢問と云たれは、はやる竒麗な方はこちを安くあしろふから、きたないてはやらぬ方がよいと云た。医者の弟子になるにも、はやらぬ方かよし。

○貞静な上の幽閑てなけれは役に立ぬ。婦人の本体を写した処か此四字そ。幽閑はかりは傾城になる。

○殿か酒すきなれは、いつ迠も呑ことと心得る。文字訓詁ては垩賢の微旨を知ることはならぬ。出頭人は、今日はこれきりと云ふことを見て取る。それほとなことかなくて出頭にはなられぬ。何を云ても一理なり。

○筆記をするは直方の方の御振合しゃから、權藏なとも迂斎の中庸講釈を録したか、いかいこと書ても、予か半分書たより悪かった。又行藏か濱見録ても看よ。ひひかぬ。

○文章を書くに盗んて書は働きなれとも、山宮なとの、非吾彼二三子也と書た。葵の御紋を洗ひ落して上は繪を書けはかたばみになる。直さずに着るから、何その時は咎められる。

○情欲之感容儀にあらはるるは、夫婦中よけれは猶更のこと。市井の亭主の煙草の呑やふから、女房のこま下駄の音まてにあらはるるもの。密夫の出来るもこれからなり。

○小松原十太郎問、觀天下之頥[まじわり]。まじはるにみると、何れか是なる。曰、まじはるにと云へは、それては益を得るやふになり、まじはるをとよむなり。をらなどは文字のことははきとないゆへ、こんなことを質されてはめいわくぞ。因笑曰、をれは壹岐守か家来たと小野﨑氏の云へり。予は浪人ゆへ、云ひ訳けにすることかない。

○大名の家中の様にいくじのないものはない。碑石の寸法を溝口の国から書て来たさふな。石を大きくするに計り物かかかると心得て居る。大な石なれは大いなりでよい。小くするにもいこふ物のかかることぞ。それを知らぬ。

○掌故をよくつかふものが文か上るもの。泉町に至極よい肴屋がありたに、その脇へ酒店が出たに、爰ては精進もの計り賣りた。それで両方かよくうれたそ。詩文などもこのいきて、こた々々せぬやうにつくるものかよい。秀録。下同。
【語釈】
・掌故…国家の故事慣例。典章制度。故実。

○おれか牛嶋へ行くときに、四日かかって誰にたのんても坊主にしてくれぬ。さて人か剃り兼た。滯りない趣を云ても合点せなんたか、とう々々剃らせたか、翌日地主か祝儀に来た。いささか進すると云て、熨斗包に田つくりを二つさして来た。これは忝ひとは云たか、進物は見へぬから、下されたものはと云たれは、表の畠へ指をさして、あれをと云ふからよく見たれは、二三間四方ほと縄を張りてをいた。この畠の菜と云ふことなり。面白ひ進物ぞ。

○一士云、朱子に諂もせす、譏りもせすと云ふことを貝原か書た。仲遷曰、それては貝原は二人前もちたなり。譏もした、諂もした。先生曰、篤行の君子の年寄たか、思ひの外高ふるもの。

○或云、郭注荘子すみにくひもの。戸田氏云、あれに禅者かすめるやうに、あの上を注したものかある。先生曰、それは中ぬき草履に革をつけたやふなもの。

○笑曰、夕部不圖さふ思ふたか、人心惟危道心惟微か、あの文義をたしかにすまさふに、人の妻ても婢てもよい、器量の女を一と間へ入れて、只さし向になりたとき、よくすもうと思ふ。婦人から挑みもしたら、あれにくひやつとも云はふが、孤木倚寒岩三冬無暖気ぞ。道心かかすかて有ふ。
【語釈】
・孤木倚寒岩三冬無暖気…婆子草庵。

○丹二饅頭かある、喰わぬか。いや、只今食後なり。暫して仕らん。先生笑曰、大欲似無欲じゃな。それて思ひ出した。訂翁などの器用と云が、大欲似無欲。顔賢復如愚と云たことあり。
【語釈】
・顔賢復如愚…論語爲政9。「子曰、吾與囘言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以發。囘也不愚」。

十四日
心風は夏日也。小児は冬日也。夏の日は可悪、冬の日可愛。なれとも皆気以下のことゆへすべて役に立す。以下松録。

○溝口公家中の学者も、訂翁と幸田の取次て屋根舟に出ことか高ひことになった。これらも向に呑れたもの。幸田なと筆記を反さぬから催促すれは、いかいたはけしゃと云はれて、もう催促することもならぬ。こんなことを石原老生なとの月當のとき、持て出ては承知せぬ。理外なことは皆役に立ぬ。
【語釈】
・石原老生…石原寛信。權平と称す。新発田藩儒臣。稲葉迂齋門下。安永4年(1775)10月25日没。年49。

○女房の嫉妬も親切から起たことしゃか、親切の気の違たのだ。

○食中而先生曰、石原先生大食なり。したたか喰て汗か出るとき、ひたいをふいて、年に恥てくへぬてさと云れた。溝口侯て料理を皆食て、鯛の向つめ迠食た。溝口侯か、よふ参って悦はしいか、こちのかけ引の有ふことと云た。それからして料理をはられて。

○主水殿、もそっとひまかあらば、長谷川觀水翁のま子をしてきかせ申さんと云たれは、坐中曰、何によるや。曰、觀水翁のひ孫か主水殿の嫁になるさふなり。

○直方先生か、晋銅欒盈と云ふを鼻紙を切てすてるのじゃと云はれた。合点ゆかなんたか、人にはかるるも残念と云こと。秀録。下同。

十五日
宮川小仲太来て爲別。皈期以有明早也。河本仲遷・市川参伍・沢文二・安藝茂右衛門父子三人・松倉又三郎・荒井多門・鈴木團二・鈴木長藏・平野登弥太・新嶋吉五郎・伊東郡司・小松原十太郎等各来而慰。

○新發田侯在邑聞先生在江都、使中村宇内慰旅労、贈以鮮魚樽酒、使人叙侯命、且自慰別而去。

○舘林侯使川鰭源藏爲侍講謝詞、且銭祖道以海物醇醪銀幣束帛。如故而加縞絹二束。
【語釈】
・川鰭源藏…河鰭源蔵。名は景命。源太郎、後に七郎左衛門と称す。館林藩老職。文化11年(1814)12月12日没。年67。

○午後、別酒を行う時に隣家に哥成る。先生曰、王陽明か知行合一かきこへたことで、あの娘かよく覚て引き哥ふか、面白みかすくない。色情があると、あれにもそっと面白みが出る。これを見れは、賈誼か太子知妃色時学進むの期也もよくすむぞ。

○文問、答問の洒落の字は效とあり。如何。曰、曾点になるには、顔子の処へ行きて克己復礼を習ふてすることじゃ。そこて曾点之学集註にある。毎日曾点をすれば洒落になる。人欲尽処天理流行と復礼の章と同じ註がある。
【語釈】
・人欲尽処天理流行と復礼の章と同じ註がある…論語先進25集註。「曾點之學、蓋有以見夫人欲盡處、天理流行、隨處充滿、無少欠闕」。論語顔淵1集註。「日日克之、不以爲難、則私欲淨盡、天理流行、而仁不可勝用矣」。

○三伍問、三宅筆記に作新民の説長々とあり。あれにてよきや。曰、あれは字證なり。文字てはあの通りなれとも、大学へもて来ては合はぬ。敬而止と云ふ字を大学ては敬而止るとよむ。詩ては止の字は読ぬにてみるべし。

○わつかの講釈をして、色々のものを賜て甚安からぬ。鰯賣にもこの心はある。鰯を買をかれたれは、中には昼飯なと食はせると只は皈らず、何ぞあじのやふなものてもえり出して置てゆく。自然なものなり。舜の天下を有は理はかりゆへ、をごれりとせす。本より如有之ぞ。■■たはない。それからして天下を捨るを見る迠かみな理の談なり。以下松録。

○御進物のことを御省畧あるやふに度々云たがきかぬ。此は一ちききよいこと。それをきかぬからは、外のききにくひことはなをきかぬて有ふ。こふ吟味をつめ子は本のことてなし。

○全体は聖賢の任てすることは、商鞅ほとなことをせねは経済はならぬ。一二年こせ々々したことていくものてなし。

○三伍云、誠方から若殿の爲にはよからふか、知見は上らぬものなり。去年中も講書中にきくものを呵たさふな。それては跡か治らぬ。だたい家中の士人家老をこはがり、目附には呵られ、もふ呵られあきて居る処を、又儒者まてか呵るやふては、のびる間はない。此段になっては伊川と云へどもあやまりある。小松原か親父なとか兎角賔師々々と云ふことを云ふか、賔師と云は、さきで云ふこと。こちで云ことてなし。つい賔師のやふになること。孟子のかそれぞ。斉に卿たりを朱子の君臣の義ほぼ足ると書たが面白いことなり。
【語釈】
・斉に卿たり…孟子公孫丑章句下6。「孟子爲卿於齊、出弔於滕」。


参考資料
安井氏所蔵『竹川話録』
山口氏所蔵『竹川話録(田原擔菴絶筆)』千葉県文書館保管