黙斎について

☆黙斎と上総
黙斎(1732~1799)は、姓は越智、稲葉氏、諱は正信、号は黙斎、幼名は又三郎。享保17年11月13日、江戸日本橋浜町の迂斎宅で生まれました。天明元年(1781)、江戸から現在の大網白里町清名幸谷に移住し、孤松庵を構えて後進の教導に専念しました。かつての上総地方には、父である迂斎の門人たちや豪農で裕福な者(鵜沢喜内や近義など)がいたので、黙斎も当地に住むことを決心したのでしょう。黙斎は寛政11年11月1日に亡くなりましたので、20年近くを上総で暮らしたことになります。ちなみに彼の墓は成東町の元倡寺にあります。

☆黙斎の学問
黙斎の学問は朱子学です。朱子学は、南宋の朱熹が北宋以来の理気論に基づいて大成した儒学の新体系であり、特に理を重視した学問です。また一方で、朱子学は封建的身分制を是認することから執政者には都合のよい学問でした。そこで徳川幕府もこれを官学としたのです。これにより、朱子学は大い流行りました。その中の代表者は山崎闇斎です。そして、闇斎の門下には、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎の三傑が出て三派を構成しました。この佐藤直方の高弟が黙斎の父である稲葉迂斎なので、黙斎が朱子学者になったのも当然のことです。
さて、山崎闇斎に始まる学派を崎門学派と言いますが、学祖の闇斎自身が晩年に垂加神道を創始して神道に逸れたので、朱子学の正統を継ぐ者は佐藤直方(藤門学派と言う)となります。直方は一生禄仕をせず、「己の為」の学問を磨いた人です。直方の流れを継いだのが稲葉迂斎であり、黙斎はその子ですので、彼もまた朱子学の正統を継いだ人と言えるでしょう。ちなみに黙斎もまた、一生禄仕せず、「己の為」を貫きながら後進の教導に専念しました。彼の講席には、地元の人に加えて、諸藩の士が集まりました(新発田藩・館林藩・唐津藩・丸亀藩・大洲藩等)。
黙斎が亡くなってから明治になるまでに70年近くかかります。当時の学者の理論が発展して明治へと進むわけですが、黙斎が政治に関わらなかったことから、彼の門下で明治維新に活躍した人は特にはいませんでした。封建的身分制を基礎にし、自己の窮理を第一とする本来の朱子学を継いだ以上、これも当然の帰結なのでしょう。
明治以降、西洋思想がもてはやされてゆくのとは逆に、かつての思想は軽視されるようになりました。既に封建制が無くなった以上、朱子学が衰退するのは当然のことです。しかし、論語や孟子などは今でも多くの人に読まれ、私たちの日常のちょっとしたことにも儒学の姿が見受けられます。儒学は今でも私たちの心に宿っているのです。

戻る